佐倉道 石渡家住宅のある十字路(千葉県佐倉市弥勒町)から旧堀田邸に寄り道をして、土井酒店のある十字路(千葉県佐倉市弥勒町)まで

この先への図を載せます。

旧堀田邸あたりの図

旧堀田邸あたりの図。

石渡家住宅のある十字路まで戻ったら、十字路を直進(南、勝寿寺からだと右)し60メートルほどいくと変形4差路があり、4差路の右へ行く道のすぐ左斜めに鳥居の見える参道があり、その参道の奥に神社があります。

佐倉町 弥勒町 五郎台 八幡神社

佐倉町 弥勒町 五郎台 八幡神社。(弥勒町)

千葉県下総国印旛郡神社明細帳には

千葉縣管下下總國印旛郡佐倉町弥勒町字南側
村社
八幡神社
一 祭神 誉田別命
一 由緒 不詳
一 社殿間数 間口壱間 奥行九尺 拝殿 間口参間 奥行弐間
一 境内坪数 貳百坪

とあり、千葉県印旛郡誌には

彌勒町字五郎臺にあり譽田別命木花開邪姫命を祭る由緒不詳なれども明治四十三年三月十二日許可を得て彌勒町字南側にありし無格社子安神社を本社に合祀す本殿の間口一間奥行九尺拜殿間くぢ三間奥行二間にして境内四百六十六坪 [官有地第一種] あり

とあり、千葉県神社名鑑には

祭神 譽田別命(ほんだわけのみこと)
例祭日 九月一五日
主要建物 本殿・銅板葺流造一坪、拝殿・銅板葺寄席棟造六坪
境内坪数 四四六坪
氏子 一〇〇戸 宮司 ****
由緒沿革 詳細明らかでない。明治二九年火災にあい、現在の社殿は再建したものである。

とあります。

明治四十三年は1910年、明治二九年は1896年。

千葉県下総国印旛郡神社明細帳にある「村社」の上には朱字で、「明治四十三年三月十二日付指令仝所字南側無格社肥やす神社(祭神木花開耶姫命)ヲ合祀シ財産譲与許可ノ上第五〇一九号」、「四十三年四月三日合祀ノ旨仝月五日付届出ヲ仝年四月十二日第二五一三号受諾」とあり、その左に「廿九年十二月一日燒失ス」とあります。
始めに書かれたのは「廿九年」のほうで、これは新町の大火で焼失した時のことになり、明治四十三年は近くの子安神社を合祀したと書かれていますが、この弥勒町字南側の子安神社もおそらく明治29年の大火で焼失をし、その後再建されることなく八幡神社に合祀されたと考えられます。
祭神の下には朱字で「子安神社祭神木花開耶姫ヲ合祀ス」と追記がされ、由緒のところには朱字で「明治四十三年三月十二日仝所字南側無格社子安神社(祭神木花開耶姫命)ヲ合祀ス」とあり、社殿間数のところの奥行には朱線で消されているところには「壱間」とあり、拝殿の下には朱字で「四十一年四月十五日ニ発第一六〇号」とあり、境内坪数のところには「外弐百拾四坪(明治三十八年一月七日境内一収第五三八号ヲ以テ編入許可)とあります。
子安神社を合祀する前の明治41年には、社殿(この場合は本殿のこと)を少し小さくしたとあり、その前の明治38年には境内として214坪を編入したとあります。

明治四十三年は1910年、明治廿九年は明治29年のことで1896年、明治四十一年は1908年、明治三十八年は1905年。

字名について、千葉県下総国印旛郡神社明細帳と千葉県印旛郡では、「南側」と「五郎臺」と別の字名で書かれていて不思議な気がしますが、享保七年に書かれた「佐倉風土記」には「八幡 郭外野狐臺ニ在」とあり、八幡神社の場所を「野狐台」としているところから、もともと「野狐台町」であったところがいつしか「弥勒町」の中になったと思われ、明治29年に新町の大火で焼失する前は、現在の位置より北側の変形4差路から八幡神社に入ったあたりにあったものと思われ、この位置であれば小字名で「南側」の位置になり、現在の社殿の位置であれば小字名は「五郎台」となります。

再建された時期について、新佐倉真佐子では「明治三十一年四月に再建された社殿が現在の八幡神社である。」とあり、明治38年に社殿を「間口壱間 奥行九尺」としたのは、新しい社殿の大きさがこうなったということのようです。

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佐倉道 肴町の直角カーブ(千葉県佐倉市新町)から石渡家住宅のある十字路(千葉県佐倉市弥勒町)まで

肴町・間の町・弥勒町・野狐台町あたりの図

肴町・間の町・弥勒町・野狐台町あたりの図。

肴町の直角カーブ(二つ目の直角カーブ)を東(延覚寺からだと左、妙隆寺からだと直進)に10メートルほどの右に古い建物がありますが、ここはもと旅館だった建物。
このもと旅館から10メートルほどの右に石柱(教安寺とある)の建つ参道があり、参道を50メートルほど進むと門柱があり、その奥にお寺さんがあります。

佐倉町 新町 肴町西側 教安寺

佐倉町 新町 肴町西側 教安寺。(新町)

千葉県下総国印旛郡寺院明細帳には

傳通院末
浄土宗 教安寺
一 本尊 阿彌陀如来
一 由緒 寛永六年中花井左門創立厭誉同波和尚開山其他由緒年月不詳
一 本堂間数 間口八間五分 奥行七間
一 庫裏間数 間口五間 奥行三間
一 境内坪数 六百六拾坪 官有地第四種
一 境内仏堂 貳宇
観音堂
本尊 千手観音
由緒 不詳
建物 間口三間 奥行貳間五分
大師堂
本尊 弘法大師
由緒 不詳
建物 間口壱間 奥行四尺五分

とあり、千葉県印旛郡誌もほぼ同様の記述なので省略します。

寛永六年は1629年。

千葉県印旛郡誌に「淨土宗鎮西派」と記述があるのですが、これは京都府京都市東山区林下町にある知恩院(華頂山知恩院大谷寺)を大本山とする鎮西派のことで、傳通院(無量山傳通院寿経寺)は東京都文京区小石川にあり、徳川家康の生母於方大の方や千姫、徳川家光の正室の孝子の方の墓があり、知恩院にも千姫の墓があります。

参道から門柱に入とる右側には鐘楼があり、鐘楼の手前に説明板があり

教安寺 縁起

二尊山東傳院教安寺と称し、京都知恩院を總本山とし東京小石川傳通院を本寺とす。佐倉城主土井利勝公の時にその「預り人」の花井左門が内室東傳院殿松誉春貞大姉を開基とし、欣蓮社厭誉道波大和尚を迎えて城主の外護のもと寛永二年(一六二五)教安寺を創建した。今を去る三六七年前なり。
花井左門の父は花井遠江守吉成と称し徳川家康公に仕え、その側室於茶阿の局の生める第六子松平忠輝の家老となり信卌松代海津城六万石を領す。母は於茶阿の局が先夫の子にして忠輝とは異父の姉に当る。忠輝は伊達政宗公の息女五郎八姫と婚を結び慶長十五年高田六十万石の太守となるも父家康の遺言として、二十五歳の元和二年領地を没収され配流を重ねて信卌諏訪城主の「預り人」として天和三年、九十二歳の長寿を以て数奇な生涯を終る。此の事件に花井家は補佐の責を以て花井左門も佐倉城主の「預り人」となり後ち家人として松平左門を称し万治二年七月十日寂す。法号は浄徳院殿雲竜心白居士、昭和五十三年八月傳通院にありし墓石を當寺の開基の墓域に遷す。
貞享、宝永の類災にて堂宇焼失し享保初年(一七一六)にほぼ復興したるも明治維新の大変革、加うるに明治三十五年九月の大暴風雨のため本堂は半潰し解体の上その古材を以てかろうじて再建された。大正十五年十月書院、庫裡の再建なるも戦後の昭和二十五年の農地法に依り一切の供養田畠を失う。
幾多の変遷免れ難くその銘文に寺の歴史を良く傅えた宝暦十年鋳造の梵鐘も銘文を残すのみにて幕末の安政二年海防に供され更に今より二七三年前の享保二年に八代目の佐倉城主稲葉正知公により再鋳され「佐倉八景」にも詠ぜられた大手門鐘楼堂の「時の鐘」は明治四年の廃藩置県の頃、教安寺に移され太平洋戦争酣の昭和十八年一月多くの仏具と共に供出されるまで梵鐘として市民に親しまれたるも、奇しく銘文のみを残して宝暦の梵鐘と命運を共にした。供出代金四五六円五七銭也、噫々(ああ)無常なるかな。
戦後三十年の昭和五十二年三月教安寺創建三五〇年を慶祝して檀信徒並に市民の協力により大梵鐘を鋳造して享保の名鐘を再生し英霊の冥福をすすめ平和祈念の妙音は印旛沼畔に響き渉り、昭和六十二年には三上人御遠忌を奉謝して本堂屋根大改修の悲願を達成した。
開創以来三六〇余年の星霜を閲し、世代を重ねること二十二世なり。

平成三年八月
代二十二世 謙誉

とあります。

慶長十五年は1610年、元和二年は1616年、天和三年は1683年、万治二年は1659年、昭和五十三年は1978年、貞享は1684~1688年の間、宝永は1704~1711年の間、明治三十五年は1902年、大正十五年は昭和元年でもあり、1926年、昭和二十五年は1950年、宝暦十年は1760年、安政二年は1855年、享保二年は1717年、明治四年は1871年、昭和十八年は1943年、昭和五十二年は1977年、昭和六十二年は1987年、平成三年は1991年。

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佐倉道 城下町佐倉歴史生活資料館のすぐのところの信号のあるT字路(千葉県佐倉市新町)から肴町の直角カーブ(千葉県佐倉市新町)まで

城下町佐倉歴史生活資料館のすぐのところの信号のあるT字路に戻り、左(東、おはやし館からだと直進)に佐倉道を30メートルほど進むと直角(櫛形)に曲がるところがあり、そこ角のところから道があります。

佐倉町 新町 肴町東側 延覚寺入口

佐倉町 新町 肴町東側 延覚寺入口。(新町)

写真にある車が止まっているあたりに、江戸時代には辻番(辻番所)があり、ここで狼藉者や城下町の警戒にあたっていた現在で言う交番のようなものがあったところです。
辻番跡の奥、延覚寺入口は白い建物(平成22年3月までは道路まで古い理髪店の建物でした)が目印になり、この建物の左横の道を30メートルほど入ると墓地があり、左(北)に向くとお寺さんがあります。

佐倉町 新町 肴町東側 延覚寺

佐倉町 新町 肴町東側 延覚寺。(新町)

千葉県下総国印旛郡寺院明細帳には

本山本願寺末
眞宗本願寺派 延覚寺
一 本尊 阿彌陀如来
一 由緒 南都延覚艸創年月不詳夫ヨリ建暦年中道澄再興其後破却退轉ニ及ヒ夫ヨリ寛永年中甚正興隆其後享保元丙申年十二月十四日善入ノ代ニ本佛尊像寺号本山ヨリ免許
一 本堂間数 間口七間 奥行七間
一 庫裏間数 間口八間 奥行五間半
一 境内坪数 四百五拾五坪 民有地第壱種

とあり、千葉県印旛郡誌もほぼ同じ記述であるので省略します。

建暦年間は1211~1213年の間、寛永年間は1624~1644年の間、享保元年は1716年。

南都とは大和(地名としては)のことで、現在の奈良県にあたり、奈良で延覚という人が創立したのか、延覚という人が佐倉に来て草創したのかは定かではありませんが、平安時代後期(平家全盛期)に奈良の興隆寺に延覚(藤原季仲の子供、興福寺少僧都)という人がいますが、「南都延覚」とあるので、もしかしたらなんらかの関係があり、推測としてこの延覚が奈良のどこかに寺を創建したと考えられなくもありません。
その後、道澄(戦国時代、秀吉のブレーンになった道澄とは別人)という人が再興したが、その後破脚し退転したとあるのは、鎌倉時代の承久の乱(1221年)で京都とその周辺ではかなり激しい戦いがあり、その時に焼き討ち(破脚)にあったために、東国に僧侶などが落ち延びたということであるようで、それが佐倉であったかどうかは定かではありません。
ただし、この前にも南都焼討(1181年)ということが平清盛によって起こっているので、このことを指しいてる可能性もあります。
建暦年中は、鎌倉時代で1212年には鴨長明が「方丈記」を、1213年には和田義盛の乱があった頃で、三代将軍源実朝の治世のころ。
中世に延覚寺(この頃の寺名は、はっきりしていない)が佐倉にあったとすると、佐倉市史の中世の寺院の所に記述があってもよさそうなのですが、延覚寺についての記述はありません。
その後、破脚(焼き討ち)され甚正によって寛永年中に再興されたわけですが、約400年もの間の開きがあるので、現在地が延覚寺のもともとあったところであるとはいえないようです。
現在地に来たのは、この寛永年中であるとすると、佐倉市史の中世の寺院の所で記述がないことと合致することになります。
再興されて、享保元年に善入の時に本尊と寺号を本山から免許されたとあるので、正式に「延覚寺」となったのは、享保元年からと千葉県下総国印旛郡寺院明細帳には書かれています。
問題は、いつから浄土真宗であったかということになり、これは再興された時であれば寛永年中、正式に「延覚寺」となった時とすれば、享保元年ということになりますが、はっきり書かれていません。

千葉県下総国印旛郡寺院明細帳の「眞宗本願寺派」の横に朱線で訂正線が引かれたところに「眞言宗」とあり、もともとは真言宗であったような書き方ですが、単に「真宗」と間違えたとも見えるので難しいところです。
ちなみに興隆寺は法相宗(南都六宗の一つ)です。

千葉県印旛郡誌には「眞宗西派」とかかれており、これは、現在東西の本願寺が京都にありますが、西本願寺が「眞宗西派」ということになります。

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