佐倉道 佐倉城址公園佐倉城址三の丸跡その1(千葉県佐倉市城内町)から本丸跡(千葉県佐倉市城内町)まで
三逕亭前にあるT字路のタウンゼント・ハリスの像と堀田正睦の像の間の道を進んでいきます。
右手に空堀を見ながら10メートルほど進むと、左側に細道があり、この細道に沿って南に空堀がありますが、当時の空堀は細道のあるところまで広くありましたが、やはり連隊が佐倉城に来た時期か、戦後にこの場所に道がつくられたものと思われ、この細道は成田街道(佐倉道)その91の三の丸の坂上木戸門から下りていく浅間坂の道に70メートルほど下ったところで合流します。
細道のあるところから30メートルほどで空堀を渡った(空堀と空堀の間には土橋があった)あたりの両側に土塁が残っており、土塁と土塁の間に二の門がありました。

佐倉城址公園 佐倉城跡 二の門跡。(城内町)
説明板には
二の門跡
東面、木造、本瓦葺、二階造り、梁間三間、桁行八間
本丸から大手門にいたる第二の門で「二の御門」と呼ばれていた。
一の門の東方一直線上にあたり、武器庫として使用された。門内は二の丸といい、藩政を執る役所が置かれていた。
とあり、二の門の西から北にかけて二の丸内となります。
二の門跡から20メートルほどの左側に句碑があります。

佐倉城址公園 佐倉城址 二の丸 子規の句碑。(城内町)
これは正岡子規の句碑で、右となりの説明板には
常盤木や冬されまさる城の跡
(「寒山落木」巻三自筆稿)
明治の時代思潮を体現し、俳句・小説・文芸評論・写生画などに活躍した 正岡子規(一八六七-一九〇二)は、一八九四年(明治二十七年)本所-佐倉間に開通した総武鉄道に初乗りして佐倉の地を訪れている。
その時の模様は当時の新聞「日本」(十二月三十日号)に詳しいが、この句はその時詠んだものであり、写生文の創始者として郊外写生の真髄をよく伝えている。
この時すでに子規は病気がちであり、その悲痛も感じられる。
子規は佐倉ゆかりの人間国宝香取秀真、洋画家の浅井忠とも深いつながりがあり、フランス留学から帰国した浅井忠は近くに住んでお互いに敬愛した仲であった。
佐倉にはここの他、国鉄佐倉駅前城南橋付近にも
「霜枯の佐倉見上ぐる野道かな」
の句碑がある。
昭和六十年三月
佐倉市役所 商工観光課
とあります。
昭和六十年は1985年、国鉄佐倉駅は現在のJR佐倉駅のこと。
「本所-佐倉間に開通した総武鉄道」とある「本所」駅は、現在の「錦糸町」駅のことで、明治27年(1894)12月9日に開業しているので、「佐倉」駅もこのときに出来たということで、平成22年(2010)で116年になるわけで、「本所」駅が「錦糸町」駅に名称を変更したのは大正4年(1915)5月1日のことです。
正岡子規が佐倉に関わりがあるということは、余り知られていないようで、説明板などを読んではじめて「そうなのか」と、意外な思いがするのではないかと思います。
子規の句碑から10メートルほどでT字路になり、ここは直進(西)していきますが、左(南)に行く道は台所門へ行く道で、ここは後ほど歩くとして直進していきます。
さて、二の門からの本来の道筋は、二の門跡の右側(北)に残っている小さな土塁(すぐ後は空堀)に沿って30メートルほど進み、今度は左(西)に進んで行くようになっていました。
そして、左(西)に進んでいくあたりの北側には御対面所があった辺りで、後ほど歩いていくところの御蔵米不明御門(不明門跡、現在は説明板などは設置されていない)近くまであった大きな屋敷が御対面所でした。
佐倉市史には
土井氏築城後、利勝の実弟内蔵允が城代としてここに屋敷をもっていた。その後、堀田正信時代の明暦の絵図には記入がないので不明であるが松平乗久の寛文年間の絵図には初めて御対面所となっている。
...中略...
その中に屋形があり城主在邑の時はこの館に住んだ。
...中略...
また城主在府の時は家老外重役が年賀、五節句の祝はここで家中の士からうけた時代もあった。
...中略...
この御対面所も腐朽が著しく修築維持に困難であったので文化二年四月取毀した。そこで城主在邑の折の住居并、年始・五節句の賀祠は本丸の館に代わることとなった。その後「二ノ丸番所」として建て直し公儀の御触書等はここに置いて藩士へ見るように達した。
とあります。
明暦年間は1655~1658年の間、寛文年間は1661~1673年の間、文化二年は1805年。
御対面所が出来たのは、佐倉市史によると松平乗久の代であるのではないかとあり、おおよそこの時期であっているように思われます。
この御対面所の屋形で城主(藩主)が在邑に時に使われたその最初を寛文初年として、最後に使われたのが三ノ丸御殿が完成する寛政十年までとすると138年間使用されたことになります。
安政年間の佐倉城實測圖では「御番所」と記入されています。
安政年間は1854~1860年の間。
二の門を入った屈曲した道筋西側には、大腰掛と呼ばれる腰掛長屋があり、二の門の南から屈曲した道に沿ってL字に北側の御対面所側の二の丸入口までありました。
その腰掛長屋があった位置は、子規の句碑のあるあたりのところに約5メートル幅であったようですが、現在はその遺構の跡もまったくなく、二の門跡から少し斜めになって道が進んでいます。
二の丸の北側は後ほど歩くとして、二の丸南側から本丸へ先に進むことにします。

二の門と一の門あたりの図。
T字路を今度は直進(西)し、左に空堀(かなり深い薬研堀)を見ながら40メートルほど進むと右側にも空堀(こちらもかなり深い薬研堀)が見えてくるあたりから、やや幅が狭くなっている場所が土橋で、ここを20メートルほど進むと両側に四角く囲われた場所があります。

佐倉城址公園 佐倉城址 一の門跡。(城内町、写真は本丸から見たところです)
説明板には
一の門跡
東面、木造、本瓦葺、二階造り、梁間四間、桁行八間
本丸から見てはじめての門で「一の御門」と呼ばれていた。門内は本丸といい、天守閣、銅櫓、角櫓、御殿が置かれ、御殿の前庭には金粉をすりこんだ栗石が敷かれていたと伝えられている。
とあります。
佐倉城本丸にあったものの簡単な配置図を載せます。

佐倉城本丸配置図。
一の門跡から本丸に入り見渡してみると、周囲をぐるっと土塁(高い土手)で囲まれているのがわかります。

佐倉城址公園 佐倉城址 本丸 土塁。(城内町)
右側の土塁のところには説明板があり、ここには
土塁
佐倉城は石垣のない土づくりの城です。城の防衛のための土手を土塁と呼びます。土塁は城を外敵から守るために築かれたもので、土塁を巧みに配置して城の守りとしています。本丸の土塁の上には土塀が存在しました。
とあります。
佐倉城に限らず、千葉県内の城の大多数は土づくりの城です。なぜかというと、千葉の台地はもともと海の中にあった堆積地で石垣に使えるような大きな石がほとんど出てこない土地柄(一部鋸山などでは産出していた)であり、そのために土で縄張りを作るか、微高地や小山、丘、扇状地の先端などを利用して城が築かれています。
さらに谷津が多分に発達しているのも特徴で、複雑な谷津と谷津との間の微高地を使って城を築いているので攻められにくいという利点もあったようです。
一の門跡の右側(北)の土塁のさらに右側の奥には、戦時中使われた防空壕の跡がありますが、現在はここは閉鎖され入れなくなっています。
土塁に上がって左に30メートルほどでもう一度左に曲がり、さらに40メートルほどで右斜めに進みすぐに左に進み、しばらく行ったところで右に曲がったあたりに四角に枠どられた場所があります。

佐倉城址公園 佐倉城址 本丸 銅櫓跡。(城内町)
説明板には
銅櫓跡
木造、銅瓦葺、六間四方、二階造り
この銅櫓は、土井利勝が将軍から拝領し、江戸城吹上庭内より移築したものでもとは三層であって、太田道灌が造ったものといわれている。
とあります。
説明板に載せられている写真を見ると二階建てのものであることがわかりますが、当初は三層(三階建て)であったと説明板にもあるとおりで、移築したときに二層(二階建て)にしたのか、その後にしたのかについては記録にはないようです。
佐倉市史にある徳川実記にあった記述の中に「...利勝はおのが所領佐久良に運送して、これを補修し城内の天守となす」とあり、「天守となす」とあることから、最初の天守はこの銅櫓であったのではなかったのかと思わせるような記述があります。
これについては、言及がされていないので実際のところ、はっきりしていません。
太田道灌が作ったとなると長禄元年(1457年)あたりに造られたものであるということになり、土井利勝が貰い受けたとき(慶長十六年[1611]から元和三年[1617]までの間)はすでに155年から161年ほど経過していたことになり、相当に痛んでいたのではないかと思われるので、この太田道灌が造ったというのは時代的に無理があるようにも思われますが、修繕に継ぐ修繕を施し、江戸城の吹上庭内に移築はしたものの、庭内には少々似合わないために、取り壊そうとしたときに土井利勝が引き取ったというのが真相のような気もします。
それにしても明治六年(1873)の取り壊しまで残っていたということは、太田道灌が造ったということが事実であれば、約417年もの間建ちつづけていたということになります。
吹上庭内は現在の皇居吹上御所(御殿)のあるところです。
銅櫓跡から20メートルほど南の土塁の下に大木があります。

佐倉城址公園 佐倉城址 本丸 夫婦モッコク。(城内町、写真は下の広場から見たところ)
この大木は夫婦モッコクと言われており、説明板には
千葉県指定天然記念物 佐倉城の夫婦モッコク
昭和二十七年十一月三日指定
モッコクは清澄山より東海道以西、四国、九州の近海地に自生する小喬木である。
本樹は、むもともと二株植えられたもののうち、一株が夫婦モッコクとなったものか、三株寄植えしたもののうち二株が癒合してできたものか、明らかでない。樹高十一・六メートル、目通り幹囲二・六メートルで、モッコクとしては巨木である。
佐倉城の築城については、「土井利勝が慶長十六年(一六一一)から元和三年(一六一七)まで七年をかけて完成し規模こそ小さくとも本丸等に種々の庭樹を植え雄大な風格を示した」との伝えがある。
このモッコクは庭樹の一つであったと考えられている。佐倉市松林寺境内にも巨木が所在する。
昭和五十七年二月十日
千葉県教育委員会
佐倉市教育委員会
とあります。
昭和二十七年は1952年、昭和五十七年は1982年。
この夫婦モッコクには、当時の連隊の兵士が書き込んだ落書きが残っており、説明板には
④兵士が文字を掘り込んだモッコク
本丸跡にある県指定天然記念物。幹に「昭和十八年十月」「砲隊」といった落書きが彫られています。
とあり、やや文字は木が生長をしているために薄くなってきているようですが、はっきりと読み取れます。
昭和十八年は1943年。
連隊は昭和19年(1944)のフィリピン戦でほぼ壊滅していますので、この落書きをした兵士もおそらくこのときの戦争で命を落としてしまったのではないかと思われます。
そう考えると、単に落書きとしてみるというよりかは、当時の激戦でこの落書きをしたであろう兵士も出撃が近く、自分が生きていた証として残していたのではないかと思うのですが、この落書きもいずれ木の生長と寿命により消えていくのでしょう。
夫婦モッコクからまた土塁に上り、南に30メートルほどいった左に一段低い四角に囲ったところがあります。

佐倉城址公園 佐倉城址 本丸 天守閣跡。(城内町)
ここは天守閣があったところで、佐倉市史には
一、御天守 七間に八間 床下共五層
城外の角来辺りから見ると三階に見えたので御三階と呼ばれた。天守閣は近世城郭の中核をなすものであるが、戦国時代の望楼としての目的から発展したものであるが近世ではそれらは見られず。佐倉城の天主も武具の倉庫であった。享保年間のことを知る「佐倉真佐子」にも天守閣には武具方役所が置かれたとある。
...中略...
天主閣焼失。武器庫に使用したことは前記の通りであるが、文化十年三月二十八日、盗賊のため天主閣は焼失した(城主は正愛代)。
...以下省略
とあり、盗賊の置き忘れた堤燈の火がもとで出火した事が記述されています。
そして、幕府へは盗賊による火災であるとは届け出なかったため、以降は再建されなかったとあります。
文化十年は1813年。
この天主のことを三重御櫓ともいっていたようで、これは「城外の角来辺りから見ると三階に見えたので御三階と呼ばれた。」と同じで、城外からは三重に見えたことからきているようです。
天守閣跡から土塁を150メートルほどぐるっと進むと土塁が終わる辺りから、下に下りた場所に四角く囲んだところが土塁側と、その逆側にもあります。

佐倉城址公園 佐倉城址 台所門(不明門)跡。(城内町、写真は土塁側から見たところ)
台所門跡には説明板がないので、佐倉市史の記述を見ると
一、御台所門 三間梁に七間 二階作り 畳六畳二間。大破につき文化三年正月、取崩し、木戸門にして置いた。
とあります。
文化三年は1806年。
表示板には「台所門跡(不明門)」とあり、「不明門」とあるのは「あかずのもん」ということで、通常この門は締め切られていた門だったということのようです。
文化三年以降は、木戸門にしていたということは、少し幅なども小さくなっていたのではないかと思われます。
台所門(不明門)跡の東側には土橋(土橋の両側は空堀がある)があり、その先は子規の句碑から南に堀に沿ってくる道がありますが、そこは後ほど歩くとして、台所門(不明門)跡の北側に竹で囲ってある部分があり、ここを30メートルほどいったところに砂利で区画されたところがあります。

佐倉城址公園 佐倉城址 本丸 角櫓(三階櫓)跡。(城内町)
角櫓(三階櫓)跡にも表示板があるのみで説明板がありませんが、佐倉市史によると
二、三階御櫓 六間に七間。角櫓で平常天守閣と同じく武器庫であった。建築は粗末であったようで、平野重久(堀田藩の重臣で幕末から明治初年にかけて活躍し、歴史の考証に詳しい)が物した『佐倉城小記』には、〝......又角櫓と称する櫓は極めて粗悪にして、千葉氏の将門なる根古谷城より引きし所なるよし。柱などに多くの貫の孔などあり......〟と述べている。『匠庁録』によると寛政三年二月に大修理をしているが、辛じて、明治六年に取払った時まであったものであろう。天守閣とこの角櫓の屋根にはシャチホコを載せていた。
...以下省略
とあります。
寛政三年は1791年、明治六年は1873年。
この中で「千葉氏の将門なる根古谷城より引きし所なるよし。」とあるのは、千葉県印旛郡酒々井町にある本佐倉城のことですが、本佐倉城にあったどこの櫓を角櫓として使ったのかは書かれておらず、本佐倉城の城山(Ⅰ郭)にあったものか、それとも向根古谷(Ⅸ郭)と呼ばれる城ノ内にあったものかは定かではありません。
シャシホコについて佐倉市史には
...『古今佐倉真佐子』には、〝高サ八尺余有レ之。木にて作たるしやちほこ也。一とせ大風の時三重の方、しやちほこ吹落ちたる節、其行きて見しに、足をつまだてて、手を一ぱいにあげて、しやちほこの尾を見しに、手よりははるか尾上也。其後承合るに八尺有レ之由。木にてほりたるものにて佐倉の大工共是をつくる也〟と。
とあり、木で出来たシャチホコを載せていたとあり、正保三年頃に描かれた「佐倉城大絵図」にも天守閣と角櫓にシャチホコが描かれています。
正保三年頃は1646年頃のこと。
角櫓(三階櫓)跡から竹で囲っているところと、その後の土塁に沿って80メートルほど進んでいくと一の門跡の戻り、本丸の中を一周したことになります。
さて、本丸の中は現在広場になっていますが、その中心部には御屋形があり、佐倉市史には
一、御屋形。 城主在邑中の年始、五節句に、城主在府の時は家老・城代・年寄が代って家臣から賀礼をうける館である。
...以下省略
とあり、このほかには徳川将軍の御成、幕府の要人などが佐倉城に来た場合の寝所として使用されたようです。
この御屋形の北側で銅櫓と廊下で続いていたのが「佐倉城本丸内建物配置」の図で確認できます。
このほかには、天守閣と大所門の直線上、天守閣跡から30メートルほどのところに不動堂があったようで、「佐倉城本丸内建物配置」の図にと稲葉氏時代の絵図にも「天満」と記されています。
不動堂について佐倉市史には
一、不動堂。宝暦三年十二月二十七日安置(堀田正亮就封の八年目)。位置は天守閣の南八間のところが囲の北端で天守の西側の延長線上の中央が不動堂の中心にあたる。四間四方の囲があり入口は南側である。
とあります。
宝暦三年は1753年。
佐倉城が廃城になった後は、不動堂がどうなったのかは記述されていないのでわかっていません。
不動堂跡からさらに30メートルほど台所門側には井戸があったようで、佐倉市史には
一、井戸壱ヶ所、寛延二年十月十三日出来(年寄部屋日記)、位置は本丸屋形台所土間より北方え二間の位置、不動堂の真南。
とあります。
井戸の跡は現在はまったく確認できませんが、本丸広場の南側の台所門跡寄りのどこかにあったわけですが、公園化するときに整地を施しているので、ちょっとした窪みがあれば、その辺りが井戸跡であるかも知れません。
佐倉城本丸配置図の中に、薄黒色で示しているところがありますが、これは中世に造られていた空堀の跡があったところで、一の門南の空堀から銅櫓前の土塁下まであったことが、総州佐倉城(佐倉城本丸址発掘調査概報)にあり、この空堀については
後詰は今回調査で地表下に眠っていた鹿島城の核心が姿を表わしました。諸般のことから充分な発掘調査による解明は出来なかったが概見しての大要は、当時の山容を活かし凹凸の多い姿が残りこれに小刻みの空堀を設けた等であります。慶長末の本丸工事はこの上に大量の土を入れて平らにしました。この土は本丸周辺の空堀を掘った際の土を運んだものでしょう。
とあり、土井利勝がここに城を築く前の鹿島城の工事の途中のままであった空堀が存在していたことが、発掘で確認されたということなのですが、発見されたから堀は、一の門の南側の空堀と続いているので、新しく掘られたのは北側の空堀ということと思われ、鹿島城時代の本丸(予定地だったところ)は現在より一回り小さなものであったことがわかります。
そして、本丸に入るための一の門は、現在の台所門が鹿島城の一の門になるはずであったと考えられます。
後詰とは本丸のことです。
台所門(不明門)跡まで戻って、東に進んでいきます。
ということで、今回はここまで。
参考文献は、「歴史の道調査報告書 成田街道」、「佐倉市史」、「千葉県印旛郡誌」、「佐倉市誌資料」、「多輪免喜」、「佐倉風土記」、「佐倉文庫」、「古今佐倉真佐子」、「佐倉城跡発掘調査報告書(国立歴史民俗博物館発行)」、「佐倉城の歴史」、「総州佐倉城(佐倉城本丸発掘調査概報)」、「佐倉城大絵図」、「総州佐倉御城府内之図」より。
引用は各文献と各社寺の説明板、地域の説明板より。
今回の地図は「佐倉道6」です。
国土地理院25000分の1「佐倉」より作成しています。
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