佐倉道 佐倉城址公園佐倉城址椎木門跡(千葉県佐倉市城内町)から佐倉城址公園佐倉城址田町門跡を経由して、佐倉養生所跡の碑(千葉県佐倉市宮小路)まで

椎木曲輪あたりの図をまず載せます。

佐倉城址 椎木曲輪あたりの図

佐倉城址 椎木曲輪あたりの図。

椎木門跡から北に15メートルほど柴垣に沿って進むと、左に細い道があり、細い道を40メートルほどいったあたりの右側(北)から馬出し空堀の西側のせり出したところがあり、そこから30メートルほど行くと十字路になり、十字路の右斜め前(北西)にコンクリートで造られた長い構造物があります。

佐倉城址公園 兵営の便所跡

佐倉城址公園 兵営の便所跡。(城内町)

説明板には

②兵営の便所跡
雨天休憩所近くに土台のみが残る。江原新田では連隊と契約し、下肥・馬糞の払い下げを受け、汚物清掃を担当していました。

とあります。

コンクリートの遺構を見てみると、しっかりと和便所の形に穴があり、ここがトイレであったことがわかります。

兵営の便所跡から十字路に戻り、今度は右(西、椎木門跡からだと直進)に進みますが、この十字路の左(南)には空堀があった部分になり、連隊が来たときに埋められ、その後、南の広場に陸軍病院が建てられたときに、この場所に陸軍病院に行くための表門が建てられていて、ちょうど柴垣が広場の入口になっているように門があったのでしょう。

十字路から右に進むとすぐに下り坂になり60メートルほど下ると急坂があり、右に30メートルほど急坂を下りると今度は左に曲がり坂は緩やかになりますが、その急坂をヘビ坂といい、当時は左に曲がりってすぐに右に曲がりやや左に曲がりながら西側に下りて行ってましたが、現在この道は消滅しています(途中崖崩れしている)。
ヘビ坂の左に曲がったところから続いている現在の道は、途中まで陸軍が来たときにつくられたもの(当時はこの部分には道がない)と思われ、ここを50メートルほど進んだあたりに現在は道はありませんが、二の丸跡の現在花畑になっている場所の南側端の後から下りる道があり、ここから道がつながり、さらに西に下っていき、現在葦原になっているところに直線の道が残っていますが、そこにつながっていましたが、北側の二の丸跡から下りて来る道(崖崩れで消滅)と、南側の崖下に続いていた道(ここも一部崖崩れで消滅、残りは廃道)は消滅しています。
そこから道なりに進んでいくと成田街道(佐倉道)その93で訪れた西の出丸跡と旧城門のところに出られます。

ヘビ坂は椎木曲輪あたりの図にあるように、もともとのルートは西側の崖下に出るようになっていて、下りたところには馬場がありましたが、現在は住宅地となっていて、その面影はありません。
兵営の便所跡の説明板に「江原新田では連隊と契約し、下肥・馬糞の払い下げを受け、汚物清掃を担当していました。」とあったように、連隊があった当時、この坂道を使って下肥と馬糞を運んで鹿島橋か舟を使って鹿島川を渡り、現在の佐倉市印南の辺りと江原新田や角来などに、下肥と馬糞を堆肥(肥料)にするために運んでいたわけで、当時は上がったり下がったりを人力でやっていたわけです。
二の丸跡(花畑後)から下る道は、馬場の南にある厩へ通じる道でした。
馬場があった辺りを西根古谷といい、この西根古谷と馬場について佐倉市史に

一、西根古谷と馬場 本丸の北の出丸の東北に厩と馬場がある。厩は百疋立のもので、葦葺屋根で一棟である。その後が馬場で、東西の長さ二町、南北の巾三間位で高土手の芝付、この上はムクゲ(木槿)の垣である。馬場の西に御献上馬(佐倉三牧の捕馬から幕府へ献上の馬)の厩がある。葦葺で二間に五間の建物。また別に野駒御拝領の節、つないで置く小屋場がある(毎年二十領前後拝領)。厩の先に蓮池があって、此処で飼葉を洗う。厩の入口はカブ木門で左右の塀は板屋根である。(佐倉真佐子)

とあります。

この馬場の中ほど、出丸跡からだと旧城門から橋を渡り、渡ったところを右(西)に水堀を見ながら道なりに160メートルほど進むと右(東)から道が接続しますが、この道が馬場の中ほどの道で、この道は二の丸跡の花畑後から下りて来る道が馬場に出て、この道に出るようになっていて、道の南側が厩で、北側が馬場になります。
右から来る道が接続するところから、さらに20メートル進むとT字路になり、ここを左(西)に80メートル進むと右に道は曲がり、そこから50メートルほどでやや右斜めに道は進み、50メートルほどで左斜めになるあたり(佐倉市田町と佐倉市城内町の境界になっているところ)には鹿島不明門がありました。

鹿島不明門について、佐倉市史には

一、鹿島不明御門 四間梁六間二階作り 畳十二畳 袖塀拾壱間板笠 桝形竹矢来四十九間二尺。『古今佐倉真佐子』に、〝あかず門、二階門にて有之、是は籠城の節の落口の門也、かわら葺しやちほこ附、一切あけず〆切、番人なし。先年の大ちしん(地震)の節、此門のしん木、ねぢれたる直に直さざる也。此門のそと河にて、「あし・まこもの類一めんにはへ、大矢大木うえごみし故、通りより一切門見えず〟とあるから稲葉氏の享保時代には全く閉鎖してあったもののようである。長らく塩硝蔵に用いた。宝暦三年五月二十三日の年寄部屋日記に「鹿島不明御門御櫓に有之候、塩硝先達而右御門御修復有之候ニ付、飯田塩硝蔵江遣置候処御普請出来致し候ニ付、塩硝鹿島不明門江移し申し候。前記のように長らく使用しなかったが、後の堀田氏になっては倉庫に使ったようである。この門のあたりは特に低湿地で、印旛沼増水で鹿島橋辺の水位が上ると、この門の定番小屋等は水浸しになるので近くの厩え避難させたが、更に厩も冠水する時は馬も人も椎ノ木曲輪の高台に避難させた、そのような訳でこの門き破損甚しく取崩し木戸門にして〆切との届を幕府へ出している。(文化九年十一月二十九日、年寄部屋日記)

とあります。

享保時代は1716~1736年の間、宝暦三年は1753年、文化九年は1812年。

印旛沼の増水は、もともと梅雨時などの雨季には多々ありましたが、それが顕著になったのは1590年から1665年にかけて行なわれた利根川の東遷工事による川筋変更のため、現在の利根川が増水すると、現在の長門川(現在は水門があるので調整されている)から逆流し、印旛沼が増水しその周辺が水没するようになり、その影響で佐倉城の鹿島川流域は多大な水害にあっていたわけです。

鹿島不明門跡から現在は成田街道(佐倉道)その87で歩いた旧道のコンビニ裏にあった南へ進む道の所に出ますが、当時は鹿島橋交差点の南側国道296号のバイパスと旧道が交差するところのやや西寄りのところで佐倉道に接続していました。

兵営の便所跡近くの十字路まで戻り、今度は左(北)に50メートルほど右手に馬出し空堀、左手に芝生公園を見ながら進むとT字路になり、前方の大きな建物が国立歴史民俗博物館で、江戸時代にはこのT字になっているところは真っ直ぐに道があり、国立歴史民俗博物館の北側の博物館専用出入り口まで続いていました。
芝生公園がある辺りには最初武家屋敷があり、その後下屋敷となり、その北側の国立歴史民俗博物館のある辺りから西側には初め樹木屋敷があり、その後下屋敷となり、最後には大筒の調練場となっています。
さらにその北側、国立歴史民俗博物館の付属施設がある辺りには最初武家屋敷があり、その後下屋敷になり、最後に大筒調練場と大筒小屋となっています。

この椎木曲輪の北西側の西側の現在国立歴史民俗博物館のあるあたりには樹木屋敷(正保期の佐倉城大絵図に記されている)があり、佐倉城跡発掘調査報告(国立歴史民俗博物館発行)には

たとえばこの絵図の椎木曲輪の屋敷の一角に注目すべき区画がある。ちょうど馬出しの北西に一箇所だけ木々を描き込んだ区画があり、「樹木屋敷」と記す部分である。この樹木屋敷という屋敷名は近世の城郭絵図にしばしば見受けられるもので、城内の植物園を意味している。緑をわざわざ描いているのもそのためであった。

...中略...

ただし、この樹木屋敷は、もとから植物園として計画したものではなかったようである。17世紀初頭の寛永年間の佐倉城を描いたとする絵図では、この部分にほぼ同じ区画をもつ寺院を描いており、絵図が記す年代が正しければ、樹木屋敷は寺院の庭を継承して成立したと考えることができる。
この植物園がいつまで存続したのかを今つまびらかにすることが出来ないが、幕末の絵図では周辺は籔や畑になっており消滅していた。

とあり、寺院があったことが確認されています。

正保期は1644~1648年の間、寛永年間は1624~1644年の間。

この寺院については、いろいろと説があるようですが、成田街道(佐倉道)その90で訪れた重願寺の説明板に「勝誓山重願寺は、もと佐倉城内にあり元和元年(一六一五)了圓上人が建立した。」とあり、どうもこの重願寺がこの樹木屋敷あったのではないかと推測されます。
他の城内にあった寺院についてはあった場所などは特定されてはっきりしていますが、重願寺は元和元年(佐倉城を土井利勝が築城している時期)に現在の場所(鏑木町)に移されたことがはっきりしていますが、城内のどこから移転したのか、不思議なことに明確な記述がどの文献にも全くありません。

北西側の北側の大筒調練場(最初武家屋敷だったところ)のおそらく崖側に鹿島社があったと思われ、稲葉時代の佐倉城の絵図には「此内ニ鹿島之社有之」とあるので、位置ははっきりしていませんが連隊が来るまでは、このあたりにあったことは確かです。
その後、連隊が来たときにこの鹿島社は払い下げられて、成田街道(佐倉道)その82で訪ねた印旛姫宮のある場所に遷座して、印旛姫宮として祀ったわけですが、この鹿島社の御神体は合祀されたのか、破棄されて新たに姫宮としたものかははっきりしていませんが、後ろにあった石祠は現在一つだけありますが、これが鹿島社であるか山王社であるのかはわかっていません。
鹿島社について、佐倉市史には

鹿島大明神。椎木曲輪の下屋敷に祀ってあった。中世末期に千葉幹胤が鹿島村に酒々井本佐倉城の支城とし、築城を初めた際、武神として崇められている常陸の鹿島ノ神を勧請したものか、或は鹿島村の産土神を鹿島大明神として尊崇したものか、その辺のことは、はっきりしていない。祭礼は例年四月八日で城主から供物があり、別当は大聖院であった。明治六年、兵営建築の際、他に移転した。

とあります。

明治六年は1873年。

結局、印旛姫宮に合祀されたと思われますが、その痕跡が認められないのは残念なことです。
さらに佐倉市史には

稲荷神社。右の鹿島大明神と共に相隣って下屋敷にあったが、鹿島大明神と同様移転した。

とあり、この稲荷神社はおそらく、成田街道(佐倉道)その90で訪れた麻賀多神社にある稲荷神社に合祀されているものと思われます。
さらに佐倉市史には「稲荷二社あり。」とあるので、もう一社あったようですが、この稲荷社も麻賀多神社に移されたものではないかと思われます。

この椎木曲輪の西側部分は下屋敷と呼ばれていましたが、この下屋敷の呼称について佐倉文庫の「佐倉城細部の考察」の中に

...前半省略

...邦胤はただちに鹿島山に築城することにして着手した。城未だ出来上がらぬ時、突然邦胤に兇変が起った。即ち邦胤の臣鎌田万五郎(佐倉誌には桑田万五郎)城主に背き之を刺した。邦胤は二十九才で去ったのである。その子に二人あり長を重胤、次を利胤と称し、粟飯原を継ぎ、てづれも岩松氏の女東(あづま)より生る。(一説には東は重胤の姉ともある)重胤家督を継ぐと雖も幼少なるが為、築城は不可能となり一時中止することとなった。そこで鹿島山に新館を建て、生母東をここに居住させこの館を下屋敷とよんだのである。佐倉城郭内に下屋敷と呼ぶところが今日まで残されて居るのは此の時代より起りしものである。

...以下省略

とあり、土井利勝の築城以前に下屋敷と呼ばれていたとありますが、正保時代の絵図には下屋敷という記述がないので、これについては絵図を書いた人物があえて記述しなかったのか、知らなかったのか、そのあたりはわかりませんが、この下屋敷の呼称については、千葉氏時代からあったことが伝わっているようです。

芝生公園と休憩所辺りまでは、現在自由にいけますが、休憩所の奥(北側)は途中から立ち入り禁止区域(国立歴史民俗博物館の敷地内になるため)になるので、今説明していた部分には入ってはいけません。

T字路から今度は右(東)に170メートルほどを左手に国立歴史民俗博物館、右手に馬出し空堀を見ながら進んでいきます。

佐倉城址公園 佐倉城 椎木曲輪 馬出し空堀

佐倉城址公園 佐倉城 椎木曲輪 馬出し空堀。(城内町)

現在ある馬出し空堀は、ほぼ当時の状態に近いものになっていますが、その堀の深さと幅、さらにその領域が当時の80%ほどものになっていて、堀の南側には土塁がありましたが、これは一部塚状に残っているのみで消滅しています。

馬出しについて、佐倉城跡発掘調査報告(国立歴史民俗博物館発行)には

佐倉城の縄張りの特色は、馬出しという固く守りながら出撃するのに適した出入り口を要所に備えた点にあった。馬出しは出入り口の前にある堀の対岸に、コ字型の堀をめぐらした突出陣地をしたものを呼び、ヨーロッパの城にも見られた(鉄器時代のイギリスのメイドゥンカッスル、中世のロンドン塔など)。時代を超えた防衛施設における出入り口の最適施設のひとつであった。

...中略...

現在、外側のコ字型の堀はほぼ完全に復元しているが、本来内側にあった堀を復元しておらず、現状では、単に人びとに回り道を強いるだけのようなことになっていて、馬出し本来の役割がわからない。

...中略...

馬出の位置からは、佐倉城では椎木曲輪が攻め落とされることをも予想して、国立歴史民俗博物館がある台地の上も、いざとなれば戦う空間として想定していたことを示す。

...以下省略

とあります。

ここにもありますが、この馬出し空堀は完全の状態ではないわけで、それは陸軍が来たときに、馬出し空堀は埋められてしまい、当時の完全な形での修復が困難であったためであったものと思われます。
T字路の馬出しから堀が直角に曲がる辺りに、陸軍が来たときには、ため池が作られていて、現在の通路上に橋がかけられていて、現在の空堀の場所には洗面所・厠・講堂・台所・物置などがあり、現在では考えられないよな状態だったようです。

170メートルほど進んだところで駐車場のローターリー出て、ここを右(南)に馬出し空掘りに沿って30メートルほど進むと、左(東)に下っていく細い道がありますが、この道は成田街道(佐倉道)その93で訪れた姥が池に通じる道で、築城当時からある古道でここから100メートルほど下れば姥が池の十字路にたどり着きます。

細道の分岐点から40メートルほど空堀に沿っていくと、今度は右(西)に曲がり80メートルほど進むと左(南)に曲がり、10メートルほどで椎木門跡からの道と合流(合流点は、先に歩いた兵営の便所跡への細道への分岐点)します。
ここまでが馬出し空堀の外側の範囲で、実際の通路は、合流点から北へ20メートルほど進み、ここから両側へ各30メートルほど進み、両側共に南へ30メートルほど進み、現在の通路に戻るというふうになっていて、この道筋の内側には土塁があってそのために屈曲した道筋になっていました。

駐車場のロータリーまで戻り、今度は東へ駐車場内を奥まで進み、東端の少し起伏のあるところに説明板があり、その右後方に墓碑があります。

佐倉城址公園 駐車場奥 軍犬・軍馬の墓

佐倉城址公園 駐車場奥 軍犬・軍馬の墓。(城内町)

説明板には

⑨軍犬・軍馬の墓
軍曹安藤能一が建てた軍犬房号之墓(昭和7年)、近衛歩兵第五連隊第二機関銃隊が建てた軍馬北盤之墓(昭和18年)が並んで立っています。連隊の敷地内には、犬舎・鳩舎・厩舎がありました。

とあり、この駐車場の辺りには連隊の犬舎・鳩舎・厩舎が建てられていた場所に当たりますが、佐倉城時代には武家屋敷がありました。

駐車場のロータリーまで戻り、今度は北に50メートルほど進むと、左(西)に広い道と階段がありますが、この道は国立歴史民俗博物館の正面入口への道になっていますが、当時は道はなく、博物館のある辺りは武家屋敷がありました。
ここからさらに30メートルほど進んだ左に説明板があり、そこには

椎木曲輪(侍屋敷)
歴博があるのは「椎木曲輪」と呼ばれる侍屋敷地区で、連隊時代は兵舎がありました。歴博駐車場も侍屋敷の跡で、外側には「杉坂」と呼ばれる坂や秋葉神社がありました。

とあります。

説明板から60メートルほど進むと道は左にカーブしていきますが、このカーブをするあたりに、佐倉城時代には東西に道があり、ちょうど国立歴史民俗博物館の施設の裏側に博物館用の道があるのですが、ここが椎木曲輪の大通り(馬出しと芝生広場の間の道)から杉坂へ向う道で、ここから東へ60メートルほどのところで坂道になり、この坂道の北側の崖上に秋葉神社がありましたが、現在はありません。
秋葉神社について、佐倉市史には

秋葉神社。椎木曲輪の杉坂の上にある。祭神は迦具土神(かぐつちのかみ)で火を掌る神。

とありますが、この秋葉神社がどこへ遷座したかについては記述がなく、そのまま廃社になったのかどうか定かではありません。

杉坂を40メートルほど下ると七曲曲輪に出て、一度東に30メートルほど進み水堀に当たったところで南に100メートルほど進み、今度は西に40メートルほど進み、そこから南に80メートルほど進むと、成田街道(佐倉道)その93で訪れた右側に丘が迫ってくるところ(練習用の12階段から東に進んだ菖蒲園あたり)へ出てきます。
この道はほとんど9割がたは残っていませんが、唯一、国立歴史民俗博物館の施設の裏側に博物館用の道として70メートルほどが残っています。

カーブから120メートルほど道なりに進むと今度は右にカーブしはじめるあたりの右側に説明板があり

円勝寺跡・愛宕神社跡
円勝寺は城内にあった真言宗の寺院でしたが、明治の廃仏毀釈で消滅しました。奥には愛宕神社があり、田町の氏神でもありましたが、連隊建設後は立ち入りが禁止されたため、移転しました。

とあり、説明板の後あたりに円勝寺があり、その左奥側に愛宕神社がありました。

愛宕神社は海隣寺町に移転しており、愛宕神社については、成田街道(佐倉道)その88で詳しく触れているのでここでは省略しますが、円勝寺について、佐倉市史には

前半省略

この円正(勝)寺は土井利勝の築城当時には下町にあったが、後に愛宕に移した。この寺は近世以前からの鹿島村時代の建立であろうが、近世の佐倉城として整備された後もそのまま残ったが〝真言宗・大貧寺也〟(真佐子)と見える。

...以下省略

とあります。

この部分は、成田街道(佐倉道)その88で訪れた愛宕神社のときに載せた愛宕神社と五社の記述の一部で、ここでは抜き出しをして載せています。

創立年代は土井利勝の築城以前とあるので、少なくとも慶長16年以前であり、鹿島村成立頃と仮定をすると、鹿島幹胤が築城を始めた頃としても、天文年間(時期がはっきりしていない)に遡るということになりますが、その時期はやはり確定をすることは出来ませんが、あまり裕福なお寺さんではなく、古今佐倉真佐子にもあるように、かなりの貧乏なお寺さんだったことがわかり、明治の頃にはすでに無住のお寺さんになっていたのかもしれません。

慶長16年は1611年、天文年間は1532~1555年の間。

円勝寺の南側もしくは愛宕神社のあった辺りに、現在京成佐倉駅近くの鏑木町にある勝全寺がありました。
そのことについて、総州佐倉城には

前半省略

鹿島城もこの類型に属し城ノ内は近世佐倉城の椎木曲輪です。ここには当時鹿島村の集落があり東の崖には腰曲輪を設けその下方を削って円正寺を、その土は盛って物見台とし愛宕神社を祀り、また幹胤の開基による勝善寺を創建しました。この一画の東端が追手門に当ります。

...以下省略

とあり、勝善寺とは勝全寺のことで、佐倉市史には

前半省略

この頃、本佐倉城にいた千葉介邦胤は北条氏政のすすめで本佐倉から鹿島台に本城を移そうとして、幹胤か初めて中絶していた鹿島城の工事を再び初めたので当寺はその際、鏑木に移したものだという。その場所は『明暦三年、佐倉屋鋪割絵図<城主は堀田正信時代>』には「正善寺」と張紙してある。大体現在の宮小路41~43番地の奥の方にあたる。後にまた現在地の中尾余に移転したのであるが、一説には承応年中というが、右の絵図には勝全寺が宮小路にあるから、正信時代の明暦(一六五五~)以降に移転したものと思われる。移転の事情は宮小路が侍屋敷に新規割当てられた結果によるものと思われる。

とあり、旧佐倉警察署のあった附近にあったことがここに記述されています。

明暦三年は1657年、承応年中は1652~1655年の間。

ということは、総州佐倉城にある記述は、土井利勝が築城する以前の話になり、愛宕神社も円勝寺も勝善寺(勝全寺)もすでに城内にあったということになり、佐倉市史の記述と食い違いがあるようです。
少し整理して考えてみると、鹿島城建築当時には、愛宕神社と勝善(全)寺が建立され、その後鹿島城建築再開に伴い、漆坂の旧佐倉警察署があった辺りに移動し、勝善(全)寺があったところに土井利勝が佐倉城を築城寺に円勝寺を移転させ、明暦以降に勝善(全)寺は旧佐倉警察署のあった辺りから、現在の鏑木町中尾余に移転したというふうに考えられます。

円勝寺跡・愛宕神社跡の説明板のところ辺りから坂を20メートルほど行くと、Y字路があり、左(南)に行く道は、現在国立歴史民俗博物館の専用道路になっていますが、佐倉城時代はこちらの道が城内へ進む登城道で、今まで歩いてきた道は連隊が来たときに作られた道で、当時はここには南北の道はありませんでした。

登城道の東側を椎木曲輪、西側を下屋敷と呼んだようで、境界線はこの登城道で、このY字路から南に50メートルほど進み、ここから西斜めに50メートルほど進みそこから南に120メートル進み、馬出し空堀の西端から50メートル進みそこから東に30メートル、さらに北に30メートル進み東に30メートル進んでさらに南に30メートル進み、空堀のところの土橋を渡り椎木門から三の丸へ入るようになっていました。
他に椎木曲輪の真中(現在の駐車場ロータリーからの通路)からも馬出し空堀を回り土橋を渡り、椎木門から三の丸に入れるようになっていました。

Y字路からは愛宕坂になり、40メートルほど行くと、左側に説明板があり

①衛兵所跡
ここに常に衛兵が立ち、連隊に出入りするものを監視していました。

とあり、道の両側に渡って門がありました。

この衛兵所跡の後ろに広場があり、その奥に石の仏像があります。

佐倉城址公園 佐倉城 石仏

佐倉城址公園 佐倉城 石仏。(城内町)

説明板には

古園石仏大日如来像複製

日本を代表する臼杵磨崖仏のなかで、最も有名な古園石仏(大日如来及び諸尊像13体)の中心をなす大日如来像である。凝灰岩の岩壁から彫り出したもので、平安時代後期の木彫像に通ずる本格的な作風を示す丈六仏(約2.8m)である。

とあります。

衛兵所跡からさらに愛宕坂を60メートルほど進むと、右に成田街道(佐倉道)その87で訪れた旧田町門に通じる細道があり、この道のところ水堀側に説明板があり

田町門跡・愛宕坂
成田街道に沿った城下町の一部「田町」から城内への門で、門の裏手に番所がありました。現在歴博のある場所は椎木曲輪と呼ばれ武家屋敷がありました。田町門から現在歴博のある椎木曲輪へ上がる坂は、愛宕神社の下にあるため「愛宕坂」と呼ばれていました。現在の歴博入口は連隊建設の際にまっすぐに出入りできるように変更されたものです。

とあります。

この説明板の逆側には佐倉連隊跡の説明板があり

佐倉連隊跡案内図

案内図は省略

明治7年、日本最初の軍隊歩兵第二連隊が佐倉に駐屯し、多くの部隊が編成・訓練され、西南戦争、日清・日露戦争にこの地から出征されました。明治42年には、第二連隊にかわって歩兵第五七連隊が移転し、昭和19年のフィリピン線で多くの命が失われ、壊滅しました。

とあります。

説明板から東に30メートルほどの左に旧田町門があり、田町門について佐倉市史には

一、田町御門、『佐倉真佐子』には瓦葺の冠木門、二階なし、シャチホコ附、門前土橋左右小堀、搦手の門也。袖瓦塀八間三尺 掛塀三間板笠 柵九間三尺 矢挟間四ツ 竹行馬三間三尺 井戸一ヶ所 天水桶一ツ

とあります。

佐倉町 田町 鹿島(鹿島町) 旧田町門跡

佐倉城址公園 佐倉城址 田町門跡。(城内町)

成田街道(佐倉道)その87でも載せましたが、この写真の左に田町門、右側の広場になっているあたりに番所と井戸がありました。

田町門跡から東へ50メートルほど進むと前方に土塁の間に作られた切道しがあり、そこを抜けると両町橋があります。
この両町橋は佐倉城時代にはなく、さらに切通しはなくここは土塁で仕切られていました。
切通しの手前の土塁(南側)のほうに土塁に沿って崖に側に広場があり、現在は民家が建っていますが、この民家から南、水堀に沿って曲輪があり、この曲輪を後家曲輪といっていました。

佐倉市史には

ゴケ(後家)曲輪。田町門側の愛宕神社下の方から椎木曲輪の東端にある秋葉神社の南の杉坂にかけての低いところをゴケ曲輪という。

...中略...

この地をゴケグルワというが後家(寡婦)には関係なく、地名の出典は不明であるが、家が八戸あったから八軒といったように、後の堀田時代には五軒(五家)あったからゴケグルワと呼ぶようになったものでなかろうかとも考えられる。因に鹿島村が中世以前からあったことから千葉氏一族の御家人が住んでいたことからだという見解もあるが、如何なものであろうか。

とあります。

この後家曲輪は現在は歩くことは出来ませんが、220メートルほど進むと、杉坂と合流し、その先は七曲曲輪となり、七曲曲輪の七曲はくねくねと曲がり道が多いのでそう呼ばれているようです。

後家曲輪の上の林になっているところは、昔ウノクソヤマと呼ばれていたようで、佐倉市史には

ウノクソヤマ

椎ノ木曲輪の愛宕神社から秋葉神社迄辺には大松の並木があるが、ここへは鵜が年中集って巣をつくっている。この松の木の下は小笹の山であったが、鵜がくわえて来た魚が、そこにたくさん落ちているので、この辺の組長屋の者はこの魚を拾った。この辺は鵜の糞で一面白く雪のようであったと。数百羽の鵜がとまるので木が枯れるから、城主所替の前(城主は松平乗佑で延享年間)全部の枝を伐り払ったので鵜はとまらなくなった。鵜のとまっていた頃はとてもやかましく、この辺を人はウノクソ山の異名で呼んでいた。

とあります。

延享年間は1744~1748年の間。

現在は鵜はいませんが、変わってカラスが結構鳴いて騒いでいます。

田町門跡・愛宕坂の説明板まで戻り、今度は逆側(西)の大きい道を道なりに520メートルほど進むと、鹿島不明門に行く道に接続しますが、ここまでが根曲輪・西根曲輪と呼ばれているところになります。

根曲輪・西根曲輪について、佐倉市史には

根曲輪・西根曲輪。位置は下屋敷の西側の崖下と三十間堀(堀の巾が三十間)との間で、東西の帯状であるが東部で彎曲している。土井時代にはここに十六戸の独立した侍屋敷をつくった。前の堀田時代もそれをうけついで変化はないが、松平乗久時代には更に拡張された。その一つは右の屋敷の略中間の畑地に道路をはさんで、小細工所と小細工小屋が設けられ、小細工人の名前が寛文の絵図に四名見える。いま一つは厩と馬場を作った。

以下省略

とあります。

ここまでで、ほぼ佐倉城址は回ったことになりますが、これを全て回ると相当時間かかりますので、ここまでの説明をご覧になってから要所を回ることがいいでしょう。
国立歴史民俗博物館も全て見るには2.3時間はかかりますから、城址公園とセット時は丸一日がかりで訪れるといいでしょう。

田町門跡から椎木門跡、車道から大手門跡に戻り、佐倉養生所跡の碑まで戻ります。

ということで、今回はここまで。

参考文献は、「歴史の道調査報告書 成田街道」、「佐倉市史」、「千葉県印旛郡誌」、「佐倉市誌資料」、「多輪免喜」、「佐倉風土記」、「佐倉文庫」、「古今佐倉真佐子」、「佐倉城跡発掘調査報告書(国立歴史民俗博物館発行)」、「佐倉城の歴史」、「総州佐倉城(佐倉城本丸発掘調査概報)」、「佐倉城大絵図」、「総州佐倉御城府内之図」より。

引用は各文献と各社寺の説明板、地域の説明板より。

今回の地図は「佐倉道6」です。

国土地理院25000分の1「佐倉」より作成しています。

佐倉道 佐倉城址公園佐倉城址本丸跡(千葉県佐倉市城内町)から佐倉城址公園佐倉城址椎木門跡(千葉県佐倉市城内町)まで

台所門(不明門)跡から左右に空堀を見ながら土橋(現在は普通の道になっている)を30メートルほど進むとT字路になり、ここからはもう一度二の丸内になり、T字路左(北)の道は子規の句碑の先のT字路から右(南)に曲がって進んできた道ですが、このT字路は右(南)に進んでいきます。

佐倉城の一から三の丸の位置関係の図を載せます。

佐倉城の縄張りの簡単な関係図

佐倉城の縄張りの簡単な関係図。

T字路から右(南)に少し行くと「帯曲輪・出丸跡」の指示板があり、ここを左に曲がりながら50メートルほど坂を下るとY字路になり、前方に進むのが帯曲輪への道で、左下に進んでいくのが出丸跡への道になり、ここでは先に出丸跡に進むことにして左下への道に進んでいきます。

20メートルほど下ると今度は右に曲がり、30メートルほど下ると出丸跡の入口になる十字路に出ます。
この十字路の左からの道は、成田街道(佐倉道)その91で歩いた、三の丸の坂上木戸門跡から下っていく浅間坂の途中から来る道で、この道は江戸時代にはなかったもので、この道も連隊が来たときか、公園整備の時に出来た道と思われ、右(西)への道も、連隊が来たときか、公園が整備されたときのものと思われます。
十字路を真っ直ぐに進んで出丸跡に入り、40メートルほど道なりに進んだ辺りが清水門があった辺りです。

佐倉城址公園 佐倉城址 南側出丸跡

佐倉城址公園 佐倉城址 南側出丸跡。(城内町、右に見えるのがL字の土塁)

出丸跡はかなり改変がされていて、当時の遺構がほとんど残ってませんが、土塁の跡が唯一残っています。
この出丸は佐倉市史によると二の丸のところに記述ががあり、清水門については

一、出丸清水御門 二間に三間 袖塀二間四尺 竹行馬百拾七間。台所門から下りで二町余ある。二ノ丸続きではあるが別郭であるから平日は〆切の場所。この門は本丸崖下の水堀で遮断されているが堀沿いの通路とは引橋で必要によりつなげる仕懸であった。

とあり、この出丸の周りに竹で作った馬除けと清水門には竹矢来があったことと、清水門からは対岸(現在の駐車場側)に引橋を下ろして、必要な場合通行が出来るようにしていたことが記述されています。

清水門の「清水」は、おそらく、浅間坂とハリスと堀田正睦の銅像の所の出丸跡へ下りていく道の合流点から下ったすぐ左(南)に、現在コンクリートで囲っているものがありますが、ここはもともと湧水点(清水の湧き出し口)であったところで、現在も水が少し湧き出ているのですが、この清水が清水門の名の由来になったようです。

出丸跡中央やや西より側から中心部に向って西向きのL字状の土塁が残っていて、土塁の西端と水堀川の土塁の東端を結ぶところが清水門があった位置で、その先の現在は地面になっているところあたりには水堀があったわけですが、ここは崖崩れで徐々に埋まったものか、連隊が来たときに埋められたもの定かではありません。

十字路の右(東)の道沿いにはレンガ造りやコンクリート造りの遺構がありますが、これは連隊の遺構で、東側の水堀が切れているあたりに土手が東に長く続いていますが、是も連隊のときももので、この場所には南射撃場というのがあって、ここで砲弾や機銃などの射撃訓練をしていたわけです。そのため、この部分にある佐倉城の遺構は、射撃訓練の対象になったためほとんど破壊されてしなくなってしまい、そのため坂下門や鷹匠町の遺構なども今日残っていません。
その射撃場の西端に当たるこの出丸の東側も、実際は水堀があり、現在のように直線ではありませんでした。
おそらくレンガやコンクリートの遺構は、この水堀を埋め立てたときのものであると思われます。

出丸跡の十字路からY字路まで戻り、今度は左(台所門からだと直進)に進むところが帯曲輪で、ちょうど本丸崖下に当たり銅櫓の直下あたりまで続いています。
Y字路から100メートルほどの左に説明板があり、そこには

帯曲輪跡
帯曲輪の位置
本丸を囲む空堀の一ノ門寄りの堀の落ち口から台所門寄りの堀の落ち口の間に位置し、延長約二百六十メートル、巾約四メートルから五メートル、武者走りから帯曲輪まで約二十五メートル、帯曲輪から根方(水堀際)まで約十五メートル。
帯曲輪の用途
帯状に細長く城のまわりを囲む曲輪でその用途は、敵が城の根方より攻撃し、帯曲輪までよじ登ってきたとき武者走りにあらかじめ用意して置いた石材、木材などを投げ落し、反撃するために設けたものである。

とあります。

武者走りは、現在は見た目ではすぐにわからない状態ですが、よくよく観察をすると細いい道筋がありますが、ところどころ崖崩れによって消滅しています。

説明板からさらに190メートルほど進むと、左下に少し急に下る坂道があり、ここを下りたところで左から来る清水門のあった出丸の十字路を水堀に沿って進んでくる道と合流します。
合流したところから右(北)に30メートルほど行くと、今度は前方(北)から来る道と合流して左(西)に道は進みますが、この辺りから西側に道よりもかなり低くなった広場とかなり高い土塁があり、ここは西側の出丸の跡です。

佐倉城址公園 佐倉城 西側出丸跡

佐倉城址公園 佐倉城 西側出丸跡。(城内町、写真は出丸跡南側の土塁上から見たところ)

合流点から30メートルほど進むと道は左(南)に曲がり、30メートルほどさらに進んだあたりに門があります。

佐倉城址公園 佐倉城址 西側出丸跡 旧城門

佐倉城址公園 佐倉城址 西側出丸跡 旧城門。

この門の北側には説明書きがあり

この門は昔城内にあったものであるが市内の酒造家土井家■(に)下賜され長くその表門として使用された 昭和三十七年城主堀田家の菩提寺である甚大寺がこれを譲り受け保管していたがこのたび市に寄付しこの地に復元されたものである
昭和五十七年三月
安城山甚大寺住職小川長顕識

とあります。

昭和三十七年は1962年、昭和五十七年は1982年。
■はくずし文字になっていて、少しにじんでいるため読みづくなっていますが、()内の文字はおそらく入るであろう文字です。

どこにあったものかについては記されていませんが、屋敷門であることは確かで、甚大寺にあったことなどを考慮すると、御対面所にあったもの、もしくは三ノ丸御殿にあったものとも考えられます。
解体前の三の門辺りの写真に、この門に良く似た屋敷門が写っており、もしかすると、その写真にある屋敷門であったのかもしれませんが、記録がないのでなんともいえません。

西側出丸跡には城門はなく木戸門(おそらく不明門[あすがのもん])のようなものを設けていたと思われますが、ここに門(旧城門)を置いたのはは記念碑的にここに設けたものでしょう。

旧城門から先に進むと橋があり、水堀を渡って駐車場にいけるようになっていますが、江戸時代には橋はなくこの橋の先にはいけませんでした。

旧城門まで戻って、門の横(西)に土塁へ上る階段があり、ここから土塁に上がり、ぐるっと歩いていきます。

佐倉城跡発掘調査報告(国立歴史民俗博物館発行)に

...このふたつの出丸も、出撃を強く意図した馬出し的な空間で、印旛沼につづく低地への城道を確保していた。つまり佐倉城は台地つづきの西方、椎木曲輪への北方、低地側の西・南方といった四方の要所に、土づくりではあっても強力な出撃力をもった馬出しを備えることで隙のない縄張りを実現したのである。

とあり、攻撃と防衛のための砦であったことが伺えます。
先にある橋の部分には、おそらく、南側の出丸にもあった引橋のようなものを戦時には使ったか、もしくは大きな板橋や舟橋(ある程度大きな舟の上に板を張り橋にしたもの)を使って渡っていたものと思われます。

土塁上から見てみるとかなり広く、しかも外からだとこの中がまったく見えないようになっていて、この出丸の中に人や馬がいても気付かれないようになっていることがわかると思います。

ぐるとっ回って土塁を下りると、先に帯曲輪から下りてきた合流点に戻ります。
合流点から左(北、帯曲輪からだと右に進む)に進む道はヘビ坂に合流していく道ですが、今回は帯曲輪に戻り台所門(不明門)跡前のT字路まで戻ります。

佐倉城址 城内の図

佐倉城址 城内の図。(三の丸まで)

台所門(不明門)跡前のT字路を直進(北、台所門跡からだと左)し、左に空堀を見ながら70メートルほど進むと、一の門へ進むT字路(子規の句碑の近くの)に戻り、T字路を左に40メートルほどの一の門跡へ進む手前の右の空堀方向(林になっている方向)へ曲がり(右、北)、40メートルほど進んだあたりの右側の広場が御対面所の裏門があった辺りになります。
空堀(林になっているところ)が左(西)に向っているところで、同じく左(西)に60メートルほど進むと、少し小高くなったところがあり、その小高くなったところに大きな石がたくさんあります。

佐倉城址公園 佐倉城址 二の丸 佐倉城の礎石

佐倉城址公園 佐倉城址 二の丸跡 佐倉城の礎石。(城内町)

この大きな石は、佐倉城の礎石であったもので、説明板には

昭和五十九、六十年(一九八四、一九八五年)国立歴史民俗博物館の研究棟を建設するために、同敷地を発掘調査し、旧陸軍の営所跡を検出した。
兵舎跡の基礎には、大量の石が詰めてあったが、主柱の建つ位置には佐倉城の礎石を埋め込んでいた。佐倉城は、江戸時代初期の元和年間(一六一〇年代)に土井利勝がこの地に築いた城である。明治時代初期(一八七三年)に同じ場所に陸軍の営所をおく際に、佐倉城の建物は取り壊し、その基礎を兵舎の基礎に転用したのである。

とあります。

ちょうどこの礎石があるところに御米倉(後に金蔵)があった場所で、丘の右側(北)とその北にある花畑との間には通路があり、その先に下りる道がありましたが、この道は現在消滅(崖崩れしているため)していてありません。
現在の花畑になっている部分は南側には御米倉があり、北側は空堀になっていましたが、陸軍が来たときに埋め立てられて、現在のようなほぼ平坦の場所になっています。
ただし、花畑の後は林になっていますが、このあたり注意してみてみると突然崖(落下の危険があるので見に行かないほうがいいでしょう)になっている部分があり、若干空堀の名残があります。

佐倉城の礎石がある丘の前から北に30メートルほど進むと、左右に若干窪んだところがあり、その中間あたりだけ高くなって広い道になっているところがあり、この小高く(ほんの少しだけ)なったところには不明門(あかずのもん)がありました。

ここには説明板などありませんが、佐倉市史には

一、御城米不明御門 三間梁八間二階作り、畳は二ノ御門と同様。天水桶一 この門は馬具方役所で馬具を二階にいれておいた。

とあります。

このあたりにいろんな形をした構造物(テーブルとかいすとかの残骸のようなもの)があり、右側(東)に林が見え、この下は空堀がありますが、その林から不明門と、さらに花畑の北側が直線上になるのが確認できると思いますが、この直線上のところ不明門の左右まで、かつて空堀があり、やはり陸軍が来たときに埋め立てられ消滅してしまいました。

この不明門跡の右(東)の林(後に空堀)に沿って10メートルほどのところに、御対面所前に三社がありました。
三社について佐倉市史には

二ノ丸の八幡宮。新規に建て、文政六年十二月九日遷宮、中央に東照宮、左に八幡宮、右に高良明神を祀った。

とあります。

文政六年は1823年。

この三社がどこに移ったのはなどは佐倉市史にも記述がなく、三社ともに廃社されたのではないかと思われます。

不明門跡から北は三の丸の北西側部分になり、右側(東)は現在広場兼駐車場(花見の時期など)になっており、左側(西)も広場と林(桜が多い)になっています。

不明門跡から50メートルほど北に進んだあたり大木のあたりに説明板があります。

③佐倉陸軍病院跡
創設は明治7年。佐倉屯営病室・佐倉営所病院・佐倉衛戌病院・佐倉陸軍病院と名称が変遷した。昭和40年代までテラスを配した洋風病棟が残っていました。

とあり、この辺りから佐倉城の礎石がある辺りまでと、御対面所のあった辺りに病院施設がありましたが、昭和20年に国立佐倉病院、昭和25年に国立療養所佐倉病院、昭和28年に国立佐倉療養所と名称が変わり、昭和54年に国立佐倉病院として、成田街道(佐倉道)その84で名前の出ていた聖隷佐倉市民病院の場所に移転しまし、その後聖隷佐倉市民病院になっています。

昭和40年代は1965~1974年までの間、昭和20年は1945年、昭和25年は1950年、昭和28年は1953年、昭和54年は1979年。

佐倉陸軍病院跡の説明板から今度は右(東)に60メートルほど進むと舗装された道があり、ここを左(北)に20メートルほど進んだ左に説明板があります。

椎木門跡
北面、木造、本瓦葺、二階造り 梁間三間、桁行七間。
前面に馬出しが設けられていた。

とあり、説明板の図には門の両側に御米蔵が描かれていて、この御米蔵について佐倉市史には

一、椎ノ木御蔵 前の堀田氏時代(明暦三年)には、後のように一ヶ所にまとめないで、一部は椎木曲輪の東南端にあった。それが松平乗久時代の寛文年間、初めて椎木蔵が一ヶ所に整備され、以来幕末に及んだ。

とあります。

この椎木門跡の説明板の前の舗装路の東側、林がある後には空堀があり、椎木門跡の説明板の後(西側)にも空堀がありましたが、これも陸軍が来たときに埋められて現在のように平地になっています。

椎木門跡から舗装路を南に道なりに130メートルほど左手に駐車場とテニスコートを見ながら進むとY字路があり、Y字路の左の下に下りていく道がある辺りの左(下る道の上)には蔵番(番所)があったところで、駐車場とテニスコートのある場所には、椎木門跡の説明板ある図に載っていた東側の御米蔵があった場所になります。
Y字路を右に70メートルほど進むと、成田街道(佐倉道)その91に訪ねた三逕亭の北側のトイレのあるT字路につながり、これで三の丸の北側と南側とを歩き三の丸全体を回ったことになります。

Y字路まで戻って、下っていく道を70メートルほど急坂を下りると十字路があり、右のほうには東屋があり、その先の崖の上に上がっていく道は三逕亭の北のトイレの東側30メートルほどのところに出ます。

十字路を直進(東)し60メートルほどのところにY字路があり、そのY字路の右側(西)の平場の上に小さなコンクリート造りの建物が見えますが、この建物は物置ではなく、陸軍で使用されていた脂油庫であったものです。

Y字路を右に20メートルほどで、成田街道(佐倉道)その91で訪ねた車道の碑のあるところに出てきます。
Y字路を今度は左(北)に60メートルほど右に崖を見ながら進むと、右側の崖との間に平場があり、そこに説明板があり

⑦弾薬庫の跡
姥が池西側坂道を登った奥の窪地にありました。万一の爆発に備えた土手や建物に使われたコンクリートの一部が残されています。

とあります。

弾薬庫の跡からさらに40メートルほど進むと前方に池、左側から池に沿った道が合流し、60メートルほど左に池を見ながら進むと、右側から成田街道(佐倉道)その91に訪ねたくらしの植物苑の西側に下りていく道(トイレがある空堀を利用した急坂)が接続します。

十字路まで戻り、左(北)に右手に梅林を見ながら70メートルほど進むと、池が見えここでY字路になり、右に進む道は先ほど訪れた弾薬庫の跡空の道に50メートルほどで接続します。
Y字路を左に池に沿って90メートルほど行くと四辻(変形十字路)があり、右(南)から来る道は、先ほど訪れた弾薬庫の跡からの道とくらしの植物苑の西側に下りていく道(トイレがある空堀を利用した急坂)が合流したところから40メートルほど進んできた道です。
これでほぼ池の周りをぐるっと回ったわけですが、この池が姥が池です。

佐倉城址公園 佐倉城址 姥が池

佐倉城址公園 佐倉城址 姥が池。(城内町)

四辻のところには説明板があり、そこには

姥が池

この池は江戸時代、かきつばたの名所でした。春先には近在のひき蛙が数千匹あつまり、左右にわかれて昼夜7日間、蛙合戦を行なっていたと、「古今佐倉真佐子」(江戸時代中頃の書物)に記されています。
後に(天保年間)この池の周りで家老の娘のおもりをしていた姥があやまって娘を池に落してしまい娘はそのまま沈んでしまいました。姥は困り果て身を投げたと伝えられ、以来「姥が池」といわれるようになりました。

とあります。

天保年間は1830~1844年の間。

土井利勝時代の佐倉城本丸附近絵図(佐倉市史に載せられている)には「ため池」とあり、「姥が池」の名はまだ付いていないことがわかります。

現在は蓮がかなりあり、蓮池と行ったほうがいいほどになっていてます。
蛙はひき蛙もいますが、うし蛙が結構いて、夏場はうし蛙たちの「むぉおー、むぉおー」という声がかなり響き渡ります。

三の丸御所があった駐車場のトイレのところの道(くらしの植物苑の西側に下りていく道)はもともとなかったもので、ここは空堀があり、現在の姥が池の南端の所の崖の部分から、東側にある広場には武家屋敷がありました。

姥が池の西側の現在梅林になっているあたりには畑(畠とある)があり、このあたりで城内の食料(葉ものや甘藷など)を作っていたものと思われます。

四辻から東に40メートルほどの左にコンクリート製の階段があります。

佐倉城址公園 佐倉城址 訓練用の12階段

佐倉城址公園 佐倉城址 訓練用の12階段。(城内町)

階段の左に説明板があり

⑧訓練用の12階段
兵士が高所からの飛び下り訓練に使用したコンクリート製の階段。木製の飛び下り台と違い、壊すのが大変なため、戦後も残ったと考えられます。

とあります。

説明板の写真にも、飛び下りの訓練をしている様子が写っていてますが、結構下の段で飛んでいるのではたしてこれで訓練になるのかと疑問に思ったりもしますが、一番上からだと高さがあるのでそれなりに訓練になっていたのでしょう。

さて、この階段の一番下に実は木製の基台が残っていましたが、現在はその部分が削れてなくなっており、土がだいぶ下まで見えるほど削れてしまったようです。
おそらく土が雨で流れるのを防止していたものであったと思われますが、同じように木の基台は階段の後方1メートルほどのところにもかすかに残っていましたが、こちらも削れて(腐って)なくなってしまったようです。

訓練用の12階段のある場所には、やはり武家屋敷があり、その後方の小高く(結構急な小さな崖がある)なっているところがあり、ここは少し広くなっており、ここは曲輪であったかもしくは竹林であったところと思われます。

姥が池辺りの図を載せます。

佐倉城址公園 佐倉城址 姥が池附近

佐倉城址公園 佐倉城址 姥が池附近。(城内町)

訓練用の12階段前の道に戻り左(東)に130メートルほど道なりに進んだあたり右側に丘が迫ってくるところがありますが、ここまでの右側(南側)は現在蓮池(菖蒲園、2000年ごろまでは草原だった)になっていますが、江戸時代の絵図(堀田氏時代の絵図)には「水花ダン」とあり、当時も花畑であったことがわかります。
丘の迫っているところから南には谷津になっていますが、ここには武家屋敷(花畑を管理する奉行の屋敷か?)があり、この辺りから谷津に沿って上に上がる道があり、この道は佐倉中学校のある天神曲輪の天神社があったところに出る道でしたが、現在はその道は蓮池(菖蒲園)の奥までは畦道として残っているものの、谷津を上る道は崖崩れで消滅しています。

今度は逆側(北)ですが、ここにも蓮池(菖蒲園)になっていますが、その蓮池(菖蒲園)と民家との間の大きな木があるところに、少し広いく細長い広場状のところが50メートルほどありますが、ここは七曲と呼ばれる曲輪につながっていた道で、現在は住宅地になっていてその道筋が150メートルほど消滅していますが、その住宅地の後ろ崖のところには途切れ途切れに道が130メートルほど残っていますが、現在は崩れていたりして歩くには向かない状態になっていて、両町橋まで実際は続いていましたが、残念ながら消滅しています。

この蓮池(菖蒲園)の左右の直線の部分は「御搦手」と記載があり、戦があり万が一城が危なくなったときに、こちらから城主などが逃げるためのところであったのですが、江戸時代にはその役目はほとんどなく、畑や花畑に屋敷などが立ち並んで、どちらかというと食糧倉庫のような場所になっていたと思われます。

丘が迫って来る場所から60メートルほど道なりに進むと、大きな道路に出ますが、その手前にビオトープが右にあるところあたりに、両町橋のところにある水堀が現在の道路に沿って続いていて、さらに道路に沿って東に味噌部屋まで続いていました。
御搦手からこの水堀までには警備のための屋敷と蔵があり、水堀には緊急時に木橋が架けられここから出入りが出来るようになっていました。

御搦手から姥が池の四辻(変形十字路)まで戻り、右(北、蔵番(番所)跡のあったY字路からだと左)に上っていく道を100メートルほど行くと国立歴史民俗博物館の駐車場に出る道に接続しますが、ここは上らずに蔵番(番所)跡のあったY字路まで戻り、さらに椎木門跡まで戻り、北に進んでいきます。

ということで、今回はここまで。

参考文献は、「歴史の道調査報告書 成田街道」、「佐倉市史」、「千葉県印旛郡誌」、「佐倉市誌資料」、「多輪免喜」、「佐倉風土記」、「佐倉文庫」、「古今佐倉真佐子」、「佐倉城跡発掘調査報告書(国立歴史民俗博物館発行)」、「佐倉城の歴史」、「総州佐倉城(佐倉城本丸発掘調査概報)」、「佐倉城大絵図」、「総州佐倉御城府内之図」より。

引用は各文献と各社寺の説明板、地域の説明板より。

今回の地図は「佐倉道6」です。

国土地理院25000分の1「佐倉」より作成しています。

佐倉道 佐倉城址公園佐倉城址三の丸跡その1(千葉県佐倉市城内町)から本丸跡(千葉県佐倉市城内町)まで

三逕亭前にあるT字路のタウンゼント・ハリスの像と堀田正睦の像の間の道を進んでいきます。
右手に空堀を見ながら10メートルほど進むと、左側に細道があり、この細道に沿って南に空堀がありますが、当時の空堀は細道のあるところまで広くありましたが、やはり連隊が佐倉城に来た時期か、戦後にこの場所に道がつくられたものと思われ、この細道は成田街道(佐倉道)その91の三の丸の坂上木戸門から下りていく浅間坂の道に70メートルほど下ったところで合流します。
細道のあるところから30メートルほどで空堀を渡った(空堀と空堀の間には土橋があった)あたりの両側に土塁が残っており、土塁と土塁の間に二の門がありました。

佐倉城址公園 佐倉城址 二の門跡

佐倉城址公園 佐倉城跡 二の門跡。(城内町)

説明板には

二の門跡
東面、木造、本瓦葺、二階造り、梁間三間、桁行八間
本丸から大手門にいたる第二の門で「二の御門」と呼ばれていた。
一の門の東方一直線上にあたり、武器庫として使用された。門内は二の丸といい、藩政を執る役所が置かれていた。

とあり、二の門の西から北にかけて二の丸内となります。

二の門跡から20メートルほどの左側に句碑があります。

佐倉城址公園 佐倉城址 二の丸 子規の句碑

佐倉城址公園 佐倉城址 二の丸 子規の句碑。(城内町)

これは正岡子規の句碑で、右となりの説明板には

常盤木や冬されまさる城の跡

    (「寒山落木」巻三自筆稿)

明治の時代思潮を体現し、俳句・小説・文芸評論・写生画などに活躍した 正岡子規(一八六七-一九〇二)は、一八九四年(明治二十七年)本所-佐倉間に開通した総武鉄道に初乗りして佐倉の地を訪れている。
その時の模様は当時の新聞「日本」(十二月三十日号)に詳しいが、この句はその時詠んだものであり、写生文の創始者として郊外写生の真髄をよく伝えている。
この時すでに子規は病気がちであり、その悲痛も感じられる。
子規は佐倉ゆかりの人間国宝香取秀真、洋画家の浅井忠とも深いつながりがあり、フランス留学から帰国した浅井忠は近くに住んでお互いに敬愛した仲であった。
佐倉にはここの他、国鉄佐倉駅前城南橋付近にも

「霜枯の佐倉見上ぐる野道かな」

の句碑がある。

昭和六十年三月
佐倉市役所 商工観光課

とあります。

昭和六十年は1985年、国鉄佐倉駅は現在のJR佐倉駅のこと。

「本所-佐倉間に開通した総武鉄道」とある「本所」駅は、現在の「錦糸町」駅のことで、明治27年(1894)12月9日に開業しているので、「佐倉」駅もこのときに出来たということで、平成22年(2010)で116年になるわけで、「本所」駅が「錦糸町」駅に名称を変更したのは大正4年(1915)5月1日のことです。

正岡子規が佐倉に関わりがあるということは、余り知られていないようで、説明板などを読んではじめて「そうなのか」と、意外な思いがするのではないかと思います。

子規の句碑から10メートルほどでT字路になり、ここは直進(西)していきますが、左(南)に行く道は台所門へ行く道で、ここは後ほど歩くとして直進していきます。
さて、二の門からの本来の道筋は、二の門跡の右側(北)に残っている小さな土塁(すぐ後は空堀)に沿って30メートルほど進み、今度は左(西)に進んで行くようになっていました。
そして、左(西)に進んでいくあたりの北側には御対面所があった辺りで、後ほど歩いていくところの御蔵米不明御門(不明門跡、現在は説明板などは設置されていない)近くまであった大きな屋敷が御対面所でした。
佐倉市史には

土井氏築城後、利勝の実弟内蔵允が城代としてここに屋敷をもっていた。その後、堀田正信時代の明暦の絵図には記入がないので不明であるが松平乗久の寛文年間の絵図には初めて御対面所となっている。

...中略...

その中に屋形があり城主在邑の時はこの館に住んだ。

...中略...

また城主在府の時は家老外重役が年賀、五節句の祝はここで家中の士からうけた時代もあった。

...中略...

この御対面所も腐朽が著しく修築維持に困難であったので文化二年四月取毀した。そこで城主在邑の折の住居并、年始・五節句の賀祠は本丸の館に代わることとなった。その後「二ノ丸番所」として建て直し公儀の御触書等はここに置いて藩士へ見るように達した。

とあります。

明暦年間は1655~1658年の間、寛文年間は1661~1673年の間、文化二年は1805年。

御対面所が出来たのは、佐倉市史によると松平乗久の代であるのではないかとあり、おおよそこの時期であっているように思われます。
この御対面所の屋形で城主(藩主)が在邑に時に使われたその最初を寛文初年として、最後に使われたのが三ノ丸御殿が完成する寛政十年までとすると138年間使用されたことになります。
安政年間の佐倉城實測圖では「御番所」と記入されています。

安政年間は1854~1860年の間。

二の門を入った屈曲した道筋西側には、大腰掛と呼ばれる腰掛長屋があり、二の門の南から屈曲した道に沿ってL字に北側の御対面所側の二の丸入口までありました。
その腰掛長屋があった位置は、子規の句碑のあるあたりのところに約5メートル幅であったようですが、現在はその遺構の跡もまったくなく、二の門跡から少し斜めになって道が進んでいます。
二の丸の北側は後ほど歩くとして、二の丸南側から本丸へ先に進むことにします。

二の門と一の門あたりの図

二の門と一の門あたりの図。

T字路を今度は直進(西)し、左に空堀(かなり深い薬研堀)を見ながら40メートルほど進むと右側にも空堀(こちらもかなり深い薬研堀)が見えてくるあたりから、やや幅が狭くなっている場所が土橋で、ここを20メートルほど進むと両側に四角く囲われた場所があります。

佐倉城址公園 佐倉城址 一の門跡

佐倉城址公園 佐倉城址 一の門跡。(城内町、写真は本丸から見たところです)

説明板には

一の門跡
東面、木造、本瓦葺、二階造り、梁間四間、桁行八間
本丸から見てはじめての門で「一の御門」と呼ばれていた。門内は本丸といい、天守閣、銅櫓、角櫓、御殿が置かれ、御殿の前庭には金粉をすりこんだ栗石が敷かれていたと伝えられている。

とあります。

佐倉城本丸にあったものの簡単な配置図を載せます。

佐倉城本丸配置図

佐倉城本丸配置図。

一の門跡から本丸に入り見渡してみると、周囲をぐるっと土塁(高い土手)で囲まれているのがわかります。

佐倉城址公園 佐倉城址 本丸 土塁

佐倉城址公園 佐倉城址 本丸 土塁。(城内町)

右側の土塁のところには説明板があり、ここには

土塁
佐倉城は石垣のない土づくりの城です。城の防衛のための土手を土塁と呼びます。土塁は城を外敵から守るために築かれたもので、土塁を巧みに配置して城の守りとしています。本丸の土塁の上には土塀が存在しました。

とあります。

佐倉城に限らず、千葉県内の城の大多数は土づくりの城です。なぜかというと、千葉の台地はもともと海の中にあった堆積地で石垣に使えるような大きな石がほとんど出てこない土地柄(一部鋸山などでは産出していた)であり、そのために土で縄張りを作るか、微高地や小山、丘、扇状地の先端などを利用して城が築かれています。
さらに谷津が多分に発達しているのも特徴で、複雑な谷津と谷津との間の微高地を使って城を築いているので攻められにくいという利点もあったようです。

一の門跡の右側(北)の土塁のさらに右側の奥には、戦時中使われた防空壕の跡がありますが、現在はここは閉鎖され入れなくなっています。

土塁に上がって左に30メートルほどでもう一度左に曲がり、さらに40メートルほどで右斜めに進みすぐに左に進み、しばらく行ったところで右に曲がったあたりに四角に枠どられた場所があります。

佐倉城址公園 佐倉城址 本丸 銅櫓跡

佐倉城址公園 佐倉城址 本丸 銅櫓跡。(城内町)

説明板には

銅櫓跡
木造、銅瓦葺、六間四方、二階造り
この銅櫓は、土井利勝が将軍から拝領し、江戸城吹上庭内より移築したものでもとは三層であって、太田道灌が造ったものといわれている。

とあります。

説明板に載せられている写真を見ると二階建てのものであることがわかりますが、当初は三層(三階建て)であったと説明板にもあるとおりで、移築したときに二層(二階建て)にしたのか、その後にしたのかについては記録にはないようです。
佐倉市史にある徳川実記にあった記述の中に「...利勝はおのが所領佐久良に運送して、これを補修し城内の天守となす」とあり、「天守となす」とあることから、最初の天守はこの銅櫓であったのではなかったのかと思わせるような記述があります。
これについては、言及がされていないので実際のところ、はっきりしていません。

太田道灌が作ったとなると長禄元年(1457年)あたりに造られたものであるということになり、土井利勝が貰い受けたとき(慶長十六年[1611]から元和三年[1617]までの間)はすでに155年から161年ほど経過していたことになり、相当に痛んでいたのではないかと思われるので、この太田道灌が造ったというのは時代的に無理があるようにも思われますが、修繕に継ぐ修繕を施し、江戸城の吹上庭内に移築はしたものの、庭内には少々似合わないために、取り壊そうとしたときに土井利勝が引き取ったというのが真相のような気もします。
それにしても明治六年(1873)の取り壊しまで残っていたということは、太田道灌が造ったということが事実であれば、約417年もの間建ちつづけていたということになります。

吹上庭内は現在の皇居吹上御所(御殿)のあるところです。

銅櫓跡から20メートルほど南の土塁の下に大木があります。

佐倉城址公園 佐倉城址 本丸 夫婦モッコク

佐倉城址公園 佐倉城址 本丸 夫婦モッコク。(城内町、写真は下の広場から見たところ)

この大木は夫婦モッコクと言われており、説明板には

千葉県指定天然記念物 佐倉城の夫婦モッコク

                 昭和二十七年十一月三日指定

モッコクは清澄山より東海道以西、四国、九州の近海地に自生する小喬木である。
本樹は、むもともと二株植えられたもののうち、一株が夫婦モッコクとなったものか、三株寄植えしたもののうち二株が癒合してできたものか、明らかでない。樹高十一・六メートル、目通り幹囲二・六メートルで、モッコクとしては巨木である。
佐倉城の築城については、「土井利勝が慶長十六年(一六一一)から元和三年(一六一七)まで七年をかけて完成し規模こそ小さくとも本丸等に種々の庭樹を植え雄大な風格を示した」との伝えがある。
このモッコクは庭樹の一つであったと考えられている。佐倉市松林寺境内にも巨木が所在する。
昭和五十七年二月十日
千葉県教育委員会
佐倉市教育委員会

とあります。

昭和二十七年は1952年、昭和五十七年は1982年。

この夫婦モッコクには、当時の連隊の兵士が書き込んだ落書きが残っており、説明板には

④兵士が文字を掘り込んだモッコク
本丸跡にある県指定天然記念物。幹に「昭和十八年十月」「砲隊」といった落書きが彫られています。

とあり、やや文字は木が生長をしているために薄くなってきているようですが、はっきりと読み取れます。

昭和十八年は1943年。

連隊は昭和19年(1944)のフィリピン戦でほぼ壊滅していますので、この落書きをした兵士もおそらくこのときの戦争で命を落としてしまったのではないかと思われます。
そう考えると、単に落書きとしてみるというよりかは、当時の激戦でこの落書きをしたであろう兵士も出撃が近く、自分が生きていた証として残していたのではないかと思うのですが、この落書きもいずれ木の生長と寿命により消えていくのでしょう。

夫婦モッコクからまた土塁に上り、南に30メートルほどいった左に一段低い四角に囲ったところがあります。

佐倉城址公園 佐倉城址 本丸 天守閣跡

佐倉城址公園 佐倉城址 本丸 天守閣跡。(城内町)

ここは天守閣があったところで、佐倉市史には

一、御天守 七間に八間 床下共五層

城外の角来辺りから見ると三階に見えたので御三階と呼ばれた。天守閣は近世城郭の中核をなすものであるが、戦国時代の望楼としての目的から発展したものであるが近世ではそれらは見られず。佐倉城の天主も武具の倉庫であった。享保年間のことを知る「佐倉真佐子」にも天守閣には武具方役所が置かれたとある。

...中略...

天主閣焼失。武器庫に使用したことは前記の通りであるが、文化十年三月二十八日、盗賊のため天主閣は焼失した(城主は正愛代)。

...以下省略

とあり、盗賊の置き忘れた堤燈の火がもとで出火した事が記述されています。
そして、幕府へは盗賊による火災であるとは届け出なかったため、以降は再建されなかったとあります。

文化十年は1813年。

この天主のことを三重御櫓ともいっていたようで、これは「城外の角来辺りから見ると三階に見えたので御三階と呼ばれた。」と同じで、城外からは三重に見えたことからきているようです。

天守閣跡から土塁を150メートルほどぐるっと進むと土塁が終わる辺りから、下に下りた場所に四角く囲んだところが土塁側と、その逆側にもあります。

佐倉城址公園 佐倉城址 台所門(不明門)跡

佐倉城址公園 佐倉城址 台所門(不明門)跡。(城内町、写真は土塁側から見たところ)

台所門跡には説明板がないので、佐倉市史の記述を見ると

一、御台所門 三間梁に七間 二階作り 畳六畳二間。大破につき文化三年正月、取崩し、木戸門にして置いた。

とあります。

文化三年は1806年。

表示板には「台所門跡(不明門)」とあり、「不明門」とあるのは「あかずのもん」ということで、通常この門は締め切られていた門だったということのようです。
文化三年以降は、木戸門にしていたということは、少し幅なども小さくなっていたのではないかと思われます。

台所門(不明門)跡の東側には土橋(土橋の両側は空堀がある)があり、その先は子規の句碑から南に堀に沿ってくる道がありますが、そこは後ほど歩くとして、台所門(不明門)跡の北側に竹で囲ってある部分があり、ここを30メートルほどいったところに砂利で区画されたところがあります。

佐倉城址公園 佐倉城址 本丸 角櫓(三階櫓)跡

佐倉城址公園 佐倉城址 本丸 角櫓(三階櫓)跡。(城内町)

角櫓(三階櫓)跡にも表示板があるのみで説明板がありませんが、佐倉市史によると

二、三階御櫓 六間に七間。角櫓で平常天守閣と同じく武器庫であった。建築は粗末であったようで、平野重久(堀田藩の重臣で幕末から明治初年にかけて活躍し、歴史の考証に詳しい)が物した『佐倉城小記』には、〝......又角櫓と称する櫓は極めて粗悪にして、千葉氏の将門なる根古谷城より引きし所なるよし。柱などに多くの貫の孔などあり......〟と述べている。『匠庁録』によると寛政三年二月に大修理をしているが、辛じて、明治六年に取払った時まであったものであろう。天守閣とこの角櫓の屋根にはシャチホコを載せていた。

...以下省略

とあります。

寛政三年は1791年、明治六年は1873年。

この中で「千葉氏の将門なる根古谷城より引きし所なるよし。」とあるのは、千葉県印旛郡酒々井町にある本佐倉城のことですが、本佐倉城にあったどこの櫓を角櫓として使ったのかは書かれておらず、本佐倉城の城山(Ⅰ郭)にあったものか、それとも向根古谷(Ⅸ郭)と呼ばれる城ノ内にあったものかは定かではありません。

シャシホコについて佐倉市史には

...『古今佐倉真佐子』には、〝高サ八尺余有之。木にて作たるしやちほこ也。一とせ大風の時三重の方、しやちほこ吹落ちたる節、其行きて見しに、足をつまだてて、手を一ぱいにあげて、しやちほこの尾を見しに、手よりははるか尾上也。其後承合るに八尺有之由。木にてほりたるものにて佐倉の大工共是をつくる也〟と。

とあり、木で出来たシャチホコを載せていたとあり、正保三年頃に描かれた「佐倉城大絵図」にも天守閣と角櫓にシャチホコが描かれています。

正保三年頃は1646年頃のこと。

角櫓(三階櫓)跡から竹で囲っているところと、その後の土塁に沿って80メートルほど進んでいくと一の門跡の戻り、本丸の中を一周したことになります。
さて、本丸の中は現在広場になっていますが、その中心部には御屋形があり、佐倉市史には

一、御屋形。 城主在邑中の年始、五節句に、城主在府の時は家老・城代・年寄が代って家臣から賀礼をうける館である。

...以下省略

とあり、このほかには徳川将軍の御成、幕府の要人などが佐倉城に来た場合の寝所として使用されたようです。
この御屋形の北側で銅櫓と廊下で続いていたのが「佐倉城本丸内建物配置」の図で確認できます。

このほかには、天守閣と大所門の直線上、天守閣跡から30メートルほどのところに不動堂があったようで、「佐倉城本丸内建物配置」の図にと稲葉氏時代の絵図にも「天満」と記されています。
不動堂について佐倉市史には

一、不動堂。宝暦三年十二月二十七日安置(堀田正亮就封の八年目)。位置は天守閣の南八間のところが囲の北端で天守の西側の延長線上の中央が不動堂の中心にあたる。四間四方の囲があり入口は南側である。

とあります。

宝暦三年は1753年。

佐倉城が廃城になった後は、不動堂がどうなったのかは記述されていないのでわかっていません。

不動堂跡からさらに30メートルほど台所門側には井戸があったようで、佐倉市史には

一、井戸壱ヶ所、寛延二年十月十三日出来(年寄部屋日記)、位置は本丸屋形台所土間より北方え二間の位置、不動堂の真南。

とあります。

井戸の跡は現在はまったく確認できませんが、本丸広場の南側の台所門跡寄りのどこかにあったわけですが、公園化するときに整地を施しているので、ちょっとした窪みがあれば、その辺りが井戸跡であるかも知れません。

佐倉城本丸配置図の中に、薄黒色で示しているところがありますが、これは中世に造られていた空堀の跡があったところで、一の門南の空堀から銅櫓前の土塁下まであったことが、総州佐倉城(佐倉城本丸址発掘調査概報)にあり、この空堀については

後詰は今回調査で地表下に眠っていた鹿島城の核心が姿を表わしました。諸般のことから充分な発掘調査による解明は出来なかったが概見しての大要は、当時の山容を活かし凹凸の多い姿が残りこれに小刻みの空堀を設けた等であります。慶長末の本丸工事はこの上に大量の土を入れて平らにしました。この土は本丸周辺の空堀を掘った際の土を運んだものでしょう。

とあり、土井利勝がここに城を築く前の鹿島城の工事の途中のままであった空堀が存在していたことが、発掘で確認されたということなのですが、発見されたから堀は、一の門の南側の空堀と続いているので、新しく掘られたのは北側の空堀ということと思われ、鹿島城時代の本丸(予定地だったところ)は現在より一回り小さなものであったことがわかります。
そして、本丸に入るための一の門は、現在の台所門が鹿島城の一の門になるはずであったと考えられます。

後詰とは本丸のことです。

台所門(不明門)跡まで戻って、東に進んでいきます。

ということで、今回はここまで。

参考文献は、「歴史の道調査報告書 成田街道」、「佐倉市史」、「千葉県印旛郡誌」、「佐倉市誌資料」、「多輪免喜」、「佐倉風土記」、「佐倉文庫」、「古今佐倉真佐子」、「佐倉城跡発掘調査報告書(国立歴史民俗博物館発行)」、「佐倉城の歴史」、「総州佐倉城(佐倉城本丸発掘調査概報)」、「佐倉城大絵図」、「総州佐倉御城府内之図」より。

引用は各文献と各社寺の説明板、地域の説明板より。

今回の地図は「佐倉道6」です。

国土地理院25000分の1「佐倉」より作成しています。

OpenID

openid-accepted.gif

OpenIDに対応しました

Feeds

logo

▲ Page Top

What's New!

▲ Page Top