佐倉道 佐倉城址公園佐倉城址本丸跡(千葉県佐倉市城内町)から佐倉城址公園佐倉城址椎木門跡(千葉県佐倉市城内町)まで

台所門(不明門)跡から左右に空堀を見ながら土橋(現在は普通の道になっている)を30メートルほど進むとT字路になり、ここからはもう一度二の丸内になり、T字路左(北)の道は子規の句碑の先のT字路から右(南)に曲がって進んできた道ですが、このT字路は右(南)に進んでいきます。

佐倉城の一から三の丸の位置関係の図を載せます。

佐倉城の縄張りの簡単な関係図

佐倉城の縄張りの簡単な関係図。

T字路から右(南)に少し行くと「帯曲輪・出丸跡」の指示板があり、ここを左に曲がりながら50メートルほど坂を下るとY字路になり、前方に進むのが帯曲輪への道で、左下に進んでいくのが出丸跡への道になり、ここでは先に出丸跡に進むことにして左下への道に進んでいきます。

20メートルほど下ると今度は右に曲がり、30メートルほど下ると出丸跡の入口になる十字路に出ます。
この十字路の左からの道は、成田街道(佐倉道)その91で歩いた、三の丸の坂上木戸門跡から下っていく浅間坂の途中から来る道で、この道は江戸時代にはなかったもので、この道も連隊が来たときか、公園整備の時に出来た道と思われ、右(西)への道も、連隊が来たときか、公園が整備されたときのものと思われます。
十字路を真っ直ぐに進んで出丸跡に入り、40メートルほど道なりに進んだ辺りが清水門があった辺りです。

佐倉城址公園 佐倉城址 南側出丸跡

佐倉城址公園 佐倉城址 南側出丸跡。(城内町、右に見えるのがL字の土塁)

出丸跡はかなり改変がされていて、当時の遺構がほとんど残ってませんが、土塁の跡が唯一残っています。
この出丸は佐倉市史によると二の丸のところに記述ががあり、清水門については

一、出丸清水御門 二間に三間 袖塀二間四尺 竹行馬百拾七間。台所門から下りで二町余ある。二ノ丸続きではあるが別郭であるから平日は〆切の場所。この門は本丸崖下の水堀で遮断されているが堀沿いの通路とは引橋で必要によりつなげる仕懸であった。

とあり、この出丸の周りに竹で作った馬除けと清水門には竹矢来があったことと、清水門からは対岸(現在の駐車場側)に引橋を下ろして、必要な場合通行が出来るようにしていたことが記述されています。

清水門の「清水」は、おそらく、浅間坂とハリスと堀田正睦の銅像の所の出丸跡へ下りていく道の合流点から下ったすぐ左(南)に、現在コンクリートで囲っているものがありますが、ここはもともと湧水点(清水の湧き出し口)であったところで、現在も水が少し湧き出ているのですが、この清水が清水門の名の由来になったようです。

出丸跡中央やや西より側から中心部に向って西向きのL字状の土塁が残っていて、土塁の西端と水堀川の土塁の東端を結ぶところが清水門があった位置で、その先の現在は地面になっているところあたりには水堀があったわけですが、ここは崖崩れで徐々に埋まったものか、連隊が来たときに埋められたもの定かではありません。

十字路の右(東)の道沿いにはレンガ造りやコンクリート造りの遺構がありますが、これは連隊の遺構で、東側の水堀が切れているあたりに土手が東に長く続いていますが、是も連隊のときももので、この場所には南射撃場というのがあって、ここで砲弾や機銃などの射撃訓練をしていたわけです。そのため、この部分にある佐倉城の遺構は、射撃訓練の対象になったためほとんど破壊されてしなくなってしまい、そのため坂下門や鷹匠町の遺構なども今日残っていません。
その射撃場の西端に当たるこの出丸の東側も、実際は水堀があり、現在のように直線ではありませんでした。
おそらくレンガやコンクリートの遺構は、この水堀を埋め立てたときのものであると思われます。

出丸跡の十字路からY字路まで戻り、今度は左(台所門からだと直進)に進むところが帯曲輪で、ちょうど本丸崖下に当たり銅櫓の直下あたりまで続いています。
Y字路から100メートルほどの左に説明板があり、そこには

帯曲輪跡
帯曲輪の位置
本丸を囲む空堀の一ノ門寄りの堀の落ち口から台所門寄りの堀の落ち口の間に位置し、延長約二百六十メートル、巾約四メートルから五メートル、武者走りから帯曲輪まで約二十五メートル、帯曲輪から根方(水堀際)まで約十五メートル。
帯曲輪の用途
帯状に細長く城のまわりを囲む曲輪でその用途は、敵が城の根方より攻撃し、帯曲輪までよじ登ってきたとき武者走りにあらかじめ用意して置いた石材、木材などを投げ落し、反撃するために設けたものである。

とあります。

武者走りは、現在は見た目ではすぐにわからない状態ですが、よくよく観察をすると細いい道筋がありますが、ところどころ崖崩れによって消滅しています。

説明板からさらに190メートルほど進むと、左下に少し急に下る坂道があり、ここを下りたところで左から来る清水門のあった出丸の十字路を水堀に沿って進んでくる道と合流します。
合流したところから右(北)に30メートルほど行くと、今度は前方(北)から来る道と合流して左(西)に道は進みますが、この辺りから西側に道よりもかなり低くなった広場とかなり高い土塁があり、ここは西側の出丸の跡です。

佐倉城址公園 佐倉城 西側出丸跡

佐倉城址公園 佐倉城 西側出丸跡。(城内町、写真は出丸跡南側の土塁上から見たところ)

合流点から30メートルほど進むと道は左(南)に曲がり、30メートルほどさらに進んだあたりに門があります。

佐倉城址公園 佐倉城址 西側出丸跡 旧城門

佐倉城址公園 佐倉城址 西側出丸跡 旧城門。

この門の北側には説明書きがあり

この門は昔城内にあったものであるが市内の酒造家土井家■(に)下賜され長くその表門として使用された 昭和三十七年城主堀田家の菩提寺である甚大寺がこれを譲り受け保管していたがこのたび市に寄付しこの地に復元されたものである
昭和五十七年三月
安城山甚大寺住職小川長顕識

とあります。

昭和三十七年は1962年、昭和五十七年は1982年。
■はくずし文字になっていて、少しにじんでいるため読みづくなっていますが、()内の文字はおそらく入るであろう文字です。

どこにあったものかについては記されていませんが、屋敷門であることは確かで、甚大寺にあったことなどを考慮すると、御対面所にあったもの、もしくは三ノ丸御殿にあったものとも考えられます。
解体前の三の門辺りの写真に、この門に良く似た屋敷門が写っており、もしかすると、その写真にある屋敷門であったのかもしれませんが、記録がないのでなんともいえません。

西側出丸跡には城門はなく木戸門(おそらく不明門[あすがのもん])のようなものを設けていたと思われますが、ここに門(旧城門)を置いたのはは記念碑的にここに設けたものでしょう。

旧城門から先に進むと橋があり、水堀を渡って駐車場にいけるようになっていますが、江戸時代には橋はなくこの橋の先にはいけませんでした。

旧城門まで戻って、門の横(西)に土塁へ上る階段があり、ここから土塁に上がり、ぐるっと歩いていきます。

佐倉城跡発掘調査報告(国立歴史民俗博物館発行)に

...このふたつの出丸も、出撃を強く意図した馬出し的な空間で、印旛沼につづく低地への城道を確保していた。つまり佐倉城は台地つづきの西方、椎木曲輪への北方、低地側の西・南方といった四方の要所に、土づくりではあっても強力な出撃力をもった馬出しを備えることで隙のない縄張りを実現したのである。

とあり、攻撃と防衛のための砦であったことが伺えます。
先にある橋の部分には、おそらく、南側の出丸にもあった引橋のようなものを戦時には使ったか、もしくは大きな板橋や舟橋(ある程度大きな舟の上に板を張り橋にしたもの)を使って渡っていたものと思われます。

土塁上から見てみるとかなり広く、しかも外からだとこの中がまったく見えないようになっていて、この出丸の中に人や馬がいても気付かれないようになっていることがわかると思います。

ぐるとっ回って土塁を下りると、先に帯曲輪から下りてきた合流点に戻ります。
合流点から左(北、帯曲輪からだと右に進む)に進む道はヘビ坂に合流していく道ですが、今回は帯曲輪に戻り台所門(不明門)跡前のT字路まで戻ります。

佐倉城址 城内の図

佐倉城址 城内の図。(三の丸まで)

台所門(不明門)跡前のT字路を直進(北、台所門跡からだと左)し、左に空堀を見ながら70メートルほど進むと、一の門へ進むT字路(子規の句碑の近くの)に戻り、T字路を左に40メートルほどの一の門跡へ進む手前の右の空堀方向(林になっている方向)へ曲がり(右、北)、40メートルほど進んだあたりの右側の広場が御対面所の裏門があった辺りになります。
空堀(林になっているところ)が左(西)に向っているところで、同じく左(西)に60メートルほど進むと、少し小高くなったところがあり、その小高くなったところに大きな石がたくさんあります。

佐倉城址公園 佐倉城址 二の丸 佐倉城の礎石

佐倉城址公園 佐倉城址 二の丸跡 佐倉城の礎石。(城内町)

この大きな石は、佐倉城の礎石であったもので、説明板には

昭和五十九、六十年(一九八四、一九八五年)国立歴史民俗博物館の研究棟を建設するために、同敷地を発掘調査し、旧陸軍の営所跡を検出した。
兵舎跡の基礎には、大量の石が詰めてあったが、主柱の建つ位置には佐倉城の礎石を埋め込んでいた。佐倉城は、江戸時代初期の元和年間(一六一〇年代)に土井利勝がこの地に築いた城である。明治時代初期(一八七三年)に同じ場所に陸軍の営所をおく際に、佐倉城の建物は取り壊し、その基礎を兵舎の基礎に転用したのである。

とあります。

ちょうどこの礎石があるところに御米倉(後に金蔵)があった場所で、丘の右側(北)とその北にある花畑との間には通路があり、その先に下りる道がありましたが、この道は現在消滅(崖崩れしているため)していてありません。
現在の花畑になっている部分は南側には御米倉があり、北側は空堀になっていましたが、陸軍が来たときに埋め立てられて、現在のようなほぼ平坦の場所になっています。
ただし、花畑の後は林になっていますが、このあたり注意してみてみると突然崖(落下の危険があるので見に行かないほうがいいでしょう)になっている部分があり、若干空堀の名残があります。

佐倉城の礎石がある丘の前から北に30メートルほど進むと、左右に若干窪んだところがあり、その中間あたりだけ高くなって広い道になっているところがあり、この小高く(ほんの少しだけ)なったところには不明門(あかずのもん)がありました。

ここには説明板などありませんが、佐倉市史には

一、御城米不明御門 三間梁八間二階作り、畳は二ノ御門と同様。天水桶一 この門は馬具方役所で馬具を二階にいれておいた。

とあります。

このあたりにいろんな形をした構造物(テーブルとかいすとかの残骸のようなもの)があり、右側(東)に林が見え、この下は空堀がありますが、その林から不明門と、さらに花畑の北側が直線上になるのが確認できると思いますが、この直線上のところ不明門の左右まで、かつて空堀があり、やはり陸軍が来たときに埋め立てられ消滅してしまいました。

この不明門跡の右(東)の林(後に空堀)に沿って10メートルほどのところに、御対面所前に三社がありました。
三社について佐倉市史には

二ノ丸の八幡宮。新規に建て、文政六年十二月九日遷宮、中央に東照宮、左に八幡宮、右に高良明神を祀った。

とあります。

文政六年は1823年。

この三社がどこに移ったのはなどは佐倉市史にも記述がなく、三社ともに廃社されたのではないかと思われます。

不明門跡から北は三の丸の北西側部分になり、右側(東)は現在広場兼駐車場(花見の時期など)になっており、左側(西)も広場と林(桜が多い)になっています。

不明門跡から50メートルほど北に進んだあたり大木のあたりに説明板があります。

③佐倉陸軍病院跡
創設は明治7年。佐倉屯営病室・佐倉営所病院・佐倉衛戌病院・佐倉陸軍病院と名称が変遷した。昭和40年代までテラスを配した洋風病棟が残っていました。

とあり、この辺りから佐倉城の礎石がある辺りまでと、御対面所のあった辺りに病院施設がありましたが、昭和20年に国立佐倉病院、昭和25年に国立療養所佐倉病院、昭和28年に国立佐倉療養所と名称が変わり、昭和54年に国立佐倉病院として、成田街道(佐倉道)その84で名前の出ていた聖隷佐倉市民病院の場所に移転しまし、その後聖隷佐倉市民病院になっています。

昭和40年代は1965~1974年までの間、昭和20年は1945年、昭和25年は1950年、昭和28年は1953年、昭和54年は1979年。

佐倉陸軍病院跡の説明板から今度は右(東)に60メートルほど進むと舗装された道があり、ここを左(北)に20メートルほど進んだ左に説明板があります。

椎木門跡
北面、木造、本瓦葺、二階造り 梁間三間、桁行七間。
前面に馬出しが設けられていた。

とあり、説明板の図には門の両側に御米蔵が描かれていて、この御米蔵について佐倉市史には

一、椎ノ木御蔵 前の堀田氏時代(明暦三年)には、後のように一ヶ所にまとめないで、一部は椎木曲輪の東南端にあった。それが松平乗久時代の寛文年間、初めて椎木蔵が一ヶ所に整備され、以来幕末に及んだ。

とあります。

この椎木門跡の説明板の前の舗装路の東側、林がある後には空堀があり、椎木門跡の説明板の後(西側)にも空堀がありましたが、これも陸軍が来たときに埋められて現在のように平地になっています。

椎木門跡から舗装路を南に道なりに130メートルほど左手に駐車場とテニスコートを見ながら進むとY字路があり、Y字路の左の下に下りていく道がある辺りの左(下る道の上)には蔵番(番所)があったところで、駐車場とテニスコートのある場所には、椎木門跡の説明板ある図に載っていた東側の御米蔵があった場所になります。
Y字路を右に70メートルほど進むと、成田街道(佐倉道)その91に訪ねた三逕亭の北側のトイレのあるT字路につながり、これで三の丸の北側と南側とを歩き三の丸全体を回ったことになります。

Y字路まで戻って、下っていく道を70メートルほど急坂を下りると十字路があり、右のほうには東屋があり、その先の崖の上に上がっていく道は三逕亭の北のトイレの東側30メートルほどのところに出ます。

十字路を直進(東)し60メートルほどのところにY字路があり、そのY字路の右側(西)の平場の上に小さなコンクリート造りの建物が見えますが、この建物は物置ではなく、陸軍で使用されていた脂油庫であったものです。

Y字路を右に20メートルほどで、成田街道(佐倉道)その91で訪ねた車道の碑のあるところに出てきます。
Y字路を今度は左(北)に60メートルほど右に崖を見ながら進むと、右側の崖との間に平場があり、そこに説明板があり

⑦弾薬庫の跡
姥が池西側坂道を登った奥の窪地にありました。万一の爆発に備えた土手や建物に使われたコンクリートの一部が残されています。

とあります。

弾薬庫の跡からさらに40メートルほど進むと前方に池、左側から池に沿った道が合流し、60メートルほど左に池を見ながら進むと、右側から成田街道(佐倉道)その91に訪ねたくらしの植物苑の西側に下りていく道(トイレがある空堀を利用した急坂)が接続します。

十字路まで戻り、左(北)に右手に梅林を見ながら70メートルほど進むと、池が見えここでY字路になり、右に進む道は先ほど訪れた弾薬庫の跡空の道に50メートルほどで接続します。
Y字路を左に池に沿って90メートルほど行くと四辻(変形十字路)があり、右(南)から来る道は、先ほど訪れた弾薬庫の跡からの道とくらしの植物苑の西側に下りていく道(トイレがある空堀を利用した急坂)が合流したところから40メートルほど進んできた道です。
これでほぼ池の周りをぐるっと回ったわけですが、この池が姥が池です。

佐倉城址公園 佐倉城址 姥が池

佐倉城址公園 佐倉城址 姥が池。(城内町)

四辻のところには説明板があり、そこには

姥が池

この池は江戸時代、かきつばたの名所でした。春先には近在のひき蛙が数千匹あつまり、左右にわかれて昼夜7日間、蛙合戦を行なっていたと、「古今佐倉真佐子」(江戸時代中頃の書物)に記されています。
後に(天保年間)この池の周りで家老の娘のおもりをしていた姥があやまって娘を池に落してしまい娘はそのまま沈んでしまいました。姥は困り果て身を投げたと伝えられ、以来「姥が池」といわれるようになりました。

とあります。

天保年間は1830~1844年の間。

土井利勝時代の佐倉城本丸附近絵図(佐倉市史に載せられている)には「ため池」とあり、「姥が池」の名はまだ付いていないことがわかります。

現在は蓮がかなりあり、蓮池と行ったほうがいいほどになっていてます。
蛙はひき蛙もいますが、うし蛙が結構いて、夏場はうし蛙たちの「むぉおー、むぉおー」という声がかなり響き渡ります。

三の丸御所があった駐車場のトイレのところの道(くらしの植物苑の西側に下りていく道)はもともとなかったもので、ここは空堀があり、現在の姥が池の南端の所の崖の部分から、東側にある広場には武家屋敷がありました。

姥が池の西側の現在梅林になっているあたりには畑(畠とある)があり、このあたりで城内の食料(葉ものや甘藷など)を作っていたものと思われます。

四辻から東に40メートルほどの左にコンクリート製の階段があります。

佐倉城址公園 佐倉城址 訓練用の12階段

佐倉城址公園 佐倉城址 訓練用の12階段。(城内町)

階段の左に説明板があり

⑧訓練用の12階段
兵士が高所からの飛び下り訓練に使用したコンクリート製の階段。木製の飛び下り台と違い、壊すのが大変なため、戦後も残ったと考えられます。

とあります。

説明板の写真にも、飛び下りの訓練をしている様子が写っていてますが、結構下の段で飛んでいるのではたしてこれで訓練になるのかと疑問に思ったりもしますが、一番上からだと高さがあるのでそれなりに訓練になっていたのでしょう。

さて、この階段の一番下に実は木製の基台が残っていましたが、現在はその部分が削れてなくなっており、土がだいぶ下まで見えるほど削れてしまったようです。
おそらく土が雨で流れるのを防止していたものであったと思われますが、同じように木の基台は階段の後方1メートルほどのところにもかすかに残っていましたが、こちらも削れて(腐って)なくなってしまったようです。

訓練用の12階段のある場所には、やはり武家屋敷があり、その後方の小高く(結構急な小さな崖がある)なっているところがあり、ここは少し広くなっており、ここは曲輪であったかもしくは竹林であったところと思われます。

姥が池辺りの図を載せます。

佐倉城址公園 佐倉城址 姥が池附近

佐倉城址公園 佐倉城址 姥が池附近。(城内町)

訓練用の12階段前の道に戻り左(東)に130メートルほど道なりに進んだあたり右側に丘が迫ってくるところがありますが、ここまでの右側(南側)は現在蓮池(菖蒲園、2000年ごろまでは草原だった)になっていますが、江戸時代の絵図(堀田氏時代の絵図)には「水花ダン」とあり、当時も花畑であったことがわかります。
丘の迫っているところから南には谷津になっていますが、ここには武家屋敷(花畑を管理する奉行の屋敷か?)があり、この辺りから谷津に沿って上に上がる道があり、この道は佐倉中学校のある天神曲輪の天神社があったところに出る道でしたが、現在はその道は蓮池(菖蒲園)の奥までは畦道として残っているものの、谷津を上る道は崖崩れで消滅しています。

今度は逆側(北)ですが、ここにも蓮池(菖蒲園)になっていますが、その蓮池(菖蒲園)と民家との間の大きな木があるところに、少し広いく細長い広場状のところが50メートルほどありますが、ここは七曲と呼ばれる曲輪につながっていた道で、現在は住宅地になっていてその道筋が150メートルほど消滅していますが、その住宅地の後ろ崖のところには途切れ途切れに道が130メートルほど残っていますが、現在は崩れていたりして歩くには向かない状態になっていて、両町橋まで実際は続いていましたが、残念ながら消滅しています。

この蓮池(菖蒲園)の左右の直線の部分は「御搦手」と記載があり、戦があり万が一城が危なくなったときに、こちらから城主などが逃げるためのところであったのですが、江戸時代にはその役目はほとんどなく、畑や花畑に屋敷などが立ち並んで、どちらかというと食糧倉庫のような場所になっていたと思われます。

丘が迫って来る場所から60メートルほど道なりに進むと、大きな道路に出ますが、その手前にビオトープが右にあるところあたりに、両町橋のところにある水堀が現在の道路に沿って続いていて、さらに道路に沿って東に味噌部屋まで続いていました。
御搦手からこの水堀までには警備のための屋敷と蔵があり、水堀には緊急時に木橋が架けられここから出入りが出来るようになっていました。

御搦手から姥が池の四辻(変形十字路)まで戻り、右(北、蔵番(番所)跡のあったY字路からだと左)に上っていく道を100メートルほど行くと国立歴史民俗博物館の駐車場に出る道に接続しますが、ここは上らずに蔵番(番所)跡のあったY字路まで戻り、さらに椎木門跡まで戻り、北に進んでいきます。

ということで、今回はここまで。

参考文献は、「歴史の道調査報告書 成田街道」、「佐倉市史」、「千葉県印旛郡誌」、「佐倉市誌資料」、「多輪免喜」、「佐倉風土記」、「佐倉文庫」、「古今佐倉真佐子」、「佐倉城跡発掘調査報告書(国立歴史民俗博物館発行)」、「佐倉城の歴史」、「総州佐倉城(佐倉城本丸発掘調査概報)」、「佐倉城大絵図」、「総州佐倉御城府内之図」より。

引用は各文献と各社寺の説明板、地域の説明板より。

今回の地図は「佐倉道6」です。

国土地理院25000分の1「佐倉」より作成しています。

佐倉道 佐倉城址公園佐倉城址三の丸跡その1(千葉県佐倉市城内町)から本丸跡(千葉県佐倉市城内町)まで

三逕亭前にあるT字路のタウンゼント・ハリスの像と堀田正睦の像の間の道を進んでいきます。
右手に空堀を見ながら10メートルほど進むと、左側に細道があり、この細道に沿って南に空堀がありますが、当時の空堀は細道のあるところまで広くありましたが、やはり連隊が佐倉城に来た時期か、戦後にこの場所に道がつくられたものと思われ、この細道は成田街道(佐倉道)その91の三の丸の坂上木戸門から下りていく浅間坂の道に70メートルほど下ったところで合流します。
細道のあるところから30メートルほどで空堀を渡った(空堀と空堀の間には土橋があった)あたりの両側に土塁が残っており、土塁と土塁の間に二の門がありました。

佐倉城址公園 佐倉城址 二の門跡

佐倉城址公園 佐倉城跡 二の門跡。(城内町)

説明板には

二の門跡
東面、木造、本瓦葺、二階造り、梁間三間、桁行八間
本丸から大手門にいたる第二の門で「二の御門」と呼ばれていた。
一の門の東方一直線上にあたり、武器庫として使用された。門内は二の丸といい、藩政を執る役所が置かれていた。

とあり、二の門の西から北にかけて二の丸内となります。

二の門跡から20メートルほどの左側に句碑があります。

佐倉城址公園 佐倉城址 二の丸 子規の句碑

佐倉城址公園 佐倉城址 二の丸 子規の句碑。(城内町)

これは正岡子規の句碑で、右となりの説明板には

常盤木や冬されまさる城の跡

    (「寒山落木」巻三自筆稿)

明治の時代思潮を体現し、俳句・小説・文芸評論・写生画などに活躍した 正岡子規(一八六七-一九〇二)は、一八九四年(明治二十七年)本所-佐倉間に開通した総武鉄道に初乗りして佐倉の地を訪れている。
その時の模様は当時の新聞「日本」(十二月三十日号)に詳しいが、この句はその時詠んだものであり、写生文の創始者として郊外写生の真髄をよく伝えている。
この時すでに子規は病気がちであり、その悲痛も感じられる。
子規は佐倉ゆかりの人間国宝香取秀真、洋画家の浅井忠とも深いつながりがあり、フランス留学から帰国した浅井忠は近くに住んでお互いに敬愛した仲であった。
佐倉にはここの他、国鉄佐倉駅前城南橋付近にも

「霜枯の佐倉見上ぐる野道かな」

の句碑がある。

昭和六十年三月
佐倉市役所 商工観光課

とあります。

昭和六十年は1985年、国鉄佐倉駅は現在のJR佐倉駅のこと。

「本所-佐倉間に開通した総武鉄道」とある「本所」駅は、現在の「錦糸町」駅のことで、明治27年(1894)12月9日に開業しているので、「佐倉」駅もこのときに出来たということで、平成22年(2010)で116年になるわけで、「本所」駅が「錦糸町」駅に名称を変更したのは大正4年(1915)5月1日のことです。

正岡子規が佐倉に関わりがあるということは、余り知られていないようで、説明板などを読んではじめて「そうなのか」と、意外な思いがするのではないかと思います。

子規の句碑から10メートルほどでT字路になり、ここは直進(西)していきますが、左(南)に行く道は台所門へ行く道で、ここは後ほど歩くとして直進していきます。
さて、二の門からの本来の道筋は、二の門跡の右側(北)に残っている小さな土塁(すぐ後は空堀)に沿って30メートルほど進み、今度は左(西)に進んで行くようになっていました。
そして、左(西)に進んでいくあたりの北側には御対面所があった辺りで、後ほど歩いていくところの御蔵米不明御門(不明門跡、現在は説明板などは設置されていない)近くまであった大きな屋敷が御対面所でした。
佐倉市史には

土井氏築城後、利勝の実弟内蔵允が城代としてここに屋敷をもっていた。その後、堀田正信時代の明暦の絵図には記入がないので不明であるが松平乗久の寛文年間の絵図には初めて御対面所となっている。

...中略...

その中に屋形があり城主在邑の時はこの館に住んだ。

...中略...

また城主在府の時は家老外重役が年賀、五節句の祝はここで家中の士からうけた時代もあった。

...中略...

この御対面所も腐朽が著しく修築維持に困難であったので文化二年四月取毀した。そこで城主在邑の折の住居并、年始・五節句の賀祠は本丸の館に代わることとなった。その後「二ノ丸番所」として建て直し公儀の御触書等はここに置いて藩士へ見るように達した。

とあります。

明暦年間は1655~1658年の間、寛文年間は1661~1673年の間、文化二年は1805年。

御対面所が出来たのは、佐倉市史によると松平乗久の代であるのではないかとあり、おおよそこの時期であっているように思われます。
この御対面所の屋形で城主(藩主)が在邑に時に使われたその最初を寛文初年として、最後に使われたのが三ノ丸御殿が完成する寛政十年までとすると138年間使用されたことになります。
安政年間の佐倉城實測圖では「御番所」と記入されています。

安政年間は1854~1860年の間。

二の門を入った屈曲した道筋西側には、大腰掛と呼ばれる腰掛長屋があり、二の門の南から屈曲した道に沿ってL字に北側の御対面所側の二の丸入口までありました。
その腰掛長屋があった位置は、子規の句碑のあるあたりのところに約5メートル幅であったようですが、現在はその遺構の跡もまったくなく、二の門跡から少し斜めになって道が進んでいます。
二の丸の北側は後ほど歩くとして、二の丸南側から本丸へ先に進むことにします。

二の門と一の門あたりの図

二の門と一の門あたりの図。

T字路を今度は直進(西)し、左に空堀(かなり深い薬研堀)を見ながら40メートルほど進むと右側にも空堀(こちらもかなり深い薬研堀)が見えてくるあたりから、やや幅が狭くなっている場所が土橋で、ここを20メートルほど進むと両側に四角く囲われた場所があります。

佐倉城址公園 佐倉城址 一の門跡

佐倉城址公園 佐倉城址 一の門跡。(城内町、写真は本丸から見たところです)

説明板には

一の門跡
東面、木造、本瓦葺、二階造り、梁間四間、桁行八間
本丸から見てはじめての門で「一の御門」と呼ばれていた。門内は本丸といい、天守閣、銅櫓、角櫓、御殿が置かれ、御殿の前庭には金粉をすりこんだ栗石が敷かれていたと伝えられている。

とあります。

佐倉城本丸にあったものの簡単な配置図を載せます。

佐倉城本丸配置図

佐倉城本丸配置図。

一の門跡から本丸に入り見渡してみると、周囲をぐるっと土塁(高い土手)で囲まれているのがわかります。

佐倉城址公園 佐倉城址 本丸 土塁

佐倉城址公園 佐倉城址 本丸 土塁。(城内町)

右側の土塁のところには説明板があり、ここには

土塁
佐倉城は石垣のない土づくりの城です。城の防衛のための土手を土塁と呼びます。土塁は城を外敵から守るために築かれたもので、土塁を巧みに配置して城の守りとしています。本丸の土塁の上には土塀が存在しました。

とあります。

佐倉城に限らず、千葉県内の城の大多数は土づくりの城です。なぜかというと、千葉の台地はもともと海の中にあった堆積地で石垣に使えるような大きな石がほとんど出てこない土地柄(一部鋸山などでは産出していた)であり、そのために土で縄張りを作るか、微高地や小山、丘、扇状地の先端などを利用して城が築かれています。
さらに谷津が多分に発達しているのも特徴で、複雑な谷津と谷津との間の微高地を使って城を築いているので攻められにくいという利点もあったようです。

一の門跡の右側(北)の土塁のさらに右側の奥には、戦時中使われた防空壕の跡がありますが、現在はここは閉鎖され入れなくなっています。

土塁に上がって左に30メートルほどでもう一度左に曲がり、さらに40メートルほどで右斜めに進みすぐに左に進み、しばらく行ったところで右に曲がったあたりに四角に枠どられた場所があります。

佐倉城址公園 佐倉城址 本丸 銅櫓跡

佐倉城址公園 佐倉城址 本丸 銅櫓跡。(城内町)

説明板には

銅櫓跡
木造、銅瓦葺、六間四方、二階造り
この銅櫓は、土井利勝が将軍から拝領し、江戸城吹上庭内より移築したものでもとは三層であって、太田道灌が造ったものといわれている。

とあります。

説明板に載せられている写真を見ると二階建てのものであることがわかりますが、当初は三層(三階建て)であったと説明板にもあるとおりで、移築したときに二層(二階建て)にしたのか、その後にしたのかについては記録にはないようです。
佐倉市史にある徳川実記にあった記述の中に「...利勝はおのが所領佐久良に運送して、これを補修し城内の天守となす」とあり、「天守となす」とあることから、最初の天守はこの銅櫓であったのではなかったのかと思わせるような記述があります。
これについては、言及がされていないので実際のところ、はっきりしていません。

太田道灌が作ったとなると長禄元年(1457年)あたりに造られたものであるということになり、土井利勝が貰い受けたとき(慶長十六年[1611]から元和三年[1617]までの間)はすでに155年から161年ほど経過していたことになり、相当に痛んでいたのではないかと思われるので、この太田道灌が造ったというのは時代的に無理があるようにも思われますが、修繕に継ぐ修繕を施し、江戸城の吹上庭内に移築はしたものの、庭内には少々似合わないために、取り壊そうとしたときに土井利勝が引き取ったというのが真相のような気もします。
それにしても明治六年(1873)の取り壊しまで残っていたということは、太田道灌が造ったということが事実であれば、約417年もの間建ちつづけていたということになります。

吹上庭内は現在の皇居吹上御所(御殿)のあるところです。

銅櫓跡から20メートルほど南の土塁の下に大木があります。

佐倉城址公園 佐倉城址 本丸 夫婦モッコク

佐倉城址公園 佐倉城址 本丸 夫婦モッコク。(城内町、写真は下の広場から見たところ)

この大木は夫婦モッコクと言われており、説明板には

千葉県指定天然記念物 佐倉城の夫婦モッコク

                 昭和二十七年十一月三日指定

モッコクは清澄山より東海道以西、四国、九州の近海地に自生する小喬木である。
本樹は、むもともと二株植えられたもののうち、一株が夫婦モッコクとなったものか、三株寄植えしたもののうち二株が癒合してできたものか、明らかでない。樹高十一・六メートル、目通り幹囲二・六メートルで、モッコクとしては巨木である。
佐倉城の築城については、「土井利勝が慶長十六年(一六一一)から元和三年(一六一七)まで七年をかけて完成し規模こそ小さくとも本丸等に種々の庭樹を植え雄大な風格を示した」との伝えがある。
このモッコクは庭樹の一つであったと考えられている。佐倉市松林寺境内にも巨木が所在する。
昭和五十七年二月十日
千葉県教育委員会
佐倉市教育委員会

とあります。

昭和二十七年は1952年、昭和五十七年は1982年。

この夫婦モッコクには、当時の連隊の兵士が書き込んだ落書きが残っており、説明板には

④兵士が文字を掘り込んだモッコク
本丸跡にある県指定天然記念物。幹に「昭和十八年十月」「砲隊」といった落書きが彫られています。

とあり、やや文字は木が生長をしているために薄くなってきているようですが、はっきりと読み取れます。

昭和十八年は1943年。

連隊は昭和19年(1944)のフィリピン戦でほぼ壊滅していますので、この落書きをした兵士もおそらくこのときの戦争で命を落としてしまったのではないかと思われます。
そう考えると、単に落書きとしてみるというよりかは、当時の激戦でこの落書きをしたであろう兵士も出撃が近く、自分が生きていた証として残していたのではないかと思うのですが、この落書きもいずれ木の生長と寿命により消えていくのでしょう。

夫婦モッコクからまた土塁に上り、南に30メートルほどいった左に一段低い四角に囲ったところがあります。

佐倉城址公園 佐倉城址 本丸 天守閣跡

佐倉城址公園 佐倉城址 本丸 天守閣跡。(城内町)

ここは天守閣があったところで、佐倉市史には

一、御天守 七間に八間 床下共五層

城外の角来辺りから見ると三階に見えたので御三階と呼ばれた。天守閣は近世城郭の中核をなすものであるが、戦国時代の望楼としての目的から発展したものであるが近世ではそれらは見られず。佐倉城の天主も武具の倉庫であった。享保年間のことを知る「佐倉真佐子」にも天守閣には武具方役所が置かれたとある。

...中略...

天主閣焼失。武器庫に使用したことは前記の通りであるが、文化十年三月二十八日、盗賊のため天主閣は焼失した(城主は正愛代)。

...以下省略

とあり、盗賊の置き忘れた堤燈の火がもとで出火した事が記述されています。
そして、幕府へは盗賊による火災であるとは届け出なかったため、以降は再建されなかったとあります。

文化十年は1813年。

この天主のことを三重御櫓ともいっていたようで、これは「城外の角来辺りから見ると三階に見えたので御三階と呼ばれた。」と同じで、城外からは三重に見えたことからきているようです。

天守閣跡から土塁を150メートルほどぐるっと進むと土塁が終わる辺りから、下に下りた場所に四角く囲んだところが土塁側と、その逆側にもあります。

佐倉城址公園 佐倉城址 台所門(不明門)跡

佐倉城址公園 佐倉城址 台所門(不明門)跡。(城内町、写真は土塁側から見たところ)

台所門跡には説明板がないので、佐倉市史の記述を見ると

一、御台所門 三間梁に七間 二階作り 畳六畳二間。大破につき文化三年正月、取崩し、木戸門にして置いた。

とあります。

文化三年は1806年。

表示板には「台所門跡(不明門)」とあり、「不明門」とあるのは「あかずのもん」ということで、通常この門は締め切られていた門だったということのようです。
文化三年以降は、木戸門にしていたということは、少し幅なども小さくなっていたのではないかと思われます。

台所門(不明門)跡の東側には土橋(土橋の両側は空堀がある)があり、その先は子規の句碑から南に堀に沿ってくる道がありますが、そこは後ほど歩くとして、台所門(不明門)跡の北側に竹で囲ってある部分があり、ここを30メートルほどいったところに砂利で区画されたところがあります。

佐倉城址公園 佐倉城址 本丸 角櫓(三階櫓)跡

佐倉城址公園 佐倉城址 本丸 角櫓(三階櫓)跡。(城内町)

角櫓(三階櫓)跡にも表示板があるのみで説明板がありませんが、佐倉市史によると

二、三階御櫓 六間に七間。角櫓で平常天守閣と同じく武器庫であった。建築は粗末であったようで、平野重久(堀田藩の重臣で幕末から明治初年にかけて活躍し、歴史の考証に詳しい)が物した『佐倉城小記』には、〝......又角櫓と称する櫓は極めて粗悪にして、千葉氏の将門なる根古谷城より引きし所なるよし。柱などに多くの貫の孔などあり......〟と述べている。『匠庁録』によると寛政三年二月に大修理をしているが、辛じて、明治六年に取払った時まであったものであろう。天守閣とこの角櫓の屋根にはシャチホコを載せていた。

...以下省略

とあります。

寛政三年は1791年、明治六年は1873年。

この中で「千葉氏の将門なる根古谷城より引きし所なるよし。」とあるのは、千葉県印旛郡酒々井町にある本佐倉城のことですが、本佐倉城にあったどこの櫓を角櫓として使ったのかは書かれておらず、本佐倉城の城山(Ⅰ郭)にあったものか、それとも向根古谷(Ⅸ郭)と呼ばれる城ノ内にあったものかは定かではありません。

シャシホコについて佐倉市史には

...『古今佐倉真佐子』には、〝高サ八尺余有之。木にて作たるしやちほこ也。一とせ大風の時三重の方、しやちほこ吹落ちたる節、其行きて見しに、足をつまだてて、手を一ぱいにあげて、しやちほこの尾を見しに、手よりははるか尾上也。其後承合るに八尺有之由。木にてほりたるものにて佐倉の大工共是をつくる也〟と。

とあり、木で出来たシャチホコを載せていたとあり、正保三年頃に描かれた「佐倉城大絵図」にも天守閣と角櫓にシャチホコが描かれています。

正保三年頃は1646年頃のこと。

角櫓(三階櫓)跡から竹で囲っているところと、その後の土塁に沿って80メートルほど進んでいくと一の門跡の戻り、本丸の中を一周したことになります。
さて、本丸の中は現在広場になっていますが、その中心部には御屋形があり、佐倉市史には

一、御屋形。 城主在邑中の年始、五節句に、城主在府の時は家老・城代・年寄が代って家臣から賀礼をうける館である。

...以下省略

とあり、このほかには徳川将軍の御成、幕府の要人などが佐倉城に来た場合の寝所として使用されたようです。
この御屋形の北側で銅櫓と廊下で続いていたのが「佐倉城本丸内建物配置」の図で確認できます。

このほかには、天守閣と大所門の直線上、天守閣跡から30メートルほどのところに不動堂があったようで、「佐倉城本丸内建物配置」の図にと稲葉氏時代の絵図にも「天満」と記されています。
不動堂について佐倉市史には

一、不動堂。宝暦三年十二月二十七日安置(堀田正亮就封の八年目)。位置は天守閣の南八間のところが囲の北端で天守の西側の延長線上の中央が不動堂の中心にあたる。四間四方の囲があり入口は南側である。

とあります。

宝暦三年は1753年。

佐倉城が廃城になった後は、不動堂がどうなったのかは記述されていないのでわかっていません。

不動堂跡からさらに30メートルほど台所門側には井戸があったようで、佐倉市史には

一、井戸壱ヶ所、寛延二年十月十三日出来(年寄部屋日記)、位置は本丸屋形台所土間より北方え二間の位置、不動堂の真南。

とあります。

井戸の跡は現在はまったく確認できませんが、本丸広場の南側の台所門跡寄りのどこかにあったわけですが、公園化するときに整地を施しているので、ちょっとした窪みがあれば、その辺りが井戸跡であるかも知れません。

佐倉城本丸配置図の中に、薄黒色で示しているところがありますが、これは中世に造られていた空堀の跡があったところで、一の門南の空堀から銅櫓前の土塁下まであったことが、総州佐倉城(佐倉城本丸址発掘調査概報)にあり、この空堀については

後詰は今回調査で地表下に眠っていた鹿島城の核心が姿を表わしました。諸般のことから充分な発掘調査による解明は出来なかったが概見しての大要は、当時の山容を活かし凹凸の多い姿が残りこれに小刻みの空堀を設けた等であります。慶長末の本丸工事はこの上に大量の土を入れて平らにしました。この土は本丸周辺の空堀を掘った際の土を運んだものでしょう。

とあり、土井利勝がここに城を築く前の鹿島城の工事の途中のままであった空堀が存在していたことが、発掘で確認されたということなのですが、発見されたから堀は、一の門の南側の空堀と続いているので、新しく掘られたのは北側の空堀ということと思われ、鹿島城時代の本丸(予定地だったところ)は現在より一回り小さなものであったことがわかります。
そして、本丸に入るための一の門は、現在の台所門が鹿島城の一の門になるはずであったと考えられます。

後詰とは本丸のことです。

台所門(不明門)跡まで戻って、東に進んでいきます。

ということで、今回はここまで。

参考文献は、「歴史の道調査報告書 成田街道」、「佐倉市史」、「千葉県印旛郡誌」、「佐倉市誌資料」、「多輪免喜」、「佐倉風土記」、「佐倉文庫」、「古今佐倉真佐子」、「佐倉城跡発掘調査報告書(国立歴史民俗博物館発行)」、「佐倉城の歴史」、「総州佐倉城(佐倉城本丸発掘調査概報)」、「佐倉城大絵図」、「総州佐倉御城府内之図」より。

引用は各文献と各社寺の説明板、地域の説明板より。

今回の地図は「佐倉道6」です。

国土地理院25000分の1「佐倉」より作成しています。

佐倉道 麻賀多神社(千葉県佐倉市鏑木町)から佐倉城址公園佐倉城址三の丸跡その1(千葉県佐倉市城内町)まで

麻賀多神社の鳥居から階段を下り、今度は右(西、新町交差点からだと直進)に10メートルほどのところにT字路があり、このT字路の南東角(左手前の角)に石碑があります。

佐倉町 宮小路町 宮小路 佐倉養生所跡の碑

佐倉町 宮小路町 宮小路 佐倉養生所跡の碑。(宮小路町)

石碑には

佐倉藩医佐藤尚中が、慶応三年、長崎についで西洋式病院佐倉養生所をこの地に設立した。
佐倉養生所では、全国に先駆けて漢方を廃止し、藩の調薬の管理を全て行い、医政を統括した。

とあります。

慶応三年は1867年。

現在は何もありませんが、佐倉における西洋式の病院がここにありました。

T字路を直進するほうが宮小路で、このまま進むと佐倉城の大手門にたどり着き、左(南)に進むのは北年貢道(佐倉道)で、佐倉城と千葉の寒川湊(千葉県千葉市中央区寒川町)とを結ぶもう一つの佐倉道で、四街道(千葉県四街道市大日・四街道)を経由するやや北寄りの道で、もう一つ南寄りの馬渡(千葉県佐倉市馬渡)と若松(千葉県千葉市若葉区若松町、現在の国道51号沿い)から寒川湊とを結ぶ道があり、この二つの道は千葉の道場(千葉県千葉市中央区道場)で合流し、千葉市広小路交差点(千葉県千葉市中央区本町)で房総往還(木更津道もしくは上総道ともいう)と合流し、亥鼻城跡前の大和橋からJR本千葉駅を過ぎた旧君待橋の碑あたりから港町の厳島神社(千葉県千葉市中央区港町)前から寒川神社(千葉県千葉市中央区寒川町)の前へでて寒川湊へ続いていました。
この北年貢道と南年貢道は、寒川湊から佐倉城に物資を運んだり、佐倉藩各地からの年貢米などを納めたりするために使われていた道であり、戦の時に海を経由して兵を送り出すための軍用の道としても重要な道で、その藩の生命線とでもいえそうな道がこのT字路から始まっていたわけです。

T字路から100メートルほど進んだところにT字路がり、右(北)へ進む坂道があり、坂道を下っていくと谷のようなところ辺りが味噌部屋と呼ばれているところで、字名も味噌部屋になっています。

新佐倉真佐子には

味噌部屋というところは南北の崖に挟まれた谷間で日当たりの悪い薄暗い土地で、その昔食糧品の貯蔵にはよかったかも知れないが、市街地に出るには不便なところであった。しかし静かで勉強するには適していたらしく学者が大勢出たところでもあった。

とあり、安政年間に書かれた佐倉城實測圖には、道の北側に沿って6つの蔵が描かれており、これが食料(みそとか塩とか、その他の物も含めて)を貯蔵するための蔵であったようです。

安政年間は1854~1860年の間。

味噌部屋への道があるT字路から30メートルほど左に、宮小路町の石柱があり、その近くに古い建物がありますが、ここは現在、印旛郡市広域市町村圏事務組合水道企画部があるところで、明治十四年に開設された浜野病院がこの場所にあり、順天堂病院と共に親しまれていました。

明治十四年は1881年。

浜野病院跡から80メートルほど進むと、左に市民体育館があり、ここは温故堂(成徳書院)があったところです。
安政四年に佐倉学問所(佐倉藩藩校)、文化二年に温故堂と改称し、天保七年に「成徳書院」と改称して明治維新を迎えました。
現在は建物もないのですが、この温故堂「成徳書院」の流を汲むのが県立佐倉高校で、明治四十三年に市民体育館のある宮小路町から現在の鍋山町に移転をし現在に至っています。
県立佐倉高校には、堀田正倫が寄贈した建物が残っており、佐倉高等学校記念館がそうで、ほかに地域交流館には「ハルマ和解」などがあり、長嶋茂雄氏が卒業した高校として有名です。

安政四年は1792年、文化二年は1805年、天保七年は1836年、明治四十三年は1910年。

温故堂(成徳書院)跡のあった市民体育館から先110メートルほど道は直進していますが、これは佐倉に連隊が来たときに真っ直ぐにされたもので、連隊が来る前は屈曲していました。

比較図を載せます。

佐倉城大手門跡辺りの図

佐倉城大手門跡辺りの図。

当時は図にある黄緑線のように温故堂(成徳書院)からすぐに左に曲がり、60メートルほどで右に曲がり、30メートルほどでもう一度右に曲がり、70メートルほど進んで左に曲がり、30メートルほどで大手門(追手門)にでました。
ちょうど細い道が残ってこのルートがありますが(途中まで)、このルートの内側には空堀があり、現在の佐倉中学校の東端にある崖になっているところがありますが、ここまで空堀がありました。
さらに、細道と大手門(追手門)までのところにも空堀があり、平成22年(2010)現在空地(市営住宅跡地、一部発掘調査中)がある南側の崖までこの空堀が続いていました。

温故堂(成徳書院)跡から110メートルほど進むと、右手に佐倉中学校の正門があり、その逆側(温故堂からだと左)細道の入口の南西角に大手門跡の碑があります。

佐倉町 田町 鹿嶋町 佐倉城 大手門跡

佐倉町 田町 鹿嶋町 佐倉城 大手門跡。(城内町)

大手門跡の碑から佐倉中学校側にかけて大手門があったわけで、麻賀多神社前からここまでが宮小路で、大手門から先が広小路と呼ばれ、佐倉城内になります。

大手門跡の碑横にある説明板には

大手門跡(追手門)

大手門は惣曲輪の表門。この門の西側には広小路、中下町、大下町といった武家屋敷地が整備され、三の丸御殿、会所なども置かれていた。中央に広小路の通りと重臣屋敷の塀が写されている。

とあります。

現在、佐倉城址公園の表口として使われている田町門(国立歴史民俗博物館口)は、佐倉城の裏口ともいうべきところで、もともとの表口はこちらなのですが、今は駐車場への乗り入れ口的感があります。

大手門跡から150メートルほど進んだところにT字路があり、右(北)の道の奥(50メートル行った辺り)の現在佐倉中学校の敷地内辺りが天神曲輪で、武家屋敷や蔵などがあり、北の端には天神社がありました。
この天神社は成田街道(佐倉道)その88で訪れた愛宕神社に合祀されている天神社で、佐倉市史には

天神社。椎木曲輪と裏広小路を結ぶ七曲の天神坂に向って右から大乗院・天神社・稲荷社がならんでいた。この天神社は土井氏の築城当時は椎木曲輪の秋葉社の南のところにあったものを後に移転したもののようである。

とあり、愛宕神社に合祀されている稲荷神社と共にこの天神曲輪にあったことが書かれています。
大乗院は現在は廃寺になっていて痕跡は残っていませんが、真言宗の寺であったことが佐倉市史にあり、最近の遺跡発掘調査では屋敷の遺構と共に生活用品などが出土しています。
佐倉市史には、「…天保七年の学制改革後は大乗院の南に西塾を置いた。」とかかれており、このあたりに藩の学問所があり、佐倉城實測圖の中にも書き込みがされています。

このT字の北西側の現在くらしの植物苑の約3分の2の部分は、会所が置かれていたところで、残りの3分の1のくらしの植物苑の入口と駐車場側は武家屋敷があったところです。
この会所とは外部などの人との話し合い、その他雑用のために使われたところ(たとえば商人との折衝など)で、現在でいうところの市役所の窓口みたいなところであったところで、この会所の逆側(南)には御用屋敷があり、こちらは佐倉藩の藩政などの用向きに使われたところです。

くらしの植物苑の逆側(南)にある現在駐車場と自由広場になっているところは、三ノ丸御殿があったところで、佐倉市史には

三ノ丸御殿 二ノ丸にあった対面所が殿様在邑中の住居であったが、前記のようにこの建物は腐朽が甚だしかったので、寛政十一年八月、三ノ丸御殿を新設し在邑中はここを住居した。

とあり、藩主が江戸の藩邸から国もとへ戻ってきたときにはここで暮らしていたと所になります。
ただし、藩主が江戸の藩邸にいる場合には、家老や奉行などが藩政を議論したりしていたようです。

寛政十一年は1799年。

くらしの植物苑の左端(西角)の辺りに現在は車止めがありますが、その車止めのある辺りの自由広場側には佐倉城址の説明板があり

佐倉城址

佐倉城は印旛沼へ注ぐ鹿島川、高崎川を外堀とし、台地上に土塁を加えて築城した平山城で、石を用いていない。
戦国時代のなかごろ、千葉氏の一族鹿島幹胤によって初めて築かれたと伝えられ、別に鹿島山城とも呼ばれた。千葉邦胤もここに本城を移そうとしたがなかばにして果さず、のちに徳川家康がその要害に着目し、土井利勝に命じ慶長16年(1611)正月から7年間をついやし、元和3年(1618)ごろに完成した。以来、徳川幕府では江戸のまもりとして老中格の譜代の諸侯九氏を封じた。
延享3年(1746)山形から堀田氏が再び移封し、六世126年間11万石を領有して明治維新に及んだが、明治6年(1873)第一軍管第二師営の営所が置かれ城の施設はことごとくこわされた。
その後、歩兵第二連隊、歩兵第五十七連隊などの兵営となった。

とあり、絵図も提示されています。

説明板にある「明治6年(1873)第一軍管第二師営の営所が置かれ城の施設はことごとくこわされた。」とあるように、大手門から三ノ丸御殿までのところにある建物(現在の佐倉中学校と佐倉東高校の敷地にあったものも)は全て取り壊され、練兵場となり、兵士の訓練などが行われていました。
この説明板より100メートルほど南のやや西よりのところ(梅林がある辺りの空堀の近く)には佐倉兵営の跡の石碑がひっそりとあります。

佐倉城址公園辺りの図を載せます。

佐倉城址公園付近の図

佐倉城址公園付近の図。

くらしの植物苑の西側に下りていく道がありますが、ここは元は空堀だったところ(道の途中左に空堀があり説明板がある)で、トイレのある辺りから下りの途中10メートルほどのところまでは、平地になっていてその後は緩やかな崖になっていましたが、ここも連隊が来たときに切り通し道を作って現在のようになったところで、この道を下っていけば、姥ヶ池のあるところに出ます。

佐倉城址の説明板のところから西に70メートルほど進むと左に大堀(空堀)を見ながら道は南に進み、30メートルほどで西と南に道(T字路)が分かれますが、本来の道筋は南に進む道なので直進していき、50メートルほど進むと右側に三の門跡の説明板があります。

佐倉城址公園 佐倉城址 三の門跡

佐倉城址公園 佐倉城址 三の門跡。(城内町)

説明板には

三の門跡
北面、木造、本瓦葺、二階造り、梁間三間、桁行六間

この門は御作事の諸道具を入れた倉庫として使われ、門内は三の丸といい、家老屋敷が置かれていた。

とあります。

説明板の後ろ側(説明板よりも北側の部分)は少し低くなっていますが、実はここも空堀の一部で先ほどのT字路から西に進んでいる道は連隊が来たときに空堀を埋め立てて直進する道を作ったために、消滅していますが、道を高くしていたために空堀の一部の部分が低くなっています。

佐倉城跡発掘調査報告書(国立歴史民俗博物館発行)には

...三の門の前にある堀で仕切って道をL字状に曲げた部分も馬出しであった。すぐ脇には空堀で守った曲輪があって、高い土塁から馬出しを見下ろした。ここが味方が出撃するときは援護射撃を行い、敵が来たときには正面と横から防射した大手道防御の要であった。馬出し背後の堀を挟んだ城内側にある土塁は、旧地形を人工的に大きく改変した部分である。
本来の地形は、姥ヶ池につづく谷へと落ち込んでいく低いところであったが、城内-城外関係を矛盾なく完結させるため、もう低くなってしまう部分にも関わらず、人工的に土盛りを行い地形を高くしたのであった。佐倉城の隠れた見所である。現状ではこの出入り口の馬出しを破壊して城址公園に入る直線道がつき、堀も埋まり、馬出しの土塁も低くなっているので、よほど注意しないと、こうした縄張りのくふうに気が付くことはない。公園整備が結果として遺構の破壊を進めており将来の整備では、ぜひ復元が待たれるところである。

とあります。

三の門跡に来る前にあった、西と南に道(T字路)が分かれるところを西に40メートルほど進んだあたり、右(北)に細い道が分かれているT字路の左(南)の大木付近に説明板と道標があります。

佐倉城址公園 佐倉城址 車道の碑

佐倉城址公園 佐倉城址 車道の碑。(城内町)

説明板には

⑤車道の碑
大正9年建立。兵営と大手門とを直通させる新道の完成記念碑。連隊への物資搬入のため、佐倉城時代の不便を解消しました。

とあります。

大正9年は1920年。

碑の正面上部に「車道」とあり、下部には軍の人の所属と人名、右面と左面にも人名が多数あります。

佐倉城跡発掘調査報告書などにもありますが、もともとここには道はなく、土塁と空堀があったわけで、車道の碑の北にある細い道も、この空堀の部分に道を作って姥ヶ池や梅林などに下りられるようにしたものです。
細い道の左(西)に平地がありますが、「すぐ脇には空堀で守った曲輪があって、高い土塁から馬出しを見下ろした。ここが味方が出撃するときは援護射撃を行い、敵が来たときには正面と横から防射した大手道防御の要であった。」と佐倉城跡発掘調査報告書にある曲輪です。

元に戻って、三の門跡から道なりに50メートルほど進んだところで道は右に曲がり、90メートルほど道なりに進んだところでY字路になりますが、このY字路までの南側は武家屋敷があったところで、武家屋敷の南西側の崖際には浅間社がありましたが、連隊が佐倉城址に来たときに佐倉市鏑木町の佐倉ゆうゆうえの里の隣にあるさくら荘(老人施設)のところに移され、浅間社のあった基壇(塚上のところで、現在は見晴台のようになっている部分)のみ残っています。
Y字路の左に細い道があり、この細道の入口に坂上木戸門があり、この木戸からの坂は浅間坂といわれ、もともとは鷹匠町へ下りる道でしたが、現在は下にある南側の出丸跡へ続いています。
途中で道が改変(おそらく戦後)されていて、細い道を下りて一番初めの右に曲がるあたりで、当時の道筋は真っ直ぐ下り道となり(実際にはもう一つ細い道があり、この道は左側に上り浅間社へ続いていた)、途中で左に曲輪の高低差を使って下りていき、出丸跡の東の大濠(水堀)の城内堤(桜並木の続く土手道)の東側約70メートルあたりに続いていました。
その場所の少し上辺りに、坂下門があり、門の手前では屈曲していて鍵状になっいてたようですが、現在はその場所辺りに建物が建っていて、坂下門の遺構は残っていません。

Y字路を右に40メートルほど進むと右に建物があります。

佐倉城址公園 佐倉城址 三逕亭

佐倉城址公園 佐倉城址 三逕亭。

この建物は茶室で三逕亭といい、元は東京都港区赤坂の乃木神社にあり、京都大徳寺の孤蓬庵の重要文化財茶席を模したものといわれ、茶室のある場所に乃木会館(結婚式場)が建てられることになり、佐倉市がこの茶室の譲渡を受けて国立歴史民俗博物館と佐倉城址公園の整備が整った後、この場所に移築されたものです。

乃木神社は東京都港区赤坂にあり、二〇三高地(日露戦争)で有名な乃木希典将軍を祀った神社で、神社の隣には旧宅があります。

佐倉市のホームページの三逕亭のところには

三逕就荒 松菊猶存
これは陶淵明の「帰去来の辞」の一部です。淵明は東晋末期の官吏で二君に仕えるを潔しとせず、官を辞して郷里に帰りました。
「懐かしい吾が家の門を入ると、家族や一門の者たちが迎えた。庭内にある三つの逕(みち)は荒れているが、松は操の緑をたたえ、菊の花は燦として露霜の中に咲き誇っていた。之らは世の浮沈栄枯盛衰に関わりなく誠を表している」という意味です。
丁度佐倉城三の丸のこの地は、二の丸本丸への逕と、椎ノ木曲輪へのゆく逕と、本丸下を巡る逕の三逕が合する所でもあります。

と、三逕亭の名の由来が説明されています。

三逕亭の後ろ側(東側)には空堀がありましたが、この部分も埋められて現在のような少し窪んだ広場となっていて、逆側(南側)には土塁が少し残っていますが、ここと空堀があった少し窪んだ広場との間には土橋がありました。

三逕亭の東側から20メートルほどにT字路があり、このT字路の直進(西)に進む細い道の入口の両側には銅像があり、左側にはタウンゼント・ハリスの像、右側には堀田正睦の像があります。
この二人は日米修好通商条約を結ぶために交渉した日米の重要人物で、安政5年に日米で結ばれました(結んだのは井伊直弼)が、この条約は日本には条件の悪い不平等な条約として有名です。
銅像の下には説明書きもあるので一読してみるといいでしょう。

安政5年は1858年。

T字路の直進する道と右(北)に進む道の間には大きな空堀が南北にあり、北の空堀は二の丸外側をぐるっと回り西側の出丸の横まで続いていましたが、現在は途中の部分(西側)が埋められてしまって消滅しています。
南の空堀は残っており、この空堀の東側に沿って現在は道が作られており(出丸跡・帯曲輪への案内板がある)、ここを下りていくとY字路から下りてきた道と合流し、南側の出丸跡に出ますが、途中からは帯曲輪に出る道もあります。

三逕亭の北側にトイレがあり、車道が合流するあたりまでが三の丸の南側で、三逕亭とトイレまでのところには小姓長屋がありました。
トイレのあるところから北に進むと三ノ丸の北側の部分がありますが、そこは後ほど訪ねるとして、T字路まで一旦戻り西に進みます。

ということで、今回はここまで。

[2010-02-20 修正と追加] 天神曲輪、三ノ丸御殿、三の丸の記述に修正と追加をしました。

参考文献は、「歴史の道調査報告書 成田街道」、「佐倉市史」、「千葉県下総国印旛郡寺院明細帳」、「千葉県下総国印旛郡神社明細帳」、「千葉県神社名鑑」、「千葉県印旛郡誌」、「佐倉市誌資料」、「多輪免喜」、「佐倉風土記」、「佐倉文庫」、「ふるさとの石仏」、「古今佐倉真佐子」、「新佐倉真佐子 佐倉のお茶の間風土記」、「北総名勝 佐倉誌全」、「佐倉の歴史を学ぶ資料集」、「佐倉細見」、「千葉城郭研究」、「佐倉市史研究」、「佐倉城跡発掘調査報告書(国立歴史民俗博物館発行)」、「佐倉城の歴史」、「千葉県佐倉市佐倉城跡(佐倉中学校第3~6次調査)」、「佐倉城跡(公営住宅跡第1次)・佐倉城跡(根古谷第1次)」、「千葉県佐倉市佐倉城跡(天神曲輪)」、「千葉県佐倉市佐倉城跡(市立佐倉中学校給食室建設に伴う埋蔵文化財調査)」より。

引用は各文献と各社寺の説明板、地域の説明板より。

「三逕亭」については、佐倉市のホームページにある記述を掲載しています。

今回の地図は「佐倉道6」です。

国土地理院25000分の1「佐倉」より作成しています。

OpenID

openid-accepted.gif

OpenIDに対応しました

Feeds

logo

▲ Page Top

What's New!

▲ Page Top