佐倉道 歴博入口(歴史民俗博物館入口)交差点(千葉県佐倉市田町)から佐倉市役所前(千葉県佐倉市海隣寺町)まで

歴博入口(歴史民俗博物館入口)交差点から堀に沿って東に120メートルほどの堀が南に向った先にT字路があり、このT字路の北側には目印になるお店があります。

佐倉町 田町 片町 巴屋菓子舗

佐倉町 田町 片町 巴屋菓子舗。(田町)

赤い屋根の巴屋菓子舗の「菓」がなくなっているのが特徴のお菓子屋さんで、中をのぞいてみると、大きなビンに沢山の煎餅が入れられて並んでいる、昔なつかしのお煎餅屋さんがあり、ここが曲がる目印になります。
このT字路は、新道(国道296号)が出来るまでは、L字路で桝形(鍵の字)になっていて、巴屋菓子舗の右側(東)の角(現在、道路のど真ん中辺り)には、上州屋という宿屋があり、新佐倉真佐子には

昭和の初めごろの辺りから今の海隣寺坂の新道が出来たのだが、このとき山村さんの手前にある青木要吉さんという家のあたりから道路敷地に若干かかったようだが、この新道の敷地になった巴屋の前、旧道の角あたりに上州屋という二階建造りの古い宿屋があった。大正十年ごろに火事で全焼してから跡地は空地となっていた。この上州屋という宿屋は当世流にいうならば、割烹旅館ということになろうが、仲々客筋もよく繁昌した店だといわれている。...

とあり、田町の旧道筋からこのあたりまでも、いろいろ商店や宿屋などが建ち並んでいたことが伺われます。

昭和の初めごろは1926年頃のこと、大正十年ごろは1921年ごろのこと。

このあたりの図を載せます。

海隣寺坂あたりの図

海隣寺坂あたりの図。


巴屋菓子舗が有るT字路を右(南)に曲がり40メートルほどいくと変形T字路があり、このT字路の南西角辺り(右方向両町橋の見える方、現在重願寺の看板がある辺り)には高札場がありました。
このT字路を左(東)に曲がるとすぐ右に茅葺の民家があります。

佐倉町 田町 両町 古民家

佐倉町 田町 両町 古民家。(田町)

個人宅なのですが、茅葺の屋根が当時の雰囲気をかもし出しています。
この辺りも数年前までは、このような感じの古民家がいくつかありましたが、現在茅葺屋根の民家はこの一軒となり、とても貴重な存在といえるでしょう。

古民家から東に120メートルほど進むと右に小島屋商店があります。

小島屋商店のすぐ先右(南)にある細い道を進み愛宕神社に寄り道をします。
細道を30メートルほど進むとY字路があり、ここを左に20メートルほど進むと右手に田町会館があるY字路があり、左の道を進むとすぐに鳥居があります。

佐倉町 海隣寺町 鍛治作 愛宕神社入口

佐倉町 海隣寺町 鍛治作 愛宕神社入口。(海隣寺町)

鳥居の手前、田町会館の所までは田町のうちですが、鳥居の所からは海隣寺町の内になります。
鳥居から坂道を進むと階段があり、あがると踊場があり、ここの右に灯籠、奥に手水舎があり、左側の階段の両脇には狛犬がありますが、両方共に首が無く、よくよく見ないとなんだか判りません。
なぜここにあるのかがわかりませんが、少し小型の物なのでもしかするとお稲荷さんの狐なのかもしれません。
ここから階段を上がると鳥居があり、その奥に愛宕神社があります。

佐倉町 海隣寺町 鍛治作 愛宕神社

佐倉町 海隣寺町 鍛治作 愛宕神社。(海隣寺町)

千葉県下総国印旛郡神社明細には

村社
愛宕神社
一 祭神 火彦孁命
一 由緒 不詳
一 社殿間数 間口貳間 奥行三間
一 境内坪数 百九拾貳坪 官有地第一種
一 境内神社 三社
五社神社
祭神 大日賣産知命 誉田別命 武甕槌命 香我脊雄命 泰ノ宇豆麻佐
由緒 不詳
建物 間口三間 奥行三間半
稲荷神社
祭神 蒼稲孁命
由緒 不詳
建物 方三尺
疱瘡神社
祭神 少奈毘古命
由緒 不詳
建物 方三尺

とあり、千葉県印旛郡誌には

海隣寺町鍛治作にあり火彦孁命を祭る元田町字舊城内にありしが明治十二年陸軍省用地となりしを以て移轉す社殿間口二間奥行三間境内百九十二坪 [官有地第一種] にして三社を祭る即
一、五社神社 大日賣産知命譽田別命武甕槌命香我脊雄命泰ノ宇豆麻佐を祭る由緒不詳建物間口三間奥行三間半
二、稲荷神社 蒼稲魂命を祭る由緒不詳建物方三尺
三、疱瘡神社 少奈毘古命を祭る由緒不詳建物方三尺

...中略...

愛宕神社曁五社在佐倉田町南五社所祭天照大神八幡大神鹿島大神妙見客人宮凡五座舊在郭内置營之時遷之于此 新撰佐倉風土記

とあり、千葉県神社名鑑には

祭神 火具土命(かぐつちのみこと)
例祭日 一〇月一五日
主要建物 本殿・瓦葺切妻造六坪
境内坪数 一九二坪
氏子 三五〇戸 宮司 ****
由緒沿革 かつて佐倉城内に奉斎されていたが、明治一二年、城地が陸軍用地になったため現在地に奉還した。歴代佐倉城主の崇敬厚く、堀田正愛公の掛軸が社宝として蔵される。

とあります。

明治十二年は1879年。

この愛宕神社は田町の鎮守として祀られているので、本来、田町町内になければなりませんが、千葉県下総国印旛郡神社明細と千葉県印旛郡誌、さらに佐倉誌のどれにも「海隣寺町字鍛治作」とあり、「田町」とはありません。
ただし、千葉県下総国印旛郡神社明細帳には朱線で訂正がされており、「千葉縣管下々總國印旛郡佐倉田町字鹿嶋町」とあるところの「佐倉田町字鹿嶋町」のところに朱線と墨潰しがされており、その右となりに「佐倉町佐倉海隣寺字鍛治作」と書き直しがされており、さらに下に「明治十二年陸軍省用地ニナリシヲ以移轉ス」とあり、神社明細帳の編纂はちょうど明治十二年から開始されているので、提出後すぐに書き直しがされたようです。
「佐倉町字鹿嶋町」は佐倉城の城域全体がそうで、俗に「御城内」と呼ばれていました。

愛宕神社の元の位置は、歴史民俗博物館入口の門から、坂を上がると左側に説明板のある広場があります。
その広場の左側の堀よりの部分が愛宕神社があったところになり、この場所の奥に基壇が残されています。
この愛宕神社跡の右側、歴史民俗博物館の駐車場側の広場が円勝寺(古図では円正寺)があったところになります。

佐倉城址にある説明板の図を載せます。

佐倉城址説明板の愛宕神社のあった辺りの図

佐倉城址説明板の愛宕神社のあった辺りの図。

愛宕神社の拝殿には、大きな奉納絵額(絵馬)があり、信仰の厚さが伺われます。
鳥居の右側(拝殿の右側のところ)には神社があり、ここが何の神社なのかは何も書かれていないのですぐにはわかりませんが、灯籠には紋があり、そこには七曜の紋があるので、妙見菩薩の信仰者がよく家紋にするものであるところから、ここには妙見さんが祀られていることがわかり、ここが五社神社であるということがこのことにより判ります。
もし九曜の紋があれば、千葉氏一族の紋でもあり、星神社など妙見菩薩を祀る神社だということがもっと明確にわかりますが、ここには他の神社も合祀されているので七曜紋で明示しているものと考えられます。
ただし、この紋が梅鉢もしくは星梅紋をあらわしているのならば、天神社ということになるのですが、燈籠の文様は周りが6つの丸の形であるので七曜であろうと思われますが、確かなことは確認していません。
しかし、五社神社は愛宕神社に合祀されていると記述にあるので、拝殿内にある6つの柱のうち5つが五社神社にあったものなのだとすれば、ここは天神社ということになります。
天神社と稲荷神社とは別々に祀られていますが、稲荷神社はもともと天神社の境内にあり、天神社と共に愛宕神社に移され、天神社はここに祀られた時に五社神社と合祀され、その後、五社神社が拝殿内に移された、とも考えられます。

愛宕神社あたりの図を載せます。

愛宕神社あたりの図

愛宕神社あたりの図。

愛宕神社の拝殿の左にもう一社神社があり、こちらは稲荷神社ということになりますが、ここにも何神社と言うものがなくよくよく観察しないとわかりません。

その稲荷神社の左に灯籠があり、その先に細い道があり、細道の奥右手には石造りの五重塔があり、左手には祠が一社と覆屋の中に多数の石造物があるところがあります。

佐倉町 海隣寺町 鍛治作 愛宕神社 覆屋と小祠

佐倉町 海隣寺町 鍛治作 愛宕神社 覆屋と小祠。(海隣寺町)

右側の小祠はおそらく疱瘡神社と思われます(愛宕神社以外、表札がないのでよくよく観察するか、文献などで確認しないとわかりづらい)。
左側の覆屋には、12基の石造物があり、向って右側から墓碑と思われ「■(赦か?)應童女」とあり、右側から2つ目も墓碑で「□□□□」とあり、右側から3つ目は庚申塔で上部に梵字、右に「寛文七庚戌夭」、右2つ目に「爲欣求成■(就)」、真中に梵字で6文字、左2つ目に「玉宝□□敬白」、左に「□□□□■(覚か?)」、下部に三猿があり、右側から4つ目も庚申塔で右に文字があるが読めず、真中に青面金剛像、左に「■■(延宝か?)三□」、下部に二猿があり、奥側右は地蔵で右に「延宝二年甲寅八月□□日當田■(左か町か?)寺」、真中に地蔵像、左に文字があるが読めずで、奥側真中は聖観音で文字などは読めず、奥側左は子安塔で右に「寛政元己酉□」、真中に慈母観音像、左に文字があるが読めず、左側の奥から1つ目は仏像塔で右に「當庵■(中)興顯阿觀□」、真中に「■(奉)入佛」文字下に行者像(地蔵か?)、左に「文化十一甲戌四月□□」とあり、左側の奥から2つ目は仏像塔の下部のみ、左側の奥から3つ目は宝篋印塔もしくは五輪塔の上部でおそらく供養塔の一部、左側の奥から4つ目は卵塔でこれは墓碑で、文字は苔で読めず、宝篋印塔と卵塔の後に仏像塔の首のないものがあります。

おそらく12基であると思うのですが、左側の下部のみの仏像塔と首のない仏像塔が同じものであれば1基であることになりますが、どうも別々のように思えるので、12基としました。

寛文七年は1667年、延宝三年は1675年、延宝二年は1674年、寛政元年は1789年、文化十一年は1814年。

□は文字が判読ではない文字で、■は文字はあるが読みづらい文字で()はおそらくここに入る文字です。

ここにある墓碑はどこから来たのか良くわかっていませんが、この丘上には海隣寺があり、その海隣寺の墓地が現在の市役所側まであったので、市役所を建てるとき、もしくは陸軍の墓地を造った時(現在は供養塔がある)にここに移転したものか、城内からここに愛宕神社を移したときに、隣の円勝寺(円正寺)の墓地の一部を移したもののどちらかだと推測されます。

佐倉市史の中の城中十二社には

前半省略

(4)天神社。椎木曲輪と裏広小路を結ぶ七曲の天神坂に向って右から大乗院・天神社・稲荷社がならんでいた。この天神社は土井氏の築城当時は椎木曲輪の秋葉社の南のところにあったものを後に移転したもののようである。大乗院は真言宗で『真佐子』には〝門なく直に寺也。小屋懸の趣也〟とあるから貧相な寺であったようだ。また同書には天神の像について〝一年開帳の節、拝すに束帯にて冠召たる下に御すはりたる二尺ばかりの黒め成石にてきざみたる像也。杉並木根子細か或竹やらいゆいてある〟と。
(5)稲荷神社。天神社の側にある。『真佐子』には〝一間四方斗の惣木ばめ、屋根くずや(葺屋根)稲荷の杜にて御神前にみす懸てある〟と。
(6)愛宕神社と五社。椎木曲輪の広小路から北へ行くと下り坂になっているアタゴ坂から田町御門に出る。この坂の右側の鹿島台が半島状に延びた所で一段低いところに円正(勝)寺(現在の聯隊記念館用地一帯)があった。この円正寺は土井利勝の築城当時は下町にあったが、後に愛宕に移した。この寺は近世以前から鹿島村時代の建立であろうが、近世の佐倉城として整備された後もそのまま残ったが〝真言宗・大貧寺也〟(真佐子)と見える。〝此門前坂の方あたごの入口十間斗行て、丹塗の大鳥井有之。鳥井の内、左の方あたご、右の方五社也。両社ともくずやにて、あたごの方二間四方斗、五社の方同様也。鳥井より十六七間ほど行て少し高きゆへ両社の前に坂ある。長二間程。丸き石にてあがりだんを付て有之。東西北の方の大松にてはへしげる。南の方は別当の大やぶ(籔)にて有之。愛宕はかちう(甲冑)にて馬に召たるさいしき(彩色)木像也。あたらしき也。御長け馬を懸二尺斗〟とある。
〝五社は天照太神・鹿島大明神・客仁大明神・八幡大菩薩、此五社也。五社ともに御長け三尺程宛之木像にて彩色各あたらしき御像也。五社ともに立像也。一年開帳ありて拝す、愛宕は正(将)軍地蔵也〟(真佐子)。愛宕神社は雷神を祭り火防の守護神ともされているが、真佐子の筆者は将軍地蔵としているが、この地蔵は身に甲冑をつけ、軍馬に跨る。これを念ずると戦に勝ち、飢餓を免れるという信仰がある。

とあり、現在の愛宕神社にある天神社・稲荷神社についてと、当時の愛宕神社と五社神社のことについても触れています。

「真佐子」とあるのは「古今佐倉真佐子」のことで、客仁大明神の「客仁」は「まれひと」と読みます。

佐倉市史の佐倉城内の伝承の中の愛宕神社の伝承について

(A)愛宕社
五社前の呪釘。両社の前の松の木に呪釘を打つものがあった。これは怨みのある人に禍があるようにと神仏に祈ったその執念のあらわれである。『真佐子』には、円正寺祈念の上にて打ちこみ、抜こうとしても抜けない。その釘にはヤニとサビが交じってついている。この呪いは丑(夜中)の時に参るとある。

とあり、当時、佐倉城の中の愛宕神社境内で行われていた呪釘のことが載せられています。

俗に言う「丑三つ時のお礼参り」のことで、藁で作った人形に呪う相手の名前の書いた紙、もしくは髪の毛や爪などいれて、松の木に沿え心臓か腹辺りに五寸釘を打ちこみ、怨みの念を込めて打ち付けるというものです。
「丑三つ時のお礼参り」の「お礼」の意味は、いい意味での「お礼」ではなく、「いずれやられたことを返します」という意味で使われる言葉です。
この呪釘は、他人に見られたりすると効力がなくなるといわれており、さらに「人を呪わば穴二つ」という言葉があるように、怨みを行った人も呪いを受け、いずれは地獄に落ちるといわれていたので、よほどの覚悟がなければ出来ない呪いの方法だったといえるでしょう。
現代では、ほぼ見かけない方法ですが、江戸時代ではこのような形で広く行われていたといいます。

この話は、佐倉城内にあったときの話なので、現在の愛宕神社とは関係ない話ですが、このように伝承や逸話が残っていたようです。

[2010-02-12 追記] 稲葉時代の佐倉城の絵図には愛宕神社のある辺りに稲荷社が描かれており、これが三崎稲荷社なのかどうかは定かではありませんが、もしかするともともと海隣寺下のこの場所に稲荷社があり、連隊が佐倉城址に来た時点で、ここにあった稲荷社も含めて合祀した可能性もあります。ただし、文献などにはそのあたりについては言及したものがないので推測の域をでていませんが、絵図に描かれている稲荷社の存在はこの場所には元から神社があったことを意味しています。

愛宕神社から佐倉道に戻り、右(東、歴博入口からだと直進)へ100メートルほど進んだ辺りから坂となり、その先20メートルほどのところT字路があり、そのT字路の北東角のところに坂についての説明板があります。

佐倉散策 ~佐倉の坂~
③海隣寺の坂
〔坂の説明〕
現在の市役所下で、成田街道が台地上の町へと上がる坂です。街道筋の要所として、当時は木戸があり土手・竹矢来で守られていました。

と、説明板にはあります。

海隣寺坂について、歴史の道調査報告書には

街道は堀にそって右折し、すぐ右折して海隣寺坂にかかる。坂は長く急で大八車等は難儀である為、後押しをして駄賃をかせぐ「おしっぺ」がいたという。

とあり、新佐倉真佐子には

...この海隣寺坂は街道筋でいちばん急な難所だった。坂の途中でくの字に曲がっているので、自動車にとっては大変厄介な坂で、自動車の運転免許の試験場に使われていた時期もあった。旧陸軍の自動車部隊の教官も、東京方面から来て操縦技量テストに利用した程、県下でも有名な坂であった。

とあり、当時は現在よりもさらに急であったようです。

歴史の道調査報告書にある「すぐ右折して海隣寺坂にかかる。」の「右折して」は「左折して」の間違いで、文章の通り進むと両町橋方向に進み、新坂もしくは旧田町門に戻ってしまいます。

「おっぺし」について、新佐倉真佐子には

ところが、この坂で評判になった男もいた。この男を通称「おっぺし」と呼んでいた。その頃の大衆的輸送機関は大八車であった。内郷村や角来辺りから野菜などの荷物を積んで来る車の数はおびただしいものだったが、それが坂の途中でエンストならぬ立往生してしまう。これに目を止めたのが「たちんぼ」とか又は「おっぺし」と呼ばれた男だった。坂の下で誰を待つでもなくたたずんでいるから「たちんぼ」、大八車を後から押し上げるから「おっぺし」。何か頼りない浮浪者か物もらいみたいに聞こえる。事実よそではこの種の「たかり」みたいなのがいた例も少なくなかった。しかし海隣寺坂の「おっぺし」は一寸違っていた。出で立ちは仕事師風、つまり股引き、腹掛けに向こう鉢巻のキリッとした姿の長身な若者、しかもどこか物腰が賤しからず氏素性のよさそうな品のある立ち居振舞いであった。それもそのはず、彼はさる由緒のある家の息子だったが体が弱くて若い時勉学の道がなかった。そして成長した彼は日蓮宗の信仰に入ったものだが、それが彼を立ち上がらせた。彼は南無妙蓮華経を唱えながら海隣寺坂に立った。彼はもはや凡人ではなくて、世間の風評など耳にも入らなかった。ひたすら重い車の後を押していた。そして得た収入はひと押し二銭位であった。たまたま近所に無頼の若者がいた。彼はその男を更生させ、二人は年老いるまで協力して働き続けた。自動車が発達して大八車が影を潜めるようになった頃、彼等は長い間の汗の結晶による蓄財で安らかな余生を送ったと言う。

とあります。

「おっぺし」に似た、坂道で大八車などの後押しをする人々は、成田街道(佐倉道)その65で通った八千代市萱田町(大和田)の宮坂、成田街道(佐倉道)その72で通った佐倉市臼井台の手繰坂、成田街道(佐倉道)その78で通った佐倉市臼井の新坂などにもいました。
しかし、南無妙蓮華経を唱えてというのは実話か逸話かは定かではありませんが、現在において南無法蓮華経を唱えて立ちんぼしてたら怪しい人だと思われますが、当時はありがたいと思われていたのでしょうか?と考えてみたりしますが、その辺りはどうなのかと...。

説明板から50メートルほど上がった右側に古風なつくりの民家があり、ここは藤川酒店であったところで、新佐倉真佐子には

海隣寺坂では藤川酒店が有名であった。明治以前から「酒の卯之助」といわれた店である。

...中略...

なお、海隣寺坂上のヤマニ味噌の藤川商店は藤川酒店の分家である。

とあります。

よくよく観察していないと、外観が古くからの民家といった風にしか見えませんが、この建物は最近改築されていますが、昔からの商家の雰囲気を残しています。

その左(東、坂上)の大きな民家(塀の前辺りにいろいろある)は「[下根屋]という料理屋兼旅館であったところである。」と新佐倉真佐子にある民家です。

民家からさらに30メートルほど上がると、左側から国道296号が合流するところがあり、その合流点辺りの国道の東側辺りには現在でも土手らしいところが残っています。
その土手の逆側の、海隣寺坂の上がりきった辺り、道が広くなっている辺りのバス停のある広いところと国道の中間辺りに木戸があり、ここからバス停側に入り、佐倉道を進んでいったようです。

海隣寺坂上の木戸があった辺りの図を載せます。

海隣寺坂上の木戸があった辺りの図

海隣寺坂上の木戸があった辺りの図。(注意 地図では左が北になり上が東になります)

このとおりに歩くと、現在は国道の真中を歩くことになり、車に轢かれること確実になりますので、国道の歩道部分進むことになります。

国道との合流点から70メートルほど進むと右に国道よりも広い道があり、ここは佐倉市役所の入口で、100メートルほど進んでいくと右側に市役所があります。

ということで、今回はここまで。

参考文献は、「歴史の道調査報告書 成田街道」、「千葉県下総国印旛郡神社明細帳」、「千葉県下総国印旛郡寺院明細帳」、「千葉県神社名鑑」、「佐倉市史」、「千葉県印旛郡誌」、「佐倉市誌資料」、「多輪免喜」、「佐倉風土記」、「佐倉文庫」、「ふるさとの石仏」、「古今佐倉真佐子」、「新佐倉真佐子(佐倉のお茶の間風土記)」、「北総名勝 佐倉誌全」より。

引用は各文献と各社寺の説明板、地域の説明板より。

今回の地図は「佐倉道6」です。

国土地理院25000分の1「佐倉」より作成しています。

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