佐倉道 佐倉城址公園佐倉城址本丸跡(千葉県佐倉市城内町)から佐倉城址公園佐倉城址椎木門跡(千葉県佐倉市城内町)まで
台所門(不明門)跡から左右に空堀を見ながら土橋(現在は普通の道になっている)を30メートルほど進むとT字路になり、ここからはもう一度二の丸内になり、T字路左(北)の道は子規の句碑の先のT字路から右(南)に曲がって進んできた道ですが、このT字路は右(南)に進んでいきます。
佐倉城の一から三の丸の位置関係の図を載せます。

佐倉城の縄張りの簡単な関係図。
T字路から右(南)に少し行くと「帯曲輪・出丸跡」の指示板があり、ここを左に曲がりながら50メートルほど坂を下るとY字路になり、前方に進むのが帯曲輪への道で、左下に進んでいくのが出丸跡への道になり、ここでは先に出丸跡に進むことにして左下への道に進んでいきます。
20メートルほど下ると今度は右に曲がり、30メートルほど下ると出丸跡の入口になる十字路に出ます。
この十字路の左からの道は、成田街道(佐倉道)その91で歩いた、三の丸の坂上木戸門跡から下っていく浅間坂の途中から来る道で、この道は江戸時代にはなかったもので、この道も連隊が来たときか、公園整備の時に出来た道と思われ、右(西)への道も、連隊が来たときか、公園が整備されたときのものと思われます。
十字路を真っ直ぐに進んで出丸跡に入り、40メートルほど道なりに進んだ辺りが清水門があった辺りです。

佐倉城址公園 佐倉城址 南側出丸跡。(城内町、右に見えるのがL字の土塁)
出丸跡はかなり改変がされていて、当時の遺構がほとんど残ってませんが、土塁の跡が唯一残っています。
この出丸は佐倉市史によると二の丸のところに記述ががあり、清水門については
一、出丸清水御門 二間に三間 袖塀二間四尺 竹行馬百拾七間。台所門から下りで二町余ある。二ノ丸続きではあるが別郭であるから平日は〆切の場所。この門は本丸崖下の水堀で遮断されているが堀沿いの通路とは引橋で必要によりつなげる仕懸であった。
とあり、この出丸の周りに竹で作った馬除けと清水門には竹矢来があったことと、清水門からは対岸(現在の駐車場側)に引橋を下ろして、必要な場合通行が出来るようにしていたことが記述されています。
清水門の「清水」は、おそらく、浅間坂とハリスと堀田正睦の銅像の所の出丸跡へ下りていく道の合流点から下ったすぐ左(南)に、現在コンクリートで囲っているものがありますが、ここはもともと湧水点(清水の湧き出し口)であったところで、現在も水が少し湧き出ているのですが、この清水が清水門の名の由来になったようです。
出丸跡中央やや西より側から中心部に向って西向きのL字状の土塁が残っていて、土塁の西端と水堀川の土塁の東端を結ぶところが清水門があった位置で、その先の現在は地面になっているところあたりには水堀があったわけですが、ここは崖崩れで徐々に埋まったものか、連隊が来たときに埋められたもの定かではありません。
十字路の右(東)の道沿いにはレンガ造りやコンクリート造りの遺構がありますが、これは連隊の遺構で、東側の水堀が切れているあたりに土手が東に長く続いていますが、是も連隊のときももので、この場所には南射撃場というのがあって、ここで砲弾や機銃などの射撃訓練をしていたわけです。そのため、この部分にある佐倉城の遺構は、射撃訓練の対象になったためほとんど破壊されてしなくなってしまい、そのため坂下門や鷹匠町の遺構なども今日残っていません。
その射撃場の西端に当たるこの出丸の東側も、実際は水堀があり、現在のように直線ではありませんでした。
おそらくレンガやコンクリートの遺構は、この水堀を埋め立てたときのものであると思われます。
出丸跡の十字路からY字路まで戻り、今度は左(台所門からだと直進)に進むところが帯曲輪で、ちょうど本丸崖下に当たり銅櫓の直下あたりまで続いています。
Y字路から100メートルほどの左に説明板があり、そこには
帯曲輪跡
帯曲輪の位置
本丸を囲む空堀の一ノ門寄りの堀の落ち口から台所門寄りの堀の落ち口の間に位置し、延長約二百六十メートル、巾約四メートルから五メートル、武者走りから帯曲輪まで約二十五メートル、帯曲輪から根方(水堀際)まで約十五メートル。
帯曲輪の用途
帯状に細長く城のまわりを囲む曲輪でその用途は、敵が城の根方より攻撃し、帯曲輪までよじ登ってきたとき武者走りにあらかじめ用意して置いた石材、木材などを投げ落し、反撃するために設けたものである。
とあります。
武者走りは、現在は見た目ではすぐにわからない状態ですが、よくよく観察をすると細いい道筋がありますが、ところどころ崖崩れによって消滅しています。
説明板からさらに190メートルほど進むと、左下に少し急に下る坂道があり、ここを下りたところで左から来る清水門のあった出丸の十字路を水堀に沿って進んでくる道と合流します。
合流したところから右(北)に30メートルほど行くと、今度は前方(北)から来る道と合流して左(西)に道は進みますが、この辺りから西側に道よりもかなり低くなった広場とかなり高い土塁があり、ここは西側の出丸の跡です。

佐倉城址公園 佐倉城 西側出丸跡。(城内町、写真は出丸跡南側の土塁上から見たところ)
合流点から30メートルほど進むと道は左(南)に曲がり、30メートルほどさらに進んだあたりに門があります。

佐倉城址公園 佐倉城址 西側出丸跡 旧城門。
この門の北側には説明書きがあり
この門は昔城内にあったものであるが市内の酒造家土井家■(に)下賜され長くその表門として使用された 昭和三十七年城主堀田家の菩提寺である甚大寺がこれを譲り受け保管していたがこのたび市に寄付しこの地に復元されたものである
昭和五十七年三月
安城山甚大寺住職小川長顕識
とあります。
昭和三十七年は1962年、昭和五十七年は1982年。
■はくずし文字になっていて、少しにじんでいるため読みづくなっていますが、()内の文字はおそらく入るであろう文字です。
どこにあったものかについては記されていませんが、屋敷門であることは確かで、甚大寺にあったことなどを考慮すると、御対面所にあったもの、もしくは三ノ丸御殿にあったものとも考えられます。
解体前の三の門辺りの写真に、この門に良く似た屋敷門が写っており、もしかすると、その写真にある屋敷門であったのかもしれませんが、記録がないのでなんともいえません。
西側出丸跡には城門はなく木戸門(おそらく不明門[あすがのもん])のようなものを設けていたと思われますが、ここに門(旧城門)を置いたのはは記念碑的にここに設けたものでしょう。
旧城門から先に進むと橋があり、水堀を渡って駐車場にいけるようになっていますが、江戸時代には橋はなくこの橋の先にはいけませんでした。
旧城門まで戻って、門の横(西)に土塁へ上る階段があり、ここから土塁に上がり、ぐるっと歩いていきます。
佐倉城跡発掘調査報告(国立歴史民俗博物館発行)に
...このふたつの出丸も、出撃を強く意図した馬出し的な空間で、印旛沼につづく低地への城道を確保していた。つまり佐倉城は台地つづきの西方、椎木曲輪への北方、低地側の西・南方といった四方の要所に、土づくりではあっても強力な出撃力をもった馬出しを備えることで隙のない縄張りを実現したのである。
とあり、攻撃と防衛のための砦であったことが伺えます。
先にある橋の部分には、おそらく、南側の出丸にもあった引橋のようなものを戦時には使ったか、もしくは大きな板橋や舟橋(ある程度大きな舟の上に板を張り橋にしたもの)を使って渡っていたものと思われます。
土塁上から見てみるとかなり広く、しかも外からだとこの中がまったく見えないようになっていて、この出丸の中に人や馬がいても気付かれないようになっていることがわかると思います。
ぐるとっ回って土塁を下りると、先に帯曲輪から下りてきた合流点に戻ります。
合流点から左(北、帯曲輪からだと右に進む)に進む道はヘビ坂に合流していく道ですが、今回は帯曲輪に戻り台所門(不明門)跡前のT字路まで戻ります。

佐倉城址 城内の図。(三の丸まで)
台所門(不明門)跡前のT字路を直進(北、台所門跡からだと左)し、左に空堀を見ながら70メートルほど進むと、一の門へ進むT字路(子規の句碑の近くの)に戻り、T字路を左に40メートルほどの一の門跡へ進む手前の右の空堀方向(林になっている方向)へ曲がり(右、北)、40メートルほど進んだあたりの右側の広場が御対面所の裏門があった辺りになります。
空堀(林になっているところ)が左(西)に向っているところで、同じく左(西)に60メートルほど進むと、少し小高くなったところがあり、その小高くなったところに大きな石がたくさんあります。

佐倉城址公園 佐倉城址 二の丸跡 佐倉城の礎石。(城内町)
この大きな石は、佐倉城の礎石であったもので、説明板には
昭和五十九、六十年(一九八四、一九八五年)国立歴史民俗博物館の研究棟を建設するために、同敷地を発掘調査し、旧陸軍の営所跡を検出した。
兵舎跡の基礎には、大量の石が詰めてあったが、主柱の建つ位置には佐倉城の礎石を埋め込んでいた。佐倉城は、江戸時代初期の元和年間(一六一〇年代)に土井利勝がこの地に築いた城である。明治時代初期(一八七三年)に同じ場所に陸軍の営所をおく際に、佐倉城の建物は取り壊し、その基礎を兵舎の基礎に転用したのである。
とあります。
ちょうどこの礎石があるところに御米倉(後に金蔵)があった場所で、丘の右側(北)とその北にある花畑との間には通路があり、その先に下りる道がありましたが、この道は現在消滅(崖崩れしているため)していてありません。
現在の花畑になっている部分は南側には御米倉があり、北側は空堀になっていましたが、陸軍が来たときに埋め立てられて、現在のようなほぼ平坦の場所になっています。
ただし、花畑の後は林になっていますが、このあたり注意してみてみると突然崖(落下の危険があるので見に行かないほうがいいでしょう)になっている部分があり、若干空堀の名残があります。
佐倉城の礎石がある丘の前から北に30メートルほど進むと、左右に若干窪んだところがあり、その中間あたりだけ高くなって広い道になっているところがあり、この小高く(ほんの少しだけ)なったところには不明門(あかずのもん)がありました。
ここには説明板などありませんが、佐倉市史には
一、御城米不明御門 三間梁八間二階作り、畳は二ノ御門と同様。天水桶一 この門は馬具方役所で馬具を二階にいれておいた。
とあります。
このあたりにいろんな形をした構造物(テーブルとかいすとかの残骸のようなもの)があり、右側(東)に林が見え、この下は空堀がありますが、その林から不明門と、さらに花畑の北側が直線上になるのが確認できると思いますが、この直線上のところ不明門の左右まで、かつて空堀があり、やはり陸軍が来たときに埋め立てられ消滅してしまいました。
この不明門跡の右(東)の林(後に空堀)に沿って10メートルほどのところに、御対面所前に三社がありました。
三社について佐倉市史には
二ノ丸の八幡宮。新規に建て、文政六年十二月九日遷宮、中央に東照宮、左に八幡宮、右に高良明神を祀った。
とあります。
文政六年は1823年。
この三社がどこに移ったのはなどは佐倉市史にも記述がなく、三社ともに廃社されたのではないかと思われます。
不明門跡から北は三の丸の北西側部分になり、右側(東)は現在広場兼駐車場(花見の時期など)になっており、左側(西)も広場と林(桜が多い)になっています。
不明門跡から50メートルほど北に進んだあたり大木のあたりに説明板があります。
③佐倉陸軍病院跡
創設は明治7年。佐倉屯営病室・佐倉営所病院・佐倉衛戌病院・佐倉陸軍病院と名称が変遷した。昭和40年代までテラスを配した洋風病棟が残っていました。
とあり、この辺りから佐倉城の礎石がある辺りまでと、御対面所のあった辺りに病院施設がありましたが、昭和20年に国立佐倉病院、昭和25年に国立療養所佐倉病院、昭和28年に国立佐倉療養所と名称が変わり、昭和54年に国立佐倉病院として、成田街道(佐倉道)その84で名前の出ていた聖隷佐倉市民病院の場所に移転しまし、その後聖隷佐倉市民病院になっています。
昭和40年代は1965~1974年までの間、昭和20年は1945年、昭和25年は1950年、昭和28年は1953年、昭和54年は1979年。
佐倉陸軍病院跡の説明板から今度は右(東)に60メートルほど進むと舗装された道があり、ここを左(北)に20メートルほど進んだ左に説明板があります。
椎木門跡
北面、木造、本瓦葺、二階造り 梁間三間、桁行七間。
前面に馬出しが設けられていた。
とあり、説明板の図には門の両側に御米蔵が描かれていて、この御米蔵について佐倉市史には
一、椎ノ木御蔵 前の堀田氏時代(明暦三年)には、後のように一ヶ所にまとめないで、一部は椎木曲輪の東南端にあった。それが松平乗久時代の寛文年間、初めて椎木蔵が一ヶ所に整備され、以来幕末に及んだ。
とあります。
この椎木門跡の説明板の前の舗装路の東側、林がある後には空堀があり、椎木門跡の説明板の後(西側)にも空堀がありましたが、これも陸軍が来たときに埋められて現在のように平地になっています。
椎木門跡から舗装路を南に道なりに130メートルほど左手に駐車場とテニスコートを見ながら進むとY字路があり、Y字路の左の下に下りていく道がある辺りの左(下る道の上)には蔵番(番所)があったところで、駐車場とテニスコートのある場所には、椎木門跡の説明板ある図に載っていた東側の御米蔵があった場所になります。
Y字路を右に70メートルほど進むと、成田街道(佐倉道)その91に訪ねた三逕亭の北側のトイレのあるT字路につながり、これで三の丸の北側と南側とを歩き三の丸全体を回ったことになります。
Y字路まで戻って、下っていく道を70メートルほど急坂を下りると十字路があり、右のほうには東屋があり、その先の崖の上に上がっていく道は三逕亭の北のトイレの東側30メートルほどのところに出ます。
十字路を直進(東)し60メートルほどのところにY字路があり、そのY字路の右側(西)の平場の上に小さなコンクリート造りの建物が見えますが、この建物は物置ではなく、陸軍で使用されていた脂油庫であったものです。
Y字路を右に20メートルほどで、成田街道(佐倉道)その91で訪ねた車道の碑のあるところに出てきます。
Y字路を今度は左(北)に60メートルほど右に崖を見ながら進むと、右側の崖との間に平場があり、そこに説明板があり
⑦弾薬庫の跡
姥が池西側坂道を登った奥の窪地にありました。万一の爆発に備えた土手や建物に使われたコンクリートの一部が残されています。
とあります。
弾薬庫の跡からさらに40メートルほど進むと前方に池、左側から池に沿った道が合流し、60メートルほど左に池を見ながら進むと、右側から成田街道(佐倉道)その91に訪ねたくらしの植物苑の西側に下りていく道(トイレがある空堀を利用した急坂)が接続します。
十字路まで戻り、左(北)に右手に梅林を見ながら70メートルほど進むと、池が見えここでY字路になり、右に進む道は先ほど訪れた弾薬庫の跡空の道に50メートルほどで接続します。
Y字路を左に池に沿って90メートルほど行くと四辻(変形十字路)があり、右(南)から来る道は、先ほど訪れた弾薬庫の跡からの道とくらしの植物苑の西側に下りていく道(トイレがある空堀を利用した急坂)が合流したところから40メートルほど進んできた道です。
これでほぼ池の周りをぐるっと回ったわけですが、この池が姥が池です。

佐倉城址公園 佐倉城址 姥が池。(城内町)
四辻のところには説明板があり、そこには
姥が池
この池は江戸時代、かきつばたの名所でした。春先には近在のひき蛙が数千匹あつまり、左右にわかれて昼夜7日間、蛙合戦を行なっていたと、「古今佐倉真佐子」(江戸時代中頃の書物)に記されています。
後に(天保年間)この池の周りで家老の娘のおもりをしていた姥があやまって娘を池に落してしまい娘はそのまま沈んでしまいました。姥は困り果て身を投げたと伝えられ、以来「姥が池」といわれるようになりました。
とあります。
天保年間は1830~1844年の間。
土井利勝時代の佐倉城本丸附近絵図(佐倉市史に載せられている)には「ため池」とあり、「姥が池」の名はまだ付いていないことがわかります。
現在は蓮がかなりあり、蓮池と行ったほうがいいほどになっていてます。
蛙はひき蛙もいますが、うし蛙が結構いて、夏場はうし蛙たちの「むぉおー、むぉおー」という声がかなり響き渡ります。
三の丸御所があった駐車場のトイレのところの道(くらしの植物苑の西側に下りていく道)はもともとなかったもので、ここは空堀があり、現在の姥が池の南端の所の崖の部分から、東側にある広場には武家屋敷がありました。
姥が池の西側の現在梅林になっているあたりには畑(畠とある)があり、このあたりで城内の食料(葉ものや甘藷など)を作っていたものと思われます。
四辻から東に40メートルほどの左にコンクリート製の階段があります。

佐倉城址公園 佐倉城址 訓練用の12階段。(城内町)
階段の左に説明板があり
⑧訓練用の12階段
兵士が高所からの飛び下り訓練に使用したコンクリート製の階段。木製の飛び下り台と違い、壊すのが大変なため、戦後も残ったと考えられます。
とあります。
説明板の写真にも、飛び下りの訓練をしている様子が写っていてますが、結構下の段で飛んでいるのではたしてこれで訓練になるのかと疑問に思ったりもしますが、一番上からだと高さがあるのでそれなりに訓練になっていたのでしょう。
さて、この階段の一番下に実は木製の基台が残っていましたが、現在はその部分が削れてなくなっており、土がだいぶ下まで見えるほど削れてしまったようです。
おそらく土が雨で流れるのを防止していたものであったと思われますが、同じように木の基台は階段の後方1メートルほどのところにもかすかに残っていましたが、こちらも削れて(腐って)なくなってしまったようです。
訓練用の12階段のある場所には、やはり武家屋敷があり、その後方の小高く(結構急な小さな崖がある)なっているところがあり、ここは少し広くなっており、ここは曲輪であったかもしくは竹林であったところと思われます。
姥が池辺りの図を載せます。

佐倉城址公園 佐倉城址 姥が池附近。(城内町)
訓練用の12階段前の道に戻り左(東)に130メートルほど道なりに進んだあたり右側に丘が迫ってくるところがありますが、ここまでの右側(南側)は現在蓮池(菖蒲園、2000年ごろまでは草原だった)になっていますが、江戸時代の絵図(堀田氏時代の絵図)には「水花ダン」とあり、当時も花畑であったことがわかります。
丘の迫っているところから南には谷津になっていますが、ここには武家屋敷(花畑を管理する奉行の屋敷か?)があり、この辺りから谷津に沿って上に上がる道があり、この道は佐倉中学校のある天神曲輪の天神社があったところに出る道でしたが、現在はその道は蓮池(菖蒲園)の奥までは畦道として残っているものの、谷津を上る道は崖崩れで消滅しています。
今度は逆側(北)ですが、ここにも蓮池(菖蒲園)になっていますが、その蓮池(菖蒲園)と民家との間の大きな木があるところに、少し広いく細長い広場状のところが50メートルほどありますが、ここは七曲と呼ばれる曲輪につながっていた道で、現在は住宅地になっていてその道筋が150メートルほど消滅していますが、その住宅地の後ろ崖のところには途切れ途切れに道が130メートルほど残っていますが、現在は崩れていたりして歩くには向かない状態になっていて、両町橋まで実際は続いていましたが、残念ながら消滅しています。
この蓮池(菖蒲園)の左右の直線の部分は「御搦手」と記載があり、戦があり万が一城が危なくなったときに、こちらから城主などが逃げるためのところであったのですが、江戸時代にはその役目はほとんどなく、畑や花畑に屋敷などが立ち並んで、どちらかというと食糧倉庫のような場所になっていたと思われます。
丘が迫って来る場所から60メートルほど道なりに進むと、大きな道路に出ますが、その手前にビオトープが右にあるところあたりに、両町橋のところにある水堀が現在の道路に沿って続いていて、さらに道路に沿って東に味噌部屋まで続いていました。
御搦手からこの水堀までには警備のための屋敷と蔵があり、水堀には緊急時に木橋が架けられここから出入りが出来るようになっていました。
御搦手から姥が池の四辻(変形十字路)まで戻り、右(北、蔵番(番所)跡のあったY字路からだと左)に上っていく道を100メートルほど行くと国立歴史民俗博物館の駐車場に出る道に接続しますが、ここは上らずに蔵番(番所)跡のあったY字路まで戻り、さらに椎木門跡まで戻り、北に進んでいきます。
ということで、今回はここまで。
参考文献は、「歴史の道調査報告書 成田街道」、「佐倉市史」、「千葉県印旛郡誌」、「佐倉市誌資料」、「多輪免喜」、「佐倉風土記」、「佐倉文庫」、「古今佐倉真佐子」、「佐倉城跡発掘調査報告書(国立歴史民俗博物館発行)」、「佐倉城の歴史」、「総州佐倉城(佐倉城本丸発掘調査概報)」、「佐倉城大絵図」、「総州佐倉御城府内之図」より。
引用は各文献と各社寺の説明板、地域の説明板より。
今回の地図は「佐倉道6」です。
国土地理院25000分の1「佐倉」より作成しています。




















