佐倉道 聖隷病院入口交差点(千葉県佐倉市江原台)から北側が広い道がある十字路(T字路に見える)の信号(千葉県佐倉市江原)まで

聖隷病院入口交差点から佐倉道は南東へ進みますが、ここで左(北)へ曲がり320メートルほど進み、聖隷佐倉市民病院前を右(東)に330メートルほど進んだ十字路(聖隷佐倉市民病院から3つ目の十字路)を左(北)へ210メートルほど進んだところに江原台一号緑地があり、L字角の所に階段があるので、そこを下りていくと突然大きな道があり、ここを140メートルほどいった大広場(ここに駅を作る予定でしたが白紙になり、駅は設置されないことになりました。)のようなところの線路にぶつかったところを右(東)に130メートルほど進むと京成線の踏切があります。
この踏切を渡り、左(西、線路沿いに進む)へ150メートル進んだところの田んぼの中に四角い島のようなところがあります。

臼井町 角来 間瀬口 弁天社(岩嶋神社)

臼井町 角来 間瀬口 弁天社(岩嶋神社)。(角来)

千葉県下総国印旛郡神社明細帳には

無各社 岩嶋神社
一 祭神 雅比女
一 由緒 不詳
一 社殿間數 方壱間
一 境内坪数 百坪

とあり、千葉県印旛郡誌には

岩嶋神社 社格 無各社 所在地 角来村字間瀨口 祭神 雅比女命 由緒 不詳 社殿間数 方一間 境内坪数 四〇〇民有地 備考 境内ハ京増源造持

とありますが、千葉県神社名鑑には弁天社(岩嶋神社)は載せられていません。

線路脇の道から、弁天社(岩嶋神社、地元では角来の弁天様と言っている)に行くには、写真のように見えるあたりの畦道を弁天社(岩嶋神社)に向って40メートルほど行きますが、田んぼに水があるときには畦道が崩れる可能性があるので、水が無いときに訪ねることをお勧めします。
そして、たどり着いた四角い島の中に小堂があります。

臼井町 角来 間瀬口 弁天社(岩嶋神社) 小堂

臼井町 角来 間瀬口 弁天社(岩嶋神社) 小堂。(角来)

小堂の中に石祠がありますが、文字が磨滅していて確認できなくなっていて、その石祠の手前には、おそらく前にあった石祠であろう石片がつまれています。

臼井千代田百科事典には

...小祠の石碑に、正面「弁天宮 敬白 和泉屋定兵衛」右側面「角来村月待講 常泉院 円通寺 円休正心 元禄九丙子年(1696)小春敬白」左側面「佐倉田町6名の名前が連記」と刻まれた石碑がありましたが、現在はありません。また、「泉屋甚兵衛敬白」、「弁天宮」と刻まれた石片がありました。佐倉市誌資料には、扉面「弁才天 和泉屋甚兵ェ 敬白」扉右面「角来村 巳待講 常泉院 円通寺 京管安部 玉林道心 元禄九丙子(1696)小春吉日」扉左面「小倉市兵ェ 永田加左ェ門 堀田長兵ェ 石井市郎兵ェ 佐倉田町 細工仁 五兵ェ市左門」と記されています。

とあります。

現在の石祠には扉がない(壊されていると思われ)ので、いつのものかは定かではありません。
この弁天社(岩嶋神社)は、京成電車に乗っていると、左手に見えますのでなんとなく気になるところで、なぜ田んぼの真中にあるのかと考えてしまいます。
当時は、このあたりは鹿島川の河口であり、印旛沼の入口で、ちょっとした沼地のようになっていた場所だったと思われ、印旛沼が増水すると水の中に沈むような場所だったために、現在の中の島の部分が当時でも何とか水の上に出ているところであり、そこにこの弁天社を祀って水害から守ってもらうようにしたのではないかと思われます。
今は、何気なくポツンと忘れ去られたように田んぼの中にある小さな小堂ですが、調べてみれば由緒がある神社であることがわかります。
この岩嶋神社の「岩嶋」は「厳島」が訛って「岩嶋」となったのではないかと思われるわけですが、もしかして、現在の中の島部分は当時岩があって、そこに盛土をして「岩嶋」といわれたのか、それはよいとして祭神の「雅比売命」とはだれなのか?と。
弁天社もしくは厳島神社ではふつう「市杵島姫売」なのですが、「雅比売命」とはもしかして「雅日女尊」のことではないか...、そうすると少し様子が変わってきます。
雅日女尊は丹生都比売命のことという説があり、そうすると天照大神の妹ということになり、この神は「諸々の災いを祓い除け、一切のものを守り育てる女神。不老長寿、農業・養蚕の守り神」であり、弁才天は「水神・農業神」なので同一神として祀られた可能性があります。
そうであれば、月待講や己待講などいわゆる女人講と呼ばれる女性の方々とともに商家であろう人々の名前があるのもうなずけるところです。

岩嶋神社から聖隷病院入口交差点まで戻ります。

先に訪ねた江原刑場跡あたりから佐倉道の北と南に沿って約1キロメートルほどのところが、江原(江原町)と呼ばれているところで、歴史の道調査報告書には

街道は大きく左折し、台地の中央をほぼ直線に東進するが、この台地こそ明治中期、八木奘三郎等によって紹介された江原貝塚のあるところである。街道東寄りの両側には佐倉藩組長屋がおかれ、文豪吉川英治の母はここで生れた。坂を下りると角来で、前面の水田の向うは佐倉城跡が見えてくる。

とあり、千葉県印旛郡誌には

角来の西に接したる一帯の高地にして印旛湖の支灣鹿島川其北を限る舊佐倉藩菜園の地にして又士卒の邸宅を置きし所なり今猶古組新組の稱あり...

中略

...臼井江原の郊野所々に石器時代の遺物を發見すといふ

とあり、佐倉市史には

江原町

寛文年間(一六六一~)、角来村地内の山林原野を開いて佐倉藩の小役、組ノ者、足軽の軽単の屋敷として長屋と菜園を設けたのに初まる。旧佐倉町では屋敷割飽和状態に達したので近くで広大な適地を物色したによる(拙稿、佐倉城下絵図十葉の比較変遷解説より)。その位置は角来村字坂(城下町)と同村埜谷と間で東西方向の台地・両部に木戸を設け東端に矢場、西端に角場(小銃射的場を設く。寛文年間の開発以前までの臼井宿~佐倉田町間の往還は現八丁坂のところから角来村内を辺田沿いに角来八幡さまのところに出、旧道に拠った。この屋敷割の出来た後は今の台上を往来するように新道が出来、これが江戸佐倉道となった。この新道に並行して幅四八間、東西の長さ三二五間の長方形の敷地を画し、一番~一一番に圧分し、組長屋と足軽長屋とした(昭和四十年ごろまで、当時の建物一部残存)。長屋に接して北側に菜園あり、薬草と茶園にした。九六一五坪の菜園と三七八〇坪の管理者小屋の二区画とした。また後には(年次不詳)西続きの字新建南には一戸建ての侍屋を設けた。

...中略...

ここは考古学上江原台貝塚で有名となり、昭和に入って大山柏研究所の大規模な発掘調査があった。その場所は前記の屋敷割からは外れており、道路を隔てて旧無線用地も多く土器を出したところである。

以下省略

とあります。

寛文年間は1661~1673年の間、昭和四十年ごろは1965年ごろ。

道路を隔てた旧無線用地とは、聖隷病院入口交差点南側の現在フェンスで覆われた空地と隣のユニディの敷地を合せたところで、昭和十四年(1936)に江原台無線送信所として設置され、その後、戦後に臼井無線送信所と名を変え、最後はNTTの無線送信所として使用され、昭和六十一年(1986)に停止・解体されました。
この旧無線用地の南側の江原台新田字曲輪ノ内と字間ノ谷津で明治二十六年(1893)に、八木奘三郎、下村三四吉によって貝塚が発見され、ここを曲輪ノ内貝塚といい、現在の聖隷佐倉病院の北西の臼井田字遠部台ところでは、明治三十四年(1901)に貝塚が見つかり遠部台貝塚といい、曲輪ノ内貝塚と遠部台貝塚を合せて江原台貝塚とよんでいます。
さらに聖隷佐倉病院の敷地には住居跡(特に弥生時代)が見つかっており、ここは江原台遺跡として大規模な調査が現在もされています。

現在、佐倉道(国道296号・成田街道)の拡張工事(平成21年時点では、進んでいない)と商業施設の工事前の遺跡事前調査などで、かなりの部分が調査されていて、長屋跡のほか、縄文から江戸時代あたりの遺跡が出土しています。
ただ、開発と道路拡張のため、古くからあるものがどんどん壊されていくのはどうかと思われます。
残すべきものは残さないと、さて、このあたりに住み昔を垣間見ようとしても、何もわからず、郷土史(なぜこの町がどのように出来たのかということ)に触れることが出来なかった、ということにならないようにしてもらいたいものです。

佐倉市史にある「寛文年間の開発以前までの臼井宿~佐倉田町間の往還は現八丁坂のところから角来村内を辺田沿いに角来八幡さまのところに出、旧道に拠った。この屋敷割の出来た後は今の台上を往来するように新道が出来、これが江戸佐倉道となった。」とある旧道は、新臼井田交差点から旧刑場である磔場横を通り、先に訪ねた弁天社横あたりを通り、現在は廃道となっている円通寺近くの道を通り、常泉院前をとおり、ここから崖を上がったのか崖に沿ってなのか、八幡神社に出てから鹿島橋あたりまでは、佐倉道を通ったことになるようです。

聖隷病院入口交差点から東(弁天社[岩嶋神社]からだと左、江原刑場跡からだと直進)へ560メートルほどのところにT字路に見える十字路があり、北側の道が街道よりも広い道がある交差点(信号)があります。
ここまでの右側(南)では発掘調査が行われ、長屋跡が見つかり、細長く長屋があったことが確認されています。

歴史の道調査報告書にある「街道東寄りの両側には佐倉藩組長屋がおかれ、文豪吉川英治の母はここで生れた。」と記述があるので、この信号のある北側が広い道がある十字路(T字路に見える)を左(北)に進みます。

信号から50メートルほど左側路地際に駐車場がありますが、ここには江原の庚申塚と呼ばれる塚があり、ここには庚申塔と二十三夜塔(文字塔)がありましたが現在は塚と共にすでに無く、駐車場となり、付近の人々もこの住宅地に新しく住み始めた人がほとんどになり、その存在についても知っている人もいないようです。
そして、庚申塔と二十三夜塔の行方もわからなくなっています。(おそらく破損したために廃棄されたものと思われます。)

駐車場から100メートルほどいったところに十字路があり、ここを左に30メートルほど行くと公園(3号公園)があり、ここを右に10メートルほど行き、さらに左に曲がり100メートルほど進んだ左側にコミュニティセンターがあります。

臼井町 江原(江原町) 菜園 初代臼井町長山上辨三郎邸跡

臼井町 江原(江原町) 菜園 初代臼井町長山上辨三郎邸跡。(江原台1丁目)

江原台コミュニティセンター(地域防犯情報センター)の入口左側には石碑があり

初代臼井町長山上辨三郎邸跡

辨三郎の息女いくは国民文学の父といわれる吉川英治の母であり娘時代をここで過ごした

とあります。

初代臼井町長山上辨三郎邸跡があるあたりは、江戸時代には「菜園」と呼ばれていたところで、佐倉市史に「長屋に接して北側に菜園あり、薬草と茶園にした。九六一五坪の菜園と三七八〇坪の管理者小屋の二区画とした。」とあるように、薬草や茶園であったところといわれています。吉川英治の母いくが佐倉藩組長屋で生れたと歴史の道調査報告書にあるということは、当時、もう少し佐倉道寄りに組長屋があったことが「下総国印旛郡江原町地籍図」に記されており、「明治新政府が佐倉城に陸軍練兵場を新設した3年後には、江原台の長屋群も大半が畑地となってその役割を終了し、...」と「曲輪ノ内遺跡(第2次)」の調査報告書にはあり、その陸軍が進駐したのが明治7年(1874)なので、明治10年(1877)ごろには大体のところが畑地になっていたということです。
そうすると「菜園」はどうなったのかと言うと、おそらく、こちら側には町並みが残っているように描かれているので、畑地と宅地として開放されたと思われ、その後、初代臼井町長山上辨三郎邸が建てられ、ここに移り住んだものと思われます。

吉川英治の歌碑が、印旛沼のほとりの佐倉ふるさと広場近く、竜神橋南詰め左側の船乗り場上のところにあります。

佐倉市臼井田 吉川英治歌碑

佐倉市臼井田 吉川英治歌碑。

歌碑には

萱崖は 母のむねにも 似留加な  (萱崖は 母のむねにも 似たるかな)

たかき越 王春禮  (たかきを わすれ)

多ゝ ぬくもれ里  (ただ ぬくもれり)

吉川英治

とあります。

歌碑にある原文の文字(おそらくです)で、()内は読みです。漢字の部分でひらがなとして読む場合の文字が、歌碑には漢字の崩し文字でひらがなとして刻まれています。実際に歌碑を見ても?のところもあると思いますが、その文字が崩し文字です。

臼井風土記には

この歌は一九三四(昭和九)年の晩秋に箱根千石原で詠んだもので、一九四三(昭和十八)年十月、英治が佐倉に招かれて「母の生地佐倉」と題して講演を行った時にもこの歌を短冊にしたためた。歌碑はその筆跡を刻んでいる。
吉川英治の母いくの死去は一九二一(大正十)年六月二十九日、五十五歳であった。また英治の父直広は一九一八(大正七)年三月十五日に五十五歳で既に他界していた。この父の死後三年間の間に英治兄妹で、母の余生らしき日を、たまには熱海や千葉海岸などへ転地させたりして送らせたことがわずかな慰めだったと『忘れ残りの記』に書かれている。

とあります。

箱根千石原は、現在は仙石原と書かれていますが、本来は「千石」と書かれるのが正しいようです。
千葉海岸とは、現在の千葉市美浜区稲毛海岸から千葉市中央区登戸あたりまでの国道14号あたりのことで、当時、このあたりは遠浅の海岸線(現在の住宅地は総て埋め立てして作られたもの)で、海水浴が出来たり海岸線に迫る丘上は風光明媚な場所として有名でした。

なかなか知られていないことですが、吉川英治と臼井が意外な関係であったことに驚かされるところです。

昭和18年は1943年。

吉川英治の歌碑に行くには、成田街道(佐倉道)その83で新臼井田交差点から磔場跡を訪ねたときの道順で、京成線の踏切を渡ったところの十字路を右(東)に線路沿いに左側の風車を見ながら740メートル進むとT字路(変形Y字路ともいえる)があり、左(北)に100メートルほど進むと佐倉ふるさと広場の管理棟があり、ここから60メートルほどで龍神橋があり、ここを左に(サイクリングロードではなく、もうひとつ橋川側の細道)船乗り場に向って10メートルほどの右側にあります。
もしくは、弁天社のところから、京成線の線路沿いの道を西に350メートルほど進むと、先ほどのT字路にたどり着き、そのあとは同じ道順でいけます。
どちらの道も歩道がほとんど無く、交通量も以外にあるので注意しながら歩きましょう。
佐倉ふるさと広場がすぐ側なので、オランダ風車を見るのもよし、中を見学するもよし、管理棟で地元の農産物を購入したりアイスクリームを食べるもよし、のんびりと休憩が出来るスポットなので、是非立ち寄ってみたいところです。

北側が広い道がある十字路(T字路に見える)の信号まで戻り、今度は信号を渡り南(聖隷病院入口からだと信号を右に、初代臼井町長山上辨三郎邸跡からだと直進)の細い道の100メートルのところ3つ目のT字路を右(西)に50メートル行くと右に江原青年館があり、その裏側(西側)の木立の所に小堂があります。

臼井町 江原新田 明地前 天神社

臼井町 江原新田 明地前 天神社。(江原新田)

千葉県下総国印旛郡神社明細帳には

無各社 天神社
一 祭神 菅相蒸
一 由緒 不詳
一 社殿間數 方壱間半
一 境内坪数 百八拾八坪 官有地第一種

以下省略

とあり、千葉県印旛郡誌には

無各社天神社

江原新田字明神前にあり菅相丞を祭る暦應元年臼井興胤の祭る所なり山崎氏の宅地内にあり社殿方一間半境内百八十八坪[官有地第一種] 

以下省略

とあります。

千葉県下総国印旛郡神社明細帳にある「菅相蒸」の「蒸」の字は実際には「蒸」の旧字で書かれていますが、パソコンなどの文字には無いので、現在の文字にしてあります。
「蒸」と「丞」は発音が同じ事と、蒸気が上る、つまりあがるとすすむということと、のぼりつめると言う意味も同様と考えられ、神社明細帳では「蒸」の字を用いたものと思われます。
菅相蒸(菅相丞)は菅原道真のことです。

千葉県下総国印旛郡神社明細帳には付箋が付けられており、ここには「字大塚トアリ」と書かれており、天神社から西に300メートルほどのところに江原新田字大塚があり、なぜ、付箋が貼られたのかは今となってはわかりませんが、多輪免喜の中に「...、伊藤德之助さんの『臼井一周』の一節に『新建南の畑の中 一段高き天神社、古木の根方に腰を掛け 遥かに望む夕空は 富士の秀峯麗しき』とあります。」とあり、新建南のすぐ南には字大塚(ユニディの裏あたりで、最近までNTTの大きな無線塔があったあたり)があるので、新建南と大塚を間違えて記述したとすれば、位置的には現在の字大塚にあった事になり付箋にある記述はあっていることになりますが、これについても確証たるものが無いのでわからずじまいです。
さらに多輪免喜には「南を向いた天神様には山王の石祠があります。古笹台の天神様の石祠も山王と刻まれているので、俗にいう菅原道眞公の天神様とは別かと思いました。...」とあり、菅原道真とは別のものだと考えているようです。

千葉県印旛郡誌の記述についてですが、「暦應元年臼井興胤の祭る所なり山崎氏の宅地内にあり」とある部分は、千葉県印旛郡誌を編纂した方の記述ミスで、この記述は成田街道(佐倉道)その75で訪ねた臼井城字外城の天満宮の記述で、江原新田の天神社のことではありません。

天神社の小堂の中には、円柱状の石祠がありますが「山王」という文字はありません。
さらに、小堂の手前、江原青年館の方に鳥居の跡らしき礎石(穴の開いた礎石らしいもの)がありますが、大きさ的にはその一部を祀ってあるようにも思われます。
現在は南東側(東南東と言うのが正しいか)に向いていますが、これは小堂を新しくしたときにこの向きになったものであるのか、もともとなのかはわかりません。

江原新田あたりの図を提示しておきます。

江原新田あたりの図

江原新田あたりの図。(歩道ほとんどがは、歩道がほとんどの間違いです)

天神社から右(西、江原青年館からだと直進)に80メートルすすむと十字路があり、十字路を真っ直ぐ(西)に90メートルほどのところ右側の大木の間に天神社と同じ造りの小堂があります。

臼井町 江原新田 天神前(飛地) 稲荷神社

臼井町 江原新田 天神前(飛地) 稲荷神社。(江原)

千葉県下総国印旛郡神社明細帳には

無各社 稲荷神社
一 祭神 稲倉魂命
一 由緒 不詳
一 社殿間數 方五間
一 境内坪数 六拾坪 官有地第一種

以下省略

とあり、千葉県印旛郡誌も同様の記述があります。

この場所は、江原字新建南の中にある、江原新田字天神前の飛地で、ちょうど稲荷神社の境内地そのものが飛地になっています。

小堂のお賽銭を置くようになっている窪みのある石は、実は石祠を横にしたものであり、ここには「宝暦十二年壬午夭」とあり、中にある石祠よりも古いものです。
中にある石祠の正面には「稲荷大明神」、右側に「安政四己九月吉日」とあります。

宝暦十二年は1762年、安政四年は1857年。

小堂の後ろには壊れた石碑がありますが、いつ頃のものかは定かではありません。

稲荷神社から80メートル手前にあった十字路に戻り右(南、天神社からだと左)に160メートルほどすすむと変則十字路があり、ここを真っ直ぐ(南)に100メートルすすんだところの十字路を左(東、やや南東)へ70メートルほどの左に神社があります。

臼井町 江原新田 番神後 三十番神社

臼井町 江原新田 番神後 三十番神社。(江原新田)

創立年代と由緒は不詳で、日蓮宗系の神社であることだけは確かで、日本石仏事典によると

三十番神

本地垂迹思想に基づいて、日本の諸神が一日から三十日まで一か月を交代で守護する三十の神をいう。
天地擁護・内侍所・王城守護・吾国守護・禁闕守護・加法守護・仁王守護の七種を伝えるが、中でも妙法(法華経)守護のものが天台・日蓮宗で信仰されて著名である。

とあり、多輪免喜には「その神像は臼井台の妙傳寺で拝むことが出来ます。」とあり、この三十番神社には安置されてはなく、臼井台の妙伝寺に移されているとあります。

三十番神社の入口にある鳥居の右側に土まみれになった石祠があり、これは道祖神で、土まみれになっているために年号などは読み取れませんでした。
拝殿の右手前の大木のところには手水石(明治廿二年十二月吉日の年号がある)があり、拝殿後ろには本殿があります。

明治廿二年は1889年。

妙伝寺に移した三十番神の神像はもともとこの拝殿の中にあったと思われ、回想江原新田にはここの三十番神を移そうとしたところ、移すときにはこの神像がかなり重くなり、移すのに日数がかかり、しかもけが人も出たので、元の三十番神社に戻そうとしたところ、簡単にもとに戻せたという逸話がありましたが、妙伝寺に移すときにはどうだったのか気になるところです。

三十番神社から左(東、やや南東で、十字路からだと直進)に30メートルほどのところ左(北)に共同墓地(明神前墓地)があり、ここから120メートルほどの左側の奥に小堂が3つあるところがあります。

臼井町 江原新田 明神前 大師堂(西教院跡)

臼井町 江原新田 明神前 大師堂(西教院跡)。(江原新田)

ここは西教院というお寺の跡地で、西教院についての創立年代と由緒は不詳です。
3つの小堂の右側は子安堂で、真中が第六十三番の大師堂、右が第二十六番の大師堂で、第二十六番大師堂の大師像はなぜか立って、その左下には大きな赤い木魚がなぜかあります。
この立っている大師像は「立ち大師」と呼ばれているようで、なんでも御利益があるということらしいです。

境内には多数の石造物があり、入口右側から卵塔と墓碑らしいものがあり、子安堂の右側には
六地蔵らしきものとその他の地蔵があり、第二十六番大師堂の左側にも石仏が数基あります。
先に通過した共同墓地は、もとはこの西教院の墓地であったところのような気がしますが、それについて書かれているものが無いので不明です。

大師堂から左(南東、三十番神社からだと直進)へ40メートルほど行くと大通りとぶつかるT字路があり、ここを右(南西)に340メートルほどすすむと、石造物(道祖神と馬頭観音)があるY字路があり、ここを左(南東)に10メートルほどの右に鳥居があります。

臼井町 江原新田 明神前 麻賀多神社

臼井町 江原新田 明神前 麻賀多神社。(江原新田)

千葉県下総国印旛郡神社明細帳には

村社 麻賀多神社
一 祭神 雅孁魂命
一 由緒 不詳
一 本殿 間口七尺 奥行八尺
一 拝殿 間口二十一尺 奥行十尺 民有地第一種

春日神社
祭神 大山祗命
由緒 不詳
建物 方六尺

以下省略

とあり、千葉県印旛郡誌には

村社麻賀多神社

江原新田字明神前にあり雅孁魂命を祭る由緒不詳明治三十五年九月廿八日社殿全歿す境内二百二十一坪[官有地第一種]あり... 中略 ...境内社一社あり即
一、春日神社 大山祗命を祭る由緒不詳建物方六尺

とあり、千葉県神社名鑑には

麻賀多神社

祭神 稚産孁命(わかむすびのみこと)
例祭日 九月十五日
主要建物 本殿・銅板葺流造二・ニ五坪、拝殿・亜鉛板葺寄棟造六坪
境内神社 天神社・稲荷神社
境内坪数 四五三坪
氏子 四〇戸 宮司 ****
由緒沿革 創祀等明らかでない。一説に慶長年間土井利勝が鹿島台に佐倉城を築いた時、その地に居住した人々が現在地に移り、氏神である鏑木の麻賀多神社の分霊を迎え奉斎したと。境内社の天神社は暦応元年臼井興胤の祭るところと『新撰佐倉風土記』に見える。

とあります。

明治三十五年は1902年、慶長年間は1596~1615年の間。

千葉県印旛郡誌に「明治三十五年九月廿八日社殿全歿す」とあり、一度全壊したようですが、明治四十四年七月六日に再建許可(千葉県下総国印旛郡神社明細に記述あり)がおりており、この年に再建をし、さらに昭和三十二年に拝殿、昭和四十八年に本殿を改修しています。
千葉県神社名鑑に「境内社の天神社は暦応元年臼井興胤の祭るところと『新撰佐倉風土記』に見える。」とありますが、この記述は、千葉県印旛郡誌で指摘した天神社の記述ミスと同じで、新撰佐倉風土記にある記述を流用したものと思われます。

明治四十四年は1911年、昭和三十二年は1957年、昭和四十八年は1973年。

鳥居をくぐり参道を各務と左手には「やすらぎの家」があり、右手の広場(公園になっている)のスベリ台の手前、参道側に小社があり、これが春日神社と思われます。
先にすすむと、右側に手洗石(手水舎)があり、正面右側に「宝暦七□□...」、左側に「江原新田村」という文字が何とか読み取れます。

宝暦七年とすると1757年で、この年に麻賀多神社はここにあったということがこれでわかります。

手洗石(手水舎)をすすむと拝殿があり、その拝殿の後ろには本殿があり、拝殿の左側には2基の石造物があり、手前の石祠の正面の右に「金■(毘)□(羅)□(大)■(明)■(神)」、正面の左に「茶木稲荷大明神」、右側面に「■(文)化十五戌寅二月吉日」、左側面に「葛飾郡生□ □淸明」とあります。

文化十五年は文政元年でもあり1818年。
□は判読不明の文字で、■は文字にはなっているが読みづらい文字、()内はここに入るであろう文字です。

この石祠の左奥には細長い扉に鍵が描かれている石祠があり、この石祠の上には3基分の破損した石祠が載せられています。

扉が描かれている石祠は、直日神であると思われますが定かではありません。
この石祠の台石の右側面には「江原新田講社」とあり、ここから左側面まで世話人の名前が多数あり、左側面に「明治十五年十月吉日」とあります。
上に載せられている石祠はすべて不明で、回想江原新田に載せられているものの中で、見つかっていないものは、疱瘡神社・火防の神様・塞神が見つかっていませんが、破損している石祠3基が、この3つではないかと思われます。

明治十五年は1882年。
□は判読不明の文字です。
火防の神様は三峯神社(三峯講)のことと思われます。

本殿の右側には出羽三山供養塔(参拝塔)が9基あり、多少小山になっていたような痕跡があり、梵天塚として作られていた可能性があります。

一度鳥居に戻り、麻賀多神社入口(神社側から見た場合)から左(北西)のY字路神社側(大師堂から来た場合、Y字路の正面の法面)の法面には道祖神2基と馬頭観音2基があります。

左側の大木のところには道祖神が2基あります。

臼井町 江原新田 明神前 麻賀多神社 道祖神

臼井町 江原新田 明神前 麻賀多神社 道祖神。(江原新田)

2基あるうちの左側のものには「道祖神」となんとか読めるほどの文字が残っていますが、右側のものは剥離していて、左側の道祖神がなければ、何の石祠なのかわからないでしょう。
2基の道祖神共に年月日などは不明です。

この道祖神の右側の少し離れた大木(Y字路の西行き道側)に2基の馬頭観音があります。

臼井町 江原新田 明神前 麻賀多神社 馬頭観音

臼井町 江原新田 明神前 麻賀多神社 馬頭観音。(江原新田)

左側下の馬頭観音の正面の右に「明治四十二年」、正面の真中に「馬頭觀世音」、正面の左に「七月十九日」、左側面に「昭和五年九月 林 勘治(以下土の中で読めず)」とあり、右側上の馬頭観音の正面の右に「明治四十年」、正面の真中に「(馬頭の像)馬頭觀世音」、正面の左に「三月吉日」とあります。

明治四十二年は1909年、昭和五年は1930年、明治四十年は1907年。

左側の馬頭観音は、昭和五年に造りなおしをしたもののようです。

ふるさとの石仏に「地元の人たちが、農馬の霊をとむらうために共同で建立したものといわれる。」と記述されています。

馬頭観音から右(Y字路の西行きの道で、鬱蒼としている方向)へ30メートルほどの右側に秩父三十四番供養塔が6基あり、その左5メートルほど右に秩父三十四番供養塔3基と牛霊供養塔1基があります。

臼井町 江原新田 座孤谷津台 秩父三十番供養塔・牛霊供養塔

臼井町 江原新田 座孤谷津台 秩父三十番供養塔・牛霊供養塔。(江原新田)

秩父三十四番供養塔のほかに牛霊供養塔がありますが、トラクターなどの農機具が普及する前は、馬や牛が重要な労働力となっていました。
回想江原新田によると「...此の年、たくさんの牛肺病のため殺されたので供養のため建立」とあります。

牛霊供養塔から10メートルほどのところにY字路があり、そのY字路の西側は突如と谷がありこれが座孤谷津と呼ばれている谷津で、この谷津の縁を進むようにY字路の右側(北、良く見ないと落ち葉でわからないかもしれない)に細い道があります。
ここを40メートルほど進んだ右に大木があり、その大木のところに石造物があります。

臼井町 江原新田 座孤谷津台 馬頭観音群

臼井町 江原新田 座孤谷津台 馬頭観音群。(江原新田)

大木のところ、進行方向から見えるものが馬頭観音で、正面の真中に馬頭観音像、正面の左に「寶暦十庚辰四月吉日 願主當村 若者中」とあります。
ふるさとの石仏に「同地区では、この石仏を庚申さまと呼んでいるようであるが、頭部に馬首らしい彫りがあること、天の邪鬼と三猿が彫ってないことなどからみると、あるいは馬頭観音ではなかろうかとも思われるのである。」とあり、地元では「庚申塔」とみていることが記述されていますが、頭の上の像は馬であるのは確かなようで、馬頭観音だと思われます。
臼井千代田百科事典では、江原新田の馬頭観音として記載しています。

寶暦十年は1760年。

この庚申塔の左、細い道に向いて大木の下に破損した馬頭観音が1基あり、右側の破損したものには「文化■□戌九月(以下埋没により判読できず)」とあり、左側の破損したものには「馬頭觀世(以下埋没により判読できず)」とあります。

■は文字としてあるが判読できない文字で、□は削れていて判読できない文字です。

文化の元号があるのでそれを本に、「戊」の干支があるので、これが先か後かで見てみると、文化五年(戊辰)か文化十一年(甲戌)のどちらか。
ただし、年月を刻む場合二つの干支を刻むか、一つを刻むかよって変わってきますが、「戊」を刻んでいるのでこの場合は前の干支を一つ刻むほうであるようなので、文化五年であると思われ、そうすると1808年ということになります。

今度は庚申塔の右側、大木の横に石塔があり、上部が欠損していて「印塔」と言う文字のみが残っています。
下部のギザギザの部分は建てるときには土中に埋める部分なのですが、この石塔はこの部分から建っているので、倒れていたか、全体(欠損していない部分)が土中に埋まっていたものを掘り起こし、建てなおしたものと思われます。
墓碑であるのか供養塔なのであるのかは定かではありません。

庚申塔群からY字路に戻り、今度はY字路を右(西、牛霊供養塔からだと左に進む)に70メートルほどの右側に墓地があり、この墓地の南側道寄りの角に庚申塔があります。

臼井町 江原新田 座孤谷津 共同墓地内 庚申塔

臼井町 江原新田 座孤谷津 共同墓地内 庚申塔。(江原新田)

ここは江原新田の座孤谷津共同墓地で、この墓地の南角に当たるところの一画にあります。
正面に青面金剛像と踏まれている邪鬼、その下に三猿があり、右側面に「元文五庚申十月廿三日」とあります。
左側面は苔が多くなっていてはっきりした文字が見えませんが、臼井千代田百科事典では「当村若者中」とあり、回想江原新田には「江原新田」とあり、どちらが正しいのか判断しかねるところです。

庚申塔のあるところから南に道は進んでいますが、ここが生谷道の基点と言われており、道は現在の染井野の住宅地を抜けて吉見台から生谷、そこから千葉へ通じていましたが、墓地横の庚申塔前から先しばらく道は続いていますが、途中で途切れてしまっていてその道筋はわからなくなってしまっています。

共同墓地の庚申塔から、麻賀多神社のY字路に戻り、大師堂の方へ戻ります。
大師堂から出てきたT字路のところまで戻ったら、今度は真っ直ぐ(北東、大師堂からだと左)に90メートルほど行った左側に大きな門があります。

臼井町 江原新田 明神前 佐倉藩立田家 屋敷門

臼井町 江原新田 明神前 佐倉藩立田家 屋敷門。(江原新田)

ここは個人宅の屋敷門ですが、ここに立札がありそこに「佐倉藩立田家」と書かれています。
新田開発当初からこちらに住まわれている方のお宅であるのでしょか、そのあたりは話を聞いてないのでわかりませんが、「佐倉藩」とあるので当時からここに開発に携わってきた方のお宅と思われます。

江原新田について多輪免喜には

新佐倉城建設の折の鏑木村の農家を移したことが始まりといわれ、各家の檀那寺がまちまちであることは諸地の農民が募集に応じて集ったものであろうということです。

とあり、江原新田共同墓地改修記念の碑には

江原新田開発は「下総国印旛郡江原新田開発記」によると、承応元年辰正月十一日と記されてあり...

とあります。

承応元年は1652年。

多輪免喜の記述にであるとすると、慶長年間には新田開発が始まっているということになり、江原新田共同墓地改修記念の碑によれば、承応元年ということになりますが、おそらく承応元年が正しいものと思われます。

慶長年間は1596~1615年の間。

千葉県印旛郡誌には

角來の南に接し鹿島川の河領に沿いたる一帯の高地なり亦寛文印知集に見ゆ此地は往古江戸より佐倉に通ずる街道にあたりしなるべし畑廣く野菜を産すること多し近傍各地に搬出す
按ずるに臼井町の地東三區は往古より印旛郡に屬すれども西部即ちもとの臼井三町村は古昔葛飾郡に屬し以て元祿の初年に至りしこと古文書に徴して明らかなり臼井町の地舊の葛飾印旛二郡に跨れるを見る

とあります。

元祿初年は1688年。

現在の佐倉城が建設されるときに、城内となる場所に住んでいた人々を江原と江原新田に強制的に移動させたのが慶長16年(1611)から元和2年(1616)の間と思われ、正式には新田村としては発足してはなく、角来と江原と生谷、さらに飯重の各地区が混在している場所であったのが、その後新田開発が進められ、承応元年前後に、今度は応募などを行い人を集め大規模に新田開発が始まり、江原新田として発足したのではないかと思われ、この時点で、農民以外の武士などにも土地が与えられていったのではないかと思われます。

この佐倉藩立田家のある道路の両側には、そういった昔からここに住んでいる人々の大きな母屋があちらこちらに見受けられ、この道に開墾をするべく集ってきたことがうかがえます。

佐倉藩立田家から大師堂からのT字路に戻り、大師堂・三十番神社を通り北側が広い道がある十字路(T字路に見える)の信号まで戻ります。

ということで、今回はここまで。

参考文献は、「歴史の道調査報告書 成田街道」、「佐倉市史」、「千葉県印旛郡誌」、「千葉県下総国印旛郡寺院明細帳」、「千葉県下総国印旛郡神社明細帳」、「千葉県神社名鑑」、「佐倉市誌資料」、「多輪免喜」、「佐倉風土記」、「佐倉文庫」、「臼井町名所旧蹟史」、「臼井千代田百科事典」、「臼井風土記」、「ふるさとの石仏」、「回想江原新田」、「日本石仏事典」、「曲輪ノ内遺跡(第2次)」より。

引用は各文献と各社寺の説明板、地域の説明板より。

今回の地図は「佐倉道6」です。

国土地理院25000分の1「佐倉」より作成しています。

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