佐倉道 小笹台下の道標(千葉県佐倉市臼井)から新臼井田交差点(千葉県佐倉市新臼井田)まで
小笹台下の道標のあるY字路を左(北東)に50メートルほどのところ右に斜めに上がって行く細い道があり、50メートルほど上がった左にお寺さんがあります。

臼井町 臼井 小笹台 光勝寺。(臼井)
千葉県下総国印旛郡寺院明細帳には
本寺清浄光寺末
時宗 光勝寺
一 本尊 阿彌陀如来
一 由緒 不詳
一 本堂間数 間口五間 奥行四間半
一 境内坪数 四百拾四坪 官有地第四種
一 境内仏堂
地蔵堂
本尊 地蔵大菩薩
由緒 不詳
建物 間口壱間 奥行壱間半
大師堂
本尊 弘法大師
由緒 不詳
建物 間口三尺 奥行四尺
観音堂
本尊 観世音菩薩
由緒 不詳
建物 間口四尺 奥行五尺
とあり、千葉県印旛郡誌には
臼井村字小笹台即丘陵の中腹にあり臼井山と號す時宗遊行派に屬して相模國淸淨光寺末に屬す阿彌陀如來を本尊とす傅へて曰ふ寺は往古臼井台町字道場作にあり臼井氏の祖常康の其の菩提所として創立する所なりと[今其の遺址を在す]而して五代の城主祐胤遊行二世眞教上人に歸依し改宗して現今の地に遷せるなりと[元來眞言宗なり]堂中闇魔大王の像を安置す或は云ふ其の頭は小野篁の作なりと往昔此の首印旛沼に漂來りしを時人拾揚げて下体を作り之を臼井村靑蓮寺に安置す弘化三年正月近傍火あり寺亦延燒す里人辛して其の頭首を取出すことを得翌四年住持海憐里正甚左衛門と謀り資を募りて下体を作り嘉永元年四月竣功して當寺に安ず寺は境域[四百十四坪官有地第四種]廣からずと雖印旛沼に臨める丘上にあるを以て風景絶佳臼井八景の一に數へらる寺に古額あり臼井山の三字を彫る傅へて貴人の書なりと云ふ然れども其の何人なるを詳にせず[按るに臼井氏は六代興胤に至り圓應寺を創して菩提所とす興胤以來の木土墳墓等仝寺にあれども其の以前始祖常康等の墳墓は之を詳にせず今口碑の傅ふる所によれば光勝寺は正に其の菩提所たりしものの如し然れども寺は永く荒廢して遺物舊記等の更に憑るべきものなし寺に至りて古碑遺跡を探るに寺の南に一大塚ありて形恰も古墳の状の如し因りて思ふ祐胤の寺を此處に移すや或は祖先の螢城を守らしむるの意志に出でたるにあらざりしやと若果して然らば是或は常康等の墳墓に非る歟]現今堂宇間口五間奥行四間半河野英聖住職にして檀徒百廿人を有し管轄廰まで四里十八町あり境以内佛堂三宇あり即
一、地蔵堂 本尊地蔵大菩薩由緒不詳建物は間口一間奥行一間半
二、大師堂 弘法大師を本尊とす由緒不詳建物間口三尺奥行四尺
三、觀音堂 本尊は觀音菩薩とす由緒不詳間口四尺奥行五尺
以下省略
とあり、佐倉市史には
相州藤沢清浄光寺末であった。本尊阿弥陀如来。『臼井家由来抜書-史料編纂所蔵』には、"臼井四郎常佑代(筆者註、中興興胤の父?)遊行二代目真教上人、下総之廻国有之時、帰依して光勝寺を建立し、祐胤迄二代の菩提所也、其節は外城作に有しか共、落城後(天正十八年)今之所へ引く由也"とある。又、当寺の初めは真言宗であったのが時宗に改宗し、臼井氏初代の(常康以来祐胤迄四代の興胤以前は四代とも五代とも明らかではない)菩提所であったともいう。当時の境内が中世には現在地ではなく、道場作にあったことは、度々引用して来た天正五年の臼井郷図に、三ノ門の手前にカラホリがあり、それに沿って土手があるが、追手門に向って左方でこの土手が終わったところに"光勝寺古ヤシキ"と記入されているので、当初はこの位置にあったことは右記の由来記とも一致する。それが現在地の小笹台に移転したのは、寺内の鎮守愛宕大権現の霊夢によって臼井落城後は移転したというから江戸時代に入っては現在地となった訳である。
前記のように臼井氏初期の菩提寺ではあったが、中興の城主臼井興胤が暦応年間(一三三九~)に曹洞宗の円応寺を創立して菩提寺としたことは前にも述べたが、これがため光勝寺は臼井氏の加護を従来のように得られず衰えたものであろう。それに本寺である藤沢の清浄光寺も「正中二(一三二五)年、呑海の開山で開創し室町時代初期には一時関東武士の帰依をうけて栄えたが、室町後期になって急速に衰えた(前掲、笠原氏・新行氏)」から、光勝寺も同じような途をたどったものであろう。
とあります。
弘化三年は1846年、弘化四年は1847年、嘉永元年は1848年、天正十八年は1590年。
千葉県印旛郡誌にある「堂中闇魔大王の像を」の「闇」は「閻」の間違いです。
相州藤沢清浄光寺は、現在の神奈川県藤沢市西富にある「遊行寺」のことです。
閻魔大王の木像の作者が小野篁というのは、小野篁が十王尊像九体を作ったという逸話から来ている挿話でないかと思われます。
光勝寺の旧地は成田街道(佐倉道)その73で訪ねた「くすの木道標」の辺りです。
境内にある臼井八景の説明板には
名勝 臼井八景
光勝晩鐘
けふも暮れぬ あわれ幾世をふる寺の
鐘やむかしの音に響くらん
臼井山光勝寺は臼井氏の祖・常康の菩提寺として臼井台の道場作に建てられた真言宗の寺であった。その後第五代領主臼井祐胤の時世に、一遍上人の弟子・眞教上人が下総へ回国の折、帰依して時宗に改められた。この寺は臼井城が落ちたあと、現在の地に移されたといわれる。現在この境内にし、一遍上人のお札くばりの姿像が立っている。光勝寺の本尊は阿弥陀如来であるが、印旛沼の出水時に流れ着いたといわれる閻魔大王の木像が本堂内に安置されている。
その昔、臼井村の夕暮れ時に光勝寺で撞く梵鐘の音は、殷々として湖岸に響きわたり、その鐘声は里の人々
に日暮れの時刻を知らせるとともに、村人に心の安らぎを与えていた。ー今日も日が暮れて光勝寺の鐘が鳴っている。幾歳月を経た古寺であるが、鐘の音だけは今も昔のままに響きわたっているーと歌の作者は湖畔の夕景を詠んでいる。
寺の参道を下りた成田街道(296号)の三叉路には、百八十年前の古い道標がある。また近くの沼辺には、第六代城主興胤の乳母・阿辰の、不幸な死を哀れむ石碑が立っている
以下省略
とあります。
本堂の左側には大師堂と観音堂(子安観音)があり、その左側(光勝寺入口側)に多数の石造物があります。

臼井町 臼井 小笹台 光勝寺 石造物群。(臼井)
全部で28基の石造物があり、前に3列、後に1列あり、前の3列のう1列目は南東(参道方向)に向き、2・3列目は北東(逆向き)になっています。
前の1列目の右には大きな地蔵像があり、その左側に欠損した仏像、その左に六地蔵があり、全部で9基あります。
一番右のものは座像で像の右に「世阿西海天位」、像の左に「元祿十五■(午)年拾月□□□」とあり、他の5基地蔵像とはつくりが違います。
その左の5基のうち一番左にあるものは上部が欠損していますが、その他の4基は像形が残っていて、座像の地蔵の左隣のものの像の右に「文政二己卯十一月廿四日」とあります。
六地蔵の左隣の1列目一番左のものは釈迦如来で像の右に「常壽院善定門□位」、像の左に「寛文□□□三月九日臼井臺町」とあります。
前の2列目は4基あり北西(逆)に向いていて、石造物を正面に見て左側から3つ目までは墓碑(文字塔)で、一番右のものは馬頭観音で正面に馬頭観音像(髪型が怒髪天に似ている)で、右側面に「嘉永二酉三月吉日」、左側面に「臼井■(村) 馬■(持)講中」とあります。
前の3列目は8基あり北西(逆)に向いていて、石造物を正面に見て左側から行くと、一番左が庚申塔で正面に青面金剛像とその下に三猿、右側面に「庚申尊躰催講中一座 二世安楽之口諾音也」、左側面に「享保元丙申年十月吉日 施主臼井本町庚申講中百四十四人」とあり、左から2つ目のものは念仏塔(廻国塔かもしれない)で正面の真中に「南無阿彌陀佛」、正面右に「天下和須 臼井三村」、正面左に「■川■明 念佛講中」、右側面に「大念佛開白 ■□月山」、左側面に「□回□□□化三□ 供養塔建立 □□□丙寅二月吉日」とあり、左から3つ目(③)のものは聖観音で正面の真中に聖観音像、正面右に「文化十一戌」、正面左に「十月吉日」とあり、左から4つ目が馬頭観音で正面に「馬頭觀世音」、右側面に「安政四巳年」、左側面に「臼井田馬持中」とあり、左から5つ目は大日如来塔(おそらく)で、左から6つ目のものは宝篋印塔、左から7つ目(⑦)のものは聖観音で上部に聖観音像、下に「秩父札所聖観音 臼井講中」、下の右側面に「文化十四丁丑年三月七日」とあり、左から8つ目(⑧)は題目塔或は廻国塔で正面に「奉納大乗妙典□□」、左側面に「下総國印旛郡臼井宿 中原甚右衛門」とあります。
後列は7基あり南東(参道方向)に向いていて、一番左は三山参拝供養塔で、その右隣は破損して粉々になっている石塔(おそらく五輪塔)、その横5基はすべて宝篋印塔です。
元祿(元禄)十五年は1702年、文政二年は1819年、寛文年間は1789~1801年の間、嘉永二年は1849年、享保元年は1716年、文化十一年1814年、安政四年は1857年、文化十四年1817年。
□は判読できない文字、■は文字はあるが読みづらいもしくは判読できない文字で、()にある文字はおそらくここに入るであろう文字です。
前の3列目2つ目の「□□□丙寅二月吉日」の□には、左側面に「□□□化三□」というのが何とか見えるので、もしかすると「文化三年」ではないかと思われますが、はっきりとしていないので江戸時代初期から見てみると「寛永三年」、「貞享三年」、「延享三年」、「文化三年」、「慶応二年」の5つとなり、すべて干支が「丙寅」の年で、このどれかが年号として当てはまるはずです。
寛永三年は1626年、貞享三年は1686年、延享三年は1746年、文化三年は1806年、慶応二年は1866年。
後列の5つの宝篋印塔は、初期臼井氏5代の墓碑(供養塔)ということですが、どれがだれのかは確認していません。
このほか前の3列目の③⑦⑧のものは、現在はここにありますが、もとは光勝寺の下にあり、坂を上がる途中左側に下に下りる道があり、下りたすぐの左側に最近(平成15年[2003年]まではあった)まで小堂があり、おそらくそこにあったものを現在地に移したものと思われます。
さらにこの三つの石仏について「ふるさとの石仏」には
三〇年ほど前、道路工事のために付近を掘ったところが、この石仏が出たので、光勝寺の坂下に祭ったといわれるが、真偽は不明である。
とあります。
ふるさとの石仏は昭和50年(1975)発行のものなので、平成21年(2009)時点で34年たっていますから、30年を加算すると64年前の出来事です。
先の下に下りる道の右側には光勝寺の崖と民家との間に空地がありますが、この場所が成田街道(佐倉道)その81に出てきた行蔵院のあったところになり、そうすると③⑦⑧の石仏は行蔵院にあったであろう石仏ということになるのではないかと思われます。
光勝寺境内あたりの図を示しておきます。

光勝寺境内あたりの図。
光勝寺前の坂道をさらに上がっていくと墓地があり、右側の門がある墓地(一般の人は立ち入り出来ないようになっているところ)の奥のほうに小高い丘があり(これは門のところからなんとなくわかる程度のもの)、この丘が瓢箪塚古墳と呼ばれている小さな前方後円墳で、現在は前方部分が崖の工事の時に損壊して後円部分が残っているのみになっています。
臼井宿回顧には
◎光勝寺瓢箪塚古墳
小笹台上光勝寺の近くに小型の前方後円墳があり、昭和二十八年ここから石枕が出土したことで知られている。
とあり、千葉県印旛郡誌にある「古碑遺跡を探るに寺の南に一大塚ありて形恰も古墳の状の如し因りて思ふ祐胤の寺を此處に移すや或は祖先の螢城を守らしむるの意志に出でたるにあらざりしやと若果して然らば是或は常康等の墳墓に非る歟」とある大塚がこの瓢箪塚古墳のことであるようで、ここから出土した石枕は臼井常康のものではないかとも言われている所以です。
石枕の他に板碑も出土しており、これらは光勝寺にあります。
このあたりの地形からすると、この瓢箪塚古墳以外にも、数基の小さな古墳があったのではないかとも思われますが、あたりは既に宅地となっていたり、水道施設が出来ていたりしているので確かなことはわかりません。
昭和二十八年は1953年。
瓢箪塚古墳のある墓地の逆側の少し奥に、駐車場と光勝寺の信徒会館があり、その北側の空地あたりに愛宕神社があったようです。
現在は廃社になっていて何もないですが、佐倉市史に「それが現在地の小笹台に移転したのは、寺内の鎮守愛宕大権現の霊夢によって臼井落城後は移転したというから江戸時代に入っては現在地となった訳である」とある鎮守愛宕大権現がここにあった愛宕神社のことで、臼井町名所旧蹟史には
何時の頃建てられたか不明なるも初めの頃は自然石を神体として祀ったが後境内井戸より長さ一尺巾一寸五分位の大きさの石板が出た
表面 愛宕岩山権現火防御礼
裏面 文永元年の文字を刻んだものであった以降此の石板を神体としたと伝えられる
とありますが、いつまでこの場所にあったかについては記されていません。
文永元年は1264年で、鎌倉時代にあたり北条時宗が執権になる3年前。
瓢箪塚古墳から坂道を下り、佐倉道に戻り右(小笹台下の道標からだと直進)へ240メートルほどの右(南)に細い坂道(旧生谷道)があり、この右側すぐのところ(現在は民家)には、茶店印旛潟がありました。
臼井宿回顧には
◎茶店・印旛潟
この店は郷土出身の元力士・印旛潟の経営する茶店で下駄屋も兼業していたという(印旛潟は元は下宿・今の宮倉商事のあたりに住んでいたという)。
店は成田街道に面していたばかりでなく、宿河岸(商用で、大船が出入りした)への入り口に位置していたので大変繁盛したらしい。
とあり、印旛潟については臼井千代田百科事典に
臼井出身の江戸時代の相撲取り。臼井にもどってからは、臼井の下宿に住んでいましたが、成田街道から宿河岸へ向かう入口には下駄屋も兼ねた茶店を経営していました。また、六崎の麻賀多神社の祭礼の2日目、10月16日にお借屋を出発した神輿が渡御する城区字春路768の角力場(約60坪程で、俗に角力取り作と言う)では、興業鑑札を持った印旛潟という親方が仕切って興業角力が行われていたことが根郷風土記に記されています。
とあります。
印旛潟が力士として活躍していた時期は、良くわかっていませんが、雷電爲右衛門や稲川政右衛門などと同じ時期ではないかと思われます。
茶店印旛潟跡から坂道を150メートルほど上がるとT字路(Y字路に近い)があり、ここを左(東)に30メートルほどの左に細い道がある辺りの場所が臼井字御屋敷にある常楽寺のもとあった場所で、稲荷山常楽寺古ヤシキ真言と臼井郷図に記されたところで、寺があったのが円形ドーム型をした民家がある辺りになります。

臼井町 臼井 小笹台 常楽寺旧地。(臼井)
臼井宿回顧には
◎常楽寺跡
トンペイから、右方台地(小笹台)に上がる道がある。これを上がると、戦後印旛沼観光開発有限会社(臼井観光協会と京成電鉄の共同)が建てた「印旛沼山荘」と「姫宮」という小祠がある。この姫宮の後方に一画の平地がある。
ここが、現在田町御屋敷にある常楽寺の跡地と言われており、天正五年の臼井郷図にも同位置に「稲荷山常楽寺古ヤシキ真言宗」と記載されている。
とあります。
天正五年は1577年。
トンペイについては後で出てきます。そして、この常楽寺跡や印旛姫宮への行き方も二通りあり、ここでは光勝寺側からの行き方を主としています。
このあたりの図を載せておきます。

光勝寺あたりの図。
細い道のところから左(東)に90メートルほど行くと左(北)に新しい少し広い道があり、ここを70メートルほど行ってさらに左(西)に新しい道を100メートルほど進むと、下に下りる鉄製の階段があり、下りた左に神社があります。

臼井町 臼井 小笹台 印旛姫宮。(臼井)
祭神は伊邪那美命(イザナミのみこと)、創立時代と由緒は不明で、戦後この場所に建てられたもので、臼井千代田百科事典には
...当初の社は佐倉城跡にあった鹿島神社を戦後払い下げを受け、ご神体は松虫寺から勧請されました。
とあり、現在の位置は元の位置ではなく、新しい道の左に曲がるところの右にもう一つ道がありますが、この別れ道の少し南西側辺りにありました。
現在の位置には、山王の石祠があり天神様と呼ばれていた神社がありましたが、ここに印旛姫宮を移して合祀したようです。
小堂の中には弁天が祀られており、小堂の左側には山王社の石祠があり、参道右側には丸い形の石(男根だと近くの人が言っていましたが)があります。
多輪免喜には
印旛姫の宮は、戦後の臼井を賑わした神ですが、その企画の当事者による文書がなく、幾らかのチラシや傳言によって伝えられるばかりなのは残念です。姫には特殊な文字を使っています。社殿は戦後、陸軍の佐倉聯隊解散のおり、営内にあった社殿が放置してあったものを貰い受けたとの傳言は一致していますが、聯隊におけるこの神社の存在について、鹿島の神を祀ったとの話はありますが確たる証拠はありません。印旛姫は松虫の宮から勧請したとの説は真実と思われますが、佐倉城内で奥向きで密かにしかも熱心に信仰されていたとの話は記録があれば楽しいことと思います。いま社殿のあった場所は造成され、西よりのやや低地に山王その他の石祠とともに遷され、新町によって守られています。
とあり、臼井風土記には「印旛沼の守護神にして、五穀豊穣、安産、子育ての神である。」とあります。
松虫寺から勧請したというのは、おそらく松虫寺にある金精様と呼ばれる、性神を祀ったものを印旛姫宮に勧請したものとおもわれます。
ただし、イザナミの命と弁天との関係をどう解釈すればいいのか不明です。
さて、現在南側(畑より後で、新しい道に入るあたりから南側)には住宅が立ち並んでいますが、昭和30年代(1955~1964年くらいまでの間)ごろまで印旛沼山荘というバンガローがあったとのことです。
臼井観光協会と京成電鉄の共同による印旛沼観光開発有限会社が、このバンガローと印旛姫宮とをつくり人々を呼び寄せて、さらに花火大会を行い大変賑わったということですが、今は静かなところになっています。
この花火大会は、現在の佐倉市の花火大会へと引き継がれています。
常楽寺旧地から茶店印旛潟跡を通り佐倉道に戻り右(東、光勝寺からだと直進)へ140メートルほど行くと、先ほど訪ねた常楽寺旧地と印旛姫宮へ続く斜道がありますが、入口には関係者以外立ち入り禁止の看板(昔は印旛姫宮の看板だったが、宅地開発が進んでいるため立ち入り禁止とあるようですが、ここからも上がれます。)があるので通過し、さらに70メートほどの右側に岡野モータースという会社があります。
ここには継立場があったところで、臼井宿回顧には
◎トンペイと人力車の立場(継立場)
印旛潟から更に約二百メートル行ったところに、小笹台地の切れ目(切り通し?)がある。ここ(今岡野モータースのあたり)を通称「トンペイ」と呼び、臼井宿の東の「人力車の立場(継立場)」があったところで、当時佐倉方面から来た人力車は、掟により、ここで乗せて来たお客さんを臼井の人力車に乗せ替えたのである。
(注)西の人力車の立場は、前述の通りか上宿南端の龍ヶ崎屋のところにあった。
とあります。
江戸時代は人力車ではなく籠や馬での継ぎ立てをしていたものが、明治になって人力車となっても暫くは江戸時代の掟のままで継ぎ立てをしていたようです。
上宿南端にあった継立場は成田街道(佐倉道)その79に出てきた、押しボタン信号のところがそうであり、ここに龍ヶ崎屋があったということです。
継立場跡から230メートルほどの左にガソリンスタンドがあり、この後ろ側の田んぼのあたりには梅蔭屋敷があったところで、臼井宿回顧には
◎梅蔭屋敷跡
前記ガソリンスタンドのちょっと先(今田んぼ)にあった梅蔭屋敷は、元禄年間円応寺二十二世竹翁和尚がここに隠居し、梅を植えたにより、かく称せられたという。
とあります。
元禄年間は1688~1704年の間。
ガソリンスタンドの逆側(南側)は現在は住宅地になっていますが、このあたりには佐倉道のところのまで丘があったところで、その丘を人形山と呼んでいました。
人形山について臼井宿回顧には
◎人形山と人形送り
トンペイから、街道を更に二百メートル行くと、左側にガソリンスタンドがある。以前は、その筋向い(街道の右側)あたりまで台地が伸びており(いまは団地になっている)、その上に「長作の人形山」と呼ぶ塚(前方後円墳?)があり、そこで毎年五月二十五日に「人形送り」と言う行事が行なわれていた。
「人形送り」は、藁で人形(鹿島人形と称す)を作って竹に刺し、団子五つを串団子にして、人形の襟に下げ、人形山に登って人形同士喧嘩させ、早く落とした方が勝者となり団子を食べられたという。
農家の豊作を祝う行事だったという。
この人形山は鳳翔団地が出来た時、切り崩され消滅したので、「人形送り」の行事は、それ以降途絶えた。
とあります。
同じ人形山付近には観音堂もあったようですが、これは明治に入る前に既に廃寺になっています。
このあたりは昭和41年から宅地造成が行なわれ、人形山を含む丘を水道道路まで削り住宅地としました。
その後、昭和54年に臼井田字長作と臼井田長作台は、新臼井田というあたらしい地名となっています。
昭和41年は1966年、昭和56年は1979年。
ガソリンスタンドから150メートルほど行った左側に駐車場があり、その東端に川(水路)がある手前のところに一里塚がありました。

臼井町 臼井田 小笹 一里塚跡。(臼井田)
2003年くらいまでは白い木柱があり、そこにかすれた文字で一里塚跡と表示してありましたが、現在はその木柱もなく、気をつけていなければ通過してしまうような場所になっています。
目印としては、駐車場があり、その東側の草むらに木柱の破片らしきものが立っており(柵の跡かもしれないが)、その横に川(水路)があるので、なんとなくこのあたりかな?という場所が一里塚のあったところです。
いまは塚も無く一里塚に植えられていた榎などももちろん無く、ただ雑草の生えている場所と化しています。
一里塚跡から60メートルほど行くと新臼井田交差点があります。
ということで、今回はここまで。
参考文献は、「歴史の道調査報告書 成田街道」、「佐倉市史」、「千葉県印旛郡誌」、「千葉県下総国印旛郡寺院明細帳」、「千葉県下総国印旛郡神社明細帳」、「千葉県神社名鑑」、「佐倉市誌資料」、「多輪免喜」、「臼井宿回顧」、「佐倉風土記」、「佐倉文庫」、「臼井町名所旧蹟史」、「總葉概録」、「臼井千代田百科事典」より。
引用は各文献と各社寺の説明板、地域の説明板より。
今回の地図は「佐倉道6」です。
国土地理院25000分の1「佐倉」より作成しています。
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