佐倉道 新町交差点(千葉県佐倉市新町)からスーパー乃ぐちや跡(千葉県佐倉市新町)まで
新町交差点から今度は東(右、海隣寺からだと左)に佐倉道を進んでいきます。
佐倉道沿いの新町あたりについて、歴史の道調査報告書には
さて街道は札の辻で左折して新町に入る。嘉永元年の絵図によると、横町六四間をすぎて左折し、上町八一間、上二番町五三間、仲間一五三間をまっすぐ進み、つき當りを右折して肴町八七間半、再び直解に左折して間の町六六間とつづいている。
とあります。
嘉永元年は1848年。
「仲間一五三間」とある「仲間」は「仲町」の間違いで、「再び直解に左折」とある「直解」は「直角」の間違いと思われます。
新町あたりの図を載せます。

新町あたりの図。(注意 記号f=スーパー乃ぐちやさんは平成23年[2011]6月30日に閉店、平成23年[2011]11月時点では更地になっています。)
新町交差点から20メートルほどの右側の駐車場の手前に高札板があります。

佐倉町 新町 上町 南側 高札板(模擬)。(新町)
これは模擬の高札板で、この位置には高札板はありませんでしたが、おそらく、新町交差点のところが当時の高札があったところなのですが、ここに建てられないので、現在の位置(新町の入口になるので)に建てたものと思われます。
一応、ここには御触書(現代風のもの)と、佐倉町時代の鳥瞰図などをここに掲示してあり、その他には佐倉市内などで行なわれる催事などをお知らせする掲示板として使われているようです。
高札板(模擬)から50メートルほどのところ右側にお店があります。

佐倉町 新町 上町 南側 蔵六餅本舗(木村屋)。(新町)
蔵六餅本舗の本当の店名は「木村屋」で、もともとは菓子パン屋さんだったところです。
現在は蔵六餅などの和菓子を中心に販売をされていて、店の左側には喫茶があり、ここには「木村屋」と明記されています。
この蔵六餅本舗(木村屋)について、新佐倉真佐子には
木村屋の堅パンで知られた木村屋が今のところに開店したのは大正四年ごろでそれまでは、二番町四十番地にある現在の日栄航空という測量会社のある古い建物で商売をしていた。
...中略...
市制施行を記念して佐倉銘菓と銘打って昭和三十年にこの木村屋から売り出された「蔵六餅」の縁起については、弥勒の東福寺のところで述べることとする。
とあります。
大正四年は1915年、昭和三十年は1955年。
「二番町四十番地にある現在の日栄航空という測量会社のある古い建物」は、平成22年(2010)現在、佐倉市立美術館の駐車場になっているところ西側(駐車場入口の左側)にありました。
「蔵六餅」の縁起について、新佐倉真佐子には
上町の木村屋が市制施行を記念して昭和三十年ころ蔵六餅を佐倉の銘菓として売り出してから既に二十年以上にもなるが、この名が今からおよそ三百年の昔、延宝巳末秋九月というから延宝七年九月(霊元天皇時代)に書かれた「蔵六石記」に記されている「蔵六石」という奇石に因んだものであるということは余り知られていない。この石は東福寺が創建されたとき堀田氏の本家近江の宮川堀田氏より寄進された亀甲紋のある石で縦四十五糎、幅三十四糎、厚二十二糎の亀甲型をした奇妙な石で産地は豊洲というから大分県だろうか。
とあります。
延宝七年は1679年。
「霊元天皇時代」は、4代徳川家綱が将軍であった時代。
「蔵六餅を佐倉の銘菓として売り出してから既に二十年以上にもなるが」とありますが、新佐倉真佐子が発行されたのが昭和54年(1979)であるので、蔵六餅が売り出されてから既に45年(平成22年現在で)になることになります。
蔵六餅本舗(木村屋)の向かい側(北側)に、車に気をつけながら渡ると千葉銀行があり、千葉銀行の左側(西側)に裏の駐車場に続く道があるので、ここを駐車場に進んでいくと正面奥に神社があります。

佐倉町 新町 上町 北側 千葉銀行駐車場内 稲荷神社。(新町)
この稲荷神社は、この場所にもとあった「よろづ屋」という旅館にあった稲荷神社が、そのまま千葉銀行の駐車場内に残されたようです。
佐倉市史にある嘉永元年の新町絵図によれば、「よろづ屋」の前は「釘屋」という郷宿であったので、この時代からあった可能性もあります。
いわゆる屋敷神で、商売繁盛と火防の神として商家などには建てられたもののひとつです。
なお、千葉銀行の駐車場内なので、車の出入りが頻繁なので注意して歩いてください。
嘉永元年は1848年。
千葉銀行から蔵六餅本舗(木村屋)のほうに、車に気をつけながら渡り、左(東、新町交差点からだと直進)60メートルほど行くとT字路(右前方には佐倉市立美術館がある)があり、ここを右(南)に40メートルほどの十字路の右側の角(北西角)に土蔵のある住宅があります。

佐倉町 新町 上町 南側 山口家住宅。(新町)
説明板には
佐倉市登録有形文化財
山口家住宅
登録年月日 平成21年2月16日
袖蔵 木造、2階建
店蔵 木造、2階建
袖蔵の創建は、明治29年10月で、店蔵は後の増築と考えられる。袖蔵は意匠に優れており、正面に水切りが4段つき、入口の格子の引き戸には、敷居の傾斜により自動的に閉まるくぐり戸があるなど、当時の大工の創意工夫がかいまみられる。両蔵とも土蔵造、屋根桟瓦葺で、防火に配慮して造られている。袖蔵と店蔵とが並ぶかたちは佐倉の町屋の例では貴重である。
※内部は非公開です。
佐倉市教育委員会
とあります。
平成21年は2009年。
新佐倉真佐子には
裏町通りに面した山口屋文房具店が開業したのは明治の終わりごろだが、その以前には中井という質屋が明治時代を通じて商売をしていた。現存する土蔵はその頃のものだそうだ。
とあり、以前は質屋さんだったことが記述されています。
山口家住宅前の十字路の東西の道は、現在「裏町通り」と言われていますが、江戸時代の絵図などでは「宮小路通り」としています。
これは、新町交差点から宮小路通りに進む十字路の南側の道が開通する前までは、佐倉城址間での東西に伸びる直線道路であったのが、昭和18年の新道開通により、通りとしては半ば分断されたため、西側が「宮小路通り」、東側が「裏町通り」となったものと思われます。
昭和18年は1943年。
山口家住宅前の十字路を南(T字路からだと直進)に90メートルほど進むと、道が急に狭くなったあたりから急な坂道になりますが、そのなるあたりの右側の電柱のところに説明板があり
猿が脇の坂
[坂の説明]
市立美術館裏から南へ下る坂です。樹陰が濃い急な坂は、今も当時の雰囲気を伝えます。
とあります。

佐倉町 裏新町 新長屋 と 鏑木町 漆作 猿が脇坂。(裏新町、鏑木町)
猿が脇坂の下り口、右側(西側)から小道が接続するあたりまでが裏新町字新長屋で、そこから下の坂は鏑木町字漆作となり、昔は「猿が坂」(2000年の地図ではこちらになっている)といっていましたが、現在は「猿が脇坂」に統一されたようです。
猿が脇坂の名の由来については、古今佐倉真佐子の中に
扨、此町奉行屋敷の前を東の方へ四五丁行也。新長屋と云長屋の前へ也。左新町の裏也。新長屋一かまいあり。又先に一かまいある。此間道先左の方一間斉院文蔵屋敷ある。此門前少先より細くまがりたる坂ある。乞食猿之こやまゑ出る。
とあり、「乞食猿之こやま」へ出る坂なので「猿が坂」になり、現在の「猿が脇坂」になったものと思われます。
この「乞食猿之こやま」とはどこのことなのか、それと「乞食猿」とは「猿」のことなのかどうかということも、古今佐倉真佐子には書かれていないのではっきりしていませんが、猿を飼っていた人がいて、猿が脇坂の左手(東)の小高いところあたりに住んでいたのではないか、という話もあるようですが、定かではありません。
猿が脇坂上から40メートルほど下った左側に、崖の傾斜に建っている民家があり、その民家の真中から左寄りにお堂があります。

佐倉町 鏑木町 漆作 猿が脇坂 地蔵堂。(鏑木町)
もともとここにあったかどうか定かではありませんが、このお堂の中には地蔵などが10基(一部分かれているようにも思われるので、9基か8基の可能性もある)あります。
入口の左に手洗石があり、お堂の上には額がありますが、文字がほとんど読めません。
中に入り、左側に不明の石造物(地蔵の下部の部分か台座の可能性あり)があり、左側から2つ目は地蔵で正面の右に「寛政四壬子三月」、正面真中に地蔵像、左側から3つ目も地蔵で正面の右に「清順」、正面の真中に地蔵像、正面の左に「寛政六申寅六月五日」とあり、左側から4つ目は三角の石塔で、下部が破損していて何かは不明で正面の右に二文字(判読できず)、正面の真中に梵字で三文字、正面の左に「七月□」とあり、奥の後左は地蔵で銘文は破損もしくは剥離していて判読できず、頭の部分はおそらく一度破損し、その後付けられたものと思われ、造立としてはちぐはぐなものとなっており、奥の前側の中心になっているものは地蔵で正面右に「帰一萬心禅定門」、正面の真中に地蔵像、正面の左に「宝暦二申夭 八月十五日 猿之坂■(居?)去事 小■(松)■(岩?)■(蔵?)墓」とあり、この後にあるものも地蔵で正面の右に「帰一萬心禅定門」、正面の真中に地蔵像、正面の左に「宝暦二申夭 □□□□□」とあり、奥の後右側の柱の後ろにあるものは墓碑(?)と思われ正面右に「□□」、正面の真中に「救舎法師」、正面の左に「施■(主)文左ェ門」とあり、奥の後右端には地蔵らしく頭の部分があり、右側のものは聖観音で正面の右に「天明五乙巳三月日」、正面の真中に聖観音像、正面の左に「出生出羽山形 二番部■(屋?)吉岡■(松か梶か?)平」とあります。
寛政四年は1792年、寛政六年は1794年、宝暦二年は1752年、天明五年1785年。
□は判読できない文字で、■は文字としてあるが判読しにくい文字で()内はおそらく入るであろう文字です。
ふるさとの石仏には
猿が坂の途中にある、一坪ほどの祠の中に、八体ほどの石仏が祭られている。これらの石仏の中にも、都市化の犠牲になって、ここへ移動を余儀なくされたものがあるのではなかろうか。
とあり、一番最後の聖観音像のものについて
堀田藩が山形から佐倉へ移ってきたとき、山形から供をした仲間たちをこの付近に住わせたが、ここで死んだ仲間の霊をともらうために、建立したのがこの観世音だと伝えられている。
と説明しています。
猿が脇坂の地蔵堂からさらに80メートルほど下ると字路になり、右(南西)に100メートルほど行けば旧道(北年貢道)に接続し、左(北東)に行けば袋町・玉家の坂、そして八軒町の坂にそれぞれたどり着きます。
猿が脇坂から山口家住宅の十字路、さらに佐倉道のT字路に戻り、右(東、新町交差点からだと直進)に30メートルほどでT字路になり、T字路右側(南側)にレンガ造りの建物があります。

佐倉町 新町 二番町 南側 旧川崎銀行。(新町)
現在の佐倉市立美術館の玄関として使われているレンガ造り建物が旧川崎銀行の建物で、大正7年に川崎銀行の佐倉支店として新たに建てられ、昭和12年に佐倉町に売却され佐倉町役場となり、昭和29年に佐倉市の誕生とともに佐倉市役所庁舎となり、昭和46年に新庁舎が海隣寺町に出来るまで市役所庁舎と使われていました。
その後、中央公民館として使用され、昭和51年からは市立図書館となり、昭和61年からは新町資料館として使用され、平成3年に県指定有形文化財に指定され、平成6年に市立美術館が完成し美術館のエントランスホールとして使用されるようになり、現在に至っています。
大正7年は1918年、昭和12年は1937年、昭和29年は1954年、昭和46年は1971年、昭和51年は1976年、昭和61年は1986年、平成3年は1991年、平成6年は1994年。
川崎銀行は現在の三菱東京UFJ銀行のことで、似たような事例としては千葉県千葉市中央区の千葉市立美術館も、旧川崎銀行千葉支店の建物エントランスホールとして使用しています。
この川崎銀行について、新佐倉真佐子には
嘉永の昔、この土地には鍵屋善右衛門という瀬戸物を商っていた豪勢な商人がいた。代々この商売で繁昌して来た店であったが、十三代中井善三郎さんのころー 明治五年ごろ川崎銀行(川崎八右衛門)がここに佐倉出張所を開設することになった。そしてその出張所の業務を鍵屋の当主善三郎さんに委託するという形式をとった。そこで頭取の川崎八右衛門と甚三郎さんの間に業務に関する取扱契約が交わされた。
...中略...
こうして川崎銀行佐倉出張所長として、銀行業務を代行して何年か過ぎたわけだが、銀行としても善三郎さんとしても、世の中が刻々と変わって行くのに何時までも委託業務を続けるわけには行かず、明治二十二年十月三十一日に両者協議のうえ委託業務契約を解除し、善三郎さんは家屋敷を川崎銀行に譲渡して東京へ出た。銀行としては初めて独立した支店を佐倉の地に開設することになったわけで、初代の支店長は磯山正臣という人であった。
...以下省略
とあり、いわゆる川崎財閥の創始者である川崎八右衛門が中井善三郎さんの所に出張所の話を持ちかけたことから、ここに川崎銀行が出来たいきさつが書かれています。
嘉永年間は1848~1854年の間、佐倉市史にある嘉永元年の新町絵図には「善三郎(鍵屋・瀬戸物商)」とあります。
旧川崎銀行前のT字路を北に坂を下っていくと京成佐倉駅にたどり着きますが、江戸時代にはここには道はなく、水路がありました。
この水路は、先ほど歩いた山口家住宅の道筋からT字路まで来て、ここから北へ進む現在の道へと進んでいたので、山口家住宅のところの道もまた、江戸時代には水路であったところだったことになります。
旧川崎銀行前のT字路の信号を北側に渡り右(東)へ50メートルほど進むと、左に佐倉市立美術館の駐車場があり、50メートルほど進むと、さらに広く大きな駐車場があります。

佐倉町 鏑木町 新町裏 印旛支庁跡。(鏑木町)
広く大きな駐車場は、印旛支庁の跡地で、平成8年に佐倉市鏑木仲田町にある現在の印旛合同庁舎(北総県民センター)に移り、印旛支庁は平成16年に廃止され、北総県民センターとして業務を統合しています。
その印旛支庁跡の駐車場入口の右20メートルほどのところ、スーパー乃ぐちや跡の駐車場の入口(北側の出入り口)あたりに大木があります。

佐倉町 鏑木町 新町裏 印旛郡役所跡のイヌマキ。(鏑木町)
このイヌマキのところに説明柱があり
佐倉市指定天然記念物
印旛郡役所跡のイヌマキ
昭和四十七年十一月六日指定
平成十九年三月 佐倉市教育委員会
とあります。
昭和四十七年は1972年、平成十九年は2007年。
佐倉細見には
昭和41年(1966)には千葉県の木に指定されました。
樹高12m、目通り幹囲3mの雄株の大樹
とあり、新佐倉真佐子には
この槇は明治十九年にここに初めて郡役所が新築された際、酒々井町から移植したものだという。
とあります。
印旛支庁の前身である印旛郡役所について、新佐倉真佐子には
印旛郡役所の沿革については、廃藩置県後の印東荘といわれた時期は省略するが、明治十一年十一月印旛、下埴生、南相の三郡連合郡役所を新町甚大寺に置いて執務した。同十八年には前記新町四十番地に庁舎新設に着工し翌十九年完成移転した。明治三十年四月郡制が実施され印旛、下埴生の二郡を合併して印旛郡と称し、それまでの三郡連合郡役所は印旛郡役所と改称され、明治四十五年を迎えた。庁舎も腐朽し改築を余儀なくされたため大正元年着工、翌二年五月に完成した。この建物が私達が記憶する印旛郡役所である。なおこの改築工事中は、裏新町佐倉西尋常小学校で執務したものである。この郡役所が昭和十七年七月一日印旛地方事務所となり、昭和三十九年四月一日印旛支庁と改称され現在に至っている。昭和三十五年一月現庁舎に改築された。大正二年に改築された印旛郡役所の正面入口を入ると「人民控所」と大書した大看板がかかっていたという。
とあります。
明治十一年は1878年、明治十八年は1885年、明治十九年は1886年、明治三十年は1897年、明治四十五年は大正元年でもあり1912年、大正二年は1913年、昭和十七年は1942年、昭和三十九年は1964年、昭和三十五年は1960年。
南相とは、南相馬郡(現在の野田市・柏市・我孫子市のあたりで後にこのあたりは東葛飾郡になる)のことで、裏新町佐倉西尋常小学校は、山口家住宅から猿が脇坂に向う道の西側の現在塚本美術館がある南側辺りにありました。
印旛支庁は、現在の駐車場の真中から後(北)にかけてありましたが、印旛郡役所は、イヌマキに近いところにありました。
イヌマキから佐倉市立美術館の駐車場の入口に戻ります。
駐車場の入口の向かい側(佐倉道の南側)に、古風な民家作りの「喫茶KABURAGI」とある店があります。

佐倉町 新町 二番町 南側 喫茶KABURAGI。(新町)
この建物は、もともと文房具屋さんだった建物であったようで、新佐倉真佐子には
旧藩時代の昔、和泉屋林兵衛といわれた当時からの旧家ときいている。明治のころから連隊へ紙・筆・墨などを納めていた御用商人であったが、その文具店も昭和五年前後には店を閉じた。
とあり、現在の建物も旧藩時代からだとすると、少なくとも130年以上(1867年から2010年までとして)になるということになります。
昭和五年は1930年。
佐倉市立美術館の駐車場入口から左(西、美術館からだと直進)へ20メートルほど行くと、スーパー乃ぐちやさん跡の駐車場があり、この駐車場を左(北)に40メートルほど行くと向こうの駐車場(印旛支庁跡)への出入り口があり、ここを左に10メートルほどのところには、先に訪ねたイヌマキがあります。
実は、今歩いたスーパー乃ぐちやさん跡の駐車場の真中あたりには昔、お仮舎道があったところで、麻賀多神社の大祭の時には、ここを神輿が通り、先ほどの出入り口の手前の左側(西側)にお仮舎(御旅所)がありました。
現在の秋の大祭の時には、市立美術館の駐車場を通り、印旛支庁跡の駐車場にお仮舎(御旅所)を造り、ここで一泊するようになっています。
このあたりの図を載せます。

印旛支庁跡・お仮舎道あたりの図。(注意 スーパー乃ぐちやさんは平成23年[2011]6月30日に閉店、平成23年[2011]11月時点では更地になっています。)
お仮舎道について、新佐倉真佐子には
この辺りの最近十年間の変遷はかっての様相を一変してしまった。往年の郵便局舎の下水溝に沿ってお仮舎道路があった。位置はプリマート駐車場のほぼ中央と思われるところで中尾余へ通ずる道路でもあった。毎年自由がツ十四日の祭礼には麻賀多神社を出たおみこしは、鏑木の若衆たちにかつがれて各町内を練ったうえ、この道路の中程に設けられたお仮舎に二泊することになっていた。そして十六日の夜、再びここを出発をして仲町通りから肴町を練り、弥勒から野孤台、そして堀田家参りを済ませて再びこの道を帰り、麻賀多神社本殿に納められて秋祭りが終わることになる。
とあります。
プリマートは、現在のスーパー乃ぐちやさん(スーパー乃ぐちやさんは平成23年[2011]6月30日に閉店、平成23年[2011]11月時点では更地になっています。)のことで、中尾余への道は現在は駐車場(印旛支庁跡)で分断されているようになっていますが、奥の駐車場の入口からさらに40メートルほど直進(北)すると右側(東側)に細い道(ただし一部荒れ放題になっている)が残っており、ここを80メートルほど行くとT字路になり、南北の中尾余の道に接続します。
スーパー乃ぐちやさん跡の駐車場の入口に戻り、左に10メートルほどの調度お店跡の前辺りにT字路があり、ここを南側に渡り、T字路を南に50メートルほど行くと変形4差路があり、その4差路の南東角辺りに井戸があります。

佐倉町 裏新町 新長屋 共同井戸。(裏新町)
この井戸のところには「裏町」という標柱が立っていて、この辺りが「裏町」といわれていることを教えてくれますが、住所表示では「裏新町」であり、江戸時代も「裏新町」としているものですが、通称としての「裏町」のほうが通っているようで、そのため「裏町」という標柱が立てられたものと思われます。
この井戸は、現在は形だけ復活させたもので、この模擬井戸が作られる前は埋められていた状態でした。
佐倉城下の町々には、このような共同井戸が現在も残っていて、所々で見かけることが出来ます。
共同井戸から右(西)に10メートルほどのところ左(南)に道があり、この道の入口右(西)には立ち入り禁止の看板がありますが、ここは中にある神社に用があるので入らせてもらい、20メートルほど進み、ここで右(西)に10メートルほど進むと左(南)の10メートルほど行ったところに鳥居があり、その奥に神社があります。

佐倉町 裏新町 新長屋 稲荷神社。(裏新町)
千葉県下総国印旛郡神社明細帳には
無格社
稲荷神社
一 祭神 蒼稲孁命
一 由緒 寛永十九年佐倉藩主堀田正盛城外家臣ノ邸地一區毎ニ(当時曲輪ト称ス)一社ヲ設置ス
一 社殿間数 間口九尺 奥行貳間半
一 境内坪数 五拾六坪 官有地第一種
とあり、千葉県印旛郡誌には
裏新町字新長涇にあり祭神由緒神官皆前者に仝じ社殿間口九尺奥行二間半境内六十六坪 [官有地第一種] あり信徒二十七人を有し管轄廰まで四里二十七町四十九間三尺なり [神社明細帳]
とあります。
寛永十九年は1642年。
千葉県印旛郡誌にある「裏新町字新長涇」の「涇」は、「屋」の間違いと思われます。
千葉県下総国印旛郡神社明細帳と千葉県印旛郡誌には11社の稲荷神社が載せられていて、この11社の稲荷神社のうち10社に共通しているの事柄は、千葉県下総国印旛郡神社明細帳によると
一 祭神 蒼稲魂命
一 由緒 寛永十九年佐倉藩主堀田正盛城外家臣ノ邸地一區毎ニ(当時曲輪ト称ス)一社ヲ設置ス
とあり、成田街道(佐倉道)その95で出てきた、宮小路町字元大筒の稲荷神社のみ「由緒 不詳」とあります。
堀田正盛は前後ある堀田氏の前堀田氏にあたり、堀田正盛は稲荷(土木と火防の神として)を信仰していたらしく、そのため佐倉城内や、各武家屋敷町などに祀らせたもので、それが現在、各武家屋敷町に残る稲荷神社になるわけです。
当時はもっとあったものと思われますが、時代とともにその数は減っていったようです。
[2010-04-16 訂正と追記] 千葉県下総国印旛郡神社明細帳に載せられている稲荷神社の数を7社と記述していましたが、もう一度確認をしたところ11社ありましたので、この部分を削除し、裏新町字新長屋の稲荷神社の記述を新たに追加しました。
裏新町字新長屋の稲荷神社から、スーパー乃ぐちやさん跡の前のT字路まで戻り、佐倉道を右(東、佐倉市立美術館からだと直進)に進んでいきます。
ということで、今回はここまで。
[2011-12-25 追記] スーパー乃ぐちやさんは平成23年(2011)6月30日に閉店(3月11日の東日本大震災の影響ですでに営業休止していた)したため、スーパー乃ぐちや、もしくはスーパー乃ぐちやさんの駐車場と記載している箇所をスーパー乃ぐちや跡またはスーパー乃ぐちやさん跡、スーパー乃ぐちやさん跡の駐車場と変更しました。平成23年(2011)11月時点では更地になっていますが、新しい建物が建ち次第その建物の名称で記載のし直しをします。
参考文献は、「歴史の道調査報告書 成田街道」、「佐倉市史」、「千葉県下総国印旛郡寺院明細帳」、「千葉県下総国印旛郡神社明細帳」、「千葉県印旛郡誌」、「佐倉市誌資料」、「佐倉の歴史を学ぶ 資料集」、「多輪免喜」、「佐倉風土記」、「佐倉文庫」、「古今佐倉真佐子」、「新佐倉真佐子 -佐倉のお茶の間風土記-」、「総州佐倉御城府内之図」、「ふるさとの石仏」、「佐倉町二十五年誌」、「新道々の記」、「佐倉細見」より。
引用は各文献と各社寺の説明板、地域の説明板より。
今回の地図は「佐倉道6」です。
国土地理院25000分の1「佐倉」より作成しています。