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    <title>SanpoBokko Stroll Note</title>
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    <updated>2010-07-29T16:10:33Z</updated>
    <subtitle>歩いて発見、ぶらり街道・散歩・道草好きなのさ。勝手に道草、気ままに歩いた記録帳。</subtitle>
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    <title>成田街道（佐倉道）その１１０</title>
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    <published>2010-07-29T16:10:33Z</published>
    <updated>2010-07-29T16:10:33Z</updated>

    <summary>佐倉道　愛宕神社手前のＹ字路（千葉県印旛郡酒々井町本佐倉）から勝田道を経由して新堤の馬頭観音まで進み...</summary>
    <author>
        <name>nobo</name>
        
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    <category term="佐倉市" label="佐倉市" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
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    <category term="千葉県" label="千葉県" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://sanpobokko.com/stroll_note/">
        <![CDATA[<p>佐倉道　愛宕神社手前のＹ字路（千葉県印旛郡酒々井町本佐倉）から勝田道を経由して新堤の馬頭観音まで進み、電気屋さん（千葉県佐倉市本町）のところに戻ってくるところまで</p>

<p>愛宕神社手前のＹ字路を左（北）に２００メートルほど進むとＴ字路があり、Ｔ字路の南西側にはエコトピア酒々井の大きな建物があり、Ｔ字路の北西側には墓地があります。</p>

<p><img alt="酒々井町　本佐倉　南大堀（五良）　墓地" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/mosakura_monjujiato_boti.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>酒々井町　本佐倉　南大堀（五良）　墓地。（酒々井町本佐倉）</p>

<p>五良墓地と呼ばれている墓地の北東角側に石塔（宝篋印塔や無縁塔など）が積み重なり、大きな石塔のようになっているところがあり、この石塔群はこの場所にあった文殊寺にあった墓碑や宝篋印塔などであると思われるものです。<br />
現在、文珠寺の痕跡としてはこの墓地以外にはなく、文珠寺自体の範囲と本堂などの位置などについてははっきりとわかっていないようですが、五良神社の隣に建立したことがわかっているので、墓地から愛宕神社横の畑とエコトピア酒々井のあるところ、墓地の東から愛宕神社間での畑の部分、墓地の北側の現在林になっている台地部分に渡っていたのではないかと思われます。</p>

<p>文珠寺について、酒々井町史には</p>

<blockquote>

<p>愛宕山文珠寺は本佐倉五良にあった。町の西南端、佐倉市長熊に接しており、現五良墓地付近にあった。真言宗醍醐寺三宝院末で、中世には佐倉五か寺の一つに数えられた大寺であったが、天保四年（一八三三）の大風のために大破し、それ以後廃寺となった。<br />
安政三年（一八五六）の「文珠寺書上帳」（町史資料（一）五一）によると、境内面積二万九七六〇坪、客殿六八・二五坪、庫裏二九・七五坪、小方丈六坪、地蔵堂九坪と記載されているが、「大破仕無御座候」となっていて当時すでに廃寺となっていた。文珠寺は本佐倉の吉祥寺に合併され、下寺、境内地、山林などの一切も吉祥寺に引き継がれた。詳しい由緒などはわかっていないが、おそらく中世千葉氏に深いかかわりをもって創建されたもので、千葉氏滅亡後、有力な檀家がなかったために、維持困難となって廃寺に追いやられたものと思われる。<br />
『古今佐倉真佐子』には、文珠寺にまつわる天狗の伝説やその他の伝説が記されており、話題の豊富な寺院であった。</p>

</blockquote>

<p>とあり、佐倉市史には</p>

<blockquote>

<p>文珠寺（大蛇）。創建は不明。『新撰佐倉風土記』には天文年中（一五三二～　）に千葉胤富（勝胤の孫）、原胤安（遠江守胤平の第二子、原上総介胤定の弟）によって再興されたものとしている。同寺に伝わる仏像と萃鬘（けまん、仏前を荘厳にする装飾で、金銀銅でつくった扁平な輪に蓮萃などの造花をつづる－辞苑）の銘文に、仏像には「原大蔵亟胤安祖母　妙孝禅定尼　天文十四年乙巳」とあり、祖母妙孝禅定尼は原胤安の祖父に当る生実城の原四郎胤高の室であろうと見られる。萃鬘の方には「天文十六年十月十六日　大檀那　平胤富　作者司濃」等から見られることからも同寺が千葉家の加護があったものと見られる（篠崎四郎氏の研究より）。また当寺には次のような伝説がある。それは、昔、鎌倉権五郎景政がここに来て鞭を地にさし暫く休んで去ったが、この鞭が生きてそのまま桜樹となり八重の花を咲かせたが、その後其処に寺を建て文珠寺と号し、景政の冥福を祈ったことに寺の起源があるとの筋書きである。</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>天文十四年は１５４５年、天文十六年は１５４７年。</p>

<p><ins datetime="2010-07-30T20:02:06+09:00">[2010-07-30 追記]　千葉県印旛郡誌の佐倉町にある寺院佛堂誌のところに、文珠寺の記述がありそこには「大蛇にありて佐倉五ケ寺寺の一なり」とあります。</ins></p>

<p>古文書などでは文珠寺のある場所を「大蛇」としているものが多く、当時（千葉氏が支配している時代）には「大蛇」であったことが知られていて、佐倉市史で「（大蛇）」としているのはこのためであると思われます。<br />
佐倉市史にある「萃」は「華」の字の間違いと思われ、「萃鬘」は「華鬘」と書くのが本当です。</p>

<p>古今佐倉真佐子には「真言宗五霊山文珠寺」とあり、古今佐倉真佐子の書かれた時代には「愛宕山」ではなく「五霊山」といっていたような感じですが、この古今佐倉真佐子も意外に間違った箇所が多いので一概には言えませんが、「五霊山」といっていたとすれば、やはり鎌倉権五郎景政の古事にちなんで「五霊山」としたものか、もしくは多輪免喜に「御霊とは霊魂の尊敬語。のちに尋常でない、祟りをあらわす「みたま」についていった、各地にある五良塚もこの転か。」とあるように、もともとこのあたりには古墳が多数あったところであり、その古墳群を「御霊」といっていたものがいつしか鎌倉権五郎景政の伝説とが重なり「五霊」になり「五霊山」となった可能性もあります。（その後、「五霊」から「五良」となったと思われる。）<br />
その「五霊山」が「愛宕山」にいつ頃なったかについてはわかっていませんが、古今佐倉真佐子の時代以降に「愛宕山」になったということと考えていいと思います。</p>

<p>酒々井町史の中にある文珠寺書上帳（安政三年十月）には、「本佐倉村字五良　愛宕山　文珠寺」とあり、本堂、客殿、庫裏飲みの記載があり、天保四年八月一日に大風で大破したあと十月に本尊観世音厨子を吉祥寺に移したことが書かれています。<br />
さらに、愛宕社の記述のところに「愛宕大権現開帳三拾三年ニ壱度宛仕候」とあり、３３年に一度しか本尊を見ることが出来なかったことが書かれています。<br />
さらに、妙見堂が記載されており、この妙見堂は千葉氏との関係を物語っている確かな証拠といえるでしょう。<br />
ただし、妙見堂がどの位置にあったかについては詳細が書かれていないため、はっきりとはわかっていませんが、松並木の後に記述のあるところから、愛宕神社よりやや北側、もしくは現在の参道の近く、長熊廃寺の碑のあたりにあったのかも知れませんが、これはNoboの推測に過ぎません。</p>

<p>安政三年は１８５６年、天保四年は１８３３年。</p>

<p>酒々井町史に「天狗の伝説」とありますが、この天狗の伝説について古今佐倉真佐子には</p>

<blockquote>

<p>ある六月七日の朝五つ半頃、寺の野郎、酒を調に徳利を為持（もたせ）、本町へ遣したるに待て帰らざる故、和尚ふしん成がゆへに、そこかしこと尋、前の並木の所へ行て見しにくだん（の）徳利松の枝に懸てあり、野郎は不見。猶々ふしんに思ひて寺へ帰り居しに、暮々に帰りし故、和尚しかりければ、京のぎをんまつりを見、只今帰りたると云し故、十四五日のたびにて京へは行に、日帰に行とは大だわけと、はなはだ叱付置成也。其後十日斗過て西国に出し者帰りて寺へ来、よもやまの咄などして扨、これの野郎は去る七日に、京ぎをんまつりをさじきにて見いしが、早く帰りたると云を和尚きゝて、その七日の様子（く）はしく野郎に一々ぎをんまつりの様子をきゝしに少も違事なし。如何して行しと尋（たつね）しに、徳利を持て並木の中ほどへ行しが向より大き成る山伏来り、きやうはぎをんのゑ（会）也。見物せんかとゆいてつれ行しが、そのまゝぎをんの祭を見たると咄す。その時和尚よ（こ）手を打、扨々きたいの事哉（かな）。まったく天狗のしよいと見るとて其後たれかれに咄にて、かくれなき後は咄になる。ま所故如此成る事ある也。</p>

</blockquote>

<p>とあり、ここで天狗の仕業として、野郎とあるおそらく寺男が天狗に連れられて京都の祇園祭を見てきた話と、その山伏に化けた天狗のいた抜け道（今で言う次元空間のトンネル）は、並木道の松のところにあって、そこに徳利がぶら下がっていたのは、おそらく天狗がちと頂戴した変わりに、野郎（寺男）に祇園祭を見せてやったという話のようです。</p>

<p>ここで徳利が出てきましたが、もしかすると、<a href="http://sanpobokko.com/stroll_note/2010/07/post-121.php">成田街道（佐倉道）その１０９</a>の中にあった本佐倉の庚申塔の遷座碑にあった「豆徳り」というのは、この「徳利」の話のことではないだろうかと思ったりします。</p>]]>
        <![CDATA[<p>少し話が前後しますが、文珠寺の桜について古今佐倉真佐子には</p>

<blockquote>

<p>扨、客殿前に二間四方斗に丸く塚をつき、芝ふせ、此上に三かゝへ斗の桜ある。地より初の枝迄高二間斗、夫より八方へ枝出る。枝先とく長十四五間也。枝先へは手とゝ゛く也。段々上ほど枝みちかく、丸きものを半分切たる様になり、よく半ゑんの木付也。地より高さ十間斗。花は八重ふきつめ一重、二重、三重色々に大りんにさく也。凡花数七色斗にさく也。世上の桜終わりて少あいだ有てやうやうさく。花のさかり年により四月へかゝる也。</p>

</blockquote>

<p>とあり、かなり大きな桜のことが書かれており、他の場所からも花見の客が多くあり、うたを詠ったりしていた様子などが書かれています。<br />
しかし、鎌倉権五郎景政のことについては一言も書かれてはおらず、鞭桜の伝説はいつ頃から語られ始めたかについてはわかっていません。</p>

<p>文珠寺跡の五良墓地から、愛宕神社前のＹ字路に戻り愛宕神社の鳥居をくぐり抜け、愛宕神社入り口の道標まで戻ります。</p>

<p><img alt="上代・長熊あたりの図" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/kamidai_nagakuma_zu.jpg" width="550" height="387" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>上代・長熊あたりの図。</p>

<p>愛宕神社入口の道標から左（東、麻賀多神社からだと直進）に４０メートルほどの右側、民家と小高い丘（後ろ向きの神社がある）との間に細い道があり、ここを３０メートルほど進むと道は左に曲がり、さらに３０メートルほど進むと鳥居があります。</p>

<p><img alt="和田村　上代　権現谷　熊野神社　鳥居" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/kamidai_kumanojinja_iriguti.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>和田村　上代　権現谷　熊野神社　鳥居。（佐倉市上代）</p>

<p>両部鳥居とも権現鳥居ともいわれる形の鳥居があり、鳥居の左（西）のすこし奥まったところ大木の手前に石祠があり、正面に「神武天皇」、左側面に「明治十□年十一月吉日」とあり、この石祠の左側同じく大木の手前に石祠があり、正面の右に「大正八年五月」、正面の真中に「天満宮」とあり、この石祠からやや左後ろのほうに竹で囲まれた中に石塔があり、これは社日塔でこのあたりでは「五社さま（五社大神）」と呼ばれていますが、五角柱の形をしていて各面に「埴安媛命、倉稲魂命、天照大神、大己貴神、少彦名命」が刻まれていて、この五神を五穀豊穣の神として豊熟を祈ったとされています。<br />
社日塔から参道を隔てて、南側の崖手前にもう一つ石祠があり、正面の右に「大正八年五月」、正面の真中に「疱瘡神社」とあります。</p>

<p>大正八年は１９１９年。<br />
□は文字が判読できないところで、神武天皇の石祠の年代については、明治十年代としかわかりませんが、明治十年代は１８７７～１８８６年までの間。</p>

<p>鳥居から階段を上ると拝殿があります。</p>

<p><img alt="和田村　上代　権現谷　熊野神社" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/kamidai_kumanojinja.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>和田村　上代　権現谷　熊野神社。（佐倉市上代）</p>

<p>千葉県下総国印旛郡神社明細帳には</p>

<blockquote>

<p>村社<br />
熊野神社<br />
一　祭神　伊邪那伎命<br />
一　由緒　不詳<br />
一　社殿間数　間口九尺　奥行九尺<br />
一　境内坪数　百四拾坪　官有地第一種<br />
一　境内神社　貳社<br />
疱瘡神<br />
祭神　大汝彦名命<br />
由緒　不詳<br />
建物　石宮<br />
五穀成就社<br />
祭神　倉稲魂命<br />
由緒　不詳<br />
建物　間口六尺　奥行六尺</p>

</blockquote>

<p>とあり、千葉県印旛郡誌もほぼ同様の内容ですが、疱瘡神の祭神が「少汝彦名命」になっていて、千葉県神社名鑑には</p>

<blockquote>

<p>祭神　伊邪那岐命（いざなぎのみこと）<br />
例祭日　一〇月一五日<br />
主要建物　本殿・瓦葺寄棟造四坪<br />
境内坪数　二六八坪<br />
氏子　二五戸　宮司　＊＊＊＊<br />
由緒沿革　創祀年代等明らかでない。天保一四年佐倉藩士奉納の篇額がある。</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>天保十四年は１８４３年。</p>

<p>千葉県下総国印旛郡神社明細帳にある大汝彦名命と、千葉県印旛郡誌にある少汝彦名命は、おそらく大汝命と少彦名命の二人の神様のことと思われますが、「少」と「大」を単に間違えだけなのかもしれません。</p>

<p>拝殿（本殿）はちょうど丘の一番上にあるのですが、この神社のあるところは上代権現谷１号墳と呼ばれる古墳上にあり、直径約１０mの円墳であることが確認されています。<br />
このあたりは、この熊野神社のある権現谷１号墳、長熊廃寺跡や愛宕神社・五良神社、そして文珠寺跡も含めて大小の古墳の群集する古墳群であったことが知られています。<br />
熊野神社も、古墳だと言われないとただの丘としか見えませんが、このような小高い古墳はこのあたりにおそらくまだあるものと思いますが、籔地になっていたりしてその存在が知られずにひっそりとあるのではないかと思います。<br />
熊野神社の拝殿（本殿）を右に回ると下に児童公園があり、さらに進んで道路側（勝田道側）には出羽三山供養塔が３基あります。</p>

<p><img alt="和田村　上代　権現谷　熊野神社　裏側（勝田道側）　出羽三山供養塔" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/kamidai_kumanojinja_ushiro.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>和田村　上代　権現谷　熊野神社　裏側（勝田道側）　出羽三山供養塔。（佐倉市上代）</p>

<p>勝田道側に熊野神社の後ろが向いているのは勝田道側が北で、通常神社は南向に建てられるので、勝田道ではない谷（南）に向いているわけです。<br />
熊野神社のあるところを権現谷というのは、熊野神社は明治以前は熊野大権現と呼ばれていたことに由来すると思われますが、多輪免喜には「権現とは台地上に祀られてある熊野神社（古墳と思われる）のことで、その下方の谷をいう。」とあり、熊野神社前の谷（谷津）のことを言うのだとしています。</p>

<p>熊野神社から勝田道に戻るわけですが、もと来た鳥居側から参道を戻って出羽三山供養塔前に戻ってくるのもいいですし、そのまま勝田道側の階段を下りてもいいので、出羽三山供養塔前から進みます。</p>

<p>熊野神社裏の出羽三山供養塔（勝田道側）から４０メートルほどで右にカーブをしながら少し急な坂道になり、１９０メートルほど下ったところで左側から道が接続し、１０メートルほどで変形４差路になります。<br />
この変形４差路の左側に崖に上っていく舗装されていない道がありますが、この道は１０メートルほどのところで左右に分かれ、右の道を進んでいくと、<a href="http://sanpobokko.com/stroll_note/2010/07/post-121.php">成田街道（佐倉道）その１０９</a>で訪ねた五良神社の鳥居前に出ます。<br />
左の道は、今歩いてきた勝田道に沿うように崖上を進んでいますが、途中民家の敷地にぶつかり道が消滅していますが、この道が勝田道の旧道と思われ、現在の勝田道はいつ頃付け替えられたかはわかりませんが、南側の形状を見る限り、車用に切り通し道を作ったものと思われます。<br />
変形４差路の左の舗装された道の南東角には土地改良の記念碑があり、もともとは湿地帯であったところを田圃に改良したようです。<br />
この舗装された道を真っ直ぐ進んでいくと、酒々井町本佐倉のパークアベニュー佐倉成城台の下の谷津に沿って北に向かい、約１．５キロメートルほどで国道２９６号線にたどり着き、酒々井町上本佐倉の清光寺脇を通り佐倉道（成田街道）に接続します。<br />
この道は五良道と呼ばれている古道であり、変形４差路から舗装されていない道へと続き五良神社もしくは文珠寺への参詣の道として使われていたと考えられます。</p>

<p>変形４差路から南の道を８０メートルほど進むと橋があり、橋を渡るとすぐにゆるい坂道（上り）になり、９０メートルほどのところで左（北）に曲がり急坂を９０メートルほど上ると国道５１号に接続します。<br />
国道５１号の南側に渡り（ここは信号がないので、車に注意して渡る）、渡った少し南側に坂道がありここを１６０メートルほど下るとＹ字路があり、このＹ字路の右下から来る道との接続する角あたりに折れた道標があります。</p>

<p><img alt="和田村　長熊　新堤と粟巣との境界　道標" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/nagakuma_nizutumi_dohyo.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>和田村　長熊　新堤と粟巣との境界　道標。（佐倉市長熊）</p>

<p>途中から折れており、とりあえず読んでみると正面であるほうから「正面　馬橋ヲ経テ南酒々井駅ニ至ル」、右側面は「此方　上代ヲ経テ佐倉町ニ至ル」、左側面に「此方　高岡ヲ経テ佐倉町ニ至ル」、裏面に「昭和八年参月長熊青年団」とあります。</p>

<p>昭和八年は１９３３年。</p>

<p>正面は角から見ると東に向う道（これから進む道、勝田道）を指し、この道を進むと現在のＪＲ総武本線の南酒々井駅前にたどり着きます。<br />
正面とあるほうから右側面（北面、今まで歩いてきた勝田道）を進むと熊野神社のある上代を通って佐倉本町に出て、佐倉道（成田街道）を通って佐倉新町にたどり着き、左側面（南面）を進むと養福寺、白銀、高岡、要行寺を通り、旧堀田邸近くのへび坂上で南年貢道に接続して佐倉新町にたどり着きます。</p>

<p>道標から勝田道を指示に従って１６０メートルほど道なりに進むとＹ字路があり、Ｙ字路の左側り水路と民家の間に馬頭観音があります。</p>

<p><img alt="和田村　長熊　新堤と酒々井町　本佐倉　新堤との境　馬頭観音" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/nakuma_nizutumi_batokannon.jpg" width="233" height="350" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>和田村　長熊　新堤と酒々井町　本佐倉　新堤との境　馬頭観音。（佐倉市長熊と酒々井町本佐倉の境）</p>

<p>正面の右に「寛政七夘年　右なりたなめ川　（以下埋没していて読めず）」、正面の真中に「馬頭觀音　（手前に境界標があるためこの下読めず）」、正面の左に「十一月吉日　左さくらミち」、正面の下に「施主　（以下埋没していて読めず）」とあります。</p>

<p>寛政七年は１７９５年。<br />
「夘年」の「夘」は、「卯」の文字のことと思われ、「なりた」の「なり」の二文字と「さくら」の「ら」はくずし文字で書かれています。<br />
下部の埋没しているところは、現在佐倉市と酒々井町の境界標が２つ並んであり、「施主」以外の文字が読めませんが、「右なりたなめ川」の下には「ミち」か「道（おそらくくずし文字）」があったものと思われ、「施主」の左右にあった文字については、和田の伝承に「本佐倉村中　本町中　施主　長熊中」とあったことが書かれています。</p>

<p>新堤の馬頭観音あたりについて、歴史の道調査報告書には</p>

<blockquote>

<p>勝田道を更に進んで国道五一号を横切り、水田の前におりると、長熊新堤である。二軒の家の間に高さ九六㎝幅三九㎝の馬頭観音の文字碑が建っている。右側に「寛政七夘年右なりたなめ川大佐倉本町中」左側に「十一月吉日さくらミち施主長」とある。二軒とも茶屋で、特に右側の「みはらし屋」には女も置いて接待したと伝えられている。</p>

</blockquote>

<p>とあり、銘文について記述があり、ほぼ正確に書き出していることがわかります。<br />
歴史の道調査報告書には二軒の家の間となっていますが、現在は二軒の間というよりは、水路と後の民家と鉄板とに挟まれたところにあり、報告書にあるような古くからある建物はすでになく、新しく建てた民家になっていますが、右側にはまだ古い壁が少し残っていて、これがおそらく「みはらし屋」であった建物の一部であると思われます。（平成２１年［２００９］時点）</p>

<p>このあたり「新堤」という小字なのですが、これについて多輪免喜には</p>

<blockquote>

<p>新堤（にいづつみ）</p>

<p>江戸時代佐倉藩では戦など起こった場合に備えて、ここから高岡の大崎下・鏑木等を経て佐倉城の堀に用水を送っていたという。そのため高崎川ら堤を築き平時は水田の灌漑などに利用したりするという、一石二鳥の効果をねらって、ここに新しく堤を築いたという。古地図には佐倉城の三味線堀までの水路が記載されている。</p>

</blockquote>

<p>とあり、ここに堤防を新たに築いたので「新堤」となったようです。<br />
現在の高崎川のかなり小高い堤防は江戸時代にすでに作られ、現在も堤防の散策や花見の道などなって活用されています。</p>

<p>馬頭観音から来た道を戻り、本町の電気屋さんのところまで戻ります。</p>

<p>ということで、今回はここまで。</p>

<p>参考文献は、「歴史の道調査報告書　成田街道」、「佐倉市史」、「千葉県下総国印旛郡寺院明細帳」、「千葉県下総国印旛郡神社明細帳」、「千葉県印旛郡誌」、「千葉県神社名鑑」、「佐倉市誌資料」、「佐倉の歴史を学ぶ　資料集」、「多輪免喜」、「佐倉風土記」、「佐倉文庫」、「古今佐倉真佐子」、「新佐倉真佐子　－佐倉のお茶の間風土記－」、「ふるさとの石仏」、「佐倉町二十五年誌」、「新道々の記」、「佐倉細見」、「大蛇中芝遺跡・大蛇瓜作遺跡」、「下総へんろ佐倉八十八ヶ所札所」、「大蛇麻賀多脇遺跡」、「千葉県の歴史　資料編」、「佐倉市長熊廃寺跡確認調査報告書」、「酒々井町史」、「千葉県所在古墳詳細分布調査報告書」、「房総の道標」、「和田の伝承　－佐倉市和田公民館－」より。</p>

<p>引用は各文献と各社寺の説明板、地域の説明板より。</p>

<p>今回の地図は<a href="http://sanpobokko.com/kaido_image/sakuramichi_6.jpg">「佐倉道６」</a>です。</p>

<p>国土地理院２５０００分の１「佐倉」より作成しています。</p>]]>
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    <title>成田街道（佐倉道）その１０９</title>
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    <published>2010-07-16T13:09:53Z</published>
    <updated>2010-07-23T11:07:25Z</updated>

    <summary>佐倉道　麻賀多神社（千葉県佐倉市大蛇町）から勝田道を寄り道して、愛宕神社手前のＹ字路（千葉県印旛郡酒...</summary>
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        <name>nobo</name>
        
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://sanpobokko.com/stroll_note/">
        <![CDATA[<p>佐倉道　麻賀多神社（千葉県佐倉市大蛇町）から勝田道を寄り道して、愛宕神社手前のＹ字路（千葉県印旛郡酒々井町本佐倉）まで</p>

<p><img alt="上代・長熊あたりの図" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/kamidai_nagakuma_zu.jpg" width="550" height="387" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>上代・長熊あたりの図。</p>

<p>麻賀多神社入口から左（南、電気屋さんからだと直進）に６０メートルほどいくと大蛇橋があり、その下を国道２９６号東西に走っていますが、もともと橋はなく、佐倉道（現行の成田街道、もと国道２９６号）の渋滞緩和のために平成７年に遺跡調査（大蛇麻賀多脇遺跡）がおこなわれた後に、国道２９６号が掘割されて大蛇橋が架けられました。<br />
大蛇橋を渡り２００メートルほど進むとＴ字路があり、Ｔ字の先の右側の民家の生垣にほぼ折れて埋まった状態の道標があります。</p>

<p><img alt="和田村　上代　平台　道標" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/kamidai_dohyo1.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>和田村　上代　平台　道標。（上代）</p>

<p>ほぼ文字は判読できなくなっており、一見コンクリートの柱としか見えない状態になっていますが、房総の道標には「高岡ヲ経テ佐倉駅ニ至ル　長熊八木方面　昭和七年上代青年団」とあったとあります。<br />
Ｔ字路の角にあったものと思われますが、道路拡張に伴い現在位置にあると思われます。<br />
Ｔ字路から南に続く道が、道標が指し示す「高岡ヲ経テ佐倉駅ニ至ル」道で、現在白銀ニュータウン（上代平台遺跡があった場所）になっている白銀を抜けて現在のＪＲ佐倉駅に続いていましたが、途中ニュータウンのために整地されてしまっているので、一部の古道は寸断されています。<br />
「長熊八木方面」は勝田道の道筋のことになるので、道標の指し示す道を進んでいきます。</p>

<p>道標から４０メートルほど左、道から一段低くなったところに神社があります。</p>

<p><img alt="和田村　上代　宮田　稲荷神社" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/kamidai_inarijinja.jpg" width="233" height="350" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>和田村　上代　宮田　稲荷神社。（上代）</p>

<p>由緒などはわかりませんが、屋敷神であるものと思われます。</p>

<p>稲荷神社から１５０メートルほどいくと左側に少し広い道のあるＴ字路があり、Ｔ字路の北東側に赤い鳥居の見える広場状になっているところがあります。<br />
その広場状になっているところの、右側の土手になっているところの道路側（斉藤工務店のすぐ近く）に、草むらの中に埋もれるように倒れたままの道標があります。</p>

<p><img alt="和田村　上代　華表脇　愛宕神社入口　道標" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/kamidai_dohyo2.jpg" width="233" height="350" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>和田村　上代　華表脇　愛宕神社入口　道標。（上代）</p>

<p>正面に「↓大蛇佐倉町ニ至ル」、右側面に「新堤馬橋方面ニ至ル」、左側面に「酒々井町方面ニ至ル　昭和七年上代青年団」とあります。</p>

<p>昭和七年は１９３２年。</p>]]>
        <![CDATA[<p>道標から広場に戻り鳥居のほうに進んでいくと、左側に庚申塔があります。</p>

<p><img alt="酒々井町　本佐倉　南大堀　本佐倉の庚申塔" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/motosakura_minamiohori_koshinto.jpg" width="233" height="350" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>酒々井町　本佐倉　南大堀　本佐倉の庚申塔。（酒々井町本佐倉）</p>

<p>庚申塔の手前あたりに佐倉市と酒々井町の境界線があり、この庚申塔は酒々井町側になります。<br />
正面には青面金剛とその両脇に童子もしくは地蔵、その下に邪鬼と三猿、右側面に「享保十乙巳年九月廿六日」、左側面に「本佐倉町拾八人講中二世安楽」とあります。<br />
庚申塔の左下には道祖神が２基あり、前にある道祖神の正面に「道祖神」、右側面は土まみれで判読できず、左側面に「鵜沢元□」とあり、後ろの道祖神は風化が進んでいるため文字は判読できません。</p>

<p>享保十年は１７２５年。<br />
□は判読できない文字ですが、調査時には道祖神全体と庚申塔の下部は土まみれになっていて、落とせば文字は判読できたと思われますが、そのままの状態で調査したので道祖神と庚申塔の台の部分の全ての文字を確認していません。</p>

<p>本佐倉の庚申塔と道祖神の左側に説明板があり</p>

<blockquote>

<p>酒々井町指定　有形文化財　本佐倉の庚申塔<br />
指定年月日　昭和五十二年三月二十九日<br />
所在地　酒々井町本佐倉字南大堀<br />
所有者　酒々井町本佐倉区</p>

<p>高さ一・〇三メートル<br />
この庚申塔は、本佐倉字南押出二一五〇番地の塚上にあったが、国道五一号線の拡張工事に当り、昭和四十九年十月、村人によって現在地に移されたものである。造立は庶民信仰の盛行した享保十年（一七二五）である。<br />
保存状態のよいこと、正統的な像造であること、造立者趣意が明確であることなどにより、町文化財の指定をうけている。</p>

<p>銘文　享保十年乙巳年九月廿六日　本佐倉町拾八人講中　二世安楽</p>

<p>平成三年三月<br />
酒々井町教育委員会</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>昭和五十二年は１９７７年、昭和四十九年は１９７４年平成三年は１９９１年。</p>

<p>銘文の「享保十年乙巳年九月廿六日」は「享保十乙巳年九月廿六日」で、「年」が一つ多くあり印刷ミスか記載ミスと思われます。</p>

<p>庚申塔の右側に遷座碑があり</p>

<blockquote>

<p>遷座碑</p>

<p>庚申道祖両神は本佐倉南押出し二一五の二番地に鎮座せるも一般国道五一号線改築酒々井バイパス工事の爲此の地に遷座す<br />
昭和四十九年十月吉日建之　本佐倉区<br />
豆徳り</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>庚申塔と道祖神共に、現在佐倉成城台と呼ばれている住宅地があり、その南側の入口に成城台南口交差点がありますが、交差点から南に１５０メートルほど進んだ右側（西側、少しいくと谷津になる）あたりに、現在も少し小高くなった場所がありますが、ちょうど歩道の当りから車線の中央にかけて塚があり、その塚に本佐倉の庚申塔と道祖神が祀られていました。<br />
現在の場所からだと北東に直線で７００メートルほどの位置になります。<br />
遷座碑にある「豆徳り」というのは、どういう意味があるのか定かではありませんが、遷座碑の前には確かに「豆徳り」が置かれていて、この事を指しているものなのか、この碑文を刻んだ人が「豆徳り」と名乗っていたのか、そこのところがわかっていませんが碑文に「豆徳り」とあるのははじめて見ました。</p>

<p>本佐倉の庚申塔から進むと、大きな鳥居があります。</p>

<p><img alt="酒々井町　本佐倉　南大堀　愛宕神社　入口" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/motosakura_atagojinja_irigu.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>酒々井町　本佐倉　南大堀　愛宕神社　入口。（酒々井町本佐倉）</p>

<p>ここからが愛宕神社の参道になりますが、この参道の右側にもう一本道があり、この右側の道が酒々井町と佐倉市との境界線になっています。<br />
現在は民家への通り道となっていて、途中の部分は一部籔化していて通行しにくくなっていますが、もとは愛宕神社の参道と同じく、裏参道（この先には五良神社と長熊廃寺跡がある）として機能していたものと思われます。<br />
愛宕神社の鳥居から参道を１００メートルほど進んだあたり左側に「住居の址」とある石柱があり、そこから４０メートルほどのところに十字路があります。<br />
この十字路の右のほうには新しい鳥居が見えますが、これは五良神社の入口で、その鳥居までの中間当りに、先ほどの裏参道の道が接続してきていて、その道を進んだところには長熊廃寺の跡の石碑があります。<br />
まずは、十字路を３０メートルほど直進（東）するとＹ字路があり、左に道が分かれていますが、ここも直進し４０メートルほどで神社があります。</p>

<p><img alt="酒々井町　本佐倉　南大堀　愛宕神社" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/motosakura_atagojinja.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>酒々井町　本佐倉　南大堀　愛宕神社。（酒々井町本佐倉）</p>

<p>千葉県下総国印旛郡神社明細帳には</p>

<blockquote>

<p>無格社<br />
愛宕神社<br />
一　祭神　加茂建角命<br />
一　由緒　不詳<br />
一　社殿間数　間口三間　奥行貳間<br />
一　拝殿間数　方壱間<br />
一　境内坪数　七百四拾九坪　官有地第一種</p>

</blockquote>

<p>とあり、千葉県印旛郡誌では其他の神社のところに、小さく同じ内容であるので省略します。</p>

<p>千葉県神社名鑑には</p>

<blockquote>

<p>祭神　火具土命（かぐつちのみこと）<br />
例祭日　一〇月一五日<br />
主要建物　本殿・銅板葺流造三坪<br />
境内坪数　八〇八坪<br />
氏子　一五戸　宮司　＊＊＊＊<br />
由緒　明治以前は将軍地蔵と称号した。文明年間、千葉介一九代輔胤が本佐倉城を築いたころ創祀とされる。</p>

</blockquote>

<p>とあり、酒々井町史には</p>

<blockquote>

<p>愛宕神社（無格社）は本佐倉字南大堀にあり、本佐倉の鎮守である。佐倉市長熊・上代と境を接した地にあり、長熊の五良神社と上代の熊野神社は、ともに至近の地である。境内地は広く、参道はうっそうと繁った杉並木で約二〇〇メートルの長さを持つ。境内地の一部は奈良時代の寺院、長熊廃寺と複合しており、古代文化の栄えた地として知られている。社殿は明治初期のものと推定されるが、流造り、欅材を用い、彫刻を含めて神社としては当町屈指の建造物である。<br />
祭神　加茂建角命・火具土命・将軍地蔵<br />
建造物　本殿　流造り　間口六尺　奥行五尺五寸<br />
&emsp;&emsp;&emsp;&ensp;丹塗り両部鳥居<br />
境内　九四九坪（宗法台帳）<br />
氏子数　四五戸</p>

<p>中略</p>

<p>由緒　神仏混交時代は愛宕山文珠寺に属し、将軍地蔵とも称したる事ある由伝う。現在神殿は同時代のものの如く古色蒼然たり。尚文珠寺は中古暴風雨にて破損廃寺となる（神社庁台帳）。<br />
合祀社　なし</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>文明年間は１４６９～１４８７年の間、明治初期は１８６８～１８７７年の間。</p>

<p>祭神が千葉県下総国印旛郡神社明細帳と千葉県神社名鑑とは異なっていて、加茂建角命は農耕の神様（賀茂建角身命のことで、京都下鴨神社の東殿の祭神）、火具土命はその名のとおり火の神様（伊弉諾命と伊弉册命の子）で、愛宕神社は火防の神でもあるので火具土命が祭神としてあり、どちらも土（土地）に関係している神様なので、同等神と思われていたのかもしれません。<br />
将軍地蔵は、地藏菩薩の本地垂迹の神である愛宕神であり、庚申信仰と習合した形で将軍地蔵が祭神としてあてられているものと思われます。</p>

<p>愛宕神社は一段高い基壇の上にあり、階段を上ると左右に古い燈籠があり、少し進むと下に石畳があります。</p>

<p><img alt="酒々井町　本佐倉　南大堀　愛宕神社　石畳" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/motosakura_atagojinja_shiki.jpg" width="233" height="350" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>酒々井町　本佐倉　南大堀　愛宕神社　石畳。（酒々井町本佐倉）</p>

<p>この石畳は、石棺の遺材を使って敷かれていますが、石棺ということはこのあたりに古墳もしくは墳丘、または墓地があったことを示すものですが、どこから出土したものかについてははっきりしていませんが、この辺りも古墳が多くあるのでその中のものの一つであると思われます。<br />
ただし、古い時代に見つかったものであると思われるのは、このあたりの発掘調査報告書や古文書には載せられていないからです。<br />
石畳のすぐに本殿（社殿）があり、向拝の柱には梵字が左右各１０文字ずつあります。</p>

<p><img alt="酒々井町　本佐倉　南大堀　愛宕神社　本殿　向拝" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/mosakura_atago_kohai.jpg" width="233" height="350" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>酒々井町　本佐倉　南大堀　愛宕神社　本殿　向拝。（酒々井町本佐倉）</p>

<p>本殿（社殿）の左側後の脇障子には小天狗、右側後の脇障子には大天狗が彫られており、本殿（社殿）全体に彫物で装飾が施されていて、どちらかというと霊廟や霊台といったお堂のような感じがします。</p>

<p><img alt="酒々井町　本佐倉　南大堀　愛宕神社　小天狗" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/motosakura_atago_kotengu.jpg" width="233" height="350" class="mt-image-none" style="" /><img alt="酒々井町　本佐倉　南大堀　愛宕神社　大天狗" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/motosakura_atago_otengu.jpg" width="233" height="350" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>酒々井町　本佐倉　南大堀　愛宕神社　本殿　脇障子。（酒々井町本佐倉、左が小天狗、右が大天狗）</p>

<p>愛宕神社について、古今佐倉真佐子には</p>

<blockquote>

<p>...此ばんば末右の方松山の内、丹塗木鳥井ある。その内愛宕ほこら有。かちう（甲冑）をたいし、せいりうとう（青竜刀）御持馬上のさいしきの像也。あたらしき也。いの猪を給（たべ）参ると、きわめてとがめ有。ある時、内海弥九郎、村井摠太夫、若林茂左エ門同道にて参りてくれぐれに各帰りしが弥九郎いづ方へ行しか見ざる故色々尋しが行へ不知。摠太夫、茂左エ門心付、右の愛宕へ尋行したに御神前にたわいなく寝入ていたるを引をこしつれ帰る也。内海いのしゝ給て、あいだなく行し故、如此のとがめ有也。開帳の節御像はいしたる也。...</p>

</blockquote>

<p>とあり、愛宕神社に来る前に、猪を食べると愛宕神社の祭神から咎めがあるとあります。<br />
当時（江戸時代）は、獣肉（猪や鹿、熊など）を食べることを禁止している時代で、禁を犯して食べてはいけない、食べるとさわりがある、ということを古今佐倉真佐子の中で教えていたのではないかと思われます。</p>

<p>愛宕神社から十字路まで戻り、左（南、愛宕神社入口からだと右）に１０メートルほどのところに２つ目の十字路があり、右（西）に道がありますが、この道は裏参道（佐倉市と酒々井町の境界線）で愛宕神社入口の後から参道と並行してここに出てきて、十字路の左（東）に進む道は、このまま１５０メートルほどありますが、途中からは籔になり道はなくなります。<br />
２つ目の十字路（ここから佐倉市に戻る）を直進（南）に３０メートルほど進むとＴ字路があり、Ｔ字路の右（東）に鳥居があります。</p>

<p><img alt="和田村　長熊　五良　五良神社入口" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/kamidai_goryojinja_iriguti.jpg" width="233" height="350" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>和田村　長熊　五良　五良神社入口。（佐倉市長熊）</p>

<p>鳥居から参道が東に進み、参道を１０メートルほど進んだ左側の少し小高くなったところに石碑があります。</p>

<p><img alt="和田村　長熊　五良　長熊廃寺の址の碑" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/kamidai_nagakumahijiato.jpg" width="233" height="350" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>和田村　長熊　五良　長熊廃寺の址の碑。（佐倉市長熊）</p>

<p>石碑の正面の真中に「長熊廃寺の址」、正面の右に「史蹟　昭和■■■年　指定」、正面の左に「昭和三十三年長熊区」とあります。</p>

<p>■は文字がありますが、なぜか消されているために読めないところです。</p>

<p>石碑の右側に説明板があり</p>

<blockquote>

<p>千葉県指定　長熊廃寺跡<br />
昭和四十二年三月七日指定</p>

<p>北総台地に所在する数少ない古代寺院のひとつである。<br />
昭和二十六年から三十二年にかけて、立正大学により発掘調査が実施され、金堂・塔・中門・南大門・回廊の跡が確認された。<br />
伽藍配置は、塔を東に金堂を西にした「法起寺式」である。<br />
建立年代は出土した瓦や土器の年代から、奈良時代であることが推定される。<br />
和名抄に「印旛郡長隈郷」とあることから、この地方の寺と考えられる。</p>

<p>昭和五十六年二月四日　千葉県教育委員会<br />
&emsp;&emsp;&emsp;&emsp;&emsp;&emsp;&emsp;&ensp;&emsp;&emsp;&emsp;佐倉市教育委員会</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>昭和二十六年から昭和三十二年は１９５１年～１９５７年、昭和五十六年は１９８１年。</p>

<p>説明板が立てられた昭和５６年では、説明板にあるようにかなり大掛かりな古代寺院がここにあったとしていますが、昭和６１年の発掘調査時には、それほど大掛かりなものではないようであるとみています。</p>

<p>千葉県の歴史資料編によると</p>

<blockquote>

<p>本廃寺が知られるようになったのは、第２次世界大戦後のことである。文献１によれば、１９４７（昭和２２）年に佐倉市本町在住の目等清（めらきよし）がこの付近で布目瓦を採集し、北詰栄男（きたづめひでお）に持参したのが発端だったようである。その後、立正大学の学生が現地を訪れ瓦塔片を採集したことから発掘調査の気運が盛り上がり、本格的な発掘調査が行なわれたのは１９５１（昭和２６）年８月だった。以降、数回、久保常晴・丸子亘（まるこわたる）の指導のもと、立正大学の学生により遺構の発見および寺域の確認を目的として発掘調査が繰り返された。また、地元の高校も発掘調査を実施しているようであるが、詳細は不明である。発掘調査後には地元長熊区住民の協力により基壇の盛土も復元されて、保護されてきた。その後、この遺跡の重要性を重視した千葉県教育委員会では、１９６７（昭和４２）年３月７日に県史跡に指定した。しかし、過去に発掘調査は行なわれてはいるものの、古代寺院としては実態が不明な点が多かったので、千葉県教育委員会では県内古代寺院跡確認調査の一環として本廃寺の調査を（財）千葉県文化財センターに委託し、１９８６（昭和６１）年１１月に発掘調査が実施された。</p>

<p>［文献１　久保常晴ほか「千葉県印旛郡長熊廃寺址発掘調査報告」『銅鐸』第９号　立正大学考古学会　１９５２年］</p>

</blockquote>

<p>とあり、再度発掘調査がされています。</p>

<p>佐倉市長熊廃寺跡確認調査報告書によると、石碑の建っている基壇部分について</p>

<blockquote>

<p>先の調査では、この基壇を伽藍中心の金堂跡と考えていた。しかし、本廃寺跡には基壇を伴うような建物跡は１堂のみであり、周辺からは瓦塔片も出土しているので、この建物は、その内に瓦塔を安置した「お堂」であったろうと推測するに留める。</p>

</blockquote>

<p>とあり、金堂が石碑の位置にはなく、お堂があったとしています。<br />
基壇の北側には瓦が大量に出土しており、ここから７世紀後半代の土器や瓦が出ていますが、その周りにはいくつかの土壙（大穴）があって、この土壙（大穴）は基壇を造る時に掘られたものらしく、佐倉市長熊廃寺跡確認調査報告書には「大量の瓦や完形の瓦等は、建物の修理で不要になったか倒壊時に投棄されたものと思われるので、...」とあるので、それらの捨場として使われていた可能性があるとみているようです。<br />
基壇の西側３０メートルほどのところで見つかった溝の中から「髙<img alt="岡の旧字" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/oka_kyuji.gif" width="14" height="14" class="mt-image-none" style="" /> 寺」と墨書のある土器が出土していて、当時、長熊廃寺が「髙<img alt="岡の旧字" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/oka_kyuji.gif" width="14" height="14" class="mt-image-none" style="" /> 寺」と呼ばれていた可能性もありますが、佐倉市長熊廃寺跡確認調査報告書では「最近の発掘調査で、現在残る地名を付けた寺銘墨書土器が若干出土している。［寺］の墨書の上に文字があっても、それが一概に地名とは限らない。しかも、当時の地名が、現在まで全て残っているとは、考えられないので、地名と寺名画一致することは、さらに少なくなる。」とあり、長熊廃寺が「髙<img alt="岡の旧字" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/oka_kyuji.gif" width="14" height="14" class="mt-image-none" style="" /> 寺」であるとは限らないとしています。<br />
千葉県の歴史資料編には「そこから［髙<img alt="岡の旧字" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/oka_kyuji.gif" width="14" height="14" class="mt-image-none" style="" /> 寺］の墨書がある土器が出土しており、本廃寺と関連がある可能性もある。」としています。<br />
佐倉市長熊廃寺跡確認調査報告書では、上記のような記述の他に「そこで、問題となるのが、地名を付けた寺院の性格である。寺名に地名を付ける点から、その造営母体は、公的機関ではなく、ある程度限られた地域に根ざして造営されたことを示しているのではなかろうかと考える。」とあり、古代は「印旛郡長隈郷」と呼ばれていた地域の中心であって、そこに長熊廃寺があったと考えられますが、「長隈郷」の範囲がどこまであったのかはわかっておらず、さらに、この長熊と上代・高岡をも含んで「長隈郷高<img alt="岡の旧字" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/oka_kyuji.gif" width="14" height="14" class="mt-image-none" style="" /> 」と呼んでいたとも考えられ、そうであればこの長熊廃寺のことを「髙<img alt="岡の旧字" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/oka_kyuji.gif" width="14" height="14" class="mt-image-none" style="" /> 寺」と呼び、土器に寺の名を書いたとも考えられます。<br />
千葉県印旛郡誌では「高岡上代長熊は十大區一少區に他は十大區四少區に編入し...」とあり、高岡上代長熊は３地域を合わせて一区としているところをみると、古代からはやりまとまった地域であったとの認識があったものと思われます。</p>

<p>石碑から五良神社の参道に戻って左（東、五良神社入口からだと直進）に５０メートルほど進んだ左の少し高いところに「中門の址」とある石柱があり、ここから参道を２０メートルほど進んだ左に出羽三山参拝記念塔があり、さらに２０メートル歩と進むと神社があります。</p>

<p><img alt="和田村　長熊　五良　五良神社" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/kamidai_goryojinja.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>和田村　長熊　五良　五良神社。（佐倉市長熊）</p>

<p>千葉県下総国印旛郡神社明細帳には</p>

<blockquote>

<p>村社<br />
五良神社<br />
一　祭神　不詳<br />
一　由緒　不詳<br />
一　社殿間数　間口五尺　奥行四尺<br />
一　境内坪数　貳百七拾坪　官有地第一種</p>

</blockquote>

<p>とあり、千葉県印旛郡誌では、その他の欄に同じ内容で記されているので省略します。<br />
千葉県神社名鑑には</p>

<blockquote>

<p>祭神　五良大神（ごりょうのおおかみ）<br />
例祭日　一〇月一五日<br />
主要建物　本殿・銅板葺流造一坪、拝殿・瓦葺切妻造五坪<br />
境内神社　浅間神社<br />
境内坪数　四一七坪<br />
氏子　二一戸　宮司　＊＊＊＊<br />
由緒沿革　創祀年代等明らかでない。境内地は県指定史跡「長熊廃寺跡」である。ちなみこの寺は奈良時代末の建立とされる。</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>奈良時代末は、７８０～７９４年の長岡京遷都から平安京遷都の間くらい。</p>

<p>千葉県神社名鑑にある「五良大神（ごりょうのおおかみ）」とは、おそらく鎌倉権五郎景政のことと思われ、景政の鞭桜として佐倉市史には</p>

<blockquote>

<p>前半省略</p>

<p>中でも大蛇にあったと伝えられる五色桜はおもしろい。<br />
今はなき文珠寺は、景政を祀る五良神社の隣に建立されたもので、その境内に、めぐり一丈、十二・三間四方に枝の繁った桜の大木があった。花のころには人々が群集し、そのために寺も栄えたのだといわれている。<br />
そしてこの桜の由来はこうである。<br />
昔、鎌倉権五郎景政は、殊のほか武勇に優れ、敵のために目に箭を射られたが、七日七夜の間、敵を追い、ここに来て鞭を地にさし、しばらく休んだが、やがてその鞭を忘れたままこの地を去った。その鞭が桜であったので、そのまま活きて枝を生じ、八重桜の花が逆さに咲いた。それは鞭を逆さにさしたためだという。<br />
また一説には、この花は五つ色に咲いたので、あるいは鞭桜といい、また別に五色桜とも伝えている。<br />
権五郎景政の伝説は、特に東北に多いが、目の傷を洗った池や、その時血が流れて清水に混じったので、そこにすむ魚も皆片目だとかいうのが多いのである。ひとりここ大蛇だけが、そんな池や魚ではなく、成長する鞭桜となっているのはおもしろく、珍しいことである。</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>ということは、五良神社は文珠寺よりも古くからあったということになり、少なくとも千葉氏が文珠寺を建立する以前、文明年間以前（本佐倉城築城あたり）だったと考えられますが、「鎌倉権五郎景政は、殊のほか武勇に優れ、敵のために目に箭を射られたが、七日七夜の間、敵を追い、ここに来て鞭を地にさし」とあるように、「敵のために目に箭を射られた」という戦いは、後三の役（奥州での清原氏と源義家との戦い）のことであるわけですが、問題は、奥州（戦域は宮城県・岩手県・秋田県に及んだ）からこの佐倉まで敵を追いかけてきた、ということで、これはおそらくありえないことだと思われます。<br />
あったとして、下総国での関東武者同士の小競り合いに出撃してここまで追いかけてきた、という話ならありうると思われますが、鎌倉権五郎景政の武勇が後三の役で響きわたったため、その武勇と後の戦の時のことが合わさってしまった、とも考えられます。<br />
ただし、実際に鎌倉権五郎景政がここまで来たかどうかについては、定かではありません。</p>

<p>文明年間は１４６９～１４８６年の間で、後三の役は永保三年（１８０３）～寛治元年（１０８７）までの戦いで、この後、奥州藤原氏が台頭してきます。</p>

<p>「ごりょうじんじゃ」というと、すぐに思い当たるのが神奈川県鎌倉市長谷にある御霊神社（通称権五郎神社）ですが、ここにも鎌倉権五郎景政が祭られており、鎌倉氏由縁の神社でもあります。<br />
そのほか「五郎神社」とかいている神社もありますが、そのほとんどが「源正霊神（鎌倉権五郎景政公霊）」として祭っているところが多いのですが、どの神社も鎌倉権五郎景政の武勇を称え、戦国時代ではおそらく戦勝、現在では学業成就や必勝招来など、物事が成就するとして信仰されているようです。</p>

<p>このようにみてみると、鎌倉権五郎景政も平氏、千葉氏も平氏であり、しかも武勇に優れた同族の人物を信仰したということは、戦国時代（あるいはそれ以前から）にはあったものと考えられ、長熊廃寺の故地に何らかの理由で建てられたのではないかと考えられます。</p>

<p>千葉県神社名鑑にある「境内神社　浅間神社」は、２００９年（平成２１年）から２０１０年（平成２２年）までに行なわれた、参道と社殿と拝殿のあたりの改修工事後には付近には見当たらず、おそらく社殿に合祀されているものと思われます。</p>

<p>多輪免喜のなかの、和田村長熊字五良の地名由来のところに「五良は御霊の転ではなかろうか。」とあり、備考欄には「御霊とは霊魂の尊敬語。のちに尋常でない、祟りをあらわす「みたま」についていった、各地にある五良塚もこの転か。（広辞苑）」とあり、「千葉介親胤が暗殺されたという「大蛇社」とはこのあたりではないだろうか。」とあります。<br />
確かに「御霊」から「五良」への転化ということもあると思われますが、そうすると先に歩いた佐倉市弥勒町にある字五良台も同じく「御霊台」であったということにもなるわけで、この説でいくと佐倉市弥勒町や本町、大蛇町、大佐倉、酒々井町本佐倉、上本佐倉、酒々井といったところは、平良将（平将門の父）の初めの本拠地（後に市川あたりが本拠地になる）であったところであり、しかも、将門が若かりしころにはこのあたりに住んでいたとも考えられ、将門の乱後に将門神社が建てられたり、将門伝説が多く残る土地柄であり、将門の霊を沈めるために「御霊」塚もしくは「御霊」神社を各々の場所に造ったり建てたりしたということも考えられます。<br />
それとは別に千葉親胤の暗殺されたところが、このあたりではないかと多輪免喜であるのは、和田村が成立する以前にはこのあたりは大蛇村の中に含まれていたのではないか思われ、佐倉市史の文珠寺のところには「大蛇」とあることから、麻賀多神社ではなく五良神社もしくは愛宕神社を「大蛇社」と呼んでいたのではないかと、考えたのではないかと思われます。<br />
どちらにしても、「大蛇社」には大杉があったことは確かで、それが麻賀多神社にあった大杉なのか、この辺りにある大杉のことなのかそれは定かではありません。</p>

<p>五良神社から五良神社の鳥居まで戻り愛宕神社近くの十字路まで戻りますが、Ｔ字路の左（南、十字路からだと直進）にかなり籔化が進んできている道がありますが、この道も古道で２３０メートルほど進むと谷津に出て、勝田道に合流します。<br />
その途中谷津に下りはじめる左側に、崖状に少し崩落しているところがあり、その前に丘らしきものがあり、これは長熊廃寺発掘調査では塚として確認されているものですが、おそらくこのあたりに数多くあったとされる古墳のひとつと思われます。<br />
ただし、ここあたりは籔化も進んでおり、さらに崖の崩壊も進んでいるので、五良神社の南側には古墳群らしきものがあったということだけ思い出してください。</p>

<p>愛宕神社近くの十字路に戻り、さらに愛宕神社手前のＹ字路に戻り、左斜め（北）の道を進んでいきます。</p>

<p>ということで、今回はここまで。</p>

<p>参考文献は、「歴史の道調査報告書　成田街道」、「佐倉市史」、「千葉県下総国印旛郡寺院明細帳」、「千葉県下総国印旛郡神社明細帳」、「千葉県印旛郡誌」、「千葉県神社名鑑」、「佐倉市誌資料」、「佐倉の歴史を学ぶ　資料集」、「多輪免喜」、「佐倉風土記」、「佐倉文庫」、「古今佐倉真佐子」、「新佐倉真佐子　－佐倉のお茶の間風土記－」、「ふるさとの石仏」、「佐倉町二十五年誌」、「新道々の記」、「佐倉細見」、「大蛇中芝遺跡・大蛇瓜作遺跡」、「下総へんろ佐倉八十八ヶ所札所」、「大蛇麻賀多脇遺跡」、「千葉県の歴史　資料編」、「佐倉市長熊廃寺跡確認調査報告書」、「酒々井町史」、「千葉県所在古墳詳細分布調査報告書」、「房総の道標」より。</p>

<p>引用は各文献と各社寺の説明板、地域の説明板より。</p>

<p>今回の地図は<a href="http://sanpobokko.com/kaido_image/sakuramichi_6.jpg">「佐倉道６」</a>です。</p>

<p>国土地理院２５０００分の１「佐倉」より作成しています。</p>]]>
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    <title>成田街道（佐倉道）その１０８</title>
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    <published>2010-07-05T12:18:45Z</published>
    <updated>2010-07-05T16:45:30Z</updated>

    <summary>佐倉道　電気屋さん（千葉県佐倉市本町）から勝田道に寄り道し麻賀多神社（千葉県佐倉市大蛇町）まで 電気...</summary>
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    <category term="佐倉市" label="佐倉市" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://sanpobokko.com/stroll_note/">
        <![CDATA[<p>佐倉道　電気屋さん（千葉県佐倉市本町）から勝田道に寄り道し麻賀多神社（千葉県佐倉市大蛇町）まで</p>

<p>電気屋さんの左（東）に道がありますが、この道は勝田道でこの先大蛇町、長熊、上代、新堤、下勝田と続いて、さらに八街市を経由して東金市まで続いています。</p>

<p>このあたりの図を載せます。</p>

<p><img alt="佐倉本町中宿から下宿あたりの図" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/motomachi_oojamachi_zu.jpg" width="450" height="329" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>本町中宿から下宿あたりの図。</p>

<p>電気屋さんから勝田道に寄り道し、左（南）に勝田道を３１０メートルほど進むと右側に空地があり、入口の右側に墓碑、左側の大木の横に子安塔、空地の奥の左（北）に大師堂があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　大蛇町　麻賀多脇　蓮蔵院跡　大師堂" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/oojamachi_renzoinato_daishi.jpg" width="233" height="350" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　大蛇町　麻賀多脇　蓮蔵院跡　大師堂。（大蛇町）</p>

<p>この蓮蔵院跡にある大師堂は、佐倉六崎組十善講（佐倉八十八ヶ所）によると第３０番札所ということになっていて、先に<a href="http://sanpobokko.com/stroll_note/2010/06/post-119.php">成田街道（佐倉道）その１０７</a>で訪ねた、常泉院跡にあった大師堂と同じ番号の札所ということになっています。<br />
ちょっとややこしいところですが、この佐倉の八十八ヶ所の札所にはいろいろあり、常泉院跡の大師堂は印旛組に属し、蓮蔵院跡の大師堂は六崎組に属している、ということのようです。</p>

<p><img alt="大蛇町　蓮蔵院跡　配置図" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/oojamachi_renzoinato_zu.gif" width="400" height="400" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>大蛇町　蓮蔵院跡　配置図。</p>

<p>千葉県下総国印旛郡寺院明細帳には</p>

<blockquote>

<p>中本寺吉祥寺末<br />
新義真言宗智山派　蓮蔵院<br />
一　本尊　弘法大師<br />
一　由緒　不詳<br />
一　本堂間数　間口三間半　奥行五間半<br />
一　境内坪数　三百四拾六坪　官有地第四種<br />
一　境内仏堂　壱宇<br />
観音堂<br />
本尊　観世音菩薩<br />
由緒　不詳<br />
建物　間口四尺四寸　奥行三尺五寸</p>

</blockquote>

<p>とあり、千葉県印旛郡誌にも同様の記載があるので省略します。</p>

<p>住職の記述のところに「大正十年八月十九日兼務」と「吉祥寺住職兼務」とあるので、この時点で吉祥寺の管理下に入り、その後昭和に入り吉祥寺に合併したものと思われますが、千葉県下総国印旛郡寺院明細帳に合併の記述がないところを見ると、戦後になってから少なくとも昭和４０年代までには、合併して蓮蔵院跡には大師堂と石造物が２基残されるのみとなったものと思われます。</p>

<p>大正十年は１９２１年、昭和４０年代は１９６５～１９７４年の間。</p>

<p>千葉県寺院明細帳や千葉県神社明細帳は、明治１２年前後に編纂され終戦後の昭和２０年、遅くとも昭和２５年までは使用されていましたが、その後のことについては明細帳には記述はありません。<br />
推測ですが、先に訪ねた常泉院も蓮蔵院と同じく吉祥寺の末寺であったので、常泉院が吉祥寺に合併した明治４３年もしくはそのあとくらいに、同じく吉祥寺に合併したのではないかと思われます。</p>

<p>明治１２年は１８７９年、昭和２０年は１９４５年、昭和２５年は１９５０年、明治４３年は１９１０年。</p>]]>
        <![CDATA[<p>蓮蔵院入口から入って左側に大木があり、その左側に倒れて斜めになっている子安塔（十九夜塔）と、宝篋印塔らしき石造物の石片があります。</p>

<p>子安塔（十九夜塔）の正面に真中には如意輪観音像、その上に欠損した文字らしき跡（おそらく九が入ると思われる）、正面の右に「十」、正面の左に「夜」、右側面に「■（文）■（化）■（元か九か）■（甲か申か）十一月吉日」、左側面に「大蛇　上代　村女人講中」とあります。</p>

<p>■は判読ししづらい文字で（）は入るであろう文字です。</p>

<p>「文化」は何とかわかるので、その二つしたの文字が「甲」であれば「文化元年」か「文化十一年」ですが、ここに入る文字は一文字なので、そうすると「文化元年」で１８０４年になり、「申」であれば「文化九年」で１８１２年。</p>

<p>この子安塔（十九夜塔）の反対側には墓碑があり、正面と思われるところに「（梵字）潭月澄静信女」、左側面に「文化□辛未天　奉供艱三十三回忌塔　十月吉日」とあります。</p>

<p>「文化□辛未天」の□には干支であわせると「八」が入り、文化八年となるので１８１１年。</p>

<p>この墓碑にはなぜか「艱」の字が入っていますが、「艱難辛苦（かんなんしんく）」とよく使われているように「悩むこと、苦しむこと、苦労すること」という意味があり、この墓碑にある「潭月澄静信女」という人が、生前に苦労を重ねていたということを暗示しているというように解釈できますが、戒名ではとても静かな澄んだ人であったという名が付けられているので、苦労の末何かを果たした（それが何かはわかりませんが）人物であったと考えられます。</p>

<p>墓碑から進んで左側の藪近くには大師堂があり、この大師堂には大師像がありますが、これは千葉県下総国印旛郡寺院明細帳にある本尊の弘法大師像ではなく、後年に佐倉八十八ヶ所のお参りのために造られ祀られたものであると思われます。<br />
大きさからいって、もとは観音堂がここにあったものと思われ、本堂は現在民家がある辺りにあったものと思われます。<br />
弘法大師像と観世音菩薩は、本寺である吉祥寺に移されたと思われますが、千葉県下総国印旛郡寺院明細帳やほかの文献などにも記述がないので定かではありません。</p>

<p>蓮蔵院の創立年代については不詳とあり、どの文献を見てもはっきりしてませんが、古今佐倉真佐子に記述がないところを見ると、古今佐倉真佐子の書かれた時代以降に創立された可能性もありますが、あまり有名どころではなかったかして古今佐倉真佐子に載せられなかったとも考えられ、やはり創立年代はわかりません。</p>

<p>古今佐倉真佐子は、宝暦３年（１７５３年）くらいに成立したといわれています。</p>

<p>蓮蔵院跡入口に戻り、左（南、電気屋さんからだと直進）に２０メートルほど右の民家と民家との間に道（敷地内の道）がありますが、この道の奥には弥勒堂がありましたが、現在は民家の敷地となっています。</p>

<p>千葉県下総国仏堂明細帳には</p>

<blockquote>

<p>千葉縣管下々総國印旛郡佐倉町大蛇字堂ノ下<br />
妙胤寺持<br />
弥勒堂<br />
一本尊　弥勒菩薩<br />
一由緒　正安年中創立干支不詳<br />
一堂宇間数　間口弐間　奥行三間　官有地第三種</p>

</blockquote>

<p>とあり、千葉県印旛郡誌にも同様のないようであるので省略しました。</p>

<p>「佐倉町大蛇字堂ノ下」とある前には「佐倉町」がなく「大蛇村字堂ノ下」とあり、明治２２年の町村制施行時に佐倉町に編入したので、「佐倉町」が枠外に朱字で追記され、「大蛇村」の「村」が朱線で消され「佐倉町大蛇字堂ノ下」と書きかえられています。</p>

<p>正安年中は１２９９～１３０２年の間、明治２２年は１８８９年。</p>

<p>正安年中というとかなり古い時代に、ここに建てられていたということになり、このころは鎌倉時代の中半から後半にかけての第９代執権北条貞時と第１０代北条師時の時代で、正安元年（１２９９）に元の使者一山一寧が来朝し、正安２年（１３０２）に一向宗を禁圧、正安３年（１３０１）に彗星が飛来し、これが凶事であるとして北条貞時が執権職を北条師時に譲っています。<br />
正安３年の彗星はハレー彗星のことで、国内ではかなり大騒ぎしていたようですが、そんな大騒ぎの真っ只中の同じ年に新田義貞が生まれています。</p>

<p>かなり歴史のあった弥勒堂ですが、千葉県仏堂明細簿抄（昭和２２年調）には「大蛇町字堂ノ下二七八　弥勒堂　解散　十七、五、一」とあり、昭和十七年に弥勒堂は解散したとあります。<br />
これは、本寺である本佐倉の妙胤寺に合併したのではなく、廃絶を意味しているものと思われ、弥勒堂にあった本尊はどこに行ったかについては記述はありませんが、本尊は本寺である妙胤寺に移されたのではないかと思われます。</p>

<p>昭和十七年は１９４２年。</p>

<p>弥勒堂跡のある民家の通路の反対側、蓮蔵院跡のすぐ後ろのほう民家とすぐ隣の神社の敷地との境辺りに庚申塔があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　大蛇町　麻賀多脇　庚申塔" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/oojamachi_makatajinja_koshi.jpg" width="233" height="350" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　大蛇町　麻賀多脇　庚申塔。（大蛇町）</p>

<p>この先にある麻賀多神社の境内地と蓮蔵院跡との境目にあるので、どちらにあった庚申塔なのかわかりませんが、勝田道から少し奥まったところにあります。</p>

<p>正面に青面金剛像その下に邪鬼と三猿、右側面に「享■（保）□□□□」、左側面に「十月吉日」とあります。</p>

<p>□は判読できない文字、■は判読しづらい文字で（）は入るであろう文字です。</p>

<p>右側面の□の部分は、苔と土ぼこりで調査当時は判読できませんでしたが、享保年間に造られたことは確かなようなので、１７１６～１７３６年の間に造られたものと思われます。</p>

<p>庚申塔から、１０メートルほど進むと左側に通路があり、この通路の左側に不明の石祠があり、この通路からさらに３０メートルほど進んだ勝田道が右にカーブを始める左側の少しおくに台石に３基の石造物があり、台石には「奉納　平成三年六月吉日　＊＊　　＊」とあり、台の上の左側は宝篋印塔もしくは五輪塔などの宝塔の上部と思われる石造物、真中は道祖神で正面に「道祖神」とあり、右のものは円柱状の石造物で、もしかすると道祖神の一種、もしくは宝塔の上部の可能性もあります。</p>

<p>この石造物群の左側に車止めがあり、その先に鳥居があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　大蛇町　麻賀多脇　麻賀多神社入口" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/oojamachi_makatajinja_irigu.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　大蛇町　麻賀多脇　麻賀多神社入口。（大蛇町）</p>

<p>ここが大蛇町の麻賀多神社の入口になり、この先３０メートルほどいくと拝殿があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　大蛇町　麻賀多脇　麻賀多神社" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/oojamachi_makatajinja.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　大蛇町　麻賀多脇　麻賀多神社。（大蛇町）</p>

<p>千葉県下総国印旛郡神社明細帳には</p>

<blockquote>

<p>村社<br />
麻賀多神社<br />
一　祭神　稚産孁神、天照大御神、大巳貴命、埴安姫命、少彦名命、倉稲魂命、菅原道真公、猿田彦名命、大國主命、須勢理昆賣命、日本武命<br />
一　由緒　不詳<br />
一　社殿間数　間口八尺　奥行九尺五寸<br />
一　境内坪数　四百廿八坪　官有地第一種<br />
一　神官　＊＊＊＊<br />
一　拜殿　間口貳間　奥行弐間</p>

</blockquote>

<p>とあり、千葉県印旛郡誌には</p>

<blockquote>

<p>大蛇村字麻賀多脇にあり稚産孁神天照大神大巳貴命少彦名命埴安姫命猿田彦名命菅原道眞日本武尊大國主命須勢理毘賣命を祭る創立不詳なれども明治四十二年五月七日許可を得て大蛇町字堂ノ下にありし無格社五穀守護五神社字堀ノ内にありし無格社道祖神社仝所にありし菅原神社字千日にありし無格社大鳥神社仝所字石橋臺にありし無格社蛭子大神を本社に合祀す社殿間口八尺奥行九尺五寸境内四百二十八坪 [官有地第一種] あり</p>

<p>以下省略</p>

</blockquote>

<p>とあり、千葉県神社名鑑には</p>

<blockquote>

<p>祭神　稚産孁命（わかむすびのみこと）<br />
例祭日　一〇月一五日<br />
主要建物　本殿・亜鉛板葺流造二坪、社務所・亜鉛板葺切妻造一二坪<br />
境内坪数　四二八坪<br />
氏子　二〇〇戸　宮司　＊＊＊＊<br />
由緒沿革　大同元年鎮座と伝える。棟札に「寛文十一年九月吉日奉再造」とある。<br />
神事と芸能　奉射祭（一月二〇日）。</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>千葉県印旛郡誌にある「明治四十二年五月七日許可を得て大蛇町字堂ノ下にありし無格社五穀守護五神社字堀ノ内にありし無格社道祖神社仝所にありし菅原神社字千日にありし無格社大鳥神社仝所字石橋臺にありし無格社蛭子大神を本社に合祀す」とあるところは、明治４２年に合祀された時の追記をもとにしており、千葉県下総国印旛郡神社明細帳の祭神のところの最初の記述は「（車に隹という字）産孁神」とありましたが、「四十一年一月二十七日付四二局第一号神社局長通達ニ依リ元（車に隹という字）産孁ヲ稚産孁ト訂正〃一月二十八日庶三、三一一号」とあり、明治４１年１月に「稚産孁」に祭神名を訂正し、村社の上に朱字で追記があり「四十一年一〇月十五日付　五穀守備五神社、道祖神社、菅原神社、大鳥神社蛭子神社ヲ本社ニ合祀シ財産譲与許可土第二、六三四号　四十二年五月七日指令　仝月十五日合祀済ノ旨仝十六日付届出ツ庶第四、四八五号受理」とあり、明治４１年に申請して明治４２年に受理されたとあります。<br />
祭神の「稚産孁神」の下に付箋が張られており、「天照大御神、大巳貴命、埴安姫命、少彦名命、倉稲魂命、菅原道真公、猿田彦名命、大國主命、須勢理毘賣命、日本武命」と追記されていて、この付箋の下、由緒のところの追記としてもう一枚付箋があり、「明治四十二年五月七日許可字堂ノ下無格社五穀守護五神社、字堀ノ内無格社道祖神社、字仝無格社菅原神社、仝字千日前無格社大鳥神社、仝石橋臺無格社蛭子大神社ヲ合祀ス」とあり、先ほどの記述と同じ内容がここにも書かれています。<br />
拜殿のしたには「四十五年五月十日建設許可庶第二六四九号」とあり、明治４５年に拝殿を建設したことが書かれており、その下に「大正六年八月丗日拜殿増築許可　拜殿　間口二間　奥行二間半　（教第三〇二號）とあり、大正６年に増築をしたことが書かれています。</p>

<p>明治四十一年は１９０８年、明治四十二年は１９０９年、明治四十五年は大正元年でもあり１９１２年、大正六年は１９１７年。</p>

<p>ここにある「仝石橋臺無格社蛭子大神社」というのが、<a href="http://sanpobokko.com/stroll_note/2010/06/post-118.php">成田街道（佐倉道）その１０６</a>で訪れた神明神社の合祀社にあった「蛭子大明神」のことであり、浜宿道沿いにあった「蛭子神社」のことで、現在は神明神社の境内に合祀されていて、麻賀多神社には合祀されていないようです。<br />
「字堂ノ下無格社五穀守護五神社」は、おそらく先に出てきた弥勒堂と同じ場所にあったものと思われ、「字堀ノ内無格社道祖神社」は現在の大蛇町堀ノ内団地入口の旧道（佐倉道）の藤坂下のカーブ辺りの西角付近にあったと思われ、「字仝無格社菅原神社」は文化二年の「印旛郡大蛇村之図」には「天神」と記述され、現在の藤沢町の市営住宅の南になる住宅地あたり（大蛇町４１１付近を含む東西１００メートルくらいの範囲）にあり、「仝字千日前無格社大鳥神社」は、現在の大蛇町にあるさくら斎場の南西の丘辺りにあったものと推定されます。</p>

<p>さて、千葉県神社名鑑には「大同元年鎮座と伝える。」とありますが、大同元年は８０６年のことで平安時代になり、しかもこの大同元年には空海（弘法大師）が真言宗を開いていますが、千葉県神社名鑑ではどの文献（麻賀多神社に残されていた古文書からだとは思いますが）を参考にしたのか提示していません。</p>

<p>麻賀多神社の西側、現在大蛇町住宅がある場所辺りには、「大蛇中芝遺跡・大蛇瓜作遺跡」によると奈良・平安時代の方形周溝状遺構が４基と土坑が２基が発掘されており、古墳時代から平安時代にかけて長く墓域として認識されていたとあります。<br />
このことについては、先に説明した弥勒堂がちょうど「大蛇中芝遺跡・大蛇瓜作遺跡」の範囲にも入ることから、その墓域のあとに弥勒堂が建てられたということが考えられますが、この麻賀多神社との関連については、はっきりとはしませんが、麻賀多神社の南側、現在国道２９６号線があるあたりには、「大蛇麻賀多脇遺跡」によると「近世初めごろに集落が形成されたと考えられ」とあるので、江戸時代初め頃になってこの近辺に集落が出来たのではないかとしています。<br />
この２つの遺跡調査報告書から考えられるのは、弥勒堂の建てられた時代以降に麻賀多神社が建てられたものとするのが、もっとも自然なことのように思われますが、文献などが少ないためはっきりとはしません。<br />
成田市台方にある麻賀多神社は、延喜式に載せられている麻賀多神社の惣社ですが、こちらは推古天皇１６年（６０８）の鎮座とあるので、この麻賀多神社から勧請したことは確かなことです。</p>

<p>拝殿の手前右側に広場があり、その広場の東側に黒石で出来た由緒書きがあり</p>

<blockquote>

<p>摩賀多神社略記<br />
御祭神<br />
稚産霊命（わかむすびのみこと）<br />
稚産霊命は日本書紀に記されている神様で伊勢外宮の「豊受姫命（とようけひめのみこと）」の御親神である<br />
由緒<br />
當摩賀多神社は、大蛇の鎮座で古くから、産土様として崇敬されてきたお社です。<br />
この御社は大同元年、當地に鎮座すると傅えられ、棟札等に夜と「寛文十一年九月吉日奉再造」とあります。<br />
御神木は、樹齢およそ六百年を数え、幹周り二丈六尺もある杉の大木でした。ここは街道筋であったため、近郷近在の人々から「大杉様ーーー」と親しまれ、大勢の方が参拝されたと言い傅えられて来ました。再度、落雷に遭い、昭和八年八月地元の人達に惜しまれつゝ伐採されました。<br />
御神事<br />
御奉射祭　一月二十日<br />
祭礼　一〇月十四日十五日</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>大同元年は８０６年、寛文十一年は１６７１年、昭和八年は１９３３年。</p>

<p>「大杉様ーーー」の「ーーー」は、「ゝ」の長いもので「大杉様大杉様」と繰り返します。<br />
ここでは麻賀多神社を「摩賀多」と書いていて、これは鳥居や拝殿の額束も同様に「摩賀夛（多）」としていますが、古来「摩」と「麻」とは読みが同じであり、「夛」は「多」の旧字になります。<br />
「摩」は「する。こする。みがく。」の意味があり「摩滅」という言葉もあるように「悪いものをこすり減らす」という意味合いがあるものと思われます。</p>

<p>拝殿の左には社務所があり、拝殿の右側には、大杉のあったあたりに石碑があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　大蛇町　麻賀多神社　大杉跡の碑" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/oojamachi_makatajinja_osugi.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　大蛇町　麻賀多神社　大杉跡の碑。（大蛇町）</p>

<p>自然石で出来た石碑に「大杉跡　平成八年五月吉日」と刻まれています。</p>

<p>平成八年は１９９６年。</p>

<p>麻賀多神社について、古今佐倉真佐子には</p>

<blockquote>

<p>扨、元町中程より右の方へ町裏へ出る。左右田也。凡八丁斗行て大蛇村也。右の方少百姓や、小村也。左の方丹塗の木鳥井ある。此所杉松榎の小林也。林の内かた角にくずやにて一間四方斗の宮ある。大杉（麻加多）大明神と号。宮の後によかゝへ斗の大杉一本有る。則神木也。</p>

</blockquote>

<p>とあり、当時麻賀多神社は「大杉大明神」と呼ばれていたことが書かれています。<br />
（）の中は注釈で、佐倉文庫に掲載した時に、寺社仏閣などの名称の注釈を入れたものです。</p>

<p>さらに佐倉市誌資料には</p>

<blockquote>

<p>麻賀多神社　大蛇字麻賀多鎮座<br />
祭神　稚産霊命<br />
社傳に依れば大同元年の創立で寛文十一年再建といふ。<br />
佐倉風土記に大蛇（おほしま）社とあるのがこの神社である。新撰佐倉風土記や其の他の古文書にも記されて居る有名な大杉は、この境内にあつたが昭和初年落雷で枯死今は根株のみ玉垣に囲まれて残つている。</p>

</blockquote>

<p>とあり、佐倉風土記にある大蛇社には</p>

<blockquote>

<p>神ヲ祭ル所ノ未詳ニセ、大蛇村ニ在、傅フ千葉家ノ臣原信濃、其主親胤ニ畔キ、将門山ノ城ヲ攻メテ而之ヲ破ル、親胤此社ニ逃レ隠ル、原探テ之ヲ弑ス、上杉景虎原ヲ討テ而之ヲ滅スト云、</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>面白いことに、佐倉風土記では大蛇社（麻賀多神社）に隠れていた千葉親胤を原信濃（原胤貞のことか？）が殺害したとあることで、さらに上杉景虎（上杉謙信）に原信濃が討たれて原氏が滅亡したとあることです。<br />
麻賀多神社の社伝には、このことについては書かれておらず、なぜ佐倉風土記にあるのか不思議ですが、千葉親胤は北条軍に捕らえられたあとに殺害されているのですが、実際、誰が殺害したのかはよくわかっていません。<br />
しかも、原信濃守とある人物が見当たらないので、これまた悩むところです。<br />
さらに、原信濃は上杉謙信に討たれたことになっていますが、原胤貞であるとすると、彼は討たれてもいないし普通に没しているので記述とあいません。<br />
佐倉風土記は享保７年（１７２２）に書かれたものです。</p>

<p>大杉跡の碑から右斜め後ろのあたり、ちょうど畑が見える場所辺りに石造物群があり、左側から「疱疽神社　白幡神社」、左から２つ目が「天満宮」、左から３つ目が社日塔（五社大神）で、これが「五穀守護五神社」のことで「天照大御神、大巳貴命、埴安姫命、少彦名命、倉稲魂命」の五神の名が五角柱に刻まれているもので、左から４つ目が不明の石祠、左から５つ目が「辨財天」、少し離れて右側に中に小さな円柱の石がある石祠があり、これは道祖神ではないかと思われます。<br />
この石造物群を見る限り、千葉県下総国印旛郡神社明細帳や千葉県印旛郡誌に記載されている他にも近くの神社を合祀したことがうかがえ、「辨財天」はおそらく、弥勒堂の西側の現在大蛇町住宅があるところに池があったことが、文政二年の「印旛郡大蛇村之図」に見え、この池にあった「辨財天」を麻賀多神社に合祀したのではないかと思われます。</p>

<p>文化二年は１８１９年。</p>

<p>麻賀多神社の入口に戻り、勝田道を進んでいきます。</p>

<p>ということで、今回はここまで。</p>

<p>参考文献は、「歴史の道調査報告書　成田街道」、「佐倉市史」、「千葉県下総国印旛郡寺院明細帳」、「千葉県下総国印旛郡神社明細帳」、「千葉県印旛郡誌」、「千葉県神社名鑑」、「佐倉市誌資料」、「佐倉の歴史を学ぶ　資料集」、「多輪免喜」、「佐倉風土記」、「佐倉文庫」、「古今佐倉真佐子」、「新佐倉真佐子　－佐倉のお茶の間風土記－」、「ふるさとの石仏」、「佐倉町二十五年誌」、「新道々の記」、「佐倉細見」、「佐倉市史研究」、「佐倉地方文化財」、「房総の郷土史」、「千葉史学」、「大蛇中芝遺跡・大蛇瓜作遺跡」、「下総へんろ佐倉八十八ヶ所札所」、「大蛇麻賀多脇遺跡」より。</p>

<p>引用は各文献と各社寺の説明板、地域の説明板より。</p>

<p>今回の地図は<a href="http://sanpobokko.com/kaido_image/sakuramichi_6.jpg">「佐倉道６」</a>です。</p>

<p>国土地理院２５０００分の１「佐倉」より作成しています。</p>]]>
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    <title>成田街道（佐倉道）その１０７</title>
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    <published>2010-06-29T11:35:13Z</published>
    <updated>2010-06-29T16:32:39Z</updated>

    <summary>佐倉道　本町交差点（千葉県佐倉市本町）から電気屋さん（千葉県佐倉市本町）まで 本町中宿から下宿あたり...</summary>
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    <category term="勝田道" label="勝田道" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
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    <category term="浜宿道" label="浜宿道" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    
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        <![CDATA[<p>佐倉道　本町交差点（千葉県佐倉市本町）から電気屋さん（千葉県佐倉市本町）まで</p>

<p>本町中宿から下宿あたりの図を載せます。</p>

<p><img alt="佐倉本町中宿から下宿あたりの図" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/motomachi_oojamachi_zu.jpg" width="450" height="329" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉本町中宿から下宿あたりの図。</p>

<p>本町交差点を今度は南（順天堂からだと右、神明神社からだと直進）に順天堂側の歩道を６０メートルほど進んだ右側に本町街区公園があり、入ってすぐの左側に大きな石碑が二つあります。</p>

<p><img alt="佐倉町　本町　南側　本町街区公園　佐藤泰然・佐藤舜海の碑" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/motomachi_taizen_syunkai_hi.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　本町　南側　本町街区公園　佐藤泰然・佐藤舜海の碑。（本町）</p>

<p>本町街区公園入口に石碑の説明板があり</p>

<blockquote>

<p>旧佐倉順天堂と佐藤泰然・舜海の碑</p>

<p>ここ旧佐倉順天堂敷地内に建つ大きな石碑は、順天堂創設者・佐藤泰然の顕彰碑と佐倉順天堂三代目・佐藤舜海の頌徳碑です。いずれも篆額は伯爵堀田正倫の書であり、撰文・書ともに旧佐倉藩ゆかりの者によります。<br />
右の泰然顕彰碑は、二代目の佐藤尚中から佐倉順天堂を継いだ舜海によって、明治二十三年（一八九〇）に建立されました。泰然の生い立ちや生涯の業績をたたえた碑文が刻まれています。<br />
その隣は、明治三十五年（一九〇二）に門人らが舜海の「耳順」（六〇歳）を祝って建立した頌徳碑です。半生の履歴を記した碑の裏面には建立者名が刻まれ、その数は八六人に上ります。<br />
また、頌徳碑にあるように佐倉順天堂は、舜海の代に病院施設を拡充しました。現在も残る洋風の診療棟のほかに、南に延びた廊下で結ばれた受付・厨房棟などが建てられ、この碑の位置から西には二階建病棟がありました。<br />
なお、この二基の碑は都市計画道路建設にともない、平成五年にこの南方約六メートルの場所から現在地に移設したものです。</p>

<p>平成八月三月<br />
佐倉市教育委員会</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>平成五年は１９９３年、平成八年は１９９６年。</p>

<p>碑の建っている本町街区公園までが、佐倉順天堂の敷地であったところとあるように、当時は相当広い敷地内にあったことが説明板でわかります。</p>

<p>本町街区公園の後（南）にヤマト運輸があり、その南に細い道が西から進んできていますが、この道が久保町の坂の下から分かれていた勝田道で、大通りをまたいで東側の細道へ続いていますが、現在は途中で道は途切れてしまっています。</p>

<p>東側の細道のあるところから北に５０メートルほどのところ、現在歩道になっているあたりに高岡宿の道祖神社があったとされていますが、明治時代に<a href="http://sanpobokko.com/stroll_note/2010/06/post-118.php">成田街道（佐倉道）その１０６</a>で訪ねた神明神社に合祀されてその痕跡はありません。</p>

<p>本町交差点に戻り、今度は右（東、神明神社からだと左、順天堂からだと直進）に佐倉道を５０メートルほど進んだ左にコンビニのような酒屋さんのようなお店があり、このお店の名は「伊勢文」といい新佐倉真佐子には「伊勢文は糀、酒などを扱う老舗である。」とあり、昔からのお店のようです。<br />
伊勢文から７０メートルほど進んだところ右に細道があり、細道の東側に恐らく三川屋ではないかと思われる宿屋があったところです。<br />
新佐倉真佐子には「...その以前ここは宿屋であり、コレラが流行した時一家死に絶えたことがあったそうである。」とあり、三川屋とは書かれていないものの、三軒ほどあった宿屋の一つで、屋号のわかっている二つ以外の宿屋で残っているところといえば三川屋のみので、恐らくここにあったのが三川屋だと思われるわけです。</p>

<p>しかし、コレラで一家全滅というのもおっかない話ですが、江戸末期から明治時代はコレラに対しての治療方法がまだ確立されていない頃でもあったようなので、コレラにかかってしまうと大変なことになったようです。<br />
ちなみに、コレラが流行した要因には、黒船来航が関わっているようで、文政５年に初めて大流行し、このときは箱根より西で大流行。次は安政５年に大流行し、このときは江戸でも流行し全国で死者２８，０００人を超えるほどだったと記録にあるようです。<br />
その後、文久２年と文久３年、その後は明治１０年、明治１２年と明治１８年から１９年に大流行をしています。<br />
１３代将軍徳川家定（安政５年７月没）の病死も、コレラとも脚気（持病であった）ともいわれていて、１２代将軍家慶（嘉永６年６月没）も、もしかするとコレラで病死したのではないかともいわれていますが、真相ははっきりしていません。<br />
ただし、この二人の将軍の時期にコレラが流行しているところを見ると、ありえない話でもないようです。<br />
文政５年の流行の原因は、定かではありませんが、この年に長崎港でイギリス軍艦が事件を起していて（フェートン号事件、その後文政８年には異国船内払令がだされている）、このフェートン号の乗船員がコレラ菌を持ち込んだ可能性は高く、これが一気に箱根辺りまで広がって流行した可能性があると思われますが、確証はありません。<br />
黒船来航（ペリー来航）は嘉永６年６月で、このときにコレラ菌も一緒に上陸したと思われ、この黒船の船員がコレラにかかっていて、それがもとで江戸でも大流行をしたと考えられます。<br />
コレラは日本にはなかったわけですが、これが大航海時代と列強の植民地支配のためにヨーロッパで大流行し、その後日本には黒船来航という形で広まってしまったようです。<br />
まあ、その前には、これまた日本にはなかった病気である梅毒が、戦国時代にキリシタンのキリスト教布教と共に広まってしまったわけで、とんでもない病気はどちらも海を渡ってもたらされてしまい、現在は、飛行機で持ち込まれてくるわけで...。</p>

<p>文政５年は１８２２年、安政５年は１８５８年、文久２年は１８６２年、文久３年は１８６３年、明治１０年は１８７７年、明治１２年は１８７９年、明治１８年は１８８５年、明治１９年は１８８６年、嘉永６年は１８５３年。<br />
</p>]]>
        <![CDATA[<p>三川屋ではないかと思われる宿屋があったところから、５０メートルほどの左にクリーニング店がありますが、ここまでが中宿でここから先が下宿になります。<br />
クリーニング店から８０メートルほど進んだ左辺りには、歴史の道調査報告書にもあった「附近には三川屋・和国屋外数軒の旅篭があったと伝えられている。」とある和国屋がありました。<br />
その和国屋のあったところから３０メートルほど進んだ左に道があり、ここを４０メートルほど進んだ右側（東）の塀の向こうに墓地があります。</p>

<p>本町愛宕神社と常泉院跡あたりの図を載せます。</p>

<p><img alt="本町愛宕神社と常泉院跡の図" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/atagojinja_atari.gif" width="450" height="450" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>本町愛宕神社と常泉院跡の図。</p>

<p>墓地のある辺りが常泉院があった辺りになりますが、こちら側からは入れないので迂回することになります。<br />
この墓地の北側には大師堂があり、大師講の人々は、どこからこの大師堂にお参りしているのかと考えたところ、佐倉道に戻ってすぐの民家の入口から、この大師堂にお参りしているものと思われ、しかしながら、普段はさすがに民家の入口から入れるわけもなく、どこかにないものかと考えていたところ、先に歩いた満蔵院跡駐車場横の道から、ちょうどこの後あたりに続いている道があり、ここに一ヶ所倒木だらけの道があったのを思い出したので、そこに回ってみました。</p>

<p>墓地の見える塀から佐倉道に戻り、５０メートルほど進むと左にコンビニがあり、コンビニの横から左（北）に進む細道があるのでここを１００メートルほどゆるい下り道（道の左には鉄の柵があり、途中から籔になる）を進むと十字路があり、ここを左（西）に下り坂（道にはコンクリートで蓋をした水路がある）を３０メートルほど進んだ左側に倒木がかなりある切通道（参道と思われる）があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　本町　愛宕脇　常泉院跡　参道（切通道）" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/motomachi_joseninato_sando.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　本町　愛宕脇　常泉院跡　参道（切通道）。（本町）</p>

<p>だいぶ倒木や竹の倒れたものなど、普通では歩けないような状態になっていますが、どうみても切通になった道があります。<br />
この道の右側（西側）の土塁状（切り堀した上の部分）のところのほうが常泉院跡で、左側（東側）の低い土塁状のところの竹藪になっているところのほうが愛宕神社跡（旧地）になり、倒木や竹などをよけながら５０メートルほど進んでいくと、正面が開け、右側に先ほど塀で入れなかった墓地のところに出ます。</p>

<p><img alt="佐倉町　本町　愛宕脇　常泉院跡　墓地" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/motomachi_joseninato_bochi.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　本町　愛宕脇　常泉院跡　墓地。（本町、写真は塀の向こうから撮ったところ）</p>

<p>切通道（参道）の出口は、写真の右側の赤い葉のある木の下辺りになり、切通道の右側（西側）が常泉院のあったところになり、墓地は常泉院にあったものです。<br />
出口から右に進み、墓地の右側に古い階段（だいぶ埋まっている）があり、さらに墓地に沿って進むと左に大師堂があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　本町　愛宕脇　常泉院跡　大師堂" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/motomachi_joseninato_daishi.jpg" width="233" height="350" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　本町　愛宕脇　常泉院跡　大師堂。（本町）</p>

<p>下総へんろ佐倉八十八ヶ所札所によると、第３０番の札所になっていて「本町　満蔵院（廃寺）」となっていて、なぜ「本町　満蔵院（廃寺）」となっているのかは定かではありません。</p>

<p>大師堂から少し右（東）側斜めに２０メートルほどいくと鳥居があり、その後ろに神社があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　本町　愛宕脇　常泉院跡　愛宕神社" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/motomachi_joseninato_atagoj.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　本町　愛宕脇　常泉院跡　愛宕神社。（本町）</p>

<p>鳥居をくぐったすぐ右側に古い手洗石があり、参道を少し行くと拝殿（本殿）があります。<br />
由緒などについては不明ですが、明治４２年に大蛇町字石橋台にある神明神社に合祀されたはずの愛宕神社が現在はこの場所にあります。<br />
いつこの場所に戻ってきたかについては、新佐倉真佐子にも載せられておらず、昭和６０年代以降、もしかすると平成に入ってから神明神社から分祀して、もとあった場所の近くに祀られなおされたものと思われます。<br />
愛宕神社の左側のすぐ後ろは崖になっていますが、この崖に沿って細い道が下っている痕跡があり、だいぶ竹が生えているために途中からわかりにくくなっているものの、何とか下りられる道があります。<br />
ただし、崩れやすい場所があるため現在は使われてはいません。<br />
拝殿の左側（西側）には少し広い平場があり、墓地からこの平場辺りまでが常泉院の境内地であったと思われ、現在愛宕神社がある場所から少し西南側辺りから愛宕神社がある附近までに、常泉院の本堂があったのではないかと思われるような、少しだけ高くなっている部分があります。</p>

<p>千葉県下総国印旛郡寺院明細帳には</p>

<blockquote>

<p>中本寺吉祥寺末<br />
真言宗智山派　常泉院<br />
一　本尊　大聖不動明王<br />
一　由緒　創立年月不詳往古同町字藤澤臺ニ有之延享年中字愛宕脇エ移轉仮堂壱宇之処去明治十二年一月廿五日焼失仕候<br />
一　本堂　無之<br />
一　境内坪数　百九拾七坪　民有地第壱種<br />
一　境内仏堂　壱宇<br />
大師堂<br />
本尊　弘法大師<br />
由緒　不詳<br />
建物　間口四尺　奥行五尺</p>

</blockquote>

<p>とあり、現在愛宕神社のある場所に延享年中に移転したことが書かれています。</p>

<p>延享年間は１７４８～１７５１年の間、明治十二年は１８７９年。</p>

<p>枠外の上部には「当時ヲ酒々井町本佐倉吉祥寺ヘ合併ノ件宗教局長ヘ照会済（四十三年三月四日庶第九七八号）」とあり、「中本寺吉祥寺末　真言宗智山派　常泉院」のところ上部に朱字で追記があり、「明治四十三年三月十一日付指令酒々井町本佐倉字根古谷本寺吉祥寺ニ合併財産譲与許可　庶第九七八号」、「仝時ニ境内佛堂大師堂ヲ吉祥寺境内佛堂大師堂ニ合併仝年六月十三日付合併済ノ旨届出ツ庶第四〇三三号」とあり、大師堂の本尊の下にも「常泉院ヲ合併ト共ニ吉祥寺境内大師堂ヘ合併許可　仝寺合併ト同時合併届出ツ庶第四、〇三三号」とあります。</p>

<p>明治四十三年は１９１０年。</p>

<p>明治１２年に仮堂が焼失後、大師堂のみが残されていたようで、明治４３年に酒々井町本佐倉字根古谷にある吉祥寺に常泉院が合併された時に、一緒に大師堂も合併、移動をしたとあります。</p>

<p>ということは、現在ある大師堂は、下総へんろ佐倉八十八ヶ所札所にあるように、もとは「本町　満蔵院（廃寺）」にあったものを、常泉院が吉祥寺に合併された後、この場所に移されたと考えられますが、このあたりについてははっきりしていません。<br />
ただ、満蔵院も真言宗のお寺だったので、古くからの大師堂があり、満蔵院が廃寺になってからしばらくは満蔵院の境内跡に残されていて、時期はわかりませんが（愛宕神社の移転と同時の可能性もある）現在の場所に移転したと思われます。</p>

<p>墓地のところまで戻り、切通道の東側の竹藪をよく観察すると、北に傾斜している中央あたりに、平場になっている部分がありますが、このあたりが愛宕神社の社殿のあった旧地と思われ、この東側の竹藪のところが愛宕神社の境内であったところです。<br />
ということは、現在はまったく逆の所の常泉院跡の境内に愛宕神社があるということになりますが、常泉院跡の境内には墓地や大師堂もあり、管理がしやすいためにあえて元の場所に移さず、常泉院跡に移したのではないかと考えられます。<br />
切通道（参道）から常泉院跡入口まで戻りますが、倒木だらけの切通道を戻りたくない場合は、南側の民家横から佐倉道に戻ってください。<br />
その場合は、民家の方に事情説明して逆から愛宕神社にお参りした事を話して、敷地内を通過させてもらってください。</p>

<p>常泉院跡入口の切通道の前の水路のある道は、昔からある古道で、左（西）に坂道を３０メートルほど下ると右に広い空地があり、その向こうに児童公園が見え、逆の崖下の道が右に曲がっていくあたりに小さな池があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　本町　愛宕脇　溜井　池" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/motomachi_tamei_ike.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　本町　愛宕脇　溜井　池。（本町）</p>

<p>かなり小さな池というか水溜りがありますが、ここには現在よりも大きなため池があったものと思われ、雨の日ともなるとかなり水が溜まっていてびっくりすることがあります。<br />
常泉院・愛宕神社の御手洗池とも考えられなくはないですが、このあたりの田畑の灌漑用のため池であったとも思われます。<br />
この池の先１５０メートルほどで満蔵院跡の駐車場にたどり着きます。<br />
池から常泉院跡入口の切通道に戻り、さらに常泉院跡入口からコンビニのところまで戻り、左（東、本町交差点と民家からだと直進）に５０メートルほど進んだ右に電気屋さんがあるので、車に気をつけながら佐倉道を南側に渡ります。</p>

<p>ということで、今回はここまで。</p>

<p>参考文献は、「歴史の道調査報告書　成田街道」、「佐倉市史」、「千葉県下総国印旛郡寺院明細帳」、「千葉県下総国印旛郡神社明細帳」、「千葉県印旛郡誌」、「佐倉市誌資料」、「佐倉の歴史を学ぶ　資料集」、「多輪免喜」、「佐倉風土記」、「佐倉文庫」、「古今佐倉真佐子」、「新佐倉真佐子　－佐倉のお茶の間風土記－」、「ふるさとの石仏」、「佐倉町二十五年誌」、「新道々の記」、「佐倉細見」、「佐倉市史研究」、「佐倉地方文化財」、「房総の郷土史」、「千葉史学」、「大蛇中芝遺跡・大蛇瓜作遺跡」、「下総へんろ佐倉八十八ヶ所札所」より。</p>

<p>引用は各文献と各社寺の説明板、地域の説明板より。</p>

<p>今回の地図は<a href="http://sanpobokko.com/kaido_image/sakuramichi_6.jpg">「佐倉道６」</a>です。</p>

<p>国土地理院２５０００分の１「佐倉」より作成しています。</p>]]>
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    <title>成田街道（佐倉道）その１０６</title>
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    <published>2010-06-20T12:22:08Z</published>
    <updated>2010-07-05T13:45:06Z</updated>

    <summary>佐倉道　樹木町入口（千葉県佐倉市本町）から神明神社を経由して本町交差点（千葉県佐倉市本町）まで この...</summary>
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        <![CDATA[<p>佐倉道　樹木町入口（千葉県佐倉市本町）から神明神社を経由して本町交差点（千葉県佐倉市本町）まで</p>

<p>このあたりの図を載せます。</p>

<p><img alt="佐倉本町あたりの図" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/sakura_motomachi_atari_zu.jpg" width="400" height="400" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉本町あたりの図。</p>

<p>樹木町入口から左（東）に２０メートルほどのところ、佐倉道の向こう側（南）に細い道があり、ここを９０メートルほど進むと正面に墓地があり、その墓地の真中あたりに南に向いたお堂があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　大蛇町　自性院前　自性院跡　大師堂" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/motomachi_jishoinato_daishi.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　大蛇町　自性院前　自性院跡　大師堂。（大蛇町、写真は南側から見たところ）</p>

<p>東西に別れて墓地のある、ちょっと見空地のような一画が自性院があったところです。</p>

<p>千葉県下総国印旛郡寺院明細帳には</p>

<blockquote>

<p>吉祥寺末<br />
新義真言宗智山派　自性院<br />
一　本尊　大日如来　一、本堂　間口四間半　奥行三間<br />
&emsp;由緒　文政年中堂宇破壊仕追テ再建迄本尊本寺ヘ移轉安置イタシ候<br />
&emsp;境内坪数　百拾壱坪　官有地第四種<br />
&emsp;境内仏堂　壱宇<br />
大師堂<br />
本尊　弘法大師<br />
由緒　不詳<br />
建物　間口四尺　奥行三尺五寸</p>

</blockquote>

<p>とあり、千葉県印旛郡誌も同様の記述なので省略します。</p>

<p>文政年中は１８１８～１８３０年の間。</p>

<p>文政年中に堂宇が破壊とあるのは、大風雨（おそらく台風のことと思われる）で倒壊したことであると思われ、その後、本尊が酒々井にある吉祥寺に移り、そのまま堂宇の再建なく自性院は廃寺になったようです。</p>

<p>自性院跡の墓地入口の右側おくには、真新しい墓碑を含む一画があり、その左（東）の墓地入口前辺りには、無縁墓と石仏などが２３基あるところがあり、南側正面に大きな地蔵像（延命地蔵で、万霊塔とおもわれる）があり、右側４列目の右から２つ目に地蔵塔がありますが、この地蔵塔はふるさとの石仏によると墓地の入口にあったもので「像の向って右側に□造立資格□□□□□、左側に寛文八戊申（一八六八）霜月五日と刻んである。」とあり、いつ頃から現在のようにまとめられてここにあるのかはわかっていません。<br />
その他の大半は墓碑で、中には宝篋印塔の一部なども混じっています。<br />
この無縁墓群の左（西）に大師堂があり、その左（西）にもう一つの墓地の一角があります。</p>

<p>この自性院跡を歩いてみると、所々に礎石らしい石片があり、大破したあとはそのまま放置されていたのではないかと、思われるような感じがなんとなくですがしてきます。</p>

<p>自性院の境内は、この一角のほか、先ほど歩いてきた佐倉道からと、自性院跡の幅と同じ範囲がそうであり、北側の住宅地のほとんどと、自性院跡の南側の工場のあるところも境内であったと思われます。<br />
堂宇はどのあたりにあったのかははっきりしていませんが、無縁墓群の少し南側の工場との境当りに、少し石片があるあたりが堂宇のあったところではないかと推測していますが、あくまでもnoboの推測で確証はありません。</p>

<p>自性院跡の東側に道があり、この道を南に進むとＴ字路があり、このＴ字路の東西に進んでいる道は先に訪ねた妙見神社手前の勝田道で、このまま東に進むとヤマト運輸の宅急便センターの横から大通り（バス通り・高岡道）に接続します。<br />
この勝田道は、浜宿道を交差して東側の細い道に続いていましたが、この細道は途中で消滅していて、現在は勝田道をそのままたどることは出来なくなっています。</p>]]>
        <![CDATA[<p>自性院跡から佐倉道に戻り右（東、樹木町入口からだと直進）に９０メートルほどの右側に冠木門のある建物があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　本町　南側　佐倉順天堂" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/motomachi_juntendokinenkan.jpg" width="350" height="263" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　本町　南側　佐倉順天堂。（本町）</p>

<p>冠木門を入ったすぐ正面の建物が佐倉順天堂で、記念館のパンフレットには</p>

<blockquote>

<p>「順天堂」は、天保１４年（１８４３）に蘭医・佐藤泰然が、蘭医塾兼外科の診療所として創設したものです。現在の記念館の建物は安政５年（１８５８）に建てられたもので、昭和５０年（１９７５）に千葉県指定史跡に指定され、整備後の昭和６０年（１９８５）からは佐倉順天堂記念館として公開されました。<br />
当記念館では由緒ある順天堂の建物を保存するとともにその事蹟を後世に伝えるため、佐倉順天堂関係の資料を展示公開しています。</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>佐倉順天堂について、歴史の道調査報告書には</p>

<blockquote>

<p>順天堂は天保十四年、蘭医佐藤泰然によって開設され、治療のかたわら専ら蘭書によって西洋医学の本質を知らせることを方針として医学生の教育に当たり、慶応元年には諸藩からの医学生は一〇〇人を超え、森鴎外の父もここに学んだ。ここで用いられた県指定「ハルマ和解」等多数の書籍は県立佐倉高校に保存されている。</p>

</blockquote>

<p>とあり、森鴎外のお父さんが佐倉順天堂で学んでいたことが書かれています。<br />
森鴎外についてよくご存知の方であれば、森鴎外のお父さんが医者であったことは知っていると思いますが、佐倉順天堂で学んでいたことまではご存知ではないのではないでしょうか。</p>

<p>天保十四年は１８４３年、慶応元年は１８６５年。</p>

<p>佐倉市歴史の資料の中に、『蘭方外科医院兼蘭学塾「順天（天道に従うの意）堂」は、長崎で蘭学を修めた後、天保９年に江戸の薬研堀で開業していた、蘭医佐藤泰然（１８０４～１８７２）が、天保１４年（１８４３）に、佐倉に移住して創建した。』とあり、現在の東京都中央区東日本橋２丁目にある、薬研堀不動院のある場所に和田塾を開いたのが始まりで、このころ佐藤泰然は和田泰然（母の実家の氏）と名乗っていたので「和田塾（蘭学塾）」としたようで、その後、佐倉に順天堂を開いたときに佐藤と改名（元に戻した）し、以後佐藤泰然と名乗ったようです。</p>

<p>少しわかりにくいところですが、父は佐藤藤佐、母は田邊ふぢなので、現在の考え方ではこのときに「佐藤」と名乗るはずなのですが、幼少時代には「田邊昇太郎（泰然）」と名乗り、十九歳で結婚（はじめの結婚）した時に「田邊庄右衛門（信圭、泰然）」と名乗っていて、「蘭醫佐藤泰然」の中にも「昇太郎が何故に藤佐の嘗ての養家先の姓名である田邊庄右衛門を名乗ったかに就てはその理由が明かでない。」とあり、「田邊」を名乗っていたことについては良くわかっていないのですが、その後長崎に遊学することになった時、伊奈家の用人であったので、伊奈家を致仕隠居する形をとったので、姓名を母方の姓をとって「和田泰然」としたようです。<br />
母ふぢは結婚前は「田邊ふぢ」と名乗っていましたが、これは佐藤藤佐と結婚する前に田邊庄右衛門（泰然ではなく、泰然の祖父に当る人物）の養女となったためで、養女になるまえは秩父和田氏の娘でした。<br />
長崎遊学の時に、母方の実の姓を名乗って「和田泰然」とし、長崎遊学後は先に書いたとおりで、順天堂を創設した時に父の姓である「佐藤」に復帰したわけです。</p>

<p>天保９年は１８３８年。</p>

<p>はじめ佐倉順天堂は、現在の場所の佐倉道をへだてた向側（北側）、佐倉順天堂記念館の冠木門の正面から西に１２メートルほどの所までの所に南北に細長くあり、安政５年に現在の場所に移転をしています。<br />
初期のころについて佐倉地方文化には</p>

<blockquote>

<p>本町にわが国私立病院の元祖である順天堂が出来たのは天保十四年（一八四三）頃である。当時は驚異的な存在であったろう。蘭医佐藤泰然は城主堀田正睦に聘せられ、江戸薬研堀（開業中）より佐倉に移り、同十四年八月ひとまず家老渡辺弥一兵衛宅にて入りやがて本町（北側）の旧那須家跡に病院を開き、順天堂と称し治療に当った。安政六年（一八五九）向い南側の今の地域に新築して移った。</p>

</blockquote>

<p>とあり、佐倉順天堂は、佐藤泰然・佐藤尚中（山口舜海）・佐藤舜海（岡本道庵）・佐藤恒二と続き、昭和２６年に閉鎖しますが、昭和５０年に千葉県指定文化財史跡となり、昭和５９年に修理復元が完了して現在に至っています。</p>

<p>安政５年は１８５８年、昭和２６年は１９５１年、昭和５０年は１９７５年、昭和５９年は１９８４年。</p>

<p>佐倉順天堂記念館の中には、当時の手術道具や顕微鏡、順天堂に関係した人々の経歴、順天堂で使われていた書物の一部が公開されています。</p>

<p>佐倉順天堂記念館の西隣の白い建物は順天堂医院で、現在はここで診療がおこなわれています。<br />
順天堂記念館の見学は有料（入館料一般１００円［２０１０年時点］）ですが、当時の医院の雰囲気を楽しむのと、ちょっと一休みにはいいですよ。</p>

<p>佐倉順天堂から右（東）に１０メートルほどで本町交差点があり、妙見神社から本町交差点までの街道沿いを通称上宿と呼んでいて、本町交差点の北西側、佐倉順天堂の前の元順天堂のあった辺りに江戸時代には高札があり、ここが本町の中心であった事がわかります。</p>

<p>本町（もとまち）について佐倉地方文化財には</p>

<blockquote>

<p>本町（もとまち）が一村として成立した年代は判然しないが、幕末頃刊行された『成田所図会』（一名「成田参詣記」安政五年三月刻成。新勝精舎蔵版）に依れば「佐倉の本町は元鹿島宿と云、千葉家本佐倉に治城のをり、ふりだしの宿（しゅく）なり、今猶継場（つぎば）は此宿にてつとむと云」と見えている。即ち、佐倉は酒々井の方から発展して来たので、酒々井に近い方を本町というのであろう。</p>

</blockquote>

<p>とあり、千葉県印旛郡誌の佐倉町誌にある郷土の各説のなかには、本町についての記述がありませんが、佐倉地方文化財には</p>

<blockquote>

<p>『印旛郡誌』（後編）の「酒々井町誌」の「沿革誌」には「是より先本町は元村と称せしを、天正十九年幕府の令に依り町（酒々井町）を新設して之を佐倉六町の一に編せられ乃佐倉酒々井町（現酒々井町のこと）と冠称（「佐倉」とつけたこと）して王政維新の際に及べリ」云々と見え、本町は元村と称せられたものであろう。</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>天正十九年は１５９１年。</p>

<p>佐倉地方文化のなかの千葉県印旛郡誌の記述の部分「天正十九年幕府の令に依り」とあるところの「幕府」とは、江戸幕府（徳川幕府）のことを指しているものと思われますが、江戸幕府（徳川幕府）が成立するのは慶長８年（１６０３）であり、天正１９年はまだ関が原の戦い（慶長５年［１６００］）がおこなわれていない年であるので、「幕府」といわれるものは存在していない時期で、これは徳川家康が関東に移封して領国経営を促進している時期であるので、「幕府」というのは間違いであると思われますが、千葉県印旛郡誌を編纂する上で便宜上「幕府」としたものと思われます。<br />
ちなみに天正１９年の前年の天正１８年には小田原の北条征伐と奥州征伐、次の年の天正２０年には第一次朝鮮出兵（文禄の役）で、豊臣秀吉はまだ健在であったころです。</p>

<p>天正１８年は１５９０年、天正２０年は文禄元年でもあり１５９２年。</p>

<p>さらに千葉県印旛郡には</p>

<blockquote>

<p>天正十九年千葉氏の遺臣鹿島宿 [今の佐倉本町] に在る者莇隼人、莇善左衛門、嶋田新右衛門、小高三右右門、深山勘解由、深山長左衛門、中台治左衛門、鶴岡新右衛門、大谷源左衛門、渡利権左衛門、莇六左衛門の十一人酒々井町に來住し人戸増殖民業従て繁盛せり...</p>

</blockquote>

<p>とあり、鹿島宿（佐倉本町）にいた千葉家の遺臣を酒々井町に移住させたことが書かれています。</p>

<p>房総の郷土史の「戦国時代佐倉の鹿島宿」には</p>

<blockquote>

<p>近世初期に大蛇村（佐倉市大蛇町）の地を割いて、東西に帯状に形成された町が、すなわち、佐倉本町である。そして、中央には国道二九六号線（旧成田街道）が東西に往還していて、この道路の北側が「本町北側」、南側が「本町南側」という小字名である。一方、西側から東側へと「上宿」「中宿」「下宿」と町割されているので、結果としてこれら町割のすべてが、本町北側と本町南側の小字地名を含んでいる。ここで注目したいのは、本町北側に地を接してその北側に「大蛇町字蛭田宿」、本町南側に地を接して「大蛇町字高岡宿」という小字地名があり、蛭田宿と高岡宿を貫く古道は、北上すると印旛沼縁の浜宿河岸（佐倉市大佐倉字浜宿）、南下すると上総国東金への道、換言すれば、浜宿河岸－浜宿道－蛭田宿－佐倉本町－高岡宿－五良道－勝田道、この延長が東金となっている点である。浜宿河岸は、十五世紀後半から十六世紀の機能が考えられる佐倉城との関係において、この当時には「浜宿湊」として、水運の基地であった場所である。</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>地図で見てみると、本町はちょうど南北にある大蛇町の中間点に東西に細長くあることがわかり、そのため大蛇町は不思議な状態で南北に分かれています。<br />
本町の南北にある「蛭田宿」「高岡宿」について、房総の郷土史の「戦国時代佐倉の鹿島宿」には</p>

<blockquote>

<p>蛭田宿という小字地名は、北側の隣接地大蛇町字石橋台六二七番地に所在していた「蛭子大神」（祭神大国主命・須勢理毘売命）に因んだ地名とみられる。また、高岡宿という小字地名は、この地が古くは高岡と呼ばれていたことを物語るものと考えられ、南方に高岡村（佐倉市高岡）の集落かが展開する。</p>

</blockquote>

<p>とあり、さらに鹿島宿に関して</p>

<blockquote>

<p>さらに、佐倉本町の北方に近接して「鹿島台」の小字地名がある。現在の佐倉市立佐倉東小学校付近一帯の地名である。この地名から、かつてこの周辺には、鹿島信仰に基いて勧請された鹿島社が存在していたことが知られる。ゆえに、このような点から判断すると、蛭田宿、高岡宿は、戦国時代として時期は限定し得ないが、中世の宿場の名残とみることはできそうである。すなわち、佐倉本町が鹿島宿であった可能性は極めて高い物と考える。</p>

</blockquote>

<p>とあり、検討のおわりに</p>

<blockquote>

<p>実証性には欠けるものの、結論として述べると、鹿島宿は、佐倉城外郭部の、さらにその外側に形成された宿駅であったと考えたい。そして、浜宿湊へと荷揚げされた物資の一端鹿島宿へあげ、ここで再編成して継ぎ立てるといった機能を中心としたのではあるまいか。これは、当時の状況としては、浜宿湊から台地への主要道は、現在の佐倉本町への道（浜宿道）が唯一であることからの推測である。</p>

<p>...中略...</p>

<p>しかし、この鹿島宿（佐倉市大蛇町・本町）も、天正十九年中には廃されて、谷津田を越えた東方に新たに佐倉宿（酒々井町上本佐倉）が整備されたのであろう。また、近世を通して機能した酒々井宿（酒々井町酒々井）は、佐倉宿が発達したものとみられるが、中心が北方へと移動したことにより、初期の佐倉宿は姿を消していったものと推測される。なお、浜宿（佐倉市大佐倉）河岸に加えて、新たに新堀（酒々井町酒々井）河岸が造られたのは慶長年間のことと伝えられるが、これは酒々井宿の整備に関連してのことと考えられる。</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>慶長年間は１５９６～１６１５年の間。</p>

<p>おわりにある「当時の状況」とは、中世（戦国時代）の千葉氏が本佐倉城に居た時期のことで、徳川家康が関東に移封になる前までのこと。<br />
天正十九年は１５９１年で、この年にはまだ現在の佐倉城（土井利勝の築城した）はなく、本佐倉城が健在であり、この本佐倉城のあるあたりを「佐倉」と中世以前からいっていたわけで、城の名前はその土地の地名を戴いて称するのが普通なので、そうすると当時本佐倉城は「佐倉城」と呼ばれていたと思われます。<br />
ただし、本佐倉城のある辺りを「将門山」と呼んでいるので「将門山城」と呼ばれていたり、記述されていたりしているので、文献や当時の書状などでは「佐倉城」だったり「将門山城」であったりします。<br />
さらに、土井利勝が現在の佐倉城を築城する以前は「鹿島城」と呼んでいたことは佐倉城址公園を訪れた時に触れましたが、この「鹿島城」と「鹿島宿」との間には関連性はないと思われます。<br />
とにかく現在の「佐倉本町」の前身である「鹿島宿」は、中世の「佐倉城」の城下町としての西端にあたる、もしくは、城域の西端にあたる場所で、しかも主要街道の交差する重要ポイントであったことは確かなようです。</p>

<p>本町交差点の北西側、ちょうど佐倉順天堂の最初に建てられた場所である旧那須家跡の辺りには高札があったことが、総州佐倉御城府内之図に描かれていますが、やはりここが重要な街道の交差地点になることから建てられたと思われますが、その高札があった辺りにはなにも痕跡がないので、絵図や文献などを読んでみないと通り過ぎてしまいます。</p>

<p>ほかに、歴史の道調査報告書によると</p>

<blockquote>

<p>附近には三川屋・和国屋外数軒の旅篭があったと伝えられている。小林一茶は文化三年正月「二五日晴、月船と同行...瀬戸村より土浮村へ渡る。布川より五里也。佐倉本町三河屋宇兵衛に泊」と記している。</p>

</blockquote>

<p>とあり、本町には何軒かの旅籠があったことが記述されています。</p>

<p>本町交差点を左（北）に曲がり、９０メートルほどで信号があり、大通りは左にカーブしていきますが、北に直進する細い道が浜宿道（旧道、かなり交通量があるので注意）で、細い道を９０メートルほど進むと十字路があり、ここを右（東）に曲がり８０メートルほどのところに鳥居があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　大蛇町　石橋台　神明神社　鳥居" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/motomachi_jinmijinja_irigut.jpg" width="263" height="350" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　大蛇町　石橋台　神明神社　鳥居。（大蛇町）</p>

<p>鳥居の手前にＴ字路がありますが、道路を境に西側が本町字蛭田宿、東側が大蛇町字石橋台になります。</p>

<p><ins datetime="2010-06-27T20:50:14+09:00">[2010-06-27 追記と訂正]　佐倉本町あたりの図にある鳥居の位置がだいぶ西側になっていたので修正したのと、神明社の鳥居の写真を追加しました。それに伴い、鳥居までの距離と、鳥居から本町青年館の距離の修正、本町青年館への方向を訂正しました。</ins></p>

<p>鳥居から４０メートルほど進むと左に本町青年館があり、本町青年館の右（東）に一段高くなった壇のところに石造物群があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　大蛇町　石橋台　神明神社　石造物群（本町青年館横）" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/oojamachi_jinmaijinja_sekiz.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　大蛇町　石橋台　神明神社　石造物群（本町青年館横）。（大蛇町）</p>

<p>配置図を載せます。</p>

<p><img alt="神明社横石造物群配置図" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/jinmeijinja_sezobutu_haiti.jpg" width="400" height="311" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>神明社横石造物群配置図。（平成２２年［２０１０］時点）</p>

<p>石片を含むと２４基になりますが、判別できるものだけであれば１７基の石造物があります。<br />
番号順にいくと、①は正面に「稲荷大明神」とある稲荷神社の石祠、②は不明の石祠、③、④は墓碑、⑤は卵塔（墓碑）、⑥は墓碑、⑦は不明の石祠で左面に「金子」とあり、⑧は上部が欠損し、下部が埋没していて正面の右に「（上部欠損）□不可行者（下部埋没）」、正面に「（上部欠損）十六部□（下部埋没）」、正面の左に「（上部欠損）□年九月（下部埋没）」とあり、六十六部供養塔（廻国塔）であるとおもわれ、⑨は卵塔（墓碑）、⑩は墓碑、⑪は記念碑（建立記念碑か？）とおもわれ、正面に「萬屋傳五兵衛　三川屋夘兵衛　村田屋喜兵衛　板　倉宗　碩（？）　■■（材木？）屋久兵衛」、右側面に「文化五戊辰年五月吉日」とあり、⑫の正面真中には結跏趺坐をし智拳印（おそらく）を結んでいる大日如来像と思われる石仏、正面の右は欠損していて文字の判読は出来ず、正面の左には「延享■（二）乙丑年八月吉日」とあり、⑬は墓碑で、⑭の正面真中には智拳印（おそらく）を結んでいるので大日如来像と思われる石仏、正面の右には「寛文十二壬子暦三月十六日　（梵字でキリークか？）■（法？）大僧□法■（定？）□□□■（二？）■（尼？）」、正面の左に「（梵字でキリークか？）■（拖？）■（穣？）■（歸か栁？）■（綬か授？）■（圓？）■（月？）■（上？）　■（遁？）□　■■（参道？）□　■（龍？）□　□□神□□　□■（元？）　■■（垂負？）　■（宗？）■（齋か春？）　■（清？）□」とあり、⑮は如意輪塔で正面の真中に如意輪観音像、正面の左に「元文五庚申二月日本町　同行　大蛇村　上代村　六十人」とあり、⑯の正面真中には阿弥陀如来と思われる石仏、納衣の左側袖のところに「明王寺念佛衆」、正面の右に「延寶貳■（年？）　棯翁宗全居士　■（王か玉？）■（隻？）□■（徳？）■（心か大？）■（女か姉？）　このほかに人名多数（僧侶の名か？）」、正面の左に「■（二か心？）月静■（歸？）禅定門　昂翁貞■（心？）信女　寅三月■（吉）日　本町念佛　このほか人名多数」とあり、⑰は墓碑、ⅠからⅦまでは石片でⅢからⅤまでのどれかが⑧の六十六部供養塔（廻国塔）の一部ではないかと思われます。</p>

<p>文化五年は１８０８年、延享二年は１７４５年、寛文十年は１６７０年、元文五年は１７４０年、延寶貳年（延宝二年）は１６７４年。<br />
□は判読できない文字で、■は判読しづらい文字で（）は入るであろう文字です。</p>

<p>⑫、⑭、⑯についてふるさとの石仏では、⑫を「阿弥陀如来の脇侍のいずれかか一方かと思われる。」とし、⑭を「その姿から、阿弥陀如来の脇侍の観世音菩薩か勢至菩薩のいずれかと思われるる」とし、⑯を阿弥陀如来としているので「以上の判断が正しければ、上記三体の石仏を合わせると、一組の阿弥陀三尊仏ということになる。」と記述しています。<br />
この考えが正しければ、阿弥陀三尊仏ということになると思われますが、どうも⑫、⑭の石仏の像容は大日如来のように思われる形をしていますが、手の組みようが「智拳印」か「持宝珠印」であるかによって違ってくると思われますが、掌を乗せているのであれば「持宝珠印」、上下に組んだ形ならば「智拳印」といえますが、⑫は上下に組んでいるようなので「智拳印」と思われ、これは大日如来の様相を示していますが、⑭のほうは乗せているようにも見えるので、ふるさとの石仏にあるように勢至菩薩である可能性があります。<br />
頭にある宝冠か宝髻であるかによって違ってくるわけで、どちらかというと宝髻に見えるので大日如来ではないかと考えたわけですが、宝冠であればふるさとの石仏のいうとおり阿弥陀如来の脇侍ということになります。</p>

<p>⑪の記念碑（建立記念碑）にある「三川屋夘兵衛」という人物は、歴史の道調査報告書にあった「佐倉本町三河屋宇兵衛に泊」とある「三河屋宇兵衛」のことであると思われ、「三川屋夘兵衛」と「三河屋宇兵衛」は同一人物であることは確実と思われるのは、小林一茶の記述した年が「文化三年」であり、記念碑（建立記念碑）にある年が「文化五年」でほぼ同時期であることからです。</p>

<p>石造物群のすぐ右側に森のようになったところ、神明神社への入口があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　大蛇町　石橋台　神明神社入口" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/oojamachi_jinmaijinja_irigu.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　大蛇町　石橋台　神明神社入口。（大蛇町）</p>

<p>入口を少し入った右に大きな常夜燈があり、常夜燈の入口から見て中ほど正面に「常夜燈」、中ほど左側面に「願主　當町　三川屋邦太郎」とあります。<br />
歴史の道調査報告書によれば「文化五年寄進の」とありますが、常夜燈には年号が見当たりませんでした。<br />
こちらが見落としたか、剥離して文字が消えてしまっていたのかは定かではありませんが、神明神社の過去帳などに記述があるかして、寄進した年がわかっているものと思われます。</p>

<p>文化五年は１８０８年で、石造物群にあった記念碑（建立記念碑）と同じ年なので、「三川屋夘兵衛」と「三川屋邦太郎」（親子であるかまたは兄弟であるかは調べていませんが、三川屋の人であることは確か）両人が記念碑（建立記念碑）と常夜燈を一緒に寄進したと思われ、⑪の記念碑のところでも触れましたが歴史の道調査報告書にも、「一茶のいう三河屋宇兵衛は恐らくこの三川屋夘兵衛で、邦太郎はその一族であろう。」と記述しています。</p>

<p>常夜燈の右側の、神明神社入口の右の鎖があるところの右側に小さな石祠があり、これは道祖神で正面に「道祖神」、右側面に「文政七甲申八月吉■（日）」、左側面には「平山与兵衛」とあります。</p>

<p>文政七年は１８２４年、■は判読しづらい文字で（）は入るであろう文字です。</p>

<p>常夜燈に戻り、石敷きの参道を１５メートルほど進んだ右側に大木があり、その大木の前に卵塔と庚申塔があります。<br />
右側が卵塔（墓碑）で、正面に「（梵字）定■（辨か？）律師■（不？）□□」、右側面に「享保十五庚戌年」、左側面に「十二月初■（三？）■（日？）」とあり、左側の庚申塔の正面には青面金剛像、その下に邪鬼と三猿、右側面に「元文三戊午天　本町　金子□□□　□□□□□　（４名の人名）」、左側面に「三月吉日　（５名の人名）」とあります。</p>

<p>享保十五年は１７３０年、元文三年は１７３８年、□は判読できない文字、■は判読しづらい文字で（）は入るであろう文字です。</p>

<p>卵塔と庚申塔のある場所の逆側に、少し小高くなっている場所があり、階段を上ると小堂（小祠）があります。<br />
この小堂（小祠）は合祀社で、右側のほうには石祠があり、石祠の正面に「蛭子大明神」とあり、左側のほうには版木（お札を刷るためのものと思われる）があり、「（上部木箱に入っているため判読できず）大明神守護（願か？）攸」と左右逆に書かれています。</p>

<p><ins datetime="2010-07-05T22:39:07+09:00">[2010-07-05 追記]　蛭子神社の石祠には「蛭子大明神」のほかに、『「享和四年　御奉射講中」の刻字がみえる』と佐倉市史にあります。享和四年は文化元年でもあり１８０１年。</ins></p>

<p>階段を下りて、すぐ左の大木の下には子安塔があり、正面に子安観音（慈母観音）像、正面の右に「享和元辛酉十一月吉日」とあります。</p>

<p>享和元年は１８０１年。</p>

<p>子安塔から参道に戻り進むと、すぐに一対の燈籠（常夜燈）があり、その先左に手水舎、参道はやや左に曲がって進み曲がり終わったあたりに一対の燈籠（常夜燈）、その先に階段があり、一段高くなったところに拝殿があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　大蛇町　石橋台　神明神社" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/oojamachi_jinmaijinja.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　大蛇町　石橋台　神明神社。（大蛇町）</p>

<p>千葉県下総国印旛郡神社明細帳には</p>

<blockquote>

<p>村社<br />
神明大神社<br />
一　祭神　天照大御神　賀義建角命　猿田彦命<br />
一　由緒　不詳<br />
一　社殿間数　方壱間貳尺<br />
一　拝殿間数　間口貳間　奥行五間壱尺<br />
一　境内坪数　五百廿五坪　官有地第一種</p>

</blockquote>

<p>とあり、千葉県印旛郡誌には</p>

<blockquote>

<p>大蛇村字石橋臺にあり天照大御神賀茂建角命猿田彦命を祭る由緒不詳なれども明治四十二年五月七日許可を得て本町愛宕脇にありし無格社愛宕神社仝所字高岡宿にありし無格社道祖神社を本社に合祀す社殿間口一間二尺奥行一間二尺拜殿間口二間奥行五間一尺なして境内五百二十五坪 [官有地第一種] あり</p>

<p>以下省略</p>

</blockquote>

<p>とあり、千葉県神社名鑑には</p>

<blockquote>

<p>神明大神社</p>

<p>祭神　天照大御神（あまてらすおおみかみ）<br />
例祭日　一〇月一五日<br />
主用建物　本殿・銅板葺流造一・五坪、拝殿・瓦葺切妻造一〇坪<br />
境内坪数　九四四坪<br />
氏子　四五〇戸　宮司　＊＊＊＊<br />
神事と芸能　江戸時代、当社祭礼に「都久舞」のおこなわれたことが『佐倉風土記』や『佐倉真佐子』に見える。今は伝えない。</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>千葉県下総国印旛郡神社明細帳の村社の上に朱字で書き込みがあり、ここには「四十一年十一月十五日付願佐倉町本町愛宕神社仝所道祖神社ヲ合祀シ財産譲与許可、土第二、六三五号、四十二年五月七日指令　四十二年五月十五日合祀済ノ旨仝十六日付届出ツ　庶第四、四八七号受理」とあり、明治４１年１１月に合祀の許可を申請して、明治４２年５月に合祀済みであることを受理されたとあります。<br />
さらに由緒の下の部分にも「四十二年五月七日許可佐倉町内本町字愛宕脇愛宕神社、仝所字髙岡宿道祖神社ヲ合祀ス」とあります。<br />
千葉県印旛郡誌は、この記述をもとにしているものと思われます。</p>

<p>明治４１年は１９０８年、明治４２年は１９０９年。</p>

<p>ところが、千葉県神社名鑑（昭和６２年［１９８７］発行）には合祀社についての記述はなく、祭神も天照大御神のみになっています。</p>

<p>高岡宿にあったと思われる道祖神社は、神明神社入口の右側にあった「道祖神」の石祠がそうであると思われますが、神社の入口に置かれているというのはどうしたものでしょうか。<br />
そして、合祀されているはずの愛宕神社が見当たらずに、蛭子神社が小堂（小祠）に祀られていますが、この蛭子神社は蛭田宿の名の由来になった蛭子神社と思われますが、房総の郷土史の注釈に「明治四十二年四月に、大蛇町字麻賀多脇の麻賀多神社に合祀された。」とあり、この記述どおりとすると、この蛭子神社はどこから来たものなのでしょか。<br />
もしかすると、神明神社の合祀した神社と大蛇町の麻賀多神社に合祀された神社の記述が間違っていたのか、それとも、明細帳に記述がないだけで、その後に合祀した神社を移動した可能性も考えられます。<br />
蛭子神社に関していえば、わざわざ遠くの麻賀多神社に合祀するよりは、同じ石橋台にある神明神社に合祀したほうが合理的であり、地域の関連からしても自然だと思います。</p>

<p>拝殿の後ろには本殿があり、本殿の左（西）には神輿を入れる神輿倉（小堂）と、古いお札を入れる小堂があります。</p>

<p>神明神社の境内の広さについてですが、千葉県神社名鑑では９４４坪としていますが、訪ねた感じではそこまで広いとは思われません。<br />
千葉県下総国神社明細帳と千葉県印旛郡誌にある５２５坪ほどと思われますが、どこまでが神社の境内地としてあるのか、その辺りが神社名鑑に書かれていないのではっきりしません。</p>

<p>神明神社入口の石造物群と参道に墓碑がありますが、ふつう神社には墓碑を建てることは希で、これだの数があるということは、すぐ近くにお寺があったということが考えられ、そのことについて佐倉市誌資料の明神大神社のところに「文化二年に当時の役所へ差出した絵図面の下書きが残つて居るがそれを見ると境内の右方に万蔵院といふ別当寺があったことがわかる。」とあり、神明神社の右側（南側）に万蔵寺（満蔵寺）という寺があったということが書かれています。</p>

<p>文化二年は１８０５年。</p>

<p>少なくとも文化年間（１８０４～１８１８年）にはこの満蔵寺は存在していたようですが、いつ頃廃寺になったのかはわかっていません。</p>

<p>「文化二年に当時の役所へ差出した絵図面の下書きが残つて居る」とある絵図ですが、大蛇中芝遺跡・大蛇瓜作遺跡の調査報告書の中に、その絵図の複写したものが載せられており、その絵図を見ると先ほど説明した駐車場あたりの場所に「万蔵院」と記述があります。<br />
さらに、石造物がある辺りの後（北側）、現在住宅や本町青年館がある辺り一帯に「妙正寺」という寺の「地所」があり、この「地所」というのは、「妙正寺」が所有している土地のことをいいますが、ここは恐らく「妙正寺」の「年貢地」ではないかと思われます。<br />
妙正寺については、佐倉市史の民俗編にある大蛇についてのところに妙正寺は載せられておらず、中世の寺院の所にも記述がないので、この「妙正寺」という名が正しいものかははっきりしていませんが、「妙正」としているところをみると日蓮宗の寺院の地所があったのではないかと思われますが、絵図以外に「妙正寺」について語るものがないのではっきりしたことがわかっていません。</p>

<p>神明神社の入口から左（南、石造物群からだと右）に１００メートルほどいった坂道の一番したあたりに十字路があり、十字路の左（東）に細い道がありますが、細道を少し行った左側の一段高いところ（細道は下っていく）に広い駐車場があり、この辺りがちょうど神明神社の右側に当たり、満蔵寺があったところではないかと推測されます。</p>

<p><img alt="佐倉町　大蛇町　石橋台　満蔵院跡（推定地）　駐車場" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/oojamachi_manzoinato.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　大蛇町　石橋台　満蔵院跡（推定地）　駐車場。</p>

<p><ins datetime="2010-06-29T20:32:24+09:00">[2010-06-29 追記]　満蔵院跡の推定地である駐車場の写真を追加しました。</ins></p>

<p>この駐車場と神明神社の境内を合わせると、ちょうど９００坪は超える広さとなり、この駐車場が神明神社の所有地であるかは確認していませんが、もし所有地であれば千葉県神社名鑑の記述は正しいことになります。<br />
満蔵寺が廃寺になった後、その土地の管理を神明神社がおこなっていたのであれば、納得のいくところであり、石造物群と境内に墓碑があることも納得がいきます。</p>

<p>神明神社は「村社」となっていますが、大蛇町（村）の村社は麻賀多神社であり、そうすると神明神社はどこの村社かということについて、新佐倉真佐子に「ここは大蛇村石橋台であるが本町の鎮守様で氏子は百数十戸である。」とあり、佐倉市誌資料にも「本町区民の産土神である。」とあり、本町の村社であることが記述されています。</p>

<p>さらに新佐倉真佐子には</p>

<blockquote>

<p>神明神社の創祀は不詳であるが、建治年間（一二七五年頃）らしく、本殿は寛永十九年の頃佐倉城主堀田正盛の建立、祭神は天照大神、賀茂建角命、猿田彦命であるが、明治四十二年本町愛宕脇にあった愛宕神社及び高岡宿の道祖神を合祀された。本殿内に享保八年（一七二三年）と記載された木札があったので、終戦時マッカーサー司令部から神社としての認可が与えられた。</p>

</blockquote>

<p>とあり、この記述によれば堀田正盛が本殿を建立したとあるところを見ると、この辺りから本町の鎮守として崇敬されたのではないかと思われます。</p>

<p>千葉県神社名鑑にある「都久舞」について、佐倉風土記の神明社のところには「城東本町ノ北ニ在、秋八月二十日之ヲ祭ル、街頭高幢ヲ植テ、一人縁欅ソ而上リ、態度ヲ戯竭ス、都久舞ト、之ヲ俗謂」というところから、「柱状の高い所に登って曲芸をする」舞のことのようですが、この「都久舞」は現在では伝承されておらず、神明神社の例祭で見ることは出来なくなってしまいました。</p>

<p>神明神社から鳥居のある十字路に戻り、右（北、本町交差点からだと直進）１１０メートルほどいったところにＹ字路がありますが、このＹ字路の北側あたりに蛭田宿の名の由来となった「蛭子神社」がありました。<br />
今は宅地化が進んでその痕跡など全く残っていませんが、先ほど出てきた「文化二年に当時の役所へ差出した絵図面」には「蛭子宮」と記載があり、古くからあったことが絵図からわかります。<br />
この蛭子神社は、大蛇村の村社である麻賀多神社に合祀されたことになっていますが、神明神社にも蛭子神社が合祀されいるのはどういうことでしょうか。<br />
この蛭子神社は神明神社に合祀されているものがそうであり、佐倉本町の中に含まれている「蛭田宿」の人々の尊崇を受けていた神社であった以上、本町の村社である神明神社に合祀されるのが最も自然なことであるはずですが、このあたり少々混乱があるものと思われ、明治時代の神社明細帳の編纂時に混同があったのではないかと思われます。</p>

<p>蛭田神社跡から本町交差点へ戻り、佐倉道を進んでいきます。</p>

<p>ということで、今回はここまで。</p>

<p>参考文献は、「歴史の道調査報告書　成田街道」、「佐倉市史」、「千葉県下総国印旛郡寺院明細帳」、「千葉県下総国印旛郡神社明細帳」、「千葉県印旛郡誌」、「千葉県神社名鑑」、「佐倉市誌資料」、「佐倉の歴史を学ぶ　資料集」、「多輪免喜」、「佐倉風土記」、「佐倉文庫」、「古今佐倉真佐子」、「新佐倉真佐子　－佐倉のお茶の間風土記－」、「総州佐倉御城府内之図」、「ふるさとの石仏」、「佐倉町二十五年誌」、「新道々の記」、「佐倉細見」、｢佐倉さんぽ　散策マップ（佐倉市観光協会発行）」、「佐倉市史研究」、「佐倉地方文化財」、「房総の郷土史」、「千葉史学」、「大蛇中芝遺跡・大蛇瓜作遺跡」より。</p>

<p>引用は各文献と各社寺の説明板、地域の説明板より。</p>

<p>今回の地図は<a href="http://sanpobokko.com/kaido_image/sakuramichi_6.jpg">「佐倉道６」</a>です。</p>

<p>国土地理院２５０００分の１「佐倉」より作成しています。</p>]]>
    </content>
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<entry>
    <title>成田街道（佐倉道）その１０５</title>
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    <published>2010-06-03T12:48:34Z</published>
    <updated>2010-06-03T12:48:34Z</updated>

    <summary>佐倉道　土井酒店のある十字路（千葉県佐倉市弥勒町）から樹木町入口（千葉県佐倉市本町）まで 土井酒店の...</summary>
    <author>
        <name>nobo</name>
        
    </author>
    
        <category term="街道歩き" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    <category term="佐倉市" label="佐倉市" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://sanpobokko.com/stroll_note/">
        <![CDATA[<p>佐倉道　土井酒店のある十字路（千葉県佐倉市弥勒町）から樹木町入口（千葉県佐倉市本町）まで</p>

<p>土井酒店のある十字路を右（東、石渡家住宅からだと直進）に佐倉道を１００メートルほど進んだ右に古民家風の建物があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　弥勒町　南側　三谷家住宅" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/mirokumachi_mitanike_jutaku.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　弥勒町　南側　三谷家住宅。（弥勒町）</p>

<p>三谷家住宅前に説明板があり</p>

<blockquote>

<p>佐倉市登録有形文化財<br />
三谷家住宅<br />
登録年月日　平成１３年５月１６日<br />
主屋　木造、一部２階建<br />
袖蔵　木造、２階建<br />
座敷屋　木造、２階建<br />
袖蔵は明治１７年に建てられたことが棟札より確認され、主屋もその頃には建っていたと考えられる。また、座敷屋は昭和１０年位頃に建てられている。いずれも近代の佐倉における有力商家にふさわしく造形的に優れた建物であり、出桁造の主屋と並んで袖蔵が建つ当時の商家の構えをよく残している。佐倉の伝統的な商家として貴重な建物である。</p>

<p>内部は非公開です。</p>

<p>佐倉市教育委員会</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>平成１３年は２００１年、明治１７年は１８８４年、昭和１０年は１９３５年。</p>

<p>三谷家住宅について、歴史の道調査報告書には</p>

<blockquote>

<p>三谷屋は家伝によれば、享保元年以前に佐倉に定住し、漢法の薬種を商った時期もあったが、慶応元年の商人一覧には「綿屋喜兵衛」とあり、幕末には呉服太物綿等を扱っていた。</p>

</blockquote>

<p>とあり、現在はこの三谷家住宅では営業はしていませんが、平成７年度歴史的建造物詳細調査報告書に「現在は店を新町に移し」とあり、<a href="http://sanpobokko.com/stroll_note/2010/04/post-110.php">成田街道（佐倉道）その９８</a>で訪ねた新町の蔵六餅本舗の近くにあった「三谷屋呉服店」が移転したお店になります。<br />
通り向かいのお店は「三谷屋綿店」は、この「三谷屋呉服店」の分家で、ふとんや婦人服などを扱っています。</p>

<p>歴史の道調査報告書にある「漢法」は「漢方」のことで、表記の違いと思われます。</p>

<p>享保元年は１７１６年、慶応元年は１８６５年、平成７年は１９９５年。</p>

<p>三谷家住宅のすぐ信号のある交差点があり、ここを渡って２０メートルほどのところ右に細い道があり、この道の奥側の現在住宅が建っているところ（道の東側）辺りから約１５０メートル南側と東側１００メートルほどの区画の中に佐倉藩の梅林がありましたが、現在梅林は残っていません。<br />
この細道は途中で私有地内になるので、一旦信号まで戻り、信号を南（三谷家住宅からだと右、細道からだと左）に９０メートルほど進んだあたりの左に道があり、３０メートルほど進むと公園があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　弥勒町　南側　佐倉藩梅林跡" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/mirokumachi_bairinato_mirokukoen.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　弥勒町　南側　佐倉藩梅林跡。（弥勒町）</p>

<p>現在、弥勒公園になっているところあたりが佐倉藩梅林跡で、弥勒公園の東南側には要行寺台公園がありますが、弥勒公園全域と要行寺台公園の北側の一部、弥勒公園の北側の私有地になっているあたりまでが梅園があったところになります。</p>

<p>新道々の記には</p>

<blockquote>

<p>国道２９６号線から佐倉東中学校方向に曲がり百メートル程行くと、東側（左手）に梅と桜の古木が一本ずつ残っている。広さ約二千五百坪の敷地に三百本余の梅の木があった跡である。<br />
ここは昔、佐倉藩の薬草園であったが、嘉永年間（一八四八～一八五三）頃、茶樹の間に匝瑳郡木戸村の光泉寺の梅を主として植えたものである。<br />
この後梅林跡は、日産厚生園の職員寮が建てられ、現在は一般の住宅になっている。</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>匝瑳郡木戸村の光泉寺は、現在の千葉県山武郡横芝光町木戸（旧匝瑳郡光町木戸）にある光泉寺のことです。</p>

<p>平成１６・１７年度佐倉市埋蔵文化財発掘調査報告書の中の弥勒南側遺跡には、「近世の道と考えられる溝状遺構が１条検出されたのみで、それに近世陶磁器が若干伴って出土した。」とあり、梅林の中の散策路としての道らしきものがこの発掘調査で見つかったのではないかと思われますが、そのあたりのところを言及していないので、古道として判断したものかどうかははっきりしていません。<br />
しかし、近世陶磁器は薬園であった頃に使われていたものが出土したのではないかと思われ、見つかった道の跡も薬園と梅林の中を通る道（散策路か？）ではないかと思われます。</p>

<p>平成１６・１７年は２００４・２００５年。</p>]]>
        <![CDATA[<p>佐倉藩梅林跡である弥勒公園から信号に戻り、今度は北側に渡って右（東、三谷家住宅からだと直進）に２０メートルほどの左（先に歩いた梅林跡へつながっていた細道の逆になるところ）に道がありますが、このあたりには遊郭があったところで、遊郭について新佐倉真佐子には</p>

<blockquote>

<p>この弥勒が成田詣での街道筋に当っていたからというわけでもあるまいが、久保町へ下る坂上、妙経寺に敷地を接した一画に遊郭があった。遠く宝暦、天明のころにつくられたといわれた遊郭は何れの土地でも「新地」と呼ばれたように、ここも「弥勒の新地」で通っていた。いつごろからこの土地に遊郭が開かれたかについては詳らかではないが、世上いい伝えられている話では佐倉に歩兵部隊が屯営するようになってからだという。</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>宝暦、天明のころは１７５１～１７８９年の間。</p>

<p>少し矛盾がありますが、結局のところ開設されたのは「佐倉に歩兵部隊が屯営するようになってから」ということのようですが、それ以前にもこの場所に遊郭といかないものの、成田詣での人々を相手にした店などがあったのではないかと思われます。</p>

<p>明治時代の迅速測図で見てみると</p>

<p><img alt="弥勒町遊郭あたりの図" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/miroku_yukaku_atari_zu.jpg" width="220" height="229" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>弥勒町遊郭あたりの図。（明治４０年発行の迅速測図「佐倉町」より抜粋）</p>

<p>遊郭のところに街並みとして示されているほど、大きなものであったことがわかります。</p>

<p>新佐倉真佐子には、「官許を得て遊郭が出現したのは明治十六年二月児玉源太郎第二連隊長の時代であったと語り伝えられている。」とあるので、このころに迅速測図に示されているような大きなものになったと思われます。<br />
終戦後の昭和３１年に売春防止法が制定され、この遊郭もなくなり、一部その痕跡を残して今に至っているようです。</p>

<p>明治４０年は１９０７年、明治十六年は１８８３年、昭和３１年は１９５６年。</p>

<p>遊郭のあったところからは佐倉道は下って上る坂道になりますが、この坂を「久保町の坂」といいますが、「久保町」について古今佐倉真佐子には</p>

<blockquote>

<p>此前より一丁余行て左右に土手芝付。上竹やらい。是迄まばらに両町や也。是迄麻賀多うじこ也。土手の先一丁余大坂。坂下半丁斗、又向一丁余の坂。坂の左右さかなりに町やしげくある。屋ねの上半月のごとし。通りも半月のごとし。久保町と号す。</p>

</blockquote>

<p>とあり、古今佐倉真佐子の書かれた時代には、「久保町」といっていたことが書かれています。</p>

<p><br />
古今佐倉真佐子が書かれた時代は、稲葉時代で書かれたのが宝永３年ではないかと推定されていますので、１７０６年以前には「久保町」と呼ばれていたことがはっきりとしています。<br />
ところが、土地宝典や多輪免喜では坂を下ったところまでは「弥勒町」、上るところからは「本町」になるのですが、「久保町」という地名は出てきません。<br />
しかし、バス停にも「久保町」という名があるので、江戸時代（稲葉時代以降）の街道整備にともない町の区割りが整理され、小字名が付けられた時に「久保町」という名称がなくなってしまったか、明治時代の町村合併や町村内の区画整理もしくは大字小字の整理の時に「久保町」の名称がなくなったと思われ、このあたりに住んでいる人々は、以前の地名を使っていて現在までこの坂の辺りが「久保町」として通用していたのではないかと思われます。</p>

<p>久保町の坂を５０メートルほど下った左側に、赤い山門があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　弥勒町　北側　妙経寺　入口" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/mirokumachi_myokeiji_irigut.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　弥勒町　北側　妙経寺　入口。（弥勒町、通称久保町）</p>

<p>山門をくぐると参道左に墓地があり、参道正面に本堂があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　弥勒町　北側　妙経寺" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/mirokumachi_myokeiji.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　弥勒町　北側　妙経寺。（弥勒町、通称久保町）</p>

<p>千葉県下総国印旛郡寺院明細帳には</p>

<blockquote>

<p>経胤寺末<br />
日蓮宗　妙経寺<br />
一　本尊　釈迦如来<br />
一　由緒　承応二年創立本寺本実坊先師也<br />
一　本堂間数　間口四間半　奥行四間半<br />
一　庫裏間数　間口七間　奥行四間<br />
一　境内坪数　五百七拾五坪　官有地第四種<br />
一　境内佛堂　貳宇<br />
摩利支天堂<br />
本尊　摩利支天<br />
由緒　不詳<br />
建物　間口四間半　奥行三間半<br />
弁天堂<br />
本尊　弁才天<br />
由緒　不詳<br />
建物　間口壱間　奥行四尺</p>

</blockquote>

<p>とあり、千葉県印旛郡誌にも同じ内容で記述されているので省略します。</p>

<p>承応二年は１６５３年。</p>

<p>千葉県下総国印旛郡寺院明細帳の「日蓮宗」のところには朱線で消しこみがされていて、「顕本法華宗」と直されていて、本堂間数の下に「一、山門　間口壱間四尺　奥行壱間壱尺」、庫裏間数の下に「一、湯殿　間口壱間三尺　奥行壱間三尺」と追記がされており、その下に「昭和十五年三月二十七日記入届出」とあり、境内坪数も朱線で訂正がされており、「五百参拾参」と書き直されていて、境内坪数の上の枠外に「昭和十一年三月三十日境内地縮小許可」とあります。</p>

<p>昭和十五年は１９４０年、昭和十一年は１９３６年。</p>

<p>湯殿を造るのにも、当時は届出をしないといけなかったのでしょうか、不思議な記述です。<br />
さらに不思議な記述に、境外所有地のところの「耕地及別三畝六歩　弥勒町字旧墓台」に朱字で「廿二年二月賣却ヲ許ス」とあり、明治２２年２月に「字旧墓台」を売却したことが書かれていますが、この場所は現在の山門の左にある墓地の左側の台地のことと思われ、もしかすると先に説明をした遊郭（拡張のため）にこの場所を売却したのではないかと思われますが、この記述だけでははっきりとせず、noboの推測の域を出ていません。</p>

<p>妙経寺について、古今佐倉真佐子には</p>

<blockquote>

<p>扨手前の坂の取左の方門有。<br />
○法花宗妙経寺。小寺也。尤客殿もちいさき事也。門共にくずや。本尊は古き三宝ある。大ひん寺也。家中にも少且家、町方にも余ほどある。此寺中大木の椎木にてうへこみし故林の如し客殿前、をくらし。</p>

</blockquote>

<p>とあり、当時はこぢんまりとしたお寺さんだったことが書かれています。</p>

<p>千葉県下総国印旛郡寺院明細帳にある仏堂ですが、見学に訪れた時に見落とした可能性もありますが、参道右側（東側）にはお堂らしきものがなかったので、写真に撮って（見つければ撮っている）ないと思うのですが、平成８年度歴史的建造物調査報告書（佐倉市）の幸田家について書かれているところに「...大正１２年に妙経寺の造営に多額の寄付をしていることが、...」とあり、大正１２年（関東大震災があった年）に建替をしたことが書かれており、その時点で２つの仏堂にあった本尊は、本堂の中に祀られたのではないかと思われ、そうであれば仏堂がなくなっていても不思議ではありません。<br />
左側（西側）の墓地は、本堂の左側の裏のほうまで続いていて、かなり広い墓域があります。</p>

<p>妙経寺から左（東、三谷家住宅からだと直進）に坂を１６０メートルほど下った左に鳥居のある小さな神社があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　本町　北側　妙見神社" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/motomachi_myokenjinja.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　本町　北側　妙見神社。（本町　通称久保町）</p>

<p>創立年代と由緒は不明ですが、江戸時代以前には建てられていたのではないかと思われ、新道々の記には</p>

<blockquote>

<p>国道２９６号線沿いにあって、久保町の一番低い所にある小さな祠をいう。数年前改築はされたが小さなお宮である。けれども軒に吊るしてある鰐口は、現在では珍しい貴重な金口である。お堂の中には古くてこわれかけた厨子が、「延宝七年八月」と刻まれた石の上にあって、１０センチメートル位の大きさの、一刀彫の妙見像が納められている。</p>

</blockquote>

<p>とありますが、新佐倉真佐子には</p>

<blockquote>

<p>...これが本町の妙見様で明治の初めに樹木町の高台から移された神社である。中に据えられている石には延宝二年八月（一六七四）と刻まれてあり、その形は亀が蛇をくわえている様子、紋所は九曜星と月星であるから大佐倉の勝胤寺にある千葉石と同じ紋所である。古くて壊れかけた朱塗の厨子には十センチ位の毘沙門天の一刀彫が入っている。清涼山の北斗妙見を遷祠したものではないかと言われている。...</p>

</blockquote>

<p>とあり、石に刻まれている年代に違いがあり、さらに、厨子の中の一刀彫の像についても「妙見像」と「毘沙門像」といった違いがあり、どちらが正しいのかわかりません。お堂の中の厨子や石については、お堂の扉を開けて見るわけに行かなかったので、確認をしていないためですが、妙見信仰と毘沙門天はつながりがあるので、一刀彫については、どちらの像容としても問題はないと思います。<br />
年代については５年ほど開きがあり、延宝二年は１６７４年で延宝七年は１６７９年になるわけですが、刻まれた字が風化に伴い判読ししづらい状態になっていれば、「二」が「七」に見えるとも限らないのでなんとも難しいところです。<br />
「樹木町の高台から移された」とありますが、妙見神社の右後ろ（北東側）約６０メートルほどの高台辺りが樹木町にあたり、この樹木町のどこから移ったかについては、記述がないのでわかっていません。</p>

<p>一応、妙見神社の鰐口の写真を載せます。</p>

<p><img alt="佐倉町　本町　北側　妙見神社　鰐口" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/motomachi_myokenjinja_wanig.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　本町　北側　妙見神社　鰐口。（本町）</p>

<p>先に弥勒町の遊郭について少しだけ触れましたが、妙見様の縁日について新佐倉真佐子に</p>

<blockquote>

<p>遊郭というところにはどこでも縁日のような賑う日が年に一度や二度はあったものだが、この新地も八月二十一日の妙見社の縁日には宵の内から夜半過ぎまで大変な賑いであった。</p>

<p>...中略...</p>

<p>この妙見社の縁日には境内は勿論、遊郭の入口から大門までの間は、両側に夜店が並んで前へも出られないほどの人出で、大門の中も遊び客や遊郭の姿を一度は見ようとする近郷の女たちもかなり入って賑ったものだ。</p>

</blockquote>

<p>とあり、現在ではすでになくなってしまった、縁日の賑わいの様子が書かれています。</p>

<p>妙見神社から本町交差点までの図を載せておきます。</p>

<p><img alt="順天堂あたりの図" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/juntendo_atari_zu.jpg" width="450" height="589" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>順天堂あたりの図。</p>

<p>妙見神社の佐倉道を挟んで向側（南側）の少し西よりに道が南に向ってありますが、これは古道（勝田道）で、現在は少し広くなっていますが、元はもう少し西側（といっても５メートルほど）にありました。<br />
この道は、ここから佐倉市大蛇町、上代、長熊、八木、酒々井町馬橋、佐倉市上勝田と通じています。</p>

<p>妙見神社から久保町の坂を１３０メートルほど上ると左（北）に細い道があり、ここを５０メートル進むとＴ字路があり、Ｔ字路を左（西）に曲がり５０メートルほど進むと道は右（北）に曲がり、４０メートルほど進むと今度は左（西）に曲がり、３０メートルほど進んだ左側の民家と民家の間に小さな赤い祠と鳥居があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　樹木町　樹木　樹木稲荷神社" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/jumokumachi_jumokuinarijinj.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　樹木町　樹木　樹木稲荷神社。（樹木町）</p>

<p>創立年代と由緒は不明ですが、樹木町も武家屋敷町であったことから、武家屋敷町一区画毎に祀られた稲荷神社であると思われます。<br />
入口が北側にあるため向きが逆のように見えますが、南に社殿（祠）は向いているのでこれが通常で、おそらく、元は南側に参道（入口）があったものと思われますが、宅地化が進んだ結果、現在のようになったものと思われます。<br />
赤い幟には「樹木稲荷大明神」とあり、祠の中には大きな狐（おきつねさん）が対であります。</p>

<p>佐倉城大絵図（正保年間に作成）には「樹木屋敷」とあり、四角の区画屋敷としてありますが、武家屋敷町であることはたしかで、嘉永年間の佐倉城内外付属建物及施設や御家中畑年貢代銭渡帳などにも屋敷町として「樹木町」あるいは「樹木」として載せられています。</p>

<p>正保年間は１６４４～１６４８年の間、嘉永年間は１８４８～１８５４年の間。</p>

<p>樹木稲荷神社から左（西、妙見神社からだと直進）に１０メートルほどでＴ字路があり、Ｔ字路を右（北）に６０メートルほど進むとＴ字路になり、Ｔ字路を右（東）にすぐのところで道は左（北）に曲がり、１０メートルほど進むとＴ字路になり、Ｔ字路を右（東）にアパートの間を８０メートルほど進むと、左下に空地がある所の右（南）の右に空地（平成２２年［２０１０］時点）、左の民家の手前に神社があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　樹木町　樹木　稲荷神社" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/jumokumachi_inarijinja.jpg" width="233" height="350" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　樹木町　樹木　稲荷神社。（樹木町）</p>

<p>一応、赤い社殿においなりさんがいるので稲荷神社と思われ、民家の北側に祀られているところをみると、屋敷神である可能性があります。<br />
しかし、社殿にある石祠と思われるものが、普通に見るとその辺りにある大きな石に見えてしまう形なので、はたして稲荷神社であるとは、判断しにくい感じではあります。</p>

<p><img alt="佐倉町　樹木町　樹木　稲荷神社　中にある石祠（石）" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/jumokumachi_inari_ishi.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　樹木町　樹木　稲荷神社　中にある石祠（石）。（樹木町）</p>

<p>昔このあたりを散策した時には、この神社には全く気がつきませんでしたので、いつごろからあったのか定かではありません。</p>

<p>この稲荷神社の下側（北側）の空地に道は続いているのでここを下りると北側に空地（右側に畑がある窪地）がありますが、この空地から５０メートルほど北西側、大通りに近いほうに低木（マサキ）が２つありますが、このあたりに「八蔵殿」という石碑があると新道々の記にはあるのですが、現在は探してもその石碑（石）は見当たりません。</p>

<p>八蔵殿の石碑について、新道々の記には</p>

<blockquote>

<p>本町字蛭田１４５番地先の路地に、５・６間のマサキの垣根があり、その根元に小さな石碑が一基置かれている。縦３５センチ、横１８センチ、奥行１３センチの碑の正面に「八蔵殿」、右側面に「寛政五癸丑年」、左側面に「三月吉日」の刻字がある。<br />
この碑は歯の神様であるという。２００年ちかく続いた歯の神様は、土ほこりにまみれて立ち続け、今日なお信仰の対象として、わずかに口伝えに跡を留めているばかりである。</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>寛政五年は１７９３年。</p>

<p>それにしても、この八蔵殿の石碑はマサキの下に埋もれてしまったのか、それとも先にあった稲荷神社の中にあった石祠のような石が実は八蔵殿の石碑で、新たに稲荷神社として祀られたのか、それはわかっていませんが、歯の神様がこの辺りに存在していたことだけは確かな事実です。</p>

<p>八蔵殿の石碑があったマサキのある空地（窪地）から、稲荷神社前の空地に戻り稲荷神社前からアパートを通り抜けて、アパート前のＴ字路に戻り、今度はＴ字路を右（北、樹木稲荷神社からだと直進）に５０メートルほどいくとＴ字路があり、Ｔ字路を右（東）に２０メートルほどいくとＴ字路があり、ここを左（北、逆側の道は八蔵殿の石碑のあった空地から続いている）に曲がり４０メートルほどいったところのＴ字路を左（西）に曲がり、２０メートルほどいったＴ字路の南西角のところに大師堂（小祠）があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　大蛇町　東慶院前　大師堂（小祠）" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/oojamachi_tokeiiniato_daish.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　大蛇町　東慶院前　大師堂（小祠）。（大蛇町）</p>

<p>少し変わった位置にある大師堂（小祠）で、右にあるのが大師像、左にあるのは供養塔と思われ正面の右に「□□■（襌）定門」、その下に二列に「元文二丁巳　四月十六日」、正面の真中に仏像があり、正面の左に「■（自か目か？）［欠損でわからず］■（襌）定尼」とあります。</p>

<p>元文二年は１７３７年。</p>

<p>□は判読内文字で、■は判読しづらい文字で（）は入るであろう文字です。</p>

<p>像容は、上部顔の部分が壊されたか破損したかではっきりしませんが、右手に蓮華（未開蓮）と蓮茎を持っているところから、勢至菩薩もしくは月光菩薩ではないかと思われます。</p>

<p>この大師堂がある辺りから、現在はない東慶院の境内に入ると思われ、大師堂から２０メートルほど進むと墓地があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　大蛇町　東慶院前　東慶院前墓地" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/oojamachi_tokeiinato.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　大蛇町　東慶院前　東慶院前墓地。（大蛇町）</p>

<p>ここに入口がありますが、この入口から右（北）に３０メートルほど進んだ左（西）の墓地の横から墓地内には入れるのでここから入り、そのまま３０メートルほど進むと崖があるので、その手前あたりで左（南）に２０メートルほど進んだ、ちょうど墓地の裏あたりにベンチがあり、ここまでが東慶院の本堂などがあった中心地になると思われます。</p>

<p>千葉県下総国印旛郡寺院明細帳には</p>

<blockquote>

<p>勝胤寺末<br />
曹洞宗　東慶院<br />
一　本尊　大日如来<br />
一　由緒　不詳<br />
一　本堂間数　間口六間　奥行五間<br />
一　境内坪数　貳百九拾七坪　民有地第四種</p>

</blockquote>

<p>とあり、千葉県印旛郡誌には</p>

<blockquote>

<p>大蛇村字東慶院前にあり曹洞宗にして勝胤寺末なり大日如來を本尊とす由緒不詳堂宇間口六間奥行五間なりしも大破に付間口三間に縮造せり [明治十六年十二月十四日] 境内二百九十七坪 [官有地第四種] あり...</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>明治十六年は１８８３年。</p>

<p>千葉県下総国印旛郡寺院明細帳の「由緒　不詳」の下に、「昭和八年七月二十二日本縣知事ノ許可ヲ得テ福岡縣筑紫郡春日村ヘ移轉　同年八月二十五日移轉済　（昭和八、一二、二八届出）」とあり、本堂間数の「間口六間　奥行五間」は朱線で消され、その下に「大破ニ付　間口五間　奥行三間　ニ　縮造　十六年十二月十四日」とあり、さらに「大破ニ付　間口五間　奥行三間」の間口と奥行も朱線で消されており、縮造の右に「大正十三年七月二十二日午后四時焼失」とあり、境内坪数の「貳百九拾七坪」は朱線で消されていて、右に「壱百四拾六坪」とあり、「官有地第四種」の「官」は朱線で消され「民」と直され、「明治　年　月日無代下奐」とあります。<br />
千葉県印旛郡誌の記述は大正初期なので、大正十三年の火事の時にはすでに書かれていたため、一回目の訂正時の内容が書かれているようです。</p>

<p>昭和八年は１９３３年、明治十六年は１８８３年、大正十三年は１９２４年。</p>

<p>福岡縣筑紫郡春日村は、現在の福岡県春日市になり、東慶院は豊川稲荷九州別院と同じ境内にあり、「昭和８年（１９３３）佐倉町から勧請したものと伝えられると」あるので、大蛇町にあった東慶院は昭和８年に移転したことがわかります。<br />
ところが、佐倉市誌には「東慶院は勝胤寺に併合」とあり、佐倉市誌編纂時に千葉県下総国印旛郡寺院明細帳の追加事項を見逃したものと思われます。<br />
因みに佐倉市誌編纂は昭和３０年代です。</p>

<p>昭和３０年代は１９５５～１９４４年までの間。</p>

<p>大正１３年の火事については、多輪免喜に「大正十三年子供の火遊びで無住のお寺は焼失、現在墓地のみ」とあり、子供の火遊びが原因だったことが書かれています。<br />
東慶院跡に残された墓地は、<a href="http://sanpobokko.com/stroll_note/2010/05/post-115.php">成田街道（佐倉道）その１０３</a>で訪ねた勝寿寺が管理しています。<br />
勝寿寺も勝胤寺末であった関係で、墓地を管理しているものと思われます。</p>

<p>東慶院跡の東慶院前墓地から樹木稲荷神社を経由して佐倉道に戻り、今度は左（東）に進んでいきます。</p>

<p>ということで、今回はここまで。</p>

<p>参考文献は、「歴史の道調査報告書　成田街道」、「佐倉市史」、「千葉県下総国印旛郡寺院明細帳」、「千葉県下総国印旛郡神社明細帳」、「千葉県印旛郡誌」、「佐倉市誌資料」、「佐倉の歴史を学ぶ　資料集」、「多輪免喜」、「佐倉風土記」、「佐倉文庫」、「古今佐倉真佐子」、「新佐倉真佐子　－佐倉のお茶の間風土記－」、「総州佐倉御城府内之図」、「ふるさとの石仏」、「佐倉町二十五年誌」、「新道々の記」、「佐倉細見」、｢佐倉さんぽ　散策マップ（佐倉市観光協会発行）」、「城下町佐倉歴史街道の旅」、「佐倉市史研究」、「弥勒町遺跡」、「平成１６・１７年度佐倉市埋蔵文化財発掘調査報告書」、「平成７年度歴史的建造物詳細調査報告書」より。</p>

<p>引用は各文献と各社寺の説明板、地域の説明板より。</p>

<p>今回の地図は<a href="http://sanpobokko.com/kaido_image/sakuramichi_6.jpg">「佐倉道６」</a>です。</p>

<p>国土地理院２５０００分の１「佐倉」より作成しています。</p>]]>
    </content>
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    <title>成田街道（佐倉道）その１０４</title>
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    <published>2010-05-23T13:23:27Z</published>
    <updated>2010-05-23T13:23:27Z</updated>

    <summary>佐倉道　石渡家住宅のある十字路（千葉県佐倉市弥勒町）から旧堀田邸に寄り道をして、土井酒店のある十字路...</summary>
    <author>
        <name>nobo</name>
        
    </author>
    
        <category term="街道歩き" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    <category term="佐倉市" label="佐倉市" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
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    <category term="南年貢道" label="南年貢道" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    <category term="成田街道" label="成田街道" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://sanpobokko.com/stroll_note/">
        <![CDATA[<p>佐倉道　石渡家住宅のある十字路（千葉県佐倉市弥勒町）から旧堀田邸に寄り道をして、土井酒店のある十字路（千葉県佐倉市弥勒町）まで</p>

<p>この先への図を載せます。</p>

<p><img alt="旧堀田邸あたりの図" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/kyu_hottatei_atari_zu.jpg" width="500" height="451" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>旧堀田邸あたりの図。</p>

<p>石渡家住宅のある十字路まで戻ったら、十字路を直進（南、勝寿寺からだと右）し６０メートルほどいくと変形４差路があり、４差路の右へ行く道のすぐ左斜めに鳥居の見える参道があり、その参道の奥に神社があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　弥勒町　五郎台　八幡神社" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/mirokumachi_hachimanjinja.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　弥勒町　五郎台　八幡神社。（弥勒町）</p>

<p>千葉県下総国印旛郡神社明細帳には</p>

<blockquote>

<p>千葉縣管下下總國印旛郡佐倉町弥勒町字南側<br />
村社<br />
八幡神社<br />
一　祭神　誉田別命<br />
一　由緒　不詳<br />
一　社殿間数　間口壱間　奥行九尺　拝殿　間口参間　奥行弐間<br />
一　境内坪数　貳百坪</p>

</blockquote>

<p>とあり、千葉県印旛郡誌には</p>

<blockquote>

<p>彌勒町字五郎臺にあり譽田別命木花開邪姫命を祭る由緒不詳なれども明治四十三年三月十二日許可を得て彌勒町字南側にありし無格社子安神社を本社に合祀す本殿の間口一間奥行九尺拜殿間くぢ三間奥行二間にして境内四百六十六坪 [官有地第一種] あり</p>

</blockquote>

<p>とあり、千葉県神社名鑑には</p>

<blockquote>

<p>祭神　譽田別命（ほんだわけのみこと）<br />
例祭日　九月一五日<br />
主要建物　本殿・銅板葺流造一坪、拝殿・銅板葺寄席棟造六坪<br />
境内坪数　四四六坪<br />
氏子　一〇〇戸　宮司　＊＊＊＊<br />
由緒沿革　詳細明らかでない。明治二九年火災にあい、現在の社殿は再建したものである。</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>明治四十三年は１９１０年、明治二九年は１８９６年。</p>

<p>千葉県下総国印旛郡神社明細帳にある「村社」の上には朱字で、「明治四十三年三月十二日付指令仝所字南側無格社肥やす神社（祭神木花開耶姫命）ヲ合祀シ財産譲与許可ノ上第五〇一九号」、「四十三年四月三日合祀ノ旨仝月五日付届出ヲ仝年四月十二日第二五一三号受諾」とあり、その左に「廿九年十二月一日燒失ス」とあります。<br />
始めに書かれたのは「廿九年」のほうで、これは新町の大火で焼失した時のことになり、明治四十三年は近くの子安神社を合祀したと書かれていますが、この弥勒町字南側の子安神社もおそらく明治２９年の大火で焼失をし、その後再建されることなく八幡神社に合祀されたと考えられます。<br />
祭神の下には朱字で「子安神社祭神木花開耶姫ヲ合祀ス」と追記がされ、由緒のところには朱字で「明治四十三年三月十二日仝所字南側無格社子安神社（祭神木花開耶姫命）ヲ合祀ス」とあり、社殿間数のところの奥行には朱線で消されているところには「壱間」とあり、拝殿の下には朱字で「四十一年四月十五日ニ発第一六〇号」とあり、境内坪数のところには「外弐百拾四坪（明治三十八年一月七日境内一収第五三八号ヲ以テ編入許可）とあります。<br />
子安神社を合祀する前の明治４１年には、社殿（この場合は本殿のこと）を少し小さくしたとあり、その前の明治３８年には境内として２１４坪を編入したとあります。</p>

<p>明治四十三年は１９１０年、明治廿九年は明治２９年のことで１８９６年、明治四十一年は１９０８年、明治三十八年は１９０５年。</p>

<p>字名について、千葉県下総国印旛郡神社明細帳と千葉県印旛郡では、「南側」と「五郎臺」と別の字名で書かれていて不思議な気がしますが、享保七年に書かれた「佐倉風土記」には「八幡　郭外野狐臺ニ在」とあり、八幡神社の場所を「野狐台」としているところから、もともと「野狐台町」であったところがいつしか「弥勒町」の中になったと思われ、明治２９年に新町の大火で焼失する前は、現在の位置より北側の変形４差路から八幡神社に入ったあたりにあったものと思われ、この位置であれば小字名で「南側」の位置になり、現在の社殿の位置であれば小字名は「五郎台」となります。</p>

<p>再建された時期について、新佐倉真佐子では「明治三十一年四月に再建された社殿が現在の八幡神社である。」とあり、明治３８年に社殿を「間口壱間　奥行九尺」としたのは、新しい社殿の大きさがこうなったということのようです。</p>]]>
        <![CDATA[<p>八幡神社について、新佐倉真佐子には</p>

<blockquote>

<p>ここ弥勒町の氏神は八幡神社である。佐倉の氏神は郷社麻賀多神社であると一般には思われているようだが弥勒町だけは別で、町内氏子が古くから崇敬した八幡神社である。</p>

<p>...中略...</p>

<p>この八幡神社が何時代のころ創建されたかについては詳らかでないが社殿前に現存する手洗は文政二年四月、常夜燈は文政八年に奉納されている点から考え合わせると百六十年以前の創建であることがわかる。麻賀多神社の台帳に記された記録によれば幕末のころは今の社殿より北方にあったといわれるから境内の中ほどにあったのかとも推定される。また松林寺の境内にあったという説もあるが、これはにわかには断定できない。</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>文政二年は１８１９年、文政八年は１８２５年。</p>

<p>新佐倉真佐子の中に「今の社殿より北方にあったといわれるから境内の中ほどにあったのかとも推定される。」とありますが、中ほどであると、「南側」と「五郎台」との境界からは南側になり、中ほどでも「五郎台」であるということになってしまいますので、もう少し北側というのが妥当なところと思われます。</p>

<p>八幡神社入口のすぐ左には石碑（石柱）があり、「万国博覧会記念樹　一九七〇年　西村浩治」と刻まれていて、その左にその時に植えられた木が大きく育っています。</p>

<p>万国博覧会とは日本万国博覧会、１９７０年に行なわれた大阪万博のことで、大阪府吹田市と茨木市にまたがる千里丘で開催された万博のことを記念して植樹がされたようです。<br />
同じ石碑（石柱）が、鳥居の左少し後ろにもう一つあります。</p>

<p>はじめの石碑（石柱）の横から参道があり、少しいくと鳥居があります、上記にもありましたが、八幡神社のもとの位置はこの辺りになるのではないかと考えられます。<br />
その理由は、この鳥居の後ろあたりが小字の境界になり、変形四差路側が「南側」になり鳥居の少し後ろから「五郎台」になるわけです。<br />
鳥居をくぐり右側には、弥勒町会館がありますが、参道を境に参道側が「弥勒町」、弥勒町会館側が「野狐台町」になっていて、少々ややこしいことになっているところです。<br />
弥勒町会館の逆側に先ほどの石碑（石柱）の二つ目があり、参道を進んでいくと、狛犬・燈籠・燈籠と続き、右側に手水舎、左側に絵馬掛があり、大きな燈籠の後に拝殿があり、その後に本殿があります。<br />
境内は三角形の形に南側に広がっていて、ぐるっと回ると、弥勒町会館の後ろの一段高くなったところの民家のところに社殿らしきものが見えますが、これは八幡神社の境内ではなく別の神社になります。</p>

<p>ここで一つ疑問があり、千葉県下総国印旛郡神社明細帳と千葉県印旛郡誌には「子安神社を合祀す」とあったわけですが、千葉県神社名鑑には「子安神社」については記述がなく、さらに祭神のところにも「木花開耶姫命」がなくなっていますが、どうも現在は合祀されていないような気配があります。<br />
このことについては、後ほど考えるとして、八幡神社入口まで戻り、今度は左（西、石渡家住宅からだと右）に５０メートルほどのところ左に駐車場があり、民家と駐車場の間に細い道が民家側に石柱があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　野狐台町　踊尾余　弥助稲荷神社入口" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/yakkodai_yasukeinarijinja_i.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　野狐台町　踊尾余　弥助稲荷神社入口。（野狐台町）</p>

<p>石柱には「弥助稲荷神社入口」とあり、ここを進んでいくと「弥助稲荷神社参道入口」という木柱があり、少し行くと階段があって少し下りた左に鳥居と神社があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　野狐台町　踊尾余　弥助稲荷神社" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/yakkodai_yasukeinarijinja.jpg" width="233" height="350" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　野狐台町　踊尾余　弥助稲荷神社。（野狐台町）</p>

<p>創立年代についてはわかっていませんが、佐倉市史の民俗編には</p>

<blockquote>

<p>佐倉藩の下級武士であった弥助という武士は忠節・誠実無類の武士で、おとのさまの信任あつく若とのの守りをおおせつかっていた。ところがこれを除こうとする一派があって、ある日若とのの食に毒をもったのである。弥助はそれに気づき、あやうく事無きを得たが、それから数日後、踊り尾余の曲輪へ帰る途中、日もとっぷりと暮れた妙隆寺の裏の坂で、弥助は何者かに襲われた。不意打をくらい、体を交わすまもなく身に重傷を負ったが、必死に逃れて自分の家の近くまでたどりつき、遂に事切れた。周辺の人これをあわれみ、弥助稲荷として祀った。弥助の人徳は、日頃から地域の人々の尊敬を集めていたのであろう。弥助稲荷は今も守り神として信仰されている。</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>踊り尾余の曲輪とは、踊尾余の組屋敷（武家屋敷）のことで、この弥助稲荷神社入口の道の両側、<a href="http://sanpobokko.com/stroll_note/2010/05/post-114.php">成田街道（佐倉道）その１０２</a>で訪ねた淡嶋神社の南側までが踊尾余になり、妙隆寺の裏の坂というと、番神道（妙隆寺の南側の細道）中ほどの坂のところということになり、そこでいわゆる闇討ちにあってしまったということのようです。</p>

<p>この弥助稲荷神社は、先に訪ねた八幡神社のところから見えていた祠になります。</p>

<p>弥助稲荷神社から八幡神社入口前の変形４差路まで戻り、今度は右（南、石渡家住宅からだと直進）に坂を６０メートルほど下った右側の崖のそばに神社があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　弥勒町　五郎台　道祖神社" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/mirokumachi_dosojinja.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　弥勒町　五郎台　道祖神社。（弥勒町）</p>

<p>創立年代と由緒は不明で、ちょうど八幡神社の東側の崖の下、坂の中ほどやや北よりの場所に当り、このすぐ下辺りで弥勒町と鏑木町の町（大字）の境界になっているところです。</p>

<p>鳥居をくぐりお堂（小祠）の扉の中をのぞくと、下に地蔵像とその後に台石（手洗石か？）、その台石の上に丸い石（五輪塔もしくは宝篋印塔の上部に見える）があり、上には道祖神の石祠があります。<br />
地蔵塔の上部右に「智（？）」、上部左に「寶（？）暦」とあり、その下は赤い前掛けがありわかりません。</p>

<p>宝暦であれば、１７５１～１７６４年の間に造られたということになります。</p>

<p>道祖神社から変形４差路を経由して、石渡家住宅前の十字路まで戻り、佐倉道を右（東、勝寿寺からだと直進、松林寺からだと左）に６０メートルほど左には幸田薬局があり、幸田薬局から５０メートルほどのところに十字路があり、この十字路の北東角には、平成２２年（２０１０）現在営業していないコンビニがあり、その手前の電柱には「土井酒店」とある看板があるのでこれが目印となります。<br />
この十字路の南西角あたりは現在は住宅が建ち並んでいますが、平成１９年（２００７）辺りまでは「大川水道」という会社がありましたが、この「大川水道」とは<a href="http://sanpobokko.com/stroll_note/2010/03/post-107.php">成田街道（佐倉道）その９５</a>で訪ねた大聖院にあった「水道の由来」の中の「大川徳治氏が水道事業」をはじめた会社のことで、最近までこの場所にありましたが残念なことに宅地となりなくなってしまったようです。</p>

<p>さて、この十字路は佐倉城から千葉寒川湊へ続く、もうひとつの佐倉道の分岐点であり、ここから南の道を南年貢道といい、<a href="http://sanpobokko.com/stroll_note/2010/01/post-102.php">成田街道（佐倉道）その９０</a>、<a href="http://sanpobokko.com/stroll_note/2010/03/post-107.php">成田街道（佐倉道）その９５</a>、<a href="http://sanpobokko.com/stroll_note/2010/03/post-108.php">成田街道（佐倉道）その９６</a>、<a href="http://sanpobokko.com/stroll_note/2010/03/post-109.php">成田街道（佐倉道）その９７</a>で出てきた北年貢道と同じく、佐倉藩と千葉寒川湊を結び、年貢や物資などが行き交う輸送のための南回りの道になります。<br />
ルートは六崎、木野子、神門、馬渡（ここまで佐倉市）、吉岡（四街道市）、若松町、桜木町、道場、道場で北年貢道と合流して寒川湊（ここまで千葉市）に通じていました。</p>

<p>十字路を右（南）に曲がり、３０メートルほど左側の住宅の敷地内に、大木の左側に小祠（屋敷神）を確認し、さらに８０メートルほどのＴ字路を右（西）に曲がり、６０メートルほどの右の少し奥に神社があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　野狐台町　五郎台　稲荷神社" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/yakkodaimachi_goryodai_hokora.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　野狐台町　五郎台　稲荷神社。（野狐台町）</p>

<p>創立年代と由緒は不明ですが、道路から稲荷神社までの空地（境内）が整備されていて守られているところをみると、堀田正盛時代に武家屋敷一区画毎に建てられた稲荷神社の慣例を踏襲して、建てられたものではないかと思われます。<br />
このあたりの武家屋敷や足軽組屋敷などは、佐倉市史によれば「...間ノ町南側、踊尾余、野狐台に長屋が出来たのは絵図には寛文年間以降であるが、それ以前の前の堀田、土井時代の絵図には出ないというだけで明確なことはわからない。」とあり、もしかすると堀田正盛時代には野狐台町には武家屋敷と足軽長屋が建てられて（もしくは建てられ始めて）、武家屋敷一区画毎にというお達しのもとに建てられていたものなのかも知れませんが、はっきりしたことは定かではありません。</p>

<p>寛文年間は１６６１～１６７３年の間。</p>

<p>稲荷神社から右（西、土井酒店のある十字路からだと直進）に２０メートルほどで十字路があり、ここを右（北）へ１０メートルほどの右に神社があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　野狐台町　五郎台　子安神社" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/yakkodaimachi_koyasujinja.jpg" width="233" height="350" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　野狐台町　五郎台　子安神社。（野狐台町）</p>

<p>創立年代と由緒は不明ですが、先に訪ねた八幡神社の中に子安神社が見当たらなかったことと、千葉県神社名鑑に子安神社についての記述と、祭神に「木花開耶姫命」が載せられていないことから、もしかするとこの場所に子安神社を分祀（遷座）したのではないかと思われますが、これもはっきりしていないので定かではありません。<br />
このあたりは、武家屋敷町であったところで、さらに、弥勒町字南側は道路向かい（西側）であり、もともとの子安神社があった場所に極めて近いところにあります。</p>

<p>弥勒町の子安神社が、この野狐台町にある子安神社であれば、かなり古くからあるものであるのですが、その子安神社についての記述は佐倉市史の「社寺の取締」のところにわずかに</p>

<blockquote>

<p>寛延４.７．２４　弥勒町子安大明神（宮越大和守支配）神前にて八月一日より同十五日迄、昼九ツ時より七ツ半迄神道・講演講談、講師は香取郡野田村稲荷大明神神主朝日因幡守。</p>

</blockquote>

<p>とあるのみです。</p>

<p>寛延４年は宝暦元年でもあり１７５１年。<br />
昼九ツは午後０時で、七ツ半は午後５時ごろなので、午後０時から５時まで講演講談などをやっていたということです。<br />
香取郡野田村稲荷大明神は、千葉県匝瑳市野栄栢田（旧千葉県匝瑳郡野栄町栢田）にある稲荷神社のことと思われます。</p>

<p>創建は寛延年間より前であることは佐倉市史の記述で確認できましたが、野狐台町のその子安大明神であるのかどうかは、先にも書きましたがはっきりしていませんが、そうであるば八幡神社に子安神社がない事に納得がいきます。</p>

<p>古くからの道は先iにあった稲荷神社の道筋になり、十字路を直進（西）し５０メートルほど坂を下って上ると八幡神社の前の変形４差路にたどり着きますが、この道筋が<a href="http://sanpobokko.com/stroll_note/2010/05/post-114.php">成田街道（佐倉道）その１０２</a>で訪ねた妙隆寺へ行く肴町の直角カーブのところからの道で、妙隆寺、淡嶋神社、弥助稲荷神社、八幡神社、稲荷神社と続いています。</p>

<p>子安神社から十字路に戻り、稲荷神社を通り先ほどのＴ字路に戻ったら、Ｔ字路を右（南、土井酒店のある十字路からだと直進）に１２０メートルほど進むと信号のある交差点がありますが、野狐台町は江戸時代（寛文年間以降）は足軽の組長屋があり、佐倉市史によると野狐台町のほぼ全域に組長屋があったとあります。<br />
現在のように住宅が建ち並んだのは、廃藩置県以降のことですが、その町並みの感じはその頃からのものであるようです。</p>

<p>信号を渡ったところに「佐倉ゆうゆうの里」の入口があり、その入口左には説明板があります。</p>

<p>説明板には</p>

<blockquote>

<p>旧堀田邸と堀田家農事試験場跡</p>

<p>明治２３年（１８９０）堀田正倫は佐倉に邸宅を構え、この地で国の基となる事業をおこなおうとしました。明治３０年に創設された堀田家農事試験場はその事業のひとつです。当時千葉県下には、農業を研究する場がなかったため、正倫は自らの邸宅に隣接した土地を購入し、堀田家農事試験場を創設しました。ここでは、県内外の農民に農業技術を教え、種苗・種禽・種卵を配布しました。県農事試験場の運営が軌道に乗ると、大正１５年（１９２６）堀田家農事試験場は、その役目を終え閉場されました。現在も通路脇に残る土手に、その名残をみることができます。</p>

<p>図は省略します。</p>

<p>平成１４年３月　佐倉市教育委員会</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>明治３０年は１８９７年、平成１４年は２００２年。</p>

<p>堀田家農事試験場のあったところは、現在の佐倉ゆうゆうの里の敷地のほぼ全域（旧堀田邸と佐倉厚生園の敷地は除く）になり、昭和６０年におこなわれた、佐倉ゆうゆうの里の建設前の遺跡調査では、弥生時代のものと思われる住居趾が一軒出土したのみと「佐倉市弥勒日暮台遺跡」にはあります。<br />
農事試験場時代にこの下にあった遺跡のほとんどは、開墾や整地に伴う掘り下げなどにより消滅したものと思われ、この遺跡調査時おいても土器片が少量出土する程度にとどまっています。</p>

<p>昭和６０年は１９８５年。</p>

<p>佐倉ゆうゆうの里の入口から道なりに２００メートルほど進むと、正面に大きな冠木門と板塀があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　鏑木町　諏訪尾余　旧堀田邸入口" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/kaburagimachi_kyuhottatei_i.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　鏑木町　諏訪尾余　旧堀田邸入口。（鏑木町）</p>

<p>冠木門の左側に説明板があり</p>

<blockquote>

<p>旧堀田邸（重要文化財　旧堀田家住宅）・さくら庭園</p>

<p>旧堀田邸・さくら庭園は、最後の佐倉藩主であった堀田正倫が、旧領地に住居を移すために建設した建物と庭園です。<br />
主屋は木造平屋建て一部二階建て、屋根は寄席棟造瓦葺きの建物５棟で構成され、明治２３年（１８９０）に竣工しました。その後、明治４４年（１９１１）には湯殿が増築されました。主屋や門番所、土蔵はほぼ建設当時のまま良好な状態で残されております。庭園は、芝を中心に赤松やサルスベリなどの樹木を景石や石塔を配し、高崎川と対岸の台地を借景にした眺望が広がっています。<br />
平成９年３月２６日に佐倉市指定文化財名勝に、平成１３年３月３０日には千葉県指定文化財名勝にそれぞれ指定され、平成１８年７月５日には住居部５棟と門番所、土蔵の合計７棟が邦の重要文化財（建造物）に指定<br />
されました。</p>

<p>図は省略します。</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>平成９年は１９９７年、平成１３年は２００１年、平成１８年は２００６年。</p>

<p>冠木門をくぐり中に入ると左に土蔵が見え、通路をそのまま進んでいくと正面に住宅があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　鏑木町　諏訪尾余　旧堀田邸" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/kaburagimachi_kyuhottatei.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　鏑木町　諏訪尾余　旧堀田邸。（鏑木町）</p>

<p>結構大きな建物で、普段公開されているのは一階のみですが、年に数回ですが２階を見学することができます。<br />
ただし、一番奥にある書斎棟は非公開になっていて見学は出来ません。</p>

<p>この旧堀田邸の見学は有料（平成２２年（2010）現在は大人３１０円、学生は１５０円）になりますが、棟内を案内してくれる方がいて、窓口でお願いをすれば詳しい説明をしてくれますので、立ち寄って見学される時にはお願いするといいと思います。</p>

<p>旧堀田邸の裏側（南側）にはさくら庭園（ここは自由に出入りできます）があり、庭園の少し小高いところに大きな松があったり、その横に石塔があったり、ベンチがあったりしてのんびりできる場所になっています。</p>

<p>旧堀田邸の冠木門まで戻り、右（南東、佐倉ゆうゆうの里入口からだと左）にトイレがあるほうに通路があり、ここを５０メートルほど進んだ左側に神社があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　鏑木町　諏訪尾余　鎮守神社" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/kaburagimachi_chinjujinja.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　鏑木町　諏訪尾余　鎮守神社。（鏑木町）</p>

<p>創立年代と由緒不明の神社ですが、旧堀田家農事試験場の敷地内にあたる場所になるので、試験場のために建てられた神社なのかとも思われるところですが、鎮守神社の手洗石の左側に「明治二十五年三月吉日」とあるところをみると、明治２３年に旧堀田邸が竣工したすぐ後に建てられているようなので、旧堀田邸の守り神として建てられたのではないかと思われます。</p>

<p>明治二十五年は１８９２年。</p>

<p>旧堀田邸のあたりを「諏訪尾余」と呼んでいますが、このあたりに諏訪神社はなく多輪免喜では「尾余（台地）に諏訪神社があったと思われる。」とありますが、現在は西側に浅間神社があるのみです。<br />
この鎮守神社は、旧堀田邸が建てられた当時、すでになくなっていた諏訪神社の跡地に鎮守神社として再建された、とも考えられるわけで、これもnoboの推測に過ぎませんが無きにしも非ずといったところでしょうか。<br />
諏訪神社は、どちらかというと森の奥に建てられることが多いわけで、そういう観点からすると建てられていたとしてもおかしくない位置にあると思われるわけです。</p>

<p>鎮守神社から佐倉ゆうゆうの里入口まで戻り、信号を左（西、土井酒店のある十字路からだと右）に１６０メートルほど緩やかな坂（歩道がないので車に注意して）を下っていくと左側に上っていく道があり、大きな看板（佐倉厚生園）の後に標柱があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　鏑木町　諏訪尾余　浅間神社入口" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/kaburagimachi_sengenjinja_i.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　鏑木町　諏訪尾余　浅間神社入口。（鏑木町）</p>

<p>標柱の正面には「浅間神社登山口」、右側面に「例祭　毎年七月一日」、左側面に「祭神　磐長姫命・木花開耶姫命　神徳　子供之出世開運」とあります。</p>

<p>ここが浅間神社の登山口になり、坂を５０メートルほど上るとＹ字路になっていて、正面を進むのが登山道、左に進むと佐倉厚生園になります。<br />
真っ直ぐ進むと、左に駐車場がありさらに進むと正面と右側にホームさくら苑があり、駐車場の西端から左（南）に道がありますが、その道の北側に大きな塚状のところがあり、そこに神社があります。<br />
神社の正面は道路を南に進んで少し北にいったところにあります。</p>

<p><img alt="佐倉町　鏑木町　諏訪尾余　浅間神社" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/kaburagimachi_sengenjinja.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　鏑木町　諏訪尾余　浅間神社。（鏑木町）</p>

<p>創立年代と由緒は不明ですが、安政年間の佐倉城實測圖には「仙元神社」とあり、古くからある神社であることは確かなようです。</p>

<p>安政年間は１８５４～１８６０年の間。</p>

<p>この浅間神社には、<a href="http://sanpobokko.com/stroll_note/2010/02/post-103.php">成田街道（佐倉道）その９１</a>で歩いた佐倉城の三の丸にあった浅間社を廃城後に移して合祀してあり、山型の石祠と額が社殿の中に祀られています。<br />
石祠について、新佐倉真佐子には「お堂の中に祭られている富士山型の石には貞享二年（一六八五年）と刻まれている。」とあり、大久保忠朝が藩主だった時代に石祠は造られた、ということは佐倉城に祀られたということになります。<br />
大久保忠朝は、<a href="http://sanpobokko.com/stroll_note/2009/05/post-78.php">成田街道（佐倉道）その６８</a>に訪ねた加賀清水に出てきた大久保加賀守のことです。</p>

<p>鳥居をくぐるとすぐに階段があり、階段の中ほどに古い狛犬があり、右側の狛犬のところには「浅間の瀧」と刻まれた石があり、その下に小さな池がありますが、普段は水がないようで玉砂利の底が見えているのみです。<br />
左側の狛犬の下には「小御岳石尊大権現」とある小御嶽塔があり、左側の狛犬の上には標柱があり「下總國　鏑木村　浅間大明神」とあり、古くは「浅間大明神」もしくは「仙元大明神」と読んでいたことがわかります。<br />
その逆側には登山記念塔とその右に石碑（訪ねた時点では草のつるで覆われて何か不明でした）があり、階段を上ると拝殿（本殿）、拝殿の右側には大木があり、この大木は御神木のようです。<br />
この浅間神社は塚の上に建てられていますが、この諏訪尾余には古墳群があったことが知られており、この古墳を利用して浅間塚（仙元塚もしくは富士塚）としたものと思われます。</p>

<p>塚の左側には１６基の石碑があり、前列の左から湯殿三山供養塔２基、秩父供養塔２基、２列目の左から四国八十八ヶ所巡拝記念塔、湯殿三山供養塔２基、３列目の左から秩父供養塔２基、４列目の左から秩父供養塔２基、湯殿三山供養塔、５列目の左から湯殿三山供養塔２基、秩父供養塔、６列目は秩父供養塔の順にあります。</p>

<p>浅間神社の参道は、現在は先ほど上ってきた登山口から上るようになっていますが、もとは浅間神社正面（南）の現在プレハブが建っているところの左側の崖のところにあり、２０年位前にはここを登ってこれましたが、すでにその参道はなくなっています。</p>

<p>この参道（坂）とその下にあった井戸について、新佐倉真佐子には</p>

<blockquote>

<p>とにかく古くから鏑木の人達に信仰されている神社である。毎年七月一日が縁日である。この日講中の人達は、皿田の清水（神社の南の崖の下にあったが、今はアパート海知江荘がその上に建てられて射水は湧き出さない）で身体を清め、白い布地にお山の印を押した着物を着て<br />
&emsp;「三国の光のもとを尋ぬれば、朝日に夕日富士の極楽、南無仙元大菩薩」<br />
と唱えながら、急な表坂を登山の儀式で登り、祭典を始めたものであった。</p>

</blockquote>

<p>とあり、参道があった時分の様子が書かれています。</p>

<p>浅間神社の左側（西側）にはホームさくら苑がありますが、この場所に昭和３年から昭和３０年まで東福寺というお寺さんがあったようで、新佐倉真佐子には</p>

<blockquote>

<p>浅間神社には関係はないが、お社の西側に東福寺の客殿が残されていて中央公民館の鏑木分館として使用されていた。昭和五十一年六月老朽のため撤去され、敷地共厚生園に返還された。これで大正末期から昭和にかけて佐倉町民が苦労に苦労を重ねて建立した東福寺が、すっかり姿を消したことになった。</p>

</blockquote>

<p>とあり、当時佐倉宗吾を祀るお寺として、本家の宗吾霊堂ともめにもめたあとにやっとの思いで建てたのに、結局昭和三十年に寺を解体移築して身売りをし、廃寺となってしまったわけで、残された庫裏であろうと思われる建物が昭和五十一年に撤去されたようです。<br />
この東福寺にあった宗吾坐像は、新佐倉真佐子によると「山ノ崎東福寺に安置されることになった。」とありますが、現在山崎の東福寺は宗吾観音（京成佐倉駅の北側２００メートルほど北西の内郷公園近く）と呼ばれており、ここに安置されているようです。</p>

<p>浅間神社から佐倉ゆうゆうの里前の信号まで戻り、今度は直進（東、旧堀田邸からだと右、土井酒店のある十字路からだと左）し４０メートルほどの左の民家と民家の間に細い道があり、その細い道を２０メートルほど進むと神社があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　野狐台町　野狐台　稲荷神社" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/mirokumachi_inarijinja.jpg" width="233" height="350" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　野狐台町　野狐台　稲荷神社。（野狐台町）</p>

<p>創立年代と由緒不明で、先にあった野狐台町字五郎台の稲荷神社と同じく、足軽の長屋のあったところにあり、細い通路と境内が大事に守られているところをみると、武家屋敷一区画毎に建てられたものと思われます。</p>

<p>稲荷神社手前にある狐（お狐さん）の右側のもの下に「明和四年　亥　三月日」とあり、左側の狐（お狐さん）の後には自然石で出来た石碑があり、正面の真中に「稲荷神社」、正面の右に「明治十七年一月」、正面の左に「朝比奈氏」とあります。</p>

<p>明和四年は１７６７年、明治十七年は１８８４年。</p>

<p>おそらく明和四年以前には稲荷神社は建てられたものと思われ、佐倉藩の藩主は堀田正順（後堀田氏）の時になります。</p>

<p>稲荷神社から左（東、佐倉ゆうゆうの里の信号からだと直進）に５０メートルほどいくとＴ字路があり、Ｔ字路を右（南）に曲がり１３０メートルほど進むと三叉路があり、ここを右の細い道の方へ進むのが南年貢街道で、右の細道を２０メートルほど進むとすぐに坂道になり、３００メートルほど下っていくとさくら庭園の南側の崖下に出ます。</p>

<p><img alt="佐倉町　鏑木町　諏訪尾余　和田村　高岡　蛇作　境界　へび坂" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/kaburagi_takaoka_hebizaka.jpg" width="233" height="350" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　鏑木町　諏訪尾余　和田村　高岡　蛇作　境界　へび坂。（鏑木町と高岡の境）。</p>

<p>ここまでの坂道を「へび坂」といい、現在はひっそりとした道になっていますが、当時は重要な街道筋の一つでした。<br />
「へび坂」の由来については色々とあるようで、道が曲がりくねっているのでヘビのようだから「へび坂」というのが大方ですが、この坂を境に東側を「高岡字蛇作」といい、この「蛇作」から「へび坂」となったのではないかと思われ、多輪免喜の地名の由来のところに「蛇の多い籔地をさすか、又蛇「ジャ」は崖地をさす地名用語でもので、傾斜地とも考えられる。」とあり、「へび」が指すことが「蛇」か「崖地」かは小これははっきりしませんが、蛇のようなくねくねとした蛇作の崖地の坂で「へび坂」というふうになったものと考えてもいいでしょう。<br />
へび坂から先は、現在高崎川にかかっている皿田橋を渡って、ＪＲ佐倉駅の南側を通り六崎へと進んでいきます。</p>

<p>このあたりの図を載せます。</p>

<p><img alt="要行寺・へび坂あたりの図" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/yogyoji_atari_zu.jpg" width="400" height="400" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>要行寺・へび坂あたりの図。</p>

<p>へび坂の入口の三叉路に戻り、直進（東、稲荷神社からだと左）し１５０メートルほど進むと信号があり、ここを右（南）に大きい道を２０メートルほど進むと右に石造物群があります。</p>

<p><img alt="和田村　高岡　野狐台　要行寺前石造物群" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/takaoka_yogyoji_iriguti_dai.jpg" width="233" height="350" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>和田村　高岡　野狐台　要行寺前石造物群。（高岡）</p>

<p>大きい道路側に題目塔が２基あり、左側のものは墓碑と思われますが、正面左の下側に「要行寺」の文字が見えるので、檀家の人か、要行寺の僧のどちらかのものと思われます。<br />
右側のものの右側面には「毎自作是念以何令衆生　得入無上道速成就佛身」とあります。<br />
題目塔の裏側には倒れた馬頭観音塔と不明の石造物があります。</p>

<p><img alt="和田村　高岡　野狐台　要行寺前石造物群　馬頭観音" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/tajaoka_yogyoji_iriguti_bat.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>和田村　高岡　野狐台　要行寺前石造物群　馬頭観音。（高岡）</p>

<p>左のものが馬頭観音で、正面の右に「正徳元辛卯天」、正面の真中に「馬頭觀世音菩薩」、正面の左に「七月七日」とあります。</p>

<p>正徳元年は１７１１年。</p>

<p>題目塔から一旦信号に戻り、細い道を２０メートルほど行った右側（題目塔の右から細道に移動したすぐのところなので、どちらから移動してもいい）にお寺さんがあります。</p>

<p><img alt="和田村　高岡　野狐台　要行寺" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/takaoka_yogyoji.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>和田村　高岡　野狐台　要行寺。（高岡）</p>

<p>千葉県下総国印旛郡寺院明細帳には</p>

<blockquote>

<p>経胤寺末<br />
日蓮宗妙満寺派　要行寺<br />
一　本尊　釈迦如来<br />
一　由緒　不詳<br />
一　本堂間数　間口五間　奥行四間<br />
一　境内坪数　四百九拾壱坪　官有地第四種</p>

</blockquote>

<p>とあり、千葉県印旛郡誌にも同様のことが書かれているので省略します。</p>

<p>千葉県下総国印旛郡寺院明細帳の「日蓮宗妙満寺派」のところには朱線が引かれ訂正がされており、「顕本法華宗」となっていますが、宗派事自体が変わったわけではなく、名称が変わっただけのようです。</p>

<p>入って正面に本堂、右側に墓地があり、こじんまりとしたお寺さんです。</p>

<p>要行寺がある辺りの高岡字野狐台の「野狐台」は、多輪免喜によると</p>

<blockquote>

<p>佐倉市字野狐台町の延長によるものだが、なぜ高岡区に組み込まれたのか、多分地形の関係にもよるか。または要行寺の檀家（日蓮宗）等によるものか。</p>

</blockquote>

<p>とあり、なぜ「野狐台」になったのかは、はっきりしていないようです。</p>

<p>要行寺かせ信号へ戻り、右（東、稲荷神社からだと直進）に渡り５０メートルほど進んだ網の塀の向こう側に、竹塀で囲まれた石造物があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　大蛇町　要行寺脇　粟切り婆さんの墓" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/oojamachi_awakiribasan_haka.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　大蛇町　要行寺脇　粟切り婆さんの墓。（大蛇町）</p>

<p>全農家畜衛生研究所の敷地内にあるので、中に入れませんでしたが、この竹塀の中にある石造物が「粟切り婆さんの墓」と呼ばれているものです。</p>

<p>新道々の記には</p>

<blockquote>

<p>大蛇町の一古老の語る粟切り婆さんの話は次のようである。<br />
「粟切り婆さんは他人の粟を切り取り、潜んでいる時にせきをしたために、捕らえられおとがめをこうむった。いつの頃からか、その墓にせきの平癒を祈るとよく治った。お礼に竹筒に茶を注ぎ供えたと言う。」しかし、他に異った節もある。これまで墓石の所在は転々として衛生研究所近くの路傍にあった。そこで前途の古老が墓石の安置を衛生研究所に懇願した結果、現況となった。鉄扉や墓の新設、その保持管理まで新設な取り計らいに、泉下の霊も成仏合掌していることだろう。この話は、臼井興胤の忠婦阿辰の話に似ている節が多い。共に今はせきの神様である。</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>これを読むと、もともとは悪さをしていた婆様だったが、亡くなった後に墓にお祈りをする人々のせきを治してあげたので、いつの間にかに神様と崇められた、ということなんですが、ひょんなことから神様になってしまった婆様の心境はどんなものかと、ちと考えてしまったりもしますな、こういった話は。</p>

<p>元の位置はどこであるかはわかりませんが、この道筋も古道であり、その古道の路傍に建てられていて、せきの神様とされていても不思議ではないことではあります。</p>

<p>粟切り婆さんの墓から、要行寺、稲荷神社を経由して土井酒店のある十字路まで戻ります。</p>

<p>ということで、今回はここまで。</p>

<p>参考文献は、「歴史の道調査報告書　成田街道」、「佐倉市史」、「千葉県下総国印旛郡寺院明細帳」、「千葉県下総国印旛郡神社明細帳」、「千葉県神社名鑑」、「千葉県印旛郡誌」、「佐倉市誌資料」、「佐倉の歴史を学ぶ　資料集」、「多輪免喜」、「佐倉風土記」、「佐倉文庫」、「古今佐倉真佐子」、「新佐倉真佐子　－佐倉のお茶の間風土記－」、「総州佐倉御城府内之図」、「ふるさとの石仏」、「佐倉町二十五年誌」、「新道々の記」、「佐倉細見」、｢佐倉さんぽ　散策マップ（佐倉市観光協会発行）」、「城下町佐倉歴史街道の旅」、「佐倉市史研究」、「弥勒町遺跡」、「佐倉市弥勒日暮台遺跡・岩富萩山遺跡発掘調査報告書」、「旧堀田邸　パンフレット」より。</p>

<p>引用は各文献と各社寺の説明板、地域の説明板より。</p>

<p>今回の地図は<a href="http://sanpobokko.com/kaido_image/sakuramichi_6.jpg">「佐倉道６」</a>です。</p>

<p>国土地理院２５０００分の１「佐倉」より作成しています。</p>]]>
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    <title>成田街道（佐倉道）その１０３</title>
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    <published>2010-05-14T14:01:09Z</published>
    <updated>2010-05-14T16:41:39Z</updated>

    <summary>佐倉道　肴町の直角カーブ（千葉県佐倉市新町）から石渡家住宅のある十字路（千葉県佐倉市弥勒町）まで 肴...</summary>
    <author>
        <name>nobo</name>
        
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        <category term="街道歩き" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    <category term="佐倉市" label="佐倉市" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    <category term="佐倉道" label="佐倉道" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
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    <category term="成田街道" label="成田街道" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://sanpobokko.com/stroll_note/">
        <![CDATA[<p>佐倉道　肴町の直角カーブ（千葉県佐倉市新町）から石渡家住宅のある十字路（千葉県佐倉市弥勒町）まで</p>

<p><img alt="肴町・間の町・弥勒町・野狐台町あたりの図" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/sakana_mano_miroku_ykko_ata.jpg" width="500" height="432" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>肴町・間の町・弥勒町・野狐台町あたりの図。</p>

<p>肴町の直角カーブ（二つ目の直角カーブ）を東（延覚寺からだと左、妙隆寺からだと直進）に１０メートルほどの右に古い建物がありますが、ここはもと旅館だった建物。<br />
このもと旅館から１０メートルほどの右に石柱（教安寺とある）の建つ参道があり、参道を５０メートルほど進むと門柱があり、その奥にお寺さんがあります。</p>

<p><img alt="佐倉町　新町　肴町西側　教安寺" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/shinmachi_kyoanji.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　新町　肴町西側　教安寺。（新町）</p>

<p>千葉県下総国印旛郡寺院明細帳には</p>

<blockquote>

<p>傳通院末<br />
浄土宗　教安寺<br />
一　本尊　阿彌陀如来<br />
一　由緒　寛永六年中花井左門創立厭誉同波和尚開山其他由緒年月不詳<br />
一　本堂間数　間口八間五分　奥行七間<br />
一　庫裏間数　間口五間　奥行三間<br />
一　境内坪数　六百六拾坪　官有地第四種<br />
一　境内仏堂　貳宇<br />
観音堂<br />
本尊　千手観音<br />
由緒　不詳<br />
建物　間口三間　奥行貳間五分<br />
大師堂<br />
本尊　弘法大師<br />
由緒　不詳<br />
建物　間口壱間　奥行四尺五分</p>

</blockquote>

<p>とあり、千葉県印旛郡誌もほぼ同様の記述なので省略します。</p>

<p>寛永六年は１６２９年。</p>

<p>千葉県印旛郡誌に「淨土宗鎮西派」と記述があるのですが、これは京都府京都市東山区林下町にある知恩院（華頂山知恩院大谷寺）を大本山とする鎮西派のことで、傳通院（無量山傳通院寿経寺）は東京都文京区小石川にあり、徳川家康の生母於方大の方や千姫、徳川家光の正室の孝子の方の墓があり、知恩院にも千姫の墓があります。</p>

<p>参道から門柱に入とる右側には鐘楼があり、鐘楼の手前に説明板があり</p>

<blockquote>

<p>教安寺　縁起</p>

<p>二尊山東傳院教安寺と称し、京都知恩院を總本山とし東京小石川傳通院を本寺とす。佐倉城主土井利勝公の時にその「預り人」の花井左門が内室東傳院殿松誉春貞大姉を開基とし、欣蓮社厭誉道波大和尚を迎えて城主の外護のもと寛永二年（一六二五）教安寺を創建した。今を去る三六七年前なり。<br />
花井左門の父は花井遠江守吉成と称し徳川家康公に仕え、その側室於茶阿の局の生める第六子松平忠輝の家老となり信卌松代海津城六万石を領す。母は於茶阿の局が先夫の子にして忠輝とは異父の姉に当る。忠輝は伊達政宗公の息女五郎八姫と婚を結び慶長十五年高田六十万石の太守となるも父家康の遺言として、二十五歳の元和二年領地を没収され配流を重ねて信卌諏訪城主の「預り人」として天和三年、九十二歳の長寿を以て数奇な生涯を終る。此の事件に花井家は補佐の責を以て花井左門も佐倉城主の「預り人」となり後ち家人として松平左門を称し万治二年七月十日寂す。法号は浄徳院殿雲竜心白居士、昭和五十三年八月傳通院にありし墓石を當寺の開基の墓域に遷す。<br />
貞享、宝永の類災にて堂宇焼失し享保初年（一七一六）にほぼ復興したるも明治維新の大変革、加うるに明治三十五年九月の大暴風雨のため本堂は半潰し解体の上その古材を以てかろうじて再建された。大正十五年十月書院、庫裡の再建なるも戦後の昭和二十五年の農地法に依り一切の供養田畠を失う。<br />
幾多の変遷免れ難くその銘文に寺の歴史を良く傅えた宝暦十年鋳造の梵鐘も銘文を残すのみにて幕末の安政二年海防に供され更に今より二七三年前の享保二年に八代目の佐倉城主稲葉正知公により再鋳され｢佐倉八景｣にも詠ぜられた大手門鐘楼堂の「時の鐘」は明治四年の廃藩置県の頃、教安寺に移され太平洋戦争酣の昭和十八年一月多くの仏具と共に供出されるまで梵鐘として市民に親しまれたるも、奇しく銘文のみを残して宝暦の梵鐘と命運を共にした。供出代金四五六円五七銭也、噫々（ああ）無常なるかな。<br />
戦後三十年の昭和五十二年三月教安寺創建三五〇年を慶祝して檀信徒並に市民の協力により大梵鐘を鋳造して享保の名鐘を再生し英霊の冥福をすすめ平和祈念の妙音は印旛沼畔に響き渉り、昭和六十二年には三上人御遠忌を奉謝して本堂屋根大改修の悲願を達成した。<br />
開創以来三六〇余年の星霜を閲し、世代を重ねること二十二世なり。</p>

<p>平成三年八月<br />
代二十二世　謙誉</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>慶長十五年は１６１０年、元和二年は１６１６年、天和三年は１６８３年、万治二年は１６５９年、昭和五十三年は１９７８年、貞享は１６８４～１６８８年の間、宝永は１７０４～１７１１年の間、明治三十五年は１９０２年、大正十五年は昭和元年でもあり、１９２６年、昭和二十五年は１９５０年、宝暦十年は１７６０年、安政二年は１８５５年、享保二年は１７１７年、明治四年は１８７１年、昭和十八年は１９４３年、昭和五十二年は１９７７年、昭和六十二年は１９８７年、平成三年は１９９１年。</p>]]>
        <![CDATA[<p>梵鐘について少し補足をすると、はじめの梵鐘は貞享宝永年間の類災で焼失し、その後宝暦十年に教安寺の第八世誠誉上人が二代目の梵鐘を造立し安永六年類焼により焼失、文化九年に第十一世僊挙上人が再建（二代目をもとにしてか、三代目としてかははっきりしていませんが、宝暦の二代目と同様に仕上げたものということは確かなようです。）、この梵鐘の写しが現在に残っているものになり、新佐倉真佐子の記述の中に</p>

<blockquote>

<p>前記宝暦梵鐘は安政二年十一月御触書写しに、「諸国寺院に有之候梵鐘之義本寺並に古来之名□当節時々鐘相用候分相除き余不残大砲小銃に云々...」とあり、幕末黒船来航の折り供出したるか、又は明治初年に紛失し足るものと考えられる。</p>

</blockquote>

<p>とあり、「本寺以外分相応の名のある梵鐘以外は、大砲や小銃を作るために残らずだしなさい」という御触書が出されていたために、供出したのか、それともどこかに紛失してしまったのかと、新佐倉真佐子では記述していますが、説明板では安政二年の海防のために供出としています。</p>

<p>安政二年は１８５５年、明治初年は１８６８年。<br />
□は文字が判読できずに不明であったところのようです。</p>

<p>その後、明治四年に三代目（四代目なのかもしれませんが）の梵鐘が、佐倉城大手門にあった鐘楼から移され昭和十八年に太平洋戦争のために供出されるまであったということで、新佐倉真佐子には</p>

<blockquote>

<p>時は移り佐倉城大手門の桝形土手の東（現在の佐倉中学校の右側）にあった鐘楼堂の時報の鐘を廃城後明治五年～六年に教安寺檀徒であり佐倉藩の執政佐治延年氏の配慮により、教安寺に移され梵鐘となったと推測される。</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>明治四年は１８７１年、明治五年～六年は１８７２～１８７３年。</p>

<p>説明板とズレがありますが、どちらにしても廃藩置県後すぐに教安寺に移されたということは確かなようです。</p>

<p>鐘楼の逆側、門柱を入って左側に２基の如意輪観音があり、この２基は共に墓碑らしく、左側の大きいものの正面の右に「貞享■（ニか三か？）□□正月六日　■（因か？）■（寂か？）■（簟か單か？）譽真源□□□覚■（位か？）」、正面真中に如意輪観音像、正面の左に｢往生月窓■（秋か？）■（覚か？）信女□□□　貞享三■（丙）寅■（正か天か？）■（九か？）月■（三か？）日」とあり、右の小さいほうの正面の右に「稱譽利負比丘尼」、正面の真中に如意輪観音像、正面の左に「享保十六□亥六月■（十か廿か？）九日」とあります。</p>

<p>貞享三年は１６８６年、享保十六年は１７３１年。<br />
□は判読できない文字で、■は判読しづらい文字で（）内は当てはまるであろう文字です。</p>

<p>大きいものの方の「貞享■（ニか三か？）□□」の■に「二」が当てはまれば「貞享二乙丑」となり１６８５年、「三」が当てはまれば「貞享三丙寅」となり１６８６年になりますが、左側の女性よりも先に亡くなっているとすれば、貞享二年としたいところですが、はっきりとは判断が出来ません。<br />
小さいほうの「享保十六□亥六月■（十か廿か？）九日」の「■（十か廿か？）九日」ですが、墓碑であればどちらも当てはまるようですが、十九夜塔として建てられているとすれば「十九日」ということになります。<br />
しかしながら、この部分もはっきりと判断が出来ません。</p>

<p>２基の如意輪観音の横には大師堂があり、その右に阿弥陀仏のような地蔵のような石仏があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　新町　肴町西側　教安寺　阿弥陀如来（地蔵）" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/shimachi_kyoanji_amidajizo.jpg" width="233" height="350" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　新町　肴町西側　教安寺　阿弥陀如来（地蔵）。（新町）</p>

<p>どう見ても阿弥陀如来に見える石仏なのですが、ふるさとの石仏には</p>

<blockquote>

<p>寺の門を入って左側に、高さ一一八センチの丸彫りの立像が立っている。その頭部の形や右手で天を左手で地を指した姿は阿弥陀如来のようにも思われるが、多くの人が地蔵尊と呼んでいる。嶺南寺のそれと同じように阿弥陀如来と地蔵尊とを習合したものと思われる。像の右側面に小さく円誉法山比丘　延宝四年丙辰天（一六七六）六月廿六日と刻んである。</p>

</blockquote>

<p>とあり、<a href="http://sanpobokko.com/stroll_note/2010/04/post-112.php">成田街道（佐倉道）その１００</a>で訪ねた嶺南寺の無縁地蔵尊と同じ造りであるとしています。<br />
右側面に小さく刻んであるという文字は、右の下側にありますが、だいぶ剥離していたり、苔があったりでほとんど読めない状態になっています。</p>

<p>阿弥陀如来（地蔵）の右側、通路を挟んで墓地の一区画があり、そこに細長い墓表と古い墓碑があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　新町　肴町西側　教安寺　東傳院殿と松平左門の墓碑" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/shinmachi_kyoanji_toudenin_.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　新町　肴町西側　教安寺　東傳院殿と松平左門の墓碑。（新町）</p>

<p>右側の新しい細身の墓碑が東傳院のもので、「松平左門の室　教安寺開基　東傳院殿松譽春貞大姉之墓」とあり、左側のもの松平左門（花井左門）のもので、正面に「淨徳院殿雲龍心白居士霊位」、右側面に「万治二己亥暦」、左側面に「七月十日」とあります。</p>

<p>この二つの墓碑の中間に香立てのところに墓碑の笠の部分もしくは宝篋印塔か五輪塔の上の部分らしきものがあり、これが最初の東傳院の墓碑のものではないかと思われます。</p>

<p>東傳院の墓碑の後ろ、大木を挟んでちょうど逆側に庚申塔があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　新町　肴町西側　教安寺　庚申塔" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/shinmachi_kyoanji_koshinto.jpg" width="233" height="350" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　新町　肴町西側　教安寺　庚申塔。（新町）</p>

<p>正面に青面金剛、その下に三猿がありますが、文字が風化もしくは剥離、苔などでほとんど読めないため造立年代などは不明です。</p>

<p>庚申塔の逆側、本堂の前の水桶がたくさん置かれているところに如意輪観音があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　新町　肴町西側　教安寺　如意輪観音" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/shinmachi_kyoanji_nyoirinto.jpg" width="233" height="350" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　新町　肴町西側　教安寺　如意輪観音。（新町）</p>

<p>正面の右に「歸□■（處か？）□□□　（以下文字があるらしいが読めず）」、正面真中に如意輪観音像、正面の左に「延宝■（四）■（丙）辰□四月四日」とあります。</p>

<p>延宝四年とすると１６７６年。<br />
□は判読できない文字、■は判読しづらい文字で（）は入るであろう文字です。<br />
「延宝■（四）■（丙）辰」の延宝年間で、干支の部分が後に「辰」になるのは「延宝四丙辰」のみなので、このことにより「延宝四年」とすることが出来ます。<br />
問題は、この如意輪観音が墓碑なのか月待塔なのかがはっきりしないところで、「歸」という文字が何を指しているのかがわかれば判断できるところですが、他の文字が読めないので判断できないところです。</p>

<p>本堂の右側、参道を少し戻ったあたりに大きな地蔵さんがあります。</p>

<p><img alt="佐倉町　新町　肴町西側　教安寺　三界萬霊塔" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/shinmachi_kyoanji_sankaimar.jpg" width="233" height="350" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　新町　肴町西側　教安寺　三界萬霊塔。（新町）</p>

<p>この大きな地蔵さんの台のところに「三界萬霊」とあるので、延命地蔵尊であると思われます。<br />
佐倉市誌資料に、この地蔵尊にある名文についての記述があり「下総国佐倉二尊山教安寺六世　柔蓮社軟誉膮察代　金銅地蔵尊像造立　維享保六辛丑天　仲秋日　願主　円誉顕人欣言　武州江戸神田住　西島伊賀守家　鋳物師　伝兵衛延長」と書かれているようです。</p>

<p>享保六年は１７２１年。</p>

<p>三界萬霊塔の右には名号塔があり、正面に「南無阿彌陀佛」とあり、台には「二尊山」とあり、名号塔の右に細い通路があり、そのまま進むと、<a href="http://sanpobokko.com/stroll_note/2010/05/post-114.php">成田街道（佐倉道）その１０２</a>で歩いた妙隆寺から淡嶋神社へ行く途中にあった古い山門（裏門）に出ます。</p>

<p>教安寺の入口に戻り、佐倉道を右（東、延覚寺からだと直進）に１００メートルほど（この区間が間の町）の左に川瀬屋というそば屋さんがあり、川瀬屋さんから３０メートルほど行った左に細道があり、ここを２０メートルほど進むと門柱があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　弥勒町　松勝　勝寿寺" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/mirokumachi_syojuji.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　弥勒町　松勝　勝寿寺。（弥勒町）</p>

<p>千葉県下総国印旛郡寺院明細帳には</p>

<blockquote>

<p>勝胤寺末<br />
曹洞宗　勝壽寺<br />
一　本尊　彌勒菩薩<br />
一　由緒　不詳<br />
一　本堂間数　間口五間半　奥行四間半<br />
一　庫裏間数　間口五間　奥行四間半<br />
一　境内坪数　九百七拾壱坪　民有地第四種<br />
一　境内仏堂　壱宇<br />
大師堂<br />
本尊　大師<br />
由緒　不詳<br />
建物　間口九尺　奥行三尺</p>

</blockquote>

<p>とあり、千葉県印旛郡誌も同じ内容で載せてあるので省略します。</p>

<p>境内坪数の「官有地」のところには二度ほど訂正した跡があり、「民」、「官」、「民」と書き換えられ、下のほうに「明治十五年十月丗一日無代奐下」とあり、無償で民有地として下げ渡したと書かれています。</p>

<p>門柱から中に入り、左手には墓地が広がり、参道を進んでいくと右手に大師堂、その右側に３基の石仏があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　弥勒町　勝寿寺　石仏群" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/mirokumachi_syojuji_sebutug.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　弥勒町　勝寿寺　石仏群。（弥勒町）</p>

<p>右側から庚申塔で正面右に「■（寶か？）□□□■（天か夭か？）■（二か三か？）月■（三か？）■（日か？）」、正面の真中に青面金剛像、その下に邪鬼と三猿、正面の左に「（上部におそらく８文字ほど文字があると思われるが風化していて判読できず）■（講か？）■（中か口か四か？）■（人か？）□」とあり、真中のものは如意輪観音で上部破損、文字も風化もしくは磨滅、苔などで判読できず、左側は十九夜塔で正面の右に「奉造立觀音像十九夜講善女人　正徳三己年　三月吉日」、正面真中に如意輪観音像、正面の左に「彌勒町間町同行四十七人」とあります。</p>

<p>正徳三年は１７１３年。<br />
□は判読できない文字、■は判読しづらい文字で（）はおそらく入るであろう文字です。<br />
右側の庚申塔の年号については一番初めが「寶」の字であっているのならば、「寶暦十庚辰」の１７６０年、「寶永元甲申」の１７０４年、もし二番目に「寶」という字であれば、「延寶八庚申」になり１６８０年、または「寶」ではなく「寛」の字であったとすると「寛永十七庚辰」の１６４０年、「寛文四甲辰」の１６６４年、「寛政十二庚申」の１８００年ということになりますが、「庚申」の年に造られたとすると「延寶八庚申」か「寛政十二庚申」ということになります。<br />
真中の如意輪観音は、おそらく月待塔であると思われ、左のものが十九夜塔であることから、この如意輪観音も十九夜塔であると思われます。</p>

<p>大師堂から参道を進むと、コンクリートで出来た本堂があります。</p>

<p>この勝寿寺は、弥勒山と呼ばれるように、弥勒町の地名の元になったお寺さんで、古今佐倉真佐子には</p>

<blockquote>

<p>此門前少先、左の方庵あり。みろく菩薩のどうあり。庵主勝珠（寿）寺と号す。浄土宗也。大ひんあんなり。此門前より町をみろく町とがうす。</p>

</blockquote>

<p>とあり、はじめは庵であったとあります。</p>

<p>創立年代は千葉県下総国印旛郡寺院明細帳には「不詳」とありますが、少なくとも古今佐倉真佐子が書かれた時代には、此場所にあったことがはっきりしているので、稲葉氏が佐倉城主になった元禄十四年以前であるといえます。</p>

<p>元禄十四年は１７０１年。</p>

<p>古今佐倉真佐子に「浄土宗也。」とありますが、現在は「曹洞宗」であるので、記述の間違いであるか、いつの時代かははっきりしないが、「曹洞宗」に改宗したのか判断に困りますが、勝胤寺末（千葉県佐倉市大佐倉）であるところを見ると、もともと「曹洞宗」であり、この勝寿寺の「庵」は、勝胤寺の隠居寺（庵）であったものではないかと思われます。<br />
さて、地名についてはおおよそ勝寿寺の本尊である弥勒菩薩から来ているとしていますが、「弥勒町遺跡」には</p>

<blockquote>

<p>因みに弥勒町の町名の由来は、弥勒町遺跡北側に存在する八幡神社別當勝寿寺の本尊である弥勒菩薩が安置された弥勒堂からきているという言い伝えがあるが明確ではない。</p>

</blockquote>

<p>としていて、この弥勒堂があったのかどうかを疑問視しているような感じです。</p>

<p>弥勒堂が勝寿寺の庵であるのかどうか、これもはっきりしていないのですが、<a href="http://sanpobokko.com/stroll_note/2010/05/post-114.php">成田街道（佐倉道）その１０２</a>で訪れた、妙隆寺の駐車場とその後ろの民家のあたりは弥勒町の飛地で小字を「丸山」ということは先に書きましたが、この丸山に弥勒堂があり、この弥勒堂が弥勒町の地名の由来になったのではないかともいわれていて、明治４０年発行の二万分の一迅速測図に妙隆寺の右隣に卍マークがあり、これが弥勒堂ではないかと思われますが、その弥勒堂にあった弥勒菩薩（現在の勝寿寺の本尊がそうなのかどうかははっきりせず）が町の名の由来になっていることは確かではあるということです。</p>

<p><img alt="弥勒堂跡と思われるところ" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/mirokudo_ato_rashikitokoro.jpg" width="350" height="314" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>弥勒堂跡と思われるところ。（明治４０年発行２万分の１迅速測図「佐倉町」より抜粋）</p>

<p>この地図の卍マークのお寺もしくはお堂が弥勒堂であるならば、明治にあった大火の時、勝寿寺が類焼していることを考えると、勝寿寺が再建された時に、この弥勒堂の本尊の弥勒菩薩を勝寿寺に移したことが考えられ、その後本尊のなくなった弥勒堂を合併したと考えるのが妥当のようです。</p>

<p>勝寿寺の入口に戻り、佐倉道を左（東、教安寺からだと直進）に４０メートルほど進むと十字路があり、十字路の左側（北側）の東角に民家があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　弥勒町　北側　石渡家住宅（数屋）" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/mirokumachi_ishiwatari_juta.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　弥勒町　北側　石渡家住宅（数屋）。（弥勒町）</p>

<p>この民家の左側の壁あたりに説明板があり</p>

<blockquote>

<p>佐倉市登録有形文化財<br />
石渡家住宅<br />
登録年月日　平成１３年５月１６日<br />
主屋　木造、一部２階建<br />
蔵　　 木造、２階建<br />
主屋は「みせ」と「すまい」からなり、「みせ」は大正５年、「すまい」は明治４０年に建てられたことが分かっている。蔵は、明治３８年以前に建てられたと推定されるが、詳細は不明である。「みせ」の外観については一部改装されているが、出桁造とし、隣家に面する東西の壁を漆喰塗にするなど、佐倉の町家の特徴を良く残している。蔵は屋根のつうじ棟（瓦を一定の隙間をとって積み上げ、その隙間に漆喰を塗り込め、重厚に見せる棟）や軒先に優れた意匠がみられる。<br />
いずれも佐倉における伝統的な町屋の景観を残した貴重な建造物である。<br />
佐倉市教育委員会</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>平成１３年は２００１年、大正５年は１９１６年、明治４０年は１９０７年、明治３８年は１９０５年。</p>

<p>この石渡住宅は現在も現役のお店で、「数屋」という酒屋さんを営んでいますが、酒屋さんの前は「糀味噌や」であったと、新佐倉真佐子や嘉永年間の新町の絵図にはあります。</p>

<p>十字路を左（北）に曲がり、１１０メートルほど進むと十字路があり、左手に検察庁、右手に裁判所を見ながら８０メートルほど進んだ左にお寺さんがあります。</p>

<p><img alt="佐倉町　弥勒町　松勝　松林寺" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/mirokumachi_syorinji.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　弥勒町　松勝　松林寺。（弥勒町）</p>

<p>千葉県下総国印旛郡寺院明細帳には</p>

<blockquote>

<p>知恩院末<br />
浄土宗　松林寺<br />
一　本尊　阿彌陀如来<br />
一　由緒　慶長年中土井大炊頭佐倉城築造ノ莭建立<br />
一　本堂間数　間口拾間　奥行拾間<br />
一　庫裏間数　間口拾五間　奥行六間<br />
一　境内坪数　貳千三百坪　官有地第四種<br />
一　境内仏堂　貳宇<br />
観音堂<br />
本尊　観世音菩薩<br />
由緒　慶長十年九月十壱日松林寺開山照誉上人建立<br />
建物　四間四面<br />
毘沙門堂<br />
本尊　毘沙門大師<br />
由緒　文化十四年松林寺十八世蘭誉上人建立<br />
建物　貳間四面</p>

</blockquote>

<p>とあり、千葉県印旛郡誌には</p>

<blockquote>

<p>彌勒町字松勝にあり淨土宗にして智恩院末なり阿彌陀如来を本尊とす慶長年中土井大炊頭佐倉城築造の節建立堂宇十間四面ありしも明治十七年八月取壊したり庫裏間口八間奥行六行間境内二千三百坪 [官有地第四種] あり</p>

<p>...以下省略</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>慶長年中は１５９６～１６１５年の間、慶長十年は１６０５年、文化十四年は１８１７年、明治十七年は１８８４年。</p>

<p>千葉県下総国寺院明細帳の本堂間数のところ「間口拾間　奥行拾間」の「拾間」には朱線で消されており、その下に「十七年八月取崩シ」と訂正されていて、庫裏間数の「間口拾五間　奥行六間」の下に追記で「間口八間　奥行六間　ニ　宿造　明治十七年八月」とあり、明治十七年八月に本堂が老朽化したかによって取壊し、更に庫裏も大幅に小さくして本堂兼庫裏としたようです。<br />
さらに、境内坪数の「貳千三百坪」も朱線だ消されており、その横に「七百七十六坪」と訂正されていて、境内坪数の上の枠外に「昭和一一、一二、一七縮小許可」とあり、昭和１１年に現在の広さの境内となったようです。</p>

<p>昭和１１年は１９３６年。</p>

<p>先に載せた明治時代の迅速測図を見ると、松林寺の境内は南にある検察庁と東にある裁判所、さらに北側の空地と住宅地までの広い境内を持っていたことが分かり、松林寺の本堂は現在の本堂と裁判所との間にある道路上にあったことが分かっています。</p>

<p>入口から本堂に進み、本堂の左側のほうに説明板があり</p>

<blockquote>

<p>千葉県指定有形文化財<br />
松林寺本堂　昭和五十七年四月六日指定</p>

<p>十七世紀前半（慶長～寛永中頃）に、初代佐倉城主土井利勝によって創建された観音堂で、現在は本堂として使用されている。<br />
作風は比較的簡素であるが端正で、近畿ないし江戸からの工匠の手になるものとみられる。間口は柱間三間、奥行四間、寄棟造りである。<br />
寺院内には土井利勝の父母・夫人の供養塔があり市指定文化財となっている。</p>

<p>昭和五十七年三月十九日　千葉県教育委員会　佐倉市教育委員会</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>昭和五十七年は１９８２年、慶長～寛永中頃は１５９６～１６３４年頃までの間。</p>

<p>説明板にあるように、現在の本堂は観音堂の建物を使っていて、千葉県下総国印旛郡寺院明細帳や千葉県印旛郡誌にもあるように、明治１７年に本堂が取り壊され、さらに現在ある道路がもと境内の真中を通った頃に、庫裏自体も移動を余儀なくされたために、観音堂の建物を本堂としたものと思われます。<br />
毘沙門堂がいつ頃なくなったかについては、どの文献にも記述はありませんが、おそらく道路の開通の頃にはなくなったのではないかと思われ、現在の本堂の中にそれぞれの本尊が安置されています。</p>

<p>松林寺について、歴史の道調査報告書には</p>

<blockquote>

<p>本堂は寛永年中、初代佐倉城主土井利勝創建の松林寺の観音堂であった。簡素で端正につくられ、柱や組物・中備・垂水・隅木・須弥壇等の主要部分に当初材が残っており、様式的にもその成立過程をうかがわせ、近世当初の城下町形成期の大名によって建てられたものとして貴重である。</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>千葉県下総国印旛郡寺院明細帳や千葉県印旛郡誌、歴史の道調査報告書には、建てられた時期を明確にはしていませんが、佐倉市史研究の「松林寺土井家石塔群について」の中に</p>

<blockquote>

<p>松林寺は土井利勝が一族の菩提を弔うために建てた寺院（寛永四年か）と伝えられ、その規模等旧状は近世の絵図から知ることができる。石塔はこの絵図のなかに「御石塔」と記されており、現在は正門から本堂へ至る道が道路敷きとなり、境内左半分が現在の裁判所敷地として失われているものの、残存する土塁や観音堂の位置などからほぼ旧状を保っていると思われる。</p>

</blockquote>

<p>とあり、寛永四年ではないかと見ています。<br />
「境内左半分が現在の裁判所敷地として失われているものの」とありますが、これは当時の絵図は南を上として描かれることが多く、そのため、絵図に従ってみてみると左側となりますが、現代の地図で見ると本堂の右側半分（東側）ということになります。</p>

<p>寛永四年は１６２７年。</p>

<p>佐倉市史研究の「松林寺土井家石塔群について」の中の、「残存する土塁」というのは、本堂の左側の説明板後ろにある検察庁との間の土盛りのことで、新佐倉真佐子には「慶長の昔、土井利勝が佐倉城築城の際、本陣を張ったところで...」とあり、松林寺を創建する前には、ここに本陣（おそらく砦ではないかと思われ）があったとしています。<br />
佐倉城を建設している慶長１６年から元和４年ごろは、徳川幕府（江戸幕府）は開かれていましたが、この築城の間に大坂冬の陣と夏の陣があり、情勢的にはまだ不安定の中の築城であるので、いつどこから徳川幕府に対して反旗が翻るかわからない頃であったわけなので、本陣といえども砦のようにある程度備をする必要があったものと思われ、それにより土塁がまわりを囲んでいたのではないかと思われ、築城後本陣は取払われたが土塁はそのまま残り、松林寺の中心あたりを囲んでいたということと思われます。</p>

<p>慶長１６年から元和４年ごろは、１６１１～１６１８年ごろの間。</p>

<p>本堂から道路に戻り、左（北、勝寿寺からだと直進）に２０メートルほど左に３基の宝篋印塔があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　弥勒町　松勝　松林寺　土井利勝父母・夫人の供養塔" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/mirokumachi_syorinji_doitos.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　弥勒町　松勝　松林寺　土井利勝父母・夫人の供養塔。（弥勒町）</p>

<p>基壇の上に３基の宝篋印塔があり、その手前に説明柱があり</p>

<blockquote>

<p>土井利勝の父母・夫人の供養塔<br />
この三基の供養塔は、慶長十五年（一六一〇）に佐倉に入った土井利勝が父母・夫人の追善供養のため寛永七年（一六三〇）に菩提寺である少林寺に建立したものである。正面向って左が利勝の養父土井利昌、中央が利勝の母、右が利勝の夫人のものである。土井氏の佐倉城主時代の貴重な資料である。</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>この宝篋印塔について、古今佐倉真佐子には</p>

<blockquote>

<p>扨客殿前左の方に土手ある。四方石かき。此上は芝付け、土手の下廻り丸竹玉垣。　扨土手の上に高さ六七尺斗の大石ひ一つある。土井大炊頭殿母公の塚也。</p>

</blockquote>

<p>とあり、土井利勝の母の物については記述がありますが、父と婦人のものについては記述がないのは不思議です。</p>

<p>３基の宝篋印塔について、佐倉市史研究の「松林寺土井家石塔群について」に</p>

<blockquote>

<p>前半省略</p>

<p>利昌は系譜上では慶長三年九月十一日没、三河国碧海郡土居村（大聖寺か）に葬られた。法名を宝光院殿本誉見貞という。この点、塔の銘文と違いはない。母は葉佐田則勝の娘で、没年は十一日では一致しているものの、慶長十年ないし十三年、また九月ないし七月と既に記録・系譜上でも混乱がみられる。法名は玉等院殿清誉壽安大禅定尼で問題ない。室は長澤松平清直の三女で、系譜上では没年不明ながら、当石塔に元和三年九月五日とあって、僅か十数年前のことに加え、後室（栄福院・駒井氏娘）との矛盾もないなど、信頼し得ると思われる。法名は清光院殿浄誉明徹大姉である。</p>

</blockquote>

<p>とあり、３基の宝篋印塔についての説明がされています。</p>

<p>慶長三年は１５９８年、慶長十年は１６０５年、慶長十三年は１６０８年、元和三年は１６１７年。</p>

<p>さらに「石塔造立の背景」として、佐倉市史研究の「松林寺土井家石塔群について」には</p>

<blockquote>

<p>さて、寛永七年といえば、土井利勝が佐倉に入って二十年後のことである。</p>

<p>...中略...</p>

<p>ただ、佐倉へ入って二十年後の時期に至り、父母又は妻の石塔を建てたことについては、利昌没後三十三年、つまり忌み明けともいえる三十三回忌に相当したためとみておきたい。</p>

<p>...中略...</p>

<p>...、命日に合わせ、父母の石塔を造立し且つ同年中に妻の法要も済ませたのではないだろうか。</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>左の宝篋印塔（父）の正面の中ほどに「宝光院殿」、その下に「本誉見貞」、右側面に「七月十一日」、左側面に「大禅定門」、裏面に「寛永七年」とあり、中央の宝篋印塔（母）の正面の中ほどに「玉等院殿」、その下に「清誉壽安」、右側面に「七月十一日」、左側面に「大禅定尼」、裏面に「寛永七年」とあり、右の宝篋印塔（妻）の正面の中ほどに梵字が３つ、その下の右に「淨譽」、中央に「清光院」、左に「明徹」、下に「大姉」、右側面に「干時　寛永七　庚午天」、左側面に「正寂者　元和三年　巳暦　九月五日」、裏面に「九月初五日　令造塔<img alt="己十という文字" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/otuju.gif" width="14" height="14" class="mt-image-none" style="" />（己の下に十という字であるが、常用としてはないもの）」とあります。</p>

<p>土井利勝父母・夫人の供養塔の右側に墓地への入口があり（ここには鎖で締め切りをしている）、入口の左に石造物群があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　弥勒町　松勝　松林寺　石造物群" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/mirokumachi_syorinji_sekibu.jpg" width="350" height="263" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　弥勒町　松勝　松林寺　石造物群。（弥勒町）</p>

<p>左側のものはおそらく月待塔で、正面上部に梵字と「二拾三夜」、正面の右に「下総国佐倉玉宝山松林寺九世乗譽□主大和田」、正面の左に「元祿五壬申二月九日　道首随譽直川大和田氏」とあり、左側から２つ目のものは地蔵塔で、台に「宝暦二壬申年　奉造立講中弥勒町」とあり、真中のものは地蔵塔で、台に「宝暦四甲戌三月吉日　奉造立講中弥勒町」とあり、右側から２つ目のものは地蔵塔で、首が欠損、台に「宝暦十一辛巳十一月□□□　（以下判読できず）」、右側のものは月待塔で正面に観音像、正面の右に「当時二十世□□造立常蓮社国誉氏」、正面の左に「文化八辛未年七月□□□」、台に「廿六夜」とあると、ふるさとの石仏にはありますが、ほとんどの文字が苔と剥離で判読し難い状態になっていて、ここにあげた文字の半分はすでに判読できない状態にあります。</p>

<p>元祿五年は１６９２年、宝暦二年は１７５２年、宝暦四年は１７５４年、宝暦十年１７６０年、文化八年は１８１１年。<br />
□は判読できない文字です。</p>

<p>石造物群から、石渡家住宅のある十字路まで戻ります。</p>

<p>ということで、今回はここまで。</p>

<p>参考文献は、「歴史の道調査報告書　成田街道」、「佐倉市史」、「千葉県下総国印旛郡寺院明細帳」、「千葉県下総国印旛郡神社明細帳」、「千葉県印旛郡誌」、「佐倉市誌資料」、「佐倉の歴史を学ぶ　資料集」、「多輪免喜」、「佐倉風土記」、「佐倉文庫」、「古今佐倉真佐子」、「新佐倉真佐子　－佐倉のお茶の間風土記－」、「総州佐倉御城府内之図」、「ふるさとの石仏」、「佐倉町二十五年誌」、「新道々の記」、「佐倉細見」、｢佐倉さんぽ　散策マップ（佐倉市観光協会発行）」、「城下町佐倉歴史街道の旅」、「佐倉市史研究」、「弥勒町遺跡」より。</p>

<p>引用は各文献と各社寺の説明板、地域の説明板より。</p>

<p>今回の地図は<a href="http://sanpobokko.com/kaido_image/sakuramichi_6.jpg">「佐倉道６」</a>です。</p>

<p>国土地理院２５０００分の１「佐倉」より作成しています。</p>]]>
    </content>
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    <title>成田街道（佐倉道）その１０２</title>
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    <published>2010-05-07T13:51:47Z</published>
    <updated>2010-05-07T14:05:50Z</updated>

    <summary>佐倉道　城下町佐倉歴史生活資料館のすぐのところの信号のあるＴ字路（千葉県佐倉市新町）から肴町の直角カ...</summary>
    <author>
        <name>nobo</name>
        
    </author>
    
        <category term="街道歩き" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    <category term="佐倉市" label="佐倉市" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
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    <category term="成田街道" label="成田街道" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://sanpobokko.com/stroll_note/">
        <![CDATA[<p>佐倉道　城下町佐倉歴史生活資料館のすぐのところの信号のあるＴ字路（千葉県佐倉市新町）から肴町の直角カーブ（千葉県佐倉市新町）まで</p>

<p>城下町佐倉歴史生活資料館のすぐのところの信号のあるＴ字路に戻り、左（東、おはやし館からだと直進）に佐倉道を３０メートルほど進むと直角（櫛形）に曲がるところがあり、そこ角のところから道があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　新町　肴町東側　延覚寺入口" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/shinmachi_enkakuji_iriguti2.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　新町　肴町東側　延覚寺入口。（新町）</p>

<p>写真にある車が止まっているあたりに、江戸時代には辻番（辻番所）があり、ここで狼藉者や城下町の警戒にあたっていた現在で言う交番のようなものがあったところです。<br />
辻番跡の奥、延覚寺入口は白い建物（平成２２年３月までは道路まで古い理髪店の建物でした）が目印になり、この建物の左横の道を３０メートルほど入ると墓地があり、左（北）に向くとお寺さんがあります。</p>

<p><img alt="佐倉町　新町　肴町東側　延覚寺" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/shinmachi_enkakuji.jpg" width="350" height="263" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　新町　肴町東側　延覚寺。（新町）</p>

<p>千葉県下総国印旛郡寺院明細帳には</p>

<blockquote>

<p>本山本願寺末<br />
眞宗本願寺派　延覚寺<br />
一　本尊　阿彌陀如来<br />
一　由緒　南都延覚艸創年月不詳夫ヨリ建暦年中道澄再興其後破却退轉ニ及ヒ夫ヨリ寛永年中甚正興隆其後享保元丙申年十二月十四日善入ノ代ニ本佛尊像寺号本山ヨリ免許<br />
一　本堂間数　間口七間　奥行七間<br />
一　庫裏間数　間口八間　奥行五間半<br />
一　境内坪数　四百五拾五坪　民有地第壱種</p>

</blockquote>

<p>とあり、千葉県印旛郡誌もほぼ同じ記述であるので省略します。</p>

<p>建暦年間は１２１１～１２１３年の間、寛永年間は１６２４～１６４４年の間、享保元年は１７１６年。</p>

<p>南都とは大和（地名としては）のことで、現在の奈良県にあたり、奈良で延覚という人が創立したのか、延覚という人が佐倉に来て草創したのかは定かではありませんが、平安時代後期（平家全盛期）に奈良の興隆寺に延覚（藤原季仲の子供、興福寺少僧都）という人がいますが、「南都延覚」とあるので、もしかしたらなんらかの関係があり、推測としてこの延覚が奈良のどこかに寺を創建したと考えられなくもありません。<br />
その後、道澄（戦国時代、秀吉のブレーンになった道澄とは別人）という人が再興したが、その後破脚し退転したとあるのは、鎌倉時代の承久の乱（１２２１年）で京都とその周辺ではかなり激しい戦いがあり、その時に焼き討ち（破脚）にあったために、東国に僧侶などが落ち延びたということであるようで、それが佐倉であったかどうかは定かではありません。<br />
ただし、この前にも南都焼討（１１８１年）ということが平清盛によって起こっているので、このことを指しいてる可能性もあります。<br />
建暦年中は、鎌倉時代で１２１２年には鴨長明が「方丈記」を、１２１３年には和田義盛の乱があった頃で、三代将軍源実朝の治世のころ。<br />
中世に延覚寺（この頃の寺名は、はっきりしていない）が佐倉にあったとすると、佐倉市史の中世の寺院の所に記述があってもよさそうなのですが、延覚寺についての記述はありません。<br />
その後、破脚（焼き討ち）され甚正によって寛永年中に再興されたわけですが、約４００年もの間の開きがあるので、現在地が延覚寺のもともとあったところであるとはいえないようです。<br />
現在地に来たのは、この寛永年中であるとすると、佐倉市史の中世の寺院の所で記述がないことと合致することになります。<br />
再興されて、享保元年に善入の時に本尊と寺号を本山から免許されたとあるので、正式に「延覚寺」となったのは、享保元年からと千葉県下総国印旛郡寺院明細帳には書かれています。<br />
問題は、いつから浄土真宗であったかということになり、これは再興された時であれば寛永年中、正式に「延覚寺」となった時とすれば、享保元年ということになりますが、はっきり書かれていません。</p>

<p>千葉県下総国印旛郡寺院明細帳の「眞宗本願寺派」の横に朱線で訂正線が引かれたところに「眞言宗」とあり、もともとは真言宗であったような書き方ですが、単に「真宗」と間違えたとも見えるので難しいところです。<br />
ちなみに興隆寺は法相宗（南都六宗の一つ）です。</p>

<p>千葉県印旛郡誌には「眞宗西派」とかかれており、これは、現在東西の本願寺が京都にありますが、西本願寺が「眞宗西派」ということになります。</p>]]>
        <![CDATA[<p>稲葉時代（元禄１４年６月～享保８年５月）に書かれている古今佐倉真佐子には</p>

<blockquote>

<p>扨新町海道へ出ると、東の方肴町入口也。左右町屋三十間斗の内右の方魚店、左の方つねの見せ也。行当り黒塗へいじ（屏重）門有。内松林也。此内寺有。通より不見。円覚寺と云寺也。如左。<br />
一向宗円（延）覚寺。<br />
佐倉の東門跡也。鍛治作重願寺ち当寺。本尊立像みた也。両寺共町、家中且家ある。両寺共無所不見。寺中に可有之。法談等も一切なし。法恩講の節も殊外静也。両寺共に小寺にてひん寺也。</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>元禄１４年は１７０１年、享保８年は１７２３年。</p>

<p>「佐倉の東門跡也。」とあるのは、まだ武家屋敷町の拡張が完成されていない時で、新町のこの辺りが東の端に当たっていて木戸門（関門のようなもの）があったものと思われます。<br />
その門の跡ということは、佐倉道の道筋自体も延覚寺側によっていた、ということになりますが、現在の肴町のクランク（櫛形）は稲葉時代の街道の整備時に、改めて出来たものなのかも知れません。<br />
ということは、寛永年中には違う場所にあったことも考えられ、はじめはどこにあったのか謎は深まるばかりです。<br />
延覚寺も明治２４年の新町の大火の時にほぼ全焼しており、そのため古文書なども残されておらず、千葉県下総国印旛郡寺院明細帳に記述された事柄より、その由緒を知るのみとなってしまったようです。</p>

<p>明治２４年は１８９１年。</p>

<p>延覚寺の入口からすぐに墓地があり、墓地に沿って本堂へ１０メートルほど行った右側に説明書きのある石碑（墓碑）があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　新町　肴町東側　延覚寺　鈴木清助の碑" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/shinmachi_enkakuji_suzuki_h.jpg" width="233" height="350" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　新町　肴町東側　延覚寺　鈴木清助の碑。（新町）</p>

<p>この大きな碑の上に「旌烈之碑」とあり、碑文が書かれていますが、長文なので省略します。</p>

<p>旌烈之碑の前に説明板があり</p>

<blockquote>

<p>故　千葉県巡査部長<br />
鈴木清助氏　略伝</p>

<p>氏は佐倉町裏新町の士族、鈴木羽右衛門の四男として万延元年（一八六〇）四月二十八日、佐倉城下袋小路にて生まれる。その後、地元の鹿山学校（現佐倉高校）に学ぶ傍ら経学、水練術、剣術、柔術を習い特に柔術は楊心流の目録を受け、当時門下四天王の一人に称された。<br />
明治十五年十一月千葉県巡査となり、同二十一年十二月佐倉警察署在勤、日夜職務に精励し大いに嘱望された。<br />
そして明治二十三年（一八九〇）四月四日、川崎銀行佐倉支店からの国庫金護送の際、夫婦坂（千葉市若葉区西都賀）にて強奪犯に銃で襲われ、瀕死の重傷を負いながらこれを捕縛、敢然として責務を全うした後、壮烈な殉死を遂げた。<br />
この功績により即日、巡査部長に昇進、県知事から特別賞金が贈られた。また、故人の遺徳を称え全国から数多くの義捐金や書簡が届けられた。<br />
享年三十一歳</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>夫婦坂は、千葉県千葉市若葉区西都賀２丁目から１丁目にかけての坂で、ＪＲ都賀駅の西口（モノレール側ではなく、餃子の王将があるほう）の少し大きな通り（この道も左曲がるあたりで坂道になる）を約５００メートルほどいくと都賀駅西口入口交差点があり、ここを右に坂道を１６０メートルほど進んだ右に大きな碑があるところが、鈴木清助巡査部長が強奪犯と戦ったところになります。<br />
大きな碑文には、「千葉県巡査鈴木清助殉職碑」と書かれています。<br />
さらにいうと、この夫婦坂のある通りは、千葉の寒川湊と佐倉城を結ぶ北年貢道（佐倉道）であり、明治時代にも重要な道として機能していたことが、このことから窺えます。</p>

<p>旌烈之碑について、佐倉市誌資料に「鈴木清助の碑の題字は、当時の内閣総理大臣山県有朋で、銘文は農商務次官石田英吉、碑文を書いた人は千葉県大書記官岩佐為春」とあり、旌烈之碑の最後のほうに「内閣総理大臣従二位勲一等伯爵山県有朋篆額　農商務次官従三位勲三等石田英吉撰」と書かれています。</p>

<p>延覚寺の入口に戻り、左（南、おはやし館からだと右）に１８０メートルほどのところが肴町で、歴史の道調査報告書には</p>

<blockquote>

<p>嘉永元年の絵図によると、九〇間たらずの間に七軒の魚屋が並んでいたいわゆる魚の町であった。</p>

</blockquote>

<p>とあり、当時は魚屋さんが軒を並べていたところでした。</p>

<p>現在は、魚屋さんとして営業している店はなくなっていますが、昔ながらの佇まいを残した民家は何軒か残っています。<br />
しかし、ここも道路の拡張やら歩道の整備などにより、新しく建てなおされたところが多くなり、だんだんと昔の名残がなくなっています。</p>

<p>延覚寺の入口から左（南、おはやし館からだと右）に９０メートルほどの右側（西側）の建物の壁に飾りがあります。</p>

<p><img alt="佐倉町　新町　肴町西側　肴町山車飾" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/sakanamachi_yamaguruma_kaza.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　新町　肴町西側　肴町山車飾。（新町）</p>

<p>民家の白壁にあるものですが、大祭で使われていた山車の飾であったもののようで、説明の書いた木版がなければ、この白壁の装飾と思って見過ごしてしまいそうですが、こんなところにも町の伝統というか、良き物を残そうという感じがしていていいと思います。</p>

<p>このあたりの地図を載せます。</p>

<p><img alt="肴町・間の町・弥勒町・野狐台町あたりの図" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/sakana_mano_miroku_ykko_ata.jpg" width="500" height="432" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>肴町・間の町・弥勒町・野狐台町あたりの図。</p>

<p>肴町山車飾のある民家から７０メートルほど進むと佐倉道は左（東）に直角（櫛形）に曲がります。</p>

<p><img alt="佐倉町　新町　肴町　二つ目のカーブ" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/sakanamachi_crank_minamikaw.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　新町　肴町　二つ目のカーブ。（新町）</p>

<p>この直角カーブの手前の左側に、古い商家風の建物がありますが、ここは角屋と呼ばれているお宅で、新佐倉真佐子には</p>

<blockquote>

<p>教安寺参道の真向かいに、昔から旧家といわれる角屋佐兵衛の旧家がある。高橋利誠さんの住まいである。初代佐兵衛という人は、角店であるから角屋という屋号を名乗ったものと思われる。</p>

<p>...中略...</p>

<p>この角屋は、昔から代々荒物屋であったということを聞いてはいるが、明治時代には瀬戸物塗り物類が多かったといわれ、大正になってからは、桐たんす、花嫁道具一式のほか、雨がさのようにものまで商っていたそうだ。</p>

</blockquote>

<p>とあり、嘉永年間の新町の絵図にも「佐兵衛（角屋・荒物商）」と記載があります。</p>

<p>直角カーブの手前の右側（西側）の角には、今津屋さんがありますが、嘉永年間の新町の絵図には｢平兵衛（大和屋、荒物商）」とあり、新佐倉真佐子には</p>

<blockquote>

<p>今津屋という金物屋は袋町へ下る角店である。昭和三十年ごろ開店した成田の今津屋の出店である。この店はかっての坪井さんの住まいであった。屋号を上総屋といって、明治のころは旅館として栄えた店である。</p>

<p>...以下省略</p>

</blockquote>

<p>とあり、最近までは古風な建物がありましたが、現在は新しいものに建替えられて、当時の面影はなくなってしまいました。</p>

<p>嘉永年間は１８４８～１８５４年の間。</p>

<p>この今津屋さんの左側（直角カーブの西角）の道を１０メートルほど進むとＴ字路があり、直進（西）する道と左（南）に行く道とがあり、直進するとすぐに坂道（八軒町の坂）になり、袋町（八軒町）になり、２９０メートルほど道なりに進むと、<a href="http://sanpobokko.com/stroll_note/2010/04/post-111.php">成田街道（佐倉道）その９９</a>で歩いた玉家の坂につながり裏新町にたどり着きます。</p>

<p>Ｔ字路から左（南）に４０メートルほどのところの右（西）に題目塔（左、南側）があり、この題目塔のある参道を５０メートルほど進むと左に無縁塔群があり、その先、両側にインド寺院風の門柱があり、さらに４０メートルほどいくとＹ字路があり、右側の道のすぐ先に山門があり、その奥にお寺さんがあります。</p>

<p><img alt="佐倉町　鏑木町　袋町　妙隆寺" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/kaburagimachi_myoryuji.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　鏑木町　袋町　妙隆寺。（鏑木町）</p>

<p>千葉県下総国印旛郡寺院明細帳には</p>

<blockquote>

<p>法華経寺末<br />
日蓮宗　妙隆寺<br />
一　本尊　釈迦牟尼如来<br />
&ensp;&ensp;&ensp;由緒　文明三年四月創立<br />
&ensp;&ensp;&ensp;本堂間数　間口七間　奥行五間五尺　一　庫裡　間口四間半　奥行七間半<br />
&ensp;&ensp;&ensp;鐘楼堂間数<br />
&ensp;&ensp;&ensp;境内坪数　八百七拾七坪　官有地第四種<br />
&ensp;&ensp;&ensp;境内仏堂　三宇<br />
&ensp;&ensp;&ensp;鬼子母神堂<br />
&ensp;&ensp;&ensp;本尊　鬼子母尊天<br />
&ensp;&ensp;&ensp;由緒　不詳<br />
&ensp;&ensp;&ensp;建物　間口三間半　奥行貳間半<br />
&ensp;&ensp;&ensp;観音堂<br />
&ensp;&ensp;&ensp;本尊　観世音<br />
&ensp;&ensp;&ensp;由緒　不詳<br />
&ensp;&ensp;&ensp;建物</p>

</blockquote>

<p>とあり、千葉県印旛郡誌にもほぼ同様の内容になっていますが、鐘楼堂についてと、境内仏堂は「二宇」としています。</p>

<p>文明三年は１４７１年。</p>

<p>千葉県下総国印旛郡寺院明細帳の庫裡の下には朱字で「四十一年四月十一日庶收第二五二四號ニ依リ聞届リ」とあり、このときに庫裡を増改したようです。<br />
鐘楼堂間数のところが空白になっていますが、ここには朱線で消されていて「間口貳間　奥行貳間」とあり、その下に「四十一年四月九日処分結了同年四月十日廃收第二、五二七号ニ依リ削除」とあり、鐘楼堂を取り壊して処分したことが書かれています。<br />
鐘楼堂は、戦争のために鐘楼を供出させられたために処分されたようです。<br />
観音堂の建物のところも空白になっていますが、ここも朱線で消されてして「間口九間　奥行貳間」とあり、その下に「四十一年四月九日処分結了四月十日廃收第二、五二七号ニ依リ削除」とあり、このときに処分されたようです。</p>

<p>明治四十一年は１９０８年。</p>

<p>千葉県下総国印旛郡寺院明細帳には境内仏堂は「三宇」とありますが、実際に記述があるのは「二宇｣のみで、これは記述の間違いであろうと思われます。</p>

<p>妙隆寺について、佐倉市史には</p>

<blockquote>

<p>中山法萃経寺末であった。文明三（一四七一）年四月、平賀本土寺九世日意上人の創建で当初は本土寺末であったであろうが、その後、如何なる事情で法華経寺末となったものか、その年時等は不明である。当時に釈迦の像一体が安置されているが、台座から光背を含めて高さは一尺五寸五分、仏体は八寸。その厨子の扉の裏側に（右）釈迦仏一躰、定朝作、天正十二甲申□月晦日（左）原山城守胤安納之。久栄山五世日信代との墨書がある。この原胤安は前記の文珠寺の再興者で遠江守胤平の第二子、原上総守胤定の弟である。開山の日意上人が原氏の庇護で弥富に本土寺の末寺を建てているので、上勝田の妙勝寺と共に鏑木にも本土寺は教線を伸ばした一連のものとも考えられる。</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>本土寺は、千葉県松戸市平賀にある「あじさい寺」で有名なお寺さんです。<br />
上勝田の妙勝寺は、千葉県佐倉市上勝田にあるお寺さんで、ＪＲ総武本線の南酒々井駅から東に約１㎞ほどのところにあります。<br />
「中山法萃経寺末」の「萃」は、「華」の間違いと思われます。</p>

<p>山門をくぐったすぐ右に神社があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　鏑木町　袋町　妙隆寺　瘡守稲荷神社" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/kaburagimachi_myoryuji_kasa.jpg" width="233" height="350" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　鏑木町　袋町　妙隆寺　瘡守稲荷神社。（鏑木町）</p>

<p>城下町佐倉歴史街道の旅には</p>

<blockquote>

<p>妙隆寺山門付近にあり、瘡（皮膚病などでできるかさぶた）や天然痘から村人を守る神として崇敬された。ご利益を受けた者は土団子をつくり奉納したという。</p>

</blockquote>

<p>とあり、皮膚病治しのお稲荷さんとして信仰されているようです。<br />
現在は山門の右にありますが、もとは山門の左側にあったようですが、平成１６年に現在地に移ったようです。</p>

<p>平成１６年は２００４年。</p>

<p>瘡守稲荷神社の左に大きな庫裡、その左側に本堂があり、本堂左側は墓地になっていて、この墓地の東側（本道からだと左の方）の方に観音堂があり、これも最近新しく建てられたもののようです。<br />
墓地の奥には「みたまや」と呼ばれているところがあり、そこに稲葉家のものと思われる石碑が二基あるらしいのですが、今回は確認していません。</p>

<p>その石碑には「施主　田辺氏勝謂　芳寿院殿妙躰日相大姉　享保四己亥四月二十五日」と、「得寿院殿妙浄日證大姉　明和二乙酉年三月十五日」とあると、佐倉市誌資料にはあります。</p>

<p>享保四年は１７１９年、明和二年は１７６５年。</p>

<p>さて、妙隆寺がいつ頃この場所に移ってきたかについて、千葉県下総国印旛郡寺院明細帳と佐倉市史で明らかにしていませんが、題目塔が享保４年８月に建立されたもので、現地に移って数年後に建てられたと妙隆寺さんのホームページにはあり、そうすると享保４年以前であれば正徳年間である可能性もあり、ちょうど稲葉時代にも当たり、稲葉家ゆかりと思われる石碑があるのもうなずけるところです。<br />
ただし、これは推測であるわけですが。</p>

<p>正徳年間は１７１１～１７１６年の間。</p>

<p>山門に戻り、Ｙ字路を右（南、肴町の直角カーブからだと左）に１０メートルほどの左下に弥勒菩薩の石仏がありますが、平成２１年９月には弥勒菩薩の石仏ではなく、鬚題目の書かれた墓碑らしきものがあり、そこには鬚題目の「南妙法蓮華経」の右に「久栄山」、左に「十七世」という文字があり、この妙隆寺の十七代の住職さんのものと思われる墓碑もしくは供養塔がありました。<br />
おそらく現在は墓地にあるものと思われます。</p>

<p>平成２１年は２００９年。</p>

<p>この弥勒菩薩の石仏の先には駐車場になっているところがあり、この駐車場の一部（弥勒菩薩の石仏のあるあたり）と、そのうしろの民家のあるところは弥勒町の飛地となっているところです。<br />
この飛地は弥勒町字丸山という地名で、古今佐倉真佐子にも「右の方丸山道畠の中に松山ある、丸山と号す」とあり、現在も大木のあるところですが、残念ながら民家があるために「丸山」といわれた小山は削られほぼ平らなところとなっています。</p>

<p>駐車場の南側に細い道が東西に通っていますが、この道を通称「番神道」といい、かつてこの道沿いに「三十番神」の祠（神社）があったらしいのですが、現在はなく通りにその名を残すのみとなっています。<br />
三十番神について、古今佐倉真佐子には「此前左の方番神堂ある。」とあるのみですが、三十番神の堂があったことが書かれています。<br />
駐車場を出でた右（西）のほうのＳ字に曲がるあたりの手前、右側にあったものと思われます。</p>

<p>山門から、妙隆寺入口に戻り右（南、肴町の直角カーブからだと直進）に２０メートルほどの右に小さな山門がありますが、これは教安寺の裏門で、この裏門からさらに３０メートルほどいく変形十字路があり、十字路を右（西）に行く道は先ほど妙隆寺の駐車場から東西に通っていた通称「番神道」で、十字路のやや左から下（南）に下っていく道は「野道」と呼ばれている道で、この崖下にある中央公民館へ続いていて、十字路の左（東）の道を３０メートルほどいった右に神社があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　野狐台町　踊尾余　淡嶋神社" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/yakkodai_awashimajinja.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　野狐台町　踊尾余　淡嶋神社。（野狐台町）</p>

<p>創立年代などははっきりしていませんが、新道々の記には</p>

<blockquote>

<p>淡島神社<br />
創立年次不明である。古来、安産子育ての神として女人の信仰をあつめ、特に２月８日には、針供養がある。</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>入口を入った右側に手洗石（手水石）があり、右側に「享和四甲子歳　■（正か二か三か？）月　吉日｣とあります。</p>

<p>享和四年は文化元年でもあり１８０４年。<br />
■は読みづらい文字で、（）は当てはまるであろう文字です。</p>

<p>享和４年は２月１１日までなので、■の部分は「正」もしくは「二」ということになりますが、２月に針供養があることから考えて「二」というのが当てはまるような気がしますが、この時代に針供養が行なわれていたらの話で、そのあたり定かではありません。<br />
創立年代は手洗石（手水石）にある享和年間以前であると思われますが、これ以外の古い時代のものがないためはっきりとはしません。</p>

<p>淡嶋神社から肴町の直角カーブのところまで戻り、右（東）に進んでいきます。</p>

<p>ということで、今回はここまで。</p>

<p>参考文献は、「歴史の道調査報告書　成田街道」、「佐倉市史」、「千葉県下総国印旛郡寺院明細帳」、「千葉県下総国印旛郡神社明細帳」、「千葉県印旛郡誌」、「佐倉市誌資料」、「佐倉の歴史を学ぶ　資料集」、「多輪免喜」、「佐倉風土記」、「佐倉文庫」、「古今佐倉真佐子」、「新佐倉真佐子　－佐倉のお茶の間風土記－」、「総州佐倉御城府内之図」、「ふるさとの石仏」、「佐倉町二十五年誌」、「新道々の記」、「佐倉細見」、｢佐倉さんぽ　散策マップ（佐倉市観光協会発行）」、「城下町佐倉歴史街道の旅」より。</p>

<p>妙隆寺については、妙隆寺さんのホームページにある題目塔についてと、瘡守稲荷神社について、一部参考にさせていただきました。</p>

<p>引用は各文献と各社寺の説明板、地域の説明板より。</p>

<p>今回の地図は<a href="http://sanpobokko.com/kaido_image/sakuramichi_6.jpg">「佐倉道６」</a>です。</p>

<p>国土地理院２５０００分の１「佐倉」より作成しています。</p>]]>
    </content>
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<entry>
    <title>成田街道（佐倉道）その１０１</title>
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    <published>2010-04-30T10:53:52Z</published>
    <updated>2010-05-01T16:16:06Z</updated>

    <summary>佐倉道　嶺南寺（千葉県佐倉市新町）から甚大寺を経由して、城下町佐倉歴史生活資料館のすぐのところの信号...</summary>
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        <name>nobo</name>
        
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        <category term="街道歩き" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    <category term="佐倉市" label="佐倉市" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
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    <category term="成田街道" label="成田街道" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://sanpobokko.com/stroll_note/">
        <![CDATA[<p>佐倉道　嶺南寺（千葉県佐倉市新町）から甚大寺を経由して、城下町佐倉歴史生活資料館のすぐのところの信号のあるＴ字路（千葉県佐倉市新町）まで</p>

<p>嶺南寺の入口から左（北、歴史生活資料館からだと直進）に２５メートルほどの右に、「重要史跡　堀田正睦之墓」と案内柱のある入口があり、中に入りしばらく真っ直ぐ進と大燈籠があり、さらに左、右と進んだあたり左側に案内所があり、その右斜め前あたりに大きな碑がありそこには「追遠之碑」と書かれていて、その碑の右に｢堀田正睦公追遠之碑」と説明札に書かれています。<br />
碑文は割愛しますが、かなり大きな自然石で出来ています。</p>

<p>実は案内柱のところからは、甚大寺の境内地となっていて、本来は本堂から来るのが筋ではありますが、歩いてきている順序で先に堀田家の墓所を訪ねていきます。<br />
堀田家の墓所といっても、甚大寺の墓所は後の堀田家のものです。</p>

<p>｢堀田正睦公追遠之碑」の左に墓所への入口があり、入口の左側に説明板があり</p>

<blockquote>

<p>千葉県指定史跡　堀田正俊・正睦・正倫墓<br />
昭和五十三年二月二十八日指定</p>

<p>堀田正俊は後の堀田の祖で・正盛の三男として寛永十一年（一六三四）に生れ、将軍家光の命により春日局の養子となり、安中城主・若年寄・老中・古河城主を経て大老に栄進した。<br />
正睦は後の堀田第九代・文化七年（一八一〇）に生れ、佐倉城主にして寺社奉行・大坂城代・老中を経て老中首席・外国事務総裁となり、日米修好通商条約締結の基礎を築いた。<br />
正倫は正睦の四男として嘉永四年（一八五一）に生れ、最後の佐倉城主となり、廃藩後は士族授産に努力し、さらに堀田農事試験場を開設、地方産業発展に貢献した。</p>

<p>昭和五十六年二月四日　千葉県教育委員会　佐倉市教育委員会</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>昭和五十三年は１９７８年、昭和五十六年は１９８１年。</p>

<p>入口の右側には、墓所の配置図があるので一読して中に入り、右に少し行くと通路は左に進み、大きな墓所があるところの２つ目に説明板のある墓所があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　新町　仲町北側　甚大寺　堀田家墓所　堀田正俊の墓" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/shinmachi_masatoshi_haka.jpg" width="233" height="350" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　新町　仲町北側　甚大寺　堀田家墓所　堀田正俊の墓。（新町）</p>

<p>説明板には</p>

<blockquote>

<p>初代　堀田正俊　〔寛永十一（一六三四）十一、十二生　貞享元（一六八四）八、二十八没〕</p>

<p>三代将軍家光の老中として活躍した佐倉十一万石の城主堀田加賀守正盛の三男。母は大老酒井忠勝の女［むすめ］阿栗。<br />
幼い頃春日局の養子となり、その遺領三千石、また慶安四年（一六五一）父殉死後、その遺領一万石を継ぎ、合わせて一万三千石の大名となる。その後、安中城主（四万石）で老中の時、綱吉擁立に大功を顕わし、天和元年（一六八一）大老に進み、古河藩十三万石を領した。<br />
正俊の政治は世に「天和の治」と称された。<br />
しかし、その剛直な性格が禍し、貞享元年（一六八四）江戸城内で春日局の義孫若年寄稲葉正休によって刺殺された。<br />
その子二代正仲［まさなか］は、古河から山形、さらに福島、三代正虎［まさとら］は再び山形へと幾度も移封され財政に窮した。延享三年（一七四六）五代の正亮［まさすけ］は老中となり再び佐倉に入封、その後幕末まで百二十二年間佐倉は堀田氏が治める所となった。</p>

<p>平成六年三月　佐倉市教育委員会</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>平成六年は１９９４年。</p>]]>
        <![CDATA[<p>堀田正俊の墓所の右側に、石塀に囲まれ石の扉のある墓所があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　新町　仲町北側　甚大寺　堀田家墓所　堀田正睦の墓" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/shinmachi_jindaiji_masayosi.jpg" width="233" height="350" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　新町　仲町北側　甚大寺　堀田家墓所　堀田正睦の墓。（新町）</p>

<p>右にある説明板には</p>

<blockquote>

<p>九代　堀田正睦［まさよし］（前名　正篤［まさひろ］）　〔文化七（一八一〇）八、一　生　元治元年（一八六四）三、二十一没〕<br />
父は七代正時［まさとき］、生母は源田芳［げんだよし］（芳妙院）。<br />
文政八年（一八二五）八代正愛［まさちか］の跡を継ぐ。<br />
天保四年（一八三三）渡邊弥一兵衛を年寄役に抜擢し、潮田［うしおだ］監物の献策をいれ、藩士の借財を一掃するとともに、厳しく質素倹約の制を課して藩風を一新した。<br />
また、西洋の文化を積極的に受け入れ、藩校の成徳書院を拡充し、蘭方医の佐藤泰然や英学の手塚律蔵を佐倉に招くなどして、佐倉藩の近代化を遂げ、佐倉をして西の長崎と比肩する文化の地とした。<br />
安政二年（一八五五）老中主座となり、諸外国からの開国要求という難局に当たって、日本を開国へ導く大役を果たした。しかし、十三代将軍家定の継嗣問題で、大老井伊直弼と対立し、安政六年（一八五九）隠居を命ぜられ、更に開国を罪とし蟄居の刑のまま、佐倉城内で卒した。大正四年（一九一五）従三位を追贈された。</p>

<p>平成六年三月　佐倉市教育委員会</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>平成六年は１９９４年。</p>

<p>前名の正篤を正睦に改名したのは、大河ドラマでも有名になった篤姫（天璋院）の「篤」と、「正篤」の「篤」が同じ文字を使っているため、これを遠慮して「正睦」としたと言われています。<br />
「佐倉城内で卒した」とある場所は、<a href="http://sanpobokko.com/stroll_note/2010/02/post-103.php">成田街道（佐倉道）その９１</a>で出てきた三ノ丸御殿で、正睦はここで没しました。</p>

<p>渡邊弥一兵衛の墓は、<a href="http://sanpobokko.com/stroll_note/2010/04/post-112.php">成田街道（佐倉道）その１００</a>で訪ねた宗円寺の墓地の中ほどに、同じく佐倉藩の執政を務めた香宗我部氏の墓所と向き合う形であります。</p>

<p>渡邊弥一兵衛は堀田正睦のときの家老で、はじめ蘭医の奨励には消極的でしたが、自身が病にかかり蘭医の手術により助かったことから、積極的に蘭医（西洋医学）を奨励するようになったといわれています。<br />
この渡邊弥一兵衛という名は代々世襲をしているようで、堀田正亮の時代にも同姓同名の人物がいて、その後にも同姓同名の人物が出てくるところを見ると、そうであろとおもわれるわけです。</p>

<p>香宗我部氏（香宗我部貞親）は、関が原の戦いの後しばらく唐津の寺沢氏に庇護されていましたが、春日局の計らいにより堀田正盛に仕える（二千石で召抱えられた）ようになり、堀田氏が佐倉に入ると共に佐倉藩で重きをなし、以後幕末まで続きました。<br />
香宗我部貞親は香宗我部親泰の次男で、香宗我部親泰は長宗我部元親の弟に当たります。</p>

<p>堀田正睦の墓所の左に通路を進み、ちょうど正睦の墓所の後ろに同じように石塀と石門のある墓所があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　新町　仲町北側　甚大寺　堀田家墓所　堀田正倫の墓" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/shinmachi_jindaiji_masatomo_haka.jpg" width="233" height="350" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　新町　仲町北側　甚大寺　堀田家墓所　堀田正倫の墓。（新町）</p>

<p>右にある説明板には</p>

<blockquote>

<p>十代　堀田正倫［まさとも］　〔嘉永四（一八五一）十二、六生　明治四十四（一九一一）一、十一没〕</p>

<p>父は正睦［まさよし］、生母は平田いく（禎信）。<br />
安政六年（一八五九）正睦の隠居に伴い満七歳九ヶ月にして家督を継ぎ、幕末維新の動乱期に佐倉藩最後の藩主を務めた。<br />
慶応四年（一八六八）、十五代将軍徳川慶喜の助命嘆願のため京都へ上ったが、途中で官軍に阻止され、京都妙心寺で謹慎処分を受けた。<br />
翌明治二年（一八六九）藩籍奉還、佐倉藩知事に任ぜられたが、二年後の廃藩置県により職を解かれ、同二十年（一八八七）まで東京在住を命ぜられた。その間に伯爵を授けられ、同二十三年（一八九〇）佐倉野狐台［やっこだい］に邸宅を新築し移り住む。<br />
その後は、藩校の流を汲む学校の運営に私財を投じて援助をしたほか、堀田家農事試験場を設けるなど、当地の産業・教育の振興に貢献した。</p>

<p>平成六年三月　佐倉市教育委員会</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>平成六年は１９９４年。</p>

<p>佐倉野狐台の邸宅とは、千葉県佐倉市鏑木町の佐倉厚生園の後ろにある旧堀田邸のことで、堀田家農事試験場は現在のさくらゆうゆうの里の敷地が、ほぼその場所に当たります。<br />
「藩校の流を汲む学校の運営に私財を投じて援助をした」とある学校は、現在の佐倉高校のことです。</p>

<p>堀田正倫の墓所の左の３つ目のところには歴代の藩主の眠る墓所（合葬墓）があります。</p>

<p>後の堀田氏で最初に佐倉藩主になったのは堀田正亮なので、普通初代（佐倉藩主として）とするとすればこの堀田正亮が初代とされてもいいようなものですが、後の堀田氏の基礎を築いたのが堀田正俊なので、堀田正俊が初代とされています。</p>

<p>堀田家墓所から「重要史跡　堀田正睦之墓」の案内柱のある入口に戻り、右（北、嶺南寺からだと直進）に３０メートルほど行った右にお寺さんがあります。</p>

<p><img alt="佐倉町　新町　仲町北側　甚大寺" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/shinmachi_jindaiji.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　新町　仲町北側　甚大寺。（新町）</p>

<p>千葉県下総国印旛郡寺院明細帳には</p>

<blockquote>

<p>延暦寺末<br />
天台宗　甚大寺<br />
一　本尊　不動明王<br />
一　由緒　元禄十四年堀田伊豆守創立秀鏡法印開基其他由緒年月不詳<br />
一　本堂間数　間口四百八勺三方　奥行八間<br />
一　庫裏間数<br />
一　境内坪数　千三百三拾八坪　民有地第四種<br />
一　境内仏堂　壱宇<br />
護摩堂<br />
本尊　十一面観世音<br />
由緒　不詳<br />
建物　間口五間　奥行三間五分</p>

<p>以下省略</p>

</blockquote>

<p>とあり、千葉県印旛郡誌には</p>

<blockquote>

<p>新町仲町北側に在り天臺宗にして延暦寺末なり不動明王を本尊とす元祿十四年出羽國山形城主伊豆守堀田正虎の創建する所なり延享四年堀田正亮封を下總佐倉に移さるるや寺も亦此に移す秀鏡法印を開基とす寺域中佐倉城主故堀田正睦正倫の墓あり本堂庫裏兼用建物間口四間八勺三才奥行八間境内一千三百三十八坪 [官有地第四種] 檀徒一人管轄廰まで四里三十二町とす境内佛堂一宇あり即<br />
一、護摩堂　十一面観世音を本尊とす由緒不詳建物間口五間奥行三間五分</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>千葉県下総国印旛郡寺院明細帳の本堂間数と庫裏間数のところは共に朱線で消されており、その部分の本堂間数には「間口六間五分　奥行五間」、庫裏間数には「間口六間五分　奥行三間」とあり、その下に新しく書き直しがされていて、本堂間数のとこに上記にある「間口四百八勺三方」とあり、庫裡間数は書かれていません。<br />
庫裏間数のしたに、｢右ハ本堂庫裡兼用改築四一年八月七日...届出...四十一年十一月十二日落成」とあります。<br />
「四百八勺」はちょうど六間五分になり、もとの庫裏の間口をそのままにして奥行を三間から八間にして、明治４１年１１月１２日から本堂と庫裏を兼用するようにしたようです。<br />
千葉県印旛郡誌にある「間口四間八勺三才」は、間違って誤植したものと思われます。<br />
さらに境内坪数のところにも追記が書かれており、「（千三百三拾八坪）ノ内　実測面積九畝廿二歩分裂許可四十一年十月廿三日...」とあり、明治４１年１０月２３日に１３０坪ほどを別けたことが書かれています。そして「民有地第四種」の下に朱字で「一七年六月四日無代下奐」とあり、明治１７年６月４日に無償で払い下げられたことが書かれています。<br />
千葉県印旛郡誌の「官有地」とあるのは、これも間違って誤植したものか、訂正書きを見落としたかのどちらかと思われます。</p>

<p>本堂は、明治２４年の新町の大火で火災にあったものと思われ、そのために本堂と庫裏を一緒にして本尊などを安置していたものと思われ、護摩堂は大正四年編纂の佐倉町二十五年誌と千葉県印旛郡誌にも載せられているので、少なくとも大正初期まではあったと思われます。<br />
由緒のところに「其他由緒年月日不詳」とあるのは、この火災の前にも火災があったと思われ、その時に由緒などが書かれた古文書などが焼失したのではないかと思われます。<br />
現在、護摩堂はなく、本尊の十一面観世音は本堂の中に安置されています。</p>

<p>明治四十一年は１９０８年、明治十七年は１８８４年、明治２４年は１８９１年、大正四年は１９１５年。</p>

<p>入口の右には「金毘羅大権現　甚大寺」と大きな標柱があり、中に入って参道の右側に手洗石と観音像があり、参道の正面に本堂があります。<br />
この本堂の左に説明板があり</p>

<blockquote>

<p>甚大寺</p>

<p>安城山不矜院（ふきょういん）甚大寺は、元和元年（一六一五）慈眼大師天海大僧正が、天台宗比叡山延暦寺の末寺として山形城下に建立された寺である。<br />
元禄十四年（一七〇一）に山形城主であった伊豆守正虎［まさとら］公（佐倉堀田家三代）が開基となり、当山十二世秀鏡法印［しゅうきょうほういん］が中興した。しかも、延享三年（一七四六）堀田相模守正亮［まさすけ］公（五代）が、佐倉城主として転封されるに際し、同年八月、現在の地に移したものである。<br />
安置されている本尊、十一面観世音菩薩（市指定文化財）は、堀田正倫［まさとも］公（十代）の御念持仏で、わが国彫金界の泰斗である佐倉出身の津田信夫［しのぶ］の作である。<br />
また、金毘羅尊は、堀田相模守正順［まさあり］公（六代）が天下泰平、万民豊楽を祈り、城内の守護仏として、四国象頭山より勧請したものである。現在、毎月十日は金毘羅尊の縁日として近隣町村からの参詣者を迎えている。<br />
大伽藍を容した旧本堂は、明治初期の大火で焼失したが、現在の本堂は阪東二十八番札所滑川龍正院の建物を昭和三十六年に移築したもので、享保十一年（一七二六）六月、当時下総の国を挙げて建立されたものである。<br />
境内奥には、堀田家累代の廟が静かにたたずんでいる。</p>

<p>昭和六十年三月　佐倉市</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>昭和三十六年は１９６１年、昭和六十年は１９８５年。</p>

<p>阪東二十八番札所滑川龍正院は、千葉県成田市滑川にある通称滑川観音と呼ばれているお寺さんです。<br />
明治初期の大火とは、明治２４年の新町の火災のことと思われます。</p>

<p>明治２４年は１８９１年。</p>

<p>甚大寺の創立年代については、説明板にあるのが正しいと思われますが、歴史の道調査報告書には「甚大寺は元和九年、天海大僧正によって山形城下に開創され...」とあり、説明板にある天和元年であると山形城主は最上家親であり、元和九年であれば鳥居忠政ということになります。<br />
どちらの人物も、徳川家とは縁がある人で、最上家親はその名に「家」の字があるように、徳川家康の小姓の一人として使えていた人で、この関係で天海大僧正が山形に来て寺を建てたとしても不思議ではないし、鳥居忠政も酒井氏など共に譜代として徳川家とも縁があり、これまた天海大僧正が山形に来て寺を建てても不思議ではありませんが、甚大寺の説明板にはっきりと元和元年の文字があるので、最上家親の時に創立されたといえるようです。</p>

<p>甚大寺の院号である「不矜院」とは、後の堀田氏初代堀田正俊の戒名「不矜院殿又新叢翁大居士」とある「不矜院殿」から、「不矜院」とつけたのでしょう。</p>

<p>本堂の右側を少し進むと、左手に古風な（いや古い建物）佇まいの建物が元本堂兼庫裏で、その入口の右側にシャチホコが対で置かれています。</p>

<p><img alt="佐倉町　新町　仲町北側　甚大寺　シャチホコ" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/shinmachi_jindaiji_shatihok.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　新町　仲町北側　甚大寺　シャチホコ。（新町）</p>

<p>このシャチホコは、佐倉城にあったものですが、どこにあったものかについてはわかっていません。<br />
このほかにも、<a href="http://sanpobokko.com/stroll_note/2010/03/post-105.php">成田街道（佐倉道）その９３</a>で訪ねた佐倉城址の西側出丸跡にある旧城門は、昭和３７年から昭和５７年までこの甚大寺にあったものですが、どの場所に設置していたかは、調べていないのではっきりしていませんが、もしかすると堀田家墓所の道路側の入口に設置されていたのではないかと思われ、ちょうど幅的にも合いそうですがどうでしょう？。</p>

<p>昭和３７年は１９６２年、昭和５７年は１９８２年。</p>

<p>シャチホコの右側に隣の建物との間に通路があり、竹垣の扉のある入口を通り抜けると、先ほど訪ねた堀田家墓所の入口に辿り着きます。</p>

<p>新町あたりの図を載せます。</p>

<p><img alt="新町あたりの図" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/shinmachi_atari_zu.jpg" width="400" height="466" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>新町あたりの図。</p>

<p>甚大寺が山形からこの場所に移ってくる前に、養源寺というお寺さんがあり、古今佐倉真佐子には</p>

<blockquote>

<p>○宗円寺隣養源寺也<br />
門少内へ入てくずやふき、左右ひしぎ竹のへい。此下大土手、土手前丸竹こまよせ有る。門内左右より向へ押廻杉いけ垣。四角にはさむ也。杉松紅葉桜にて林のごとし。向の方横の杉かきを少右の方へ入て客殿の前也。<br />
扨向は右の方杉かきの前桜並木。扨此角御たまや御玄関也。打つゝきて客殿也。本尊釈迦。客殿前左の方くりにてこしかけ。玄関ある前、杉かきの内角しゆろあ（鐘楼）あり。そばに大木の紅葉有る。書院の庭つき山、からかねのきりんの置ものなど有りて、是迄の大寺也。<br />
扨城主度々御入。御在城中是非一度つゝ御成有之。其節は御供廻二汁五さいの料理出る。禁酒也。和尚捉沙（マゝ）也。所替之節淀へ来る。無所裏に有る。家中且家余程ある。</p>

</blockquote>

<p>とあり、かなり大きな寺であったことが書かれています。<br />
「扨城主度々御入」とある城主とは、稲葉正往と稲葉正知のことで、この養源寺は稲葉家のゆかりの寺でした。<br />
稲葉正知が享保八年五月に城州淀城に移封された時に、養源寺も淀に移ったと古今佐倉真佐子には書かれていますが、大方の文献などには甚大寺と合併したとありますが、宗派が違うので合併については、まずないものと思われます。</p>

<p>城州は山城国のことで、現在の京都府にあたり、淀城は京阪本線の淀駅のある場所にあり、淀駅のすぐ西側に大きな石垣があるところが淀城（淀城跡公園）です。<br />
現在、この京都府京都市伏見区の淀辺りには養源寺という名のお寺さんはなく、稲葉正知の移封と共に移ったという古今佐倉真佐子の記述とは矛盾が生じるようですが、当時はおそらく淀に移り、その後何かがあり廃寺とされたとも考えられますが、東京都文京区千駄木に養源寺という同じなの寺があり、ここに稲葉正知の墓があるので、もしかするとこの千駄木の養源寺と合併もしくは墓所などを移した、ということも考えられます。<br />
千駄木の養源寺は、元和二年に稲葉正勝（稲葉正成の次男で、母は春日局）によって建てられた臨済宗のお寺で、<a href="http://sanpobokko.com/stroll_note/2010/03/post-107.php">成田街道（佐倉道）その９５</a>で出てきた西村茂樹の墓のあるお寺さんでもあります。</p>

<p>元和二年は１６１６年。</p>

<p>淀城は新旧あり、稲葉正知が移封されたのは新淀城で、歴史の教科書や大河ドラマなどで有名な淀城（茶々［淀殿］がいた）は古淀城と呼ばれていて、現在の淀城跡公園の北側のほうに納所川が流れていますが、このあたりを納所（のうそ）といい、納所川の北側に妙教寺というお寺さんがあり、このお寺のあたりを北城堀といいますが、古淀城があったのがこのあたりだといわれています。<br />
納所川を挟んで南側を南城堀といい、近くの幼稚園の名に「城之内」と名も見え、このあたりに城があったことが字名などで確認出来ます。<br />
さらに鳥羽伏見の戦いの戦の時に、このあたりも南側の戦場と化し城下は焼かれたということです。<br />
どちらかというと幕末・維新の事柄で有名である場所ですが、以外に稲葉氏とのつながりで佐倉とも何らかの関係があったことは意外なことです。</p>

<p><ins datetime="2010-05-01T18:30:16+09:00">[2010-05-01 追記]　古今佐倉真佐子に載せられていた養源寺について追記しました。</ins></p>

<p>甚大寺の本堂まで戻り、甚大寺の入口の向こうに細い道があり、ここ（西に向う道、嶺南寺からだと左に曲がる）を６０メートルほど進むと、右（北）に道が曲がるあたりの民家の奥（通路がある）に神社があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　最上町　七軒町　稲荷神社" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/mogamimachi_inarijinja.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　最上町　七軒町　稲荷神社。（最上町）</p>

<p>千葉県下総国印旛郡神社明細帳には</p>

<blockquote>

<p>無格社<br />
稲荷神社<br />
一　祭神　蒼稲魂命<br />
一　由緒　寛永十九年佐倉藩主堀田正盛城外家臣ノ邸地一区毎ニ（当時曲輪ト称ス）一社ヲ設置ス<br />
一　社殿間数　間口壱間　奥行九尺<br />
一　境内坪数　廿七坪　官有地第一種</p>

</blockquote>

<p>とあり、千葉県印旛郡誌にもほぼ同文であるので省略します。</p>

<p>寛永十九年は１６４２年。</p>

<p>最上町も武家屋敷町で、他の稲荷神社と同じく堀田正盛の命によって建てられたものです。</p>

<p>最上町の稲荷神社から甚大寺の入口まで戻り、今度は左（北、嶺南寺からだと直進）に８０メートルほど行くとＴ字路になり、Ｔ字路を右（東）に１０メートルほど進むと井戸があり、ここで道は左（北）に進み、１０メートルほど行くと右（東）に曲がり、その曲がったところすぐの左側に少し古びた木の鳥居のある神社があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　最上町　七軒町　一九稲荷（稲荷神社）" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/mogamimachi_itikyuinarijinj.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　最上町　七軒町　一九稲荷（稲荷神社）。（最上町）</p>

<p>通称一九稲荷と呼ばれている稲荷神社で、千葉県下総国印旛郡神社明細帳には</p>

<blockquote>

<p>無格社<br />
稲荷神社<br />
一　祭神　蒼稲魂命<br />
一　由緒　寛永十九年佐倉藩主堀田正盛城外家臣ノ邸地一区毎ニ（当時曲輪ト称ス）一社ヲ設置ス<br />
一　社殿間数　間口壱間　奥行九尺<br />
一　境内坪数　三拾坪　官有地第一種</p>

</blockquote>

<p>とあり、千葉県印旛郡誌も同文で載せているので省略します。</p>

<p>この稲荷社にはなぜか名称が「一九」とありますが、この「一九」とは社殿間数の「間口壱間」の「一」と、「奥行九尺」の「九」とを採って「一九」としたという説と、堀田正盛の入封の年である「寛永十九年」の「一九」という説がありますが、どっちが本当なのかはわかりませんが、これはそれぞれの捕らえ方でいいのではないかと思います。</p>

<p>この一九稲荷（稲荷神社）のあるあたりも武家屋敷町であったところで、そのためこの場所に建てられています。<br />
最上町は、北側に細い道で実はつながっていて、こちら側には小字名がなく「最上町」としてありますが、こちら側には稲荷神社がありません。<br />
安政年間の佐倉城實測圖には、最上町の範囲が現在の宗円寺と嶺南寺、そして甚大寺も含まれており、北側の最上町は畑として載せられています。<br />
そのため、北側の最上町には稲荷神社がないものと思われます。</p>

<p>一九稲荷（稲荷神社）からＴ字路に戻り、Ｔ字路を直進（西、甚大寺からだと左）に４０メートルほど進むと十字路があり、ここを右（北）に２０メートルほど行くと階段があり、２０メートルほど坂を下ると道は右（北東）に曲がり、やや下りながら５０メートルほど進むと道は左に曲がりますが、この曲がり角の右角（東の角）に石造物があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　鏑木町　瓜作　道祖神" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/kaburagimachi_urisaku_dosoj.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　鏑木町　瓜作　道祖神。（鏑木町）</p>

<p>左側のものは墓碑と思われ、正面の真中に地蔵像、正面の右に「寛保二（欠損しているためこの部分わからず）位」、正面の左に「■霜（欠損しているためこの部分わからず）■（十？）八日　（隣の列も欠損しているためこの部分わからず）氏」とあり、右のものは道祖神で正面に「道祖神」、右側面に｢昭和十年二月」、左側面に「□□氷（米か？）蔵」とあります。</p>

<p>寛保二年は１７４２年、昭和十年は１９３５年。<br />
□は判読できない文字で、■は判読しづらい文字で（）は入るであろう文字です。</p>

<p>左の墓碑は、真中あたりで破損したようで、右側が欠損した状態、左側から折れたところはコンクリートで修復されていますが、文字までは修復されていません。</p>

<p>この道祖神のあるところまで歩いてきた道は古道筋で、この道祖神の角から北に進み、現在の京成佐倉駅ホールの東側を抜けて、京成佐倉駅南口の駐輪場前の細い道に出ていましたが、道祖神の角から北に２０メートルほどで、住宅地内に進む細い道が北に向って６０メートルほどありますが、この道は途中で行止りになってしまいます。<br />
古道筋はこの行止りから、崖沿いに沿って京成佐倉駅ホールの前の大通りのところに出てきていましたが、ここまでの区間は消滅していて、更に京成佐倉駅ホールの横道も消滅しています。<br />
この古道は、佐倉市大佐倉の浜宿に通じていた道で、江戸時代までの印旛沼の湊であった浜宿湊への道でした。</p>

<p>道祖神の後に崖がありますが、この崖の上が現在の佐倉市最上町で、江戸時代の絵図などによると道祖神がある辺りまでは最上町であり、崖下の部分は畑であったことが描かれています。<br />
もともとは鏑木町であったところで、佐倉城が出来てから武家屋敷町の拡大に伴って、最上町に含まれていたようですが、明治に入ってから鏑木町に戻り、崖上が最上町、崖下が鏑木町ということになったようです。<br />
同じようなことは宗円寺や嶺南寺、甚大寺にも当てはまり、江戸時代（嘉永年間の新町の短冊図では新町には入っていない）までは最上町でしたが、明治に入ってからは新町に入るようになったようです。</p>

<p>嘉永年間は１８４８年～１８５４年までの間。</p>

<p>道祖神のある角から来た道を、城下町佐倉歴史生活資料館のすぐのところの信号のあるＴ字路まで戻り、佐倉道を進んでいきます。</p>

<p>ということで、今回はここまで。</p>

<p>参考文献は、「歴史の道調査報告書　成田街道」、「佐倉市史」、「千葉県下総国印旛郡寺院明細帳」、「千葉県下総国印旛郡神社明細帳」、「千葉県印旛郡誌」、「佐倉市誌資料」、「佐倉の歴史を学ぶ　資料集」、「多輪免喜」、「佐倉風土記」、「佐倉文庫」、「古今佐倉真佐子」、「新佐倉真佐子　－佐倉のお茶の間風土記－」、「総州佐倉御城府内之図」、「ふるさとの石仏」、「佐倉町二十五年誌」、「新道々の記」、「佐倉細見」、｢佐倉さんぽ　散策マップ（佐倉市観光協会発行）」より。</p>

<p>引用は各文献と各社寺の説明板、地域の説明板より。</p>

<p>今回の地図は<a href="http://sanpobokko.com/kaido_image/sakuramichi_6.jpg">「佐倉道６」</a>です。</p>

<p>国土地理院２５０００分の１「佐倉」より作成しています。</p>]]>
    </content>
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<entry>
    <title>成田街道（佐倉道）その１００</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://sanpobokko.com/stroll_note/2010/04/post-112.php" />
    <id>tag:sanpobokko.com,2010:/stroll_note//5.518</id>

    <published>2010-04-27T15:48:20Z</published>
    <updated>2010-04-30T07:58:48Z</updated>

    <summary>佐倉道　城下町佐倉歴史生活資料館のすぐのところの信号のあるＴ字路（千葉県佐倉市新町）から嶺南寺（千葉...</summary>
    <author>
        <name>nobo</name>
        
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        <category term="街道歩き" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    <category term="佐倉市" label="佐倉市" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
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    <category term="成田街道" label="成田街道" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://sanpobokko.com/stroll_note/">
        <![CDATA[<p>佐倉道　城下町佐倉歴史生活資料館のすぐのところの信号のあるＴ字路（千葉県佐倉市新町）から嶺南寺（千葉県佐倉市新町）まで</p>

<p>城下町佐倉歴史生活資料館のすぐのところの信号のあるＴ字路（千葉県佐倉市新町）を、左（北）に８０メートルほどのところ右にお寺さんがあります。</p>

<p><img alt="佐倉町　新町　仲町北側　宗円寺" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/shinmachi_soenji.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　新町　仲町北側　宗円寺。（新町）</p>

<p>千葉県下総国印旛郡寺院明細帳には</p>

<blockquote>

<p>本山妙心寺末<br />
襌臨済宗妙心寺派　宗圓寺<br />
一　本尊　観世音<br />
一　由緒　寛永十八年中堀田加賀守創立活堂和尚開山其他由緒年月不詳<br />
一　本堂間数　間口六間　奥行四間半<br />
一　境内坪数　四百貳拾九坪　民有地第壱種<br />
一　境内仏堂　貳宇<br />
薬師堂<br />
本尊　薬師如来<br />
由緒　弘法大師作<br />
建物　間口壱間　奥行壱間半<br />
大師堂<br />
本尊　弘法大師<br />
由緒　不詳<br />
建物　間口貳間　奥行壱間</p>

<p>以下省略</p>

</blockquote>

<p>とあり、千葉県印旛郡誌には</p>

<blockquote>

<p>新町字仲町にあり臨濟宗にして本山妙心寺末なり觀世音を本尊とす寛永十八年中堀田加賀守創立活堂和尚開山其他由緒不詳堂宇明治十七年十二月十七日燒失同十九年七月廿日許可を得て再建し間口六間奥行四間半あり境内は一反四畝九歩 [民有地第一種]</p>

<p>...中略...</p>

<p>境内佛堂二宇あり即<br />
一、薬師堂　薬師如來を本尊とす弘法大師の御作なり堂宇は明治十九年七月廿に地の再建にして間口二間奥行二間五分あり<br />
一、大師堂　弘法大師を本尊とす由緒不詳建物間口二間奥行一間</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>寛永十八年は１６４１年、明治十七年は１８８４年、明治十九年は１８８６年。<br />
堀田加賀守は堀田正盛のこと。</p>

<p>千葉県下総国印旛郡寺院明細帳の本堂間数の間口と奥行には朱線で訂正があり、この朱線の下には「間口七間　奥行五間」とあり、訂正の下には「十七年十二月十七日燒失」とあり、訂正したものの下には上記の間口と奥行が書かれており、その下に「再建　十九年廿日許可」とあります。<br />
この部分は、千葉県印旛郡誌にあるとおりで、千葉県印旛郡誌にある記述はこの訂正文を基にしています。<br />
千葉県下総国印旛郡寺院明細帳の民有地第壱種の下に「明治十六年一月中無代下奐」とあり、明治十六年に民有地に無償で譲渡したことが書かれています。</p>

<p>明治十六年は１８８３年。</p>

<p>ほかには、薬師堂の建物のところの間口と奥行も朱線で訂正されており、朱線の下には「間口三間五分　奥行貳間五分」とあり、訂正したものの下には「上記の間口と奥行がかかれており、その下に「再建　十九年七月二十日許可」とあります。<br />
この部分も、この記述を基に、千葉県印旛郡誌も記述をしています。</p>

<p>さらに、境内坪数と境内仏堂との間に「此分裂　八畝九ト（歩）境内　六畝ト（歩）境外　此境外ハ堀田正倫ヘ賣渡ス　三十四年十一月十八日許可」とあり、薬師堂下にも朱字で「前同断」とあります。</p>

<p>明治三十四年は１９０１年。</p>

<p>明治三十四年に境内のうち約１８０坪を堀田正倫が買い取っていますが、この場所はおそらくとなりの住宅があるあたりと思われます。</p>]]>
        <![CDATA[<p>宗円寺の門柱左には、「重要史跡　佐藤泰然之墓」とある標柱があり、門柱から中に入ると右側に墓地への案内所、左手に佐倉七福神の寿老人、その右に真新しい六地蔵と大きな地蔵（延命地蔵）、その右側大木のところに大師堂がありその左斜め前にズレて手洗石、大師堂の右側には２６基の石塔群があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　新町　仲町北側　宗円寺　石造物群（一部）" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/shinmachi_soenji_sekitogun.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　新町　仲町北側　宗円寺　石造物群（一部）。（新町）</p>

<p>２６基のうち、左から７つ目までが碑と墓碑以外の石仏・石塔で、他の１９基は墓碑で、しかもだんだん小さいものになっていき、最後の方の１０基は子供のための供養碑と墓碑になっています。</p>

<p>一番左に大きな自然石の碑があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　新町　仲町北側　宗円寺　贈従五位笠翁佐藤先生招魂之碑" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/shinmachi_soenji_satoshokon.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　新町　仲町北側　宗円寺　贈従五位笠翁佐藤先生招魂之碑。（新町）</p>

<p>碑の上部に「贈従五位笠翁佐藤先生招魂之碑」とあり、その下に碑文があり、この碑文は長文なので省略しますが、碑の後に説明書きがあり</p>

<blockquote>

<p>贈従五位笠翁佐藤先生招魂之碑</p>

<p>佐藤先生は、佐藤尚中［たかなか］（舜海）のことです。<br />
号を笠翁と言います。<br />
尚中は、文政十年（１８２７年に小見川藩医山口甫僊の次子として生まれ、始め山口舜海と称していました。後、天保十三年（１８４２年）、十六歳の時に江戸に出て佐藤泰然の和田塾に入門し、後にその逸材を見込まれ二十七歳の時に泰然の養嗣子となっています。安政六年（１８５９年）、泰然の隠居に伴い家督を継ぎ、順天堂も受け継ぎました。万延元年（１８６０年）十一月、幕命により長崎に遊学し、当地にいたオランダ海軍軍医ポンペから体系的な西洋医学を学んでいます。舜海の遊学後は佐倉の西洋医学は更に発展を遂げる結果となりました。明治維新後は新政府に招かれ、大学東校［とうこう］（今の東京大学医学部）教授となり、更に天皇の侍医である大典医にもなりました。後年、東京湯島に順天堂病院を開きました。現在の順天堂大学につながるものです。<br />
佐倉順天堂は、弟子の岡本道庵が尚中の養嗣子となって同じく舜海を名乗り、受け継ぎました。また、尚中の養子となった弟子の高知東之助は佐藤進として東京の順天堂を発展させています。進は後に陸軍軍医総監になっています。更に、長女の佐藤静子は女子美術学校（後の女子美術大学）を創立したことで知られます。</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>この碑のとなりには万霊塔があり、正面の真中に「萬霊等」、正面の右の上部に「承應二癸巳　翠峰友景禅定門　閏六月一日」、正面の右の下部に「■（宝）永二乙七月六日　霊□□□□■（信？）士　□道禅士　□□宗祇■■（信士？）　□□禅尼　寛政十■（戊）三月五日」、正面の左に｢現住■（門か間か？）是代」とあります。</p>

<p>承応二年は１６５３年、寛政十年は１７９８年。<br />
□は判読できない文字で、■は判読しづらい文字で（）はおそらく入るであろう文字です。<br />
「■（宝）永二乙七月六日」の（）は推定ですがおそらく宝永二年と思われ、宝永二年であれば１７０５年。</p>

<p>そのとなりに二十三夜塔があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　新町　仲町北側　宗円寺　二十三夜塔" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/shinmachi_soenji_23yato.jpg" width="233" height="350" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　新町　仲町北側　宗円寺　二十三夜塔。（新町）</p>

<p>正面に「二十三夜塔」、右側面に「元治二乙丑年二月吉日」とあり、塔の後ろに説明書きがあり</p>

<blockquote>

<p>二十三夜塔</p>

<p>二十三夜というのは月待の一つで、旧暦の二十三日の夜に集まる講を言います。三夜様とか、三夜供養とも呼ばれています。この日の夜に、部落の人達が集まり共同して飲食をすることがありました。太陽の出現を拝む日待と並んで農村では大切な行事です。十年に一度とか五十回目、百回目とか、又は何か特別の祈願のある時などに、記念の大祭を挙行して、石の石塔を一定の場所に建てることがあります。この石塔の右横には「元治二乙丑年二月吉日」と書かれています。元治二年二月は、西暦では一八六五年に当たります。この年の一月には佐倉地方で天然痘の大流行があったと記録されていますので、その病魔を追い払う祈願であったかも知れません。</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>このとなりにちょっと変わった地蔵があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　新町　仲町北側　宗円寺　地蔵像" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/shinmachi_soenji_jizo_kyu.jpg" width="233" height="350" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　新町　仲町北側　宗円寺　地蔵像。（新町）</p>

<p>造立年月日は不詳の地蔵で、見た感じちょっと変わった印象を受けるもので、もともとは小堂の中に納められていましたが、現在は他のものと共に並んで建っていますが、最初の位置はこの石造物群の左側、つまり、大師堂があった辺りにあったわけですが、大師堂の左斜め前に不自然にある手洗石は、この地蔵があった小堂の前にあったものと思われ、この手洗石の右側には「文政十三寅歳三月吉日」とあり、この地蔵はこのあたりに作られたものの可能性もなきにしもあらず、と思われます。</p>

<p>文政十三年は天保元年でもあり１８３０年。</p>

<p>地蔵像の右側には十九夜塔があり、正面に顔がない如意輪観音像、正面の右に｢寶暦八戊寅年三月十九日」とあり、そのとなりにはやはり顔のない地蔵で造立年月日は不詳、そのとなりは庚申塔で正面にやはり顔のない青面金剛像、その下に邪鬼と三猿があり、像の側面には銘文があった痕跡がありますが欠損部分が多々あり、現在は判読できません。</p>

<p>寶暦八年は１７５８年。</p>

<p>この庚申塔についてふるさとの石仏に「...、側面に壬午（文政五＝一八二二または宝暦十二＝一七六二）為寿貞信士　妙春信女□□　澄江尼造立　と刻んである。供養碑と庚申塔とを習合した、変わった石仏である。」とあます。<br />
側面というのは、おそらく台座のことをいっているものと思われますが、隣のものとの隙間があまりないので、この部分の確認が困難です。</p>

<p>この庚申塔から右側は墓碑及び供養塔になるので、ここでは割愛させていただきます。</p>

<p>石造物群の右に本堂があり、本堂の左右には無縁塔群があり、右側の無縁塔群の前に石碑があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　新町　仲町北側　宗円寺　盡衟之碑" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/shinmachi_soenji_jindonohi.jpg" width="233" height="350" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　新町　仲町北側　宗円寺　盡衟之碑。（新町）</p>

<p>自然石で出来た顕彰碑で「盡衟（じんどう）之碑」とあり、碑の右側に説明板があり</p>

<blockquote>

<p>千葉県巡査部長戸村芳蔵の殉職顕彰碑です。<br />
戸村芳蔵は武射郡大富村（後の成東町、現山武市）に生まれ、明治十年（１８７７年）に西南戦争に従軍し連戦すること数箇月、戦傷を受けています。帰郷後、明治十四年（１８８１年）一月に千葉県巡査となり、明治二十四年（１８９１年）四月には昇任して巡査部長となり佐倉警察署に勤務しました。よく明治二十五年（１８９２年）一月に佐倉地方で痘瘡が発生しました。戸村巡査部長は、病勢激烈の中を検疫・消毒等の処理に当たり、県民・町民を衛（まも）るという警察官としての職を全うし、遂に自らも罹患し殉ずるところとなったものであります。三月十一日、行年四十二歳でした。遺骨は大富村に帰郷し埋葬されましたが、佐倉町民の有志が醵金して戸村芳蔵の衟（みち）を盡（つ）くした功績を末代まで讃えるために、碑を立てたものです。</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>痘瘡とは天然痘のことです。</p>

<p>この盡衟之碑の右側に墓地に向う通路があり、左に本堂を見ながら通路を進み、本堂の裏側あたりの左側に他の墓とは区画されたところがあります。</p>

<p><img alt="佐倉町　新町　仲町北側　宗円寺　佐藤家墓所" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/shinmachi_soenji_satotaizen.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　新町　仲町北側　宗円寺　佐藤家墓所。（新町）</p>

<p>この墓所入口の右側に説明板があり</p>

<blockquote>

<p>史跡　佐藤泰然の墓<br />
佐藤泰然（父、佐藤信隆〔藤佐［とうすけ］〕は山形の人）は文化元年（一，八〇四）に武蔵国川崎在稲毛（現在の川崎市）生まれ、天保元年（一，八二九）高野長英に（医学）を学び天保六年から々、九年まで長崎で蘭方医学を学んだのち、江戸で開業したが、天保十四年（一，八四三）佐倉藩主堀田正睦の招きにより佐倉本町に移り住み、私立病院の元祖である順天堂を開き、治療の傍ら、塾として多くの近代医学を担った医学生を育てると共に、藩主堀田正睦の顧問各として、外交問題の意見を聞かれる等藩政に与えた力は大きく、佐倉藩の洋学熱心と合まって「西の長崎、東の佐倉」とうたわれた時代であった。<br />
安政六年（一，八五九）順天堂を養子佐藤尚中（山口舜海）に譲り横浜、東京と居を移し、明治五年（一，八七二）東京下谷茅町において六十九才で没した。</p>

<p>宗教法人　宗円寺<br />
寄贈　藤太郎総業有限会社</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>天保六年は１８３５年、天保九年は１８３８年。<br />
武蔵国川崎在稲毛（現在の川崎市）は、川崎市役所と稲毛神社がある辺りで、ようは、東海道川崎宿で生れたということになります。<br />
東京下谷茅町は、現在の東京都台東区池之端一丁目と二丁目あたりのことです。</p>

<p>墓所の入口の左に自然石の碑があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　新町　仲町北側　宗円寺　佐藤家墓所　山内豊城墓表" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/shinmachi_soenji_yamauchi.jpg" width="233" height="350" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　新町　仲町北側　宗円寺　佐藤家墓所　山内豊城墓表。（新町）</p>

<p>碑の上部に「江戸隠士山内豊城墓表」とあり、崩し文字で碑文が書かれていますが、碑文が長いので割愛します。</p>

<p>山内豊城は、松本良順が書いた「養生法」に校閲註（注釈）をした人ということで、あまり知られている人ではありませんが、佐藤泰然の父佐藤藤佐が伊奈家へ仕えていて、伊奈忠告（幸之助、遠江守）が幼少だったので補佐をしていた頃、この伊奈忠告と佐藤泰然と山内豊城が、伊奈忠告とは主従ではあったけれども仲のよい勉強友達として勉学に励んでいたようです。<br />
その後、佐藤泰然がはじめの妻と別れた後に、山内豊城の妻の妹と結婚をしたので山内豊城が義兄となり、泰然の次男である松本良順の義祖父ということになったわけです。<br />
佐藤泰然が長崎に西洋医学を学ぶために伊奈家を致仕し、代わって山内豊城が伊奈家に仕えたました。<br />
山内豊城墓表がここにあるのは、佐藤泰然の義兄であると共に、その子供達とともに西洋医学の発展に携わっていたので、この佐藤家の墓所内に建てられたのだろうと思います。</p>

<p>伊奈遠江守（伊奈遠江守忠告）は、文政十二年に御小納戸役、天保十二年御小納戸頭取、天保十二年堺奉行に任ぜられて遠江守となり、天保十四年に京都東町奉行（京都伏見奉行にも就いた）、嘉永三年に勘定奉行を勤めた人で、勘定奉行の時の嘉永三年に４４歳で没しています。</p>

<p>天保十二年は１８４１年、天保十三年は１８４２年、天保十四年は１８４３年、嘉永元年は１８４８年、嘉永三年は１８５０年。</p>

<p>山内豊城の墓は、東京都豊島区駒込の都立染井霊園にあります。</p>

<p><ins datetime="2010-04-30T15:44:25+09:00">[2010-04-30 訂正と追記]　山内豊城と伊奈遠江守忠告について訂正と追記をしました。一部の資料などには伊奈遠江守斯綏という名で堺奉行と京都町奉行にはあり、「斯綏」の名が「忠告」のその後の名なのかは確認できていませんが、奉行していた時期はほぼ合っているので、伊奈忠告のことであるとおもわれます。上記の役職の任期、記述内容の出典は「蘭醫佐藤泰然」より。さらに、山内豊城についても追記して、山内豊城のことのみとしました。</ins></p>

<p>墓所の奥に、大きな墓碑が２基あります。</p>

<p><img alt="佐藤舜海の墓" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/shinmachi_soenji_synkai_hak.jpg" width="233" height="350" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐藤舜海の墓。（従五位とある）</p>

<p><img alt="佐藤泰然の墓" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/shinmachi_soenji_taizen_hak.jpg" width="233" height="350" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐藤泰然の墓。（贈従四位とある）</p>

<p>手前が佐藤舜海のもので、後ろが佐藤泰然の墓です。</p>

<p>実は、佐藤泰然と佐藤舜海（尚中）の墓は、東京都台東区谷中の谷中霊園の中にもあります。</p>

<p>佐藤家墓所から宗円寺入口に戻り、宗円寺の向こう側（西側、Ｔ字路からだと左）にもうひとつお寺さんがあります。</p>

<p><img alt="佐倉町　新町　仲町北側　嶺南寺" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/shinmachi_reinanji.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　新町　仲町北側　嶺南寺。（新町）</p>

<p>千葉県下総国印旛郡寺院明細帳には</p>

<blockquote>

<p>本寺髙澤寺末<br />
曹洞宗　嶺南寺<br />
一　本尊　釈迦牟尼佛　閻魔大王<br />
一　由緒　寛永十八年八月五日堀田加賀守創立陽南良雪大和尚開山其他由緒年月不詳<br />
一　本堂間数　間口七間　奥行四間<br />
一　庫裏間数　間口七間五分　間口四間五分<br />
一　境内坪数　三百三拾八坪　民有地第壱種</p>

</blockquote>

<p>とあり、千葉県印旛郡誌には</p>

<blockquote>

<p>新町字仲町北側にあり曹洞宗にして本寺髙澤寺末なり釋迦牟尼如來を本尊とす寛永十八年八月五日堀田加賀守創立陽南良雪大和尚開山其他由緒年月不詳堂宇間口六間五分奥行四間五分庫裏間口七間五分奥行四間半境内三百三十八坪 [民有地第一種] あり檀徒百九十五人を有し管轄廰まで四里三十町とす境内佛堂一宇あり即<br />
一、閻魔堂　閻魔大王を本尊とす由緒不詳建物間口二間五分奥行二間なり</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>寛永十八年は１６４１年。<br />
堀田加賀守は堀田正盛のこと。<br />
本寺に髙澤寺とありますが、佐倉あたりには曹洞宗の寺で髙澤寺はなく、堀田正盛の前に封地である信州松本（現在の長野県松本市）に建立されたときの本寺のことを指しているとすれば、おそらく長野県松本市にある広沢寺のことではないかと思われます。<br />
髙澤寺と広沢寺、共に「こうたくじ」と読むので当て字で記載されたものであるようにも思われますが、定かではありません。</p>

<p>千葉県下総国寺院明細帳の本尊には、はじめ「釈迦牟尼佛」のみでしたが、その下に小さく「閻魔大王」が追記され、「本堂間数　間口七間　奥行四間」とあるところには朱線で訂正されていて、訂正前には「間口六間五分　奥行四間五分」とあり、枠外に「大正二年七月廿一日改築許可」と朱字であります。<br />
さらに、境外仏堂である閻魔堂には朱線で消しこみ線が引かれ、枠外に「大正二年九月四日閻魔堂取崩　閻魔像ヲ本堂ヘ安置ノ許可」とあり、大正二年に本堂に閻魔像を移したことが記述されています。</p>

<p>大正二年は１９１３年。　</p>

<p>嶺南寺について、新佐倉真佐子には</p>

<blockquote>

<p>曹洞宗高沢寺の末寺、釈迦牟尼仏を本尊としている。寛永十八年八月五日、堀田加賀守正盛が信州松本に創立、同十九年一月佐倉へ移封と共に当地に移った。陽南良雪大和尚が開山したものである。境内に閻魔堂があり毎年八月十六日が縁日である。墓域には浜野氏、入江氏、熊谷氏等佐倉藩重職の墓のほか作家吉川英治氏の生母山上氏の墓がある。また開花亭の二代目三代目関嘉七さんの墓もある。</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>寛永十九年は１６４２年。</p>

<p>新佐倉真佐子には「閻魔堂があり」と記述されていますが、現在はこの閻魔堂はありません。</p>

<p>千葉県印旛郡誌の編纂時期（明治末期）にはまだ閻魔堂はあったことから、千葉県印旛郡誌には閻魔堂は載せられたようですが、千葉県下総国印旛郡寺院明細帳の訂正は、千葉県印旛郡誌の編纂後のことであったので、新佐倉真佐子に載せられているところを見ると、閻魔堂をのちに復活させて建立したが、現在はまた本堂に戻した、ということなのかは定かではありません。</p>

<p>古今佐倉真佐子に「不残地獄の絵なれども、筆宜ゆへ見所あり、しほらしき絵也」とあるところをみると、江戸時代には地獄絵図が嶺南寺にあったことが記述されていますが、現在はその「不残地獄の絵」は伝わっていないようです。</p>

<p>不残地獄の絵は、おそらく明治二十九年の新町の火事の時に焼失したものと思われますが、閻魔堂はこの火災からは免れたようです。<br />
ただし本堂と庫裏は火災にあっていて、古文書（由緒書きなど）はほとんどその火災で焼失したということです。</p>

<p>明治二十九年は１８９６年。</p>

<p>嶺南寺の正面入口は扉が閉まっていることが多く、入口の右側の車の出入り口側が開いているのでそこから入り、参道の少し行った右側のプレハブの手前に石仏（地蔵にも観音にも見える）があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　新町　仲町北側　嶺南寺　無縁地蔵尊" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/shimachi_reinanji_muento.jpg" width="233" height="350" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　新町　仲町北側　嶺南寺　無縁地蔵尊。（新町）</p>

<p>頭が観音（螺髪［らほつ］があるので）で、その下の部分が地蔵という不思議な石仏の台の正面の右に「南無観音大士」、正面の真中に「無縁」と横に「集石塔」と縦にあり、正面の左に「南無■（大？北？土？六？それとも梵字か？）地蔵尊」とあり、台の右側面には「夫此無縁塔手向香花水其功徳無量　維時　元治元甲子年　十月　造立　當山拾五世代」、台の左側面に「■（衆？安？）土■（垤？址？）真言　南無三満多汲駄喃　唵　度魯度魯地尾薩波訶願以此功徳普及於一切我等譽衆生　皆共成佛道」とあります。</p>

<p>元治元年は１８６４年。<br />
■は読みづらい文字で（）はおそらく入るであろう文字です。</p>

<p>以前、プレハブのあった辺りに小堂がありましたが、この小堂は現在は見当たりません。</p>

<p>参道正面に本堂があり、本堂の左側に石造物が２基あります。</p>

<p><img alt="佐倉町　新町　仲町北側　嶺南寺　三界万霊塔と庚申塔" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/shinmachi_reinanji_koshinto.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　新町　仲町北側　嶺南寺　三界万霊塔と庚申塔。（新町）</p>

<p>右側のものは三界万霊塔で正面に「三界萬霊等」、左側面に「乃至法界更等利益」、右側面に「維寛文十庚戌歳三月吉祥日　□総寺當寺五世密岩■（月か同か？）■（春か？）■（豊か？）■（尼か？）■（霊か？）」とあり、左側のものは庚申塔で正面に「奉造立庚申塔」、正面の下に三猿の見猿、左側面に「□文■（三か？）□卯歳小春吉祥日　比丘（？）■（家か？）□敬白」、左側面の下に三猿の聞か猿、右側面に「依若生滅三界堅■（成か？）法身生□世□安全所」、右側面の下に三猿の言わ猿があります。</p>

<p>寛文十年は１６７０年。<br />
□は判読できない文字で、■は文字としてあるが判読しにくい文字で（）は入るであろう文字です。</p>

<p>庚申塔の「□文■（三か？）□卯歳小春吉祥日」の「□文■（三か？）□卯歳」は、元号と干支で調べてみると「寛文三癸卯歳」が該当するので、寛文三年ということになり、１６６３年ということになります。</p>

<p>三界万霊塔と庚申塔の左側には墓地があり、その墓地に沿って西に墓地の参道が続いてあり、本堂の裏側の一段低いところまで墓地が続いています。</p>

<p>新佐倉真佐子に「作家吉川英治氏の生母山上氏の墓がある。」とある山上家は、<a href="http://sanpobokko.com/stroll_note/2009/11/post-95.php">成田街道（佐倉道）その８４</a>で出てきた初代臼井町長山上辨三郎の一族の墓所のことで、吉川英治の母いくは山上辨三郎の娘であったことから、新佐倉真佐子や佐倉細見（佐倉細見などほかのものには山川家や川上家と誤記されているものが多い）などに載せられています。<br />
ただし、この山上家の墓所には吉川英治の母いく（大正１０年没）のものはないようで（吉川英治のお父さんの所にあると思われます。未確認）すが、吉川英治の奥様が山上家（吉川英治の祖父に当る）の墓参り来られていましたが、ここ数年はこられていないと嶺南寺の方が教えてくれました。<br />
そこで調べてみたところ、吉川英治の奥様（吉川文子さん）は、平成１８年４月２３日に亡くなられていました。<br />
吉川英治夫妻の墓所は、東京都府中市多磨町の都立多磨霊園にあります。</p>

<p>大正１０年は１９２１年、平成１８年は２００６年。<br />
吉川英治のお父さん（吉川直広）は大正７年（１９１８年）に亡くなっています。</p>

<p>宗円寺と嶺南寺は、前の堀田氏のゆかりのお寺さんで、これから訪ねる甚大寺は後の堀田氏のゆかりのお寺さんということになります。</p>

<p>嶺南寺の入口まで戻り、今度は左（北）に進んでいきます。</p>

<p>ということで、今回はここまで。</p>

<p>参考文献は、「歴史の道調査報告書　成田街道」、「佐倉市史」、「千葉県下総国印旛郡寺院明細帳」、「千葉県下総国印旛郡神社明細帳」、「千葉県印旛郡誌」、「佐倉市誌資料」、「佐倉の歴史を学ぶ　資料集」、「多輪免喜」、「佐倉風土記」、「佐倉文庫」、「古今佐倉真佐子」、「新佐倉真佐子　－佐倉のお茶の間風土記－」、「総州佐倉御城府内之図」、「ふるさとの石仏」、「佐倉町二十五年誌」、「新道々の記」、「佐倉細見」、｢佐倉さんぽ　散策マップ（佐倉市観光協会発行）」、「蘭醫佐藤泰然　その生涯とその一族門流」より。</p>

<p>引用は各文献と各社寺の説明板、地域の説明板より。</p>

<p>今回の地図は<a href="http://sanpobokko.com/kaido_image/sakuramichi_6.jpg">「佐倉道６」</a>です。</p>

<p>国土地理院２５０００分の１「佐倉」より作成しています。</p>]]>
    </content>
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    <title>成田街道（佐倉道）その９９</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://sanpobokko.com/stroll_note/2010/04/post-111.php" />
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    <published>2010-04-17T07:34:45Z</published>
    <updated>2010-04-27T15:45:33Z</updated>

    <summary>佐倉道　スーパー乃ぐちや（千葉県佐倉市新町）から城下町佐倉歴史生活資料館のすぐのところの信号のあるＴ...</summary>
    <author>
        <name>nobo</name>
        
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        <category term="街道歩き" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    <category term="佐倉市" label="佐倉市" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://sanpobokko.com/stroll_note/">
        <![CDATA[<p>佐倉道　スーパー乃ぐちや（千葉県佐倉市新町）から城下町佐倉歴史生活資料館のすぐのところの信号のあるＴ字路（千葉県佐倉市新町）まで</p>

<p>スーパー乃ぐちやさんから佐倉道を東（佐倉市立美術館からだと直進、裏新町の井戸からだとＴ字路を右）に５０メートルほどの左に［一里塚」とある古い商家があります。<br />
現在は、佐倉の町の案内などをしていますが、平成１９年（２００７）までは「駿河屋」としてありました。</p>

<p><img alt="佐倉町　新町　仲町北側　駿河屋（現一里塚）" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/shinmachi_surugayaato.jpg" class="mt-image-none" style="" height="350" width="233" /></p>

<p>佐倉町　新町　仲町北側　駿河屋（現一里塚）。（新町）</p>

<p>現在も店行灯に「寿るがや」とあり、もとは「駿河屋」であったことを教えてくれます。<br />
佐倉市史にある嘉永元年の「佐倉新町絵図」には、「遊右衛門　（駿河屋・酒醤油味噌商）」とあり、この時点で既に「駿河屋」となっていたようですが、安政年間には「油屋」とあったことがわかっています。<br />
もしかすると、佐倉市史の「佐倉新町絵図」は便宜上「駿河屋」としていたのかもしれませんが、兼業をしているところが多かった時代なので、主屋の表口は「酒醤油味噌」を扱いながら、奥から二階は旅籠（郷宿）としていたのかもしれません。<br />
どちらにしても、ここには旅籠「油屋」があり、酒醤油味噌商「駿河屋」があったわけです。<br />
それは、安政五年七月十一日に桂小五郎（後の木戸孝允）が、剣術試合のために訪れ「油屋」に宿泊し、翌日に帰っていったことが古文書（宿泊帳）でわかっており、それゆえに店行灯にも「桂小五郎ゆかりの」とあるわけです。</p>

<p>嘉永元年は１８４８年、安政五年は１８５８年。</p>

<p>駿河屋であった「一里塚」から１５メートルほどのところにＴ字路があり、ここを左（北）に９０メートルほど進んだ左側（西側）に道があり、これが<a href="http://sanpobokko.com/stroll_note/2010/04/post-110.php">成田街道（佐倉道）その９８</a>で出てきたスーパー乃ぐちやさんの駐車場から続いていたお仮舎道の続きで、現在は途中５０メートルほどのところまでは道としてありますが、その先は印旛支庁跡の駐車場のところまで廃道に近い状態になっています。</p>

<p>お仮舎道の続きの道が接続するところから、３０メートルほどのところの右（東）２０メートルほど行ったところに神社があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　中尾余町　中尾余　稲荷神社" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/nakabyo_inarijinja.jpg" class="mt-image-none" style="" height="233" width="350" /></p>

<p>佐倉町　中尾余町　中尾余　稲荷神社。（中尾余町）</p>

<p>千葉県下総国印旛郡神社明細帳には</p>

<blockquote>

<p>無格社<br />
稲荷神社<br />
一　祭神　蒼稲孁命<br />
一　由緒　寛永十九年佐倉藩主堀田正盛城外家臣ノ邸地一区毎ニ［当時曲輪ト称ス］一社ヲ設置ス<br />
一　社殿間数　間口壱間　奥行九尺<br />
一　境内坪数　五拾坪　官有地第一種</p>

<p>以下省略</p>

</blockquote>

<p>とあり、千葉県印旛郡誌には</p>

<blockquote>

<p>中尾餘町字中尾餘にあり祭神は蒼稲孁命なり寛永十九年佐倉藩主堀田正盛城外家臣の邸宅一區毎に（當時曲輪と稱す）一社を設置す社殿間口一間奥行九尺境内五十坪 [官有地第一種] あり麻賀多神社祠掌兼務郡司秀綱を神官とし信徒廿一人を有し管轄廰まで三里三十町十二間なり [神社明細帳]</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>寛永十九年は１６４２年。<br />
</p>]]>
        <![CDATA[<p>稲荷神社から元に戻り、右（北、一里塚からだと直進）へ１１０メートルほど行くとＴ字路になり、ここを左に３０メートルほど進んだ右側にお寺さんが見えます。</p>

<p><img alt="佐倉町　鏑木町　右京谷津　勝全寺" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/kaburagimachi_syozenji.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　鏑木町　右京谷津　勝全寺。（鏑木町）</p>

<p>千葉県下総国印旛郡寺院明細帳には</p>

<blockquote>

<p>勝胤寺末<br />
曹洞宗　勝全寺<br />
一　本尊　釈迦牟尼如来<br />
一　由緒　天正七年五月創立開基千葉家臣鍛治佐土守平胤豊<br />
一　本堂間数　間口四間半　奥行四間半<br />
一　境内坪数　五百七拾坪　民有地第壱種</p>

<p>以下省略</p>

</blockquote>

<p>とあり、千葉県印旛郡誌には</p>

<blockquote>

<p>鏑木村字右京谷津にあり曹洞宗にして勝胤寺末なり釋迦牟尼如來を本尊とす天正七年五月創立開基千葉家臣鍛治佐土守平胤豊にして明治十八年三月十九日燒失に付仝十九年六月二日再建せり堂宇間口四間半奥行四間半境内五百七十坪 [官有地第一種] あり住職は道端秀宗にして檀徒四百六十八人を有し管轄廰まで四里二十六町とす</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>天正七年は１５７９年、明治十八年は１８８５年、明治十九年は１８８６年。</p>

<p>千葉県印旛郡誌に勝全寺が焼けたことが載せられていますが、千葉県下総国印旛郡寺院明細帳にも本堂間数の所に訂正した部分があり、｢間口八間　奥行七間　十八年三月十九日焼失」とあり、訂正したところの下に「十九年六月二日再建許可」とあります。<br />
さらに、本堂間数と境内坪数のところに付箋があり「本堂　累（？）間五間　桁行五間　昭和五年六月三日...」とあり、この年にも改築がされたようです。<br />
「民有地第壱種」の下には「明治十三年四月中無代下奐」とあり、官有地から民有地に払い下げされていますが、千葉県印旛郡誌には「官有地第一種」となっているのは、後々に「官有地」に戻されたのかそれとも間違ったのかは定かではありません。</p>

<p>昭和五年は１９３０年、明治十三年は１８８０年。</p>

<p>勝全寺については、<a href="http://sanpobokko.com/stroll_note/2010/03/post-106.php">成田街道（佐倉道）その９４</a>と<a href="http://sanpobokko.com/stroll_note/2010/03/post-107.php">成田街道（佐倉道）その９５</a>にも出てきましたが、もともとは城内の椎木曲輪にあり、そこから薬師坂近くの旧佐倉警察署跡地辺りに移り、さらに現在地に移ってきました。</p>

<p>勝全寺について、佐倉市史には</p>

<blockquote>

<p>勝全寺（中尾余）<br />
勝胤寺末であった。本尊釈迦牟尼。当寺は千葉介勝胤の第三子（或は同孝胤の二男ともいう）幹胤が、天文年中、鹿島台（近世の佐倉城の北東隅）に千葉介の命で築城を初め、その時一寺を建立したがこれが鹿島山勝全寺であると伝えている。幹胤の開基とすれば、父の勝胤の勝胤寺開基と併せ考え、然かも勝胤寺と本末関係にあったことからも創建が幹胤であるとするのは自然であろう。山ノ崎隆祥寺の過去帳には〝幹胤は文明四年に生る、初名胤重、天文十四年十月二十日卒、年七十四。鹿島山勝全寺に葬る。子鹿島太郎胤豊が家を嗣ぎ、城東鍛治作に住す〟とある。初め真言宗であったが天正九年、曹洞宗に改めたという説もあるが、天正九年とすると幹胤は既に死し、その子胤豊の時である。この頃、本佐倉城にいた千葉介邦胤は北条氏政のすすめで本佐倉から鹿島台に本城を移そうとして、幹胤か初めて中絶していた鹿島城の工事を再び初めたので当寺はその際、鏑木に移したものだとという。その場所は『明暦三年、佐倉屋鋪割絵図<城主堀田正信時代>』には「正善寺」と張紙してある。大体現在の宮小路４１～４３番地の奥の方にあたる。後にまた現在地の中尾余に移転したのであるが、一説には承応年中というが、右の絵図には勝全寺が宮小路にあるから、正信時代の明暦（一六五五～）以降に移転したものと思われる。移転の事情は宮小路が侍屋敷に新規当てられた結果によるものと思われる。</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>天文年中は１５３２～１５５５年の間、文明四年は１４７２年、天文十四年は１５４５年、天正九年は１５８１年、明暦三年は１６５７年、承応年中は１６５２～１６５５年の間。</p>

<p>佐倉市史では、開基は鹿島幹胤（千葉幹胤）としていて、千葉県下総国印旛郡寺院明細帳と千葉県印旛郡誌では胤豊（千葉胤豊）としてます。<br />
現在は、大体において「鹿島幹胤の開基」として説明がされているようなので、おそらく佐倉市史の節を取っているものと思われます。</p>

<p>勝全寺の入口横には、神社があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　鏑木町　右京谷津　勝全寺　出世稲荷神社" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/kaburagimachi_syozenji_inar.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　鏑木町　右京谷津　勝全寺　出世稲荷神社。（鏑木町）</p>

<p>出世稲荷神社とありますが、由緒などは不明です。</p>

<p>勝全寺と出世稲荷神社は、檀徒や関係者以外は通常境内には入れないお寺と神社で、先のＴ字路辺りに「当寺は観光寺院ではありません寺用・墓参以外出入おことわり」とあるので、よほどのことがない限り入れなく、しかも鉄網の柵で仕切られていて、なんとなく隔離されている感じがあり、残念ながら勝全寺がどんな雰囲気があるお寺なのかはわかりません。</p>

<p>勝全寺から佐倉道に戻り、左（東、スーパー乃ぐちやさんからだと直進）に３０メートルほどの右（南）、佐倉道の向かい側に佐倉市立図書館がありますが、この図書館の中の構造はちょっと変わっているのですが、なぜ変わっているのかというと、もともとは「銀映」という映画館だった建物で、そのため１階はそうでもないですが、２階はちょっと入り組んだような構造になっていて、少し広いところに本かあったり、脇部屋のようになったところに郷土資料などがあったりと、なかなか面白い構造の図書館になっています。</p>

<p>佐倉市立図書館から５０メートルほどの右（南）には、おはやし館があり、その入口の左側には高札板（模擬）があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　新町　仲町南側　おはやし館入口の高札板（模擬）" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/shinmachi_kosatuban_ohayash.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　新町　仲町南側　おはやし館入口の高札板（模擬）。</p>

<p>これも模擬の高札板で、先にあった新町入口にあった高札板とほぼ同じ造りになっていますが、屋根が瓦葺になっているのが違うところです。<br />
このおはやし館のある場所には、佐倉町役場などがあったところで、新佐倉真佐子には</p>

<blockquote>

<p>この建物が最初に佐倉警察署として新築されたのは明治十七年六月で、その後何度も改造されたが随分町のためには尽くした建物である。佐倉警察署が裏新町百五十六番地の藩政当時の牢屋跡に庁舎を新築移転したのは明治四十五年七月で、その跡に町役場が移って来た。その役場も二十五年後の昭和十二年には二番町の川崎銀行跡に移ったため、しばらくは空家となっていたが、栄町にあった町の農協が戦時中から配給米の加工を続けていた。昭和四十年四月一日には市に消防本部と消防署が設けられることになり、この建物を改造して消防体制を整えることになった。そして同四十七年二月十四日には仲町四十三番地の佐倉電報電話局跡の建物に移ることになった。消防署が移転した跡にしばらくしてから栄町通りにあった町の商工会が移って現在に至っている。建物の管理者が代わるたびに模様替えはされたが、いずれにしてもよく町のために貢献した建物である。</p>

</blockquote>

<p>とあり、最後にある商工会が現在「おはやし館」となっているわけです。</p>

<p>明治十七年は１８８４年、明治四十五年は大正元年でもあり１９１２年、昭和十二年は１９３７年、昭和四十年は１９６５年、昭和四十七年は１９７２年。</p>

<p>おはやし館の中には、郷土の文化や伝統行事、佐倉の物産や観光情報などがあり、さらに、秋祭りの山車が展示されていたりするので、休憩ながらに立ち寄るといいと思います。</p>

<p>おはやし館から２０メートルほどのところにＴ字路があり、このＴ字路を左（北）へ進んでいる道は京成佐倉駅からの一方通行の道の出口で、江戸時代にはこの道はありませんでした。</p>

<p>Ｔ字路から８０メートルほどのところに右（南）に駐車場があるところの先にＴ字路があり、Ｔ字路を右（南）に５０メートルほどのところのＴ字路の南側に建物があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　裏新町　町組　牢屋（獄屋）跡" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/urashinmachi_gokusha_ato.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　裏新町　町組　牢屋（獄屋）跡。（裏新町）</p>

<p>右に消防の分団、左側の奥に市役所の裏町倉庫がある辺りには、佐倉藩の牢屋がありました。</p>

<p>佐倉市史には</p>

<blockquote>

<p>旧警察跡（現在市役所分館）に牢舎か出来たのは寛文年間で、以後明治初年まで続いた。牢舎は西向で裏新町通りから細道が牢舎前へ通じていた。</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>寛文年間は１６６１～１６７３年の間、明治初年は１８６８年。</p>

<p>旧警察跡について、新佐倉真佐子には</p>

<blockquote>

<p>佐倉に初めて治安警察が出来たのは明治八年十二月で弥勒町八十六番地松林寺に佐倉警察出張所が開設されたのが始まりである。同十年一月には佐倉警察署に昇格し、同十七年六月新町百八十五番地（現商工会事務所）に木造瓦葺二階建一棟を一般寄附金によって新築し移転している。次いで明治四十五年七月に裏新町百五十三番地に新庁舎を新築、同月二十五日に旧庁舎より移転した。そして昭和四十七年六月一日に宮小路町三十八番地の現庁舎に移転したのだが裏新町の旧庁舎はこの間実に六十数年の長い間、所轄地域の治安維持に当ってくれた由緒ある建物である。</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>明治八年は１８７５年、明治十年は１８７７年、明治十七年は１８８４年、明治四十五年は１９１２年、昭和四十七年は１９７２年。<br />
宮小路町の佐倉警察署は、現在は佐倉市表町の鏑木橋近くに移転していて、裏新町と宮小路町の旧庁舎は残されていません。</p>

<p>牢屋跡のＴ字路の右（東、おはやし館からだと左）に延びる道は、このまま行けば佐倉道に出ますが、当時はこの道はなく左（西、おはやし館からだと右）に進む道のみで、このまま進むと新町交差点南の宮小路通りにたどり着きます。</p>

<p>牢屋跡のＴ字路の左前（北西、おはやし館からだと右）の駐車場の西端に小祠があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　新町　仲町南側　稲荷神社" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/shinmachi_nakamachi_inari.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　新町　仲町南側　稲荷神社。（新町）</p>

<p>駐車場の端にある小祠で、その額には稲荷神社とあり、嘉永元年の佐倉新町絵図によるとこの場所には「彦左衛門屋敷」、「とよ屋敷」となっており、どちらかの屋敷に建てられたものがこの駐車場に残されたものと思われます。</p>

<p>嘉永元年は１８４８年。</p>

<p>この駐車場の稲荷神社について、佐倉市史には</p>

<blockquote>

<p>前半省略</p>

<p>蔵のうちは大木泉屋といって昔は小間物を売る店だったが次第に財をなし、暮れの十二月になると近在の百姓が米をつんで年貢納めに来ていた。その米蔵ですわと教わった。そして小さい屋根は「あれはお稲荷さんで、商人たちは商売繁盛と火防のために、たいていの家では稲荷をまつっています。ここのうちの稲荷は特に立派です。」という。</p>

<p>以下省略</p>

</blockquote>

<p>とあり、大木泉屋さんの稲荷神社であったことが書かれています。</p>

<p>その大木泉屋さんが「彦左衛門屋敷」なのか「とよ屋敷」なのかははっきりしていませんが、敷地面積にいうと、両方の敷地に跨っていると思われ、嘉永元年以降明治までの２０年の間に、この敷地の持ち主が「大木泉屋」さんに変わったものと思われます。</p>

<p>大木泉屋さんの稲荷神社から、裏町通りを左（西、牢屋跡からだと直進）に１００メートルほど行くと右（北）に佐倉市立図書館の裏側の駐車場があり、その逆側（南）の民家と民家の間（目印は右（西）の民家の細い道の出入り口付近に、カエル（ガマ）の置物がある）に細い道があり、その奥の崖の手前に小さな神社があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　裏新町　町組　稲荷神社" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/urashinmachi_inari2.jpg" width="233" height="350" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　裏新町　町組　稲荷神社。（裏新町）</p>

<p>千葉県下総国印旛郡神社明細帳には</p>

<blockquote>

<p>無格社<br />
稲荷神社<br />
一　祭神　蒼稲孁命<br />
一　由緒　寛永十九年佐倉藩主堀田正盛城外ノ家臣ノ邸地一區毎ニ（当時曲輪ト称ス）一社ヲ設置ス<br />
一　社殿間数　間口壱間　奥行九尺<br />
一　境内坪数　四五坪　官有地第一種</p>

<p>以下省略</p>

</blockquote>

<p>とあり、千葉県印旛郡誌には</p>

<blockquote>

<p>裏新町字町組にあり祭神由緒神官前者と同一なり社殿間口一間奥行九尺境内四十五坪 [官有地第一種] あり信徒九人にして管轄廰まで四里二十七町四十九間三尺あり</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>寛永十九年は１６４２年。</p>

<p>一見、個人宅の屋敷神とも思われそうな佇まいなのですが、この個人宅の庭と思われる所はこの稲荷神社の境内になっています。<br />
かなり奥まったところにあるので、ほとんどの人は見過ごしてしまうと思われ、写真を見るとわかりますが、社殿はかなりこじんまりとしています。<br />
これも、堀田正盛が各武家屋敷町に造らせた、稲荷神社のひとつであるわけです。</p>

<p>裏町通りに戻り、左（西、牢屋跡からだと直進）に５０メートルほどのところに川魚割烹「玉家」という店があり、この玉家の西側に坂道があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　裏新町　町組と新長屋の境　玉家の坂" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/urashinmachi_tamaya_saka.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　裏新町　町組と新長屋の境　玉家の坂。（裏新町）</p>

<p>この坂を道なりに進んでいくと、鏑木町字袋町になり、そのまま進んでいくと新町字肴町西側の佐倉道にたどり着きます。<br />
現在は玉家の坂と呼ばれていますが、稲葉時代の絵図には「於ちや道」と書かれており、玉家の坂の坂下から右下（南）に向って下る道がありますが、この道を進んでいくと途中で猿が脇坂の道と接続し、そのまま進むと漆坂から進んでくる北年貢道（旧道）と接続し、くもの井戸へと続いていきます。</p>

<p>「於ちや道｣とは、「於茶道」であるのか単に「野道」のことなのかははっきりしていませんが、もし「於茶道」であるとすると、鏑木町字漆作辺りではお茶が作られていた可能性があると思われます。<br />
ただ、古今佐倉真佐子などにもその辺りについての記述がないので、はっきりしたことは言えませんが、その可能性も無きにしも非ずではないかと思われます。<br />
もしかしたら単に「野道」であり、下に「落ちていく道」ということなのかも知れませんが。</p>

<p>この玉家から先５０メートルほど進むと、Ｔ字路があり、Ｔ字路左（南）のところすぐに<a href="http://sanpobokko.com/stroll_note/2010/04/post-110.php">成田街道（佐倉道）その９８</a>で訪ねた裏新町字新長屋の共同井戸あり、これで裏町通りをほぼ歩いたことになります。</p>

<p>玉家の坂から牢屋跡を経由して佐倉道に戻り、Ｔ字路を右（東、おはやし館からだと直進）に２０メートルほど進むと右（南）に城下町佐倉歴史生活資料館があり、ここでは江戸時代から昭和までの歴史や生活に関する資料の展示をしていますので、休憩ついでに見学されるといいでしょう。</p>

<p>城下町佐倉歴史生活資料館のすぐのところに信号のあるＴ字路があり、ここを真っ直ぐに進むのが佐倉道で、ここを左（北）に進むと堀田氏ゆかりの寺があります。</p>

<p>ということで、今回はここまで。</p>

<p>参考文献は、「歴史の道調査報告書　成田街道」、「佐倉市史」、「千葉県下総国印旛郡寺院明細帳」、「千葉県下総国印旛郡神社明細帳」、「千葉県印旛郡誌」、「佐倉市誌資料」、「佐倉の歴史を学ぶ　資料集」、「多輪免喜」、「佐倉風土記」、「佐倉文庫」、「古今佐倉真佐子」、「新佐倉真佐子　－佐倉のお茶の間風土記－」、「総州佐倉御城府内之図」、「ふるさとの石仏」、「佐倉町二十五年誌」、「新道々の記」、「佐倉細見」、｢佐倉さんぽ　散策マップ（佐倉市観光協会発行）」より。</p>

<p>引用は各文献と各社寺の説明板、地域の説明板より。</p>

<p>今回の地図は<a href="http://sanpobokko.com/kaido_image/sakuramichi_6.jpg">「佐倉道６」</a>です。</p>

<p>国土地理院２５０００分の１「佐倉」より作成しています。</p>]]>
    </content>
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    <title>成田街道（佐倉道）その９８</title>
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    <published>2010-04-09T12:28:32Z</published>
    <updated>2010-04-16T11:53:41Z</updated>

    <summary>佐倉道　新町交差点（千葉県佐倉市新町）からスーパー乃ぐちや（千葉県佐倉市新町）まで 新町交差点から今...</summary>
    <author>
        <name>nobo</name>
        
    </author>
    
        <category term="街道歩き" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    <category term="佐倉市" label="佐倉市" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://sanpobokko.com/stroll_note/">
        <![CDATA[<p>佐倉道　新町交差点（千葉県佐倉市新町）からスーパー乃ぐちや（千葉県佐倉市新町）まで</p>

<p>新町交差点から今度は東（右、海隣寺からだと左）に佐倉道を進んでいきます。</p>

<p>佐倉道沿いの新町あたりについて、歴史の道調査報告書には</p>

<blockquote>

<p>さて街道は札の辻で左折して新町に入る。嘉永元年の絵図によると、横町六四間をすぎて左折し、上町八一間、上二番町五三間、仲間一五三間をまっすぐ進み、つき當りを右折して肴町八七間半、再び直解に左折して間の町六六間とつづいている。</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>嘉永元年は１８４８年。<br />
「仲間一五三間」とある「仲間」は「仲町」の間違いで、「再び直解に左折」とある「直解」は「直角」の間違いと思われます。</p>

<p>新町あたりの図を載せます。</p>

<p><img alt="新町あたりの図" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/shinmachi_atari_zu.jpg" width="400" height="466" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>新町あたりの図</p>

<p>新町交差点から２０メートルほどの右側の駐車場の手前に高札板があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　新町　上町　南側　高札板（模擬）" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/shimachi_kosatuban1.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　新町　上町　南側　高札板（模擬）。（新町）</p>

<p>これは模擬の高札板で、この位置には高札板はありませんでしたが、おそらく、新町交差点のところが当時の高札があったところなのですが、ここに建てられないので、現在の位置（新町の入口になるので）に建てたものと思われます。<br />
一応、ここには御触書（現代風のもの）と、佐倉町時代の鳥瞰図などをここに掲示してあり、その他には佐倉市内などで行なわれる催事などをお知らせする掲示板として使われているようです。</p>

<p>高札板（模擬）から５０メートルほどのところ右側にお店があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　新町　上町　南側　蔵六餅本舗（木村屋）" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/shinmachi_zorokumochi_honpo.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　新町　上町　南側　蔵六餅本舗（木村屋）。（新町）</p>

<p>蔵六餅本舗の本当の店名は「木村屋」で、もともとは菓子パン屋さんだったところです。<br />
現在は蔵六餅などの和菓子を中心に販売をされていて、店の左側には喫茶があり、ここには「木村屋」と明記されています。</p>

<p>この蔵六餅本舗（木村屋）について、新佐倉真佐子には</p>

<blockquote>

<p>木村屋の堅パンで知られた木村屋が今のところに開店したのは大正四年ごろでそれまでは、二番町四十番地にある現在の日栄航空という測量会社のある古い建物で商売をしていた。</p>

<p>...中略...</p>

<p>市制施行を記念して佐倉銘菓と銘打って昭和三十年にこの木村屋から売り出された「蔵六餅」の縁起については、弥勒の東福寺のところで述べることとする。</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>大正四年は１９１５年、昭和三十年は１９５５年。<br />
「二番町四十番地にある現在の日栄航空という測量会社のある古い建物」は、平成２２年（２０１０）現在、佐倉市立美術館の駐車場になっているところ西側（駐車場入口の左側）にありました。</p>

<p>「蔵六餅」の縁起について、新佐倉真佐子には</p>

<blockquote>

<p>上町の木村屋が市制施行を記念して昭和三十年ころ蔵六餅を佐倉の銘菓として売り出してから既に二十年以上にもなるが、この名が今からおよそ三百年の昔、延宝巳末秋九月というから延宝七年九月（霊元天皇時代）に書かれた「蔵六石記」に記されている「蔵六石」という奇石に因んだものであるということは余り知られていない。この石は東福寺が創建されたとき堀田氏の本家近江の宮川堀田氏より寄進された亀甲紋のある石で縦四十五糎、幅三十四糎、厚二十二糎の亀甲型をした奇妙な石で産地は豊洲というから大分県だろうか。</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>延宝七年は１６７９年。<br />
「霊元天皇時代」は、４代徳川家綱が将軍であった時代。<br />
「蔵六餅を佐倉の銘菓として売り出してから既に二十年以上にもなるが」とありますが、新佐倉真佐子が発行されたのが昭和５４年（１９７９）であるので、蔵六餅が売り出されてから既に４５年（平成２２年現在で）になることになります。</p>]]>
        <![CDATA[<p>蔵六餅本舗（木村屋）の向かい側（北側）に、車に気をつけながら渡ると千葉銀行があり、千葉銀行の左側（西側）に裏の駐車場に続く道があるので、ここを駐車場に進んでいくと正面奥に神社があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　新町　上町　北側　千葉銀行駐車場内　稲荷神社" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/shinmachi_chibagin_inari.jpg" width="263" height="350" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　新町　上町　北側　千葉銀行駐車場内　稲荷神社。（新町）</p>

<p>この稲荷神社は、この場所にもとあった「よろづ屋」という旅館にあった稲荷神社が、そのまま千葉銀行の駐車場内に残されたようです。<br />
佐倉市史にある嘉永元年の新町絵図によれば、「よろづ屋」の前は「釘屋」という郷宿であったので、この時代からあった可能性もあります。<br />
いわゆる屋敷神で、商売繁盛と火防の神として商家などには建てられたもののひとつです。<br />
なお、千葉銀行の駐車場内なので、車の出入りが頻繁なので注意して歩いてください。</p>

<p>嘉永元年は１８４８年。</p>

<p>千葉銀行から蔵六餅本舗（木村屋）のほうに、車に気をつけながら渡り、左（東、新町交差点からだと直進）６０メートルほど行くとＴ字路（右前方には佐倉市立美術館がある）があり、ここを右（南）に４０メートルほどの十字路の右側の角（北西角）に土蔵のある住宅があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　新町　上町　南側　山口家住宅" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/shinmachi_yamagutikejutaku.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　新町　上町　南側　山口家住宅。（新町）</p>

<p>説明板には</p>

<blockquote>

<p>佐倉市登録有形文化財<br />
山口家住宅<br />
登録年月日　平成２１年２月１６日<br />
袖蔵　木造、２階建<br />
店蔵　木造、２階建<br />
袖蔵の創建は、明治２９年１０月で、店蔵は後の増築と考えられる。袖蔵は意匠に優れており、正面に水切りが４段つき、入口の格子の引き戸には、敷居の傾斜により自動的に閉まるくぐり戸があるなど、当時の大工の創意工夫がかいまみられる。両蔵とも土蔵造、屋根桟瓦葺で、防火に配慮して造られている。袖蔵と店蔵とが並ぶかたちは佐倉の町屋の例では貴重である。<br />
※内部は非公開です。<br />
佐倉市教育委員会</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>平成２１年は２００９年。</p>

<p>新佐倉真佐子には</p>

<blockquote>

<p>裏町通りに面した山口屋文房具店が開業したのは明治の終わりごろだが、その以前には中井という質屋が明治時代を通じて商売をしていた。現存する土蔵はその頃のものだそうだ。</p>

</blockquote>

<p>とあり、以前は質屋さんだったことが記述されています。</p>

<p>山口家住宅前の十字路の東西の道は、現在「裏町通り」と言われていますが、江戸時代の絵図などでは「宮小路通り」としています。<br />
これは、新町交差点から宮小路通りに進む十字路の南側の道が開通する前までは、佐倉城址間での東西に伸びる直線道路であったのが、昭和１８年の新道開通により、通りとしては半ば分断されたため、西側が「宮小路通り」、東側が「裏町通り」となったものと思われます。</p>

<p>昭和１８年は１９４３年。</p>

<p>山口家住宅前の十字路を南（Ｔ字路からだと直進）に９０メートルほど進むと、道が急に狭くなったあたりから急な坂道になりますが、そのなるあたりの右側の電柱のところに説明板があり</p>

<blockquote>

<p>猿が脇の坂<br />
［坂の説明］<br />
市立美術館裏から南へ下る坂です。樹陰が濃い急な坂は、今も当時の雰囲気を伝えます。</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p><img alt="佐倉町　裏新町　新長屋　と　鏑木町　漆作　猿が脇坂" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/kaburagimachi_sarugawakizak_ue.jpg" width="233" height="350" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　裏新町　新長屋　と　鏑木町　漆作　猿が脇坂。（裏新町、鏑木町）</p>

<p>猿が脇坂の下り口、右側（西側）から小道が接続するあたりまでが裏新町字新長屋で、そこから下の坂は鏑木町字漆作となり、昔は「猿が坂」（２０００年の地図ではこちらになっている）といっていましたが、現在は「猿が脇坂」に統一されたようです。</p>

<p>猿が脇坂の名の由来については、古今佐倉真佐子の中に</p>

<blockquote>

<p>扨、此町奉行屋敷の前を東の方へ四五丁行也。新長屋と云長屋の前へ也。左新町の裏也。新長屋一かまいあり。又先に一かまいある。此間道先左の方一間斉院文蔵屋敷ある。此門前少先より細くまがりたる坂ある。乞食猿之こやまゑ出る。</p>

</blockquote>

<p>とあり、「乞食猿之こやま」へ出る坂なので「猿が坂」になり、現在の「猿が脇坂」になったものと思われます。<br />
この「乞食猿之こやま」とはどこのことなのか、それと「乞食猿」とは「猿」のことなのかどうかということも、古今佐倉真佐子には書かれていないのではっきりしていませんが、猿を飼っていた人がいて、猿が脇坂の左手（東）の小高いところあたりに住んでいたのではないか、という話もあるようですが、定かではありません。</p>

<p>猿が脇坂上から４０メートルほど下った左側に、崖の傾斜に建っている民家があり、その民家の真中から左寄りにお堂があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　鏑木町　漆作　猿が脇坂　地蔵堂" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/kaburagimachi_sarugawakizak_jizodo.jpg" width="233" height="350" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　鏑木町　漆作　猿が脇坂　地蔵堂。（鏑木町）</p>

<p>もともとここにあったかどうか定かではありませんが、このお堂の中には地蔵などが１０基（一部分かれているようにも思われるので、９基か８基の可能性もある）あります。</p>

<p>入口の左に手洗石があり、お堂の上には額がありますが、文字がほとんど読めません。<br />
中に入り、左側に不明の石造物（地蔵の下部の部分か台座の可能性あり）があり、左側から２つ目は地蔵で正面の右に「寛政四壬子三月」、正面真中に地蔵像、左側から３つ目も地蔵で正面の右に「清順」、正面の真中に地蔵像、正面の左に「寛政六申寅六月五日」とあり、左側から４つ目は三角の石塔で、下部が破損していて何かは不明で正面の右に二文字（判読できず）、正面の真中に梵字で三文字、正面の左に「七月□」とあり、奥の後左は地蔵で銘文は破損もしくは剥離していて判読できず、頭の部分はおそらく一度破損し、その後付けられたものと思われ、造立としてはちぐはぐなものとなっており、奥の前側の中心になっているものは地蔵で正面右に「帰一萬心禅定門」、正面の真中に地蔵像、正面の左に「宝暦二申夭　八月十五日　猿之坂■（居？）去事　小■（松）■（岩？）■（蔵？）墓」とあり、この後にあるものも地蔵で正面の右に「帰一萬心禅定門」、正面の真中に地蔵像、正面の左に「宝暦二申夭　□□□□□」とあり、奥の後右側の柱の後ろにあるものは墓碑（？）と思われ正面右に「□□」、正面の真中に「救舎法師」、正面の左に「施■（主）文左ェ門」とあり、奥の後右端には地蔵らしく頭の部分があり、右側のものは聖観音で正面の右に「天明五乙巳三月日」、正面の真中に聖観音像、正面の左に「出生出羽山形　二番部■（屋？）吉岡■（松か梶か？）平」とあります。</p>

<p>寛政四年は１７９２年、寛政六年は１７９４年、宝暦二年は１７５２年、天明五年１７８５年。<br />
□は判読できない文字で、■は文字としてあるが判読しにくい文字で（）内はおそらく入るであろう文字です。</p>

<p>ふるさとの石仏には</p>

<blockquote>

<p>猿が坂の途中にある、一坪ほどの祠の中に、八体ほどの石仏が祭られている。これらの石仏の中にも、都市化の犠牲になって、ここへ移動を余儀なくされたものがあるのではなかろうか。</p>

</blockquote>

<p>とあり、一番最後の聖観音像のものについて</p>

<blockquote>

<p>堀田藩が山形から佐倉へ移ってきたとき、山形から供をした仲間たちをこの付近に住わせたが、ここで死んだ仲間の霊をともらうために、建立したのがこの観世音だと伝えられている。</p>

</blockquote>

<p>と説明しています。</p>

<p>猿が脇坂の地蔵堂からさらに８０メートルほど下ると字路になり、右（南西）に１００メートルほど行けば旧道（北年貢道）に接続し、左（北東）に行けば袋町・玉家の坂、そして八軒町の坂にそれぞれたどり着きます。</p>

<p>猿が脇坂から山口家住宅の十字路、さらに佐倉道のＴ字路に戻り、右（東、新町交差点からだと直進）に３０メートルほどでＴ字路になり、Ｔ字路右側（南側）にレンガ造りの建物があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　新町　二番町　南側　旧川崎銀行" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/shimnmachi_kyuginko.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　新町　二番町　南側　旧川崎銀行。（新町）</p>

<p>現在の佐倉市立美術館の玄関として使われているレンガ造り建物が旧川崎銀行の建物で、大正７年に川崎銀行の佐倉支店として新たに建てられ、昭和１２年に佐倉町に売却され佐倉町役場となり、昭和２９年に佐倉市の誕生とともに佐倉市役所庁舎となり、昭和４６年に新庁舎が海隣寺町に出来るまで市役所庁舎と使われていました。<br />
その後、中央公民館として使用され、昭和５１年からは市立図書館となり、昭和６１年からは新町資料館として使用され、平成３年に県指定有形文化財に指定され、平成６年に市立美術館が完成し美術館のエントランスホールとして使用されるようになり、現在に至っています。</p>

<p>大正７年は１９１８年、昭和１２年は１９３７年、昭和２９年は１９５４年、昭和４６年は１９７１年、昭和５１年は１９７６年、昭和６１年は１９８６年、平成３年は１９９１年、平成６年は１９９４年。</p>

<p>川崎銀行は現在の三菱東京ＵＦＪ銀行のことで、似たような事例としては千葉県千葉市中央区の千葉市立美術館も、旧川崎銀行千葉支店の建物エントランスホールとして使用しています。</p>

<p>この川崎銀行について、新佐倉真佐子には</p>

<blockquote>

<p>嘉永の昔、この土地には鍵屋善右衛門という瀬戸物を商っていた豪勢な商人がいた。代々この商売で繁昌して来た店であったが、十三代中井善三郎さんのころー　明治五年ごろ川崎銀行（川崎八右衛門）がここに佐倉出張所を開設することになった。そしてその出張所の業務を鍵屋の当主善三郎さんに委託するという形式をとった。そこで頭取の川崎八右衛門と甚三郎さんの間に業務に関する取扱契約が交わされた。</p>

<p>...中略...</p>

<p>こうして川崎銀行佐倉出張所長として、銀行業務を代行して何年か過ぎたわけだが、銀行としても善三郎さんとしても、世の中が刻々と変わって行くのに何時までも委託業務を続けるわけには行かず、明治二十二年十月三十一日に両者協議のうえ委託業務契約を解除し、善三郎さんは家屋敷を川崎銀行に譲渡して東京へ出た。銀行としては初めて独立した支店を佐倉の地に開設することになったわけで、初代の支店長は磯山正臣という人であった。</p>

<p>...以下省略</p>

</blockquote>

<p>とあり、いわゆる川崎財閥の創始者である<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E5%B4%8E%E5%85%AB%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80">川崎八右衛門</a>が中井善三郎さんの所に出張所の話を持ちかけたことから、ここに川崎銀行が出来たいきさつが書かれています。</p>

<p>嘉永年間は１８４８～１８５４年の間、佐倉市史にある嘉永元年の新町絵図には「善三郎（鍵屋・瀬戸物商）」とあります。</p>

<p>旧川崎銀行前のＴ字路を北に坂を下っていくと京成佐倉駅にたどり着きますが、江戸時代にはここには道はなく、水路がありました。<br />
この水路は、先ほど歩いた山口家住宅の道筋からＴ字路まで来て、ここから北へ進む現在の道へと進んでいたので、山口家住宅のところの道もまた、江戸時代には水路であったところだったことになります。</p>

<p>旧川崎銀行前のＴ字路の信号を北側に渡り右（東）へ５０メートルほど進むと、左に佐倉市立美術館の駐車場があり、５０メートルほど進むと、さらに広く大きな駐車場があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　鏑木町　新町裏　印旛郡役所跡（御旅所）" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/shinmachi_inbagunyakushoato.jpg" width="350" height="263" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　鏑木町　新町裏　印旛支庁跡。（鏑木町）</p>

<p>広く大きな駐車場は、印旛支庁の跡地で、平成８年に佐倉市鏑木仲田町にある現在の印旛合同庁舎（北総県民センター）に移り、印旛支庁は平成１６年に廃止され、北総県民センターとして業務を統合しています。</p>

<p>その印旛支庁跡の駐車場入口の右２０メートルほどのところ、スーパー乃ぐちやの駐車場の入口（北側の出入り口）あたりに大木があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　鏑木町　新町裏　印旛郡役所跡のイヌマキ" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/shinmachi_inbagunyakushoato_inumaki.jpg" width="263" height="350" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　鏑木町　新町裏　印旛郡役所跡のイヌマキ。（鏑木町）</p>

<p>このイヌマキのところに説明柱があり</p>

<blockquote>

<p>佐倉市指定天然記念物<br />
印旛郡役所跡のイヌマキ<br />
昭和四十七年十一月六日指定<br />
平成十九年三月　佐倉市教育委員会</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>昭和四十七年は１９７２年、平成十九年は２００７年。</p>

<p>佐倉細見には</p>

<blockquote>

<p>昭和４１年（１９６６）には千葉県の木に指定されました。<br />
樹高１２m、目通り幹囲３mの雄株の大樹</p>

</blockquote>

<p>とあり、新佐倉真佐子には</p>

<blockquote>

<p>この槇は明治十九年にここに初めて郡役所が新築された際、酒々井町から移植したものだという。</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>印旛支庁の前身である印旛郡役所について、新佐倉真佐子には</p>

<blockquote>

<p>印旛郡役所の沿革については、廃藩置県後の印東荘といわれた時期は省略するが、明治十一年十一月印旛、下埴生、南相の三郡連合郡役所を新町甚大寺に置いて執務した。同十八年には前記新町四十番地に庁舎新設に着工し翌十九年完成移転した。明治三十年四月郡制が実施され印旛、下埴生の二郡を合併して印旛郡と称し、それまでの三郡連合郡役所は印旛郡役所と改称され、明治四十五年を迎えた。庁舎も腐朽し改築を余儀なくされたため大正元年着工、翌二年五月に完成した。この建物が私達が記憶する印旛郡役所である。なおこの改築工事中は、裏新町佐倉西尋常小学校で執務したものである。この郡役所が昭和十七年七月一日印旛地方事務所となり、昭和三十九年四月一日印旛支庁と改称され現在に至っている。昭和三十五年一月現庁舎に改築された。大正二年に改築された印旛郡役所の正面入口を入ると「人民控所」と大書した大看板がかかっていたという。</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>明治十一年は１８７８年、明治十八年は１８８５年、明治十九年は１８８６年、明治三十年は１８９７年、明治四十五年は大正元年でもあり１９１２年、大正二年は１９１３年、昭和十七年は１９４２年、昭和三十九年は１９６４年、昭和三十五年は１９６０年。</p>

<p>南相とは、南相馬郡（現在の野田市・柏市・我孫子市のあたりで後にこのあたりは東葛飾郡になる）のことで、裏新町佐倉西尋常小学校は、山口家住宅から猿が脇坂に向う道の西側の現在塚本美術館がある南側辺りにありました。<br />
印旛支庁は、現在の駐車場の真中から後（北）にかけてありましたが、印旛郡役所は、イヌマキに近いところにありました。</p>

<p>イヌマキから佐倉市立美術館の駐車場の入口に戻ります。</p>

<p>駐車場の入口の向かい側（佐倉道の南側）に、古風な民家作りの「喫茶ＫＡＢＵＲＡＧＩ」とある店があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　新町　二番町　南側　喫茶ＫＡＢＵＲＡＧＩ" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/shinmachi_gunyakushomae_min.jpg" width="350" height="263" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　新町　二番町　南側　喫茶ＫＡＢＵＲＡＧＩ。（新町）</p>

<p>この建物は、もともと文房具屋さんだった建物であったようで、新佐倉真佐子には</p>

<blockquote>

<p>旧藩時代の昔、和泉屋林兵衛といわれた当時からの旧家ときいている。明治のころから連隊へ紙・筆・墨などを納めていた御用商人であったが、その文具店も昭和五年前後には店を閉じた。</p>

</blockquote>

<p>とあり、現在の建物も旧藩時代からだとすると、少なくとも１３０年以上（１８６７年から２０１０年までとして）になるということになります。</p>

<p>昭和五年は１９３０年。</p>

<p>佐倉市立美術館の駐車場入口から左（西、美術館からだと直進）へ２０メートルほど行くと、スーパー乃ぐちやさんの駐車場があり、この駐車場を左（北）に４０メートルほど行くと向こうの駐車場（印旛支庁跡）への出入り口があり、ここを左に１０メートルほどのところには、先に訪ねたイヌマキがあります。<br />
実は、今歩いたスーパー乃ぐちやさんの駐車場の真中あたりには昔、お仮舎道があったところで、麻賀多神社の大祭の時には、ここを神輿が通り、先ほどの出入り口の手前の左側（西側）にお仮舎（御旅所）がありました。<br />
現在の秋の大祭の時には、市立美術館の駐車場を通り、印旛支庁跡の駐車場にお仮舎（御旅所）を造り、ここで一泊するようになっています。</p>

<p>このあたりの図を載せます。</p>

<p><img alt="印旛支庁跡・お仮舎道あたりの図" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/inbashicho_okarisha_zu.gif" width="500" height="417" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>印旛支庁跡・お仮舎道あたりの図。</p>

<p>お仮舎道について、新佐倉真佐子には</p>

<blockquote>

<p>この辺りの最近十年間の変遷はかっての様相を一変してしまった。往年の郵便局舎の下水溝に沿ってお仮舎道路があった。位置はプリマート駐車場のほぼ中央と思われるところで中尾余へ通ずる道路でもあった。毎年自由がツ十四日の祭礼には麻賀多神社を出たおみこしは、鏑木の若衆たちにかつがれて各町内を練ったうえ、この道路の中程に設けられたお仮舎に二泊することになっていた。そして十六日の夜、再びここを出発をして仲町通りから肴町を練り、弥勒から野孤台、そして堀田家参りを済ませて再びこの道を帰り、麻賀多神社本殿に納められて秋祭りが終わることになる。</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>プリマートは、現在のスーパー乃ぐちやさんのことで、中尾余への道は現在は駐車場（印旛支庁跡）で分断されているようになっていますが、奥の駐車場の入口からさらに４０メートルほど直進（北）すると右側（東側）に細い道（ただし一部荒れ放題になっている）が残っており、ここを８０メートルほど行くとＴ字路になり、南北の中尾余の道に接続します。</p>

<p>スーパー乃ぐちやさんの駐車場の入口に戻り、左に１０メートルほどの調度お店の前辺りにＴ字路があり、ここを南側に渡り、Ｔ字路を南に５０メートルほど行くと変形４差路があり、その４差路の南東角辺りに井戸があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　裏新町　新長屋　共同井戸" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/urashunmachi_ido.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　裏新町　新長屋　共同井戸。（裏新町）</p>

<p>この井戸のところには「裏町」という標柱が立っていて、この辺りが「裏町」といわれていることを教えてくれますが、住所表示では「裏新町」であり、江戸時代も「裏新町」としているものですが、通称としての「裏町」のほうが通っているようで、そのため「裏町」という標柱が立てられたものと思われます。</p>

<p>この井戸は、現在は形だけ復活させたもので、この模擬井戸が作られる前は埋められていた状態でした。<br />
佐倉城下の町々には、このような共同井戸が現在も残っていて、所々で見かけることが出来ます。</p>

<p>共同井戸から右（西）に１０メートルほどのところ左（南）に道があり、この道の入口右（西）には立ち入り禁止の看板がありますが、ここは中にある神社に用があるので入らせてもらい、２０メートルほど進み、ここで右（西）に１０メートルほど進むと左（南）の１０メートルほど行ったところに鳥居があり、その奥に神社があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　裏新町　新長屋　稲荷神社" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/urashinmachi_inarijinja.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　裏新町　新長屋　稲荷神社。（裏新町）</p>

<p>千葉県下総国印旛郡神社明細帳には</p>

<blockquote>

<p>無格社<br />
稲荷神社<br />
一　祭神　蒼稲孁命<br />
一　由緒　寛永十九年佐倉藩主堀田正盛城外家臣ノ邸地一區毎ニ（当時曲輪ト称ス）一社ヲ設置ス<br />
一　社殿間数　間口九尺　奥行貳間半<br />
一　境内坪数　五拾六坪　官有地第一種</p>

</blockquote>

<p>とあり、千葉県印旛郡誌には</p>

<blockquote>

<p>裏新町字新長涇にあり祭神由緒神官皆前者に仝じ社殿間口九尺奥行二間半境内六十六坪 [官有地第一種] あり信徒二十七人を有し管轄廰まで四里二十七町四十九間三尺なり [神社明細帳]</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>寛永十九年は１６４２年。<br />
千葉県印旛郡誌にある「裏新町字新長涇」の「涇」は、「屋」の間違いと思われます。</p>

<p>千葉県下総国印旛郡神社明細帳と千葉県印旛郡誌には１１社の稲荷神社が載せられていて、この１１社の稲荷神社のうち１０社に共通しているの事柄は、千葉県下総国印旛郡神社明細帳によると</p>

<blockquote>

<p>一　祭神　蒼稲魂命<br />
一　由緒　寛永十九年佐倉藩主堀田正盛城外家臣ノ邸地一區毎ニ（当時曲輪ト称ス）一社ヲ設置ス</p>

</blockquote>

<p>とあり、<a href="http://sanpobokko.com/stroll_note/2010/03/post-107.php">成田街道（佐倉道）その９５</a>で出てきた、宮小路町字元大筒の稲荷神社のみ「由緒　不詳」とあります。</p>

<p>堀田正盛は前後ある堀田氏の前堀田氏にあたり、堀田正盛は稲荷（土木と火防の神として）を信仰していたらしく、そのため佐倉城内や、各武家屋敷町などに祀らせたもので、それが現在、各武家屋敷町に残る稲荷神社になるわけです。<br />
当時はもっとあったものと思われますが、時代とともにその数は減っていったようです。</p>

<p><ins datetime="2010-04-16T20:49:14+09:00">[2010-04-16 訂正と追記]　千葉県下総国印旛郡神社明細帳に載せられている稲荷神社の数を７社と記述していましたが、もう一度確認をしたところ１１社ありましたので、この部分を削除し、裏新町字新長屋の稲荷神社の記述を新たに追加しました。</ins></p>

<p>裏新町字新長屋の稲荷神社から、スーパー乃ぐちやさんの前のＴ字路まで戻り、佐倉道を右（東、佐倉市立美術館からだと直進）に進んでいきます。</p>

<p>ということで、今回はここまで。</p>

<p>参考文献は、「歴史の道調査報告書　成田街道」、「佐倉市史」、「千葉県下総国印旛郡寺院明細帳」、「千葉県下総国印旛郡神社明細帳」、「千葉県印旛郡誌」、「佐倉市誌資料」、「佐倉の歴史を学ぶ　資料集」、「多輪免喜」、「佐倉風土記」、「佐倉文庫」、「古今佐倉真佐子」、「新佐倉真佐子　－佐倉のお茶の間風土記－」、「総州佐倉御城府内之図」、「ふるさとの石仏」、「佐倉町二十五年誌」、「新道々の記」、「佐倉細見」より。</p>

<p>引用は各文献と各社寺の説明板、地域の説明板より。</p>

<p>今回の地図は<a href="http://sanpobokko.com/kaido_image/sakuramichi_6.jpg">「佐倉道６」</a>です。</p>

<p>国土地理院２５０００分の１「佐倉」より作成しています。</p>]]>
    </content>
</entry>

<entry>
    <title>成田街道（佐倉道）その９７</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://sanpobokko.com/stroll_note/2010/03/post-109.php" />
    <id>tag:sanpobokko.com,2010:/stroll_note//5.512</id>

    <published>2010-03-31T14:22:55Z</published>
    <updated>2010-04-01T12:43:49Z</updated>

    <summary>佐倉道　子育地蔵尊（千葉県佐倉市鏑木町）からくもの井戸・うるし坂（地技研佐倉市鏑木町）に寄り道して、...</summary>
    <author>
        <name>nobo</name>
        
    </author>
    
        <category term="街道歩き" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    <category term="佐倉市" label="佐倉市" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    <category term="佐倉道" label="佐倉道" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    <category term="北年貢道" label="北年貢道" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    <category term="千葉県" label="千葉県" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    <category term="成田街道" label="成田街道" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://sanpobokko.com/stroll_note/">
        <![CDATA[<p>佐倉道　子育地蔵尊（千葉県佐倉市鏑木町）からくもの井戸・うるし坂（地技研佐倉市鏑木町）に寄り道して、新町交差点（千葉県佐倉市新町）まで</p>

<p>薬師坂・新道・旧道（北年貢道）・漆坂あたりの図を載せます。</p>

<p><img alt="薬師坂・新道・旧道（北年貢道）・漆坂あたりの図" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/yakushu_kami_shin_kyudo_ata.gif" width="450" height="375" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>薬師坂・新道・旧道（北年貢道）・漆坂あたりの図。</p>

<p>現在の薬師坂を説明板のところから９０メートルほど下るとＴ字路になり、ここを左（東）に１９０メートルほど進むと三叉路があり、三叉路の左（北）に岩渕薬局がありますが、岩渕薬局の後ろ（北）の崖の中腹に寺（庵、絵図には東□寺とあるが、□の部分が判読できずではっきりした寺の名前がわからず）があったことが古今佐倉真佐子と稲葉時代の絵図にはあり、古今佐倉真佐子には</p>

<blockquote>

<p>うるし坂余程行て村海道ある。</p>

<p>...中略...</p>

<p>扨鏑木村此道より二丁斗先へ行、山の中ふくに庵有。会伝と云僧也。周徳院の隠居也。真言宗也。此庵之庭に大木のみつかん（密柑）の木有。初冬の節は色付見事也。府内に是程のみつかんは外に無し。此庵の脇、百姓家十軒斗行て家切る。是迄一かはの家也。家末少畠有り。此畠之内細道也。薬師坂へ出る所也。右之百姓家前、細川つゞきてある。小鮒、いろたなご沢山すむ也。</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p><ins datetime="2010-04-01T21:30:08+09:00">[2010-04-01 訂正]　「寺（庵、絵図には東□寺とあるが、□の部分が判読できずではっきりした寺の名前がわからず）」とあるところの「東□寺」は、どうも「東（？）隠居アン」と書かれているようで「東隠居庵」とするのではないかと思われますが、あくまでも推測なのですが「隠居アン」とは確実に読めるようなのでこの部分は正しいのではないかと思われます。</ins></p>

<p>庵のあった場所は現在は空地になっており、さらに雍壁工事をしたために当時と地形の様子が変わっていますが、、古今佐倉真佐子にある「みつかん」の木はすでにありません。<br />
「此畠之内細道也。薬師坂へ出る所也。」とある道は、先ほど下りてきた坂道のことで、岩渕薬局まで歩いてきたやや広い道の北側には、水路がありましたが、現状は暗渠化され道の一部になっています。</p>

<p>三叉路の東から南に進んでいる道は、<a href="http://sanpobokko.com/stroll_note/2010/03/post-107.php">成田街道（佐倉道）その９５</a>で武家屋敷へ向うところの変形４差路から、国道２９６号の下をトンネルでくぐり抜けていく旧道（北年貢道）がここに来て寺崎・四街道を経て千葉市の寒川まで続いています。</p>

<p>三叉路を真っ直ぐ（東）に７０メートルほど進むと、Ｙ字路があり左（北、旧道）へ１４０メートルほど進んだあたり、前方に国道２９６号のトンネルが見える左側にバイク屋さんがあります。</p>

<p><img alt="佐倉町　鏑木町　牛房鼻　やかん坂入口のバイク屋" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/kaburagimachi_yakanzaka_iri.jpg" width="233" height="350" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　鏑木町　牛房鼻　やかん坂入口のバイク屋。（鏑木町）</p>]]>
        <![CDATA[<p>このバイク屋さんの所から細い道があり、３０メートルほど左に緩やかな坂を進み、今度は右斜めに４０メートルほど坂を上がると、右（北）に急な階段になった坂があり、その左側（西）には立ち入り禁止とある道上に平場がありますが、この辺りから西側が、先に出てきた庵（隠居寺）の跡地になります。</p>

<p><img alt="佐倉町　鏑木町　牛房鼻　やかん坂" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/kaburagimachi_yakanzaka.jpg" width="233" height="350" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　鏑木町　牛房鼻　やかん坂。（鏑木町）</p>

<p>この急な階段になった坂（最近まで階段はなかった）を「やかん坂」といいますが、なぜ「やかん」なのかは古今佐倉真佐子などにもないのでわかりませんが、昼間でも暗く「夜間」のようだということで「やかん」と名付けたと思われ、武家屋敷通りにあった「くらやみ坂」と同じような名付け方ではないかと思われます。<br />
この「やかん坂」を上がると、鏑木住宅地（武家屋敷町）のちょうど真中あたりに出てきます。<br />
おそらく、坂下の庵（隠居寺）へ行くための坂であったと思われ、庵（隠居寺）からは先に歩いた岩渕薬局の西側あたりに下り口があったことが絵図に描かれているので、岩渕薬局西から庵（隠居寺）に上り、やかん坂を上がって鏑木住宅地（武家屋敷町）へ通じる道であったと思われます。</p>

<p><ins datetime="2010-04-01T21:34:36+09:00">[2010-04-01 追記]　やかん坂の道についてですが、絵図（稲葉時代の絵図）で確認してみたところ、どうもやかん坂下の道筋は現在のようではなかったようです。やかん坂下を東に進むところまでは同じですが、現在南に進んでいる道筋ではなく、一旦、崖に向かい崖に沿って現在の国道２９６号を横断して、現在のくもの井戸の北側のアパートが建っているあたりに出てきていたようです。<br />
崖の方に沿って行っていたのは、先に書いたバイク屋さんの北側に池があり、その池の北側に沿って道があったからで、当時は北側にあったわけですが、いつ頃からかはわかりませんが、池の南側に道が付け替えられて、現在の道筋になったものと思われます。</ins></p>

<p>やかん坂からバイク屋さんのところまで戻り、今度は旧道を左（北東、岩渕薬局からだと直進）に２０メートルほどいった国道２９６号のトンネルを抜けたすぐ左に、丸いコンクリート製の防火用水（井戸）があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　鏑木町　牛房鼻　くもの井戸" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/kaburagimachi_kumonoido.jpg" width="233" height="350" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　鏑木町　牛房鼻　くもの井戸。（鏑木町）</p>

<p>丸いコンクリート（井戸）の下のところに筒があり、ここから常時水が流れ出ていて、豊富に水が湧いていることがわかります。<br />
現在では災害用の防火井戸になっていて、現在は飲用には適さなくなっているために飲まないようにとの説明板が立っていますが、ここが「くもの井戸」ということは書かれていません。</p>

<p>大聖院や薬師堂、子育地蔵尊や東源寺、周徳院の小字名が「雲井戸」とありましたが、この小字名の元になったといわれているのが、この「くもの井戸」であるらしく、新道々の記には</p>

<blockquote>

<p>この井戸については、諸説があり、一説には次のような言い伝えがある。<br />
「昔むかし、鏑木村の高台の雑木林の中に、くもが巣を張りめぐらせて、あぶやせみなどを捕まえて平和に暮らしていました。村人がこの雑木林を切り払おうとしたとき、くもたちが、<br />
『ここは私たちの住家です。どうかこのまま残しておいて下さい。その代わり村へはおいしい水を、たとえ干ばつの時でも沸きでるようにします。』<br />
と頼みました。村人たちはこのくもの願いを聞き入れ、村はそのままにしました。すると崖の下から湧水がこんこんと湧き出てきたので、くもの井戸と呼ぶようになりました。」<br />
今では、佐倉市の災害用水源に定められている。<br />
ほかの説では、薬師坂の途中にあったともいわれている。さらに小字で雲井戸といわれている場所が、別の場所にある。</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>現在の井戸の位置は、国道２９６号（新道）が出来たときに現在地に移動したようで、新佐倉真佐子には「南側の秋葉洋服店の脇の井戸からは相変わらず綺麗な水が流れ出しているが、崖の下からの引き水で位置も少し前に移動している。」あり、この井戸の水が崖からの引き水であると記述しています。<br />
秋葉洋服店の場所には、現在アパートが建っていてます。</p>

<p>稲葉時代の絵図には、このくもの井戸あたりに池が描かれており、古今佐倉真佐子には</p>

<blockquote>

<p>又一筋の道一丁斗行と坂道也。下鏑木村也。此坂下右の方山ばた三間四方斗清水有之。村中の給水にくむ也。池のごとし。鮒の類沢山すむ。</p>

</blockquote>

<p>とあり、池のように大きな湧水池であったことが書かれています。<br />
この池も、新道を通すために埋められ、現在のような井戸として残りましたが、湧水の量はまだまだあるようで、新道のトンネル向こうのバイク屋さんの崖側には、最近までその池の跡が一部残っていましたが、雍壁の工事のために消滅してしまいました。</p>

<p>くもの井戸のところで道は三叉路（実際は四差路）になっていて、左（北）に行く道は旧道（北年貢道）、直進する道は御大典記念道で、道なりに進むと佐倉厚生園にたどりつきます。</p>

<p>もうひとつ南側に国道２９６号に沿って細い道があり、この道は鏑木坂下Ｙ字路交差点に出られる道になっています。</p>

<p>御大典記念道を４０メートルほどの左に鏑木町公民館があり、ここから３０メートルほど右に内田医院があり、さらに５０メートルほど進むと右に古谷商店があり、さらに２０メートルほど行った左の民家のあたり、道路から少し高くなったところに馬頭観音があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　鏑木町　船尾余　馬頭観音" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/kaburagimachi_batokannon.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　鏑木町　船尾余　馬頭観音。（鏑木町）</p>

<p>右のものから正面の右に「文政五壬□□」、正面の真中に「馬頭觀世音」、正面の左に「■（一か？）月吉日」とあり、真中のもの正面に「馬頭觀世音」、左側面に「大正十四年八月　内田氏」とあり、左のものの正面の右に「□政六癸未年」、正面の真中に「馬頭觀世音」、正面の左に「二月吉祥日」とあります。</p>

<p>右のものの「文政五壬□□」の□には「午年」と入り、「■（一か？）月吉日」の■のところは破損して剥離しているためはっきりとはわかりませんが、文字の大きさから考えると「一」と入ると思われ、左のものの「□政六癸未年」の□は、干支で合せると「文政」となるので「文」が入るようです。</p>

<p>文政五年は１８２２年、文政六年は１８２３年、大正十四年は１９２５年。</p>

<p>ふるさとの石仏には</p>

<blockquote>

<p>道路の縁に文字碑の馬頭観世音が三体並んでいる。<br />
これらの馬頭観世音は、鏑木町の人達が農馬の死を悼み、供養のために建てたものだといわれる。</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>馬頭観音から２００メートルほど行くと、印旛郡市文化財センターがあり、その先には佐倉厚生園がありますが、歩いてきた道を戻り、くもの井戸から薬師坂に戻り、薬師堂跡のある薬師坂上のＴ字路まで戻ります。</p>

<p>薬師坂上のＴ字路から、今度は右（東、武家屋敷からだと直進）に４０メートルほど道なりに進むとＴ字路があり、ここを右に９０メートルほど行くと、先に説明したやかん坂の坂上にたどり着きます。<br />
Ｔ字路を北に３０メートルほど進むとＹ字路になり、Ｙ字路を右に６０メートルほど進むと、左手から道が接続して、左に急坂となり２０メートルほど下ったところ左側に茶色い鳥居があり、額束には「権現神社」とあり、鳥居をくぐり階段を上がると社殿があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　鏑木町　牛房鼻　権現神社" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/kaburagimachi_gongenjinja.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　鏑木町　牛房鼻　権現神社。（鏑木町）</p>

<p>安政年間の佐倉城實測圖には「北山神社」と記入されていますが、現在は権現神社となっています。<br />
創立年代と由緒はわかっていませんが、佐倉町二十五年誌には</p>

<blockquote>

<p>北山神社　鏑木町牛房鼻　祭神　大山祇命　創立年代　不明　由緒　不明</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>大正四年発行の佐倉町二十五年誌には「北山神社」とあるので、少なくとも大正年間までは「北山神社」としていたと思われますが、新佐倉真佐子には</p>

<blockquote>

<p>木倉醤油屋の西側のがけの道は、神の坂と呼ぶが、以前は古木の茂った薄暗い急坂で、台上には幾つものお社があった。新道が開通しがけが削られたので、道が明るくなり、お社も一棟だけに整理され、老人達は権現様といって崇敬している。</p>

</blockquote>

<p>とあり、昭和１８年に新道が開通した時点で、権現社のみ一棟が残されて、ほかにあったお社は整理されなくなったということのようです。</p>

<p>昭和１８年は１９４３年。</p>

<p>この権現社はおそらく武家屋敷時代からあった、火難除けの神様であるのでないかと思われ、そうするともともとは愛宕社か秋葉社ではないかと思われますが、権現神社のみではっきりしていません。<br />
権現神社の左側に石祠が２基あり、向って右側の少しあたらしい石祠には「虫神社」とあり、左側の石祠は何かわかりませんが、右側面に「文化元子年」とあります。</p>

<p>文化元年は１８０４年。</p>

<p>もしかすると、左の石祠は「北山神社」であるかもしれませんが、文字が判読できないため確認が出来ず、虫神社もどんな神社か、これもわかっていませんが、虫供養のためのものではないかとも考えられます。</p>

<p>権現神社下の急坂は、「神坂」と呼ばれており、現在はすぐ下の国道２９６号で寸断されていますが、旧道（北年貢道）までこの坂が続いていました。<br />
鳥居から左（北）に急坂を２０メートルほど下ると国道２９６号に接続しますが、この国道２９６号（新道）の坂を現在は「ごんげん坂」と呼んでいるようで、名前の由来はもちろん神坂にある権現神社です。</p>

<p>神坂あたりの図を載せます。</p>

<p><img alt="神坂・権現神社あたりの図" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/kamizaka_gongenjinja_atari_.gif" width="450" height="375" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>神坂・権現神社あたりの図。</p>

<p>権現神社の茶色の鳥居から左（北、薬師坂上からだと直進）へ２０メートルほど下ると国道２９６号（新道）と合流し、神坂は神坂・権現神社あたりの図の白色の点線のように斜めに下っていましたが、現在は国道２９６号（新道）のため平坦になり、２０メートルほどの部分は消滅（土盛りして道路を作ったため）しています。<br />
国道２９６号（新道）を歩道のほうへ車に気をつけながら渡り、２０メートルほど南に進んだあたりでガードレールがなくなる部分があり、この場所から、左右に細い野道があり、神坂は右（南）側の野道（途中から階段）を行くのが本来の道筋ですが、ここは途中崩れいていたりして通行不可になっているだけではなく、旧道（北年貢道）にでるところに門扉があり、ここから出られないようになっています。<br />
左（北）の野道（段になっている）は通行可能で、左右に下りて行くと旧道（北年貢道）に下りられます。</p>

<p><img alt="佐倉町　鏑木町　牛房鼻　神坂　旧道（旧坂）" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/kamburagimachi_kamizaka_kyu.jpg" width="233" height="350" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　鏑木町　牛房鼻　神坂　旧道（旧坂）。（鏑木町）</p>

<p>２０メートルほどこの神坂の旧坂を下ったところは旧道（北年貢道）で、左（北）に行けばうるし坂（漆坂）１３０メートルほど行けばくもの井戸へ出ることになります。</p>

<p>くもの井戸は先に訪ねているので、左（北）に進みますが、この辺りから緩やかに上りになり、５０メートルほど進んだ辺りから坂らしくなってくるあたりがあります。</p>

<p><img alt="佐倉町　鏑木町　漆作　うるし坂（漆坂）下" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/kaburagimachi_urushizaka.jpg" width="233" height="350" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　鏑木町　漆作　うるし坂（漆坂）下。（鏑木町）</p>

<p>ここ辺りから９０メートルほど行ったところから、坂はきつくなり、左（西）に曲がって３０メートルほどでトンネルをくぐり、２０メートルほどで<a href="http://sanpobokko.com/stroll_note/2010/03/post-107.php">成田街道（佐倉道）その９５</a>で歩いた変形４差路に出ますが、約６０メートルほどのこの坂をうるし坂（漆坂）と呼ぷわけですが、先に写真にあるところも含んでうるし坂（漆坂）と呼ぶこともあるようです。</p>

<p>うるし坂（漆坂）の由来は、このあたりに漆がたくさんあったことから名付けられたといわれていますが、現在地図などで「漆坂」と漢字で書かれていることが多いですが、古今佐倉真佐子では「うるし坂」でかかれており、元は漢字ではなくひらがなやカタカナで表記されていたようです。<br />
このうるし坂（漆坂）の下の東側は鏑木町字漆作といわれており、多輪免喜によると「うるしの自生していた谷か、又は、谷合いのよび名。あるいはうりさくが、うるしさくとなったか」とあり、「瓜作」とは「谷津で地形的なよび名」とあるので、漆の自生していたところからの「うるし」なのか、地形的なよび名である「うりさく」からなのか、はっきりとはわかってはいません。</p>

<p>このうるし坂（漆坂）については、<a href="http://sanpobokko.com/stroll_note/2010/03/post-107.php">成田街道（佐倉道）その９５</a>で新道の説明のときに一度でてきていますが、もう一度うるし坂の部分だけを載せると</p>

<blockquote>

<p>この新道は佐倉保健所と佐倉警察署の間辺りで漆坂を横断している。この漆坂は急坂のうえ坂を下り切った所で曲がり、外側が一段低くなっているから危険この上ない難所であった。</p>

</blockquote>

<p>と、新佐倉真佐子にはあり、現在はだいぶ緩やかな段階的な坂道になっていますが、当時はだいぶ急な坂であったようで、お祭りの時、麻賀多神社の神輿がこの旧道を通っていたほどトンネルの高さがあったようですが、現在は改修工事が行なわれた後、現在のようにトンネル部分の道を平にしたため高さがなくなり、麻賀多神社の神輿が通り抜けられずに、トンネルのところで一度引き返して、新道を進むようになったようです。</p>

<p>薬師坂下の子育地蔵尊からくもの井戸、くもの井戸からうるし坂までの道順は、どちらから回っても大体同じくらいの距離なので、坂の上り下りの順序を工夫して、しんどくならないように歩くのが一番いいでしょう。</p>

<p>変形４差路、もしくは子育地蔵尊から佐倉養生所跡の碑に戻り、麻賀多神社前を通り新町交差点まで戻り、佐倉道を進んでいきます。</p>

<p>ということで、今回はここまで。</p>

<p>参考文献は、「歴史の道調査報告書　成田街道」、「佐倉市史」、「千葉県下総国印旛郡寺院明細帳」、「千葉県下総国印旛郡神社明細帳」、「千葉県印旛郡誌」、「佐倉市誌資料」、「佐倉の歴史を学ぶ　資料集」、「多輪免喜」、「佐倉風土記」、「佐倉文庫」、「古今佐倉真佐子」、「新佐倉真佐子　－佐倉のお茶の間風土記－」、「総州佐倉御城府内之図」、「ふるさとの石仏」、「佐倉町二十五年誌」、「新道々の記」より。</p>

<p>引用は各文献と各社寺の説明板、地域の説明板より。</p>

<p>今回の地図は<a href="http://sanpobokko.com/kaido_image/sakuramichi_6.jpg">「佐倉道６」</a>です。</p>

<p>国土地理院２５０００分の１「佐倉」より作成しています。</p>]]>
    </content>
</entry>

<entry>
    <title>成田街道（佐倉道）その９６</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://sanpobokko.com/stroll_note/2010/03/post-108.php" />
    <id>tag:sanpobokko.com,2010:/stroll_note//5.511</id>

    <published>2010-03-29T14:14:14Z</published>
    <updated>2010-04-01T13:44:34Z</updated>

    <summary>佐倉道　武家屋敷入口（千葉県佐倉市宮小路町）から周徳院へ立ち寄り子育地蔵尊（千葉県佐倉市鏑木町）まで...</summary>
    <author>
        <name>nobo</name>
        
    </author>
    
        <category term="街道歩き" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    <category term="佐倉市" label="佐倉市" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
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    <category term="成田街道" label="成田街道" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://sanpobokko.com/stroll_note/">
        <![CDATA[<p>佐倉道　武家屋敷入口（千葉県佐倉市宮小路町）から周徳院へ立ち寄り子育地蔵尊（千葉県佐倉市鏑木町）まで</p>

<p>このあたりの図をもう一度載せておきます。</p>

<p><img alt="武家屋敷辺りの図" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/bukeyashiki_atari_zu.jpg" width="500" height="517" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>武家屋敷辺りの図。</p>

<p>武家屋敷通りの入口（Ｔ字路）から右（南、佐倉養生所跡の碑からだと直進）に３０メートルほどで細道は左（東）に曲がり、５０メートル行くとＴ字路になり、ここを右（南）に少し広い道（車がすれ違えるほどの道）があり、ここから急坂になりますが、この坂を薬師坂といいます。</p>

<p><img alt="佐倉町　鏑木町　雲井戸と牛房鼻の境　薬師坂" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/kaburagimachi_yakushizaka.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　鏑木町　雲井戸と牛房鼻の境　薬師坂。（鏑木町）</p>

<p>Ｔ字路から坂を２０メートルほど下った右側（西側）の竹藪になっているところの上には薬師堂の跡がありましたが、現在はここへ上がれないために、どうなっているのかは窺い知れません。<br />
２００４年（平成１４年）あたりにここを歩いたときには、まだ薬師堂跡に上がる階段が残っていましたが、現在はなくなってしまい崖と道路の間に崩れて倒木が折り重なって、少し上が見え左側に小屋（お堂の朽ちかけているもののように見えるもの）がのぞけるところが、もと階段があったところです。（写真でいうと、ミラーの手前の茶色くなっているところ）</p>

<p>千葉県下総国印旛郡仏堂明細帳には</p>

<blockquote>

<p>曹洞宗　周徳院持<br />
薬師堂<br />
一　本尊　薬師如来并十二神将<br />
一　由緒　天正四丙子年正月八日創立<br />
一　堂宇間数　間口三間半　奥行三間半<br />
一　境内坪数　四百八拾六坪　民有地第一種<br />
一　境内仏堂　三宇<br />
観音堂<br />
本尊　観音菩薩<br />
由緒　明治三年一月二日創立<br />
建物　間口弐間　奥行三間<br />
仁王堂<br />
本尊　仁王尊<br />
由緒　明治三年一月二日創立<br />
建物　間口弐間　奥行三間<br />
大師堂<br />
本尊　弘法大師<br />
由緒　不詳<br />
建物　間口壱間半　奥行壱間</p>

</blockquote>

<p>とあり、千葉県印旛郡誌にも同文で載せています。</p>

<p>天正四年は１５７６年、明治三年は１８７０年。</p>]]>
        <![CDATA[<p>この場所は現在は千葉県佐倉市宮小路町となっていますが、千葉県下総国印旛郡仏堂明細帳には印旛郡佐倉町鏑木字雲井戸となっており、当時は鏑木町であったことがわかります。<br />
さらに千葉県下総国印旛郡仏堂明細帳の枠外には、「昭和四年一月十二日焼失ﾉ告同十五日届出」とあるので、昭和四年に一切を焼失したことがわかり、民有地第一種のところの「民」に朱線で訂正がありもとは「官」であったことがわかり、訂正文に「明治十三年中奐代下与」とあり、官有地から民有地にしたことが書かれていますが、この場合「下与」とあるので「下げ渡した」ということのようです。</p>

<p>昭和四年は１９２９年、明治十三年は１８８０年。</p>

<p>この薬師堂について、新佐倉真佐子には</p>

<blockquote>

<p>前半省略</p>

<p>この薬師坂の上の西側に立派な薬師堂があった。入口には仁王門があって、相当広い境内の奥の方に大きな本堂が建っていた。十一月八日が縁日で、秋の収穫も済んで、やれやれという時であったから村中そろってのお祭が催された。</p>

<p>...中略...</p>

<p>晩秋で夜はかなり冷えたが高町商人の露店も出て、夜更けるまで参詣人が絶えなかった。眼病に御利益があるので信心する人が多かった。昭和四年の冬午前十一時頃焚火の不始末から火事になり、乾燥に加えて大風であったので、近所の家もろとも、ひとたまりもなく灰になってしまった。幸い御本尊と仏像の大部分は持出して別堂である周徳院に安置されたが、いまだに再建されない。薬師堂の由来は古今佐倉真佐子かぶらき小路の欄に詳述されているが、天正四年（一五八一年）創立の古刹であった。</p>

</blockquote>

<p>とあり、昭和四年に焚火の不始末で焼失したことが書かれています。</p>

<p>実は、薬師堂は坂上の薬師堂のほかにもう一つあったことが、千葉県下総国印旛郡仏堂明細帳の中にあり、千葉県下総国印旛郡仏堂明細帳には</p>

<blockquote>

<p>千葉縣管下下総國印旛郡佐倉町鏑木字雲井戸<br />
真言宗豊山派大聖院持<br />
七仏薬師堂<br />
一　本尊　七佛薬師如来<br />
一　由緒　不詳<br />
一　本堂間数　間口三間半　奥行三間半<br />
一　境内坪数　百拾六坪　民有地第一種<br />
一　住職<br />
一　管轄廰距離四里拾八町</p>

</blockquote>

<p>とあり、千葉県印旛郡誌も同文で載せています。</p>

<p>千葉県下総国印旛郡仏堂明細帳の枠外には「削除相成変告戸長ヨリ申出」とあり、時期については定かではありませんが、仏堂としては削除されたことが記入されています。<br />
さらに民有地の「民」のところには朱線があり、そこには「官」の字があり、下に「明治廿一年四月日無代下奐」と記述されていて、明治２１年に官有地から民有地になったことがわかり、この場合は無償で民間地になったようです。<br />
ということは最低でも明治２１年までは、七仏薬師堂としては存続していたことになります。</p>

<p>明治廿一年は１８８８年。</p>

<p>この七仏薬師堂については、不明瞭なところが多いのですが、大正四年に発行された佐倉町二十五年誌の中の寺院の欄に、薬師堂と同じならびに七仏薬師堂もあり、もしかすると同じ敷地の中にこの七仏薬師堂もあったのではないかと、佐倉町二十五年誌の記述の仕方で思われますが、これも定かではありませんが、あっても不思議ではなく、この二つの薬師堂を合せて単に「薬師堂」と入ってもなんら不思議ではないでしょう。</p>

<p>大正四年は１９１５年。</p>

<p><ins datetime="2010-04-01T22:29:55+09:00">[2010-04-01 追記]　七仏薬師堂について、古今佐倉真佐子の中に「此次き六崎村。此次き寺崎村、村末七仏薬師堂有。開帳の節見しにはく（箔）だみの新仏也。」とあり、古今佐倉真佐子の注釈の項に「寺崎の小字新小路にあり、真言宗大聖院の末寺で、薬師瑠璃光如来を本尊とする。七仏薬師とは、七仏功徳経にみえる東方瑠璃国土の七仏をいう。」とあり、ここに「真言宗大聖院の末寺」とあるので、薬師堂と同所にあった七仏薬師堂がはじめ佐倉市寺崎の密蔵院附近（寺崎城跡附近）にあったことが書かれており、正徳もしくは享保年間にあったことが確認できます。その後、いつ頃薬師堂と同所に移ったかについては触れられていないのでわかっていません。<br />
正徳から享保年間は１７１１～１７３６年までの間。</ins></p>

<p>ミラーのあるＴ字路の左（東）へ行く道のほうは、安政年間の佐倉城實測圖によると「鏑木村宅地」とある武家屋敷町が立ち並んでいた所になり、現在もなんとなく雰囲気がある住宅地になっています。</p>

<p>安政年間は１８５４～１８６０年の間。</p>

<p>坂道をさらに６０メートルほど下るとＹ字路があり、Ｙ字路が分かれる角にお堂があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　鏑木町　雲井戸　子育地蔵尊" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/kaburagimachi_kosodatejizos.jpg" width="233" height="350" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　鏑木町　雲井戸　子育地蔵尊。（鏑木町）</p>

<p>お堂の中には大きな地蔵像（延命地蔵）があり、その下には小さなお地蔵さまや千羽鶴などがありま、お堂の中の上に沿革が書かれており</p>

<blockquote>

<p>沿革<br />
地蔵尊は衆生の救済や民衆の苦しみを救う菩薩として身代わりとなり厄除けとして信仰を深め地蔵盆には盛大に祝われてきました<br />
初代子育地蔵尊は江戸時代に奉納され大正時代に焼失し薬師堂に祀られたものと思われるが<br />
昭和二十六年有志によりこの地へ安置されお堂の傷みが著しく本尊は他に移設し新たに二代目の地蔵尊を昭和五十七年十一月に祀りお堂を改築し信仰を集めております<br />
昭和五十七年十一月吉日</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>大正時代は１９１２～１９２６年の間、昭和二十六年は１９５１年、昭和五十七年は１９８２年。</p>

<p>ふるさとの石仏には</p>

<blockquote>

<p>この地蔵尊は、はじめ坂上の薬師堂の境内にあったが、昭和十三年に暴風雨で倒れたので、現在の場所に移したという。木の祠の中に数体の石仏が安置してある。中央の地蔵尊が本尊で高さ一メートルほどの立像。たくさんの衣類や帽子などが納められてある。左手前には、庚申塔とみられる壊れた石仏が納められ、三猿を彫った台座も見えている。</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>昭和十三年は１９３８年。</p>

<p>沿革とふるさとの石仏によると江戸時代のいつ頃にどこにあったかは定かではないが、その後大正時代にお堂が焼失したときには地蔵尊は免れて薬師堂に祀られ、薬師堂が昭和４年に焼失した際も地蔵尊は無事で、薬師堂が焼失したあとも昭和１３年まで薬師堂の境内に残っていたが暴風雨で倒れ、現在の場所に移り、その後、昭和２６年に現在地にお堂を建て、昭和５７年にお堂と共に地蔵尊も新しくし現在に至っている、ということのようです。</p>

<p>江戸時代から大正年間は、いったいどこで祀られていたのか、それについては沿革とふるさとの石仏以外に子育地蔵尊のことを記述したものがないので、まったくわかりませんがこの附近であったことは確かだと思われます。<br />
さらにふるさとの石仏には、他にも石仏があったことが書かれていますが、現在は地蔵尊のみとなっています。</p>

<p>子育地蔵尊のちょうど向かい側の電柱の影辺りに、薬師坂の説明板があり</p>

<blockquote>

<p>①薬師坂<br />
［坂の説明］<br />
かつて坂上にあった薬師堂は昭和四年に焼失、坂にその名を残すことになりました。現在、薬師像は坂下の周徳院に安置されています。</p>

</blockquote>

<p>とあり、この場所までが薬師坂といっていたことが判ります。</p>

<p>子育地蔵尊のあるＹ字路から右（西）へ４０メートルほどの右に駐車場がありますが、ここは東源寺跡で、安政年間の佐倉城實測圖では「東元寺」と記入されていて、この東源寺について、古今佐倉真佐子には</p>

<blockquote>

<p>扨薬師の下坂右の方山ぎわ末出はづれ迄凡四丁斗也。此間右坂をり口より一丁斗の内、左の方小竹藪。右の方山ぎしに寺有。真言宗東源寺。門くずやぶき。客殿東向くずやぶき。小寺にて寺中品々成大木にて林のごとし、此門前より少先左の方籔なし。</p>

</blockquote>

<p>とあり、新佐倉真佐子には</p>

<blockquote>

<p>薬師坂を下り街道へ出る手前で右に曲がり崖沿いに周徳院へ行く途中に東源寺という真言宗の寺院があったが、江戸末期に廃寺になった。大日如来を本尊とする立派な寺で、佐倉城内にあった浅間社の別当の寺であったのに、今は墓石が掘り出されるだけである。</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>佐倉城内の浅間社とは、<a href="http://sanpobokko.com/stroll_note/2010/02/post-103.php">成田街道（佐倉道）その９１</a>で出てきた三の丸にあった浅間神社のことで、現在は佐倉厚生園近くの浅間神社に合祀されています。<br />
東源寺跡は現在駐車場になっていて、既に墓石などは掘り出されて、本寺である大聖院に無縁仏として供養されているものと思われます。</p>

<p>「くずやぶき」とは草葺のこと。</p>

<p>東源寺跡から２０メートルほどの右側の生垣と民家の間に石仏があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　鏑木町　雲井戸　東源寺跡　石仏" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/kaburagimachi_togenjiato_se.jpg" width="233" height="350" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　鏑木町　雲井戸　東源寺跡　石仏。（鏑木町）</p>

<p>像容が地蔵とも観音ともはっきりしませんが、おそらく墓碑と思われ、これはおそらく東源寺にあった墓石であると思われます。</p>

<p>正面に地蔵像（観音像にも見える）、正面の右に「是禅定門■（尼か？）」、正面の左に「正徳元辛卯年　十二月十六日」とあります。</p>

<p>正徳元年は１７１１年。<br />
■は読みづらい文字で、（）内はおそらく入るであろう文字です。</p>

<p>なぜここにあるのかはわかりませんが、東源寺にあった墓石の像容が地蔵（観音か？）に似ていたのでここに置いたのか、この墓石に関係する人がここに置いたのかは定かではありません。</p>

<p>さらに１００メートルほど進むとＴ字路があり、石畳のある参道のほうを２０メートルほど進むと赤い山門があり、その奥にお寺さんがあります。</p>

<p><img alt="佐倉町　鏑木町　雲井戸　周徳院（周徳禅院）" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/kaburagimachi_syutokuin.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　鏑木町　雲井戸　周徳院（周徳禅院）。（鏑木町）</p>

<p>千葉県下総国印旛郡寺院明細帳には</p>

<blockquote>

<p>勝胤寺末<br />
曹洞宗　周徳院<br />
一　本尊　虚空蔵菩薩<br />
一　由緒　元亀二年十二月十四日創立<br />
一　本堂間数　間口六間　奥行四間<br />
一　境内坪数　五百三拾八坪　民有地第壱種</p>

</blockquote>

<p>とあり、千葉県印旛郡誌には</p>

<blockquote>

<p>鏑木村字雲井戸にあり曹洞宗にして勝胤寺末なり虡空藏菩薩を本尊とす天龜二年十二月十四日創立堂宇間口六間奥行四間境内五百三十八坪　［民有地第一種］　あり</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>元亀二年は１５７１年。</p>

<p>千葉県印旛郡誌には「天龜二年」とありますが、元号で「天亀」というのはなく、千葉県下総国印旛郡寺院明細帳の「元」の字が「天」に見えることから、千葉県印旛郡誌では「天龜」と記載したものと思われます。<br />
本堂間数ですが、間口・奥行共に朱線で訂正されており「間口七間半　奥行四間半」と記され、その下には「四十五年二月廿六日改築許可」とあり、明治四十五年に改築がされたようです。<br />
さらに民有地第壱種の下に「明治十三年四月廿四日無代下奐」とあり、無償で下げ渡したと書かれています。</p>

<p>佐倉市史には</p>

<blockquote>

<p>勝胤寺末（旧）。本尊は虚空蔵菩薩であったが、境外仏堂薬師如来を本尊としている。元亀二（一五七一）年十二月十四日、真言宗を曹洞宗に改宗したものではあるまいともみられる（松裏委員調査）松裏氏の見解は、当寺において第二世の先祖として回向される住僧の中に五名の真言宗系僧名を見出すことが出来るであるということに基いている。次に本尊薬師如来は秘仏で五十年に一度の開扉になっている。明治十三年開扉の際に記した「薬師仏縁起」には〝......由来を原ぬるに天正四年丙子年正月八日創立、爾来三百有余年......〟と、この薬師如来が天正四（一五七六）年安置されたことを伝えている。本尊薬師像の脇侍である日光・月光の両菩薩は三尺足らずの寄木造であるが、この仏像の制作年代について郡司幹雄委員は室町期の特徴をよく現していると、調査の結果を述べている。以上の諸点から、当寺が中世末期に鏑木村の寺院として存在していたことは間違いないことであろう。</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>佐倉市史の記述文の「改宗したものではあるまいとも」は「改宗したものではあるまい（か）とも」、「見出すことが出来るである」は「見出すことが出来る（の）である」と（）の文字が抜けているものと思われます。</p>

<p>千葉県下総国印旛郡寺院明細帳と千葉県印旛郡誌では本尊は「虚空蔵菩薩」とし、佐倉市史では「薬師如来」としていますが、これは、昭和四年の薬師堂焼失後に周徳院に安置された時点で本尊になったのか、そのところについては３つの文献共触れていませんが、現在、この薬師如来が秘仏であり、両脇侍と共に「木造薬師如来像及び両脇侍立像」として佐倉市の有形文化財（昭和５３年１０月１８日に指定されている）となっています。</p>

<p>昭和５３年は１９８３年。</p>

<p>新佐倉真佐子には</p>

<blockquote>

<p>東源寺の西側には元亀元年（一五七〇年）真言宗として創立された周徳院がある。元亀二年曹洞宗に改まり、医王山という山号はあるが寺号を用いない寺である。旧幕時代寺子屋を開いていたが、明治八年三月鏑木小学校と改まり、鏑木町の子弟の教育機関になっていた。明治二十一年制度が改革され佐倉尋常小学校に合併されたので鏑木小学校は閉鎖されることになった。</p>

</blockquote>

<p>とあり、「元亀元年（一五七〇年）真言宗として創立された」としています。</p>

<p>明治八年は１８７５年、明治二十一年は１８８８年。</p>

<p>新佐倉真佐子の記述と佐倉市史の記述を合せてみると、元亀元年創立で元亀二年には曹洞宗に改宗をしたとするのが正しいとすると、佐倉市史にある「当寺において第二世の先祖として回向される住僧の中に五名の真言宗系僧名を見出すことが出来る」の記述の五名の僧は、当時五名の僧で寺を守っていたのか、それとも５世代の住僧であったのかがはっきりしておらず、５世代のものだとすると、創立された年代は元亀元年以前となり、新佐倉真佐子の記述には矛盾があることになりますが、このあたりはどうも曖昧なようではっきりしていません。</p>

<p>薬師如来について、古今佐倉真佐子には</p>

<blockquote>

<p>抑、此薬師は御たけ七八尺斗にしてあらき作也。<br />
その昔寺崎川の内よりとうあみにかゝり出給う。<br />
此薬師奥州秀衡が守ほそん成るよし。れいけんあらた也。ひ仏開帳の節拝す。脇立二たい、此外十二神ある。</p>

<p>...中略...</p>

<p>...別当周徳院。真言。</p>

</blockquote>

<p>とあり、古今佐倉真佐子が書かれたのが稲葉時代のことなので、元禄１４年（１７０１）～享保８年（１７２３）の間ということになり、その頃「真言」と書かれていることから少なくとも１７２３年頃までは「真言宗」だったということになり、佐倉市史と新佐倉真佐子との記述にも時代の開きがあることになります。<br />
「奥州秀衡」とは奥州藤原氏第三代の藤原秀衡のことで、その藤原秀衡の守り本尊が寺崎川（現在の高崎川）で漁をしていた投網にかかって、薬師堂の本尊になったとありますが、藤原秀衡は１２世紀（平安末期）の人物であり、鹿島台辺りとの関係性についてはないはずですが、いわゆる寺の由緒に箔をつけるための挿話であるものと思われます。<br />
ただし、この薬師像と脇侍像の製作年代は室町時代とあり、形としては鎌倉時代後期の様式であるとしています。</p>

<p>藤原秀衡が活躍していた時代は、平家滅亡から源頼朝が鎌倉幕府を開く前までの天治年間から文治年間までの時代です。</p>

<p>天治年間は１１２４～１１２６年まで、文治年間は１１８５～１１９０年の間。</p>

<p>さらに古今佐倉真佐子には</p>

<blockquote>

<p>毎月八日、十二日には此寺より薬師堂へ行て、とうめうをあげ、初中後出家詰居る。東源寺本尊不動大日如来也。此寺同様也。両寺共に祈禱斗にてめつさいは行なはず。</p>

</blockquote>

<p>とあり、周徳院と東源寺は共に薬師堂での行事などて良好な関係にある同系列の寺であることが書かれていますので、やはり、古今佐倉真佐子の書かれた時代までは真言宗であったのではないかとも思えますが、案外、古今佐倉真佐子の記述には間違いがあるので、もしかしたらその間違いであるのかもしれません。</p>

<p>山門の手前右側には小堂があり、その小堂の手前右側に庚申塔があり、正面の右に「□文五庚申年」、正面の真中に青面金剛像と下に邪鬼と三猿、正面の左に「正月十八日庚申■（日？）　■■氏」とあります。</p>

<p>□は剥離したか削れたかして読めない文字、■は文字になっているが読みづらい文字で（）内はおそらく書かれている文字と思われる文字で、（）がないところは判読不明文字です。</p>

<p>年号の「□文五庚申年」の□には「元」が入ると思われ、そうすると元文五年となり１７４０年。</p>

<p>庚申塔の左に小堂があり、この中には六体の地蔵がありますが、全て高さが違うのでもともとは別々に造られた地蔵と思われ、六地蔵として並んでいますが、実際には六地蔵ではないようです。<br />
小堂の内側木壁の奥の左側に「宝暦六年十一月造建　周徳院盧山代」、「昭和五十七年十月二十四日再建」とあり、左から４つ目の一番背の高い地蔵像の台石の右側に「周徳院盧山化願主誉道仙居士」、左側に「干時宝暦六丙子十一月造立」とあるとふるさとの石仏にはあります。</p>

<p>宝暦六年は１７５６年、昭和五十七年は１９８２年。</p>

<p>他の地蔵像の年代は、衣類を着ているので定かではありません。<br />
一番大きい地蔵像はもとは山門の左側にあったものを小堂を作った昭和５７年に移動したようですが、他の地蔵像はどこにあったのかはふるさとの石仏には書かれていませんが、もしかすると、先にあった子育地蔵尊が昭和５７年１１月に新しくお堂を建て直した際に本尊の地蔵像の一体のみを残し、昭和５７年１２月にこの小堂を建てたときに、旧子育地蔵尊のお堂にあった残りの地蔵像をこちらに移したものではないかと思われます。</p>

<p>山門の右側には３基の石造物と白い説明柱が２本あり、右のものから庚申塔で正面の右に「萬延元庚申年」、正面の真中に「青面金剛」、正面の左に｢五月吉日」とあり、真中のものは自然石で出来ている秩父塔で正面の真中に「秩父三拾四番觀世音」、正面の左に「明治十二年　乙卯八月吉日」とあり、左のものは庚申塔で正面の右に「寛政十二庚申年」、正面の真中に「靑面金剛」、正面の左に「十一月吉日」とあります。</p>

<p>萬延元年は１８６０年、明治十二年は１８７９年、寛政十二年は１８００年。</p>

<p>左の庚申塔の後ろ、山門の入口寄りの塀のところの白い説明柱の右のものには「木造薬師如来坐像及び両脇侍立像」、左のものには「鏑木小学校　明治八年開校」とあります。</p>

<p>明治八年は１８７５年。</p>

<p>山門の左側にも３基の石造物があり、右のものから馬頭観音で正面に「馬頭觀世音」、右側面に「明治丗四年建立　昭和四十五年七月十八日再建　施主　岩渕春夫」とあり、真中のものは馬頭観音で正面に「馬頭觀世音」、右側面に「文化二乙丑年十二月吉日」、左側面に「村講中」とあり、左のものは普門品供養塔で正面に「普門品一千部供養」、右側面に「文化十三丙子年」とあります。</p>

<p>明治丗四年は明治三十四年で１９０１年、昭和四十五年は１９７０年、文化十二年は１８１５年、文化十三年は１８１６年。</p>

<p>山門をくぐると正面に本堂があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　鏑木町　雲井戸　周徳院（周徳禅院）　本堂" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/kaburagimachi_syutokuin_hon.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　鏑木町　雲井戸　周徳院（周徳禅院）　本堂。（鏑木町）</p>

<p>本堂の右側には鶴の置物がある池があり、左側には大師堂と小堂があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　鏑木町　雲井戸　周徳院（周徳禅院）　大師堂と小堂" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/kaburagimachi_syutokuin_dai.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　鏑木町　雲井戸　周徳院（周徳禅院）　大師堂と小堂。（鏑木町）</p>

<p>向って右側が大師堂で、ここには十八番と五十八番の札番がありますが、これは、先に説明した薬師堂にあった大師堂をここに祀ったために二つの札番があります。</p>

<p>向って左側の小堂は二つに分かれており、右側には子安地蔵尊と木額にはあり、中には子安塔が祀られており正面の右に「寛政六甲寅十一月吉日」、正面の真中に子安観音像、正面の左に「當村講中」とあります。</p>

<p>寛政六年は１７９４年。</p>

<p>小堂の左側には水子地蔵尊と木額にはあり、中には真新しい水子地蔵尊があります。</p>

<p>小堂の左に木札の説明板があり</p>

<blockquote>

<p>子安地蔵尊<br />
父母の恵みも深き地蔵尊<br />
寛政六年当村講中■（が）薬師堂境内■（に）建立その後此地に移し今に至る<br />
安産子育てに霊験■■（あり？）<br />
水子地蔵尊<br />
一重積んでは父の為　二重積んでは母の為<br />
鏑木町子安講中並び信心の施主により水子の供養を□□建立□□□<br />
子授け安産子育ての供養を授□□　□□二□三□□□□□□</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>寛政六年は１７９４年。<br />
■は文字があるが滲む、霞むかしていて読みづらい文字で（）内は入るであろう文字です。<br />
□は文字が消えていて読めない文字です。</p>

<p>子安地蔵尊（子安観音）は、昭和４年の薬師堂の焼失で大師堂と共にこの場所に移されたものと思われます。</p>

<p>周徳院から子育地蔵尊まで戻り、右（南、薬師堂跡からだと直進）に坂を下っていきますが、旧道が実はありましたが、その旧道は薬師坂の説明板があるところから、現在雍壁のある崖にに沿って東に３０メートルほど進み、ここから南に２０メートルほど曲がりながら下り、さらに南西に３０メートルほど下り、現在住宅地になっているあたり、薬師坂の説明板から現在の坂を６０メートルほど下った地点に出てきていました。</p>

<p>ということで、今回はここまで。</p>

<p>参考文献は、「歴史の道調査報告書　成田街道」、「佐倉市史」、「千葉県下総国印旛郡寺院明細帳」、「千葉県下総国印旛郡神社明細帳」、「千葉県印旛郡誌」、「佐倉市誌資料」、「佐倉の歴史を学ぶ　資料集」、「多輪免喜」、「佐倉風土記」、「佐倉文庫」、「古今佐倉真佐子」、「新佐倉真佐子　－佐倉のお茶の間風土記－」、「佐倉城跡発掘調査報告書（国立歴史民俗博物館発行）」、「総州佐倉御城府内之図」、「ふるさとの石仏」、「佐倉町二十五年誌」より。</p>

<p>引用は各文献と各社寺の説明板、地域の説明板より。</p>

<p>今回の地図は<a href="http://sanpobokko.com/kaido_image/sakuramichi_6.jpg">「佐倉道６」</a>です。</p>

<p>国土地理院２５０００分の１「佐倉」より作成しています。</p>]]>
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