佐倉道 麻賀多神社(千葉県佐倉市鏑木町)から佐倉城址公園佐倉城址三の丸跡その1(千葉県佐倉市城内町)まで
麻賀多神社の鳥居から階段を下り、今度は右(西、新町交差点からだと直進)に10メートルほどのところにT字路があり、このT字路の南東角(左手前の角)に石碑があります。

佐倉町 宮小路町 宮小路 佐倉養生所跡の碑。(宮小路町)
石碑には
佐倉藩医佐藤尚中が、慶応三年、長崎についで西洋式病院佐倉養生所をこの地に設立した。
佐倉養生所では、全国に先駆けて漢方を廃止し、藩の調薬の管理を全て行い、医政を統括した。
とあります。
慶応三年は1867年。
現在は何もありませんが、佐倉における西洋式の病院がここにありました。
T字路を直進するほうが宮小路で、このまま進むと佐倉城の大手門にたどり着き、左(南)に進むのは北年貢道(佐倉道)で、佐倉城と千葉の寒川湊(千葉県千葉市中央区寒川町)とを結ぶもう一つの佐倉道で、四街道(千葉県四街道市大日・四街道)を経由するやや北寄りの道で、もう一つ南寄りの馬渡(千葉県佐倉市馬渡)と若松(千葉県千葉市若葉区若松町、現在の国道51号沿い)から寒川湊とを結ぶ道があり、この二つの道は千葉の道場(千葉県千葉市中央区道場)で合流し、千葉市広小路交差点(千葉県千葉市中央区本町)で房総往還(木更津道もしくは上総道ともいう)と合流し、亥鼻城跡前の大和橋からJR本千葉駅を過ぎた旧君待橋の碑あたりから港町の厳島神社(千葉県千葉市中央区港町)前から寒川神社(千葉県千葉市中央区寒川町)の前へでて寒川湊へ続いていました。
この北年貢道と南年貢道は、寒川湊から佐倉城に物資を運んだり、佐倉藩各地からの年貢米などを納めたりするために使われていた道であり、戦の時に海を経由して兵を送り出すための軍用の道としても重要な道で、その藩の生命線とでもいえそうな道がこのT字路から始まっていたわけです。
T字路から100メートルほど進んだところにT字路がり、右(北)へ進む坂道があり、坂道を下っていくと谷のようなところ辺りが味噌部屋と呼ばれているところで、字名も味噌部屋になっています。
新佐倉真佐子には
味噌部屋というところは南北の崖に挟まれた谷間で日当たりの悪い薄暗い土地で、その昔食糧品の貯蔵にはよかったかも知れないが、市街地に出るには不便なところであった。しかし静かで勉強するには適していたらしく学者が大勢出たところでもあった。
とあり、安政年間に書かれた佐倉城實測圖には、道の北側に沿って6つの蔵が描かれており、これが食料(みそとか塩とか、その他の物も含めて)を貯蔵するための蔵であったようです。
安政年間は1854~1860年の間。
T字路を右(北)へ130メートルほど坂を下ると、今度は左(西)に坂道になって下っていきますが、その左(西)に曲がったところ、左側(南側)の4軒目と5軒目の間(曲がったところから50メートルほどのところ)に細い道があり、5軒目の民家の裏に見た目5軒目の庭のようなところがありますが、ここに神社があります。

佐倉町 宮小路町 味噌部屋 稲荷神社。(宮小路町)
千葉県下総国印旛郡神社明細帳には
無各社
稲荷神社
一 祭神 蒼稲孁命
一 由緒 寛永十九年佐倉藩主堀田正盛城外家臣ノ邸地一區毎ニ(当時曲輪ト称ス)一社ヲ設置ス
一 社殿間数 間口壱間 奥行九尺
一 境内坪数 廿壱坪 官有地第一種
とあり、千葉県印旛郡にも同様の記述があるので省略しました。
寛永十九年は1642年。
武家屋敷町に建てられた稲荷神社で、4軒目と5軒目の細い道と稲荷神社の敷地は、昔から民家の敷地と区分けされているようで、5軒目の民家の方の庭ではないので、神社を見に行ったりお参りに行ったりは自由ですが、ちょうど民家の方の窓側になっているので、静かに見学されたほうがよいでしょう。
[2010-04-12 追記] 味噌部屋の稲荷神社がわかりましたので追記しました。
稲荷神社からT字路に戻ります。
味噌部屋への道があるT字路を右(西、麻賀多神社からだと直進)に30メートルほどいった左に、宮小路町の石柱があり、その近くに古い建物がありますが、ここは現在、印旛郡市広域市町村圏事務組合水道企画部があるところで、明治十四年に開設された浜野病院がこの場所にあり、順天堂病院と共に親しまれていました。
明治十四年は1881年。
浜野病院跡から80メートルほど進むと、左に市民体育館があり、ここは温故堂(成徳書院)があったところです。
安政四年に佐倉学問所(佐倉藩藩校)、文化二年に温故堂と改称し、天保七年に「成徳書院」と改称して明治維新を迎えました。
現在は建物もないのですが、この温故堂「成徳書院」の流を汲むのが県立佐倉高校で、明治四十三年に市民体育館のある宮小路町から現在の鍋山町に移転をし現在に至っています。
県立佐倉高校には、堀田正倫が寄贈した建物が残っており、佐倉高等学校記念館がそうで、ほかに地域交流館には「ハルマ和解」などがあり、長嶋茂雄氏が卒業した高校として有名です。
安政四年は1792年、文化二年は1805年、天保七年は1836年、明治四十三年は1910年。
温故堂(成徳書院)跡のあった市民体育館から先110メートルほど道は直進していますが、これは佐倉に連隊が来たときに真っ直ぐにされたもので、連隊が来る前は屈曲していました。
比較図を載せます。

佐倉城大手門跡辺りの図。
当時は図にある黄緑線のように温故堂(成徳書院)からすぐに左に曲がり、60メートルほどで右に曲がり、30メートルほどでもう一度右に曲がり、70メートルほど進んで左に曲がり、30メートルほどで大手門(追手門)にでました。
ちょうど細い道が残ってこのルートがありますが(途中まで)、このルートの内側には空堀があり、現在の佐倉中学校の東端にある崖になっているところがありますが、ここまで空堀がありました。
さらに、細道と大手門(追手門)までのところにも空堀があり、平成22年(2010)現在空地(市営住宅跡地、一部発掘調査中)がある南側の崖までこの空堀が続いていました。
温故堂(成徳書院)跡から110メートルほど進むと、右手に佐倉中学校の正門があり、その逆側(温故堂からだと左)細道の入口の南西角に大手門跡の碑があります。

佐倉町 田町 鹿嶋町 佐倉城 大手門跡。(城内町)
大手門跡の碑から佐倉中学校側にかけて大手門があったわけで、麻賀多神社前からここまでが宮小路で、大手門から先が広小路と呼ばれ、佐倉城内になります。
大手門跡の碑横にある説明板には
大手門跡(追手門)
大手門は惣曲輪の表門。この門の西側には広小路、中下町、大下町といった武家屋敷地が整備され、三の丸御殿、会所なども置かれていた。中央に広小路の通りと重臣屋敷の塀が写されている。
とあります。
現在、佐倉城址公園の表口として使われている田町門(国立歴史民俗博物館口)は、佐倉城の裏口ともいうべきところで、もともとの表口はこちらなのですが、今は駐車場への乗り入れ口的感があります。
大手門跡から150メートルほど進んだところにT字路があり、右(北)の道の奥(50メートル行った辺り)の現在佐倉中学校の敷地内辺りが天神曲輪で、武家屋敷や蔵などがあり、北の端には天神社がありました。
この天神社は成田街道(佐倉道)その88で訪れた愛宕神社に合祀されている天神社で、佐倉市史には
天神社。椎木曲輪と裏広小路を結ぶ七曲の天神坂に向って右から大乗院・天神社・稲荷社がならんでいた。この天神社は土井氏の築城当時は椎木曲輪の秋葉社の南のところにあったものを後に移転したもののようである。
とあり、愛宕神社に合祀されている稲荷神社と共にこの天神曲輪にあったことが書かれています。
大乗院は現在は廃寺になっていて痕跡は残っていませんが、真言宗の寺であったことが佐倉市史にあり、最近の遺跡発掘調査では屋敷の遺構と共に生活用品などが出土しています。
佐倉市史には、「...天保七年の学制改革後は大乗院の南に西塾を置いた。」とかかれており、このあたりに藩の学問所があり、佐倉城實測圖の中にも書き込みがされています。
このT字の北西側の現在くらしの植物苑の約3分の2の部分は、会所が置かれていたところで、残りの3分の1のくらしの植物苑の入口と駐車場側は武家屋敷があったところです。
この会所とは外部などの人との話し合い、その他雑用のために使われたところ(たとえば商人との折衝など)で、現在でいうところの市役所の窓口みたいなところであったところで、この会所の逆側(南)には御用屋敷があり、こちらは佐倉藩の藩政などの用向きに使われたところです。
くらしの植物苑の逆側(南)にある現在駐車場と自由広場になっているところは、三ノ丸御殿があったところで、佐倉市史には
三ノ丸御殿 二ノ丸にあった対面所が殿様在邑中の住居であったが、前記のようにこの建物は腐朽が甚だしかったので、寛政十一年八月、三ノ丸御殿を新設し在邑中はここを住居した。
とあり、藩主が江戸の藩邸から国もとへ戻ってきたときにはここで暮らしていたと所になります。
ただし、藩主が江戸の藩邸にいる場合には、家老や奉行などが藩政を議論したりしていたようです。
寛政十一年は1799年。
くらしの植物苑の左端(西角)の辺りに現在は車止めがありますが、その車止めのある辺りの自由広場側には佐倉城址の説明板があり
佐倉城址
佐倉城は印旛沼へ注ぐ鹿島川、高崎川を外堀とし、台地上に土塁を加えて築城した平山城で、石を用いていない。
戦国時代のなかごろ、千葉氏の一族鹿島幹胤によって初めて築かれたと伝えられ、別に鹿島山城とも呼ばれた。千葉邦胤もここに本城を移そうとしたがなかばにして果さず、のちに徳川家康がその要害に着目し、土井利勝に命じ慶長16年(1611)正月から7年間をついやし、元和3年(1618)ごろに完成した。以来、徳川幕府では江戸のまもりとして老中格の譜代の諸侯九氏を封じた。
延享3年(1746)山形から堀田氏が再び移封し、六世126年間11万石を領有して明治維新に及んだが、明治6年(1873)第一軍管第二師営の営所が置かれ城の施設はことごとくこわされた。
その後、歩兵第二連隊、歩兵第五十七連隊などの兵営となった。
とあり、絵図も提示されています。
説明板にある「明治6年(1873)第一軍管第二師営の営所が置かれ城の施設はことごとくこわされた。」とあるように、大手門から三ノ丸御殿までのところにある建物(現在の佐倉中学校と佐倉東高校の敷地にあったものも)は全て取り壊され、練兵場となり、兵士の訓練などが行われていました。
この説明板より100メートルほど南のやや西よりのところ(梅林がある辺りの空堀の近く)には佐倉兵営の跡の石碑がひっそりとあります。
佐倉城址公園辺りの図を載せます。

佐倉城址公園付近の図。
くらしの植物苑の西側に下りていく道がありますが、ここは元は空堀だったところ(道の途中左に空堀があり説明板がある)で、トイレのある辺りから下りの途中10メートルほどのところまでは、平地になっていてその後は緩やかな崖になっていましたが、ここも連隊が来たときに切り通し道を作って現在のようになったところで、この道を下っていけば、姥ヶ池のあるところに出ます。
佐倉城址の説明板のところから西に70メートルほど進むと左に大堀(空堀)を見ながら道は南に進み、30メートルほどで西と南に道(T字路)が分かれますが、本来の道筋は南に進む道なので直進していき、50メートルほど進むと右側に三の門跡の説明板があります。

佐倉城址公園 佐倉城址 三の門跡。(城内町)
説明板には
三の門跡
北面、木造、本瓦葺、二階造り、梁間三間、桁行六間
この門は御作事の諸道具を入れた倉庫として使われ、門内は三の丸といい、家老屋敷が置かれていた。
とあります。
説明板の後ろ側(説明板よりも北側の部分)は少し低くなっていますが、実はここも空堀の一部で先ほどのT字路から西に進んでいる道は連隊が来たときに空堀を埋め立てて直進する道を作ったために、消滅していますが、道を高くしていたために空堀の一部の部分が低くなっています。
佐倉城跡発掘調査報告書(国立歴史民俗博物館発行)には
...三の門の前にある堀で仕切って道をL字状に曲げた部分も馬出しであった。すぐ脇には空堀で守った曲輪があって、高い土塁から馬出しを見下ろした。ここが味方が出撃するときは援護射撃を行い、敵が来たときには正面と横から防射した大手道防御の要であった。馬出し背後の堀を挟んだ城内側にある土塁は、旧地形を人工的に大きく改変した部分である。
本来の地形は、姥ヶ池につづく谷へと落ち込んでいく低いところであったが、城内-城外関係を矛盾なく完結させるため、もう低くなってしまう部分にも関わらず、人工的に土盛りを行い地形を高くしたのであった。佐倉城の隠れた見所である。現状ではこの出入り口の馬出しを破壊して城址公園に入る直線道がつき、堀も埋まり、馬出しの土塁も低くなっているので、よほど注意しないと、こうした縄張りのくふうに気が付くことはない。公園整備が結果として遺構の破壊を進めており将来の整備では、ぜひ復元が待たれるところである。
とあります。
三の門跡に来る前にあった、西と南に道(T字路)が分かれるところを西に40メートルほど進んだあたり、右(北)に細い道が分かれているT字路の左(南)の大木付近に説明板と道標があります。

佐倉城址公園 佐倉城址 車道の碑。(城内町)
説明板には
⑤車道の碑
大正9年建立。兵営と大手門とを直通させる新道の完成記念碑。連隊への物資搬入のため、佐倉城時代の不便を解消しました。
とあります。
大正9年は1920年。
碑の正面上部に「車道」とあり、下部には軍の人の所属と人名、右面と左面にも人名が多数あります。
佐倉城跡発掘調査報告書などにもありますが、もともとここには道はなく、土塁と空堀があったわけで、車道の碑の北にある細い道も、この空堀の部分に道を作って姥ヶ池や梅林などに下りられるようにしたものです。
細い道の左(西)に平地がありますが、「すぐ脇には空堀で守った曲輪があって、高い土塁から馬出しを見下ろした。ここが味方が出撃するときは援護射撃を行い、敵が来たときには正面と横から防射した大手道防御の要であった。」と佐倉城跡発掘調査報告書にある曲輪です。
元に戻って、三の門跡から道なりに50メートルほど進んだところで道は右に曲がり、90メートルほど道なりに進んだところでY字路になりますが、このY字路までの南側は武家屋敷があったところで、武家屋敷の南西側の崖際には浅間社がありましたが、連隊が佐倉城址に来たときに佐倉市鏑木町の佐倉ゆうゆうえの里の隣にあるさくら荘(老人施設)のところに移され、浅間社のあった基壇(塚上のところで、現在は見晴台のようになっている部分)のみ残っています。
Y字路の左に細い道があり、この細道の入口に坂上木戸門があり、この木戸からの坂は浅間坂といわれ、もともとは鷹匠町へ下りる道でしたが、現在は下にある南側の出丸跡へ続いています。
途中で道が改変(おそらく戦後)されていて、細い道を下りて一番初めの右に曲がるあたりで、当時の道筋は真っ直ぐ下り道となり(実際にはもう一つ細い道があり、この道は左側に上り浅間社へ続いていた)、途中で左に曲輪の高低差を使って下りていき、出丸跡の東の大濠(水堀)の城内堤(桜並木の続く土手道)の東側約70メートルあたりに続いていました。
その場所の少し上辺りに、坂下門があり、門の手前では屈曲していて鍵状になっいてたようですが、現在はその場所辺りに建物が建っていて、坂下門の遺構は残っていません。
Y字路を右に40メートルほど進むと右に建物があります。

佐倉城址公園 佐倉城址 三逕亭。
この建物は茶室で三逕亭といい、元は東京都港区赤坂の乃木神社にあり、京都大徳寺の孤蓬庵の重要文化財茶席を模したものといわれ、茶室のある場所に乃木会館(結婚式場)が建てられることになり、佐倉市がこの茶室の譲渡を受けて国立歴史民俗博物館と佐倉城址公園の整備が整った後、この場所に移築されたものです。
乃木神社は東京都港区赤坂にあり、二〇三高地(日露戦争)で有名な乃木希典将軍を祀った神社で、神社の隣には旧宅があります。
佐倉市のホームページの三逕亭のところには
三逕就荒 松菊猶存
これは陶淵明の「帰去来の辞」の一部です。淵明は東晋末期の官吏で二君に仕えるを潔しとせず、官を辞して郷里に帰りました。
「懐かしい吾が家の門を入ると、家族や一門の者たちが迎えた。庭内にある三つの逕(みち)は荒れているが、松は操の緑をたたえ、菊の花は燦として露霜の中に咲き誇っていた。之らは世の浮沈栄枯盛衰に関わりなく誠を表している」という意味です。
丁度佐倉城三の丸のこの地は、二の丸本丸への逕と、椎ノ木曲輪へのゆく逕と、本丸下を巡る逕の三逕が合する所でもあります。
と、三逕亭の名の由来が説明されています。
三逕亭の後ろ側(東側)には空堀がありましたが、この部分も埋められて現在のような少し窪んだ広場となっていて、逆側(南側)には土塁が少し残っていますが、ここと空堀があった少し窪んだ広場との間には土橋がありました。
三逕亭の東側から20メートルほどにT字路があり、このT字路の直進(西)に進む細い道の入口の両側には銅像があり、左側にはタウンゼント・ハリスの像、右側には堀田正睦の像があります。
この二人は日米修好通商条約を結ぶために交渉した日米の重要人物で、安政5年に日米で結ばれました(結んだのは井伊直弼)が、この条約は日本には条件の悪い不平等な条約として有名です。
銅像の下には説明書きもあるので一読してみるといいでしょう。
安政5年は1858年。
T字路の直進する道と右(北)に進む道の間には大きな空堀が南北にあり、北の空堀は二の丸外側をぐるっと回り西側の出丸の横まで続いていましたが、現在は途中の部分(西側)が埋められてしまって消滅しています。
南の空堀は残っており、この空堀の東側に沿って現在は道が作られており(出丸跡・帯曲輪への案内板がある)、ここを下りていくとY字路から下りてきた道と合流し、南側の出丸跡に出ますが、途中からは帯曲輪に出る道もあります。
三逕亭の北側にトイレがあり、車道が合流するあたりまでが三の丸の南側で、三逕亭とトイレまでのところには小姓長屋がありました。
トイレのあるところから北に進むと三ノ丸の北側の部分がありますが、そこは後ほど訪ねるとして、T字路まで一旦戻り西に進みます。
ということで、今回はここまで。
[2010-02-20 修正と追加] 天神曲輪、三ノ丸御殿、三の丸の記述に修正と追加をしました。
参考文献は、「歴史の道調査報告書 成田街道」、「佐倉市史」、「千葉県下総国印旛郡寺院明細帳」、「千葉県下総国印旛郡神社明細帳」、「千葉県神社名鑑」、「千葉県印旛郡誌」、「佐倉市誌資料」、「多輪免喜」、「佐倉風土記」、「佐倉文庫」、「ふるさとの石仏」、「古今佐倉真佐子」、「新佐倉真佐子 佐倉のお茶の間風土記」、「北総名勝 佐倉誌全」、「佐倉の歴史を学ぶ資料集」、「佐倉細見」、「千葉城郭研究」、「佐倉市史研究」、「佐倉城跡発掘調査報告書(国立歴史民俗博物館発行)」、「佐倉城の歴史」、「千葉県佐倉市佐倉城跡(佐倉中学校第3~6次調査)」、「佐倉城跡(公営住宅跡第1次)・佐倉城跡(根古谷第1次)」、「千葉県佐倉市佐倉城跡(天神曲輪)」、「千葉県佐倉市佐倉城跡(市立佐倉中学校給食室建設に伴う埋蔵文化財調査)」より。
引用は各文献と各社寺の説明板、地域の説明板より。
「三逕亭」については、佐倉市のホームページにある記述を掲載しています。
今回の地図は「佐倉道6」です。
国土地理院25000分の1「佐倉」より作成しています。
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