佐倉道 本町交差点(千葉県佐倉市本町)から電気屋さん(千葉県佐倉市本町)まで
本町中宿から下宿あたりの図を載せます。

佐倉本町中宿から下宿あたりの図。
本町交差点を今度は南(順天堂からだと右、神明神社からだと直進)に順天堂側の歩道を60メートルほど進んだ右側に本町街区公園があり、入ってすぐの左側に大きな石碑が二つあります。

佐倉町 本町 南側 本町街区公園 佐藤泰然・佐藤舜海の碑。(本町)
本町街区公園入口に石碑の説明板があり
旧佐倉順天堂と佐藤泰然・舜海の碑
ここ旧佐倉順天堂敷地内に建つ大きな石碑は、順天堂創設者・佐藤泰然の顕彰碑と佐倉順天堂三代目・佐藤舜海の頌徳碑です。いずれも篆額は伯爵堀田正倫の書であり、撰文・書ともに旧佐倉藩ゆかりの者によります。
右の泰然顕彰碑は、二代目の佐藤尚中から佐倉順天堂を継いだ舜海によって、明治二十三年(一八九〇)に建立されました。泰然の生い立ちや生涯の業績をたたえた碑文が刻まれています。
その隣は、明治三十五年(一九〇二)に門人らが舜海の「耳順」(六〇歳)を祝って建立した頌徳碑です。半生の履歴を記した碑の裏面には建立者名が刻まれ、その数は八六人に上ります。
また、頌徳碑にあるように佐倉順天堂は、舜海の代に病院施設を拡充しました。現在も残る洋風の診療棟のほかに、南に延びた廊下で結ばれた受付・厨房棟などが建てられ、この碑の位置から西には二階建病棟がありました。
なお、この二基の碑は都市計画道路建設にともない、平成五年にこの南方約六メートルの場所から現在地に移設したものです。
平成八月三月
佐倉市教育委員会
とあります。
平成五年は1993年、平成八年は1996年。
碑の建っている本町街区公園までが、佐倉順天堂の敷地であったところとあるように、当時は相当広い敷地内にあったことが説明板でわかります。
本町街区公園の後(南)にヤマト運輸があり、その南に細い道が西から進んできていますが、この道が久保町の坂の下から分かれていた勝田道で、大通りをまたいで東側の細道へ続いていますが、現在は途中で道は途切れてしまっています。
東側の細道のあるところから北に50メートルほどのところ、現在歩道になっているあたりに高岡宿の道祖神社があったとされていますが、明治時代に成田街道(佐倉道)その106で訪ねた神明神社に合祀されてその痕跡はありません。
本町交差点に戻り、今度は右(東、神明神社からだと左、順天堂からだと直進)に佐倉道を50メートルほど進んだ左にコンビニのような酒屋さんのようなお店があり、このお店の名は「伊勢文」といい新佐倉真佐子には「伊勢文は糀、酒などを扱う老舗である。」とあり、昔からのお店のようです。
伊勢文から70メートルほど進んだところ右に細道があり、細道の東側に恐らく三川屋ではないかと思われる宿屋があったところです。
新佐倉真佐子には「...その以前ここは宿屋であり、コレラが流行した時一家死に絶えたことがあったそうである。」とあり、三川屋とは書かれていないものの、三軒ほどあった宿屋の一つで、屋号のわかっている二つ以外の宿屋で残っているところといえば三川屋のみので、恐らくここにあったのが三川屋だと思われるわけです。
しかし、コレラで一家全滅というのもおっかない話ですが、江戸末期から明治時代はコレラに対しての治療方法がまだ確立されていない頃でもあったようなので、コレラにかかってしまうと大変なことになったようです。
ちなみに、コレラが流行した要因には、黒船来航が関わっているようで、文政5年に初めて大流行し、このときは箱根より西で大流行。次は安政5年に大流行し、このときは江戸でも流行し全国で死者28,000人を超えるほどだったと記録にあるようです。
その後、文久2年と文久3年、その後は明治10年、明治12年と明治18年から19年に大流行をしています。
13代将軍徳川家定(安政5年7月没)の病死も、コレラとも脚気(持病であった)ともいわれていて、12代将軍家慶(嘉永6年6月没)も、もしかするとコレラで病死したのではないかともいわれていますが、真相ははっきりしていません。
ただし、この二人の将軍の時期にコレラが流行しているところを見ると、ありえない話でもないようです。
文政5年の流行の原因は、定かではありませんが、この年に長崎港でイギリス軍艦が事件を起していて(フェートン号事件、その後文政8年には異国船内払令がだされている)、このフェートン号の乗船員がコレラ菌を持ち込んだ可能性は高く、これが一気に箱根辺りまで広がって流行した可能性があると思われますが、確証はありません。
黒船来航(ペリー来航)は嘉永6年6月で、このときにコレラ菌も一緒に上陸したと思われ、この黒船の船員がコレラにかかっていて、それがもとで江戸でも大流行をしたと考えられます。
コレラは日本にはなかったわけですが、これが大航海時代と列強の植民地支配のためにヨーロッパで大流行し、その後日本には黒船来航という形で広まってしまったようです。
まあ、その前には、これまた日本にはなかった病気である梅毒が、戦国時代にキリシタンのキリスト教布教と共に広まってしまったわけで、とんでもない病気はどちらも海を渡ってもたらされてしまい、現在は、飛行機で持ち込まれてくるわけで...。
文政5年は1822年、安政5年は1858年、文久2年は1862年、文久3年は1863年、明治10年は1877年、明治12年は1879年、明治18年は1885年、明治19年は1886年、嘉永6年は1853年。
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佐倉道 樹木町入口(千葉県佐倉市本町)から神明神社を経由して本町交差点(千葉県佐倉市本町)まで
このあたりの図を載せます。

佐倉本町あたりの図。
樹木町入口から左(東)に20メートルほどのところ、佐倉道の向こう側(南)に細い道があり、ここを90メートルほど進むと正面に墓地があり、その墓地の真中あたりに南に向いたお堂があります。

佐倉町 大蛇町 自性院前 自性院跡 大師堂。(大蛇町、写真は南側から見たところ)
東西に別れて墓地のある、ちょっと見空地のような一画が自性院があったところです。
千葉県下総国印旛郡寺院明細帳には
吉祥寺末
新義真言宗智山派 自性院
一 本尊 大日如来 一、本堂 間口四間半 奥行三間
由緒 文政年中堂宇破壊仕追テ再建迄本尊本寺ヘ移轉安置イタシ候
境内坪数 百拾壱坪 官有地第四種
境内仏堂 壱宇
大師堂
本尊 弘法大師
由緒 不詳
建物 間口四尺 奥行三尺五寸
とあり、千葉県印旛郡誌も同様の記述なので省略します。
文政年中は1818~1830年の間。
文政年中に堂宇が破壊とあるのは、大風雨(おそらく台風のことと思われる)で倒壊したことであると思われ、その後、本尊が酒々井にある吉祥寺に移り、そのまま堂宇の再建なく自性院は廃寺になったようです。
自性院跡の墓地入口の右側おくには、真新しい墓碑を含む一画があり、その左(東)の墓地入口前辺りには、無縁墓と石仏などが23基あるところがあり、南側正面に大きな地蔵像(延命地蔵で、万霊塔とおもわれる)があり、右側4列目の右から2つ目に地蔵塔がありますが、この地蔵塔はふるさとの石仏によると墓地の入口にあったもので「像の向って右側に□造立資格□□□□□、左側に寛文八戊申(一八六八)霜月五日と刻んである。」とあり、いつ頃から現在のようにまとめられてここにあるのかはわかっていません。
その他の大半は墓碑で、中には宝篋印塔の一部なども混じっています。
この無縁墓群の左(西)に大師堂があり、その左(西)にもう一つの墓地の一角があります。
この自性院跡を歩いてみると、所々に礎石らしい石片があり、大破したあとはそのまま放置されていたのではないかと、思われるような感じがなんとなくですがしてきます。
自性院の境内は、この一角のほか、先ほど歩いてきた佐倉道からと、自性院跡の幅と同じ範囲がそうであり、北側の住宅地のほとんどと、自性院跡の南側の工場のあるところも境内であったと思われます。
堂宇はどのあたりにあったのかははっきりしていませんが、無縁墓群の少し南側の工場との境当りに、少し石片があるあたりが堂宇のあったところではないかと推測していますが、あくまでもnoboの推測で確証はありません。
自性院跡の東側に道があり、この道を南に進むとT字路があり、このT字路の東西に進んでいる道は先に訪ねた妙見神社手前の勝田道で、このまま東に進むとヤマト運輸の宅急便センターの横から大通り(バス通り・高岡道)に接続します。
この勝田道は、浜宿道を交差して東側の細い道に続いていましたが、この細道は途中で消滅していて、現在は勝田道をそのままたどることは出来なくなっています。
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佐倉道 土井酒店のある十字路(千葉県佐倉市弥勒町)から樹木町入口(千葉県佐倉市本町)まで
土井酒店のある十字路を右(東、石渡家住宅からだと直進)に佐倉道を100メートルほど進んだ右に古民家風の建物があります。

佐倉町 弥勒町 南側 三谷家住宅。(弥勒町)
三谷家住宅前に説明板があり
佐倉市登録有形文化財
三谷家住宅
登録年月日 平成13年5月16日
主屋 木造、一部2階建
袖蔵 木造、2階建
座敷屋 木造、2階建
袖蔵は明治17年に建てられたことが棟札より確認され、主屋もその頃には建っていたと考えられる。また、座敷屋は昭和10年位頃に建てられている。いずれも近代の佐倉における有力商家にふさわしく造形的に優れた建物であり、出桁造の主屋と並んで袖蔵が建つ当時の商家の構えをよく残している。佐倉の伝統的な商家として貴重な建物である。
内部は非公開です。
佐倉市教育委員会
とあります。
平成13年は2001年、明治17年は1884年、昭和10年は1935年。
三谷家住宅について、歴史の道調査報告書には
三谷屋は家伝によれば、享保元年以前に佐倉に定住し、漢法の薬種を商った時期もあったが、慶応元年の商人一覧には「綿屋喜兵衛」とあり、幕末には呉服太物綿等を扱っていた。
とあり、現在はこの三谷家住宅では営業はしていませんが、平成7年度歴史的建造物詳細調査報告書に「現在は店を新町に移し」とあり、成田街道(佐倉道)その98で訪ねた新町の蔵六餅本舗の近くにあった「三谷屋呉服店」が移転したお店になります。
通り向かいのお店は「三谷屋綿店」は、この「三谷屋呉服店」の分家で、ふとんや婦人服などを扱っています。
歴史の道調査報告書にある「漢法」は「漢方」のことで、表記の違いと思われます。
享保元年は1716年、慶応元年は1865年、平成7年は1995年。
三谷家住宅のすぐ信号のある交差点があり、ここを渡って20メートルほどのところ右に細い道があり、この道の奥側の現在住宅が建っているところ(道の東側)辺りから約150メートル南側と東側100メートルほどの区画の中に佐倉藩の梅林がありましたが、現在梅林は残っていません。
この細道は途中で私有地内になるので、一旦信号まで戻り、信号を南(三谷家住宅からだと右、細道からだと左)に90メートルほど進んだあたりの左に道があり、30メートルほど進むと公園があります。

佐倉町 弥勒町 南側 佐倉藩梅林跡。(弥勒町)
現在、弥勒公園になっているところあたりが佐倉藩梅林跡で、弥勒公園の東南側には要行寺台公園がありますが、弥勒公園全域と要行寺台公園の北側の一部、弥勒公園の北側の私有地になっているあたりまでが梅園があったところになります。
新道々の記には
国道296号線から佐倉東中学校方向に曲がり百メートル程行くと、東側(左手)に梅と桜の古木が一本ずつ残っている。広さ約二千五百坪の敷地に三百本余の梅の木があった跡である。
ここは昔、佐倉藩の薬草園であったが、嘉永年間(一八四八~一八五三)頃、茶樹の間に匝瑳郡木戸村の光泉寺の梅を主として植えたものである。
この後梅林跡は、日産厚生園の職員寮が建てられ、現在は一般の住宅になっている。
とあります。
匝瑳郡木戸村の光泉寺は、現在の千葉県山武郡横芝光町木戸(旧匝瑳郡光町木戸)にある光泉寺のことです。
平成16・17年度佐倉市埋蔵文化財発掘調査報告書の中の弥勒南側遺跡には、「近世の道と考えられる溝状遺構が1条検出されたのみで、それに近世陶磁器が若干伴って出土した。」とあり、梅林の中の散策路としての道らしきものがこの発掘調査で見つかったのではないかと思われますが、そのあたりのところを言及していないので、古道として判断したものかどうかははっきりしていません。
しかし、近世陶磁器は薬園であった頃に使われていたものが出土したのではないかと思われ、見つかった道の跡も薬園と梅林の中を通る道(散策路か?)ではないかと思われます。
平成16・17年は2004・2005年。
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