佐倉道 鹿島地蔵(千葉県佐倉市角来)から歴博入口(歴史民俗博物館入口)交差点(千葉県佐倉市田町)まで
鹿島地蔵から東にすぐのところに鹿島橋がありますが、この鹿島橋は昭和30年代になってから付け替えられたもので、その前にあった旧鹿島橋は、鹿島橋のすぐ南を斜めに架けられていました。
佐倉道の旧道も鹿島地蔵手前西側の信号から鹿島地蔵の後へと続いていましたが、現在は一部が残っているのみです。
鹿島橋辺りの図を載せます。

鹿島橋付近の図。
鹿島地蔵の後の旧道の東側、鹿島橋の南に下っていく道がありこれが旧道です。

臼井町 角来 鹿島橋下 佐倉道旧道。(角来)
最近まで民家が建っていて、この旧道に立ち入りにくい状態でしたが、平成21年(2009)12月の時点では更地となり、旧道の道筋を確認できる状態になっています。
ただし、この場所に建物が新築されれば旧道を確認することは出来なくなるでしょう。
この道の先に籔になっている場所がありますが、ここが鹿島川との接点で、この籔になっているところの右横の辺りに旧鹿島橋の橋台があったと思われます。
写真では、道が途中から左に曲がって籔に向っていますが、実際は真っ直ぐに進んでいたことが、臼井・千代田の今昔(昭和30年代編)で確認できます。
さらに、現在の空地よりも低い位置にその橋台があったことも確認できます。
その橋台の位置は鹿島橋から南に7メートルほどの位置になります。
昭和30年代は1955~1964年の間。
さて、鹿島地蔵から鹿島橋を渡りますが、人専用の橋が北側にあるのですが、そちらにまわると旧道をたどれませんので、そのまま鹿島橋の右側(南)を渡ります。
この右側(南)の部分は、人専用の橋が出来るまでは、人一人が歩けるほどの車道より高くなったところがあり、人専用の橋が架けられるまではここを渡っていました。

鹿島橋。

鹿島橋右側(南)の人一人通れる歩道部分。
危ないと思われる方は、人専用の橋を利用するのがいいでしょう。
鹿島橋を渡ったすぐの右(南)に堤防上の道があり、ここを20メートルほど進むと、左側(東)に細道があります。

佐倉町 田町 鹿島 佐倉道旧道。(田町)
写真手前に旧鹿島橋が架かっていたわけですが、写真でもわかるように旧道の位置はもっと下にあったことがわかり、堤防のかさ上げされる前はおそらく5メートルほど低い位置にあったと思われます。
先ほどの角来側から架けられた旧鹿島橋は、ちょうど写真の後ろ辺りの川側のところに橋台を築いていたものと思われます。
臼井・千代田の今昔(昭和30年代編)の写真によれば、現在の堤防の下のコンクリートで広場状になっていたところに石積みの橋台がある様子があり、ちょうど橋の広さに合せたように広場状になっています。
当時は木橋がかけられており、鹿島川は昔印旛川とも呼ばれており、水量も今よりあり、川幅ももう少し広くあったようです。
この広場状のところ南側に水門があり、ここは当時三十間堀に川水を引き込む、現在よりも大きな水路であった場所です。
堤防の上から旧道を50メートルほど進むと、寺崎に向う国道296号のバイパスに出て、旧道はバイパスを横切って左手に見えるコンビニの後を通っていきますが、ここは交通量が多いので、一旦鹿島橋交差点に迂回して旧道を進んでいきます。
田町旧道付近の図を載せます。

田町旧道付近の図。
鹿島橋交差点から南に30メートルほどのところ、コンビニの裏辺りを左側(東)に曲がり道に沿って右側(南)に少し深い窪地があるところが三十間堀の跡です。
この三十間堀は田町旧道付近の図の水色の枠で囲んでいるBの部分で、現在は全て埋め立てられていて、名残を残しているのはこの40メートルほどの部分となっています。
三十間堀跡から旧道を90メートルほど進むと、国道296号にぶつかり、前方にこの道の続きがあります。

佐倉町 田町 埜地・片町 佐倉道旧道。(田町)
国道296号を北側に渡り(信号はないが歩道があるので、車に気をつけて渡る)、旧道を進む前に寄り道をします。
渡ったところを右(東)に国道沿いに100メートルほど進んだところに外科医院があり、その前に大きな地蔵があります。

佐倉町 田町 片町 めぐみ地蔵と市営菖蒲園跡の碑。(田町)
平成21年(2009)10月までは、鬱蒼とした林に囲まれていたところでしたが、平成21年(2009)12月には外科医院が出来ており、林も取り払われ見渡しのいい大きな地蔵といった感じになっています。
このめぐみ地蔵の左側には佐倉市観光協会が建てた説明板らしきものがありましたが、現在はなくなっています。
その説明板らしきものには
お恵み地蔵尊
柿の実の訓へ
佐倉の里には 昔から
柿の訓えが ありました
柿の実取りたい 子供等に
木から落ちたら 大変だ
三年たったら 死ぬと言う
お地蔵様の お訓しを
年寄りたちが 伝えてた
優しい心の 地蔵様
冬場の餌の ない野鳥に
残してやれとの 訓えです
恵の心の 美しさ
優しい心の 思いやり
子供や孫に 伝えよう
佐倉のお恵み 地蔵様
建立者 藤川泰助
管理者(社)佐倉観光協会
とありました。
このめぐみ地蔵はここに建てられる前は、田町旧道付近の図の▲の赤印のところにありました。
さて、この地蔵は言い伝えによって建てられたものなのか、それとも昔から建てられていたものか、それははっきりしていませんが、出典を失念(ノートに図を書き込んだが、出典を記述するのを忘れていた)してしまいましたが、田町河岸図というものの中に鹿島橋を渡った田町の現在の鹿島橋交差点辺り(★の赤印のところ)に地蔵が描かれており、もしかするとめぐみ地蔵の前身は、ここにあった地蔵で、その後、言い伝えと合わさりめぐみ地蔵と呼ばれたものではないかと思われます。
[2010-01-08 訂正と追記] 出典は佐倉市史巻二の619ページの田町河岸図で、地蔵の位置は再確認したところ、コンビニのある辺りになり、青色の★印辺りであるようですので、地図の指示を追加して訂正しました。(赤色★印からの訂正)
めぐみ地蔵の右となりには「市営菖蒲園跡」の石碑がありここには
市營菖蒲園跡
かつて、この地に市営菖蒲園があり、水無月の頃となると優雅な美しさを増し、市民をはじめ、多くの観光客に心のやすらぎを与えてくれた。
菖蒲園は、昭和三十二年、木倉和一郎市長を会長に、佐倉市観光協会が設立され、同時に建設に着手された。面積にして約六反歩(六千平方米)であつた。
菖蒲苗については、市企画室勤務の故蔵重文雄氏の斡旋により、神奈川県農事試験場大船農場より寄贈を受けた。
故藤川泰助氏は専務理事として自ら大船まで出かけ、視察と栽培の研究を兼ね交渉にあたつた。これとは別に、熊本市を通じ肥後種を購入し、あわせて百種類、千株を寄贈植栽した。
昭和三十三年四月、岩淵剛氏が市長に就任し、七月に市内外の名士を集め、盛大に開園式を執り行い、佐倉市の観光事業のさきがけとなつた。
その後、東京農業大学名誉教授・林学博士故上原敬二氏に造園設計を依頼した。
今も残る榎の古木を生かし、うっそうとした佐倉城址の樹林を背景に、中央にも池を配し、乱杭を打ち土留とし、小島をつくり、瀟洒な橋を二ヶ所にかけ、三隅を埋めて飯野台市有地より松の木十数本を移植、園路により鑑賞できるよう純和風庭園に仕上げた。
当時、む千葉県下では唯一の菖蒲園となつた。
歴代の市長、市職員の理解と援助により、約四千株を有する菖蒲園となるとともに、昭和四十六年五月には、菖蒲は市の花として採用された。
しかし、昭和五十年四月、故藤川泰助氏の土地利用計画の変更により、廃園となつた。今は、社会情勢の変化により、惜しむらくは当時のおもかげはない。
ここに、その歴史をいしぶみとして、建立し、発案者てもあり、土地提供者であつた故藤川泰助氏と関係者の偉業を永くとどめる。
昭和五十九年七月吉日
佐倉市長 菊間健夫
佐倉観光協会会長 兼坂順一
とあります。
昭和三十二年は1957年、昭和三十三年は1958年、昭和四十六年は1971年、昭和五十年は1975年、昭和五十九年は1984年。
石碑の先、国道296号の北側と佐倉道の旧道に挟まれた三角の土地が市営菖蒲園のあったところですが、現在はフェンスで囲まれた空地になっています。
もともとこの土地も三十間堀だったところで、菖蒲園が建設される頃はほとんど空堀に近い状態であり、一部湿地があった程度であったのだろうと思われます。
そうでなければ、大きな菖蒲園をすぐに建設は出来なかったでしょう。
おそらく国道296号建設に伴った土地利用の変更があったものと思われます。
めぐみ地蔵と市営菖蒲園跡の碑から佐倉道旧道入口まで戻り、右(北、鹿島側旧道から来た場合は直進)へ140メートルほど進むと旧道は右へ曲がり(ほぼ直角)ますが、その角は田町河岸の舟問屋吉田屋跡で、現在跡地には民家が建っていますが、特にこの吉田屋とは関係は無いようです。
角から旧道と逆側に道があり、この道の40メートルほど先、北に道が曲がる角先辺りが田町河岸があったところで、ここまで鹿島川の水が来ていたわけです。
田町旧道付近の図の水色で囲ったAの部分が当時鹿島川から水が来ていたところで、舟溜と河岸がありました。
歴史の道調査報告書には
...国道二九六号を横切って五〇m程進むと、又直角に右折している。この辺りの右側はすべて水堀であった。角は舟問屋吉田屋跡である。印旛沼から鹿島川に入り、沼を渡って椎木御蔵に納められる年貢米等がすべておろされた田町河岸、別名吉田屋河岸である。
とあり、この吉田屋が田町河岸を仕切っていた様子が、別名などから推し量られます。
歴史の道調査報告書には「国道二九六号を横切って五〇m程進むと、又直角に右折している。」とありますが、これは距離記載のミスであると思われます。
田町河岸から曲がり角のところまで戻り真っ直ぐ(東、国道296号北旧道入口からだと右)190メートルほど進むと右手下から国道296号が合流し、さらに140メートルほど進むと歴博入口交差点(歴史民俗博物館入口)があり、この交差点の北西角(空き店舗[平成21年(2009)現在]の前)に道標が鉄柵に囲まれて建っています。

佐倉町 田町 片町 岩名仁王尊道標。(田町)
現在空き店舗ですが、元はコンビニだった(数年前まではクリーニング屋だった)ところで、交差点も現在のように角が丸くなっておらず角ばっていたところに道標が道路すれすれにあり、現在のように鉄柵など無く、ぶつかったら粉々になるんじゃないかというような、危なっかしい状態にありましたが、交差点改良時に交差点の構造に合せて左(西方向)に45度ほど動いているものと思われます。
正面(南東向き)は正面に「従是飯野観音■(道)」、左下に「十■■(三丁)」とあるほうで、左側面(南西向き)の正面に「従是岩名二王■(道)」、左下に「十丁」とあり、裏面(北西向き)の右下に「田町馬持中」、正面に「天保九戊戌年鏑木馬持中」、左下に「角来馬持中」とあります。
もうひとつの裏面(北東側)にも文字があったと思われますが、風化して剥離したかで何もない状態になっています。
天保九年は1838年。
■は文字があるが読みづらい文字で()内はここにおそらく入るであろう文字です。
道標にある「飯野観音」は交差点を左(北)へ道なりに1370メートルほどのところにY字路があり、ここを左に下っていく道を1130メートルほど行った右に飯野観音の標柱があり、ここを右に100メートルほど行った階段を上がったところにあり、「岩名二王尊」は途中Y字路までは同じ道で、Y字路を右に上がっていく道を210メートルほど行ったところの信号を右に細い道を道なりに400メートルほど行くとT字路があり、ここを右に山道を360メートルほど上がっていくと、小高い丘が見えるT字路があり、ここを右に70メートルほどの左側に階段があり、ここを上がると岩名二王尊があります。
今回、この二つは紹介はしませんが、興味のある方は訪ねてみるといいでしょう。
飯野観音と岩名二王尊について、歴史の道調査報告書には
二〇〇mも行くと国立歴史民俗博物館の正門がある。ここは、佐倉城田町御門の跡である。その正面ノ角に高き八八㎝の道標がある。天保九年、田町鏑木角来村の馬持中が建てた四角柱で正面には「□□飯野観音道十丁」左側に「岩名二王道十三丁」と刻まれている。共に藩士の信仰を集めたところである。飯野観音について古今佐倉真佐子(以下真佐子という)は「享保年中建立あり...馬頭観音なり...此堂より馬札有る。正五九月十七・十八日両日参詣多し。城下より下目付終日行て詰居、家中より参詣多し。うり物沢山にあり、茶屋大分かかる、辻ばくち大分ある」等とそのにぎわいぶりを記している。岩魚仁王尊は像高約一九〇㎝で室町期の作と推定され、市指定文化財である。岩名二王道は右々井町の中川に通じ、土地では「岩名道」と読んでいる。
とあります。
「その正面ノ角」の「ノ」は「の」の間違いで、「岩名二王道は右々井町の中川に」の「右々井町」は「酒々井町」の間違いで、正五九月は正月(1月)・五月・九月ということです。
享保年中は1716~1736年の間。
歴博入口(歴史民俗博物館入口)交差点の右(南)には門があります。

佐倉町 田町 鹿島(根間幡) 歴博入口。(城内町)
ここは現在の田町門とでも言うところで、国立歴史民俗博物館の入口になります。
この場所は、江戸時代の田町門のあった場所ではなく、明治になって陸軍の歩兵連隊が進駐して来たときにつくられたもので、成田街道(佐倉道)その86で歩いた八幡神社から馬頭観音堂を経由して鹿島地蔵に続く三角の道の旧道の部分を直線に結ぶ、現在の国道296号の道筋が作られたのも、この陸軍の歩兵連隊が進駐してきたときに作られています。
歴博入口(歴史民俗博物館入口)のところは、歴史の道調査報告書には「国立歴史民俗博物館の正門がある。ここは、佐倉城田町御門の跡である。」とありますが、これは間違いで、実際の田町門は入口から向かって左側約10メートルほどのところにあり、歴博入口の門の左側の堀を過ぎた左手に細い道があり、ここを少しいくと堀側に土塁が始まるところがあり、この手前の土塁より低いところ辺りに門(旧田町門)があり、そこから堀に木橋を渡し、現在の国道側に渡していました。
堀の水が少なくなるときがたまにありますが、そのときにその跡らしき大杭(だいぶ朽ち果てていますが)がかすかに見えますが、その場所こそ旧田町門に架けられていた木橋の跡です。

佐倉町 田町 鹿島(鹿島町) 旧田町門跡。(城内町)
写真の左の土塁(木がある小高くなったところから先が土塁)があるところの手前が旧田町門があったところです。
ここは佐倉城内になり、ここが通用門であったところということになりますが、詳しいことはこの先の佐倉城大手門跡に入ったところで説明していきたいと思います。
旧田町門から歴博入口(歴史民俗博物館入口)交差点に戻り右(左、田町河岸からだと直進)へ堀に沿って進んでいきます。
ということで、今回はここまで。
参考文献は、「歴史の道調査報告書 成田街道」、「佐倉市史」、「千葉県印旛郡誌」、「佐倉市誌資料」、「多輪免喜」、「佐倉風土記」、「佐倉文庫」、「臼井千代田百科事典」、「臼井・千代田の今昔(昭和30年代編)」、「ふるさとの石仏」、「古今佐倉真佐子」より。
引用は各文献と各社寺の説明板、地域の説明板より。
今回の地図は「佐倉道6」です。
国土地理院25000分の1「佐倉」より作成しています。
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