佐倉道 嶺南寺(千葉県佐倉市新町)から甚大寺を経由して、城下町佐倉歴史生活資料館のすぐのところの信号のあるT字路(千葉県佐倉市新町)まで

嶺南寺の入口から左(北、歴史生活資料館からだと直進)に25メートルほどの右に、「重要史跡 堀田正睦之墓」と案内柱のある入口があり、中に入りしばらく真っ直ぐ進と大燈籠があり、さらに左、右と進んだあたり左側に案内所があり、その右斜め前あたりに大きな碑がありそこには「追遠之碑」と書かれていて、その碑の右に「堀田正睦公追遠之碑」と説明札に書かれています。
碑文は割愛しますが、かなり大きな自然石で出来ています。

実は案内柱のところからは、甚大寺の境内地となっていて、本来は本堂から来るのが筋ではありますが、歩いてきている順序で先に堀田家の墓所を訪ねていきます。
堀田家の墓所といっても、甚大寺の墓所は後の堀田家のものです。

「堀田正睦公追遠之碑」の左に墓所への入口があり、入口の左側に説明板があり

千葉県指定史跡 堀田正俊・正睦・正倫墓
昭和五十三年二月二十八日指定

堀田正俊は後の堀田の祖で・正盛の三男として寛永十一年(一六三四)に生れ、将軍家光の命により春日局の養子となり、安中城主・若年寄・老中・古河城主を経て大老に栄進した。
正睦は後の堀田第九代・文化七年(一八一〇)に生れ、佐倉城主にして寺社奉行・大坂城代・老中を経て老中首席・外国事務総裁となり、日米修好通商条約締結の基礎を築いた。
正倫は正睦の四男として嘉永四年(一八五一)に生れ、最後の佐倉城主となり、廃藩後は士族授産に努力し、さらに堀田農事試験場を開設、地方産業発展に貢献した。

昭和五十六年二月四日 千葉県教育委員会 佐倉市教育委員会

とあります。

昭和五十三年は1978年、昭和五十六年は1981年。

入口の右側には、墓所の配置図があるので一読して中に入り、右に少し行くと通路は左に進み、大きな墓所があるところの2つ目に説明板のある墓所があります。

佐倉町 新町 仲町北側 甚大寺 堀田家墓所 堀田正俊の墓

佐倉町 新町 仲町北側 甚大寺 堀田家墓所 堀田正俊の墓。(新町)

説明板には

初代 堀田正俊 〔寛永十一(一六三四)十一、十二生 貞享元(一六八四)八、二十八没〕

三代将軍家光の老中として活躍した佐倉十一万石の城主堀田加賀守正盛の三男。母は大老酒井忠勝の女[むすめ]阿栗。
幼い頃春日局の養子となり、その遺領三千石、また慶安四年(一六五一)父殉死後、その遺領一万石を継ぎ、合わせて一万三千石の大名となる。その後、安中城主(四万石)で老中の時、綱吉擁立に大功を顕わし、天和元年(一六八一)大老に進み、古河藩十三万石を領した。
正俊の政治は世に「天和の治」と称された。
しかし、その剛直な性格が禍し、貞享元年(一六八四)江戸城内で春日局の義孫若年寄稲葉正休によって刺殺された。
その子二代正仲[まさなか]は、古河から山形、さらに福島、三代正虎[まさとら]は再び山形へと幾度も移封され財政に窮した。延享三年(一七四六)五代の正亮[まさすけ]は老中となり再び佐倉に入封、その後幕末まで百二十二年間佐倉は堀田氏が治める所となった。

平成六年三月 佐倉市教育委員会

とあります。

平成六年は1994年。

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佐倉道 城下町佐倉歴史生活資料館のすぐのところの信号のあるT字路(千葉県佐倉市新町)から嶺南寺(千葉県佐倉市新町)まで

城下町佐倉歴史生活資料館のすぐのところの信号のあるT字路(千葉県佐倉市新町)を、左(北)に80メートルほどのところ右にお寺さんがあります。

佐倉町 新町 仲町北側 宗円寺

佐倉町 新町 仲町北側 宗円寺。(新町)

千葉県下総国印旛郡寺院明細帳には

本山妙心寺末
襌臨済宗妙心寺派 宗圓寺
一 本尊 観世音
一 由緒 寛永十八年中堀田加賀守創立活堂和尚開山其他由緒年月不詳
一 本堂間数 間口六間 奥行四間半
一 境内坪数 四百貳拾九坪 民有地第壱種
一 境内仏堂 貳宇
薬師堂
本尊 薬師如来
由緒 弘法大師作
建物 間口壱間 奥行壱間半
大師堂
本尊 弘法大師
由緒 不詳
建物 間口貳間 奥行壱間

以下省略

とあり、千葉県印旛郡誌には

新町字仲町にあり臨濟宗にして本山妙心寺末なり觀世音を本尊とす寛永十八年中堀田加賀守創立活堂和尚開山其他由緒不詳堂宇明治十七年十二月十七日燒失同十九年七月廿日許可を得て再建し間口六間奥行四間半あり境内は一反四畝九歩 [民有地第一種]

...中略...

境内佛堂二宇あり即
一、薬師堂 薬師如來を本尊とす弘法大師の御作なり堂宇は明治十九年七月廿に地の再建にして間口二間奥行二間五分あり
一、大師堂 弘法大師を本尊とす由緒不詳建物間口二間奥行一間

とあります。

寛永十八年は1641年、明治十七年は1884年、明治十九年は1886年。
堀田加賀守は堀田正盛のこと。

千葉県下総国印旛郡寺院明細帳の本堂間数の間口と奥行には朱線で訂正があり、この朱線の下には「間口七間 奥行五間」とあり、訂正の下には「十七年十二月十七日燒失」とあり、訂正したものの下には上記の間口と奥行が書かれており、その下に「再建 十九年廿日許可」とあります。
この部分は、千葉県印旛郡誌にあるとおりで、千葉県印旛郡誌にある記述はこの訂正文を基にしています。
千葉県下総国印旛郡寺院明細帳の民有地第壱種の下に「明治十六年一月中無代下奐」とあり、明治十六年に民有地に無償で譲渡したことが書かれています。

明治十六年は1883年。

ほかには、薬師堂の建物のところの間口と奥行も朱線で訂正されており、朱線の下には「間口三間五分 奥行貳間五分」とあり、訂正したものの下には「上記の間口と奥行がかかれており、その下に「再建 十九年七月二十日許可」とあります。
この部分も、この記述を基に、千葉県印旛郡誌も記述をしています。

さらに、境内坪数と境内仏堂との間に「此分裂 八畝九ト(歩)境内 六畝ト(歩)境外 此境外ハ堀田正倫ヘ賣渡ス 三十四年十一月十八日許可」とあり、薬師堂下にも朱字で「前同断」とあります。

明治三十四年は1901年。

明治三十四年に境内のうち約180坪を堀田正倫が買い取っていますが、この場所はおそらくとなりの住宅があるあたりと思われます。

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佐倉道 スーパー乃ぐちや(千葉県佐倉市新町)から城下町佐倉歴史生活資料館のすぐのところの信号のあるT字路(千葉県佐倉市新町)まで

スーパー乃ぐちやさんから佐倉道を東(佐倉市立美術館からだと直進、裏新町の井戸からだとT字路を右)に50メートルほどの左に[一里塚」とある古い商家があります。
現在は、佐倉の町の案内などをしていますが、平成19年(2007)までは「駿河屋」としてありました。

佐倉町 新町 仲町北側 駿河屋(現一里塚)

佐倉町 新町 仲町北側 駿河屋(現一里塚)。(新町)

現在も店行灯に「寿るがや」とあり、もとは「駿河屋」であったことを教えてくれます。
佐倉市史にある嘉永元年の「佐倉新町絵図」には、「遊右衛門 (駿河屋・酒醤油味噌商)」とあり、この時点で既に「駿河屋」となっていたようですが、安政年間には「油屋」とあったことがわかっています。
もしかすると、佐倉市史の「佐倉新町絵図」は便宜上「駿河屋」としていたのかもしれませんが、兼業をしているところが多かった時代なので、主屋の表口は「酒醤油味噌」を扱いながら、奥から二階は旅籠(郷宿)としていたのかもしれません。
どちらにしても、ここには旅籠「油屋」があり、酒醤油味噌商「駿河屋」があったわけです。
それは、安政五年七月十一日に桂小五郎(後の木戸孝允)が、剣術試合のために訪れ「油屋」に宿泊し、翌日に帰っていったことが古文書(宿泊帳)でわかっており、それゆえに店行灯にも「桂小五郎ゆかりの」とあるわけです。

嘉永元年は1848年、安政五年は1858年。

駿河屋であった「一里塚」から15メートルほどのところにT字路があり、ここを左(北)に90メートルほど進んだ左側(西側)に道があり、これが成田街道(佐倉道)その98で出てきたスーパー乃ぐちやさんの駐車場から続いていたお仮舎道の続きで、現在は途中50メートルほどのところまでは道としてありますが、その先は印旛支庁跡の駐車場のところまで廃道に近い状態になっています。

お仮舎道の続きの道が接続するところから、30メートルほどのところの右(東)20メートルほど行ったところに神社があります。

佐倉町 中尾余町 中尾余 稲荷神社

佐倉町 中尾余町 中尾余 稲荷神社。(中尾余町)

千葉県下総国印旛郡神社明細帳には

無格社
稲荷神社
一 祭神 蒼稲孁命
一 由緒 寛永十九年佐倉藩主堀田正盛城外家臣ノ邸地一区毎ニ[当時曲輪ト称ス]一社ヲ設置ス
一 社殿間数 間口壱間 奥行九尺
一 境内坪数 五拾坪 官有地第一種

以下省略

とあり、千葉県印旛郡誌には

中尾餘町字中尾餘にあり祭神は蒼稲孁命なり寛永十九年佐倉藩主堀田正盛城外家臣の邸宅一區毎に(當時曲輪と稱す)一社を設置す社殿間口一間奥行九尺境内五十坪 [官有地第一種] あり麻賀多神社祠掌兼務郡司秀綱を神官とし信徒廿一人を有し管轄廰まで三里三十町十二間なり [神社明細帳]

とあります。

寛永十九年は1642年。

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