佐倉道 愛宕神社手前のY字路(千葉県印旛郡酒々井町本佐倉)から勝田道を経由して新堤の馬頭観音まで進み、電気屋さん(千葉県佐倉市本町)のところに戻ってくるところまで

愛宕神社手前のY字路を左(北)に200メートルほど進むとT字路があり、T字路の南西側にはエコトピア酒々井の大きな建物があり、T字路の北西側には墓地があります。

酒々井町 本佐倉 南大堀(五良) 墓地

酒々井町 本佐倉 南大堀(五良) 墓地。(酒々井町本佐倉)

五良墓地と呼ばれている墓地の北東角側に石塔(宝篋印塔や無縁塔など)が積み重なり、大きな石塔のようになっているところがあり、この石塔群はこの場所にあった文殊寺にあった墓碑や宝篋印塔などであると思われるものです。
現在、文珠寺の痕跡としてはこの墓地以外にはなく、文珠寺自体の範囲と本堂などの位置などについてははっきりとわかっていないようですが、五良神社の隣に建立したことがわかっているので、墓地から愛宕神社横の畑とエコトピア酒々井のあるところ、墓地の東から愛宕神社間での畑の部分、墓地の北側の現在林になっている台地部分に渡っていたのではないかと思われます。

文珠寺について、酒々井町史には

愛宕山文珠寺は本佐倉五良にあった。町の西南端、佐倉市長熊に接しており、現五良墓地付近にあった。真言宗醍醐寺三宝院末で、中世には佐倉五か寺の一つに数えられた大寺であったが、天保四年(一八三三)の大風のために大破し、それ以後廃寺となった。
安政三年(一八五六)の「文珠寺書上帳」(町史資料(一)五一)によると、境内面積二万九七六〇坪、客殿六八・二五坪、庫裏二九・七五坪、小方丈六坪、地蔵堂九坪と記載されているが、「大破仕無御座候」となっていて当時すでに廃寺となっていた。文珠寺は本佐倉の吉祥寺に合併され、下寺、境内地、山林などの一切も吉祥寺に引き継がれた。詳しい由緒などはわかっていないが、おそらく中世千葉氏に深いかかわりをもって創建されたもので、千葉氏滅亡後、有力な檀家がなかったために、維持困難となって廃寺に追いやられたものと思われる。
『古今佐倉真佐子』には、文珠寺にまつわる天狗の伝説やその他の伝説が記されており、話題の豊富な寺院であった。

とあり、佐倉市史には

文珠寺(大蛇)。創建は不明。『新撰佐倉風土記』には天文年中(一五三二~ )に千葉胤富(勝胤の孫)、原胤安(遠江守胤平の第二子、原上総介胤定の弟)によって再興されたものとしている。同寺に伝わる仏像と萃鬘(けまん、仏前を荘厳にする装飾で、金銀銅でつくった扁平な輪に蓮萃などの造花をつづる-辞苑)の銘文に、仏像には「原大蔵亟胤安祖母 妙孝禅定尼 天文十四年乙巳」とあり、祖母妙孝禅定尼は原胤安の祖父に当る生実城の原四郎胤高の室であろうと見られる。萃鬘の方には「天文十六年十月十六日 大檀那 平胤富 作者司濃」等から見られることからも同寺が千葉家の加護があったものと見られる(篠崎四郎氏の研究より)。また当寺には次のような伝説がある。それは、昔、鎌倉権五郎景政がここに来て鞭を地にさし暫く休んで去ったが、この鞭が生きてそのまま桜樹となり八重の花を咲かせたが、その後其処に寺を建て文珠寺と号し、景政の冥福を祈ったことに寺の起源があるとの筋書きである。

とあります。

天文十四年は1545年、天文十六年は1547年。

[2010-07-30 追記] 千葉県印旛郡誌の佐倉町にある寺院佛堂誌のところに、文珠寺の記述がありそこには「大蛇にありて佐倉五ケ寺寺の一なり」とあります。

古文書などでは文珠寺のある場所を「大蛇」としているものが多く、当時(千葉氏が支配している時代)には「大蛇」であったことが知られていて、佐倉市史で「(大蛇)」としているのはこのためであると思われます。
佐倉市史にある「萃」は「華」の字の間違いと思われ、「萃鬘」は「華鬘」と書くのが本当です。

古今佐倉真佐子には「真言宗五霊山文珠寺」とあり、古今佐倉真佐子の書かれた時代には「愛宕山」ではなく「五霊山」といっていたような感じですが、この古今佐倉真佐子も意外に間違った箇所が多いので一概には言えませんが、「五霊山」といっていたとすれば、やはり鎌倉権五郎景政の古事にちなんで「五霊山」としたものか、もしくは多輪免喜に「御霊とは霊魂の尊敬語。のちに尋常でない、祟りをあらわす「みたま」についていった、各地にある五良塚もこの転か。」とあるように、もともとこのあたりには古墳が多数あったところであり、その古墳群を「御霊」といっていたものがいつしか鎌倉権五郎景政の伝説とが重なり「五霊」になり「五霊山」となった可能性もあります。(その後、「五霊」から「五良」となったと思われる。)
その「五霊山」が「愛宕山」にいつ頃なったかについてはわかっていませんが、古今佐倉真佐子の時代以降に「愛宕山」になったということと考えていいと思います。

酒々井町史の中にある文珠寺書上帳(安政三年十月)には、「本佐倉村字五良 愛宕山 文珠寺」とあり、本堂、客殿、庫裏飲みの記載があり、天保四年八月一日に大風で大破したあと十月に本尊観世音厨子を吉祥寺に移したことが書かれています。
さらに、愛宕社の記述のところに「愛宕大権現開帳三拾三年ニ壱度宛仕候」とあり、33年に一度しか本尊を見ることが出来なかったことが書かれています。
さらに、妙見堂が記載されており、この妙見堂は千葉氏との関係を物語っている確かな証拠といえるでしょう。
ただし、妙見堂がどの位置にあったかについては詳細が書かれていないため、はっきりとはわかっていませんが、松並木の後に記述のあるところから、愛宕神社よりやや北側、もしくは現在の参道の近く、長熊廃寺の碑のあたりにあったのかも知れませんが、これはNoboの推測に過ぎません。

安政三年は1856年、天保四年は1833年。

酒々井町史に「天狗の伝説」とありますが、この天狗の伝説について古今佐倉真佐子には

ある六月七日の朝五つ半頃、寺の野郎、酒を調に徳利を為持(もたせ)、本町へ遣したるに待て帰らざる故、和尚ふしん成がゆへに、そこかしこと尋、前の並木の所へ行て見しにくだん(の)徳利松の枝に懸てあり、野郎は不見。猶々ふしんに思ひて寺へ帰り居しに、暮々に帰りし故、和尚しかりければ、京のぎをんまつりを見、只今帰りたると云し故、十四五日のたびにて京へは行に、日帰に行とは大だわけと、はなはだ叱付置成也。其後十日斗過て西国に出し者帰りて寺へ来、よもやまの咄などして扨、これの野郎は去る七日に、京ぎをんまつりをさじきにて見いしが、早く帰りたると云を和尚きゝて、その七日の様子(く)はしく野郎に一々ぎをんまつりの様子をきゝしに少も違事なし。如何して行しと尋(たつね)しに、徳利を持て並木の中ほどへ行しが向より大き成る山伏来り、きやうはぎをんのゑ(会)也。見物せんかとゆいてつれ行しが、そのまゝぎをんの祭を見たると咄す。その時和尚よ(こ)手を打、扨々きたいの事哉(かな)。まったく天狗のしよいと見るとて其後たれかれに咄にて、かくれなき後は咄になる。ま所故如此成る事ある也。

とあり、ここで天狗の仕業として、野郎とあるおそらく寺男が天狗に連れられて京都の祇園祭を見てきた話と、その山伏に化けた天狗のいた抜け道(今で言う次元空間のトンネル)は、並木道の松のところにあって、そこに徳利がぶら下がっていたのは、おそらく天狗がちと頂戴した変わりに、野郎(寺男)に祇園祭を見せてやったという話のようです。

ここで徳利が出てきましたが、もしかすると、成田街道(佐倉道)その109の中にあった本佐倉の庚申塔の遷座碑にあった「豆徳り」というのは、この「徳利」の話のことではないだろうかと思ったりします。

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佐倉道 麻賀多神社(千葉県佐倉市大蛇町)から勝田道を寄り道して、愛宕神社手前のY字路(千葉県印旛郡酒々井町本佐倉)まで

上代・長熊あたりの図

上代・長熊あたりの図。

麻賀多神社入口から左(南、電気屋さんからだと直進)に60メートルほどいくと大蛇橋があり、その下を国道296号東西に走っていますが、もともと橋はなく、佐倉道(現行の成田街道、もと国道296号)の渋滞緩和のために平成7年に遺跡調査(大蛇麻賀多脇遺跡)がおこなわれた後に、国道296号が掘割されて大蛇橋が架けられました。
大蛇橋を渡り200メートルほど進むとT字路があり、T字の先の右側の民家の生垣にほぼ折れて埋まった状態の道標があります。

和田村 上代 平台 道標

和田村 上代 平台 道標。(上代)

ほぼ文字は判読できなくなっており、一見コンクリートの柱としか見えない状態になっていますが、房総の道標には「高岡ヲ経テ佐倉駅ニ至ル 長熊八木方面 昭和七年上代青年団」とあったとあります。
T字路の角にあったものと思われますが、道路拡張に伴い現在位置にあると思われます。
T字路から南に続く道が、道標が指し示す「高岡ヲ経テ佐倉駅ニ至ル」道で、現在白銀ニュータウン(上代平台遺跡があった場所)になっている白銀を抜けて現在のJR佐倉駅に続いていましたが、途中ニュータウンのために整地されてしまっているので、一部の古道は寸断されています。
「長熊八木方面」は勝田道の道筋のことになるので、道標の指し示す道を進んでいきます。

道標から40メートルほど左、道から一段低くなったところに神社があります。

和田村 上代 宮田 稲荷神社

和田村 上代 宮田 稲荷神社。(上代)

由緒などはわかりませんが、屋敷神であるものと思われます。

稲荷神社から150メートルほどいくと左側に少し広い道のあるT字路があり、T字路の北東側に赤い鳥居の見える広場状になっているところがあります。
その広場状になっているところの、右側の土手になっているところの道路側(斉藤工務店のすぐ近く)に、草むらの中に埋もれるように倒れたままの道標があります。

和田村 上代 華表脇 愛宕神社入口 道標

和田村 上代 華表脇 愛宕神社入口 道標。(上代)

正面に「↓大蛇佐倉町ニ至ル」、右側面に「新堤馬橋方面ニ至ル」、左側面に「酒々井町方面ニ至ル 昭和七年上代青年団」とあります。

昭和七年は1932年。

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佐倉道 電気屋さん(千葉県佐倉市本町)から勝田道に寄り道し麻賀多神社(千葉県佐倉市大蛇町)まで

電気屋さんの左(東)に道がありますが、この道は勝田道でこの先大蛇町、長熊、上代、新堤、下勝田と続いて、さらに八街市を経由して東金市まで続いています。

このあたりの図を載せます。

佐倉本町中宿から下宿あたりの図

本町中宿から下宿あたりの図。

電気屋さんから勝田道に寄り道し、左(南)に勝田道を310メートルほど進むと右側に空地があり、入口の右側に墓碑、左側の大木の横に子安塔、空地の奥の左(北)に大師堂があります。

佐倉町 大蛇町 麻賀多脇 蓮蔵院跡 大師堂

佐倉町 大蛇町 麻賀多脇 蓮蔵院跡 大師堂。(大蛇町)

この蓮蔵院跡にある大師堂は、佐倉六崎組十善講(佐倉八十八ヶ所)によると第30番札所ということになっていて、先に成田街道(佐倉道)その107で訪ねた、常泉院跡にあった大師堂と同じ番号の札所ということになっています。
ちょっとややこしいところですが、この佐倉の八十八ヶ所の札所にはいろいろあり、常泉院跡の大師堂は印旛組に属し、蓮蔵院跡の大師堂は六崎組に属している、ということのようです。

大蛇町 蓮蔵院跡 配置図

大蛇町 蓮蔵院跡 配置図。

千葉県下総国印旛郡寺院明細帳には

中本寺吉祥寺末
新義真言宗智山派 蓮蔵院
一 本尊 弘法大師
一 由緒 不詳
一 本堂間数 間口三間半 奥行五間半
一 境内坪数 三百四拾六坪 官有地第四種
一 境内仏堂 壱宇
観音堂
本尊 観世音菩薩
由緒 不詳
建物 間口四尺四寸 奥行三尺五寸

とあり、千葉県印旛郡誌にも同様の記載があるので省略します。

住職の記述のところに「大正十年八月十九日兼務」と「吉祥寺住職兼務」とあるので、この時点で吉祥寺の管理下に入り、その後昭和に入り吉祥寺に合併したものと思われますが、千葉県下総国印旛郡寺院明細帳に合併の記述がないところを見ると、戦後になってから少なくとも昭和40年代までには、合併して蓮蔵院跡には大師堂と石造物が2基残されるのみとなったものと思われます。

大正十年は1921年、昭和40年代は1965~1974年の間。

千葉県寺院明細帳や千葉県神社明細帳は、明治12年前後に編纂され終戦後の昭和20年、遅くとも昭和25年までは使用されていましたが、その後のことについては明細帳には記述はありません。
推測ですが、先に訪ねた常泉院も蓮蔵院と同じく吉祥寺の末寺であったので、常泉院が吉祥寺に合併した明治43年もしくはそのあとくらいに、同じく吉祥寺に合併したのではないかと思われます。

明治12年は1879年、昭和20年は1945年、昭和25年は1950年、明治43年は1910年。

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