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    <updated>2010-07-29T16:10:33Z</updated>
    <subtitle>日々のつぶやき・ぼやき・散歩や写真の話などをミックス。
お気楽無気力脱力感でお送りするごちゃ混ぜサイト。</subtitle>
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    <title>成田街道（佐倉道）その１１０ - Stroll Note</title>
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    <published>2010-07-29T16:10:33Z</published>
    <updated>2010-07-29T16:10:33Z</updated>

    <summary>佐倉道　愛宕神社手前のＹ字路（千葉県印旛郡酒々井町本佐倉）から勝田道を経由して新堤の馬頭観音まで進み...</summary>
    <author>
        <name>nobo</name>
        
    </author>
    
        <category term="街道歩き" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://sanpobokko.com/stroll_note/">
        <![CDATA[<p>佐倉道　愛宕神社手前のＹ字路（千葉県印旛郡酒々井町本佐倉）から勝田道を経由して新堤の馬頭観音まで進み、電気屋さん（千葉県佐倉市本町）のところに戻ってくるところまで</p>

<p>愛宕神社手前のＹ字路を左（北）に２００メートルほど進むとＴ字路があり、Ｔ字路の南西側にはエコトピア酒々井の大きな建物があり、Ｔ字路の北西側には墓地があります。</p>

<p><img alt="酒々井町　本佐倉　南大堀（五良）　墓地" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/mosakura_monjujiato_boti.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>酒々井町　本佐倉　南大堀（五良）　墓地。（酒々井町本佐倉）</p>

<p>五良墓地と呼ばれている墓地の北東角側に石塔（宝篋印塔や無縁塔など）が積み重なり、大きな石塔のようになっているところがあり、この石塔群はこの場所にあった文殊寺にあった墓碑や宝篋印塔などであると思われるものです。<br />
現在、文珠寺の痕跡としてはこの墓地以外にはなく、文珠寺自体の範囲と本堂などの位置などについてははっきりとわかっていないようですが、五良神社の隣に建立したことがわかっているので、墓地から愛宕神社横の畑とエコトピア酒々井のあるところ、墓地の東から愛宕神社間での畑の部分、墓地の北側の現在林になっている台地部分に渡っていたのではないかと思われます。</p>

<p>文珠寺について、酒々井町史には</p>

<blockquote>

<p>愛宕山文珠寺は本佐倉五良にあった。町の西南端、佐倉市長熊に接しており、現五良墓地付近にあった。真言宗醍醐寺三宝院末で、中世には佐倉五か寺の一つに数えられた大寺であったが、天保四年（一八三三）の大風のために大破し、それ以後廃寺となった。<br />
安政三年（一八五六）の「文珠寺書上帳」（町史資料（一）五一）によると、境内面積二万九七六〇坪、客殿六八・二五坪、庫裏二九・七五坪、小方丈六坪、地蔵堂九坪と記載されているが、「大破仕無御座候」となっていて当時すでに廃寺となっていた。文珠寺は本佐倉の吉祥寺に合併され、下寺、境内地、山林などの一切も吉祥寺に引き継がれた。詳しい由緒などはわかっていないが、おそらく中世千葉氏に深いかかわりをもって創建されたもので、千葉氏滅亡後、有力な檀家がなかったために、維持困難となって廃寺に追いやられたものと思われる。<br />
『古今佐倉真佐子』には、文珠寺にまつわる天狗の伝説やその他の伝説が記されており、話題の豊富な寺院であった。</p>

</blockquote>

<p>とあり、佐倉市史には</p>

<blockquote>

<p>文珠寺（大蛇）。創建は不明。『新撰佐倉風土記』には天文年中（一五三二～　）に千葉胤富（勝胤の孫）、原胤安（遠江守胤平の第二子、原上総介胤定の弟）によって再興されたものとしている。同寺に伝わる仏像と萃鬘（けまん、仏前を荘厳にする装飾で、金銀銅でつくった扁平な輪に蓮萃などの造花をつづる－辞苑）の銘文に、仏像には「原大蔵亟胤安祖母　妙孝禅定尼　天文十四年乙巳」とあり、祖母妙孝禅定尼は原胤安の祖父に当る生実城の原四郎胤高の室であろうと見られる。萃鬘の方には「天文十六年十月十六日　大檀那　平胤富　作者司濃」等から見られることからも同寺が千葉家の加護があったものと見られる（篠崎四郎氏の研究より）。また当寺には次のような伝説がある。それは、昔、鎌倉権五郎景政がここに来て鞭を地にさし暫く休んで去ったが、この鞭が生きてそのまま桜樹となり八重の花を咲かせたが、その後其処に寺を建て文珠寺と号し、景政の冥福を祈ったことに寺の起源があるとの筋書きである。</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>天文十四年は１５４５年、天文十六年は１５４７年。</p>

<p><ins datetime="2010-07-30T20:02:06+09:00">[2010-07-30 追記]　千葉県印旛郡誌の佐倉町にある寺院佛堂誌のところに、文珠寺の記述がありそこには「大蛇にありて佐倉五ケ寺寺の一なり」とあります。</ins></p>

<p>古文書などでは文珠寺のある場所を「大蛇」としているものが多く、当時（千葉氏が支配している時代）には「大蛇」であったことが知られていて、佐倉市史で「（大蛇）」としているのはこのためであると思われます。<br />
佐倉市史にある「萃」は「華」の字の間違いと思われ、「萃鬘」は「華鬘」と書くのが本当です。</p>

<p>古今佐倉真佐子には「真言宗五霊山文珠寺」とあり、古今佐倉真佐子の書かれた時代には「愛宕山」ではなく「五霊山」といっていたような感じですが、この古今佐倉真佐子も意外に間違った箇所が多いので一概には言えませんが、「五霊山」といっていたとすれば、やはり鎌倉権五郎景政の古事にちなんで「五霊山」としたものか、もしくは多輪免喜に「御霊とは霊魂の尊敬語。のちに尋常でない、祟りをあらわす「みたま」についていった、各地にある五良塚もこの転か。」とあるように、もともとこのあたりには古墳が多数あったところであり、その古墳群を「御霊」といっていたものがいつしか鎌倉権五郎景政の伝説とが重なり「五霊」になり「五霊山」となった可能性もあります。（その後、「五霊」から「五良」となったと思われる。）<br />
その「五霊山」が「愛宕山」にいつ頃なったかについてはわかっていませんが、古今佐倉真佐子の時代以降に「愛宕山」になったということと考えていいと思います。</p>

<p>酒々井町史の中にある文珠寺書上帳（安政三年十月）には、「本佐倉村字五良　愛宕山　文珠寺」とあり、本堂、客殿、庫裏飲みの記載があり、天保四年八月一日に大風で大破したあと十月に本尊観世音厨子を吉祥寺に移したことが書かれています。<br />
さらに、愛宕社の記述のところに「愛宕大権現開帳三拾三年ニ壱度宛仕候」とあり、３３年に一度しか本尊を見ることが出来なかったことが書かれています。<br />
さらに、妙見堂が記載されており、この妙見堂は千葉氏との関係を物語っている確かな証拠といえるでしょう。<br />
ただし、妙見堂がどの位置にあったかについては詳細が書かれていないため、はっきりとはわかっていませんが、松並木の後に記述のあるところから、愛宕神社よりやや北側、もしくは現在の参道の近く、長熊廃寺の碑のあたりにあったのかも知れませんが、これはNoboの推測に過ぎません。</p>

<p>安政三年は１８５６年、天保四年は１８３３年。</p>

<p>酒々井町史に「天狗の伝説」とありますが、この天狗の伝説について古今佐倉真佐子には</p>

<blockquote>

<p>ある六月七日の朝五つ半頃、寺の野郎、酒を調に徳利を為持（もたせ）、本町へ遣したるに待て帰らざる故、和尚ふしん成がゆへに、そこかしこと尋、前の並木の所へ行て見しにくだん（の）徳利松の枝に懸てあり、野郎は不見。猶々ふしんに思ひて寺へ帰り居しに、暮々に帰りし故、和尚しかりければ、京のぎをんまつりを見、只今帰りたると云し故、十四五日のたびにて京へは行に、日帰に行とは大だわけと、はなはだ叱付置成也。其後十日斗過て西国に出し者帰りて寺へ来、よもやまの咄などして扨、これの野郎は去る七日に、京ぎをんまつりをさじきにて見いしが、早く帰りたると云を和尚きゝて、その七日の様子（く）はしく野郎に一々ぎをんまつりの様子をきゝしに少も違事なし。如何して行しと尋（たつね）しに、徳利を持て並木の中ほどへ行しが向より大き成る山伏来り、きやうはぎをんのゑ（会）也。見物せんかとゆいてつれ行しが、そのまゝぎをんの祭を見たると咄す。その時和尚よ（こ）手を打、扨々きたいの事哉（かな）。まったく天狗のしよいと見るとて其後たれかれに咄にて、かくれなき後は咄になる。ま所故如此成る事ある也。</p>

</blockquote>

<p>とあり、ここで天狗の仕業として、野郎とあるおそらく寺男が天狗に連れられて京都の祇園祭を見てきた話と、その山伏に化けた天狗のいた抜け道（今で言う次元空間のトンネル）は、並木道の松のところにあって、そこに徳利がぶら下がっていたのは、おそらく天狗がちと頂戴した変わりに、野郎（寺男）に祇園祭を見せてやったという話のようです。</p>

<p>ここで徳利が出てきましたが、もしかすると、<a href="http://sanpobokko.com/stroll_note/2010/07/post-121.php">成田街道（佐倉道）その１０９</a>の中にあった本佐倉の庚申塔の遷座碑にあった「豆徳り」というのは、この「徳利」の話のことではないだろうかと思ったりします。</p>]]>
        <![CDATA[<p>少し話が前後しますが、文珠寺の桜について古今佐倉真佐子には</p>

<blockquote>

<p>扨、客殿前に二間四方斗に丸く塚をつき、芝ふせ、此上に三かゝへ斗の桜ある。地より初の枝迄高二間斗、夫より八方へ枝出る。枝先とく長十四五間也。枝先へは手とゝ゛く也。段々上ほど枝みちかく、丸きものを半分切たる様になり、よく半ゑんの木付也。地より高さ十間斗。花は八重ふきつめ一重、二重、三重色々に大りんにさく也。凡花数七色斗にさく也。世上の桜終わりて少あいだ有てやうやうさく。花のさかり年により四月へかゝる也。</p>

</blockquote>

<p>とあり、かなり大きな桜のことが書かれており、他の場所からも花見の客が多くあり、うたを詠ったりしていた様子などが書かれています。<br />
しかし、鎌倉権五郎景政のことについては一言も書かれてはおらず、鞭桜の伝説はいつ頃から語られ始めたかについてはわかっていません。</p>

<p>文珠寺跡の五良墓地から、愛宕神社前のＹ字路に戻り愛宕神社の鳥居をくぐり抜け、愛宕神社入り口の道標まで戻ります。</p>

<p><img alt="上代・長熊あたりの図" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/kamidai_nagakuma_zu.jpg" width="550" height="387" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>上代・長熊あたりの図。</p>

<p>愛宕神社入口の道標から左（東、麻賀多神社からだと直進）に４０メートルほどの右側、民家と小高い丘（後ろ向きの神社がある）との間に細い道があり、ここを３０メートルほど進むと道は左に曲がり、さらに３０メートルほど進むと鳥居があります。</p>

<p><img alt="和田村　上代　権現谷　熊野神社　鳥居" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/kamidai_kumanojinja_iriguti.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>和田村　上代　権現谷　熊野神社　鳥居。（佐倉市上代）</p>

<p>両部鳥居とも権現鳥居ともいわれる形の鳥居があり、鳥居の左（西）のすこし奥まったところ大木の手前に石祠があり、正面に「神武天皇」、左側面に「明治十□年十一月吉日」とあり、この石祠の左側同じく大木の手前に石祠があり、正面の右に「大正八年五月」、正面の真中に「天満宮」とあり、この石祠からやや左後ろのほうに竹で囲まれた中に石塔があり、これは社日塔でこのあたりでは「五社さま（五社大神）」と呼ばれていますが、五角柱の形をしていて各面に「埴安媛命、倉稲魂命、天照大神、大己貴神、少彦名命」が刻まれていて、この五神を五穀豊穣の神として豊熟を祈ったとされています。<br />
社日塔から参道を隔てて、南側の崖手前にもう一つ石祠があり、正面の右に「大正八年五月」、正面の真中に「疱瘡神社」とあります。</p>

<p>大正八年は１９１９年。<br />
□は文字が判読できないところで、神武天皇の石祠の年代については、明治十年代としかわかりませんが、明治十年代は１８７７～１８８６年までの間。</p>

<p>鳥居から階段を上ると拝殿があります。</p>

<p><img alt="和田村　上代　権現谷　熊野神社" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/kamidai_kumanojinja.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>和田村　上代　権現谷　熊野神社。（佐倉市上代）</p>

<p>千葉県下総国印旛郡神社明細帳には</p>

<blockquote>

<p>村社<br />
熊野神社<br />
一　祭神　伊邪那伎命<br />
一　由緒　不詳<br />
一　社殿間数　間口九尺　奥行九尺<br />
一　境内坪数　百四拾坪　官有地第一種<br />
一　境内神社　貳社<br />
疱瘡神<br />
祭神　大汝彦名命<br />
由緒　不詳<br />
建物　石宮<br />
五穀成就社<br />
祭神　倉稲魂命<br />
由緒　不詳<br />
建物　間口六尺　奥行六尺</p>

</blockquote>

<p>とあり、千葉県印旛郡誌もほぼ同様の内容ですが、疱瘡神の祭神が「少汝彦名命」になっていて、千葉県神社名鑑には</p>

<blockquote>

<p>祭神　伊邪那岐命（いざなぎのみこと）<br />
例祭日　一〇月一五日<br />
主要建物　本殿・瓦葺寄棟造四坪<br />
境内坪数　二六八坪<br />
氏子　二五戸　宮司　＊＊＊＊<br />
由緒沿革　創祀年代等明らかでない。天保一四年佐倉藩士奉納の篇額がある。</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>天保十四年は１８４３年。</p>

<p>千葉県下総国印旛郡神社明細帳にある大汝彦名命と、千葉県印旛郡誌にある少汝彦名命は、おそらく大汝命と少彦名命の二人の神様のことと思われますが、「少」と「大」を単に間違えだけなのかもしれません。</p>

<p>拝殿（本殿）はちょうど丘の一番上にあるのですが、この神社のあるところは上代権現谷１号墳と呼ばれる古墳上にあり、直径約１０mの円墳であることが確認されています。<br />
このあたりは、この熊野神社のある権現谷１号墳、長熊廃寺跡や愛宕神社・五良神社、そして文珠寺跡も含めて大小の古墳の群集する古墳群であったことが知られています。<br />
熊野神社も、古墳だと言われないとただの丘としか見えませんが、このような小高い古墳はこのあたりにおそらくまだあるものと思いますが、籔地になっていたりしてその存在が知られずにひっそりとあるのではないかと思います。<br />
熊野神社の拝殿（本殿）を右に回ると下に児童公園があり、さらに進んで道路側（勝田道側）には出羽三山供養塔が３基あります。</p>

<p><img alt="和田村　上代　権現谷　熊野神社　裏側（勝田道側）　出羽三山供養塔" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/kamidai_kumanojinja_ushiro.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>和田村　上代　権現谷　熊野神社　裏側（勝田道側）　出羽三山供養塔。（佐倉市上代）</p>

<p>勝田道側に熊野神社の後ろが向いているのは勝田道側が北で、通常神社は南向に建てられるので、勝田道ではない谷（南）に向いているわけです。<br />
熊野神社のあるところを権現谷というのは、熊野神社は明治以前は熊野大権現と呼ばれていたことに由来すると思われますが、多輪免喜には「権現とは台地上に祀られてある熊野神社（古墳と思われる）のことで、その下方の谷をいう。」とあり、熊野神社前の谷（谷津）のことを言うのだとしています。</p>

<p>熊野神社から勝田道に戻るわけですが、もと来た鳥居側から参道を戻って出羽三山供養塔前に戻ってくるのもいいですし、そのまま勝田道側の階段を下りてもいいので、出羽三山供養塔前から進みます。</p>

<p>熊野神社裏の出羽三山供養塔（勝田道側）から４０メートルほどで右にカーブをしながら少し急な坂道になり、１９０メートルほど下ったところで左側から道が接続し、１０メートルほどで変形４差路になります。<br />
この変形４差路の左側に崖に上っていく舗装されていない道がありますが、この道は１０メートルほどのところで左右に分かれ、右の道を進んでいくと、<a href="http://sanpobokko.com/stroll_note/2010/07/post-121.php">成田街道（佐倉道）その１０９</a>で訪ねた五良神社の鳥居前に出ます。<br />
左の道は、今歩いてきた勝田道に沿うように崖上を進んでいますが、途中民家の敷地にぶつかり道が消滅していますが、この道が勝田道の旧道と思われ、現在の勝田道はいつ頃付け替えられたかはわかりませんが、南側の形状を見る限り、車用に切り通し道を作ったものと思われます。<br />
変形４差路の左の舗装された道の南東角には土地改良の記念碑があり、もともとは湿地帯であったところを田圃に改良したようです。<br />
この舗装された道を真っ直ぐ進んでいくと、酒々井町本佐倉のパークアベニュー佐倉成城台の下の谷津に沿って北に向かい、約１．５キロメートルほどで国道２９６号線にたどり着き、酒々井町上本佐倉の清光寺脇を通り佐倉道（成田街道）に接続します。<br />
この道は五良道と呼ばれている古道であり、変形４差路から舗装されていない道へと続き五良神社もしくは文珠寺への参詣の道として使われていたと考えられます。</p>

<p>変形４差路から南の道を８０メートルほど進むと橋があり、橋を渡るとすぐにゆるい坂道（上り）になり、９０メートルほどのところで左（北）に曲がり急坂を９０メートルほど上ると国道５１号に接続します。<br />
国道５１号の南側に渡り（ここは信号がないので、車に注意して渡る）、渡った少し南側に坂道がありここを１６０メートルほど下るとＹ字路があり、このＹ字路の右下から来る道との接続する角あたりに折れた道標があります。</p>

<p><img alt="和田村　長熊　新堤と粟巣との境界　道標" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/nagakuma_nizutumi_dohyo.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>和田村　長熊　新堤と粟巣との境界　道標。（佐倉市長熊）</p>

<p>途中から折れており、とりあえず読んでみると正面であるほうから「正面　馬橋ヲ経テ南酒々井駅ニ至ル」、右側面は「此方　上代ヲ経テ佐倉町ニ至ル」、左側面に「此方　高岡ヲ経テ佐倉町ニ至ル」、裏面に「昭和八年参月長熊青年団」とあります。</p>

<p>昭和八年は１９３３年。</p>

<p>正面は角から見ると東に向う道（これから進む道、勝田道）を指し、この道を進むと現在のＪＲ総武本線の南酒々井駅前にたどり着きます。<br />
正面とあるほうから右側面（北面、今まで歩いてきた勝田道）を進むと熊野神社のある上代を通って佐倉本町に出て、佐倉道（成田街道）を通って佐倉新町にたどり着き、左側面（南面）を進むと養福寺、白銀、高岡、要行寺を通り、旧堀田邸近くのへび坂上で南年貢道に接続して佐倉新町にたどり着きます。</p>

<p>道標から勝田道を指示に従って１６０メートルほど道なりに進むとＹ字路があり、Ｙ字路の左側り水路と民家の間に馬頭観音があります。</p>

<p><img alt="和田村　長熊　新堤と酒々井町　本佐倉　新堤との境　馬頭観音" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/nakuma_nizutumi_batokannon.jpg" width="233" height="350" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>和田村　長熊　新堤と酒々井町　本佐倉　新堤との境　馬頭観音。（佐倉市長熊と酒々井町本佐倉の境）</p>

<p>正面の右に「寛政七夘年　右なりたなめ川　（以下埋没していて読めず）」、正面の真中に「馬頭觀音　（手前に境界標があるためこの下読めず）」、正面の左に「十一月吉日　左さくらミち」、正面の下に「施主　（以下埋没していて読めず）」とあります。</p>

<p>寛政七年は１７９５年。<br />
「夘年」の「夘」は、「卯」の文字のことと思われ、「なりた」の「なり」の二文字と「さくら」の「ら」はくずし文字で書かれています。<br />
下部の埋没しているところは、現在佐倉市と酒々井町の境界標が２つ並んであり、「施主」以外の文字が読めませんが、「右なりたなめ川」の下には「ミち」か「道（おそらくくずし文字）」があったものと思われ、「施主」の左右にあった文字については、和田の伝承に「本佐倉村中　本町中　施主　長熊中」とあったことが書かれています。</p>

<p>新堤の馬頭観音あたりについて、歴史の道調査報告書には</p>

<blockquote>

<p>勝田道を更に進んで国道五一号を横切り、水田の前におりると、長熊新堤である。二軒の家の間に高さ九六㎝幅三九㎝の馬頭観音の文字碑が建っている。右側に「寛政七夘年右なりたなめ川大佐倉本町中」左側に「十一月吉日さくらミち施主長」とある。二軒とも茶屋で、特に右側の「みはらし屋」には女も置いて接待したと伝えられている。</p>

</blockquote>

<p>とあり、銘文について記述があり、ほぼ正確に書き出していることがわかります。<br />
歴史の道調査報告書には二軒の家の間となっていますが、現在は二軒の間というよりは、水路と後の民家と鉄板とに挟まれたところにあり、報告書にあるような古くからある建物はすでになく、新しく建てた民家になっていますが、右側にはまだ古い壁が少し残っていて、これがおそらく「みはらし屋」であった建物の一部であると思われます。（平成２１年［２００９］時点）</p>

<p>このあたり「新堤」という小字なのですが、これについて多輪免喜には</p>

<blockquote>

<p>新堤（にいづつみ）</p>

<p>江戸時代佐倉藩では戦など起こった場合に備えて、ここから高岡の大崎下・鏑木等を経て佐倉城の堀に用水を送っていたという。そのため高崎川ら堤を築き平時は水田の灌漑などに利用したりするという、一石二鳥の効果をねらって、ここに新しく堤を築いたという。古地図には佐倉城の三味線堀までの水路が記載されている。</p>

</blockquote>

<p>とあり、ここに堤防を新たに築いたので「新堤」となったようです。<br />
現在の高崎川のかなり小高い堤防は江戸時代にすでに作られ、現在も堤防の散策や花見の道などなって活用されています。</p>

<p>馬頭観音から来た道を戻り、本町の電気屋さんのところまで戻ります。</p>

<p>ということで、今回はここまで。</p>

<p>参考文献は、「歴史の道調査報告書　成田街道」、「佐倉市史」、「千葉県下総国印旛郡寺院明細帳」、「千葉県下総国印旛郡神社明細帳」、「千葉県印旛郡誌」、「千葉県神社名鑑」、「佐倉市誌資料」、「佐倉の歴史を学ぶ　資料集」、「多輪免喜」、「佐倉風土記」、「佐倉文庫」、「古今佐倉真佐子」、「新佐倉真佐子　－佐倉のお茶の間風土記－」、「ふるさとの石仏」、「佐倉町二十五年誌」、「新道々の記」、「佐倉細見」、「大蛇中芝遺跡・大蛇瓜作遺跡」、「下総へんろ佐倉八十八ヶ所札所」、「大蛇麻賀多脇遺跡」、「千葉県の歴史　資料編」、「佐倉市長熊廃寺跡確認調査報告書」、「酒々井町史」、「千葉県所在古墳詳細分布調査報告書」、「房総の道標」、「和田の伝承　－佐倉市和田公民館－」より。</p>

<p>引用は各文献と各社寺の説明板、地域の説明板より。</p>

<p>今回の地図は<a href="http://sanpobokko.com/kaido_image/sakuramichi_6.jpg">「佐倉道６」</a>です。</p>

<p>国土地理院２５０００分の１「佐倉」より作成しています。</p>]]>
    </content>
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    <title>今年はお世話になっています - Notebook</title>
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    <published>2010-07-28T14:59:56Z</published>
    <updated>2010-07-28T14:59:58Z</updated>

    <summary>以外に今年は暑い日が多いわけで...。 そうすると、何かとお世話になるのがこちらです。 肺に穴が開く...</summary>
    <author>
        <name>nobo</name>
        
    </author>
    
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        <![CDATA[<p>以外に今年は暑い日が多いわけで...。<br />
そうすると、何かとお世話になるのがこちらです。</p>

<p><img alt="アセモール" src="http://sanpobokko.com/notebook/images/DVC00113.JPG" width="240" height="320" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>肺に穴が開く病気の後くらいから、皮膚が一部弱くなったというか、特に腕はものすごく指先から肩近くまでドバァーっと湿疹というかあせもというか赤いのがポツポツ出るわけです。<br />
これ、一部だけかゆいんですけどね、全体の５分の１くらいですが、それでも大変なんですが、これにアセモールというのを塗って対処しています。<br />
医者に行くほどではないので、というか、医者に行くとステロイド系のものを処方されるわけですが、これ、体質に合わないようで異常に真っ黒になったので医者と相談の上、治りは悪いが非ステロイドのものということで使っています。<br />
確かにゆっくりと治ってきますが、この方がいいように思います。<br />
問題は、塗ると白くなるわけで、出かけていくと「なんですか？」というような反応が...（笑）。<br />
そりゃ腕全体に塗ってりゃ、「あんた芝居でもしてますのんか？」というふうに思われる場合もあり、「なんだか危ない皮膚病か？」というふうに思われているかもしれないわけですよ。</p>

<p>しかし、しょうがない、なるもんはなる。</p>

<p>まあ、９月くらいまではお付き合いせねばなりません。</p>

<p>しかし、痣みたいに残っているなぁー...(~_~)。</p>]]>
        
    </content>
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    <title>囲い猫？ - Photo Pocket</title>
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    <published>2010-07-28T11:34:28Z</published>
    <updated>2010-07-28T11:35:34Z</updated>

    <summary>Canon EOS10D　/ 千葉県千葉市美浜区</summary>
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        <category term="猫" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
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        <![CDATA[<p><span class="center"><img alt="囲い猫" src="http://sanpobokko.com/photo_pocket/images/kakoi_neco.jpg" width="440" height="660" /></span></p>

<p>真夏の公園で、自転車に囲われている猫...。</p>

<p>まっ、暑い時には楽かな...、んー...。</p>]]>
        
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    <title>成田街道（佐倉道）その１０９ - Stroll Note</title>
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    <published>2010-07-16T13:09:53Z</published>
    <updated>2010-07-23T11:07:25Z</updated>

    <summary>佐倉道　麻賀多神社（千葉県佐倉市大蛇町）から勝田道を寄り道して、愛宕神社手前のＹ字路（千葉県印旛郡酒...</summary>
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://sanpobokko.com/stroll_note/">
        <![CDATA[<p>佐倉道　麻賀多神社（千葉県佐倉市大蛇町）から勝田道を寄り道して、愛宕神社手前のＹ字路（千葉県印旛郡酒々井町本佐倉）まで</p>

<p><img alt="上代・長熊あたりの図" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/kamidai_nagakuma_zu.jpg" width="550" height="387" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>上代・長熊あたりの図。</p>

<p>麻賀多神社入口から左（南、電気屋さんからだと直進）に６０メートルほどいくと大蛇橋があり、その下を国道２９６号東西に走っていますが、もともと橋はなく、佐倉道（現行の成田街道、もと国道２９６号）の渋滞緩和のために平成７年に遺跡調査（大蛇麻賀多脇遺跡）がおこなわれた後に、国道２９６号が掘割されて大蛇橋が架けられました。<br />
大蛇橋を渡り２００メートルほど進むとＴ字路があり、Ｔ字の先の右側の民家の生垣にほぼ折れて埋まった状態の道標があります。</p>

<p><img alt="和田村　上代　平台　道標" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/kamidai_dohyo1.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>和田村　上代　平台　道標。（上代）</p>

<p>ほぼ文字は判読できなくなっており、一見コンクリートの柱としか見えない状態になっていますが、房総の道標には「高岡ヲ経テ佐倉駅ニ至ル　長熊八木方面　昭和七年上代青年団」とあったとあります。<br />
Ｔ字路の角にあったものと思われますが、道路拡張に伴い現在位置にあると思われます。<br />
Ｔ字路から南に続く道が、道標が指し示す「高岡ヲ経テ佐倉駅ニ至ル」道で、現在白銀ニュータウン（上代平台遺跡があった場所）になっている白銀を抜けて現在のＪＲ佐倉駅に続いていましたが、途中ニュータウンのために整地されてしまっているので、一部の古道は寸断されています。<br />
「長熊八木方面」は勝田道の道筋のことになるので、道標の指し示す道を進んでいきます。</p>

<p>道標から４０メートルほど左、道から一段低くなったところに神社があります。</p>

<p><img alt="和田村　上代　宮田　稲荷神社" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/kamidai_inarijinja.jpg" width="233" height="350" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>和田村　上代　宮田　稲荷神社。（上代）</p>

<p>由緒などはわかりませんが、屋敷神であるものと思われます。</p>

<p>稲荷神社から１５０メートルほどいくと左側に少し広い道のあるＴ字路があり、Ｔ字路の北東側に赤い鳥居の見える広場状になっているところがあります。<br />
その広場状になっているところの、右側の土手になっているところの道路側（斉藤工務店のすぐ近く）に、草むらの中に埋もれるように倒れたままの道標があります。</p>

<p><img alt="和田村　上代　華表脇　愛宕神社入口　道標" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/kamidai_dohyo2.jpg" width="233" height="350" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>和田村　上代　華表脇　愛宕神社入口　道標。（上代）</p>

<p>正面に「↓大蛇佐倉町ニ至ル」、右側面に「新堤馬橋方面ニ至ル」、左側面に「酒々井町方面ニ至ル　昭和七年上代青年団」とあります。</p>

<p>昭和七年は１９３２年。</p>]]>
        <![CDATA[<p>道標から広場に戻り鳥居のほうに進んでいくと、左側に庚申塔があります。</p>

<p><img alt="酒々井町　本佐倉　南大堀　本佐倉の庚申塔" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/motosakura_minamiohori_koshinto.jpg" width="233" height="350" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>酒々井町　本佐倉　南大堀　本佐倉の庚申塔。（酒々井町本佐倉）</p>

<p>庚申塔の手前あたりに佐倉市と酒々井町の境界線があり、この庚申塔は酒々井町側になります。<br />
正面には青面金剛とその両脇に童子もしくは地蔵、その下に邪鬼と三猿、右側面に「享保十乙巳年九月廿六日」、左側面に「本佐倉町拾八人講中二世安楽」とあります。<br />
庚申塔の左下には道祖神が２基あり、前にある道祖神の正面に「道祖神」、右側面は土まみれで判読できず、左側面に「鵜沢元□」とあり、後ろの道祖神は風化が進んでいるため文字は判読できません。</p>

<p>享保十年は１７２５年。<br />
□は判読できない文字ですが、調査時には道祖神全体と庚申塔の下部は土まみれになっていて、落とせば文字は判読できたと思われますが、そのままの状態で調査したので道祖神と庚申塔の台の部分の全ての文字を確認していません。</p>

<p>本佐倉の庚申塔と道祖神の左側に説明板があり</p>

<blockquote>

<p>酒々井町指定　有形文化財　本佐倉の庚申塔<br />
指定年月日　昭和五十二年三月二十九日<br />
所在地　酒々井町本佐倉字南大堀<br />
所有者　酒々井町本佐倉区</p>

<p>高さ一・〇三メートル<br />
この庚申塔は、本佐倉字南押出二一五〇番地の塚上にあったが、国道五一号線の拡張工事に当り、昭和四十九年十月、村人によって現在地に移されたものである。造立は庶民信仰の盛行した享保十年（一七二五）である。<br />
保存状態のよいこと、正統的な像造であること、造立者趣意が明確であることなどにより、町文化財の指定をうけている。</p>

<p>銘文　享保十年乙巳年九月廿六日　本佐倉町拾八人講中　二世安楽</p>

<p>平成三年三月<br />
酒々井町教育委員会</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>昭和五十二年は１９７７年、昭和四十九年は１９７４年平成三年は１９９１年。</p>

<p>銘文の「享保十年乙巳年九月廿六日」は「享保十乙巳年九月廿六日」で、「年」が一つ多くあり印刷ミスか記載ミスと思われます。</p>

<p>庚申塔の右側に遷座碑があり</p>

<blockquote>

<p>遷座碑</p>

<p>庚申道祖両神は本佐倉南押出し二一五の二番地に鎮座せるも一般国道五一号線改築酒々井バイパス工事の爲此の地に遷座す<br />
昭和四十九年十月吉日建之　本佐倉区<br />
豆徳り</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>庚申塔と道祖神共に、現在佐倉成城台と呼ばれている住宅地があり、その南側の入口に成城台南口交差点がありますが、交差点から南に１５０メートルほど進んだ右側（西側、少しいくと谷津になる）あたりに、現在も少し小高くなった場所がありますが、ちょうど歩道の当りから車線の中央にかけて塚があり、その塚に本佐倉の庚申塔と道祖神が祀られていました。<br />
現在の場所からだと北東に直線で７００メートルほどの位置になります。<br />
遷座碑にある「豆徳り」というのは、どういう意味があるのか定かではありませんが、遷座碑の前には確かに「豆徳り」が置かれていて、この事を指しているものなのか、この碑文を刻んだ人が「豆徳り」と名乗っていたのか、そこのところがわかっていませんが碑文に「豆徳り」とあるのははじめて見ました。</p>

<p>本佐倉の庚申塔から進むと、大きな鳥居があります。</p>

<p><img alt="酒々井町　本佐倉　南大堀　愛宕神社　入口" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/motosakura_atagojinja_irigu.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>酒々井町　本佐倉　南大堀　愛宕神社　入口。（酒々井町本佐倉）</p>

<p>ここからが愛宕神社の参道になりますが、この参道の右側にもう一本道があり、この右側の道が酒々井町と佐倉市との境界線になっています。<br />
現在は民家への通り道となっていて、途中の部分は一部籔化していて通行しにくくなっていますが、もとは愛宕神社の参道と同じく、裏参道（この先には五良神社と長熊廃寺跡がある）として機能していたものと思われます。<br />
愛宕神社の鳥居から参道を１００メートルほど進んだあたり左側に「住居の址」とある石柱があり、そこから４０メートルほどのところに十字路があります。<br />
この十字路の右のほうには新しい鳥居が見えますが、これは五良神社の入口で、その鳥居までの中間当りに、先ほどの裏参道の道が接続してきていて、その道を進んだところには長熊廃寺の跡の石碑があります。<br />
まずは、十字路を３０メートルほど直進（東）するとＹ字路があり、左に道が分かれていますが、ここも直進し４０メートルほどで神社があります。</p>

<p><img alt="酒々井町　本佐倉　南大堀　愛宕神社" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/motosakura_atagojinja.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>酒々井町　本佐倉　南大堀　愛宕神社。（酒々井町本佐倉）</p>

<p>千葉県下総国印旛郡神社明細帳には</p>

<blockquote>

<p>無格社<br />
愛宕神社<br />
一　祭神　加茂建角命<br />
一　由緒　不詳<br />
一　社殿間数　間口三間　奥行貳間<br />
一　拝殿間数　方壱間<br />
一　境内坪数　七百四拾九坪　官有地第一種</p>

</blockquote>

<p>とあり、千葉県印旛郡誌では其他の神社のところに、小さく同じ内容であるので省略します。</p>

<p>千葉県神社名鑑には</p>

<blockquote>

<p>祭神　火具土命（かぐつちのみこと）<br />
例祭日　一〇月一五日<br />
主要建物　本殿・銅板葺流造三坪<br />
境内坪数　八〇八坪<br />
氏子　一五戸　宮司　＊＊＊＊<br />
由緒　明治以前は将軍地蔵と称号した。文明年間、千葉介一九代輔胤が本佐倉城を築いたころ創祀とされる。</p>

</blockquote>

<p>とあり、酒々井町史には</p>

<blockquote>

<p>愛宕神社（無格社）は本佐倉字南大堀にあり、本佐倉の鎮守である。佐倉市長熊・上代と境を接した地にあり、長熊の五良神社と上代の熊野神社は、ともに至近の地である。境内地は広く、参道はうっそうと繁った杉並木で約二〇〇メートルの長さを持つ。境内地の一部は奈良時代の寺院、長熊廃寺と複合しており、古代文化の栄えた地として知られている。社殿は明治初期のものと推定されるが、流造り、欅材を用い、彫刻を含めて神社としては当町屈指の建造物である。<br />
祭神　加茂建角命・火具土命・将軍地蔵<br />
建造物　本殿　流造り　間口六尺　奥行五尺五寸<br />
&emsp;&emsp;&emsp;&ensp;丹塗り両部鳥居<br />
境内　九四九坪（宗法台帳）<br />
氏子数　四五戸</p>

<p>中略</p>

<p>由緒　神仏混交時代は愛宕山文珠寺に属し、将軍地蔵とも称したる事ある由伝う。現在神殿は同時代のものの如く古色蒼然たり。尚文珠寺は中古暴風雨にて破損廃寺となる（神社庁台帳）。<br />
合祀社　なし</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>文明年間は１４６９～１４８７年の間、明治初期は１８６８～１８７７年の間。</p>

<p>祭神が千葉県下総国印旛郡神社明細帳と千葉県神社名鑑とは異なっていて、加茂建角命は農耕の神様（賀茂建角身命のことで、京都下鴨神社の東殿の祭神）、火具土命はその名のとおり火の神様（伊弉諾命と伊弉册命の子）で、愛宕神社は火防の神でもあるので火具土命が祭神としてあり、どちらも土（土地）に関係している神様なので、同等神と思われていたのかもしれません。<br />
将軍地蔵は、地藏菩薩の本地垂迹の神である愛宕神であり、庚申信仰と習合した形で将軍地蔵が祭神としてあてられているものと思われます。</p>

<p>愛宕神社は一段高い基壇の上にあり、階段を上ると左右に古い燈籠があり、少し進むと下に石畳があります。</p>

<p><img alt="酒々井町　本佐倉　南大堀　愛宕神社　石畳" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/motosakura_atagojinja_shiki.jpg" width="233" height="350" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>酒々井町　本佐倉　南大堀　愛宕神社　石畳。（酒々井町本佐倉）</p>

<p>この石畳は、石棺の遺材を使って敷かれていますが、石棺ということはこのあたりに古墳もしくは墳丘、または墓地があったことを示すものですが、どこから出土したものかについてははっきりしていませんが、この辺りも古墳が多くあるのでその中のものの一つであると思われます。<br />
ただし、古い時代に見つかったものであると思われるのは、このあたりの発掘調査報告書や古文書には載せられていないからです。<br />
石畳のすぐに本殿（社殿）があり、向拝の柱には梵字が左右各１０文字ずつあります。</p>

<p><img alt="酒々井町　本佐倉　南大堀　愛宕神社　本殿　向拝" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/mosakura_atago_kohai.jpg" width="233" height="350" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>酒々井町　本佐倉　南大堀　愛宕神社　本殿　向拝。（酒々井町本佐倉）</p>

<p>本殿（社殿）の左側後の脇障子には小天狗、右側後の脇障子には大天狗が彫られており、本殿（社殿）全体に彫物で装飾が施されていて、どちらかというと霊廟や霊台といったお堂のような感じがします。</p>

<p><img alt="酒々井町　本佐倉　南大堀　愛宕神社　小天狗" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/motosakura_atago_kotengu.jpg" width="233" height="350" class="mt-image-none" style="" /><img alt="酒々井町　本佐倉　南大堀　愛宕神社　大天狗" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/motosakura_atago_otengu.jpg" width="233" height="350" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>酒々井町　本佐倉　南大堀　愛宕神社　本殿　脇障子。（酒々井町本佐倉、左が小天狗、右が大天狗）</p>

<p>愛宕神社について、古今佐倉真佐子には</p>

<blockquote>

<p>...此ばんば末右の方松山の内、丹塗木鳥井ある。その内愛宕ほこら有。かちう（甲冑）をたいし、せいりうとう（青竜刀）御持馬上のさいしきの像也。あたらしき也。いの猪を給（たべ）参ると、きわめてとがめ有。ある時、内海弥九郎、村井摠太夫、若林茂左エ門同道にて参りてくれぐれに各帰りしが弥九郎いづ方へ行しか見ざる故色々尋しが行へ不知。摠太夫、茂左エ門心付、右の愛宕へ尋行したに御神前にたわいなく寝入ていたるを引をこしつれ帰る也。内海いのしゝ給て、あいだなく行し故、如此のとがめ有也。開帳の節御像はいしたる也。...</p>

</blockquote>

<p>とあり、愛宕神社に来る前に、猪を食べると愛宕神社の祭神から咎めがあるとあります。<br />
当時（江戸時代）は、獣肉（猪や鹿、熊など）を食べることを禁止している時代で、禁を犯して食べてはいけない、食べるとさわりがある、ということを古今佐倉真佐子の中で教えていたのではないかと思われます。</p>

<p>愛宕神社から十字路まで戻り、左（南、愛宕神社入口からだと右）に１０メートルほどのところに２つ目の十字路があり、右（西）に道がありますが、この道は裏参道（佐倉市と酒々井町の境界線）で愛宕神社入口の後から参道と並行してここに出てきて、十字路の左（東）に進む道は、このまま１５０メートルほどありますが、途中からは籔になり道はなくなります。<br />
２つ目の十字路（ここから佐倉市に戻る）を直進（南）に３０メートルほど進むとＴ字路があり、Ｔ字路の右（東）に鳥居があります。</p>

<p><img alt="和田村　長熊　五良　五良神社入口" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/kamidai_goryojinja_iriguti.jpg" width="233" height="350" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>和田村　長熊　五良　五良神社入口。（佐倉市長熊）</p>

<p>鳥居から参道が東に進み、参道を１０メートルほど進んだ左側の少し小高くなったところに石碑があります。</p>

<p><img alt="和田村　長熊　五良　長熊廃寺の址の碑" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/kamidai_nagakumahijiato.jpg" width="233" height="350" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>和田村　長熊　五良　長熊廃寺の址の碑。（佐倉市長熊）</p>

<p>石碑の正面の真中に「長熊廃寺の址」、正面の右に「史蹟　昭和■■■年　指定」、正面の左に「昭和三十三年長熊区」とあります。</p>

<p>■は文字がありますが、なぜか消されているために読めないところです。</p>

<p>石碑の右側に説明板があり</p>

<blockquote>

<p>千葉県指定　長熊廃寺跡<br />
昭和四十二年三月七日指定</p>

<p>北総台地に所在する数少ない古代寺院のひとつである。<br />
昭和二十六年から三十二年にかけて、立正大学により発掘調査が実施され、金堂・塔・中門・南大門・回廊の跡が確認された。<br />
伽藍配置は、塔を東に金堂を西にした「法起寺式」である。<br />
建立年代は出土した瓦や土器の年代から、奈良時代であることが推定される。<br />
和名抄に「印旛郡長隈郷」とあることから、この地方の寺と考えられる。</p>

<p>昭和五十六年二月四日　千葉県教育委員会<br />
&emsp;&emsp;&emsp;&emsp;&emsp;&emsp;&emsp;&ensp;&emsp;&emsp;&emsp;佐倉市教育委員会</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>昭和二十六年から昭和三十二年は１９５１年～１９５７年、昭和五十六年は１９８１年。</p>

<p>説明板が立てられた昭和５６年では、説明板にあるようにかなり大掛かりな古代寺院がここにあったとしていますが、昭和６１年の発掘調査時には、それほど大掛かりなものではないようであるとみています。</p>

<p>千葉県の歴史資料編によると</p>

<blockquote>

<p>本廃寺が知られるようになったのは、第２次世界大戦後のことである。文献１によれば、１９４７（昭和２２）年に佐倉市本町在住の目等清（めらきよし）がこの付近で布目瓦を採集し、北詰栄男（きたづめひでお）に持参したのが発端だったようである。その後、立正大学の学生が現地を訪れ瓦塔片を採集したことから発掘調査の気運が盛り上がり、本格的な発掘調査が行なわれたのは１９５１（昭和２６）年８月だった。以降、数回、久保常晴・丸子亘（まるこわたる）の指導のもと、立正大学の学生により遺構の発見および寺域の確認を目的として発掘調査が繰り返された。また、地元の高校も発掘調査を実施しているようであるが、詳細は不明である。発掘調査後には地元長熊区住民の協力により基壇の盛土も復元されて、保護されてきた。その後、この遺跡の重要性を重視した千葉県教育委員会では、１９６７（昭和４２）年３月７日に県史跡に指定した。しかし、過去に発掘調査は行なわれてはいるものの、古代寺院としては実態が不明な点が多かったので、千葉県教育委員会では県内古代寺院跡確認調査の一環として本廃寺の調査を（財）千葉県文化財センターに委託し、１９８６（昭和６１）年１１月に発掘調査が実施された。</p>

<p>［文献１　久保常晴ほか「千葉県印旛郡長熊廃寺址発掘調査報告」『銅鐸』第９号　立正大学考古学会　１９５２年］</p>

</blockquote>

<p>とあり、再度発掘調査がされています。</p>

<p>佐倉市長熊廃寺跡確認調査報告書によると、石碑の建っている基壇部分について</p>

<blockquote>

<p>先の調査では、この基壇を伽藍中心の金堂跡と考えていた。しかし、本廃寺跡には基壇を伴うような建物跡は１堂のみであり、周辺からは瓦塔片も出土しているので、この建物は、その内に瓦塔を安置した「お堂」であったろうと推測するに留める。</p>

</blockquote>

<p>とあり、金堂が石碑の位置にはなく、お堂があったとしています。<br />
基壇の北側には瓦が大量に出土しており、ここから７世紀後半代の土器や瓦が出ていますが、その周りにはいくつかの土壙（大穴）があって、この土壙（大穴）は基壇を造る時に掘られたものらしく、佐倉市長熊廃寺跡確認調査報告書には「大量の瓦や完形の瓦等は、建物の修理で不要になったか倒壊時に投棄されたものと思われるので、...」とあるので、それらの捨場として使われていた可能性があるとみているようです。<br />
基壇の西側３０メートルほどのところで見つかった溝の中から「髙<img alt="岡の旧字" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/oka_kyuji.gif" width="14" height="14" class="mt-image-none" style="" /> 寺」と墨書のある土器が出土していて、当時、長熊廃寺が「髙<img alt="岡の旧字" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/oka_kyuji.gif" width="14" height="14" class="mt-image-none" style="" /> 寺」と呼ばれていた可能性もありますが、佐倉市長熊廃寺跡確認調査報告書では「最近の発掘調査で、現在残る地名を付けた寺銘墨書土器が若干出土している。［寺］の墨書の上に文字があっても、それが一概に地名とは限らない。しかも、当時の地名が、現在まで全て残っているとは、考えられないので、地名と寺名画一致することは、さらに少なくなる。」とあり、長熊廃寺が「髙<img alt="岡の旧字" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/oka_kyuji.gif" width="14" height="14" class="mt-image-none" style="" /> 寺」であるとは限らないとしています。<br />
千葉県の歴史資料編には「そこから［髙<img alt="岡の旧字" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/oka_kyuji.gif" width="14" height="14" class="mt-image-none" style="" /> 寺］の墨書がある土器が出土しており、本廃寺と関連がある可能性もある。」としています。<br />
佐倉市長熊廃寺跡確認調査報告書では、上記のような記述の他に「そこで、問題となるのが、地名を付けた寺院の性格である。寺名に地名を付ける点から、その造営母体は、公的機関ではなく、ある程度限られた地域に根ざして造営されたことを示しているのではなかろうかと考える。」とあり、古代は「印旛郡長隈郷」と呼ばれていた地域の中心であって、そこに長熊廃寺があったと考えられますが、「長隈郷」の範囲がどこまであったのかはわかっておらず、さらに、この長熊と上代・高岡をも含んで「長隈郷高<img alt="岡の旧字" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/oka_kyuji.gif" width="14" height="14" class="mt-image-none" style="" /> 」と呼んでいたとも考えられ、そうであればこの長熊廃寺のことを「髙<img alt="岡の旧字" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/oka_kyuji.gif" width="14" height="14" class="mt-image-none" style="" /> 寺」と呼び、土器に寺の名を書いたとも考えられます。<br />
千葉県印旛郡誌では「高岡上代長熊は十大區一少區に他は十大區四少區に編入し...」とあり、高岡上代長熊は３地域を合わせて一区としているところをみると、古代からはやりまとまった地域であったとの認識があったものと思われます。</p>

<p>石碑から五良神社の参道に戻って左（東、五良神社入口からだと直進）に５０メートルほど進んだ左の少し高いところに「中門の址」とある石柱があり、ここから参道を２０メートルほど進んだ左に出羽三山参拝記念塔があり、さらに２０メートル歩と進むと神社があります。</p>

<p><img alt="和田村　長熊　五良　五良神社" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/kamidai_goryojinja.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>和田村　長熊　五良　五良神社。（佐倉市長熊）</p>

<p>千葉県下総国印旛郡神社明細帳には</p>

<blockquote>

<p>村社<br />
五良神社<br />
一　祭神　不詳<br />
一　由緒　不詳<br />
一　社殿間数　間口五尺　奥行四尺<br />
一　境内坪数　貳百七拾坪　官有地第一種</p>

</blockquote>

<p>とあり、千葉県印旛郡誌では、その他の欄に同じ内容で記されているので省略します。<br />
千葉県神社名鑑には</p>

<blockquote>

<p>祭神　五良大神（ごりょうのおおかみ）<br />
例祭日　一〇月一五日<br />
主要建物　本殿・銅板葺流造一坪、拝殿・瓦葺切妻造五坪<br />
境内神社　浅間神社<br />
境内坪数　四一七坪<br />
氏子　二一戸　宮司　＊＊＊＊<br />
由緒沿革　創祀年代等明らかでない。境内地は県指定史跡「長熊廃寺跡」である。ちなみこの寺は奈良時代末の建立とされる。</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>奈良時代末は、７８０～７９４年の長岡京遷都から平安京遷都の間くらい。</p>

<p>千葉県神社名鑑にある「五良大神（ごりょうのおおかみ）」とは、おそらく鎌倉権五郎景政のことと思われ、景政の鞭桜として佐倉市史には</p>

<blockquote>

<p>前半省略</p>

<p>中でも大蛇にあったと伝えられる五色桜はおもしろい。<br />
今はなき文珠寺は、景政を祀る五良神社の隣に建立されたもので、その境内に、めぐり一丈、十二・三間四方に枝の繁った桜の大木があった。花のころには人々が群集し、そのために寺も栄えたのだといわれている。<br />
そしてこの桜の由来はこうである。<br />
昔、鎌倉権五郎景政は、殊のほか武勇に優れ、敵のために目に箭を射られたが、七日七夜の間、敵を追い、ここに来て鞭を地にさし、しばらく休んだが、やがてその鞭を忘れたままこの地を去った。その鞭が桜であったので、そのまま活きて枝を生じ、八重桜の花が逆さに咲いた。それは鞭を逆さにさしたためだという。<br />
また一説には、この花は五つ色に咲いたので、あるいは鞭桜といい、また別に五色桜とも伝えている。<br />
権五郎景政の伝説は、特に東北に多いが、目の傷を洗った池や、その時血が流れて清水に混じったので、そこにすむ魚も皆片目だとかいうのが多いのである。ひとりここ大蛇だけが、そんな池や魚ではなく、成長する鞭桜となっているのはおもしろく、珍しいことである。</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>ということは、五良神社は文珠寺よりも古くからあったということになり、少なくとも千葉氏が文珠寺を建立する以前、文明年間以前（本佐倉城築城あたり）だったと考えられますが、「鎌倉権五郎景政は、殊のほか武勇に優れ、敵のために目に箭を射られたが、七日七夜の間、敵を追い、ここに来て鞭を地にさし」とあるように、「敵のために目に箭を射られた」という戦いは、後三の役（奥州での清原氏と源義家との戦い）のことであるわけですが、問題は、奥州（戦域は宮城県・岩手県・秋田県に及んだ）からこの佐倉まで敵を追いかけてきた、ということで、これはおそらくありえないことだと思われます。<br />
あったとして、下総国での関東武者同士の小競り合いに出撃してここまで追いかけてきた、という話ならありうると思われますが、鎌倉権五郎景政の武勇が後三の役で響きわたったため、その武勇と後の戦の時のことが合わさってしまった、とも考えられます。<br />
ただし、実際に鎌倉権五郎景政がここまで来たかどうかについては、定かではありません。</p>

<p>文明年間は１４６９～１４８６年の間で、後三の役は永保三年（１８０３）～寛治元年（１０８７）までの戦いで、この後、奥州藤原氏が台頭してきます。</p>

<p>「ごりょうじんじゃ」というと、すぐに思い当たるのが神奈川県鎌倉市長谷にある御霊神社（通称権五郎神社）ですが、ここにも鎌倉権五郎景政が祭られており、鎌倉氏由縁の神社でもあります。<br />
そのほか「五郎神社」とかいている神社もありますが、そのほとんどが「源正霊神（鎌倉権五郎景政公霊）」として祭っているところが多いのですが、どの神社も鎌倉権五郎景政の武勇を称え、戦国時代ではおそらく戦勝、現在では学業成就や必勝招来など、物事が成就するとして信仰されているようです。</p>

<p>このようにみてみると、鎌倉権五郎景政も平氏、千葉氏も平氏であり、しかも武勇に優れた同族の人物を信仰したということは、戦国時代（あるいはそれ以前から）にはあったものと考えられ、長熊廃寺の故地に何らかの理由で建てられたのではないかと考えられます。</p>

<p>千葉県神社名鑑にある「境内神社　浅間神社」は、２００９年（平成２１年）から２０１０年（平成２２年）までに行なわれた、参道と社殿と拝殿のあたりの改修工事後には付近には見当たらず、おそらく社殿に合祀されているものと思われます。</p>

<p>多輪免喜のなかの、和田村長熊字五良の地名由来のところに「五良は御霊の転ではなかろうか。」とあり、備考欄には「御霊とは霊魂の尊敬語。のちに尋常でない、祟りをあらわす「みたま」についていった、各地にある五良塚もこの転か。（広辞苑）」とあり、「千葉介親胤が暗殺されたという「大蛇社」とはこのあたりではないだろうか。」とあります。<br />
確かに「御霊」から「五良」への転化ということもあると思われますが、そうすると先に歩いた佐倉市弥勒町にある字五良台も同じく「御霊台」であったということにもなるわけで、この説でいくと佐倉市弥勒町や本町、大蛇町、大佐倉、酒々井町本佐倉、上本佐倉、酒々井といったところは、平良将（平将門の父）の初めの本拠地（後に市川あたりが本拠地になる）であったところであり、しかも、将門が若かりしころにはこのあたりに住んでいたとも考えられ、将門の乱後に将門神社が建てられたり、将門伝説が多く残る土地柄であり、将門の霊を沈めるために「御霊」塚もしくは「御霊」神社を各々の場所に造ったり建てたりしたということも考えられます。<br />
それとは別に千葉親胤の暗殺されたところが、このあたりではないかと多輪免喜であるのは、和田村が成立する以前にはこのあたりは大蛇村の中に含まれていたのではないか思われ、佐倉市史の文珠寺のところには「大蛇」とあることから、麻賀多神社ではなく五良神社もしくは愛宕神社を「大蛇社」と呼んでいたのではないかと、考えたのではないかと思われます。<br />
どちらにしても、「大蛇社」には大杉があったことは確かで、それが麻賀多神社にあった大杉なのか、この辺りにある大杉のことなのかそれは定かではありません。</p>

<p>五良神社から五良神社の鳥居まで戻り愛宕神社近くの十字路まで戻りますが、Ｔ字路の左（南、十字路からだと直進）にかなり籔化が進んできている道がありますが、この道も古道で２３０メートルほど進むと谷津に出て、勝田道に合流します。<br />
その途中谷津に下りはじめる左側に、崖状に少し崩落しているところがあり、その前に丘らしきものがあり、これは長熊廃寺発掘調査では塚として確認されているものですが、おそらくこのあたりに数多くあったとされる古墳のひとつと思われます。<br />
ただし、ここあたりは籔化も進んでおり、さらに崖の崩壊も進んでいるので、五良神社の南側には古墳群らしきものがあったということだけ思い出してください。</p>

<p>愛宕神社近くの十字路に戻り、さらに愛宕神社手前のＹ字路に戻り、左斜め（北）の道を進んでいきます。</p>

<p>ということで、今回はここまで。</p>

<p>参考文献は、「歴史の道調査報告書　成田街道」、「佐倉市史」、「千葉県下総国印旛郡寺院明細帳」、「千葉県下総国印旛郡神社明細帳」、「千葉県印旛郡誌」、「千葉県神社名鑑」、「佐倉市誌資料」、「佐倉の歴史を学ぶ　資料集」、「多輪免喜」、「佐倉風土記」、「佐倉文庫」、「古今佐倉真佐子」、「新佐倉真佐子　－佐倉のお茶の間風土記－」、「ふるさとの石仏」、「佐倉町二十五年誌」、「新道々の記」、「佐倉細見」、「大蛇中芝遺跡・大蛇瓜作遺跡」、「下総へんろ佐倉八十八ヶ所札所」、「大蛇麻賀多脇遺跡」、「千葉県の歴史　資料編」、「佐倉市長熊廃寺跡確認調査報告書」、「酒々井町史」、「千葉県所在古墳詳細分布調査報告書」、「房総の道標」より。</p>

<p>引用は各文献と各社寺の説明板、地域の説明板より。</p>

<p>今回の地図は<a href="http://sanpobokko.com/kaido_image/sakuramichi_6.jpg">「佐倉道６」</a>です。</p>

<p>国土地理院２５０００分の１「佐倉」より作成しています。</p>]]>
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    <title>成田街道（佐倉道）その１０８ - Stroll Note</title>
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    <published>2010-07-05T12:18:45Z</published>
    <updated>2010-07-05T16:45:30Z</updated>

    <summary>佐倉道　電気屋さん（千葉県佐倉市本町）から勝田道に寄り道し麻賀多神社（千葉県佐倉市大蛇町）まで 電気...</summary>
    <author>
        <name>nobo</name>
        
    </author>
    
        <category term="街道歩き" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    <category term="佐倉市" label="佐倉市" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://sanpobokko.com/stroll_note/">
        <![CDATA[<p>佐倉道　電気屋さん（千葉県佐倉市本町）から勝田道に寄り道し麻賀多神社（千葉県佐倉市大蛇町）まで</p>

<p>電気屋さんの左（東）に道がありますが、この道は勝田道でこの先大蛇町、長熊、上代、新堤、下勝田と続いて、さらに八街市を経由して東金市まで続いています。</p>

<p>このあたりの図を載せます。</p>

<p><img alt="佐倉本町中宿から下宿あたりの図" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/motomachi_oojamachi_zu.jpg" width="450" height="329" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>本町中宿から下宿あたりの図。</p>

<p>電気屋さんから勝田道に寄り道し、左（南）に勝田道を３１０メートルほど進むと右側に空地があり、入口の右側に墓碑、左側の大木の横に子安塔、空地の奥の左（北）に大師堂があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　大蛇町　麻賀多脇　蓮蔵院跡　大師堂" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/oojamachi_renzoinato_daishi.jpg" width="233" height="350" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　大蛇町　麻賀多脇　蓮蔵院跡　大師堂。（大蛇町）</p>

<p>この蓮蔵院跡にある大師堂は、佐倉六崎組十善講（佐倉八十八ヶ所）によると第３０番札所ということになっていて、先に<a href="http://sanpobokko.com/stroll_note/2010/06/post-119.php">成田街道（佐倉道）その１０７</a>で訪ねた、常泉院跡にあった大師堂と同じ番号の札所ということになっています。<br />
ちょっとややこしいところですが、この佐倉の八十八ヶ所の札所にはいろいろあり、常泉院跡の大師堂は印旛組に属し、蓮蔵院跡の大師堂は六崎組に属している、ということのようです。</p>

<p><img alt="大蛇町　蓮蔵院跡　配置図" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/oojamachi_renzoinato_zu.gif" width="400" height="400" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>大蛇町　蓮蔵院跡　配置図。</p>

<p>千葉県下総国印旛郡寺院明細帳には</p>

<blockquote>

<p>中本寺吉祥寺末<br />
新義真言宗智山派　蓮蔵院<br />
一　本尊　弘法大師<br />
一　由緒　不詳<br />
一　本堂間数　間口三間半　奥行五間半<br />
一　境内坪数　三百四拾六坪　官有地第四種<br />
一　境内仏堂　壱宇<br />
観音堂<br />
本尊　観世音菩薩<br />
由緒　不詳<br />
建物　間口四尺四寸　奥行三尺五寸</p>

</blockquote>

<p>とあり、千葉県印旛郡誌にも同様の記載があるので省略します。</p>

<p>住職の記述のところに「大正十年八月十九日兼務」と「吉祥寺住職兼務」とあるので、この時点で吉祥寺の管理下に入り、その後昭和に入り吉祥寺に合併したものと思われますが、千葉県下総国印旛郡寺院明細帳に合併の記述がないところを見ると、戦後になってから少なくとも昭和４０年代までには、合併して蓮蔵院跡には大師堂と石造物が２基残されるのみとなったものと思われます。</p>

<p>大正十年は１９２１年、昭和４０年代は１９６５～１９７４年の間。</p>

<p>千葉県寺院明細帳や千葉県神社明細帳は、明治１２年前後に編纂され終戦後の昭和２０年、遅くとも昭和２５年までは使用されていましたが、その後のことについては明細帳には記述はありません。<br />
推測ですが、先に訪ねた常泉院も蓮蔵院と同じく吉祥寺の末寺であったので、常泉院が吉祥寺に合併した明治４３年もしくはそのあとくらいに、同じく吉祥寺に合併したのではないかと思われます。</p>

<p>明治１２年は１８７９年、昭和２０年は１９４５年、昭和２５年は１９５０年、明治４３年は１９１０年。</p>]]>
        <![CDATA[<p>蓮蔵院入口から入って左側に大木があり、その左側に倒れて斜めになっている子安塔（十九夜塔）と、宝篋印塔らしき石造物の石片があります。</p>

<p>子安塔（十九夜塔）の正面に真中には如意輪観音像、その上に欠損した文字らしき跡（おそらく九が入ると思われる）、正面の右に「十」、正面の左に「夜」、右側面に「■（文）■（化）■（元か九か）■（甲か申か）十一月吉日」、左側面に「大蛇　上代　村女人講中」とあります。</p>

<p>■は判読ししづらい文字で（）は入るであろう文字です。</p>

<p>「文化」は何とかわかるので、その二つしたの文字が「甲」であれば「文化元年」か「文化十一年」ですが、ここに入る文字は一文字なので、そうすると「文化元年」で１８０４年になり、「申」であれば「文化九年」で１８１２年。</p>

<p>この子安塔（十九夜塔）の反対側には墓碑があり、正面と思われるところに「（梵字）潭月澄静信女」、左側面に「文化□辛未天　奉供艱三十三回忌塔　十月吉日」とあります。</p>

<p>「文化□辛未天」の□には干支であわせると「八」が入り、文化八年となるので１８１１年。</p>

<p>この墓碑にはなぜか「艱」の字が入っていますが、「艱難辛苦（かんなんしんく）」とよく使われているように「悩むこと、苦しむこと、苦労すること」という意味があり、この墓碑にある「潭月澄静信女」という人が、生前に苦労を重ねていたということを暗示しているというように解釈できますが、戒名ではとても静かな澄んだ人であったという名が付けられているので、苦労の末何かを果たした（それが何かはわかりませんが）人物であったと考えられます。</p>

<p>墓碑から進んで左側の藪近くには大師堂があり、この大師堂には大師像がありますが、これは千葉県下総国印旛郡寺院明細帳にある本尊の弘法大師像ではなく、後年に佐倉八十八ヶ所のお参りのために造られ祀られたものであると思われます。<br />
大きさからいって、もとは観音堂がここにあったものと思われ、本堂は現在民家がある辺りにあったものと思われます。<br />
弘法大師像と観世音菩薩は、本寺である吉祥寺に移されたと思われますが、千葉県下総国印旛郡寺院明細帳やほかの文献などにも記述がないので定かではありません。</p>

<p>蓮蔵院の創立年代については不詳とあり、どの文献を見てもはっきりしてませんが、古今佐倉真佐子に記述がないところを見ると、古今佐倉真佐子の書かれた時代以降に創立された可能性もありますが、あまり有名どころではなかったかして古今佐倉真佐子に載せられなかったとも考えられ、やはり創立年代はわかりません。</p>

<p>古今佐倉真佐子は、宝暦３年（１７５３年）くらいに成立したといわれています。</p>

<p>蓮蔵院跡入口に戻り、左（南、電気屋さんからだと直進）に２０メートルほど右の民家と民家との間に道（敷地内の道）がありますが、この道の奥には弥勒堂がありましたが、現在は民家の敷地となっています。</p>

<p>千葉県下総国仏堂明細帳には</p>

<blockquote>

<p>千葉縣管下々総國印旛郡佐倉町大蛇字堂ノ下<br />
妙胤寺持<br />
弥勒堂<br />
一本尊　弥勒菩薩<br />
一由緒　正安年中創立干支不詳<br />
一堂宇間数　間口弐間　奥行三間　官有地第三種</p>

</blockquote>

<p>とあり、千葉県印旛郡誌にも同様のないようであるので省略しました。</p>

<p>「佐倉町大蛇字堂ノ下」とある前には「佐倉町」がなく「大蛇村字堂ノ下」とあり、明治２２年の町村制施行時に佐倉町に編入したので、「佐倉町」が枠外に朱字で追記され、「大蛇村」の「村」が朱線で消され「佐倉町大蛇字堂ノ下」と書きかえられています。</p>

<p>正安年中は１２９９～１３０２年の間、明治２２年は１８８９年。</p>

<p>正安年中というとかなり古い時代に、ここに建てられていたということになり、このころは鎌倉時代の中半から後半にかけての第９代執権北条貞時と第１０代北条師時の時代で、正安元年（１２９９）に元の使者一山一寧が来朝し、正安２年（１３０２）に一向宗を禁圧、正安３年（１３０１）に彗星が飛来し、これが凶事であるとして北条貞時が執権職を北条師時に譲っています。<br />
正安３年の彗星はハレー彗星のことで、国内ではかなり大騒ぎしていたようですが、そんな大騒ぎの真っ只中の同じ年に新田義貞が生まれています。</p>

<p>かなり歴史のあった弥勒堂ですが、千葉県仏堂明細簿抄（昭和２２年調）には「大蛇町字堂ノ下二七八　弥勒堂　解散　十七、五、一」とあり、昭和十七年に弥勒堂は解散したとあります。<br />
これは、本寺である本佐倉の妙胤寺に合併したのではなく、廃絶を意味しているものと思われ、弥勒堂にあった本尊はどこに行ったかについては記述はありませんが、本尊は本寺である妙胤寺に移されたのではないかと思われます。</p>

<p>昭和十七年は１９４２年。</p>

<p>弥勒堂跡のある民家の通路の反対側、蓮蔵院跡のすぐ後ろのほう民家とすぐ隣の神社の敷地との境辺りに庚申塔があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　大蛇町　麻賀多脇　庚申塔" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/oojamachi_makatajinja_koshi.jpg" width="233" height="350" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　大蛇町　麻賀多脇　庚申塔。（大蛇町）</p>

<p>この先にある麻賀多神社の境内地と蓮蔵院跡との境目にあるので、どちらにあった庚申塔なのかわかりませんが、勝田道から少し奥まったところにあります。</p>

<p>正面に青面金剛像その下に邪鬼と三猿、右側面に「享■（保）□□□□」、左側面に「十月吉日」とあります。</p>

<p>□は判読できない文字、■は判読しづらい文字で（）は入るであろう文字です。</p>

<p>右側面の□の部分は、苔と土ぼこりで調査当時は判読できませんでしたが、享保年間に造られたことは確かなようなので、１７１６～１７３６年の間に造られたものと思われます。</p>

<p>庚申塔から、１０メートルほど進むと左側に通路があり、この通路の左側に不明の石祠があり、この通路からさらに３０メートルほど進んだ勝田道が右にカーブを始める左側の少しおくに台石に３基の石造物があり、台石には「奉納　平成三年六月吉日　＊＊　　＊」とあり、台の上の左側は宝篋印塔もしくは五輪塔などの宝塔の上部と思われる石造物、真中は道祖神で正面に「道祖神」とあり、右のものは円柱状の石造物で、もしかすると道祖神の一種、もしくは宝塔の上部の可能性もあります。</p>

<p>この石造物群の左側に車止めがあり、その先に鳥居があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　大蛇町　麻賀多脇　麻賀多神社入口" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/oojamachi_makatajinja_irigu.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　大蛇町　麻賀多脇　麻賀多神社入口。（大蛇町）</p>

<p>ここが大蛇町の麻賀多神社の入口になり、この先３０メートルほどいくと拝殿があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　大蛇町　麻賀多脇　麻賀多神社" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/oojamachi_makatajinja.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　大蛇町　麻賀多脇　麻賀多神社。（大蛇町）</p>

<p>千葉県下総国印旛郡神社明細帳には</p>

<blockquote>

<p>村社<br />
麻賀多神社<br />
一　祭神　稚産孁神、天照大御神、大巳貴命、埴安姫命、少彦名命、倉稲魂命、菅原道真公、猿田彦名命、大國主命、須勢理昆賣命、日本武命<br />
一　由緒　不詳<br />
一　社殿間数　間口八尺　奥行九尺五寸<br />
一　境内坪数　四百廿八坪　官有地第一種<br />
一　神官　＊＊＊＊<br />
一　拜殿　間口貳間　奥行弐間</p>

</blockquote>

<p>とあり、千葉県印旛郡誌には</p>

<blockquote>

<p>大蛇村字麻賀多脇にあり稚産孁神天照大神大巳貴命少彦名命埴安姫命猿田彦名命菅原道眞日本武尊大國主命須勢理毘賣命を祭る創立不詳なれども明治四十二年五月七日許可を得て大蛇町字堂ノ下にありし無格社五穀守護五神社字堀ノ内にありし無格社道祖神社仝所にありし菅原神社字千日にありし無格社大鳥神社仝所字石橋臺にありし無格社蛭子大神を本社に合祀す社殿間口八尺奥行九尺五寸境内四百二十八坪 [官有地第一種] あり</p>

<p>以下省略</p>

</blockquote>

<p>とあり、千葉県神社名鑑には</p>

<blockquote>

<p>祭神　稚産孁命（わかむすびのみこと）<br />
例祭日　一〇月一五日<br />
主要建物　本殿・亜鉛板葺流造二坪、社務所・亜鉛板葺切妻造一二坪<br />
境内坪数　四二八坪<br />
氏子　二〇〇戸　宮司　＊＊＊＊<br />
由緒沿革　大同元年鎮座と伝える。棟札に「寛文十一年九月吉日奉再造」とある。<br />
神事と芸能　奉射祭（一月二〇日）。</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>千葉県印旛郡誌にある「明治四十二年五月七日許可を得て大蛇町字堂ノ下にありし無格社五穀守護五神社字堀ノ内にありし無格社道祖神社仝所にありし菅原神社字千日にありし無格社大鳥神社仝所字石橋臺にありし無格社蛭子大神を本社に合祀す」とあるところは、明治４２年に合祀された時の追記をもとにしており、千葉県下総国印旛郡神社明細帳の祭神のところの最初の記述は「（車に隹という字）産孁神」とありましたが、「四十一年一月二十七日付四二局第一号神社局長通達ニ依リ元（車に隹という字）産孁ヲ稚産孁ト訂正〃一月二十八日庶三、三一一号」とあり、明治４１年１月に「稚産孁」に祭神名を訂正し、村社の上に朱字で追記があり「四十一年一〇月十五日付　五穀守備五神社、道祖神社、菅原神社、大鳥神社蛭子神社ヲ本社ニ合祀シ財産譲与許可土第二、六三四号　四十二年五月七日指令　仝月十五日合祀済ノ旨仝十六日付届出ツ庶第四、四八五号受理」とあり、明治４１年に申請して明治４２年に受理されたとあります。<br />
祭神の「稚産孁神」の下に付箋が張られており、「天照大御神、大巳貴命、埴安姫命、少彦名命、倉稲魂命、菅原道真公、猿田彦名命、大國主命、須勢理毘賣命、日本武命」と追記されていて、この付箋の下、由緒のところの追記としてもう一枚付箋があり、「明治四十二年五月七日許可字堂ノ下無格社五穀守護五神社、字堀ノ内無格社道祖神社、字仝無格社菅原神社、仝字千日前無格社大鳥神社、仝石橋臺無格社蛭子大神社ヲ合祀ス」とあり、先ほどの記述と同じ内容がここにも書かれています。<br />
拜殿のしたには「四十五年五月十日建設許可庶第二六四九号」とあり、明治４５年に拝殿を建設したことが書かれており、その下に「大正六年八月丗日拜殿増築許可　拜殿　間口二間　奥行二間半　（教第三〇二號）とあり、大正６年に増築をしたことが書かれています。</p>

<p>明治四十一年は１９０８年、明治四十二年は１９０９年、明治四十五年は大正元年でもあり１９１２年、大正六年は１９１７年。</p>

<p>ここにある「仝石橋臺無格社蛭子大神社」というのが、<a href="http://sanpobokko.com/stroll_note/2010/06/post-118.php">成田街道（佐倉道）その１０６</a>で訪れた神明神社の合祀社にあった「蛭子大明神」のことであり、浜宿道沿いにあった「蛭子神社」のことで、現在は神明神社の境内に合祀されていて、麻賀多神社には合祀されていないようです。<br />
「字堂ノ下無格社五穀守護五神社」は、おそらく先に出てきた弥勒堂と同じ場所にあったものと思われ、「字堀ノ内無格社道祖神社」は現在の大蛇町堀ノ内団地入口の旧道（佐倉道）の藤坂下のカーブ辺りの西角付近にあったと思われ、「字仝無格社菅原神社」は文化二年の「印旛郡大蛇村之図」には「天神」と記述され、現在の藤沢町の市営住宅の南になる住宅地あたり（大蛇町４１１付近を含む東西１００メートルくらいの範囲）にあり、「仝字千日前無格社大鳥神社」は、現在の大蛇町にあるさくら斎場の南西の丘辺りにあったものと推定されます。</p>

<p>さて、千葉県神社名鑑には「大同元年鎮座と伝える。」とありますが、大同元年は８０６年のことで平安時代になり、しかもこの大同元年には空海（弘法大師）が真言宗を開いていますが、千葉県神社名鑑ではどの文献（麻賀多神社に残されていた古文書からだとは思いますが）を参考にしたのか提示していません。</p>

<p>麻賀多神社の西側、現在大蛇町住宅がある場所辺りには、「大蛇中芝遺跡・大蛇瓜作遺跡」によると奈良・平安時代の方形周溝状遺構が４基と土坑が２基が発掘されており、古墳時代から平安時代にかけて長く墓域として認識されていたとあります。<br />
このことについては、先に説明した弥勒堂がちょうど「大蛇中芝遺跡・大蛇瓜作遺跡」の範囲にも入ることから、その墓域のあとに弥勒堂が建てられたということが考えられますが、この麻賀多神社との関連については、はっきりとはしませんが、麻賀多神社の南側、現在国道２９６号線があるあたりには、「大蛇麻賀多脇遺跡」によると「近世初めごろに集落が形成されたと考えられ」とあるので、江戸時代初め頃になってこの近辺に集落が出来たのではないかとしています。<br />
この２つの遺跡調査報告書から考えられるのは、弥勒堂の建てられた時代以降に麻賀多神社が建てられたものとするのが、もっとも自然なことのように思われますが、文献などが少ないためはっきりとはしません。<br />
成田市台方にある麻賀多神社は、延喜式に載せられている麻賀多神社の惣社ですが、こちらは推古天皇１６年（６０８）の鎮座とあるので、この麻賀多神社から勧請したことは確かなことです。</p>

<p>拝殿の手前右側に広場があり、その広場の東側に黒石で出来た由緒書きがあり</p>

<blockquote>

<p>摩賀多神社略記<br />
御祭神<br />
稚産霊命（わかむすびのみこと）<br />
稚産霊命は日本書紀に記されている神様で伊勢外宮の「豊受姫命（とようけひめのみこと）」の御親神である<br />
由緒<br />
當摩賀多神社は、大蛇の鎮座で古くから、産土様として崇敬されてきたお社です。<br />
この御社は大同元年、當地に鎮座すると傅えられ、棟札等に夜と「寛文十一年九月吉日奉再造」とあります。<br />
御神木は、樹齢およそ六百年を数え、幹周り二丈六尺もある杉の大木でした。ここは街道筋であったため、近郷近在の人々から「大杉様ーーー」と親しまれ、大勢の方が参拝されたと言い傅えられて来ました。再度、落雷に遭い、昭和八年八月地元の人達に惜しまれつゝ伐採されました。<br />
御神事<br />
御奉射祭　一月二十日<br />
祭礼　一〇月十四日十五日</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>大同元年は８０６年、寛文十一年は１６７１年、昭和八年は１９３３年。</p>

<p>「大杉様ーーー」の「ーーー」は、「ゝ」の長いもので「大杉様大杉様」と繰り返します。<br />
ここでは麻賀多神社を「摩賀多」と書いていて、これは鳥居や拝殿の額束も同様に「摩賀夛（多）」としていますが、古来「摩」と「麻」とは読みが同じであり、「夛」は「多」の旧字になります。<br />
「摩」は「する。こする。みがく。」の意味があり「摩滅」という言葉もあるように「悪いものをこすり減らす」という意味合いがあるものと思われます。</p>

<p>拝殿の左には社務所があり、拝殿の右側には、大杉のあったあたりに石碑があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　大蛇町　麻賀多神社　大杉跡の碑" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/oojamachi_makatajinja_osugi.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　大蛇町　麻賀多神社　大杉跡の碑。（大蛇町）</p>

<p>自然石で出来た石碑に「大杉跡　平成八年五月吉日」と刻まれています。</p>

<p>平成八年は１９９６年。</p>

<p>麻賀多神社について、古今佐倉真佐子には</p>

<blockquote>

<p>扨、元町中程より右の方へ町裏へ出る。左右田也。凡八丁斗行て大蛇村也。右の方少百姓や、小村也。左の方丹塗の木鳥井ある。此所杉松榎の小林也。林の内かた角にくずやにて一間四方斗の宮ある。大杉（麻加多）大明神と号。宮の後によかゝへ斗の大杉一本有る。則神木也。</p>

</blockquote>

<p>とあり、当時麻賀多神社は「大杉大明神」と呼ばれていたことが書かれています。<br />
（）の中は注釈で、佐倉文庫に掲載した時に、寺社仏閣などの名称の注釈を入れたものです。</p>

<p>さらに佐倉市誌資料には</p>

<blockquote>

<p>麻賀多神社　大蛇字麻賀多鎮座<br />
祭神　稚産霊命<br />
社傳に依れば大同元年の創立で寛文十一年再建といふ。<br />
佐倉風土記に大蛇（おほしま）社とあるのがこの神社である。新撰佐倉風土記や其の他の古文書にも記されて居る有名な大杉は、この境内にあつたが昭和初年落雷で枯死今は根株のみ玉垣に囲まれて残つている。</p>

</blockquote>

<p>とあり、佐倉風土記にある大蛇社には</p>

<blockquote>

<p>神ヲ祭ル所ノ未詳ニセ、大蛇村ニ在、傅フ千葉家ノ臣原信濃、其主親胤ニ畔キ、将門山ノ城ヲ攻メテ而之ヲ破ル、親胤此社ニ逃レ隠ル、原探テ之ヲ弑ス、上杉景虎原ヲ討テ而之ヲ滅スト云、</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>面白いことに、佐倉風土記では大蛇社（麻賀多神社）に隠れていた千葉親胤を原信濃（原胤貞のことか？）が殺害したとあることで、さらに上杉景虎（上杉謙信）に原信濃が討たれて原氏が滅亡したとあることです。<br />
麻賀多神社の社伝には、このことについては書かれておらず、なぜ佐倉風土記にあるのか不思議ですが、千葉親胤は北条軍に捕らえられたあとに殺害されているのですが、実際、誰が殺害したのかはよくわかっていません。<br />
しかも、原信濃守とある人物が見当たらないので、これまた悩むところです。<br />
さらに、原信濃は上杉謙信に討たれたことになっていますが、原胤貞であるとすると、彼は討たれてもいないし普通に没しているので記述とあいません。<br />
佐倉風土記は享保７年（１７２２）に書かれたものです。</p>

<p>大杉跡の碑から右斜め後ろのあたり、ちょうど畑が見える場所辺りに石造物群があり、左側から「疱疽神社　白幡神社」、左から２つ目が「天満宮」、左から３つ目が社日塔（五社大神）で、これが「五穀守護五神社」のことで「天照大御神、大巳貴命、埴安姫命、少彦名命、倉稲魂命」の五神の名が五角柱に刻まれているもので、左から４つ目が不明の石祠、左から５つ目が「辨財天」、少し離れて右側に中に小さな円柱の石がある石祠があり、これは道祖神ではないかと思われます。<br />
この石造物群を見る限り、千葉県下総国印旛郡神社明細帳や千葉県印旛郡誌に記載されている他にも近くの神社を合祀したことがうかがえ、「辨財天」はおそらく、弥勒堂の西側の現在大蛇町住宅があるところに池があったことが、文政二年の「印旛郡大蛇村之図」に見え、この池にあった「辨財天」を麻賀多神社に合祀したのではないかと思われます。</p>

<p>文化二年は１８１９年。</p>

<p>麻賀多神社の入口に戻り、勝田道を進んでいきます。</p>

<p>ということで、今回はここまで。</p>

<p>参考文献は、「歴史の道調査報告書　成田街道」、「佐倉市史」、「千葉県下総国印旛郡寺院明細帳」、「千葉県下総国印旛郡神社明細帳」、「千葉県印旛郡誌」、「千葉県神社名鑑」、「佐倉市誌資料」、「佐倉の歴史を学ぶ　資料集」、「多輪免喜」、「佐倉風土記」、「佐倉文庫」、「古今佐倉真佐子」、「新佐倉真佐子　－佐倉のお茶の間風土記－」、「ふるさとの石仏」、「佐倉町二十五年誌」、「新道々の記」、「佐倉細見」、「佐倉市史研究」、「佐倉地方文化財」、「房総の郷土史」、「千葉史学」、「大蛇中芝遺跡・大蛇瓜作遺跡」、「下総へんろ佐倉八十八ヶ所札所」、「大蛇麻賀多脇遺跡」より。</p>

<p>引用は各文献と各社寺の説明板、地域の説明板より。</p>

<p>今回の地図は<a href="http://sanpobokko.com/kaido_image/sakuramichi_6.jpg">「佐倉道６」</a>です。</p>

<p>国土地理院２５０００分の１「佐倉」より作成しています。</p>]]>
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    <title>成田街道（佐倉道）その１０７ - Stroll Note</title>
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    <published>2010-06-29T11:35:13Z</published>
    <updated>2010-06-29T16:32:39Z</updated>

    <summary>佐倉道　本町交差点（千葉県佐倉市本町）から電気屋さん（千葉県佐倉市本町）まで 本町中宿から下宿あたり...</summary>
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        <name>nobo</name>
        
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        <category term="街道歩き" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    <category term="佐倉市" label="佐倉市" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://sanpobokko.com/stroll_note/">
        <![CDATA[<p>佐倉道　本町交差点（千葉県佐倉市本町）から電気屋さん（千葉県佐倉市本町）まで</p>

<p>本町中宿から下宿あたりの図を載せます。</p>

<p><img alt="佐倉本町中宿から下宿あたりの図" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/motomachi_oojamachi_zu.jpg" width="450" height="329" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉本町中宿から下宿あたりの図。</p>

<p>本町交差点を今度は南（順天堂からだと右、神明神社からだと直進）に順天堂側の歩道を６０メートルほど進んだ右側に本町街区公園があり、入ってすぐの左側に大きな石碑が二つあります。</p>

<p><img alt="佐倉町　本町　南側　本町街区公園　佐藤泰然・佐藤舜海の碑" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/motomachi_taizen_syunkai_hi.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　本町　南側　本町街区公園　佐藤泰然・佐藤舜海の碑。（本町）</p>

<p>本町街区公園入口に石碑の説明板があり</p>

<blockquote>

<p>旧佐倉順天堂と佐藤泰然・舜海の碑</p>

<p>ここ旧佐倉順天堂敷地内に建つ大きな石碑は、順天堂創設者・佐藤泰然の顕彰碑と佐倉順天堂三代目・佐藤舜海の頌徳碑です。いずれも篆額は伯爵堀田正倫の書であり、撰文・書ともに旧佐倉藩ゆかりの者によります。<br />
右の泰然顕彰碑は、二代目の佐藤尚中から佐倉順天堂を継いだ舜海によって、明治二十三年（一八九〇）に建立されました。泰然の生い立ちや生涯の業績をたたえた碑文が刻まれています。<br />
その隣は、明治三十五年（一九〇二）に門人らが舜海の「耳順」（六〇歳）を祝って建立した頌徳碑です。半生の履歴を記した碑の裏面には建立者名が刻まれ、その数は八六人に上ります。<br />
また、頌徳碑にあるように佐倉順天堂は、舜海の代に病院施設を拡充しました。現在も残る洋風の診療棟のほかに、南に延びた廊下で結ばれた受付・厨房棟などが建てられ、この碑の位置から西には二階建病棟がありました。<br />
なお、この二基の碑は都市計画道路建設にともない、平成五年にこの南方約六メートルの場所から現在地に移設したものです。</p>

<p>平成八月三月<br />
佐倉市教育委員会</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>平成五年は１９９３年、平成八年は１９９６年。</p>

<p>碑の建っている本町街区公園までが、佐倉順天堂の敷地であったところとあるように、当時は相当広い敷地内にあったことが説明板でわかります。</p>

<p>本町街区公園の後（南）にヤマト運輸があり、その南に細い道が西から進んできていますが、この道が久保町の坂の下から分かれていた勝田道で、大通りをまたいで東側の細道へ続いていますが、現在は途中で道は途切れてしまっています。</p>

<p>東側の細道のあるところから北に５０メートルほどのところ、現在歩道になっているあたりに高岡宿の道祖神社があったとされていますが、明治時代に<a href="http://sanpobokko.com/stroll_note/2010/06/post-118.php">成田街道（佐倉道）その１０６</a>で訪ねた神明神社に合祀されてその痕跡はありません。</p>

<p>本町交差点に戻り、今度は右（東、神明神社からだと左、順天堂からだと直進）に佐倉道を５０メートルほど進んだ左にコンビニのような酒屋さんのようなお店があり、このお店の名は「伊勢文」といい新佐倉真佐子には「伊勢文は糀、酒などを扱う老舗である。」とあり、昔からのお店のようです。<br />
伊勢文から７０メートルほど進んだところ右に細道があり、細道の東側に恐らく三川屋ではないかと思われる宿屋があったところです。<br />
新佐倉真佐子には「...その以前ここは宿屋であり、コレラが流行した時一家死に絶えたことがあったそうである。」とあり、三川屋とは書かれていないものの、三軒ほどあった宿屋の一つで、屋号のわかっている二つ以外の宿屋で残っているところといえば三川屋のみので、恐らくここにあったのが三川屋だと思われるわけです。</p>

<p>しかし、コレラで一家全滅というのもおっかない話ですが、江戸末期から明治時代はコレラに対しての治療方法がまだ確立されていない頃でもあったようなので、コレラにかかってしまうと大変なことになったようです。<br />
ちなみに、コレラが流行した要因には、黒船来航が関わっているようで、文政５年に初めて大流行し、このときは箱根より西で大流行。次は安政５年に大流行し、このときは江戸でも流行し全国で死者２８，０００人を超えるほどだったと記録にあるようです。<br />
その後、文久２年と文久３年、その後は明治１０年、明治１２年と明治１８年から１９年に大流行をしています。<br />
１３代将軍徳川家定（安政５年７月没）の病死も、コレラとも脚気（持病であった）ともいわれていて、１２代将軍家慶（嘉永６年６月没）も、もしかするとコレラで病死したのではないかともいわれていますが、真相ははっきりしていません。<br />
ただし、この二人の将軍の時期にコレラが流行しているところを見ると、ありえない話でもないようです。<br />
文政５年の流行の原因は、定かではありませんが、この年に長崎港でイギリス軍艦が事件を起していて（フェートン号事件、その後文政８年には異国船内払令がだされている）、このフェートン号の乗船員がコレラ菌を持ち込んだ可能性は高く、これが一気に箱根辺りまで広がって流行した可能性があると思われますが、確証はありません。<br />
黒船来航（ペリー来航）は嘉永６年６月で、このときにコレラ菌も一緒に上陸したと思われ、この黒船の船員がコレラにかかっていて、それがもとで江戸でも大流行をしたと考えられます。<br />
コレラは日本にはなかったわけですが、これが大航海時代と列強の植民地支配のためにヨーロッパで大流行し、その後日本には黒船来航という形で広まってしまったようです。<br />
まあ、その前には、これまた日本にはなかった病気である梅毒が、戦国時代にキリシタンのキリスト教布教と共に広まってしまったわけで、とんでもない病気はどちらも海を渡ってもたらされてしまい、現在は、飛行機で持ち込まれてくるわけで...。</p>

<p>文政５年は１８２２年、安政５年は１８５８年、文久２年は１８６２年、文久３年は１８６３年、明治１０年は１８７７年、明治１２年は１８７９年、明治１８年は１８８５年、明治１９年は１８８６年、嘉永６年は１８５３年。<br />
</p>]]>
        <![CDATA[<p>三川屋ではないかと思われる宿屋があったところから、５０メートルほどの左にクリーニング店がありますが、ここまでが中宿でここから先が下宿になります。<br />
クリーニング店から８０メートルほど進んだ左辺りには、歴史の道調査報告書にもあった「附近には三川屋・和国屋外数軒の旅篭があったと伝えられている。」とある和国屋がありました。<br />
その和国屋のあったところから３０メートルほど進んだ左に道があり、ここを４０メートルほど進んだ右側（東）の塀の向こうに墓地があります。</p>

<p>本町愛宕神社と常泉院跡あたりの図を載せます。</p>

<p><img alt="本町愛宕神社と常泉院跡の図" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/atagojinja_atari.gif" width="450" height="450" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>本町愛宕神社と常泉院跡の図。</p>

<p>墓地のある辺りが常泉院があった辺りになりますが、こちら側からは入れないので迂回することになります。<br />
この墓地の北側には大師堂があり、大師講の人々は、どこからこの大師堂にお参りしているのかと考えたところ、佐倉道に戻ってすぐの民家の入口から、この大師堂にお参りしているものと思われ、しかしながら、普段はさすがに民家の入口から入れるわけもなく、どこかにないものかと考えていたところ、先に歩いた満蔵院跡駐車場横の道から、ちょうどこの後あたりに続いている道があり、ここに一ヶ所倒木だらけの道があったのを思い出したので、そこに回ってみました。</p>

<p>墓地の見える塀から佐倉道に戻り、５０メートルほど進むと左にコンビニがあり、コンビニの横から左（北）に進む細道があるのでここを１００メートルほどゆるい下り道（道の左には鉄の柵があり、途中から籔になる）を進むと十字路があり、ここを左（西）に下り坂（道にはコンクリートで蓋をした水路がある）を３０メートルほど進んだ左側に倒木がかなりある切通道（参道と思われる）があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　本町　愛宕脇　常泉院跡　参道（切通道）" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/motomachi_joseninato_sando.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　本町　愛宕脇　常泉院跡　参道（切通道）。（本町）</p>

<p>だいぶ倒木や竹の倒れたものなど、普通では歩けないような状態になっていますが、どうみても切通になった道があります。<br />
この道の右側（西側）の土塁状（切り堀した上の部分）のところのほうが常泉院跡で、左側（東側）の低い土塁状のところの竹藪になっているところのほうが愛宕神社跡（旧地）になり、倒木や竹などをよけながら５０メートルほど進んでいくと、正面が開け、右側に先ほど塀で入れなかった墓地のところに出ます。</p>

<p><img alt="佐倉町　本町　愛宕脇　常泉院跡　墓地" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/motomachi_joseninato_bochi.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　本町　愛宕脇　常泉院跡　墓地。（本町、写真は塀の向こうから撮ったところ）</p>

<p>切通道（参道）の出口は、写真の右側の赤い葉のある木の下辺りになり、切通道の右側（西側）が常泉院のあったところになり、墓地は常泉院にあったものです。<br />
出口から右に進み、墓地の右側に古い階段（だいぶ埋まっている）があり、さらに墓地に沿って進むと左に大師堂があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　本町　愛宕脇　常泉院跡　大師堂" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/motomachi_joseninato_daishi.jpg" width="233" height="350" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　本町　愛宕脇　常泉院跡　大師堂。（本町）</p>

<p>下総へんろ佐倉八十八ヶ所札所によると、第３０番の札所になっていて「本町　満蔵院（廃寺）」となっていて、なぜ「本町　満蔵院（廃寺）」となっているのかは定かではありません。</p>

<p>大師堂から少し右（東）側斜めに２０メートルほどいくと鳥居があり、その後ろに神社があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　本町　愛宕脇　常泉院跡　愛宕神社" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/motomachi_joseninato_atagoj.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　本町　愛宕脇　常泉院跡　愛宕神社。（本町）</p>

<p>鳥居をくぐったすぐ右側に古い手洗石があり、参道を少し行くと拝殿（本殿）があります。<br />
由緒などについては不明ですが、明治４２年に大蛇町字石橋台にある神明神社に合祀されたはずの愛宕神社が現在はこの場所にあります。<br />
いつこの場所に戻ってきたかについては、新佐倉真佐子にも載せられておらず、昭和６０年代以降、もしかすると平成に入ってから神明神社から分祀して、もとあった場所の近くに祀られなおされたものと思われます。<br />
愛宕神社の左側のすぐ後ろは崖になっていますが、この崖に沿って細い道が下っている痕跡があり、だいぶ竹が生えているために途中からわかりにくくなっているものの、何とか下りられる道があります。<br />
ただし、崩れやすい場所があるため現在は使われてはいません。<br />
拝殿の左側（西側）には少し広い平場があり、墓地からこの平場辺りまでが常泉院の境内地であったと思われ、現在愛宕神社がある場所から少し西南側辺りから愛宕神社がある附近までに、常泉院の本堂があったのではないかと思われるような、少しだけ高くなっている部分があります。</p>

<p>千葉県下総国印旛郡寺院明細帳には</p>

<blockquote>

<p>中本寺吉祥寺末<br />
真言宗智山派　常泉院<br />
一　本尊　大聖不動明王<br />
一　由緒　創立年月不詳往古同町字藤澤臺ニ有之延享年中字愛宕脇エ移轉仮堂壱宇之処去明治十二年一月廿五日焼失仕候<br />
一　本堂　無之<br />
一　境内坪数　百九拾七坪　民有地第壱種<br />
一　境内仏堂　壱宇<br />
大師堂<br />
本尊　弘法大師<br />
由緒　不詳<br />
建物　間口四尺　奥行五尺</p>

</blockquote>

<p>とあり、現在愛宕神社のある場所に延享年中に移転したことが書かれています。</p>

<p>延享年間は１７４８～１７５１年の間、明治十二年は１８７９年。</p>

<p>枠外の上部には「当時ヲ酒々井町本佐倉吉祥寺ヘ合併ノ件宗教局長ヘ照会済（四十三年三月四日庶第九七八号）」とあり、「中本寺吉祥寺末　真言宗智山派　常泉院」のところ上部に朱字で追記があり、「明治四十三年三月十一日付指令酒々井町本佐倉字根古谷本寺吉祥寺ニ合併財産譲与許可　庶第九七八号」、「仝時ニ境内佛堂大師堂ヲ吉祥寺境内佛堂大師堂ニ合併仝年六月十三日付合併済ノ旨届出ツ庶第四〇三三号」とあり、大師堂の本尊の下にも「常泉院ヲ合併ト共ニ吉祥寺境内大師堂ヘ合併許可　仝寺合併ト同時合併届出ツ庶第四、〇三三号」とあります。</p>

<p>明治四十三年は１９１０年。</p>

<p>明治１２年に仮堂が焼失後、大師堂のみが残されていたようで、明治４３年に酒々井町本佐倉字根古谷にある吉祥寺に常泉院が合併された時に、一緒に大師堂も合併、移動をしたとあります。</p>

<p>ということは、現在ある大師堂は、下総へんろ佐倉八十八ヶ所札所にあるように、もとは「本町　満蔵院（廃寺）」にあったものを、常泉院が吉祥寺に合併された後、この場所に移されたと考えられますが、このあたりについてははっきりしていません。<br />
ただ、満蔵院も真言宗のお寺だったので、古くからの大師堂があり、満蔵院が廃寺になってからしばらくは満蔵院の境内跡に残されていて、時期はわかりませんが（愛宕神社の移転と同時の可能性もある）現在の場所に移転したと思われます。</p>

<p>墓地のところまで戻り、切通道の東側の竹藪をよく観察すると、北に傾斜している中央あたりに、平場になっている部分がありますが、このあたりが愛宕神社の社殿のあった旧地と思われ、この東側の竹藪のところが愛宕神社の境内であったところです。<br />
ということは、現在はまったく逆の所の常泉院跡の境内に愛宕神社があるということになりますが、常泉院跡の境内には墓地や大師堂もあり、管理がしやすいためにあえて元の場所に移さず、常泉院跡に移したのではないかと考えられます。<br />
切通道（参道）から常泉院跡入口まで戻りますが、倒木だらけの切通道を戻りたくない場合は、南側の民家横から佐倉道に戻ってください。<br />
その場合は、民家の方に事情説明して逆から愛宕神社にお参りした事を話して、敷地内を通過させてもらってください。</p>

<p>常泉院跡入口の切通道の前の水路のある道は、昔からある古道で、左（西）に坂道を３０メートルほど下ると右に広い空地があり、その向こうに児童公園が見え、逆の崖下の道が右に曲がっていくあたりに小さな池があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　本町　愛宕脇　溜井　池" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/motomachi_tamei_ike.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　本町　愛宕脇　溜井　池。（本町）</p>

<p>かなり小さな池というか水溜りがありますが、ここには現在よりも大きなため池があったものと思われ、雨の日ともなるとかなり水が溜まっていてびっくりすることがあります。<br />
常泉院・愛宕神社の御手洗池とも考えられなくはないですが、このあたりの田畑の灌漑用のため池であったとも思われます。<br />
この池の先１５０メートルほどで満蔵院跡の駐車場にたどり着きます。<br />
池から常泉院跡入口の切通道に戻り、さらに常泉院跡入口からコンビニのところまで戻り、左（東、本町交差点と民家からだと直進）に５０メートルほど進んだ右に電気屋さんがあるので、車に気をつけながら佐倉道を南側に渡ります。</p>

<p>ということで、今回はここまで。</p>

<p>参考文献は、「歴史の道調査報告書　成田街道」、「佐倉市史」、「千葉県下総国印旛郡寺院明細帳」、「千葉県下総国印旛郡神社明細帳」、「千葉県印旛郡誌」、「佐倉市誌資料」、「佐倉の歴史を学ぶ　資料集」、「多輪免喜」、「佐倉風土記」、「佐倉文庫」、「古今佐倉真佐子」、「新佐倉真佐子　－佐倉のお茶の間風土記－」、「ふるさとの石仏」、「佐倉町二十五年誌」、「新道々の記」、「佐倉細見」、「佐倉市史研究」、「佐倉地方文化財」、「房総の郷土史」、「千葉史学」、「大蛇中芝遺跡・大蛇瓜作遺跡」、「下総へんろ佐倉八十八ヶ所札所」より。</p>

<p>引用は各文献と各社寺の説明板、地域の説明板より。</p>

<p>今回の地図は<a href="http://sanpobokko.com/kaido_image/sakuramichi_6.jpg">「佐倉道６」</a>です。</p>

<p>国土地理院２５０００分の１「佐倉」より作成しています。</p>]]>
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    <title>成田街道（佐倉道）その１０６ - Stroll Note</title>
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    <published>2010-06-20T12:22:08Z</published>
    <updated>2010-07-05T13:45:06Z</updated>

    <summary>佐倉道　樹木町入口（千葉県佐倉市本町）から神明神社を経由して本町交差点（千葉県佐倉市本町）まで この...</summary>
    <author>
        <name>nobo</name>
        
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        <category term="街道歩き" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    <category term="佐倉市" label="佐倉市" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
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    <category term="浜宿道" label="浜宿道" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://sanpobokko.com/stroll_note/">
        <![CDATA[<p>佐倉道　樹木町入口（千葉県佐倉市本町）から神明神社を経由して本町交差点（千葉県佐倉市本町）まで</p>

<p>このあたりの図を載せます。</p>

<p><img alt="佐倉本町あたりの図" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/sakura_motomachi_atari_zu.jpg" width="400" height="400" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉本町あたりの図。</p>

<p>樹木町入口から左（東）に２０メートルほどのところ、佐倉道の向こう側（南）に細い道があり、ここを９０メートルほど進むと正面に墓地があり、その墓地の真中あたりに南に向いたお堂があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　大蛇町　自性院前　自性院跡　大師堂" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/motomachi_jishoinato_daishi.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　大蛇町　自性院前　自性院跡　大師堂。（大蛇町、写真は南側から見たところ）</p>

<p>東西に別れて墓地のある、ちょっと見空地のような一画が自性院があったところです。</p>

<p>千葉県下総国印旛郡寺院明細帳には</p>

<blockquote>

<p>吉祥寺末<br />
新義真言宗智山派　自性院<br />
一　本尊　大日如来　一、本堂　間口四間半　奥行三間<br />
&emsp;由緒　文政年中堂宇破壊仕追テ再建迄本尊本寺ヘ移轉安置イタシ候<br />
&emsp;境内坪数　百拾壱坪　官有地第四種<br />
&emsp;境内仏堂　壱宇<br />
大師堂<br />
本尊　弘法大師<br />
由緒　不詳<br />
建物　間口四尺　奥行三尺五寸</p>

</blockquote>

<p>とあり、千葉県印旛郡誌も同様の記述なので省略します。</p>

<p>文政年中は１８１８～１８３０年の間。</p>

<p>文政年中に堂宇が破壊とあるのは、大風雨（おそらく台風のことと思われる）で倒壊したことであると思われ、その後、本尊が酒々井にある吉祥寺に移り、そのまま堂宇の再建なく自性院は廃寺になったようです。</p>

<p>自性院跡の墓地入口の右側おくには、真新しい墓碑を含む一画があり、その左（東）の墓地入口前辺りには、無縁墓と石仏などが２３基あるところがあり、南側正面に大きな地蔵像（延命地蔵で、万霊塔とおもわれる）があり、右側４列目の右から２つ目に地蔵塔がありますが、この地蔵塔はふるさとの石仏によると墓地の入口にあったもので「像の向って右側に□造立資格□□□□□、左側に寛文八戊申（一八六八）霜月五日と刻んである。」とあり、いつ頃から現在のようにまとめられてここにあるのかはわかっていません。<br />
その他の大半は墓碑で、中には宝篋印塔の一部なども混じっています。<br />
この無縁墓群の左（西）に大師堂があり、その左（西）にもう一つの墓地の一角があります。</p>

<p>この自性院跡を歩いてみると、所々に礎石らしい石片があり、大破したあとはそのまま放置されていたのではないかと、思われるような感じがなんとなくですがしてきます。</p>

<p>自性院の境内は、この一角のほか、先ほど歩いてきた佐倉道からと、自性院跡の幅と同じ範囲がそうであり、北側の住宅地のほとんどと、自性院跡の南側の工場のあるところも境内であったと思われます。<br />
堂宇はどのあたりにあったのかははっきりしていませんが、無縁墓群の少し南側の工場との境当りに、少し石片があるあたりが堂宇のあったところではないかと推測していますが、あくまでもnoboの推測で確証はありません。</p>

<p>自性院跡の東側に道があり、この道を南に進むとＴ字路があり、このＴ字路の東西に進んでいる道は先に訪ねた妙見神社手前の勝田道で、このまま東に進むとヤマト運輸の宅急便センターの横から大通り（バス通り・高岡道）に接続します。<br />
この勝田道は、浜宿道を交差して東側の細い道に続いていましたが、この細道は途中で消滅していて、現在は勝田道をそのままたどることは出来なくなっています。</p>]]>
        <![CDATA[<p>自性院跡から佐倉道に戻り右（東、樹木町入口からだと直進）に９０メートルほどの右側に冠木門のある建物があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　本町　南側　佐倉順天堂" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/motomachi_juntendokinenkan.jpg" width="350" height="263" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　本町　南側　佐倉順天堂。（本町）</p>

<p>冠木門を入ったすぐ正面の建物が佐倉順天堂で、記念館のパンフレットには</p>

<blockquote>

<p>「順天堂」は、天保１４年（１８４３）に蘭医・佐藤泰然が、蘭医塾兼外科の診療所として創設したものです。現在の記念館の建物は安政５年（１８５８）に建てられたもので、昭和５０年（１９７５）に千葉県指定史跡に指定され、整備後の昭和６０年（１９８５）からは佐倉順天堂記念館として公開されました。<br />
当記念館では由緒ある順天堂の建物を保存するとともにその事蹟を後世に伝えるため、佐倉順天堂関係の資料を展示公開しています。</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>佐倉順天堂について、歴史の道調査報告書には</p>

<blockquote>

<p>順天堂は天保十四年、蘭医佐藤泰然によって開設され、治療のかたわら専ら蘭書によって西洋医学の本質を知らせることを方針として医学生の教育に当たり、慶応元年には諸藩からの医学生は一〇〇人を超え、森鴎外の父もここに学んだ。ここで用いられた県指定「ハルマ和解」等多数の書籍は県立佐倉高校に保存されている。</p>

</blockquote>

<p>とあり、森鴎外のお父さんが佐倉順天堂で学んでいたことが書かれています。<br />
森鴎外についてよくご存知の方であれば、森鴎外のお父さんが医者であったことは知っていると思いますが、佐倉順天堂で学んでいたことまではご存知ではないのではないでしょうか。</p>

<p>天保十四年は１８４３年、慶応元年は１８６５年。</p>

<p>佐倉市歴史の資料の中に、『蘭方外科医院兼蘭学塾「順天（天道に従うの意）堂」は、長崎で蘭学を修めた後、天保９年に江戸の薬研堀で開業していた、蘭医佐藤泰然（１８０４～１８７２）が、天保１４年（１８４３）に、佐倉に移住して創建した。』とあり、現在の東京都中央区東日本橋２丁目にある、薬研堀不動院のある場所に和田塾を開いたのが始まりで、このころ佐藤泰然は和田泰然（母の実家の氏）と名乗っていたので「和田塾（蘭学塾）」としたようで、その後、佐倉に順天堂を開いたときに佐藤と改名（元に戻した）し、以後佐藤泰然と名乗ったようです。</p>

<p>少しわかりにくいところですが、父は佐藤藤佐、母は田邊ふぢなので、現在の考え方ではこのときに「佐藤」と名乗るはずなのですが、幼少時代には「田邊昇太郎（泰然）」と名乗り、十九歳で結婚（はじめの結婚）した時に「田邊庄右衛門（信圭、泰然）」と名乗っていて、「蘭醫佐藤泰然」の中にも「昇太郎が何故に藤佐の嘗ての養家先の姓名である田邊庄右衛門を名乗ったかに就てはその理由が明かでない。」とあり、「田邊」を名乗っていたことについては良くわかっていないのですが、その後長崎に遊学することになった時、伊奈家の用人であったので、伊奈家を致仕隠居する形をとったので、姓名を母方の姓をとって「和田泰然」としたようです。<br />
母ふぢは結婚前は「田邊ふぢ」と名乗っていましたが、これは佐藤藤佐と結婚する前に田邊庄右衛門（泰然ではなく、泰然の祖父に当る人物）の養女となったためで、養女になるまえは秩父和田氏の娘でした。<br />
長崎遊学の時に、母方の実の姓を名乗って「和田泰然」とし、長崎遊学後は先に書いたとおりで、順天堂を創設した時に父の姓である「佐藤」に復帰したわけです。</p>

<p>天保９年は１８３８年。</p>

<p>はじめ佐倉順天堂は、現在の場所の佐倉道をへだてた向側（北側）、佐倉順天堂記念館の冠木門の正面から西に１２メートルほどの所までの所に南北に細長くあり、安政５年に現在の場所に移転をしています。<br />
初期のころについて佐倉地方文化には</p>

<blockquote>

<p>本町にわが国私立病院の元祖である順天堂が出来たのは天保十四年（一八四三）頃である。当時は驚異的な存在であったろう。蘭医佐藤泰然は城主堀田正睦に聘せられ、江戸薬研堀（開業中）より佐倉に移り、同十四年八月ひとまず家老渡辺弥一兵衛宅にて入りやがて本町（北側）の旧那須家跡に病院を開き、順天堂と称し治療に当った。安政六年（一八五九）向い南側の今の地域に新築して移った。</p>

</blockquote>

<p>とあり、佐倉順天堂は、佐藤泰然・佐藤尚中（山口舜海）・佐藤舜海（岡本道庵）・佐藤恒二と続き、昭和２６年に閉鎖しますが、昭和５０年に千葉県指定文化財史跡となり、昭和５９年に修理復元が完了して現在に至っています。</p>

<p>安政５年は１８５８年、昭和２６年は１９５１年、昭和５０年は１９７５年、昭和５９年は１９８４年。</p>

<p>佐倉順天堂記念館の中には、当時の手術道具や顕微鏡、順天堂に関係した人々の経歴、順天堂で使われていた書物の一部が公開されています。</p>

<p>佐倉順天堂記念館の西隣の白い建物は順天堂医院で、現在はここで診療がおこなわれています。<br />
順天堂記念館の見学は有料（入館料一般１００円［２０１０年時点］）ですが、当時の医院の雰囲気を楽しむのと、ちょっと一休みにはいいですよ。</p>

<p>佐倉順天堂から右（東）に１０メートルほどで本町交差点があり、妙見神社から本町交差点までの街道沿いを通称上宿と呼んでいて、本町交差点の北西側、佐倉順天堂の前の元順天堂のあった辺りに江戸時代には高札があり、ここが本町の中心であった事がわかります。</p>

<p>本町（もとまち）について佐倉地方文化財には</p>

<blockquote>

<p>本町（もとまち）が一村として成立した年代は判然しないが、幕末頃刊行された『成田所図会』（一名「成田参詣記」安政五年三月刻成。新勝精舎蔵版）に依れば「佐倉の本町は元鹿島宿と云、千葉家本佐倉に治城のをり、ふりだしの宿（しゅく）なり、今猶継場（つぎば）は此宿にてつとむと云」と見えている。即ち、佐倉は酒々井の方から発展して来たので、酒々井に近い方を本町というのであろう。</p>

</blockquote>

<p>とあり、千葉県印旛郡誌の佐倉町誌にある郷土の各説のなかには、本町についての記述がありませんが、佐倉地方文化財には</p>

<blockquote>

<p>『印旛郡誌』（後編）の「酒々井町誌」の「沿革誌」には「是より先本町は元村と称せしを、天正十九年幕府の令に依り町（酒々井町）を新設して之を佐倉六町の一に編せられ乃佐倉酒々井町（現酒々井町のこと）と冠称（「佐倉」とつけたこと）して王政維新の際に及べリ」云々と見え、本町は元村と称せられたものであろう。</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>天正十九年は１５９１年。</p>

<p>佐倉地方文化のなかの千葉県印旛郡誌の記述の部分「天正十九年幕府の令に依り」とあるところの「幕府」とは、江戸幕府（徳川幕府）のことを指しているものと思われますが、江戸幕府（徳川幕府）が成立するのは慶長８年（１６０３）であり、天正１９年はまだ関が原の戦い（慶長５年［１６００］）がおこなわれていない年であるので、「幕府」といわれるものは存在していない時期で、これは徳川家康が関東に移封して領国経営を促進している時期であるので、「幕府」というのは間違いであると思われますが、千葉県印旛郡誌を編纂する上で便宜上「幕府」としたものと思われます。<br />
ちなみに天正１９年の前年の天正１８年には小田原の北条征伐と奥州征伐、次の年の天正２０年には第一次朝鮮出兵（文禄の役）で、豊臣秀吉はまだ健在であったころです。</p>

<p>天正１８年は１５９０年、天正２０年は文禄元年でもあり１５９２年。</p>

<p>さらに千葉県印旛郡には</p>

<blockquote>

<p>天正十九年千葉氏の遺臣鹿島宿 [今の佐倉本町] に在る者莇隼人、莇善左衛門、嶋田新右衛門、小高三右右門、深山勘解由、深山長左衛門、中台治左衛門、鶴岡新右衛門、大谷源左衛門、渡利権左衛門、莇六左衛門の十一人酒々井町に來住し人戸増殖民業従て繁盛せり...</p>

</blockquote>

<p>とあり、鹿島宿（佐倉本町）にいた千葉家の遺臣を酒々井町に移住させたことが書かれています。</p>

<p>房総の郷土史の「戦国時代佐倉の鹿島宿」には</p>

<blockquote>

<p>近世初期に大蛇村（佐倉市大蛇町）の地を割いて、東西に帯状に形成された町が、すなわち、佐倉本町である。そして、中央には国道二九六号線（旧成田街道）が東西に往還していて、この道路の北側が「本町北側」、南側が「本町南側」という小字名である。一方、西側から東側へと「上宿」「中宿」「下宿」と町割されているので、結果としてこれら町割のすべてが、本町北側と本町南側の小字地名を含んでいる。ここで注目したいのは、本町北側に地を接してその北側に「大蛇町字蛭田宿」、本町南側に地を接して「大蛇町字高岡宿」という小字地名があり、蛭田宿と高岡宿を貫く古道は、北上すると印旛沼縁の浜宿河岸（佐倉市大佐倉字浜宿）、南下すると上総国東金への道、換言すれば、浜宿河岸－浜宿道－蛭田宿－佐倉本町－高岡宿－五良道－勝田道、この延長が東金となっている点である。浜宿河岸は、十五世紀後半から十六世紀の機能が考えられる佐倉城との関係において、この当時には「浜宿湊」として、水運の基地であった場所である。</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>地図で見てみると、本町はちょうど南北にある大蛇町の中間点に東西に細長くあることがわかり、そのため大蛇町は不思議な状態で南北に分かれています。<br />
本町の南北にある「蛭田宿」「高岡宿」について、房総の郷土史の「戦国時代佐倉の鹿島宿」には</p>

<blockquote>

<p>蛭田宿という小字地名は、北側の隣接地大蛇町字石橋台六二七番地に所在していた「蛭子大神」（祭神大国主命・須勢理毘売命）に因んだ地名とみられる。また、高岡宿という小字地名は、この地が古くは高岡と呼ばれていたことを物語るものと考えられ、南方に高岡村（佐倉市高岡）の集落かが展開する。</p>

</blockquote>

<p>とあり、さらに鹿島宿に関して</p>

<blockquote>

<p>さらに、佐倉本町の北方に近接して「鹿島台」の小字地名がある。現在の佐倉市立佐倉東小学校付近一帯の地名である。この地名から、かつてこの周辺には、鹿島信仰に基いて勧請された鹿島社が存在していたことが知られる。ゆえに、このような点から判断すると、蛭田宿、高岡宿は、戦国時代として時期は限定し得ないが、中世の宿場の名残とみることはできそうである。すなわち、佐倉本町が鹿島宿であった可能性は極めて高い物と考える。</p>

</blockquote>

<p>とあり、検討のおわりに</p>

<blockquote>

<p>実証性には欠けるものの、結論として述べると、鹿島宿は、佐倉城外郭部の、さらにその外側に形成された宿駅であったと考えたい。そして、浜宿湊へと荷揚げされた物資の一端鹿島宿へあげ、ここで再編成して継ぎ立てるといった機能を中心としたのではあるまいか。これは、当時の状況としては、浜宿湊から台地への主要道は、現在の佐倉本町への道（浜宿道）が唯一であることからの推測である。</p>

<p>...中略...</p>

<p>しかし、この鹿島宿（佐倉市大蛇町・本町）も、天正十九年中には廃されて、谷津田を越えた東方に新たに佐倉宿（酒々井町上本佐倉）が整備されたのであろう。また、近世を通して機能した酒々井宿（酒々井町酒々井）は、佐倉宿が発達したものとみられるが、中心が北方へと移動したことにより、初期の佐倉宿は姿を消していったものと推測される。なお、浜宿（佐倉市大佐倉）河岸に加えて、新たに新堀（酒々井町酒々井）河岸が造られたのは慶長年間のことと伝えられるが、これは酒々井宿の整備に関連してのことと考えられる。</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>慶長年間は１５９６～１６１５年の間。</p>

<p>おわりにある「当時の状況」とは、中世（戦国時代）の千葉氏が本佐倉城に居た時期のことで、徳川家康が関東に移封になる前までのこと。<br />
天正十九年は１５９１年で、この年にはまだ現在の佐倉城（土井利勝の築城した）はなく、本佐倉城が健在であり、この本佐倉城のあるあたりを「佐倉」と中世以前からいっていたわけで、城の名前はその土地の地名を戴いて称するのが普通なので、そうすると当時本佐倉城は「佐倉城」と呼ばれていたと思われます。<br />
ただし、本佐倉城のある辺りを「将門山」と呼んでいるので「将門山城」と呼ばれていたり、記述されていたりしているので、文献や当時の書状などでは「佐倉城」だったり「将門山城」であったりします。<br />
さらに、土井利勝が現在の佐倉城を築城する以前は「鹿島城」と呼んでいたことは佐倉城址公園を訪れた時に触れましたが、この「鹿島城」と「鹿島宿」との間には関連性はないと思われます。<br />
とにかく現在の「佐倉本町」の前身である「鹿島宿」は、中世の「佐倉城」の城下町としての西端にあたる、もしくは、城域の西端にあたる場所で、しかも主要街道の交差する重要ポイントであったことは確かなようです。</p>

<p>本町交差点の北西側、ちょうど佐倉順天堂の最初に建てられた場所である旧那須家跡の辺りには高札があったことが、総州佐倉御城府内之図に描かれていますが、やはりここが重要な街道の交差地点になることから建てられたと思われますが、その高札があった辺りにはなにも痕跡がないので、絵図や文献などを読んでみないと通り過ぎてしまいます。</p>

<p>ほかに、歴史の道調査報告書によると</p>

<blockquote>

<p>附近には三川屋・和国屋外数軒の旅篭があったと伝えられている。小林一茶は文化三年正月「二五日晴、月船と同行...瀬戸村より土浮村へ渡る。布川より五里也。佐倉本町三河屋宇兵衛に泊」と記している。</p>

</blockquote>

<p>とあり、本町には何軒かの旅籠があったことが記述されています。</p>

<p>本町交差点を左（北）に曲がり、９０メートルほどで信号があり、大通りは左にカーブしていきますが、北に直進する細い道が浜宿道（旧道、かなり交通量があるので注意）で、細い道を９０メートルほど進むと十字路があり、ここを右（東）に曲がり８０メートルほどのところに鳥居があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　大蛇町　石橋台　神明神社　鳥居" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/motomachi_jinmijinja_irigut.jpg" width="263" height="350" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　大蛇町　石橋台　神明神社　鳥居。（大蛇町）</p>

<p>鳥居の手前にＴ字路がありますが、道路を境に西側が本町字蛭田宿、東側が大蛇町字石橋台になります。</p>

<p><ins datetime="2010-06-27T20:50:14+09:00">[2010-06-27 追記と訂正]　佐倉本町あたりの図にある鳥居の位置がだいぶ西側になっていたので修正したのと、神明社の鳥居の写真を追加しました。それに伴い、鳥居までの距離と、鳥居から本町青年館の距離の修正、本町青年館への方向を訂正しました。</ins></p>

<p>鳥居から４０メートルほど進むと左に本町青年館があり、本町青年館の右（東）に一段高くなった壇のところに石造物群があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　大蛇町　石橋台　神明神社　石造物群（本町青年館横）" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/oojamachi_jinmaijinja_sekiz.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　大蛇町　石橋台　神明神社　石造物群（本町青年館横）。（大蛇町）</p>

<p>配置図を載せます。</p>

<p><img alt="神明社横石造物群配置図" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/jinmeijinja_sezobutu_haiti.jpg" width="400" height="311" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>神明社横石造物群配置図。（平成２２年［２０１０］時点）</p>

<p>石片を含むと２４基になりますが、判別できるものだけであれば１７基の石造物があります。<br />
番号順にいくと、①は正面に「稲荷大明神」とある稲荷神社の石祠、②は不明の石祠、③、④は墓碑、⑤は卵塔（墓碑）、⑥は墓碑、⑦は不明の石祠で左面に「金子」とあり、⑧は上部が欠損し、下部が埋没していて正面の右に「（上部欠損）□不可行者（下部埋没）」、正面に「（上部欠損）十六部□（下部埋没）」、正面の左に「（上部欠損）□年九月（下部埋没）」とあり、六十六部供養塔（廻国塔）であるとおもわれ、⑨は卵塔（墓碑）、⑩は墓碑、⑪は記念碑（建立記念碑か？）とおもわれ、正面に「萬屋傳五兵衛　三川屋夘兵衛　村田屋喜兵衛　板　倉宗　碩（？）　■■（材木？）屋久兵衛」、右側面に「文化五戊辰年五月吉日」とあり、⑫の正面真中には結跏趺坐をし智拳印（おそらく）を結んでいる大日如来像と思われる石仏、正面の右は欠損していて文字の判読は出来ず、正面の左には「延享■（二）乙丑年八月吉日」とあり、⑬は墓碑で、⑭の正面真中には智拳印（おそらく）を結んでいるので大日如来像と思われる石仏、正面の右には「寛文十二壬子暦三月十六日　（梵字でキリークか？）■（法？）大僧□法■（定？）□□□■（二？）■（尼？）」、正面の左に「（梵字でキリークか？）■（拖？）■（穣？）■（歸か栁？）■（綬か授？）■（圓？）■（月？）■（上？）　■（遁？）□　■■（参道？）□　■（龍？）□　□□神□□　□■（元？）　■■（垂負？）　■（宗？）■（齋か春？）　■（清？）□」とあり、⑮は如意輪塔で正面の真中に如意輪観音像、正面の左に「元文五庚申二月日本町　同行　大蛇村　上代村　六十人」とあり、⑯の正面真中には阿弥陀如来と思われる石仏、納衣の左側袖のところに「明王寺念佛衆」、正面の右に「延寶貳■（年？）　棯翁宗全居士　■（王か玉？）■（隻？）□■（徳？）■（心か大？）■（女か姉？）　このほかに人名多数（僧侶の名か？）」、正面の左に「■（二か心？）月静■（歸？）禅定門　昂翁貞■（心？）信女　寅三月■（吉）日　本町念佛　このほか人名多数」とあり、⑰は墓碑、ⅠからⅦまでは石片でⅢからⅤまでのどれかが⑧の六十六部供養塔（廻国塔）の一部ではないかと思われます。</p>

<p>文化五年は１８０８年、延享二年は１７４５年、寛文十年は１６７０年、元文五年は１７４０年、延寶貳年（延宝二年）は１６７４年。<br />
□は判読できない文字で、■は判読しづらい文字で（）は入るであろう文字です。</p>

<p>⑫、⑭、⑯についてふるさとの石仏では、⑫を「阿弥陀如来の脇侍のいずれかか一方かと思われる。」とし、⑭を「その姿から、阿弥陀如来の脇侍の観世音菩薩か勢至菩薩のいずれかと思われるる」とし、⑯を阿弥陀如来としているので「以上の判断が正しければ、上記三体の石仏を合わせると、一組の阿弥陀三尊仏ということになる。」と記述しています。<br />
この考えが正しければ、阿弥陀三尊仏ということになると思われますが、どうも⑫、⑭の石仏の像容は大日如来のように思われる形をしていますが、手の組みようが「智拳印」か「持宝珠印」であるかによって違ってくると思われますが、掌を乗せているのであれば「持宝珠印」、上下に組んだ形ならば「智拳印」といえますが、⑫は上下に組んでいるようなので「智拳印」と思われ、これは大日如来の様相を示していますが、⑭のほうは乗せているようにも見えるので、ふるさとの石仏にあるように勢至菩薩である可能性があります。<br />
頭にある宝冠か宝髻であるかによって違ってくるわけで、どちらかというと宝髻に見えるので大日如来ではないかと考えたわけですが、宝冠であればふるさとの石仏のいうとおり阿弥陀如来の脇侍ということになります。</p>

<p>⑪の記念碑（建立記念碑）にある「三川屋夘兵衛」という人物は、歴史の道調査報告書にあった「佐倉本町三河屋宇兵衛に泊」とある「三河屋宇兵衛」のことであると思われ、「三川屋夘兵衛」と「三河屋宇兵衛」は同一人物であることは確実と思われるのは、小林一茶の記述した年が「文化三年」であり、記念碑（建立記念碑）にある年が「文化五年」でほぼ同時期であることからです。</p>

<p>石造物群のすぐ右側に森のようになったところ、神明神社への入口があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　大蛇町　石橋台　神明神社入口" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/oojamachi_jinmaijinja_irigu.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　大蛇町　石橋台　神明神社入口。（大蛇町）</p>

<p>入口を少し入った右に大きな常夜燈があり、常夜燈の入口から見て中ほど正面に「常夜燈」、中ほど左側面に「願主　當町　三川屋邦太郎」とあります。<br />
歴史の道調査報告書によれば「文化五年寄進の」とありますが、常夜燈には年号が見当たりませんでした。<br />
こちらが見落としたか、剥離して文字が消えてしまっていたのかは定かではありませんが、神明神社の過去帳などに記述があるかして、寄進した年がわかっているものと思われます。</p>

<p>文化五年は１８０８年で、石造物群にあった記念碑（建立記念碑）と同じ年なので、「三川屋夘兵衛」と「三川屋邦太郎」（親子であるかまたは兄弟であるかは調べていませんが、三川屋の人であることは確か）両人が記念碑（建立記念碑）と常夜燈を一緒に寄進したと思われ、⑪の記念碑のところでも触れましたが歴史の道調査報告書にも、「一茶のいう三河屋宇兵衛は恐らくこの三川屋夘兵衛で、邦太郎はその一族であろう。」と記述しています。</p>

<p>常夜燈の右側の、神明神社入口の右の鎖があるところの右側に小さな石祠があり、これは道祖神で正面に「道祖神」、右側面に「文政七甲申八月吉■（日）」、左側面には「平山与兵衛」とあります。</p>

<p>文政七年は１８２４年、■は判読しづらい文字で（）は入るであろう文字です。</p>

<p>常夜燈に戻り、石敷きの参道を１５メートルほど進んだ右側に大木があり、その大木の前に卵塔と庚申塔があります。<br />
右側が卵塔（墓碑）で、正面に「（梵字）定■（辨か？）律師■（不？）□□」、右側面に「享保十五庚戌年」、左側面に「十二月初■（三？）■（日？）」とあり、左側の庚申塔の正面には青面金剛像、その下に邪鬼と三猿、右側面に「元文三戊午天　本町　金子□□□　□□□□□　（４名の人名）」、左側面に「三月吉日　（５名の人名）」とあります。</p>

<p>享保十五年は１７３０年、元文三年は１７３８年、□は判読できない文字、■は判読しづらい文字で（）は入るであろう文字です。</p>

<p>卵塔と庚申塔のある場所の逆側に、少し小高くなっている場所があり、階段を上ると小堂（小祠）があります。<br />
この小堂（小祠）は合祀社で、右側のほうには石祠があり、石祠の正面に「蛭子大明神」とあり、左側のほうには版木（お札を刷るためのものと思われる）があり、「（上部木箱に入っているため判読できず）大明神守護（願か？）攸」と左右逆に書かれています。</p>

<p><ins datetime="2010-07-05T22:39:07+09:00">[2010-07-05 追記]　蛭子神社の石祠には「蛭子大明神」のほかに、『「享和四年　御奉射講中」の刻字がみえる』と佐倉市史にあります。享和四年は文化元年でもあり１８０１年。</ins></p>

<p>階段を下りて、すぐ左の大木の下には子安塔があり、正面に子安観音（慈母観音）像、正面の右に「享和元辛酉十一月吉日」とあります。</p>

<p>享和元年は１８０１年。</p>

<p>子安塔から参道に戻り進むと、すぐに一対の燈籠（常夜燈）があり、その先左に手水舎、参道はやや左に曲がって進み曲がり終わったあたりに一対の燈籠（常夜燈）、その先に階段があり、一段高くなったところに拝殿があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　大蛇町　石橋台　神明神社" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/oojamachi_jinmaijinja.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　大蛇町　石橋台　神明神社。（大蛇町）</p>

<p>千葉県下総国印旛郡神社明細帳には</p>

<blockquote>

<p>村社<br />
神明大神社<br />
一　祭神　天照大御神　賀義建角命　猿田彦命<br />
一　由緒　不詳<br />
一　社殿間数　方壱間貳尺<br />
一　拝殿間数　間口貳間　奥行五間壱尺<br />
一　境内坪数　五百廿五坪　官有地第一種</p>

</blockquote>

<p>とあり、千葉県印旛郡誌には</p>

<blockquote>

<p>大蛇村字石橋臺にあり天照大御神賀茂建角命猿田彦命を祭る由緒不詳なれども明治四十二年五月七日許可を得て本町愛宕脇にありし無格社愛宕神社仝所字高岡宿にありし無格社道祖神社を本社に合祀す社殿間口一間二尺奥行一間二尺拜殿間口二間奥行五間一尺なして境内五百二十五坪 [官有地第一種] あり</p>

<p>以下省略</p>

</blockquote>

<p>とあり、千葉県神社名鑑には</p>

<blockquote>

<p>神明大神社</p>

<p>祭神　天照大御神（あまてらすおおみかみ）<br />
例祭日　一〇月一五日<br />
主用建物　本殿・銅板葺流造一・五坪、拝殿・瓦葺切妻造一〇坪<br />
境内坪数　九四四坪<br />
氏子　四五〇戸　宮司　＊＊＊＊<br />
神事と芸能　江戸時代、当社祭礼に「都久舞」のおこなわれたことが『佐倉風土記』や『佐倉真佐子』に見える。今は伝えない。</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>千葉県下総国印旛郡神社明細帳の村社の上に朱字で書き込みがあり、ここには「四十一年十一月十五日付願佐倉町本町愛宕神社仝所道祖神社ヲ合祀シ財産譲与許可、土第二、六三五号、四十二年五月七日指令　四十二年五月十五日合祀済ノ旨仝十六日付届出ツ　庶第四、四八七号受理」とあり、明治４１年１１月に合祀の許可を申請して、明治４２年５月に合祀済みであることを受理されたとあります。<br />
さらに由緒の下の部分にも「四十二年五月七日許可佐倉町内本町字愛宕脇愛宕神社、仝所字髙岡宿道祖神社ヲ合祀ス」とあります。<br />
千葉県印旛郡誌は、この記述をもとにしているものと思われます。</p>

<p>明治４１年は１９０８年、明治４２年は１９０９年。</p>

<p>ところが、千葉県神社名鑑（昭和６２年［１９８７］発行）には合祀社についての記述はなく、祭神も天照大御神のみになっています。</p>

<p>高岡宿にあったと思われる道祖神社は、神明神社入口の右側にあった「道祖神」の石祠がそうであると思われますが、神社の入口に置かれているというのはどうしたものでしょうか。<br />
そして、合祀されているはずの愛宕神社が見当たらずに、蛭子神社が小堂（小祠）に祀られていますが、この蛭子神社は蛭田宿の名の由来になった蛭子神社と思われますが、房総の郷土史の注釈に「明治四十二年四月に、大蛇町字麻賀多脇の麻賀多神社に合祀された。」とあり、この記述どおりとすると、この蛭子神社はどこから来たものなのでしょか。<br />
もしかすると、神明神社の合祀した神社と大蛇町の麻賀多神社に合祀された神社の記述が間違っていたのか、それとも、明細帳に記述がないだけで、その後に合祀した神社を移動した可能性も考えられます。<br />
蛭子神社に関していえば、わざわざ遠くの麻賀多神社に合祀するよりは、同じ石橋台にある神明神社に合祀したほうが合理的であり、地域の関連からしても自然だと思います。</p>

<p>拝殿の後ろには本殿があり、本殿の左（西）には神輿を入れる神輿倉（小堂）と、古いお札を入れる小堂があります。</p>

<p>神明神社の境内の広さについてですが、千葉県神社名鑑では９４４坪としていますが、訪ねた感じではそこまで広いとは思われません。<br />
千葉県下総国神社明細帳と千葉県印旛郡誌にある５２５坪ほどと思われますが、どこまでが神社の境内地としてあるのか、その辺りが神社名鑑に書かれていないのではっきりしません。</p>

<p>神明神社入口の石造物群と参道に墓碑がありますが、ふつう神社には墓碑を建てることは希で、これだの数があるということは、すぐ近くにお寺があったということが考えられ、そのことについて佐倉市誌資料の明神大神社のところに「文化二年に当時の役所へ差出した絵図面の下書きが残つて居るがそれを見ると境内の右方に万蔵院といふ別当寺があったことがわかる。」とあり、神明神社の右側（南側）に万蔵寺（満蔵寺）という寺があったということが書かれています。</p>

<p>文化二年は１８０５年。</p>

<p>少なくとも文化年間（１８０４～１８１８年）にはこの満蔵寺は存在していたようですが、いつ頃廃寺になったのかはわかっていません。</p>

<p>「文化二年に当時の役所へ差出した絵図面の下書きが残つて居る」とある絵図ですが、大蛇中芝遺跡・大蛇瓜作遺跡の調査報告書の中に、その絵図の複写したものが載せられており、その絵図を見ると先ほど説明した駐車場あたりの場所に「万蔵院」と記述があります。<br />
さらに、石造物がある辺りの後（北側）、現在住宅や本町青年館がある辺り一帯に「妙正寺」という寺の「地所」があり、この「地所」というのは、「妙正寺」が所有している土地のことをいいますが、ここは恐らく「妙正寺」の「年貢地」ではないかと思われます。<br />
妙正寺については、佐倉市史の民俗編にある大蛇についてのところに妙正寺は載せられておらず、中世の寺院の所にも記述がないので、この「妙正寺」という名が正しいものかははっきりしていませんが、「妙正」としているところをみると日蓮宗の寺院の地所があったのではないかと思われますが、絵図以外に「妙正寺」について語るものがないのではっきりしたことがわかっていません。</p>

<p>神明神社の入口から左（南、石造物群からだと右）に１００メートルほどいった坂道の一番したあたりに十字路があり、十字路の左（東）に細い道がありますが、細道を少し行った左側の一段高いところ（細道は下っていく）に広い駐車場があり、この辺りがちょうど神明神社の右側に当たり、満蔵寺があったところではないかと推測されます。</p>

<p><img alt="佐倉町　大蛇町　石橋台　満蔵院跡（推定地）　駐車場" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/oojamachi_manzoinato.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　大蛇町　石橋台　満蔵院跡（推定地）　駐車場。</p>

<p><ins datetime="2010-06-29T20:32:24+09:00">[2010-06-29 追記]　満蔵院跡の推定地である駐車場の写真を追加しました。</ins></p>

<p>この駐車場と神明神社の境内を合わせると、ちょうど９００坪は超える広さとなり、この駐車場が神明神社の所有地であるかは確認していませんが、もし所有地であれば千葉県神社名鑑の記述は正しいことになります。<br />
満蔵寺が廃寺になった後、その土地の管理を神明神社がおこなっていたのであれば、納得のいくところであり、石造物群と境内に墓碑があることも納得がいきます。</p>

<p>神明神社は「村社」となっていますが、大蛇町（村）の村社は麻賀多神社であり、そうすると神明神社はどこの村社かということについて、新佐倉真佐子に「ここは大蛇村石橋台であるが本町の鎮守様で氏子は百数十戸である。」とあり、佐倉市誌資料にも「本町区民の産土神である。」とあり、本町の村社であることが記述されています。</p>

<p>さらに新佐倉真佐子には</p>

<blockquote>

<p>神明神社の創祀は不詳であるが、建治年間（一二七五年頃）らしく、本殿は寛永十九年の頃佐倉城主堀田正盛の建立、祭神は天照大神、賀茂建角命、猿田彦命であるが、明治四十二年本町愛宕脇にあった愛宕神社及び高岡宿の道祖神を合祀された。本殿内に享保八年（一七二三年）と記載された木札があったので、終戦時マッカーサー司令部から神社としての認可が与えられた。</p>

</blockquote>

<p>とあり、この記述によれば堀田正盛が本殿を建立したとあるところを見ると、この辺りから本町の鎮守として崇敬されたのではないかと思われます。</p>

<p>千葉県神社名鑑にある「都久舞」について、佐倉風土記の神明社のところには「城東本町ノ北ニ在、秋八月二十日之ヲ祭ル、街頭高幢ヲ植テ、一人縁欅ソ而上リ、態度ヲ戯竭ス、都久舞ト、之ヲ俗謂」というところから、「柱状の高い所に登って曲芸をする」舞のことのようですが、この「都久舞」は現在では伝承されておらず、神明神社の例祭で見ることは出来なくなってしまいました。</p>

<p>神明神社から鳥居のある十字路に戻り、右（北、本町交差点からだと直進）１１０メートルほどいったところにＹ字路がありますが、このＹ字路の北側あたりに蛭田宿の名の由来となった「蛭子神社」がありました。<br />
今は宅地化が進んでその痕跡など全く残っていませんが、先ほど出てきた「文化二年に当時の役所へ差出した絵図面」には「蛭子宮」と記載があり、古くからあったことが絵図からわかります。<br />
この蛭子神社は、大蛇村の村社である麻賀多神社に合祀されたことになっていますが、神明神社にも蛭子神社が合祀されいるのはどういうことでしょうか。<br />
この蛭子神社は神明神社に合祀されているものがそうであり、佐倉本町の中に含まれている「蛭田宿」の人々の尊崇を受けていた神社であった以上、本町の村社である神明神社に合祀されるのが最も自然なことであるはずですが、このあたり少々混乱があるものと思われ、明治時代の神社明細帳の編纂時に混同があったのではないかと思われます。</p>

<p>蛭田神社跡から本町交差点へ戻り、佐倉道を進んでいきます。</p>

<p>ということで、今回はここまで。</p>

<p>参考文献は、「歴史の道調査報告書　成田街道」、「佐倉市史」、「千葉県下総国印旛郡寺院明細帳」、「千葉県下総国印旛郡神社明細帳」、「千葉県印旛郡誌」、「千葉県神社名鑑」、「佐倉市誌資料」、「佐倉の歴史を学ぶ　資料集」、「多輪免喜」、「佐倉風土記」、「佐倉文庫」、「古今佐倉真佐子」、「新佐倉真佐子　－佐倉のお茶の間風土記－」、「総州佐倉御城府内之図」、「ふるさとの石仏」、「佐倉町二十五年誌」、「新道々の記」、「佐倉細見」、｢佐倉さんぽ　散策マップ（佐倉市観光協会発行）」、「佐倉市史研究」、「佐倉地方文化財」、「房総の郷土史」、「千葉史学」、「大蛇中芝遺跡・大蛇瓜作遺跡」より。</p>

<p>引用は各文献と各社寺の説明板、地域の説明板より。</p>

<p>今回の地図は<a href="http://sanpobokko.com/kaido_image/sakuramichi_6.jpg">「佐倉道６」</a>です。</p>

<p>国土地理院２５０００分の１「佐倉」より作成しています。</p>]]>
    </content>
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<entry>
    <title>成田街道（佐倉道）その１０５ - Stroll Note</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://sanpobokko.com/stroll_note/2010/06/post-117.php" />
    <id>tag:sanpobokko.com,2010:/stroll_note//5.527</id>

    <published>2010-06-03T12:48:34Z</published>
    <updated>2010-06-03T12:48:34Z</updated>

    <summary>佐倉道　土井酒店のある十字路（千葉県佐倉市弥勒町）から樹木町入口（千葉県佐倉市本町）まで 土井酒店の...</summary>
    <author>
        <name>nobo</name>
        
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        <category term="街道歩き" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    <category term="佐倉市" label="佐倉市" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://sanpobokko.com/stroll_note/">
        <![CDATA[<p>佐倉道　土井酒店のある十字路（千葉県佐倉市弥勒町）から樹木町入口（千葉県佐倉市本町）まで</p>

<p>土井酒店のある十字路を右（東、石渡家住宅からだと直進）に佐倉道を１００メートルほど進んだ右に古民家風の建物があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　弥勒町　南側　三谷家住宅" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/mirokumachi_mitanike_jutaku.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　弥勒町　南側　三谷家住宅。（弥勒町）</p>

<p>三谷家住宅前に説明板があり</p>

<blockquote>

<p>佐倉市登録有形文化財<br />
三谷家住宅<br />
登録年月日　平成１３年５月１６日<br />
主屋　木造、一部２階建<br />
袖蔵　木造、２階建<br />
座敷屋　木造、２階建<br />
袖蔵は明治１７年に建てられたことが棟札より確認され、主屋もその頃には建っていたと考えられる。また、座敷屋は昭和１０年位頃に建てられている。いずれも近代の佐倉における有力商家にふさわしく造形的に優れた建物であり、出桁造の主屋と並んで袖蔵が建つ当時の商家の構えをよく残している。佐倉の伝統的な商家として貴重な建物である。</p>

<p>内部は非公開です。</p>

<p>佐倉市教育委員会</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>平成１３年は２００１年、明治１７年は１８８４年、昭和１０年は１９３５年。</p>

<p>三谷家住宅について、歴史の道調査報告書には</p>

<blockquote>

<p>三谷屋は家伝によれば、享保元年以前に佐倉に定住し、漢法の薬種を商った時期もあったが、慶応元年の商人一覧には「綿屋喜兵衛」とあり、幕末には呉服太物綿等を扱っていた。</p>

</blockquote>

<p>とあり、現在はこの三谷家住宅では営業はしていませんが、平成７年度歴史的建造物詳細調査報告書に「現在は店を新町に移し」とあり、<a href="http://sanpobokko.com/stroll_note/2010/04/post-110.php">成田街道（佐倉道）その９８</a>で訪ねた新町の蔵六餅本舗の近くにあった「三谷屋呉服店」が移転したお店になります。<br />
通り向かいのお店は「三谷屋綿店」は、この「三谷屋呉服店」の分家で、ふとんや婦人服などを扱っています。</p>

<p>歴史の道調査報告書にある「漢法」は「漢方」のことで、表記の違いと思われます。</p>

<p>享保元年は１７１６年、慶応元年は１８６５年、平成７年は１９９５年。</p>

<p>三谷家住宅のすぐ信号のある交差点があり、ここを渡って２０メートルほどのところ右に細い道があり、この道の奥側の現在住宅が建っているところ（道の東側）辺りから約１５０メートル南側と東側１００メートルほどの区画の中に佐倉藩の梅林がありましたが、現在梅林は残っていません。<br />
この細道は途中で私有地内になるので、一旦信号まで戻り、信号を南（三谷家住宅からだと右、細道からだと左）に９０メートルほど進んだあたりの左に道があり、３０メートルほど進むと公園があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　弥勒町　南側　佐倉藩梅林跡" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/mirokumachi_bairinato_mirokukoen.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　弥勒町　南側　佐倉藩梅林跡。（弥勒町）</p>

<p>現在、弥勒公園になっているところあたりが佐倉藩梅林跡で、弥勒公園の東南側には要行寺台公園がありますが、弥勒公園全域と要行寺台公園の北側の一部、弥勒公園の北側の私有地になっているあたりまでが梅園があったところになります。</p>

<p>新道々の記には</p>

<blockquote>

<p>国道２９６号線から佐倉東中学校方向に曲がり百メートル程行くと、東側（左手）に梅と桜の古木が一本ずつ残っている。広さ約二千五百坪の敷地に三百本余の梅の木があった跡である。<br />
ここは昔、佐倉藩の薬草園であったが、嘉永年間（一八四八～一八五三）頃、茶樹の間に匝瑳郡木戸村の光泉寺の梅を主として植えたものである。<br />
この後梅林跡は、日産厚生園の職員寮が建てられ、現在は一般の住宅になっている。</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>匝瑳郡木戸村の光泉寺は、現在の千葉県山武郡横芝光町木戸（旧匝瑳郡光町木戸）にある光泉寺のことです。</p>

<p>平成１６・１７年度佐倉市埋蔵文化財発掘調査報告書の中の弥勒南側遺跡には、「近世の道と考えられる溝状遺構が１条検出されたのみで、それに近世陶磁器が若干伴って出土した。」とあり、梅林の中の散策路としての道らしきものがこの発掘調査で見つかったのではないかと思われますが、そのあたりのところを言及していないので、古道として判断したものかどうかははっきりしていません。<br />
しかし、近世陶磁器は薬園であった頃に使われていたものが出土したのではないかと思われ、見つかった道の跡も薬園と梅林の中を通る道（散策路か？）ではないかと思われます。</p>

<p>平成１６・１７年は２００４・２００５年。</p>]]>
        <![CDATA[<p>佐倉藩梅林跡である弥勒公園から信号に戻り、今度は北側に渡って右（東、三谷家住宅からだと直進）に２０メートルほどの左（先に歩いた梅林跡へつながっていた細道の逆になるところ）に道がありますが、このあたりには遊郭があったところで、遊郭について新佐倉真佐子には</p>

<blockquote>

<p>この弥勒が成田詣での街道筋に当っていたからというわけでもあるまいが、久保町へ下る坂上、妙経寺に敷地を接した一画に遊郭があった。遠く宝暦、天明のころにつくられたといわれた遊郭は何れの土地でも「新地」と呼ばれたように、ここも「弥勒の新地」で通っていた。いつごろからこの土地に遊郭が開かれたかについては詳らかではないが、世上いい伝えられている話では佐倉に歩兵部隊が屯営するようになってからだという。</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>宝暦、天明のころは１７５１～１７８９年の間。</p>

<p>少し矛盾がありますが、結局のところ開設されたのは「佐倉に歩兵部隊が屯営するようになってから」ということのようですが、それ以前にもこの場所に遊郭といかないものの、成田詣での人々を相手にした店などがあったのではないかと思われます。</p>

<p>明治時代の迅速測図で見てみると</p>

<p><img alt="弥勒町遊郭あたりの図" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/miroku_yukaku_atari_zu.jpg" width="220" height="229" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>弥勒町遊郭あたりの図。（明治４０年発行の迅速測図「佐倉町」より抜粋）</p>

<p>遊郭のところに街並みとして示されているほど、大きなものであったことがわかります。</p>

<p>新佐倉真佐子には、「官許を得て遊郭が出現したのは明治十六年二月児玉源太郎第二連隊長の時代であったと語り伝えられている。」とあるので、このころに迅速測図に示されているような大きなものになったと思われます。<br />
終戦後の昭和３１年に売春防止法が制定され、この遊郭もなくなり、一部その痕跡を残して今に至っているようです。</p>

<p>明治４０年は１９０７年、明治十六年は１８８３年、昭和３１年は１９５６年。</p>

<p>遊郭のあったところからは佐倉道は下って上る坂道になりますが、この坂を「久保町の坂」といいますが、「久保町」について古今佐倉真佐子には</p>

<blockquote>

<p>此前より一丁余行て左右に土手芝付。上竹やらい。是迄まばらに両町や也。是迄麻賀多うじこ也。土手の先一丁余大坂。坂下半丁斗、又向一丁余の坂。坂の左右さかなりに町やしげくある。屋ねの上半月のごとし。通りも半月のごとし。久保町と号す。</p>

</blockquote>

<p>とあり、古今佐倉真佐子の書かれた時代には、「久保町」といっていたことが書かれています。</p>

<p><br />
古今佐倉真佐子が書かれた時代は、稲葉時代で書かれたのが宝永３年ではないかと推定されていますので、１７０６年以前には「久保町」と呼ばれていたことがはっきりとしています。<br />
ところが、土地宝典や多輪免喜では坂を下ったところまでは「弥勒町」、上るところからは「本町」になるのですが、「久保町」という地名は出てきません。<br />
しかし、バス停にも「久保町」という名があるので、江戸時代（稲葉時代以降）の街道整備にともない町の区割りが整理され、小字名が付けられた時に「久保町」という名称がなくなってしまったか、明治時代の町村合併や町村内の区画整理もしくは大字小字の整理の時に「久保町」の名称がなくなったと思われ、このあたりに住んでいる人々は、以前の地名を使っていて現在までこの坂の辺りが「久保町」として通用していたのではないかと思われます。</p>

<p>久保町の坂を５０メートルほど下った左側に、赤い山門があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　弥勒町　北側　妙経寺　入口" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/mirokumachi_myokeiji_irigut.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　弥勒町　北側　妙経寺　入口。（弥勒町、通称久保町）</p>

<p>山門をくぐると参道左に墓地があり、参道正面に本堂があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　弥勒町　北側　妙経寺" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/mirokumachi_myokeiji.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　弥勒町　北側　妙経寺。（弥勒町、通称久保町）</p>

<p>千葉県下総国印旛郡寺院明細帳には</p>

<blockquote>

<p>経胤寺末<br />
日蓮宗　妙経寺<br />
一　本尊　釈迦如来<br />
一　由緒　承応二年創立本寺本実坊先師也<br />
一　本堂間数　間口四間半　奥行四間半<br />
一　庫裏間数　間口七間　奥行四間<br />
一　境内坪数　五百七拾五坪　官有地第四種<br />
一　境内佛堂　貳宇<br />
摩利支天堂<br />
本尊　摩利支天<br />
由緒　不詳<br />
建物　間口四間半　奥行三間半<br />
弁天堂<br />
本尊　弁才天<br />
由緒　不詳<br />
建物　間口壱間　奥行四尺</p>

</blockquote>

<p>とあり、千葉県印旛郡誌にも同じ内容で記述されているので省略します。</p>

<p>承応二年は１６５３年。</p>

<p>千葉県下総国印旛郡寺院明細帳の「日蓮宗」のところには朱線で消しこみがされていて、「顕本法華宗」と直されていて、本堂間数の下に「一、山門　間口壱間四尺　奥行壱間壱尺」、庫裏間数の下に「一、湯殿　間口壱間三尺　奥行壱間三尺」と追記がされており、その下に「昭和十五年三月二十七日記入届出」とあり、境内坪数も朱線で訂正がされており、「五百参拾参」と書き直されていて、境内坪数の上の枠外に「昭和十一年三月三十日境内地縮小許可」とあります。</p>

<p>昭和十五年は１９４０年、昭和十一年は１９３６年。</p>

<p>湯殿を造るのにも、当時は届出をしないといけなかったのでしょうか、不思議な記述です。<br />
さらに不思議な記述に、境外所有地のところの「耕地及別三畝六歩　弥勒町字旧墓台」に朱字で「廿二年二月賣却ヲ許ス」とあり、明治２２年２月に「字旧墓台」を売却したことが書かれていますが、この場所は現在の山門の左にある墓地の左側の台地のことと思われ、もしかすると先に説明をした遊郭（拡張のため）にこの場所を売却したのではないかと思われますが、この記述だけでははっきりとせず、noboの推測の域を出ていません。</p>

<p>妙経寺について、古今佐倉真佐子には</p>

<blockquote>

<p>扨手前の坂の取左の方門有。<br />
○法花宗妙経寺。小寺也。尤客殿もちいさき事也。門共にくずや。本尊は古き三宝ある。大ひん寺也。家中にも少且家、町方にも余ほどある。此寺中大木の椎木にてうへこみし故林の如し客殿前、をくらし。</p>

</blockquote>

<p>とあり、当時はこぢんまりとしたお寺さんだったことが書かれています。</p>

<p>千葉県下総国印旛郡寺院明細帳にある仏堂ですが、見学に訪れた時に見落とした可能性もありますが、参道右側（東側）にはお堂らしきものがなかったので、写真に撮って（見つければ撮っている）ないと思うのですが、平成８年度歴史的建造物調査報告書（佐倉市）の幸田家について書かれているところに「...大正１２年に妙経寺の造営に多額の寄付をしていることが、...」とあり、大正１２年（関東大震災があった年）に建替をしたことが書かれており、その時点で２つの仏堂にあった本尊は、本堂の中に祀られたのではないかと思われ、そうであれば仏堂がなくなっていても不思議ではありません。<br />
左側（西側）の墓地は、本堂の左側の裏のほうまで続いていて、かなり広い墓域があります。</p>

<p>妙経寺から左（東、三谷家住宅からだと直進）に坂を１６０メートルほど下った左に鳥居のある小さな神社があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　本町　北側　妙見神社" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/motomachi_myokenjinja.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　本町　北側　妙見神社。（本町　通称久保町）</p>

<p>創立年代と由緒は不明ですが、江戸時代以前には建てられていたのではないかと思われ、新道々の記には</p>

<blockquote>

<p>国道２９６号線沿いにあって、久保町の一番低い所にある小さな祠をいう。数年前改築はされたが小さなお宮である。けれども軒に吊るしてある鰐口は、現在では珍しい貴重な金口である。お堂の中には古くてこわれかけた厨子が、「延宝七年八月」と刻まれた石の上にあって、１０センチメートル位の大きさの、一刀彫の妙見像が納められている。</p>

</blockquote>

<p>とありますが、新佐倉真佐子には</p>

<blockquote>

<p>...これが本町の妙見様で明治の初めに樹木町の高台から移された神社である。中に据えられている石には延宝二年八月（一六七四）と刻まれてあり、その形は亀が蛇をくわえている様子、紋所は九曜星と月星であるから大佐倉の勝胤寺にある千葉石と同じ紋所である。古くて壊れかけた朱塗の厨子には十センチ位の毘沙門天の一刀彫が入っている。清涼山の北斗妙見を遷祠したものではないかと言われている。...</p>

</blockquote>

<p>とあり、石に刻まれている年代に違いがあり、さらに、厨子の中の一刀彫の像についても「妙見像」と「毘沙門像」といった違いがあり、どちらが正しいのかわかりません。お堂の中の厨子や石については、お堂の扉を開けて見るわけに行かなかったので、確認をしていないためですが、妙見信仰と毘沙門天はつながりがあるので、一刀彫については、どちらの像容としても問題はないと思います。<br />
年代については５年ほど開きがあり、延宝二年は１６７４年で延宝七年は１６７９年になるわけですが、刻まれた字が風化に伴い判読ししづらい状態になっていれば、「二」が「七」に見えるとも限らないのでなんとも難しいところです。<br />
「樹木町の高台から移された」とありますが、妙見神社の右後ろ（北東側）約６０メートルほどの高台辺りが樹木町にあたり、この樹木町のどこから移ったかについては、記述がないのでわかっていません。</p>

<p>一応、妙見神社の鰐口の写真を載せます。</p>

<p><img alt="佐倉町　本町　北側　妙見神社　鰐口" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/motomachi_myokenjinja_wanig.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　本町　北側　妙見神社　鰐口。（本町）</p>

<p>先に弥勒町の遊郭について少しだけ触れましたが、妙見様の縁日について新佐倉真佐子に</p>

<blockquote>

<p>遊郭というところにはどこでも縁日のような賑う日が年に一度や二度はあったものだが、この新地も八月二十一日の妙見社の縁日には宵の内から夜半過ぎまで大変な賑いであった。</p>

<p>...中略...</p>

<p>この妙見社の縁日には境内は勿論、遊郭の入口から大門までの間は、両側に夜店が並んで前へも出られないほどの人出で、大門の中も遊び客や遊郭の姿を一度は見ようとする近郷の女たちもかなり入って賑ったものだ。</p>

</blockquote>

<p>とあり、現在ではすでになくなってしまった、縁日の賑わいの様子が書かれています。</p>

<p>妙見神社から本町交差点までの図を載せておきます。</p>

<p><img alt="順天堂あたりの図" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/juntendo_atari_zu.jpg" width="450" height="589" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>順天堂あたりの図。</p>

<p>妙見神社の佐倉道を挟んで向側（南側）の少し西よりに道が南に向ってありますが、これは古道（勝田道）で、現在は少し広くなっていますが、元はもう少し西側（といっても５メートルほど）にありました。<br />
この道は、ここから佐倉市大蛇町、上代、長熊、八木、酒々井町馬橋、佐倉市上勝田と通じています。</p>

<p>妙見神社から久保町の坂を１３０メートルほど上ると左（北）に細い道があり、ここを５０メートル進むとＴ字路があり、Ｔ字路を左（西）に曲がり５０メートルほど進むと道は右（北）に曲がり、４０メートルほど進むと今度は左（西）に曲がり、３０メートルほど進んだ左側の民家と民家の間に小さな赤い祠と鳥居があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　樹木町　樹木　樹木稲荷神社" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/jumokumachi_jumokuinarijinj.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　樹木町　樹木　樹木稲荷神社。（樹木町）</p>

<p>創立年代と由緒は不明ですが、樹木町も武家屋敷町であったことから、武家屋敷町一区画毎に祀られた稲荷神社であると思われます。<br />
入口が北側にあるため向きが逆のように見えますが、南に社殿（祠）は向いているのでこれが通常で、おそらく、元は南側に参道（入口）があったものと思われますが、宅地化が進んだ結果、現在のようになったものと思われます。<br />
赤い幟には「樹木稲荷大明神」とあり、祠の中には大きな狐（おきつねさん）が対であります。</p>

<p>佐倉城大絵図（正保年間に作成）には「樹木屋敷」とあり、四角の区画屋敷としてありますが、武家屋敷町であることはたしかで、嘉永年間の佐倉城内外付属建物及施設や御家中畑年貢代銭渡帳などにも屋敷町として「樹木町」あるいは「樹木」として載せられています。</p>

<p>正保年間は１６４４～１６４８年の間、嘉永年間は１８４８～１８５４年の間。</p>

<p>樹木稲荷神社から左（西、妙見神社からだと直進）に１０メートルほどでＴ字路があり、Ｔ字路を右（北）に６０メートルほど進むとＴ字路になり、Ｔ字路を右（東）にすぐのところで道は左（北）に曲がり、１０メートルほど進むとＴ字路になり、Ｔ字路を右（東）にアパートの間を８０メートルほど進むと、左下に空地がある所の右（南）の右に空地（平成２２年［２０１０］時点）、左の民家の手前に神社があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　樹木町　樹木　稲荷神社" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/jumokumachi_inarijinja.jpg" width="233" height="350" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　樹木町　樹木　稲荷神社。（樹木町）</p>

<p>一応、赤い社殿においなりさんがいるので稲荷神社と思われ、民家の北側に祀られているところをみると、屋敷神である可能性があります。<br />
しかし、社殿にある石祠と思われるものが、普通に見るとその辺りにある大きな石に見えてしまう形なので、はたして稲荷神社であるとは、判断しにくい感じではあります。</p>

<p><img alt="佐倉町　樹木町　樹木　稲荷神社　中にある石祠（石）" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/jumokumachi_inari_ishi.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　樹木町　樹木　稲荷神社　中にある石祠（石）。（樹木町）</p>

<p>昔このあたりを散策した時には、この神社には全く気がつきませんでしたので、いつごろからあったのか定かではありません。</p>

<p>この稲荷神社の下側（北側）の空地に道は続いているのでここを下りると北側に空地（右側に畑がある窪地）がありますが、この空地から５０メートルほど北西側、大通りに近いほうに低木（マサキ）が２つありますが、このあたりに「八蔵殿」という石碑があると新道々の記にはあるのですが、現在は探してもその石碑（石）は見当たりません。</p>

<p>八蔵殿の石碑について、新道々の記には</p>

<blockquote>

<p>本町字蛭田１４５番地先の路地に、５・６間のマサキの垣根があり、その根元に小さな石碑が一基置かれている。縦３５センチ、横１８センチ、奥行１３センチの碑の正面に「八蔵殿」、右側面に「寛政五癸丑年」、左側面に「三月吉日」の刻字がある。<br />
この碑は歯の神様であるという。２００年ちかく続いた歯の神様は、土ほこりにまみれて立ち続け、今日なお信仰の対象として、わずかに口伝えに跡を留めているばかりである。</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>寛政五年は１７９３年。</p>

<p>それにしても、この八蔵殿の石碑はマサキの下に埋もれてしまったのか、それとも先にあった稲荷神社の中にあった石祠のような石が実は八蔵殿の石碑で、新たに稲荷神社として祀られたのか、それはわかっていませんが、歯の神様がこの辺りに存在していたことだけは確かな事実です。</p>

<p>八蔵殿の石碑があったマサキのある空地（窪地）から、稲荷神社前の空地に戻り稲荷神社前からアパートを通り抜けて、アパート前のＴ字路に戻り、今度はＴ字路を右（北、樹木稲荷神社からだと直進）に５０メートルほどいくとＴ字路があり、Ｔ字路を右（東）に２０メートルほどいくとＴ字路があり、ここを左（北、逆側の道は八蔵殿の石碑のあった空地から続いている）に曲がり４０メートルほどいったところのＴ字路を左（西）に曲がり、２０メートルほどいったＴ字路の南西角のところに大師堂（小祠）があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　大蛇町　東慶院前　大師堂（小祠）" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/oojamachi_tokeiiniato_daish.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　大蛇町　東慶院前　大師堂（小祠）。（大蛇町）</p>

<p>少し変わった位置にある大師堂（小祠）で、右にあるのが大師像、左にあるのは供養塔と思われ正面の右に「□□■（襌）定門」、その下に二列に「元文二丁巳　四月十六日」、正面の真中に仏像があり、正面の左に「■（自か目か？）［欠損でわからず］■（襌）定尼」とあります。</p>

<p>元文二年は１７３７年。</p>

<p>□は判読内文字で、■は判読しづらい文字で（）は入るであろう文字です。</p>

<p>像容は、上部顔の部分が壊されたか破損したかではっきりしませんが、右手に蓮華（未開蓮）と蓮茎を持っているところから、勢至菩薩もしくは月光菩薩ではないかと思われます。</p>

<p>この大師堂がある辺りから、現在はない東慶院の境内に入ると思われ、大師堂から２０メートルほど進むと墓地があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　大蛇町　東慶院前　東慶院前墓地" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/oojamachi_tokeiinato.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　大蛇町　東慶院前　東慶院前墓地。（大蛇町）</p>

<p>ここに入口がありますが、この入口から右（北）に３０メートルほど進んだ左（西）の墓地の横から墓地内には入れるのでここから入り、そのまま３０メートルほど進むと崖があるので、その手前あたりで左（南）に２０メートルほど進んだ、ちょうど墓地の裏あたりにベンチがあり、ここまでが東慶院の本堂などがあった中心地になると思われます。</p>

<p>千葉県下総国印旛郡寺院明細帳には</p>

<blockquote>

<p>勝胤寺末<br />
曹洞宗　東慶院<br />
一　本尊　大日如来<br />
一　由緒　不詳<br />
一　本堂間数　間口六間　奥行五間<br />
一　境内坪数　貳百九拾七坪　民有地第四種</p>

</blockquote>

<p>とあり、千葉県印旛郡誌には</p>

<blockquote>

<p>大蛇村字東慶院前にあり曹洞宗にして勝胤寺末なり大日如來を本尊とす由緒不詳堂宇間口六間奥行五間なりしも大破に付間口三間に縮造せり [明治十六年十二月十四日] 境内二百九十七坪 [官有地第四種] あり...</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>明治十六年は１８８３年。</p>

<p>千葉県下総国印旛郡寺院明細帳の「由緒　不詳」の下に、「昭和八年七月二十二日本縣知事ノ許可ヲ得テ福岡縣筑紫郡春日村ヘ移轉　同年八月二十五日移轉済　（昭和八、一二、二八届出）」とあり、本堂間数の「間口六間　奥行五間」は朱線で消され、その下に「大破ニ付　間口五間　奥行三間　ニ　縮造　十六年十二月十四日」とあり、さらに「大破ニ付　間口五間　奥行三間」の間口と奥行も朱線で消されており、縮造の右に「大正十三年七月二十二日午后四時焼失」とあり、境内坪数の「貳百九拾七坪」は朱線で消されていて、右に「壱百四拾六坪」とあり、「官有地第四種」の「官」は朱線で消され「民」と直され、「明治　年　月日無代下奐」とあります。<br />
千葉県印旛郡誌の記述は大正初期なので、大正十三年の火事の時にはすでに書かれていたため、一回目の訂正時の内容が書かれているようです。</p>

<p>昭和八年は１９３３年、明治十六年は１８８３年、大正十三年は１９２４年。</p>

<p>福岡縣筑紫郡春日村は、現在の福岡県春日市になり、東慶院は豊川稲荷九州別院と同じ境内にあり、「昭和８年（１９３３）佐倉町から勧請したものと伝えられると」あるので、大蛇町にあった東慶院は昭和８年に移転したことがわかります。<br />
ところが、佐倉市誌には「東慶院は勝胤寺に併合」とあり、佐倉市誌編纂時に千葉県下総国印旛郡寺院明細帳の追加事項を見逃したものと思われます。<br />
因みに佐倉市誌編纂は昭和３０年代です。</p>

<p>昭和３０年代は１９５５～１９４４年までの間。</p>

<p>大正１３年の火事については、多輪免喜に「大正十三年子供の火遊びで無住のお寺は焼失、現在墓地のみ」とあり、子供の火遊びが原因だったことが書かれています。<br />
東慶院跡に残された墓地は、<a href="http://sanpobokko.com/stroll_note/2010/05/post-115.php">成田街道（佐倉道）その１０３</a>で訪ねた勝寿寺が管理しています。<br />
勝寿寺も勝胤寺末であった関係で、墓地を管理しているものと思われます。</p>

<p>東慶院跡の東慶院前墓地から樹木稲荷神社を経由して佐倉道に戻り、今度は左（東）に進んでいきます。</p>

<p>ということで、今回はここまで。</p>

<p>参考文献は、「歴史の道調査報告書　成田街道」、「佐倉市史」、「千葉県下総国印旛郡寺院明細帳」、「千葉県下総国印旛郡神社明細帳」、「千葉県印旛郡誌」、「佐倉市誌資料」、「佐倉の歴史を学ぶ　資料集」、「多輪免喜」、「佐倉風土記」、「佐倉文庫」、「古今佐倉真佐子」、「新佐倉真佐子　－佐倉のお茶の間風土記－」、「総州佐倉御城府内之図」、「ふるさとの石仏」、「佐倉町二十五年誌」、「新道々の記」、「佐倉細見」、｢佐倉さんぽ　散策マップ（佐倉市観光協会発行）」、「城下町佐倉歴史街道の旅」、「佐倉市史研究」、「弥勒町遺跡」、「平成１６・１７年度佐倉市埋蔵文化財発掘調査報告書」、「平成７年度歴史的建造物詳細調査報告書」より。</p>

<p>引用は各文献と各社寺の説明板、地域の説明板より。</p>

<p>今回の地図は<a href="http://sanpobokko.com/kaido_image/sakuramichi_6.jpg">「佐倉道６」</a>です。</p>

<p>国土地理院２５０００分の１「佐倉」より作成しています。</p>]]>
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    <title>成田街道（佐倉道）その１０４ - Stroll Note</title>
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    <id>tag:sanpobokko.com,2010:/stroll_note//5.526</id>

    <published>2010-05-23T13:23:27Z</published>
    <updated>2010-05-23T13:23:27Z</updated>

    <summary>佐倉道　石渡家住宅のある十字路（千葉県佐倉市弥勒町）から旧堀田邸に寄り道をして、土井酒店のある十字路...</summary>
    <author>
        <name>nobo</name>
        
    </author>
    
        <category term="街道歩き" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    <category term="佐倉市" label="佐倉市" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
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    <category term="成田街道" label="成田街道" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://sanpobokko.com/stroll_note/">
        <![CDATA[<p>佐倉道　石渡家住宅のある十字路（千葉県佐倉市弥勒町）から旧堀田邸に寄り道をして、土井酒店のある十字路（千葉県佐倉市弥勒町）まで</p>

<p>この先への図を載せます。</p>

<p><img alt="旧堀田邸あたりの図" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/kyu_hottatei_atari_zu.jpg" width="500" height="451" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>旧堀田邸あたりの図。</p>

<p>石渡家住宅のある十字路まで戻ったら、十字路を直進（南、勝寿寺からだと右）し６０メートルほどいくと変形４差路があり、４差路の右へ行く道のすぐ左斜めに鳥居の見える参道があり、その参道の奥に神社があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　弥勒町　五郎台　八幡神社" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/mirokumachi_hachimanjinja.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　弥勒町　五郎台　八幡神社。（弥勒町）</p>

<p>千葉県下総国印旛郡神社明細帳には</p>

<blockquote>

<p>千葉縣管下下總國印旛郡佐倉町弥勒町字南側<br />
村社<br />
八幡神社<br />
一　祭神　誉田別命<br />
一　由緒　不詳<br />
一　社殿間数　間口壱間　奥行九尺　拝殿　間口参間　奥行弐間<br />
一　境内坪数　貳百坪</p>

</blockquote>

<p>とあり、千葉県印旛郡誌には</p>

<blockquote>

<p>彌勒町字五郎臺にあり譽田別命木花開邪姫命を祭る由緒不詳なれども明治四十三年三月十二日許可を得て彌勒町字南側にありし無格社子安神社を本社に合祀す本殿の間口一間奥行九尺拜殿間くぢ三間奥行二間にして境内四百六十六坪 [官有地第一種] あり</p>

</blockquote>

<p>とあり、千葉県神社名鑑には</p>

<blockquote>

<p>祭神　譽田別命（ほんだわけのみこと）<br />
例祭日　九月一五日<br />
主要建物　本殿・銅板葺流造一坪、拝殿・銅板葺寄席棟造六坪<br />
境内坪数　四四六坪<br />
氏子　一〇〇戸　宮司　＊＊＊＊<br />
由緒沿革　詳細明らかでない。明治二九年火災にあい、現在の社殿は再建したものである。</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>明治四十三年は１９１０年、明治二九年は１８９６年。</p>

<p>千葉県下総国印旛郡神社明細帳にある「村社」の上には朱字で、「明治四十三年三月十二日付指令仝所字南側無格社肥やす神社（祭神木花開耶姫命）ヲ合祀シ財産譲与許可ノ上第五〇一九号」、「四十三年四月三日合祀ノ旨仝月五日付届出ヲ仝年四月十二日第二五一三号受諾」とあり、その左に「廿九年十二月一日燒失ス」とあります。<br />
始めに書かれたのは「廿九年」のほうで、これは新町の大火で焼失した時のことになり、明治四十三年は近くの子安神社を合祀したと書かれていますが、この弥勒町字南側の子安神社もおそらく明治２９年の大火で焼失をし、その後再建されることなく八幡神社に合祀されたと考えられます。<br />
祭神の下には朱字で「子安神社祭神木花開耶姫ヲ合祀ス」と追記がされ、由緒のところには朱字で「明治四十三年三月十二日仝所字南側無格社子安神社（祭神木花開耶姫命）ヲ合祀ス」とあり、社殿間数のところの奥行には朱線で消されているところには「壱間」とあり、拝殿の下には朱字で「四十一年四月十五日ニ発第一六〇号」とあり、境内坪数のところには「外弐百拾四坪（明治三十八年一月七日境内一収第五三八号ヲ以テ編入許可）とあります。<br />
子安神社を合祀する前の明治４１年には、社殿（この場合は本殿のこと）を少し小さくしたとあり、その前の明治３８年には境内として２１４坪を編入したとあります。</p>

<p>明治四十三年は１９１０年、明治廿九年は明治２９年のことで１８９６年、明治四十一年は１９０８年、明治三十八年は１９０５年。</p>

<p>字名について、千葉県下総国印旛郡神社明細帳と千葉県印旛郡では、「南側」と「五郎臺」と別の字名で書かれていて不思議な気がしますが、享保七年に書かれた「佐倉風土記」には「八幡　郭外野狐臺ニ在」とあり、八幡神社の場所を「野狐台」としているところから、もともと「野狐台町」であったところがいつしか「弥勒町」の中になったと思われ、明治２９年に新町の大火で焼失する前は、現在の位置より北側の変形４差路から八幡神社に入ったあたりにあったものと思われ、この位置であれば小字名で「南側」の位置になり、現在の社殿の位置であれば小字名は「五郎台」となります。</p>

<p>再建された時期について、新佐倉真佐子では「明治三十一年四月に再建された社殿が現在の八幡神社である。」とあり、明治３８年に社殿を「間口壱間　奥行九尺」としたのは、新しい社殿の大きさがこうなったということのようです。</p>]]>
        <![CDATA[<p>八幡神社について、新佐倉真佐子には</p>

<blockquote>

<p>ここ弥勒町の氏神は八幡神社である。佐倉の氏神は郷社麻賀多神社であると一般には思われているようだが弥勒町だけは別で、町内氏子が古くから崇敬した八幡神社である。</p>

<p>...中略...</p>

<p>この八幡神社が何時代のころ創建されたかについては詳らかでないが社殿前に現存する手洗は文政二年四月、常夜燈は文政八年に奉納されている点から考え合わせると百六十年以前の創建であることがわかる。麻賀多神社の台帳に記された記録によれば幕末のころは今の社殿より北方にあったといわれるから境内の中ほどにあったのかとも推定される。また松林寺の境内にあったという説もあるが、これはにわかには断定できない。</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>文政二年は１８１９年、文政八年は１８２５年。</p>

<p>新佐倉真佐子の中に「今の社殿より北方にあったといわれるから境内の中ほどにあったのかとも推定される。」とありますが、中ほどであると、「南側」と「五郎台」との境界からは南側になり、中ほどでも「五郎台」であるということになってしまいますので、もう少し北側というのが妥当なところと思われます。</p>

<p>八幡神社入口のすぐ左には石碑（石柱）があり、「万国博覧会記念樹　一九七〇年　西村浩治」と刻まれていて、その左にその時に植えられた木が大きく育っています。</p>

<p>万国博覧会とは日本万国博覧会、１９７０年に行なわれた大阪万博のことで、大阪府吹田市と茨木市にまたがる千里丘で開催された万博のことを記念して植樹がされたようです。<br />
同じ石碑（石柱）が、鳥居の左少し後ろにもう一つあります。</p>

<p>はじめの石碑（石柱）の横から参道があり、少しいくと鳥居があります、上記にもありましたが、八幡神社のもとの位置はこの辺りになるのではないかと考えられます。<br />
その理由は、この鳥居の後ろあたりが小字の境界になり、変形四差路側が「南側」になり鳥居の少し後ろから「五郎台」になるわけです。<br />
鳥居をくぐり右側には、弥勒町会館がありますが、参道を境に参道側が「弥勒町」、弥勒町会館側が「野狐台町」になっていて、少々ややこしいことになっているところです。<br />
弥勒町会館の逆側に先ほどの石碑（石柱）の二つ目があり、参道を進んでいくと、狛犬・燈籠・燈籠と続き、右側に手水舎、左側に絵馬掛があり、大きな燈籠の後に拝殿があり、その後に本殿があります。<br />
境内は三角形の形に南側に広がっていて、ぐるっと回ると、弥勒町会館の後ろの一段高くなったところの民家のところに社殿らしきものが見えますが、これは八幡神社の境内ではなく別の神社になります。</p>

<p>ここで一つ疑問があり、千葉県下総国印旛郡神社明細帳と千葉県印旛郡誌には「子安神社を合祀す」とあったわけですが、千葉県神社名鑑には「子安神社」については記述がなく、さらに祭神のところにも「木花開耶姫命」がなくなっていますが、どうも現在は合祀されていないような気配があります。<br />
このことについては、後ほど考えるとして、八幡神社入口まで戻り、今度は左（西、石渡家住宅からだと右）に５０メートルほどのところ左に駐車場があり、民家と駐車場の間に細い道が民家側に石柱があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　野狐台町　踊尾余　弥助稲荷神社入口" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/yakkodai_yasukeinarijinja_i.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　野狐台町　踊尾余　弥助稲荷神社入口。（野狐台町）</p>

<p>石柱には「弥助稲荷神社入口」とあり、ここを進んでいくと「弥助稲荷神社参道入口」という木柱があり、少し行くと階段があって少し下りた左に鳥居と神社があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　野狐台町　踊尾余　弥助稲荷神社" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/yakkodai_yasukeinarijinja.jpg" width="233" height="350" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　野狐台町　踊尾余　弥助稲荷神社。（野狐台町）</p>

<p>創立年代についてはわかっていませんが、佐倉市史の民俗編には</p>

<blockquote>

<p>佐倉藩の下級武士であった弥助という武士は忠節・誠実無類の武士で、おとのさまの信任あつく若とのの守りをおおせつかっていた。ところがこれを除こうとする一派があって、ある日若とのの食に毒をもったのである。弥助はそれに気づき、あやうく事無きを得たが、それから数日後、踊り尾余の曲輪へ帰る途中、日もとっぷりと暮れた妙隆寺の裏の坂で、弥助は何者かに襲われた。不意打をくらい、体を交わすまもなく身に重傷を負ったが、必死に逃れて自分の家の近くまでたどりつき、遂に事切れた。周辺の人これをあわれみ、弥助稲荷として祀った。弥助の人徳は、日頃から地域の人々の尊敬を集めていたのであろう。弥助稲荷は今も守り神として信仰されている。</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>踊り尾余の曲輪とは、踊尾余の組屋敷（武家屋敷）のことで、この弥助稲荷神社入口の道の両側、<a href="http://sanpobokko.com/stroll_note/2010/05/post-114.php">成田街道（佐倉道）その１０２</a>で訪ねた淡嶋神社の南側までが踊尾余になり、妙隆寺の裏の坂というと、番神道（妙隆寺の南側の細道）中ほどの坂のところということになり、そこでいわゆる闇討ちにあってしまったということのようです。</p>

<p>この弥助稲荷神社は、先に訪ねた八幡神社のところから見えていた祠になります。</p>

<p>弥助稲荷神社から八幡神社入口前の変形４差路まで戻り、今度は右（南、石渡家住宅からだと直進）に坂を６０メートルほど下った右側の崖のそばに神社があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　弥勒町　五郎台　道祖神社" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/mirokumachi_dosojinja.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　弥勒町　五郎台　道祖神社。（弥勒町）</p>

<p>創立年代と由緒は不明で、ちょうど八幡神社の東側の崖の下、坂の中ほどやや北よりの場所に当り、このすぐ下辺りで弥勒町と鏑木町の町（大字）の境界になっているところです。</p>

<p>鳥居をくぐりお堂（小祠）の扉の中をのぞくと、下に地蔵像とその後に台石（手洗石か？）、その台石の上に丸い石（五輪塔もしくは宝篋印塔の上部に見える）があり、上には道祖神の石祠があります。<br />
地蔵塔の上部右に「智（？）」、上部左に「寶（？）暦」とあり、その下は赤い前掛けがありわかりません。</p>

<p>宝暦であれば、１７５１～１７６４年の間に造られたということになります。</p>

<p>道祖神社から変形４差路を経由して、石渡家住宅前の十字路まで戻り、佐倉道を右（東、勝寿寺からだと直進、松林寺からだと左）に６０メートルほど左には幸田薬局があり、幸田薬局から５０メートルほどのところに十字路があり、この十字路の北東角には、平成２２年（２０１０）現在営業していないコンビニがあり、その手前の電柱には「土井酒店」とある看板があるのでこれが目印となります。<br />
この十字路の南西角あたりは現在は住宅が建ち並んでいますが、平成１９年（２００７）辺りまでは「大川水道」という会社がありましたが、この「大川水道」とは<a href="http://sanpobokko.com/stroll_note/2010/03/post-107.php">成田街道（佐倉道）その９５</a>で訪ねた大聖院にあった「水道の由来」の中の「大川徳治氏が水道事業」をはじめた会社のことで、最近までこの場所にありましたが残念なことに宅地となりなくなってしまったようです。</p>

<p>さて、この十字路は佐倉城から千葉寒川湊へ続く、もうひとつの佐倉道の分岐点であり、ここから南の道を南年貢道といい、<a href="http://sanpobokko.com/stroll_note/2010/01/post-102.php">成田街道（佐倉道）その９０</a>、<a href="http://sanpobokko.com/stroll_note/2010/03/post-107.php">成田街道（佐倉道）その９５</a>、<a href="http://sanpobokko.com/stroll_note/2010/03/post-108.php">成田街道（佐倉道）その９６</a>、<a href="http://sanpobokko.com/stroll_note/2010/03/post-109.php">成田街道（佐倉道）その９７</a>で出てきた北年貢道と同じく、佐倉藩と千葉寒川湊を結び、年貢や物資などが行き交う輸送のための南回りの道になります。<br />
ルートは六崎、木野子、神門、馬渡（ここまで佐倉市）、吉岡（四街道市）、若松町、桜木町、道場、道場で北年貢道と合流して寒川湊（ここまで千葉市）に通じていました。</p>

<p>十字路を右（南）に曲がり、３０メートルほど左側の住宅の敷地内に、大木の左側に小祠（屋敷神）を確認し、さらに８０メートルほどのＴ字路を右（西）に曲がり、６０メートルほどの右の少し奥に神社があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　野狐台町　五郎台　稲荷神社" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/yakkodaimachi_goryodai_hokora.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　野狐台町　五郎台　稲荷神社。（野狐台町）</p>

<p>創立年代と由緒は不明ですが、道路から稲荷神社までの空地（境内）が整備されていて守られているところをみると、堀田正盛時代に武家屋敷一区画毎に建てられた稲荷神社の慣例を踏襲して、建てられたものではないかと思われます。<br />
このあたりの武家屋敷や足軽組屋敷などは、佐倉市史によれば「...間ノ町南側、踊尾余、野狐台に長屋が出来たのは絵図には寛文年間以降であるが、それ以前の前の堀田、土井時代の絵図には出ないというだけで明確なことはわからない。」とあり、もしかすると堀田正盛時代には野狐台町には武家屋敷と足軽長屋が建てられて（もしくは建てられ始めて）、武家屋敷一区画毎にというお達しのもとに建てられていたものなのかも知れませんが、はっきりしたことは定かではありません。</p>

<p>寛文年間は１６６１～１６７３年の間。</p>

<p>稲荷神社から右（西、土井酒店のある十字路からだと直進）に２０メートルほどで十字路があり、ここを右（北）へ１０メートルほどの右に神社があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　野狐台町　五郎台　子安神社" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/yakkodaimachi_koyasujinja.jpg" width="233" height="350" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　野狐台町　五郎台　子安神社。（野狐台町）</p>

<p>創立年代と由緒は不明ですが、先に訪ねた八幡神社の中に子安神社が見当たらなかったことと、千葉県神社名鑑に子安神社についての記述と、祭神に「木花開耶姫命」が載せられていないことから、もしかするとこの場所に子安神社を分祀（遷座）したのではないかと思われますが、これもはっきりしていないので定かではありません。<br />
このあたりは、武家屋敷町であったところで、さらに、弥勒町字南側は道路向かい（西側）であり、もともとの子安神社があった場所に極めて近いところにあります。</p>

<p>弥勒町の子安神社が、この野狐台町にある子安神社であれば、かなり古くからあるものであるのですが、その子安神社についての記述は佐倉市史の「社寺の取締」のところにわずかに</p>

<blockquote>

<p>寛延４.７．２４　弥勒町子安大明神（宮越大和守支配）神前にて八月一日より同十五日迄、昼九ツ時より七ツ半迄神道・講演講談、講師は香取郡野田村稲荷大明神神主朝日因幡守。</p>

</blockquote>

<p>とあるのみです。</p>

<p>寛延４年は宝暦元年でもあり１７５１年。<br />
昼九ツは午後０時で、七ツ半は午後５時ごろなので、午後０時から５時まで講演講談などをやっていたということです。<br />
香取郡野田村稲荷大明神は、千葉県匝瑳市野栄栢田（旧千葉県匝瑳郡野栄町栢田）にある稲荷神社のことと思われます。</p>

<p>創建は寛延年間より前であることは佐倉市史の記述で確認できましたが、野狐台町のその子安大明神であるのかどうかは、先にも書きましたがはっきりしていませんが、そうであるば八幡神社に子安神社がない事に納得がいきます。</p>

<p>古くからの道は先iにあった稲荷神社の道筋になり、十字路を直進（西）し５０メートルほど坂を下って上ると八幡神社の前の変形４差路にたどり着きますが、この道筋が<a href="http://sanpobokko.com/stroll_note/2010/05/post-114.php">成田街道（佐倉道）その１０２</a>で訪ねた妙隆寺へ行く肴町の直角カーブのところからの道で、妙隆寺、淡嶋神社、弥助稲荷神社、八幡神社、稲荷神社と続いています。</p>

<p>子安神社から十字路に戻り、稲荷神社を通り先ほどのＴ字路に戻ったら、Ｔ字路を右（南、土井酒店のある十字路からだと直進）に１２０メートルほど進むと信号のある交差点がありますが、野狐台町は江戸時代（寛文年間以降）は足軽の組長屋があり、佐倉市史によると野狐台町のほぼ全域に組長屋があったとあります。<br />
現在のように住宅が建ち並んだのは、廃藩置県以降のことですが、その町並みの感じはその頃からのものであるようです。</p>

<p>信号を渡ったところに「佐倉ゆうゆうの里」の入口があり、その入口左には説明板があります。</p>

<p>説明板には</p>

<blockquote>

<p>旧堀田邸と堀田家農事試験場跡</p>

<p>明治２３年（１８９０）堀田正倫は佐倉に邸宅を構え、この地で国の基となる事業をおこなおうとしました。明治３０年に創設された堀田家農事試験場はその事業のひとつです。当時千葉県下には、農業を研究する場がなかったため、正倫は自らの邸宅に隣接した土地を購入し、堀田家農事試験場を創設しました。ここでは、県内外の農民に農業技術を教え、種苗・種禽・種卵を配布しました。県農事試験場の運営が軌道に乗ると、大正１５年（１９２６）堀田家農事試験場は、その役目を終え閉場されました。現在も通路脇に残る土手に、その名残をみることができます。</p>

<p>図は省略します。</p>

<p>平成１４年３月　佐倉市教育委員会</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>明治３０年は１８９７年、平成１４年は２００２年。</p>

<p>堀田家農事試験場のあったところは、現在の佐倉ゆうゆうの里の敷地のほぼ全域（旧堀田邸と佐倉厚生園の敷地は除く）になり、昭和６０年におこなわれた、佐倉ゆうゆうの里の建設前の遺跡調査では、弥生時代のものと思われる住居趾が一軒出土したのみと「佐倉市弥勒日暮台遺跡」にはあります。<br />
農事試験場時代にこの下にあった遺跡のほとんどは、開墾や整地に伴う掘り下げなどにより消滅したものと思われ、この遺跡調査時おいても土器片が少量出土する程度にとどまっています。</p>

<p>昭和６０年は１９８５年。</p>

<p>佐倉ゆうゆうの里の入口から道なりに２００メートルほど進むと、正面に大きな冠木門と板塀があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　鏑木町　諏訪尾余　旧堀田邸入口" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/kaburagimachi_kyuhottatei_i.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　鏑木町　諏訪尾余　旧堀田邸入口。（鏑木町）</p>

<p>冠木門の左側に説明板があり</p>

<blockquote>

<p>旧堀田邸（重要文化財　旧堀田家住宅）・さくら庭園</p>

<p>旧堀田邸・さくら庭園は、最後の佐倉藩主であった堀田正倫が、旧領地に住居を移すために建設した建物と庭園です。<br />
主屋は木造平屋建て一部二階建て、屋根は寄席棟造瓦葺きの建物５棟で構成され、明治２３年（１８９０）に竣工しました。その後、明治４４年（１９１１）には湯殿が増築されました。主屋や門番所、土蔵はほぼ建設当時のまま良好な状態で残されております。庭園は、芝を中心に赤松やサルスベリなどの樹木を景石や石塔を配し、高崎川と対岸の台地を借景にした眺望が広がっています。<br />
平成９年３月２６日に佐倉市指定文化財名勝に、平成１３年３月３０日には千葉県指定文化財名勝にそれぞれ指定され、平成１８年７月５日には住居部５棟と門番所、土蔵の合計７棟が邦の重要文化財（建造物）に指定<br />
されました。</p>

<p>図は省略します。</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>平成９年は１９９７年、平成１３年は２００１年、平成１８年は２００６年。</p>

<p>冠木門をくぐり中に入ると左に土蔵が見え、通路をそのまま進んでいくと正面に住宅があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　鏑木町　諏訪尾余　旧堀田邸" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/kaburagimachi_kyuhottatei.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　鏑木町　諏訪尾余　旧堀田邸。（鏑木町）</p>

<p>結構大きな建物で、普段公開されているのは一階のみですが、年に数回ですが２階を見学することができます。<br />
ただし、一番奥にある書斎棟は非公開になっていて見学は出来ません。</p>

<p>この旧堀田邸の見学は有料（平成２２年（2010）現在は大人３１０円、学生は１５０円）になりますが、棟内を案内してくれる方がいて、窓口でお願いをすれば詳しい説明をしてくれますので、立ち寄って見学される時にはお願いするといいと思います。</p>

<p>旧堀田邸の裏側（南側）にはさくら庭園（ここは自由に出入りできます）があり、庭園の少し小高いところに大きな松があったり、その横に石塔があったり、ベンチがあったりしてのんびりできる場所になっています。</p>

<p>旧堀田邸の冠木門まで戻り、右（南東、佐倉ゆうゆうの里入口からだと左）にトイレがあるほうに通路があり、ここを５０メートルほど進んだ左側に神社があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　鏑木町　諏訪尾余　鎮守神社" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/kaburagimachi_chinjujinja.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　鏑木町　諏訪尾余　鎮守神社。（鏑木町）</p>

<p>創立年代と由緒不明の神社ですが、旧堀田家農事試験場の敷地内にあたる場所になるので、試験場のために建てられた神社なのかとも思われるところですが、鎮守神社の手洗石の左側に「明治二十五年三月吉日」とあるところをみると、明治２３年に旧堀田邸が竣工したすぐ後に建てられているようなので、旧堀田邸の守り神として建てられたのではないかと思われます。</p>

<p>明治二十五年は１８９２年。</p>

<p>旧堀田邸のあたりを「諏訪尾余」と呼んでいますが、このあたりに諏訪神社はなく多輪免喜では「尾余（台地）に諏訪神社があったと思われる。」とありますが、現在は西側に浅間神社があるのみです。<br />
この鎮守神社は、旧堀田邸が建てられた当時、すでになくなっていた諏訪神社の跡地に鎮守神社として再建された、とも考えられるわけで、これもnoboの推測に過ぎませんが無きにしも非ずといったところでしょうか。<br />
諏訪神社は、どちらかというと森の奥に建てられることが多いわけで、そういう観点からすると建てられていたとしてもおかしくない位置にあると思われるわけです。</p>

<p>鎮守神社から佐倉ゆうゆうの里入口まで戻り、信号を左（西、土井酒店のある十字路からだと右）に１６０メートルほど緩やかな坂（歩道がないので車に注意して）を下っていくと左側に上っていく道があり、大きな看板（佐倉厚生園）の後に標柱があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　鏑木町　諏訪尾余　浅間神社入口" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/kaburagimachi_sengenjinja_i.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　鏑木町　諏訪尾余　浅間神社入口。（鏑木町）</p>

<p>標柱の正面には「浅間神社登山口」、右側面に「例祭　毎年七月一日」、左側面に「祭神　磐長姫命・木花開耶姫命　神徳　子供之出世開運」とあります。</p>

<p>ここが浅間神社の登山口になり、坂を５０メートルほど上るとＹ字路になっていて、正面を進むのが登山道、左に進むと佐倉厚生園になります。<br />
真っ直ぐ進むと、左に駐車場がありさらに進むと正面と右側にホームさくら苑があり、駐車場の西端から左（南）に道がありますが、その道の北側に大きな塚状のところがあり、そこに神社があります。<br />
神社の正面は道路を南に進んで少し北にいったところにあります。</p>

<p><img alt="佐倉町　鏑木町　諏訪尾余　浅間神社" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/kaburagimachi_sengenjinja.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　鏑木町　諏訪尾余　浅間神社。（鏑木町）</p>

<p>創立年代と由緒は不明ですが、安政年間の佐倉城實測圖には「仙元神社」とあり、古くからある神社であることは確かなようです。</p>

<p>安政年間は１８５４～１８６０年の間。</p>

<p>この浅間神社には、<a href="http://sanpobokko.com/stroll_note/2010/02/post-103.php">成田街道（佐倉道）その９１</a>で歩いた佐倉城の三の丸にあった浅間社を廃城後に移して合祀してあり、山型の石祠と額が社殿の中に祀られています。<br />
石祠について、新佐倉真佐子には「お堂の中に祭られている富士山型の石には貞享二年（一六八五年）と刻まれている。」とあり、大久保忠朝が藩主だった時代に石祠は造られた、ということは佐倉城に祀られたということになります。<br />
大久保忠朝は、<a href="http://sanpobokko.com/stroll_note/2009/05/post-78.php">成田街道（佐倉道）その６８</a>に訪ねた加賀清水に出てきた大久保加賀守のことです。</p>

<p>鳥居をくぐるとすぐに階段があり、階段の中ほどに古い狛犬があり、右側の狛犬のところには「浅間の瀧」と刻まれた石があり、その下に小さな池がありますが、普段は水がないようで玉砂利の底が見えているのみです。<br />
左側の狛犬の下には「小御岳石尊大権現」とある小御嶽塔があり、左側の狛犬の上には標柱があり「下總國　鏑木村　浅間大明神」とあり、古くは「浅間大明神」もしくは「仙元大明神」と読んでいたことがわかります。<br />
その逆側には登山記念塔とその右に石碑（訪ねた時点では草のつるで覆われて何か不明でした）があり、階段を上ると拝殿（本殿）、拝殿の右側には大木があり、この大木は御神木のようです。<br />
この浅間神社は塚の上に建てられていますが、この諏訪尾余には古墳群があったことが知られており、この古墳を利用して浅間塚（仙元塚もしくは富士塚）としたものと思われます。</p>

<p>塚の左側には１６基の石碑があり、前列の左から湯殿三山供養塔２基、秩父供養塔２基、２列目の左から四国八十八ヶ所巡拝記念塔、湯殿三山供養塔２基、３列目の左から秩父供養塔２基、４列目の左から秩父供養塔２基、湯殿三山供養塔、５列目の左から湯殿三山供養塔２基、秩父供養塔、６列目は秩父供養塔の順にあります。</p>

<p>浅間神社の参道は、現在は先ほど上ってきた登山口から上るようになっていますが、もとは浅間神社正面（南）の現在プレハブが建っているところの左側の崖のところにあり、２０年位前にはここを登ってこれましたが、すでにその参道はなくなっています。</p>

<p>この参道（坂）とその下にあった井戸について、新佐倉真佐子には</p>

<blockquote>

<p>とにかく古くから鏑木の人達に信仰されている神社である。毎年七月一日が縁日である。この日講中の人達は、皿田の清水（神社の南の崖の下にあったが、今はアパート海知江荘がその上に建てられて射水は湧き出さない）で身体を清め、白い布地にお山の印を押した着物を着て<br />
&emsp;「三国の光のもとを尋ぬれば、朝日に夕日富士の極楽、南無仙元大菩薩」<br />
と唱えながら、急な表坂を登山の儀式で登り、祭典を始めたものであった。</p>

</blockquote>

<p>とあり、参道があった時分の様子が書かれています。</p>

<p>浅間神社の左側（西側）にはホームさくら苑がありますが、この場所に昭和３年から昭和３０年まで東福寺というお寺さんがあったようで、新佐倉真佐子には</p>

<blockquote>

<p>浅間神社には関係はないが、お社の西側に東福寺の客殿が残されていて中央公民館の鏑木分館として使用されていた。昭和五十一年六月老朽のため撤去され、敷地共厚生園に返還された。これで大正末期から昭和にかけて佐倉町民が苦労に苦労を重ねて建立した東福寺が、すっかり姿を消したことになった。</p>

</blockquote>

<p>とあり、当時佐倉宗吾を祀るお寺として、本家の宗吾霊堂ともめにもめたあとにやっとの思いで建てたのに、結局昭和三十年に寺を解体移築して身売りをし、廃寺となってしまったわけで、残された庫裏であろうと思われる建物が昭和五十一年に撤去されたようです。<br />
この東福寺にあった宗吾坐像は、新佐倉真佐子によると「山ノ崎東福寺に安置されることになった。」とありますが、現在山崎の東福寺は宗吾観音（京成佐倉駅の北側２００メートルほど北西の内郷公園近く）と呼ばれており、ここに安置されているようです。</p>

<p>浅間神社から佐倉ゆうゆうの里前の信号まで戻り、今度は直進（東、旧堀田邸からだと右、土井酒店のある十字路からだと左）し４０メートルほどの左の民家と民家の間に細い道があり、その細い道を２０メートルほど進むと神社があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　野狐台町　野狐台　稲荷神社" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/mirokumachi_inarijinja.jpg" width="233" height="350" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　野狐台町　野狐台　稲荷神社。（野狐台町）</p>

<p>創立年代と由緒不明で、先にあった野狐台町字五郎台の稲荷神社と同じく、足軽の長屋のあったところにあり、細い通路と境内が大事に守られているところをみると、武家屋敷一区画毎に建てられたものと思われます。</p>

<p>稲荷神社手前にある狐（お狐さん）の右側のもの下に「明和四年　亥　三月日」とあり、左側の狐（お狐さん）の後には自然石で出来た石碑があり、正面の真中に「稲荷神社」、正面の右に「明治十七年一月」、正面の左に「朝比奈氏」とあります。</p>

<p>明和四年は１７６７年、明治十七年は１８８４年。</p>

<p>おそらく明和四年以前には稲荷神社は建てられたものと思われ、佐倉藩の藩主は堀田正順（後堀田氏）の時になります。</p>

<p>稲荷神社から左（東、佐倉ゆうゆうの里の信号からだと直進）に５０メートルほどいくとＴ字路があり、Ｔ字路を右（南）に曲がり１３０メートルほど進むと三叉路があり、ここを右の細い道の方へ進むのが南年貢街道で、右の細道を２０メートルほど進むとすぐに坂道になり、３００メートルほど下っていくとさくら庭園の南側の崖下に出ます。</p>

<p><img alt="佐倉町　鏑木町　諏訪尾余　和田村　高岡　蛇作　境界　へび坂" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/kaburagi_takaoka_hebizaka.jpg" width="233" height="350" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　鏑木町　諏訪尾余　和田村　高岡　蛇作　境界　へび坂。（鏑木町と高岡の境）。</p>

<p>ここまでの坂道を「へび坂」といい、現在はひっそりとした道になっていますが、当時は重要な街道筋の一つでした。<br />
「へび坂」の由来については色々とあるようで、道が曲がりくねっているのでヘビのようだから「へび坂」というのが大方ですが、この坂を境に東側を「高岡字蛇作」といい、この「蛇作」から「へび坂」となったのではないかと思われ、多輪免喜の地名の由来のところに「蛇の多い籔地をさすか、又蛇「ジャ」は崖地をさす地名用語でもので、傾斜地とも考えられる。」とあり、「へび」が指すことが「蛇」か「崖地」かは小これははっきりしませんが、蛇のようなくねくねとした蛇作の崖地の坂で「へび坂」というふうになったものと考えてもいいでしょう。<br />
へび坂から先は、現在高崎川にかかっている皿田橋を渡って、ＪＲ佐倉駅の南側を通り六崎へと進んでいきます。</p>

<p>このあたりの図を載せます。</p>

<p><img alt="要行寺・へび坂あたりの図" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/yogyoji_atari_zu.jpg" width="400" height="400" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>要行寺・へび坂あたりの図。</p>

<p>へび坂の入口の三叉路に戻り、直進（東、稲荷神社からだと左）し１５０メートルほど進むと信号があり、ここを右（南）に大きい道を２０メートルほど進むと右に石造物群があります。</p>

<p><img alt="和田村　高岡　野狐台　要行寺前石造物群" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/takaoka_yogyoji_iriguti_dai.jpg" width="233" height="350" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>和田村　高岡　野狐台　要行寺前石造物群。（高岡）</p>

<p>大きい道路側に題目塔が２基あり、左側のものは墓碑と思われますが、正面左の下側に「要行寺」の文字が見えるので、檀家の人か、要行寺の僧のどちらかのものと思われます。<br />
右側のものの右側面には「毎自作是念以何令衆生　得入無上道速成就佛身」とあります。<br />
題目塔の裏側には倒れた馬頭観音塔と不明の石造物があります。</p>

<p><img alt="和田村　高岡　野狐台　要行寺前石造物群　馬頭観音" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/tajaoka_yogyoji_iriguti_bat.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>和田村　高岡　野狐台　要行寺前石造物群　馬頭観音。（高岡）</p>

<p>左のものが馬頭観音で、正面の右に「正徳元辛卯天」、正面の真中に「馬頭觀世音菩薩」、正面の左に「七月七日」とあります。</p>

<p>正徳元年は１７１１年。</p>

<p>題目塔から一旦信号に戻り、細い道を２０メートルほど行った右側（題目塔の右から細道に移動したすぐのところなので、どちらから移動してもいい）にお寺さんがあります。</p>

<p><img alt="和田村　高岡　野狐台　要行寺" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/takaoka_yogyoji.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>和田村　高岡　野狐台　要行寺。（高岡）</p>

<p>千葉県下総国印旛郡寺院明細帳には</p>

<blockquote>

<p>経胤寺末<br />
日蓮宗妙満寺派　要行寺<br />
一　本尊　釈迦如来<br />
一　由緒　不詳<br />
一　本堂間数　間口五間　奥行四間<br />
一　境内坪数　四百九拾壱坪　官有地第四種</p>

</blockquote>

<p>とあり、千葉県印旛郡誌にも同様のことが書かれているので省略します。</p>

<p>千葉県下総国印旛郡寺院明細帳の「日蓮宗妙満寺派」のところには朱線が引かれ訂正がされており、「顕本法華宗」となっていますが、宗派事自体が変わったわけではなく、名称が変わっただけのようです。</p>

<p>入って正面に本堂、右側に墓地があり、こじんまりとしたお寺さんです。</p>

<p>要行寺がある辺りの高岡字野狐台の「野狐台」は、多輪免喜によると</p>

<blockquote>

<p>佐倉市字野狐台町の延長によるものだが、なぜ高岡区に組み込まれたのか、多分地形の関係にもよるか。または要行寺の檀家（日蓮宗）等によるものか。</p>

</blockquote>

<p>とあり、なぜ「野狐台」になったのかは、はっきりしていないようです。</p>

<p>要行寺かせ信号へ戻り、右（東、稲荷神社からだと直進）に渡り５０メートルほど進んだ網の塀の向こう側に、竹塀で囲まれた石造物があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　大蛇町　要行寺脇　粟切り婆さんの墓" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/oojamachi_awakiribasan_haka.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　大蛇町　要行寺脇　粟切り婆さんの墓。（大蛇町）</p>

<p>全農家畜衛生研究所の敷地内にあるので、中に入れませんでしたが、この竹塀の中にある石造物が「粟切り婆さんの墓」と呼ばれているものです。</p>

<p>新道々の記には</p>

<blockquote>

<p>大蛇町の一古老の語る粟切り婆さんの話は次のようである。<br />
「粟切り婆さんは他人の粟を切り取り、潜んでいる時にせきをしたために、捕らえられおとがめをこうむった。いつの頃からか、その墓にせきの平癒を祈るとよく治った。お礼に竹筒に茶を注ぎ供えたと言う。」しかし、他に異った節もある。これまで墓石の所在は転々として衛生研究所近くの路傍にあった。そこで前途の古老が墓石の安置を衛生研究所に懇願した結果、現況となった。鉄扉や墓の新設、その保持管理まで新設な取り計らいに、泉下の霊も成仏合掌していることだろう。この話は、臼井興胤の忠婦阿辰の話に似ている節が多い。共に今はせきの神様である。</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>これを読むと、もともとは悪さをしていた婆様だったが、亡くなった後に墓にお祈りをする人々のせきを治してあげたので、いつの間にかに神様と崇められた、ということなんですが、ひょんなことから神様になってしまった婆様の心境はどんなものかと、ちと考えてしまったりもしますな、こういった話は。</p>

<p>元の位置はどこであるかはわかりませんが、この道筋も古道であり、その古道の路傍に建てられていて、せきの神様とされていても不思議ではないことではあります。</p>

<p>粟切り婆さんの墓から、要行寺、稲荷神社を経由して土井酒店のある十字路まで戻ります。</p>

<p>ということで、今回はここまで。</p>

<p>参考文献は、「歴史の道調査報告書　成田街道」、「佐倉市史」、「千葉県下総国印旛郡寺院明細帳」、「千葉県下総国印旛郡神社明細帳」、「千葉県神社名鑑」、「千葉県印旛郡誌」、「佐倉市誌資料」、「佐倉の歴史を学ぶ　資料集」、「多輪免喜」、「佐倉風土記」、「佐倉文庫」、「古今佐倉真佐子」、「新佐倉真佐子　－佐倉のお茶の間風土記－」、「総州佐倉御城府内之図」、「ふるさとの石仏」、「佐倉町二十五年誌」、「新道々の記」、「佐倉細見」、｢佐倉さんぽ　散策マップ（佐倉市観光協会発行）」、「城下町佐倉歴史街道の旅」、「佐倉市史研究」、「弥勒町遺跡」、「佐倉市弥勒日暮台遺跡・岩富萩山遺跡発掘調査報告書」、「旧堀田邸　パンフレット」より。</p>

<p>引用は各文献と各社寺の説明板、地域の説明板より。</p>

<p>今回の地図は<a href="http://sanpobokko.com/kaido_image/sakuramichi_6.jpg">「佐倉道６」</a>です。</p>

<p>国土地理院２５０００分の１「佐倉」より作成しています。</p>]]>
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    <title>成田街道（佐倉道）その１０３ - Stroll Note</title>
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    <published>2010-05-14T14:01:09Z</published>
    <updated>2010-05-14T16:41:39Z</updated>

    <summary>佐倉道　肴町の直角カーブ（千葉県佐倉市新町）から石渡家住宅のある十字路（千葉県佐倉市弥勒町）まで 肴...</summary>
    <author>
        <name>nobo</name>
        
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        <category term="街道歩き" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    <category term="佐倉市" label="佐倉市" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    <category term="佐倉道" label="佐倉道" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    <category term="千葉県" label="千葉県" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    <category term="成田街道" label="成田街道" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://sanpobokko.com/stroll_note/">
        <![CDATA[<p>佐倉道　肴町の直角カーブ（千葉県佐倉市新町）から石渡家住宅のある十字路（千葉県佐倉市弥勒町）まで</p>

<p><img alt="肴町・間の町・弥勒町・野狐台町あたりの図" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/sakana_mano_miroku_ykko_ata.jpg" width="500" height="432" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>肴町・間の町・弥勒町・野狐台町あたりの図。</p>

<p>肴町の直角カーブ（二つ目の直角カーブ）を東（延覚寺からだと左、妙隆寺からだと直進）に１０メートルほどの右に古い建物がありますが、ここはもと旅館だった建物。<br />
このもと旅館から１０メートルほどの右に石柱（教安寺とある）の建つ参道があり、参道を５０メートルほど進むと門柱があり、その奥にお寺さんがあります。</p>

<p><img alt="佐倉町　新町　肴町西側　教安寺" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/shinmachi_kyoanji.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　新町　肴町西側　教安寺。（新町）</p>

<p>千葉県下総国印旛郡寺院明細帳には</p>

<blockquote>

<p>傳通院末<br />
浄土宗　教安寺<br />
一　本尊　阿彌陀如来<br />
一　由緒　寛永六年中花井左門創立厭誉同波和尚開山其他由緒年月不詳<br />
一　本堂間数　間口八間五分　奥行七間<br />
一　庫裏間数　間口五間　奥行三間<br />
一　境内坪数　六百六拾坪　官有地第四種<br />
一　境内仏堂　貳宇<br />
観音堂<br />
本尊　千手観音<br />
由緒　不詳<br />
建物　間口三間　奥行貳間五分<br />
大師堂<br />
本尊　弘法大師<br />
由緒　不詳<br />
建物　間口壱間　奥行四尺五分</p>

</blockquote>

<p>とあり、千葉県印旛郡誌もほぼ同様の記述なので省略します。</p>

<p>寛永六年は１６２９年。</p>

<p>千葉県印旛郡誌に「淨土宗鎮西派」と記述があるのですが、これは京都府京都市東山区林下町にある知恩院（華頂山知恩院大谷寺）を大本山とする鎮西派のことで、傳通院（無量山傳通院寿経寺）は東京都文京区小石川にあり、徳川家康の生母於方大の方や千姫、徳川家光の正室の孝子の方の墓があり、知恩院にも千姫の墓があります。</p>

<p>参道から門柱に入とる右側には鐘楼があり、鐘楼の手前に説明板があり</p>

<blockquote>

<p>教安寺　縁起</p>

<p>二尊山東傳院教安寺と称し、京都知恩院を總本山とし東京小石川傳通院を本寺とす。佐倉城主土井利勝公の時にその「預り人」の花井左門が内室東傳院殿松誉春貞大姉を開基とし、欣蓮社厭誉道波大和尚を迎えて城主の外護のもと寛永二年（一六二五）教安寺を創建した。今を去る三六七年前なり。<br />
花井左門の父は花井遠江守吉成と称し徳川家康公に仕え、その側室於茶阿の局の生める第六子松平忠輝の家老となり信卌松代海津城六万石を領す。母は於茶阿の局が先夫の子にして忠輝とは異父の姉に当る。忠輝は伊達政宗公の息女五郎八姫と婚を結び慶長十五年高田六十万石の太守となるも父家康の遺言として、二十五歳の元和二年領地を没収され配流を重ねて信卌諏訪城主の「預り人」として天和三年、九十二歳の長寿を以て数奇な生涯を終る。此の事件に花井家は補佐の責を以て花井左門も佐倉城主の「預り人」となり後ち家人として松平左門を称し万治二年七月十日寂す。法号は浄徳院殿雲竜心白居士、昭和五十三年八月傳通院にありし墓石を當寺の開基の墓域に遷す。<br />
貞享、宝永の類災にて堂宇焼失し享保初年（一七一六）にほぼ復興したるも明治維新の大変革、加うるに明治三十五年九月の大暴風雨のため本堂は半潰し解体の上その古材を以てかろうじて再建された。大正十五年十月書院、庫裡の再建なるも戦後の昭和二十五年の農地法に依り一切の供養田畠を失う。<br />
幾多の変遷免れ難くその銘文に寺の歴史を良く傅えた宝暦十年鋳造の梵鐘も銘文を残すのみにて幕末の安政二年海防に供され更に今より二七三年前の享保二年に八代目の佐倉城主稲葉正知公により再鋳され｢佐倉八景｣にも詠ぜられた大手門鐘楼堂の「時の鐘」は明治四年の廃藩置県の頃、教安寺に移され太平洋戦争酣の昭和十八年一月多くの仏具と共に供出されるまで梵鐘として市民に親しまれたるも、奇しく銘文のみを残して宝暦の梵鐘と命運を共にした。供出代金四五六円五七銭也、噫々（ああ）無常なるかな。<br />
戦後三十年の昭和五十二年三月教安寺創建三五〇年を慶祝して檀信徒並に市民の協力により大梵鐘を鋳造して享保の名鐘を再生し英霊の冥福をすすめ平和祈念の妙音は印旛沼畔に響き渉り、昭和六十二年には三上人御遠忌を奉謝して本堂屋根大改修の悲願を達成した。<br />
開創以来三六〇余年の星霜を閲し、世代を重ねること二十二世なり。</p>

<p>平成三年八月<br />
代二十二世　謙誉</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>慶長十五年は１６１０年、元和二年は１６１６年、天和三年は１６８３年、万治二年は１６５９年、昭和五十三年は１９７８年、貞享は１６８４～１６８８年の間、宝永は１７０４～１７１１年の間、明治三十五年は１９０２年、大正十五年は昭和元年でもあり、１９２６年、昭和二十五年は１９５０年、宝暦十年は１７６０年、安政二年は１８５５年、享保二年は１７１７年、明治四年は１８７１年、昭和十八年は１９４３年、昭和五十二年は１９７７年、昭和六十二年は１９８７年、平成三年は１９９１年。</p>]]>
        <![CDATA[<p>梵鐘について少し補足をすると、はじめの梵鐘は貞享宝永年間の類災で焼失し、その後宝暦十年に教安寺の第八世誠誉上人が二代目の梵鐘を造立し安永六年類焼により焼失、文化九年に第十一世僊挙上人が再建（二代目をもとにしてか、三代目としてかははっきりしていませんが、宝暦の二代目と同様に仕上げたものということは確かなようです。）、この梵鐘の写しが現在に残っているものになり、新佐倉真佐子の記述の中に</p>

<blockquote>

<p>前記宝暦梵鐘は安政二年十一月御触書写しに、「諸国寺院に有之候梵鐘之義本寺並に古来之名□当節時々鐘相用候分相除き余不残大砲小銃に云々...」とあり、幕末黒船来航の折り供出したるか、又は明治初年に紛失し足るものと考えられる。</p>

</blockquote>

<p>とあり、「本寺以外分相応の名のある梵鐘以外は、大砲や小銃を作るために残らずだしなさい」という御触書が出されていたために、供出したのか、それともどこかに紛失してしまったのかと、新佐倉真佐子では記述していますが、説明板では安政二年の海防のために供出としています。</p>

<p>安政二年は１８５５年、明治初年は１８６８年。<br />
□は文字が判読できずに不明であったところのようです。</p>

<p>その後、明治四年に三代目（四代目なのかもしれませんが）の梵鐘が、佐倉城大手門にあった鐘楼から移され昭和十八年に太平洋戦争のために供出されるまであったということで、新佐倉真佐子には</p>

<blockquote>

<p>時は移り佐倉城大手門の桝形土手の東（現在の佐倉中学校の右側）にあった鐘楼堂の時報の鐘を廃城後明治五年～六年に教安寺檀徒であり佐倉藩の執政佐治延年氏の配慮により、教安寺に移され梵鐘となったと推測される。</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>明治四年は１８７１年、明治五年～六年は１８７２～１８７３年。</p>

<p>説明板とズレがありますが、どちらにしても廃藩置県後すぐに教安寺に移されたということは確かなようです。</p>

<p>鐘楼の逆側、門柱を入って左側に２基の如意輪観音があり、この２基は共に墓碑らしく、左側の大きいものの正面の右に「貞享■（ニか三か？）□□正月六日　■（因か？）■（寂か？）■（簟か單か？）譽真源□□□覚■（位か？）」、正面真中に如意輪観音像、正面の左に｢往生月窓■（秋か？）■（覚か？）信女□□□　貞享三■（丙）寅■（正か天か？）■（九か？）月■（三か？）日」とあり、右の小さいほうの正面の右に「稱譽利負比丘尼」、正面の真中に如意輪観音像、正面の左に「享保十六□亥六月■（十か廿か？）九日」とあります。</p>

<p>貞享三年は１６８６年、享保十六年は１７３１年。<br />
□は判読できない文字で、■は判読しづらい文字で（）内は当てはまるであろう文字です。</p>

<p>大きいものの方の「貞享■（ニか三か？）□□」の■に「二」が当てはまれば「貞享二乙丑」となり１６８５年、「三」が当てはまれば「貞享三丙寅」となり１６８６年になりますが、左側の女性よりも先に亡くなっているとすれば、貞享二年としたいところですが、はっきりとは判断が出来ません。<br />
小さいほうの「享保十六□亥六月■（十か廿か？）九日」の「■（十か廿か？）九日」ですが、墓碑であればどちらも当てはまるようですが、十九夜塔として建てられているとすれば「十九日」ということになります。<br />
しかしながら、この部分もはっきりと判断が出来ません。</p>

<p>２基の如意輪観音の横には大師堂があり、その右に阿弥陀仏のような地蔵のような石仏があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　新町　肴町西側　教安寺　阿弥陀如来（地蔵）" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/shimachi_kyoanji_amidajizo.jpg" width="233" height="350" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　新町　肴町西側　教安寺　阿弥陀如来（地蔵）。（新町）</p>

<p>どう見ても阿弥陀如来に見える石仏なのですが、ふるさとの石仏には</p>

<blockquote>

<p>寺の門を入って左側に、高さ一一八センチの丸彫りの立像が立っている。その頭部の形や右手で天を左手で地を指した姿は阿弥陀如来のようにも思われるが、多くの人が地蔵尊と呼んでいる。嶺南寺のそれと同じように阿弥陀如来と地蔵尊とを習合したものと思われる。像の右側面に小さく円誉法山比丘　延宝四年丙辰天（一六七六）六月廿六日と刻んである。</p>

</blockquote>

<p>とあり、<a href="http://sanpobokko.com/stroll_note/2010/04/post-112.php">成田街道（佐倉道）その１００</a>で訪ねた嶺南寺の無縁地蔵尊と同じ造りであるとしています。<br />
右側面に小さく刻んであるという文字は、右の下側にありますが、だいぶ剥離していたり、苔があったりでほとんど読めない状態になっています。</p>

<p>阿弥陀如来（地蔵）の右側、通路を挟んで墓地の一区画があり、そこに細長い墓表と古い墓碑があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　新町　肴町西側　教安寺　東傳院殿と松平左門の墓碑" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/shinmachi_kyoanji_toudenin_.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　新町　肴町西側　教安寺　東傳院殿と松平左門の墓碑。（新町）</p>

<p>右側の新しい細身の墓碑が東傳院のもので、「松平左門の室　教安寺開基　東傳院殿松譽春貞大姉之墓」とあり、左側のもの松平左門（花井左門）のもので、正面に「淨徳院殿雲龍心白居士霊位」、右側面に「万治二己亥暦」、左側面に「七月十日」とあります。</p>

<p>この二つの墓碑の中間に香立てのところに墓碑の笠の部分もしくは宝篋印塔か五輪塔の上の部分らしきものがあり、これが最初の東傳院の墓碑のものではないかと思われます。</p>

<p>東傳院の墓碑の後ろ、大木を挟んでちょうど逆側に庚申塔があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　新町　肴町西側　教安寺　庚申塔" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/shinmachi_kyoanji_koshinto.jpg" width="233" height="350" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　新町　肴町西側　教安寺　庚申塔。（新町）</p>

<p>正面に青面金剛、その下に三猿がありますが、文字が風化もしくは剥離、苔などでほとんど読めないため造立年代などは不明です。</p>

<p>庚申塔の逆側、本堂の前の水桶がたくさん置かれているところに如意輪観音があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　新町　肴町西側　教安寺　如意輪観音" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/shinmachi_kyoanji_nyoirinto.jpg" width="233" height="350" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　新町　肴町西側　教安寺　如意輪観音。（新町）</p>

<p>正面の右に「歸□■（處か？）□□□　（以下文字があるらしいが読めず）」、正面真中に如意輪観音像、正面の左に「延宝■（四）■（丙）辰□四月四日」とあります。</p>

<p>延宝四年とすると１６７６年。<br />
□は判読できない文字、■は判読しづらい文字で（）は入るであろう文字です。<br />
「延宝■（四）■（丙）辰」の延宝年間で、干支の部分が後に「辰」になるのは「延宝四丙辰」のみなので、このことにより「延宝四年」とすることが出来ます。<br />
問題は、この如意輪観音が墓碑なのか月待塔なのかがはっきりしないところで、「歸」という文字が何を指しているのかがわかれば判断できるところですが、他の文字が読めないので判断できないところです。</p>

<p>本堂の右側、参道を少し戻ったあたりに大きな地蔵さんがあります。</p>

<p><img alt="佐倉町　新町　肴町西側　教安寺　三界萬霊塔" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/shinmachi_kyoanji_sankaimar.jpg" width="233" height="350" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　新町　肴町西側　教安寺　三界萬霊塔。（新町）</p>

<p>この大きな地蔵さんの台のところに「三界萬霊」とあるので、延命地蔵尊であると思われます。<br />
佐倉市誌資料に、この地蔵尊にある名文についての記述があり「下総国佐倉二尊山教安寺六世　柔蓮社軟誉膮察代　金銅地蔵尊像造立　維享保六辛丑天　仲秋日　願主　円誉顕人欣言　武州江戸神田住　西島伊賀守家　鋳物師　伝兵衛延長」と書かれているようです。</p>

<p>享保六年は１７２１年。</p>

<p>三界萬霊塔の右には名号塔があり、正面に「南無阿彌陀佛」とあり、台には「二尊山」とあり、名号塔の右に細い通路があり、そのまま進むと、<a href="http://sanpobokko.com/stroll_note/2010/05/post-114.php">成田街道（佐倉道）その１０２</a>で歩いた妙隆寺から淡嶋神社へ行く途中にあった古い山門（裏門）に出ます。</p>

<p>教安寺の入口に戻り、佐倉道を右（東、延覚寺からだと直進）に１００メートルほど（この区間が間の町）の左に川瀬屋というそば屋さんがあり、川瀬屋さんから３０メートルほど行った左に細道があり、ここを２０メートルほど進むと門柱があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　弥勒町　松勝　勝寿寺" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/mirokumachi_syojuji.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　弥勒町　松勝　勝寿寺。（弥勒町）</p>

<p>千葉県下総国印旛郡寺院明細帳には</p>

<blockquote>

<p>勝胤寺末<br />
曹洞宗　勝壽寺<br />
一　本尊　彌勒菩薩<br />
一　由緒　不詳<br />
一　本堂間数　間口五間半　奥行四間半<br />
一　庫裏間数　間口五間　奥行四間半<br />
一　境内坪数　九百七拾壱坪　民有地第四種<br />
一　境内仏堂　壱宇<br />
大師堂<br />
本尊　大師<br />
由緒　不詳<br />
建物　間口九尺　奥行三尺</p>

</blockquote>

<p>とあり、千葉県印旛郡誌も同じ内容で載せてあるので省略します。</p>

<p>境内坪数の「官有地」のところには二度ほど訂正した跡があり、「民」、「官」、「民」と書き換えられ、下のほうに「明治十五年十月丗一日無代奐下」とあり、無償で民有地として下げ渡したと書かれています。</p>

<p>門柱から中に入り、左手には墓地が広がり、参道を進んでいくと右手に大師堂、その右側に３基の石仏があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　弥勒町　勝寿寺　石仏群" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/mirokumachi_syojuji_sebutug.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　弥勒町　勝寿寺　石仏群。（弥勒町）</p>

<p>右側から庚申塔で正面右に「■（寶か？）□□□■（天か夭か？）■（二か三か？）月■（三か？）■（日か？）」、正面の真中に青面金剛像、その下に邪鬼と三猿、正面の左に「（上部におそらく８文字ほど文字があると思われるが風化していて判読できず）■（講か？）■（中か口か四か？）■（人か？）□」とあり、真中のものは如意輪観音で上部破損、文字も風化もしくは磨滅、苔などで判読できず、左側は十九夜塔で正面の右に「奉造立觀音像十九夜講善女人　正徳三己年　三月吉日」、正面真中に如意輪観音像、正面の左に「彌勒町間町同行四十七人」とあります。</p>

<p>正徳三年は１７１３年。<br />
□は判読できない文字、■は判読しづらい文字で（）はおそらく入るであろう文字です。<br />
右側の庚申塔の年号については一番初めが「寶」の字であっているのならば、「寶暦十庚辰」の１７６０年、「寶永元甲申」の１７０４年、もし二番目に「寶」という字であれば、「延寶八庚申」になり１６８０年、または「寶」ではなく「寛」の字であったとすると「寛永十七庚辰」の１６４０年、「寛文四甲辰」の１６６４年、「寛政十二庚申」の１８００年ということになりますが、「庚申」の年に造られたとすると「延寶八庚申」か「寛政十二庚申」ということになります。<br />
真中の如意輪観音は、おそらく月待塔であると思われ、左のものが十九夜塔であることから、この如意輪観音も十九夜塔であると思われます。</p>

<p>大師堂から参道を進むと、コンクリートで出来た本堂があります。</p>

<p>この勝寿寺は、弥勒山と呼ばれるように、弥勒町の地名の元になったお寺さんで、古今佐倉真佐子には</p>

<blockquote>

<p>此門前少先、左の方庵あり。みろく菩薩のどうあり。庵主勝珠（寿）寺と号す。浄土宗也。大ひんあんなり。此門前より町をみろく町とがうす。</p>

</blockquote>

<p>とあり、はじめは庵であったとあります。</p>

<p>創立年代は千葉県下総国印旛郡寺院明細帳には「不詳」とありますが、少なくとも古今佐倉真佐子が書かれた時代には、此場所にあったことがはっきりしているので、稲葉氏が佐倉城主になった元禄十四年以前であるといえます。</p>

<p>元禄十四年は１７０１年。</p>

<p>古今佐倉真佐子に「浄土宗也。」とありますが、現在は「曹洞宗」であるので、記述の間違いであるか、いつの時代かははっきりしないが、「曹洞宗」に改宗したのか判断に困りますが、勝胤寺末（千葉県佐倉市大佐倉）であるところを見ると、もともと「曹洞宗」であり、この勝寿寺の「庵」は、勝胤寺の隠居寺（庵）であったものではないかと思われます。<br />
さて、地名についてはおおよそ勝寿寺の本尊である弥勒菩薩から来ているとしていますが、「弥勒町遺跡」には</p>

<blockquote>

<p>因みに弥勒町の町名の由来は、弥勒町遺跡北側に存在する八幡神社別當勝寿寺の本尊である弥勒菩薩が安置された弥勒堂からきているという言い伝えがあるが明確ではない。</p>

</blockquote>

<p>としていて、この弥勒堂があったのかどうかを疑問視しているような感じです。</p>

<p>弥勒堂が勝寿寺の庵であるのかどうか、これもはっきりしていないのですが、<a href="http://sanpobokko.com/stroll_note/2010/05/post-114.php">成田街道（佐倉道）その１０２</a>で訪れた、妙隆寺の駐車場とその後ろの民家のあたりは弥勒町の飛地で小字を「丸山」ということは先に書きましたが、この丸山に弥勒堂があり、この弥勒堂が弥勒町の地名の由来になったのではないかともいわれていて、明治４０年発行の二万分の一迅速測図に妙隆寺の右隣に卍マークがあり、これが弥勒堂ではないかと思われますが、その弥勒堂にあった弥勒菩薩（現在の勝寿寺の本尊がそうなのかどうかははっきりせず）が町の名の由来になっていることは確かではあるということです。</p>

<p><img alt="弥勒堂跡と思われるところ" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/mirokudo_ato_rashikitokoro.jpg" width="350" height="314" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>弥勒堂跡と思われるところ。（明治４０年発行２万分の１迅速測図「佐倉町」より抜粋）</p>

<p>この地図の卍マークのお寺もしくはお堂が弥勒堂であるならば、明治にあった大火の時、勝寿寺が類焼していることを考えると、勝寿寺が再建された時に、この弥勒堂の本尊の弥勒菩薩を勝寿寺に移したことが考えられ、その後本尊のなくなった弥勒堂を合併したと考えるのが妥当のようです。</p>

<p>勝寿寺の入口に戻り、佐倉道を左（東、教安寺からだと直進）に４０メートルほど進むと十字路があり、十字路の左側（北側）の東角に民家があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　弥勒町　北側　石渡家住宅（数屋）" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/mirokumachi_ishiwatari_juta.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　弥勒町　北側　石渡家住宅（数屋）。（弥勒町）</p>

<p>この民家の左側の壁あたりに説明板があり</p>

<blockquote>

<p>佐倉市登録有形文化財<br />
石渡家住宅<br />
登録年月日　平成１３年５月１６日<br />
主屋　木造、一部２階建<br />
蔵　　 木造、２階建<br />
主屋は「みせ」と「すまい」からなり、「みせ」は大正５年、「すまい」は明治４０年に建てられたことが分かっている。蔵は、明治３８年以前に建てられたと推定されるが、詳細は不明である。「みせ」の外観については一部改装されているが、出桁造とし、隣家に面する東西の壁を漆喰塗にするなど、佐倉の町家の特徴を良く残している。蔵は屋根のつうじ棟（瓦を一定の隙間をとって積み上げ、その隙間に漆喰を塗り込め、重厚に見せる棟）や軒先に優れた意匠がみられる。<br />
いずれも佐倉における伝統的な町屋の景観を残した貴重な建造物である。<br />
佐倉市教育委員会</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>平成１３年は２００１年、大正５年は１９１６年、明治４０年は１９０７年、明治３８年は１９０５年。</p>

<p>この石渡住宅は現在も現役のお店で、「数屋」という酒屋さんを営んでいますが、酒屋さんの前は「糀味噌や」であったと、新佐倉真佐子や嘉永年間の新町の絵図にはあります。</p>

<p>十字路を左（北）に曲がり、１１０メートルほど進むと十字路があり、左手に検察庁、右手に裁判所を見ながら８０メートルほど進んだ左にお寺さんがあります。</p>

<p><img alt="佐倉町　弥勒町　松勝　松林寺" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/mirokumachi_syorinji.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　弥勒町　松勝　松林寺。（弥勒町）</p>

<p>千葉県下総国印旛郡寺院明細帳には</p>

<blockquote>

<p>知恩院末<br />
浄土宗　松林寺<br />
一　本尊　阿彌陀如来<br />
一　由緒　慶長年中土井大炊頭佐倉城築造ノ莭建立<br />
一　本堂間数　間口拾間　奥行拾間<br />
一　庫裏間数　間口拾五間　奥行六間<br />
一　境内坪数　貳千三百坪　官有地第四種<br />
一　境内仏堂　貳宇<br />
観音堂<br />
本尊　観世音菩薩<br />
由緒　慶長十年九月十壱日松林寺開山照誉上人建立<br />
建物　四間四面<br />
毘沙門堂<br />
本尊　毘沙門大師<br />
由緒　文化十四年松林寺十八世蘭誉上人建立<br />
建物　貳間四面</p>

</blockquote>

<p>とあり、千葉県印旛郡誌には</p>

<blockquote>

<p>彌勒町字松勝にあり淨土宗にして智恩院末なり阿彌陀如来を本尊とす慶長年中土井大炊頭佐倉城築造の節建立堂宇十間四面ありしも明治十七年八月取壊したり庫裏間口八間奥行六行間境内二千三百坪 [官有地第四種] あり</p>

<p>...以下省略</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>慶長年中は１５９６～１６１５年の間、慶長十年は１６０５年、文化十四年は１８１７年、明治十七年は１８８４年。</p>

<p>千葉県下総国寺院明細帳の本堂間数のところ「間口拾間　奥行拾間」の「拾間」には朱線で消されており、その下に「十七年八月取崩シ」と訂正されていて、庫裏間数の「間口拾五間　奥行六間」の下に追記で「間口八間　奥行六間　ニ　宿造　明治十七年八月」とあり、明治十七年八月に本堂が老朽化したかによって取壊し、更に庫裏も大幅に小さくして本堂兼庫裏としたようです。<br />
さらに、境内坪数の「貳千三百坪」も朱線だ消されており、その横に「七百七十六坪」と訂正されていて、境内坪数の上の枠外に「昭和一一、一二、一七縮小許可」とあり、昭和１１年に現在の広さの境内となったようです。</p>

<p>昭和１１年は１９３６年。</p>

<p>先に載せた明治時代の迅速測図を見ると、松林寺の境内は南にある検察庁と東にある裁判所、さらに北側の空地と住宅地までの広い境内を持っていたことが分かり、松林寺の本堂は現在の本堂と裁判所との間にある道路上にあったことが分かっています。</p>

<p>入口から本堂に進み、本堂の左側のほうに説明板があり</p>

<blockquote>

<p>千葉県指定有形文化財<br />
松林寺本堂　昭和五十七年四月六日指定</p>

<p>十七世紀前半（慶長～寛永中頃）に、初代佐倉城主土井利勝によって創建された観音堂で、現在は本堂として使用されている。<br />
作風は比較的簡素であるが端正で、近畿ないし江戸からの工匠の手になるものとみられる。間口は柱間三間、奥行四間、寄棟造りである。<br />
寺院内には土井利勝の父母・夫人の供養塔があり市指定文化財となっている。</p>

<p>昭和五十七年三月十九日　千葉県教育委員会　佐倉市教育委員会</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>昭和五十七年は１９８２年、慶長～寛永中頃は１５９６～１６３４年頃までの間。</p>

<p>説明板にあるように、現在の本堂は観音堂の建物を使っていて、千葉県下総国印旛郡寺院明細帳や千葉県印旛郡誌にもあるように、明治１７年に本堂が取り壊され、さらに現在ある道路がもと境内の真中を通った頃に、庫裏自体も移動を余儀なくされたために、観音堂の建物を本堂としたものと思われます。<br />
毘沙門堂がいつ頃なくなったかについては、どの文献にも記述はありませんが、おそらく道路の開通の頃にはなくなったのではないかと思われ、現在の本堂の中にそれぞれの本尊が安置されています。</p>

<p>松林寺について、歴史の道調査報告書には</p>

<blockquote>

<p>本堂は寛永年中、初代佐倉城主土井利勝創建の松林寺の観音堂であった。簡素で端正につくられ、柱や組物・中備・垂水・隅木・須弥壇等の主要部分に当初材が残っており、様式的にもその成立過程をうかがわせ、近世当初の城下町形成期の大名によって建てられたものとして貴重である。</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>千葉県下総国印旛郡寺院明細帳や千葉県印旛郡誌、歴史の道調査報告書には、建てられた時期を明確にはしていませんが、佐倉市史研究の「松林寺土井家石塔群について」の中に</p>

<blockquote>

<p>松林寺は土井利勝が一族の菩提を弔うために建てた寺院（寛永四年か）と伝えられ、その規模等旧状は近世の絵図から知ることができる。石塔はこの絵図のなかに「御石塔」と記されており、現在は正門から本堂へ至る道が道路敷きとなり、境内左半分が現在の裁判所敷地として失われているものの、残存する土塁や観音堂の位置などからほぼ旧状を保っていると思われる。</p>

</blockquote>

<p>とあり、寛永四年ではないかと見ています。<br />
「境内左半分が現在の裁判所敷地として失われているものの」とありますが、これは当時の絵図は南を上として描かれることが多く、そのため、絵図に従ってみてみると左側となりますが、現代の地図で見ると本堂の右側半分（東側）ということになります。</p>

<p>寛永四年は１６２７年。</p>

<p>佐倉市史研究の「松林寺土井家石塔群について」の中の、「残存する土塁」というのは、本堂の左側の説明板後ろにある検察庁との間の土盛りのことで、新佐倉真佐子には「慶長の昔、土井利勝が佐倉城築城の際、本陣を張ったところで...」とあり、松林寺を創建する前には、ここに本陣（おそらく砦ではないかと思われ）があったとしています。<br />
佐倉城を建設している慶長１６年から元和４年ごろは、徳川幕府（江戸幕府）は開かれていましたが、この築城の間に大坂冬の陣と夏の陣があり、情勢的にはまだ不安定の中の築城であるので、いつどこから徳川幕府に対して反旗が翻るかわからない頃であったわけなので、本陣といえども砦のようにある程度備をする必要があったものと思われ、それにより土塁がまわりを囲んでいたのではないかと思われ、築城後本陣は取払われたが土塁はそのまま残り、松林寺の中心あたりを囲んでいたということと思われます。</p>

<p>慶長１６年から元和４年ごろは、１６１１～１６１８年ごろの間。</p>

<p>本堂から道路に戻り、左（北、勝寿寺からだと直進）に２０メートルほど左に３基の宝篋印塔があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　弥勒町　松勝　松林寺　土井利勝父母・夫人の供養塔" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/mirokumachi_syorinji_doitos.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　弥勒町　松勝　松林寺　土井利勝父母・夫人の供養塔。（弥勒町）</p>

<p>基壇の上に３基の宝篋印塔があり、その手前に説明柱があり</p>

<blockquote>

<p>土井利勝の父母・夫人の供養塔<br />
この三基の供養塔は、慶長十五年（一六一〇）に佐倉に入った土井利勝が父母・夫人の追善供養のため寛永七年（一六三〇）に菩提寺である少林寺に建立したものである。正面向って左が利勝の養父土井利昌、中央が利勝の母、右が利勝の夫人のものである。土井氏の佐倉城主時代の貴重な資料である。</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>この宝篋印塔について、古今佐倉真佐子には</p>

<blockquote>

<p>扨客殿前左の方に土手ある。四方石かき。此上は芝付け、土手の下廻り丸竹玉垣。　扨土手の上に高さ六七尺斗の大石ひ一つある。土井大炊頭殿母公の塚也。</p>

</blockquote>

<p>とあり、土井利勝の母の物については記述がありますが、父と婦人のものについては記述がないのは不思議です。</p>

<p>３基の宝篋印塔について、佐倉市史研究の「松林寺土井家石塔群について」に</p>

<blockquote>

<p>前半省略</p>

<p>利昌は系譜上では慶長三年九月十一日没、三河国碧海郡土居村（大聖寺か）に葬られた。法名を宝光院殿本誉見貞という。この点、塔の銘文と違いはない。母は葉佐田則勝の娘で、没年は十一日では一致しているものの、慶長十年ないし十三年、また九月ないし七月と既に記録・系譜上でも混乱がみられる。法名は玉等院殿清誉壽安大禅定尼で問題ない。室は長澤松平清直の三女で、系譜上では没年不明ながら、当石塔に元和三年九月五日とあって、僅か十数年前のことに加え、後室（栄福院・駒井氏娘）との矛盾もないなど、信頼し得ると思われる。法名は清光院殿浄誉明徹大姉である。</p>

</blockquote>

<p>とあり、３基の宝篋印塔についての説明がされています。</p>

<p>慶長三年は１５９８年、慶長十年は１６０５年、慶長十三年は１６０８年、元和三年は１６１７年。</p>

<p>さらに「石塔造立の背景」として、佐倉市史研究の「松林寺土井家石塔群について」には</p>

<blockquote>

<p>さて、寛永七年といえば、土井利勝が佐倉に入って二十年後のことである。</p>

<p>...中略...</p>

<p>ただ、佐倉へ入って二十年後の時期に至り、父母又は妻の石塔を建てたことについては、利昌没後三十三年、つまり忌み明けともいえる三十三回忌に相当したためとみておきたい。</p>

<p>...中略...</p>

<p>...、命日に合わせ、父母の石塔を造立し且つ同年中に妻の法要も済ませたのではないだろうか。</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>左の宝篋印塔（父）の正面の中ほどに「宝光院殿」、その下に「本誉見貞」、右側面に「七月十一日」、左側面に「大禅定門」、裏面に「寛永七年」とあり、中央の宝篋印塔（母）の正面の中ほどに「玉等院殿」、その下に「清誉壽安」、右側面に「七月十一日」、左側面に「大禅定尼」、裏面に「寛永七年」とあり、右の宝篋印塔（妻）の正面の中ほどに梵字が３つ、その下の右に「淨譽」、中央に「清光院」、左に「明徹」、下に「大姉」、右側面に「干時　寛永七　庚午天」、左側面に「正寂者　元和三年　巳暦　九月五日」、裏面に「九月初五日　令造塔<img alt="己十という文字" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/otuju.gif" width="14" height="14" class="mt-image-none" style="" />（己の下に十という字であるが、常用としてはないもの）」とあります。</p>

<p>土井利勝父母・夫人の供養塔の右側に墓地への入口があり（ここには鎖で締め切りをしている）、入口の左に石造物群があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　弥勒町　松勝　松林寺　石造物群" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/mirokumachi_syorinji_sekibu.jpg" width="350" height="263" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　弥勒町　松勝　松林寺　石造物群。（弥勒町）</p>

<p>左側のものはおそらく月待塔で、正面上部に梵字と「二拾三夜」、正面の右に「下総国佐倉玉宝山松林寺九世乗譽□主大和田」、正面の左に「元祿五壬申二月九日　道首随譽直川大和田氏」とあり、左側から２つ目のものは地蔵塔で、台に「宝暦二壬申年　奉造立講中弥勒町」とあり、真中のものは地蔵塔で、台に「宝暦四甲戌三月吉日　奉造立講中弥勒町」とあり、右側から２つ目のものは地蔵塔で、首が欠損、台に「宝暦十一辛巳十一月□□□　（以下判読できず）」、右側のものは月待塔で正面に観音像、正面の右に「当時二十世□□造立常蓮社国誉氏」、正面の左に「文化八辛未年七月□□□」、台に「廿六夜」とあると、ふるさとの石仏にはありますが、ほとんどの文字が苔と剥離で判読し難い状態になっていて、ここにあげた文字の半分はすでに判読できない状態にあります。</p>

<p>元祿五年は１６９２年、宝暦二年は１７５２年、宝暦四年は１７５４年、宝暦十年１７６０年、文化八年は１８１１年。<br />
□は判読できない文字です。</p>

<p>石造物群から、石渡家住宅のある十字路まで戻ります。</p>

<p>ということで、今回はここまで。</p>

<p>参考文献は、「歴史の道調査報告書　成田街道」、「佐倉市史」、「千葉県下総国印旛郡寺院明細帳」、「千葉県下総国印旛郡神社明細帳」、「千葉県印旛郡誌」、「佐倉市誌資料」、「佐倉の歴史を学ぶ　資料集」、「多輪免喜」、「佐倉風土記」、「佐倉文庫」、「古今佐倉真佐子」、「新佐倉真佐子　－佐倉のお茶の間風土記－」、「総州佐倉御城府内之図」、「ふるさとの石仏」、「佐倉町二十五年誌」、「新道々の記」、「佐倉細見」、｢佐倉さんぽ　散策マップ（佐倉市観光協会発行）」、「城下町佐倉歴史街道の旅」、「佐倉市史研究」、「弥勒町遺跡」より。</p>

<p>引用は各文献と各社寺の説明板、地域の説明板より。</p>

<p>今回の地図は<a href="http://sanpobokko.com/kaido_image/sakuramichi_6.jpg">「佐倉道６」</a>です。</p>

<p>国土地理院２５０００分の１「佐倉」より作成しています。</p>]]>
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    <title>成田街道（佐倉道）その１０２ - Stroll Note</title>
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    <published>2010-05-07T13:51:47Z</published>
    <updated>2010-05-07T14:05:50Z</updated>

    <summary>佐倉道　城下町佐倉歴史生活資料館のすぐのところの信号のあるＴ字路（千葉県佐倉市新町）から肴町の直角カ...</summary>
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        <name>nobo</name>
        
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://sanpobokko.com/stroll_note/">
        <![CDATA[<p>佐倉道　城下町佐倉歴史生活資料館のすぐのところの信号のあるＴ字路（千葉県佐倉市新町）から肴町の直角カーブ（千葉県佐倉市新町）まで</p>

<p>城下町佐倉歴史生活資料館のすぐのところの信号のあるＴ字路に戻り、左（東、おはやし館からだと直進）に佐倉道を３０メートルほど進むと直角（櫛形）に曲がるところがあり、そこ角のところから道があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　新町　肴町東側　延覚寺入口" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/shinmachi_enkakuji_iriguti2.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　新町　肴町東側　延覚寺入口。（新町）</p>

<p>写真にある車が止まっているあたりに、江戸時代には辻番（辻番所）があり、ここで狼藉者や城下町の警戒にあたっていた現在で言う交番のようなものがあったところです。<br />
辻番跡の奥、延覚寺入口は白い建物（平成２２年３月までは道路まで古い理髪店の建物でした）が目印になり、この建物の左横の道を３０メートルほど入ると墓地があり、左（北）に向くとお寺さんがあります。</p>

<p><img alt="佐倉町　新町　肴町東側　延覚寺" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/shinmachi_enkakuji.jpg" width="350" height="263" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　新町　肴町東側　延覚寺。（新町）</p>

<p>千葉県下総国印旛郡寺院明細帳には</p>

<blockquote>

<p>本山本願寺末<br />
眞宗本願寺派　延覚寺<br />
一　本尊　阿彌陀如来<br />
一　由緒　南都延覚艸創年月不詳夫ヨリ建暦年中道澄再興其後破却退轉ニ及ヒ夫ヨリ寛永年中甚正興隆其後享保元丙申年十二月十四日善入ノ代ニ本佛尊像寺号本山ヨリ免許<br />
一　本堂間数　間口七間　奥行七間<br />
一　庫裏間数　間口八間　奥行五間半<br />
一　境内坪数　四百五拾五坪　民有地第壱種</p>

</blockquote>

<p>とあり、千葉県印旛郡誌もほぼ同じ記述であるので省略します。</p>

<p>建暦年間は１２１１～１２１３年の間、寛永年間は１６２４～１６４４年の間、享保元年は１７１６年。</p>

<p>南都とは大和（地名としては）のことで、現在の奈良県にあたり、奈良で延覚という人が創立したのか、延覚という人が佐倉に来て草創したのかは定かではありませんが、平安時代後期（平家全盛期）に奈良の興隆寺に延覚（藤原季仲の子供、興福寺少僧都）という人がいますが、「南都延覚」とあるので、もしかしたらなんらかの関係があり、推測としてこの延覚が奈良のどこかに寺を創建したと考えられなくもありません。<br />
その後、道澄（戦国時代、秀吉のブレーンになった道澄とは別人）という人が再興したが、その後破脚し退転したとあるのは、鎌倉時代の承久の乱（１２２１年）で京都とその周辺ではかなり激しい戦いがあり、その時に焼き討ち（破脚）にあったために、東国に僧侶などが落ち延びたということであるようで、それが佐倉であったかどうかは定かではありません。<br />
ただし、この前にも南都焼討（１１８１年）ということが平清盛によって起こっているので、このことを指しいてる可能性もあります。<br />
建暦年中は、鎌倉時代で１２１２年には鴨長明が「方丈記」を、１２１３年には和田義盛の乱があった頃で、三代将軍源実朝の治世のころ。<br />
中世に延覚寺（この頃の寺名は、はっきりしていない）が佐倉にあったとすると、佐倉市史の中世の寺院の所に記述があってもよさそうなのですが、延覚寺についての記述はありません。<br />
その後、破脚（焼き討ち）され甚正によって寛永年中に再興されたわけですが、約４００年もの間の開きがあるので、現在地が延覚寺のもともとあったところであるとはいえないようです。<br />
現在地に来たのは、この寛永年中であるとすると、佐倉市史の中世の寺院の所で記述がないことと合致することになります。<br />
再興されて、享保元年に善入の時に本尊と寺号を本山から免許されたとあるので、正式に「延覚寺」となったのは、享保元年からと千葉県下総国印旛郡寺院明細帳には書かれています。<br />
問題は、いつから浄土真宗であったかということになり、これは再興された時であれば寛永年中、正式に「延覚寺」となった時とすれば、享保元年ということになりますが、はっきり書かれていません。</p>

<p>千葉県下総国印旛郡寺院明細帳の「眞宗本願寺派」の横に朱線で訂正線が引かれたところに「眞言宗」とあり、もともとは真言宗であったような書き方ですが、単に「真宗」と間違えたとも見えるので難しいところです。<br />
ちなみに興隆寺は法相宗（南都六宗の一つ）です。</p>

<p>千葉県印旛郡誌には「眞宗西派」とかかれており、これは、現在東西の本願寺が京都にありますが、西本願寺が「眞宗西派」ということになります。</p>]]>
        <![CDATA[<p>稲葉時代（元禄１４年６月～享保８年５月）に書かれている古今佐倉真佐子には</p>

<blockquote>

<p>扨新町海道へ出ると、東の方肴町入口也。左右町屋三十間斗の内右の方魚店、左の方つねの見せ也。行当り黒塗へいじ（屏重）門有。内松林也。此内寺有。通より不見。円覚寺と云寺也。如左。<br />
一向宗円（延）覚寺。<br />
佐倉の東門跡也。鍛治作重願寺ち当寺。本尊立像みた也。両寺共町、家中且家ある。両寺共無所不見。寺中に可有之。法談等も一切なし。法恩講の節も殊外静也。両寺共に小寺にてひん寺也。</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>元禄１４年は１７０１年、享保８年は１７２３年。</p>

<p>「佐倉の東門跡也。」とあるのは、まだ武家屋敷町の拡張が完成されていない時で、新町のこの辺りが東の端に当たっていて木戸門（関門のようなもの）があったものと思われます。<br />
その門の跡ということは、佐倉道の道筋自体も延覚寺側によっていた、ということになりますが、現在の肴町のクランク（櫛形）は稲葉時代の街道の整備時に、改めて出来たものなのかも知れません。<br />
ということは、寛永年中には違う場所にあったことも考えられ、はじめはどこにあったのか謎は深まるばかりです。<br />
延覚寺も明治２４年の新町の大火の時にほぼ全焼しており、そのため古文書なども残されておらず、千葉県下総国印旛郡寺院明細帳に記述された事柄より、その由緒を知るのみとなってしまったようです。</p>

<p>明治２４年は１８９１年。</p>

<p>延覚寺の入口からすぐに墓地があり、墓地に沿って本堂へ１０メートルほど行った右側に説明書きのある石碑（墓碑）があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　新町　肴町東側　延覚寺　鈴木清助の碑" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/shinmachi_enkakuji_suzuki_h.jpg" width="233" height="350" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　新町　肴町東側　延覚寺　鈴木清助の碑。（新町）</p>

<p>この大きな碑の上に「旌烈之碑」とあり、碑文が書かれていますが、長文なので省略します。</p>

<p>旌烈之碑の前に説明板があり</p>

<blockquote>

<p>故　千葉県巡査部長<br />
鈴木清助氏　略伝</p>

<p>氏は佐倉町裏新町の士族、鈴木羽右衛門の四男として万延元年（一八六〇）四月二十八日、佐倉城下袋小路にて生まれる。その後、地元の鹿山学校（現佐倉高校）に学ぶ傍ら経学、水練術、剣術、柔術を習い特に柔術は楊心流の目録を受け、当時門下四天王の一人に称された。<br />
明治十五年十一月千葉県巡査となり、同二十一年十二月佐倉警察署在勤、日夜職務に精励し大いに嘱望された。<br />
そして明治二十三年（一八九〇）四月四日、川崎銀行佐倉支店からの国庫金護送の際、夫婦坂（千葉市若葉区西都賀）にて強奪犯に銃で襲われ、瀕死の重傷を負いながらこれを捕縛、敢然として責務を全うした後、壮烈な殉死を遂げた。<br />
この功績により即日、巡査部長に昇進、県知事から特別賞金が贈られた。また、故人の遺徳を称え全国から数多くの義捐金や書簡が届けられた。<br />
享年三十一歳</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>夫婦坂は、千葉県千葉市若葉区西都賀２丁目から１丁目にかけての坂で、ＪＲ都賀駅の西口（モノレール側ではなく、餃子の王将があるほう）の少し大きな通り（この道も左曲がるあたりで坂道になる）を約５００メートルほどいくと都賀駅西口入口交差点があり、ここを右に坂道を１６０メートルほど進んだ右に大きな碑があるところが、鈴木清助巡査部長が強奪犯と戦ったところになります。<br />
大きな碑文には、「千葉県巡査鈴木清助殉職碑」と書かれています。<br />
さらにいうと、この夫婦坂のある通りは、千葉の寒川湊と佐倉城を結ぶ北年貢道（佐倉道）であり、明治時代にも重要な道として機能していたことが、このことから窺えます。</p>

<p>旌烈之碑について、佐倉市誌資料に「鈴木清助の碑の題字は、当時の内閣総理大臣山県有朋で、銘文は農商務次官石田英吉、碑文を書いた人は千葉県大書記官岩佐為春」とあり、旌烈之碑の最後のほうに「内閣総理大臣従二位勲一等伯爵山県有朋篆額　農商務次官従三位勲三等石田英吉撰」と書かれています。</p>

<p>延覚寺の入口に戻り、左（南、おはやし館からだと右）に１８０メートルほどのところが肴町で、歴史の道調査報告書には</p>

<blockquote>

<p>嘉永元年の絵図によると、九〇間たらずの間に七軒の魚屋が並んでいたいわゆる魚の町であった。</p>

</blockquote>

<p>とあり、当時は魚屋さんが軒を並べていたところでした。</p>

<p>現在は、魚屋さんとして営業している店はなくなっていますが、昔ながらの佇まいを残した民家は何軒か残っています。<br />
しかし、ここも道路の拡張やら歩道の整備などにより、新しく建てなおされたところが多くなり、だんだんと昔の名残がなくなっています。</p>

<p>延覚寺の入口から左（南、おはやし館からだと右）に９０メートルほどの右側（西側）の建物の壁に飾りがあります。</p>

<p><img alt="佐倉町　新町　肴町西側　肴町山車飾" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/sakanamachi_yamaguruma_kaza.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　新町　肴町西側　肴町山車飾。（新町）</p>

<p>民家の白壁にあるものですが、大祭で使われていた山車の飾であったもののようで、説明の書いた木版がなければ、この白壁の装飾と思って見過ごしてしまいそうですが、こんなところにも町の伝統というか、良き物を残そうという感じがしていていいと思います。</p>

<p>このあたりの地図を載せます。</p>

<p><img alt="肴町・間の町・弥勒町・野狐台町あたりの図" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/sakana_mano_miroku_ykko_ata.jpg" width="500" height="432" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>肴町・間の町・弥勒町・野狐台町あたりの図。</p>

<p>肴町山車飾のある民家から７０メートルほど進むと佐倉道は左（東）に直角（櫛形）に曲がります。</p>

<p><img alt="佐倉町　新町　肴町　二つ目のカーブ" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/sakanamachi_crank_minamikaw.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　新町　肴町　二つ目のカーブ。（新町）</p>

<p>この直角カーブの手前の左側に、古い商家風の建物がありますが、ここは角屋と呼ばれているお宅で、新佐倉真佐子には</p>

<blockquote>

<p>教安寺参道の真向かいに、昔から旧家といわれる角屋佐兵衛の旧家がある。高橋利誠さんの住まいである。初代佐兵衛という人は、角店であるから角屋という屋号を名乗ったものと思われる。</p>

<p>...中略...</p>

<p>この角屋は、昔から代々荒物屋であったということを聞いてはいるが、明治時代には瀬戸物塗り物類が多かったといわれ、大正になってからは、桐たんす、花嫁道具一式のほか、雨がさのようにものまで商っていたそうだ。</p>

</blockquote>

<p>とあり、嘉永年間の新町の絵図にも「佐兵衛（角屋・荒物商）」と記載があります。</p>

<p>直角カーブの手前の右側（西側）の角には、今津屋さんがありますが、嘉永年間の新町の絵図には｢平兵衛（大和屋、荒物商）」とあり、新佐倉真佐子には</p>

<blockquote>

<p>今津屋という金物屋は袋町へ下る角店である。昭和三十年ごろ開店した成田の今津屋の出店である。この店はかっての坪井さんの住まいであった。屋号を上総屋といって、明治のころは旅館として栄えた店である。</p>

<p>...以下省略</p>

</blockquote>

<p>とあり、最近までは古風な建物がありましたが、現在は新しいものに建替えられて、当時の面影はなくなってしまいました。</p>

<p>嘉永年間は１８４８～１８５４年の間。</p>

<p>この今津屋さんの左側（直角カーブの西角）の道を１０メートルほど進むとＴ字路があり、直進（西）する道と左（南）に行く道とがあり、直進するとすぐに坂道（八軒町の坂）になり、袋町（八軒町）になり、２９０メートルほど道なりに進むと、<a href="http://sanpobokko.com/stroll_note/2010/04/post-111.php">成田街道（佐倉道）その９９</a>で歩いた玉家の坂につながり裏新町にたどり着きます。</p>

<p>Ｔ字路から左（南）に４０メートルほどのところの右（西）に題目塔（左、南側）があり、この題目塔のある参道を５０メートルほど進むと左に無縁塔群があり、その先、両側にインド寺院風の門柱があり、さらに４０メートルほどいくとＹ字路があり、右側の道のすぐ先に山門があり、その奥にお寺さんがあります。</p>

<p><img alt="佐倉町　鏑木町　袋町　妙隆寺" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/kaburagimachi_myoryuji.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　鏑木町　袋町　妙隆寺。（鏑木町）</p>

<p>千葉県下総国印旛郡寺院明細帳には</p>

<blockquote>

<p>法華経寺末<br />
日蓮宗　妙隆寺<br />
一　本尊　釈迦牟尼如来<br />
&ensp;&ensp;&ensp;由緒　文明三年四月創立<br />
&ensp;&ensp;&ensp;本堂間数　間口七間　奥行五間五尺　一　庫裡　間口四間半　奥行七間半<br />
&ensp;&ensp;&ensp;鐘楼堂間数<br />
&ensp;&ensp;&ensp;境内坪数　八百七拾七坪　官有地第四種<br />
&ensp;&ensp;&ensp;境内仏堂　三宇<br />
&ensp;&ensp;&ensp;鬼子母神堂<br />
&ensp;&ensp;&ensp;本尊　鬼子母尊天<br />
&ensp;&ensp;&ensp;由緒　不詳<br />
&ensp;&ensp;&ensp;建物　間口三間半　奥行貳間半<br />
&ensp;&ensp;&ensp;観音堂<br />
&ensp;&ensp;&ensp;本尊　観世音<br />
&ensp;&ensp;&ensp;由緒　不詳<br />
&ensp;&ensp;&ensp;建物</p>

</blockquote>

<p>とあり、千葉県印旛郡誌にもほぼ同様の内容になっていますが、鐘楼堂についてと、境内仏堂は「二宇」としています。</p>

<p>文明三年は１４７１年。</p>

<p>千葉県下総国印旛郡寺院明細帳の庫裡の下には朱字で「四十一年四月十一日庶收第二五二四號ニ依リ聞届リ」とあり、このときに庫裡を増改したようです。<br />
鐘楼堂間数のところが空白になっていますが、ここには朱線で消されていて「間口貳間　奥行貳間」とあり、その下に「四十一年四月九日処分結了同年四月十日廃收第二、五二七号ニ依リ削除」とあり、鐘楼堂を取り壊して処分したことが書かれています。<br />
鐘楼堂は、戦争のために鐘楼を供出させられたために処分されたようです。<br />
観音堂の建物のところも空白になっていますが、ここも朱線で消されてして「間口九間　奥行貳間」とあり、その下に「四十一年四月九日処分結了四月十日廃收第二、五二七号ニ依リ削除」とあり、このときに処分されたようです。</p>

<p>明治四十一年は１９０８年。</p>

<p>千葉県下総国印旛郡寺院明細帳には境内仏堂は「三宇」とありますが、実際に記述があるのは「二宇｣のみで、これは記述の間違いであろうと思われます。</p>

<p>妙隆寺について、佐倉市史には</p>

<blockquote>

<p>中山法萃経寺末であった。文明三（一四七一）年四月、平賀本土寺九世日意上人の創建で当初は本土寺末であったであろうが、その後、如何なる事情で法華経寺末となったものか、その年時等は不明である。当時に釈迦の像一体が安置されているが、台座から光背を含めて高さは一尺五寸五分、仏体は八寸。その厨子の扉の裏側に（右）釈迦仏一躰、定朝作、天正十二甲申□月晦日（左）原山城守胤安納之。久栄山五世日信代との墨書がある。この原胤安は前記の文珠寺の再興者で遠江守胤平の第二子、原上総守胤定の弟である。開山の日意上人が原氏の庇護で弥富に本土寺の末寺を建てているので、上勝田の妙勝寺と共に鏑木にも本土寺は教線を伸ばした一連のものとも考えられる。</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>本土寺は、千葉県松戸市平賀にある「あじさい寺」で有名なお寺さんです。<br />
上勝田の妙勝寺は、千葉県佐倉市上勝田にあるお寺さんで、ＪＲ総武本線の南酒々井駅から東に約１㎞ほどのところにあります。<br />
「中山法萃経寺末」の「萃」は、「華」の間違いと思われます。</p>

<p>山門をくぐったすぐ右に神社があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　鏑木町　袋町　妙隆寺　瘡守稲荷神社" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/kaburagimachi_myoryuji_kasa.jpg" width="233" height="350" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　鏑木町　袋町　妙隆寺　瘡守稲荷神社。（鏑木町）</p>

<p>城下町佐倉歴史街道の旅には</p>

<blockquote>

<p>妙隆寺山門付近にあり、瘡（皮膚病などでできるかさぶた）や天然痘から村人を守る神として崇敬された。ご利益を受けた者は土団子をつくり奉納したという。</p>

</blockquote>

<p>とあり、皮膚病治しのお稲荷さんとして信仰されているようです。<br />
現在は山門の右にありますが、もとは山門の左側にあったようですが、平成１６年に現在地に移ったようです。</p>

<p>平成１６年は２００４年。</p>

<p>瘡守稲荷神社の左に大きな庫裡、その左側に本堂があり、本堂左側は墓地になっていて、この墓地の東側（本道からだと左の方）の方に観音堂があり、これも最近新しく建てられたもののようです。<br />
墓地の奥には「みたまや」と呼ばれているところがあり、そこに稲葉家のものと思われる石碑が二基あるらしいのですが、今回は確認していません。</p>

<p>その石碑には「施主　田辺氏勝謂　芳寿院殿妙躰日相大姉　享保四己亥四月二十五日」と、「得寿院殿妙浄日證大姉　明和二乙酉年三月十五日」とあると、佐倉市誌資料にはあります。</p>

<p>享保四年は１７１９年、明和二年は１７６５年。</p>

<p>さて、妙隆寺がいつ頃この場所に移ってきたかについて、千葉県下総国印旛郡寺院明細帳と佐倉市史で明らかにしていませんが、題目塔が享保４年８月に建立されたもので、現地に移って数年後に建てられたと妙隆寺さんのホームページにはあり、そうすると享保４年以前であれば正徳年間である可能性もあり、ちょうど稲葉時代にも当たり、稲葉家ゆかりと思われる石碑があるのもうなずけるところです。<br />
ただし、これは推測であるわけですが。</p>

<p>正徳年間は１７１１～１７１６年の間。</p>

<p>山門に戻り、Ｙ字路を右（南、肴町の直角カーブからだと左）に１０メートルほどの左下に弥勒菩薩の石仏がありますが、平成２１年９月には弥勒菩薩の石仏ではなく、鬚題目の書かれた墓碑らしきものがあり、そこには鬚題目の「南妙法蓮華経」の右に「久栄山」、左に「十七世」という文字があり、この妙隆寺の十七代の住職さんのものと思われる墓碑もしくは供養塔がありました。<br />
おそらく現在は墓地にあるものと思われます。</p>

<p>平成２１年は２００９年。</p>

<p>この弥勒菩薩の石仏の先には駐車場になっているところがあり、この駐車場の一部（弥勒菩薩の石仏のあるあたり）と、そのうしろの民家のあるところは弥勒町の飛地となっているところです。<br />
この飛地は弥勒町字丸山という地名で、古今佐倉真佐子にも「右の方丸山道畠の中に松山ある、丸山と号す」とあり、現在も大木のあるところですが、残念ながら民家があるために「丸山」といわれた小山は削られほぼ平らなところとなっています。</p>

<p>駐車場の南側に細い道が東西に通っていますが、この道を通称「番神道」といい、かつてこの道沿いに「三十番神」の祠（神社）があったらしいのですが、現在はなく通りにその名を残すのみとなっています。<br />
三十番神について、古今佐倉真佐子には「此前左の方番神堂ある。」とあるのみですが、三十番神の堂があったことが書かれています。<br />
駐車場を出でた右（西）のほうのＳ字に曲がるあたりの手前、右側にあったものと思われます。</p>

<p>山門から、妙隆寺入口に戻り右（南、肴町の直角カーブからだと直進）に２０メートルほどの右に小さな山門がありますが、これは教安寺の裏門で、この裏門からさらに３０メートルほどいく変形十字路があり、十字路を右（西）に行く道は先ほど妙隆寺の駐車場から東西に通っていた通称「番神道」で、十字路のやや左から下（南）に下っていく道は「野道」と呼ばれている道で、この崖下にある中央公民館へ続いていて、十字路の左（東）の道を３０メートルほどいった右に神社があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　野狐台町　踊尾余　淡嶋神社" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/yakkodai_awashimajinja.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　野狐台町　踊尾余　淡嶋神社。（野狐台町）</p>

<p>創立年代などははっきりしていませんが、新道々の記には</p>

<blockquote>

<p>淡島神社<br />
創立年次不明である。古来、安産子育ての神として女人の信仰をあつめ、特に２月８日には、針供養がある。</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>入口を入った右側に手洗石（手水石）があり、右側に「享和四甲子歳　■（正か二か三か？）月　吉日｣とあります。</p>

<p>享和四年は文化元年でもあり１８０４年。<br />
■は読みづらい文字で、（）は当てはまるであろう文字です。</p>

<p>享和４年は２月１１日までなので、■の部分は「正」もしくは「二」ということになりますが、２月に針供養があることから考えて「二」というのが当てはまるような気がしますが、この時代に針供養が行なわれていたらの話で、そのあたり定かではありません。<br />
創立年代は手洗石（手水石）にある享和年間以前であると思われますが、これ以外の古い時代のものがないためはっきりとはしません。</p>

<p>淡嶋神社から肴町の直角カーブのところまで戻り、右（東）に進んでいきます。</p>

<p>ということで、今回はここまで。</p>

<p>参考文献は、「歴史の道調査報告書　成田街道」、「佐倉市史」、「千葉県下総国印旛郡寺院明細帳」、「千葉県下総国印旛郡神社明細帳」、「千葉県印旛郡誌」、「佐倉市誌資料」、「佐倉の歴史を学ぶ　資料集」、「多輪免喜」、「佐倉風土記」、「佐倉文庫」、「古今佐倉真佐子」、「新佐倉真佐子　－佐倉のお茶の間風土記－」、「総州佐倉御城府内之図」、「ふるさとの石仏」、「佐倉町二十五年誌」、「新道々の記」、「佐倉細見」、｢佐倉さんぽ　散策マップ（佐倉市観光協会発行）」、「城下町佐倉歴史街道の旅」より。</p>

<p>妙隆寺については、妙隆寺さんのホームページにある題目塔についてと、瘡守稲荷神社について、一部参考にさせていただきました。</p>

<p>引用は各文献と各社寺の説明板、地域の説明板より。</p>

<p>今回の地図は<a href="http://sanpobokko.com/kaido_image/sakuramichi_6.jpg">「佐倉道６」</a>です。</p>

<p>国土地理院２５０００分の１「佐倉」より作成しています。</p>]]>
    </content>
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    <title>あつっ！ - Photo Pocket</title>
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    <published>2010-05-04T15:18:25Z</published>
    <updated>2010-05-04T15:19:03Z</updated>

    <summary>Canon EOS10D　/ 東京都江東区</summary>
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        <category term="猫" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    <category term="公園" label="公園" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
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        <![CDATA[<p><span class="center"><img alt="あつっ！" src="http://sanpobokko.com/photo_pocket/images/mabushi_neco.jpg" width="660" height="440" /></span></p>

<p>あ、あつっ！。</p>

<p>目ぇ、あつっーうぅ！！。</p>

<p>あっ、あかん、目ぇあけられへん。</p>

<p>猫君曰く、「夕日ビームに目が暑い」...(笑)。</p>]]>
        
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    <title>５月ツツジ咲く - Notebook</title>
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    <published>2010-05-03T16:18:44Z</published>
    <updated>2010-05-03T16:18:44Z</updated>

    <summary>今年はちょっとツツジの咲きが遅いようですが、ここのところの天気でいっせいに咲き始めているようです。 ...</summary>
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        <category term="雑記" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://sanpobokko.com/notebook/">
        <![CDATA[<p>今年はちょっとツツジの咲きが遅いようですが、ここのところの天気でいっせいに咲き始めているようです。</p>

<p><img alt="５月ツツジ咲く" src="http://sanpobokko.com/notebook/images/DVC00111.JPG" width="240" height="320" /></p>

<p>こんな感じで、ドバァーっとまとめて咲いていたりします。</p>

<p>この連休はどこもかしこも車！車！車！に、人！人！人！に、ゴミ！ゴミ！ゴミ！だらけになるんでしょうねぇー。<br />
おいらはなるべくそんな中には行かないように、穴場を探してとぼとぼとしていますが、なかなかないなぁー(笑)。</p>]]>
        
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    <title>アップ！オーライ！ - Photo Pocket</title>
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    <published>2010-05-02T10:41:15Z</published>
    <updated>2010-05-02T10:41:15Z</updated>

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        <![CDATA[<p><span class="center"><img alt="アップ！オーライ！" src="http://sanpobokko.com/photo_pocket/images/zuzuun_neco.jpg" width="660" height="440" /></span></p>

<p>突然ですが、アップ！オーライ！。</p>

<p>猫君は心の中で「獲物が、前にいる！」と思って、視線を真っ直ぐにしていたとところにカメラが大接近。</p>

<p>「うっ、動けない」と思いつつ、写真に撮られたのでありました。</p>]]>
        
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    <title>おもろいなぁー - Notebook</title>
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    <published>2010-04-30T15:55:46Z</published>
    <updated>2010-04-30T15:59:34Z</updated>

    <summary>いやいやいやぁー、おもろいなぁー！矢部謙三！！。 テレビ朝日の金曜23:15からのドラマ枠はやっぱい...</summary>
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        <name>nobo</name>
        
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        <![CDATA[<p>いやいやいやぁー、おもろいなぁー！矢部謙三！！。</p>

<p>テレビ朝日の金曜23:15からのドラマ枠はやっぱいいですなぁー！。</p>

<p>といいながら、久々に見てみたら矢部っちですよ(笑)。</p>

<p>「こらぁー！お前なにしとんねん！！」ってねぇー、いやぁー、懐かしい！！。</p>

<p>４月の頭からやってたのしらなんで、今日まで見過ごしてしまいました、残念...。</p>

<p>これで金曜の夜、といっても今月だけでしょうが楽しみにしたいと思います。</p>

<p>そうだ、サラリーマンNEOもやっていたんでしたね、どっちも生瀬勝久ワールド全快や！！。</p>

<p>あっ、間違えた全開やて！！。</p>

<p>あかん、毒されるやんか(笑)。</p>]]>
        
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