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    <title>SanpoBokko</title>
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    <updated>2010-03-11T14:09:10Z</updated>
    <subtitle>日々のつぶやき・ぼやき・散歩や写真の話などをミックス。
お気楽無気力脱力感でお送りするごちゃ混ぜサイト。</subtitle>
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    <title>大銀杏が倒れたか... - Notebook</title>
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    <published>2010-03-11T14:09:10Z</published>
    <updated>2010-03-11T14:09:10Z</updated>

    <summary>昨日３月１０日に鎌倉八幡宮の大銀杏が倒れてしまったニュースがありましたが、いやはやびっくりに残念です...</summary>
    <author>
        <name>nobo</name>
        
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        <category term="雑記" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    <category term="史跡" label="史跡" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    <category term="神奈川県" label="神奈川県" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
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    <category term="鎌倉市" label="鎌倉市" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://sanpobokko.com/notebook/">
        <![CDATA[<p>昨日３月１０日に鎌倉八幡宮の大銀杏が倒れてしまったニュースがありましたが、いやはやびっくりに残念ですね。<br />
推定で１０００年ほどの樹齢だったというから相当なもんで、倒れたときに根本のほうには空洞があったと記事にもあり、写真でもその様子がわかりますが、木は年を経るにつれて、中心部から死んでいくのが普通で、大体の大きく古い木はよく空洞に入れるようになっているのにもかかわらず、元気に葉をつけたり、綺麗な花が咲いたりしています。<br />
これは、側面の樹皮側が新しく外へ外へと成長しているためで、厚さは１０～３０センチほどの厚さで空洞部分を保っていることが多いと思います。<br />
ただし、上のほうはちゃんと中心まで詰まっていますが、下のほうはだんだんと空洞化が進行して行き、最後には大銀杏のように根の部分がだんだん弱っていき、今回のような長雨のために根腐りが進行して、大風が吹くと倒れてしまう、といったことが起こってしまいます。</p>

<p>倒れている写真を見ると、左側の根が途中からばっさり切断しているようで、階段の下にあった根が相当ダメージを受けていたようで、このためにバランスが取れなくなって倒れたように思います。<br />
階段と大銀杏のところにあった赤い木の柵が浮き上がっていますが、しかも板が一枚完全に外れ、ほか３枚が下部破損。<br />
ということは、一旦後ろ側に傾いた後、階段側に傾きつつ、突然階段側の根が切断、そしてバランスを失い右側に傾きつつ、倒れるときに少し左側に回りながら倒れた、といったところでしょうか。</p>

<p>去年の紅葉の時期に、いつも寄りも葉が少ないという話を聞きましたが、去年の秋頃からすでに根本のほうが弱くなっていたのかもしれませんね。</p>

<p>こうなると公暁の亡霊さんは、ここで隠れることが出来なくなってしまい、実朝の亡霊さんは、うまく逃げられそうですね。</p>

<p>新聞の記事によれば「植え直しも含めて今後の対応を検討する」とありますので、もとのように植えなおされるのかもしれませんが、根廻を考えないと、またすぐに今回のような天気が続けば、倒れることになりますので、できれば根廻にはコンクリートなどで囲まず、できるだけ根が自然に伸びやすくなるようにし、前面をなるべく平地にすることが必要ではないかと思います。</p>

<p>とにかく復活できるようだった、復活させてほしいですね。<br />
なんたって鎌倉八幡宮のシンボルであり、歴史の生き証人でもあるわけですからね。</p>

<p>鎌倉の顔の復活を祈ります。</p>]]>
        
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    <title>成田街道（佐倉道）その９３ - Stroll Note</title>
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    <published>2010-03-07T15:26:42Z</published>
    <updated>2010-03-07T15:26:42Z</updated>

    <summary>佐倉道　佐倉城址公園佐倉城址本丸跡（千葉県佐倉市城内町）から佐倉城址公園佐倉城址椎木門跡（千葉県佐倉...</summary>
    <author>
        <name>nobo</name>
        
    </author>
    
        <category term="街道歩き" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    <category term="佐倉市" label="佐倉市" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    <category term="佐倉道" label="佐倉道" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
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    <category term="成田街道" label="成田街道" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://sanpobokko.com/stroll_note/">
        <![CDATA[<p>佐倉道　佐倉城址公園佐倉城址本丸跡（千葉県佐倉市城内町）から佐倉城址公園佐倉城址椎木門跡（千葉県佐倉市城内町）まで</p>

<p>台所門（不明門）跡から左右に空堀を見ながら土橋（現在は普通の道になっている）を３０メートルほど進むとＴ字路になり、ここからはもう一度二の丸内になり、Ｔ字路左（北）の道は子規の句碑の先のＴ字路から右（南）に曲がって進んできた道ですが、このＴ字路は右（南）に進んでいきます。</p>

<p>佐倉城の一から三の丸の位置関係の図を載せます。</p>

<p><img alt="佐倉城の縄張りの簡単な関係図" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/kantanna_kuwake_zu.jpg" width="450" height="338" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉城の縄張りの簡単な関係図。</p>

<p>Ｔ字路から右（南）に少し行くと「帯曲輪・出丸跡」の指示板があり、ここを左に曲がりながら５０メートルほど坂を下るとＹ字路になり、前方に進むのが帯曲輪への道で、左下に進んでいくのが出丸跡への道になり、ここでは先に出丸跡に進むことにして左下への道に進んでいきます。</p>

<p>２０メートルほど下ると今度は右に曲がり、３０メートルほど下ると出丸跡の入口になる十字路に出ます。<br />
この十字路の左からの道は、<a href="http://sanpobokko.com/stroll_note/2010/02/post-103.php">成田街道（佐倉道）その９１</a>で歩いた、三の丸の坂上木戸門跡から下っていく浅間坂の途中から来る道で、この道は江戸時代にはなかったもので、この道も連隊が来たときか、公園整備の時に出来た道と思われ、右（西）への道も、連隊が来たときか、公園が整備されたときのものと思われます。<br />
十字路を真っ直ぐに進んで出丸跡に入り、４０メートルほど道なりに進んだ辺りが清水門があった辺りです。</p>

<p><img alt="佐倉城址公園　佐倉城址　南側出丸跡" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/sakurajoato_minami_demaru.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉城址公園　佐倉城址　南側出丸跡。（城内町、右に見えるのがＬ字の土塁）</p>

<p>出丸跡はかなり改変がされていて、当時の遺構がほとんど残ってませんが、土塁の跡が唯一残っています。<br />
この出丸は佐倉市史によると二の丸のところに記述ががあり、清水門については</p>

<blockquote>

<p>一、出丸清水御門　二間に三間　袖塀二間四尺　竹行馬百拾七間。台所門から下りで二町余ある。二ノ丸続きではあるが別郭であるから平日は〆切の場所。この門は本丸崖下の水堀で遮断されているが堀沿いの通路とは引橋で必要によりつなげる仕懸であった。</p>

</blockquote>

<p>とあり、この出丸の周りに竹で作った馬除けと清水門には竹矢来があったことと、清水門からは対岸（現在の駐車場側）に引橋を下ろして、必要な場合通行が出来るようにしていたことが記述されています。</p>

<p>清水門の「清水」は、おそらく、浅間坂とハリスと堀田正睦の銅像の所の出丸跡へ下りていく道の合流点から下ったすぐ左（南）に、現在コンクリートで囲っているものがありますが、ここはもともと湧水点（清水の湧き出し口）であったところで、現在も水が少し湧き出ているのですが、この清水が清水門の名の由来になったようです。</p>

<p>出丸跡中央やや西より側から中心部に向って西向きのＬ字状の土塁が残っていて、土塁の西端と水堀川の土塁の東端を結ぶところが清水門があった位置で、その先の現在は地面になっているところあたりには水堀があったわけですが、ここは崖崩れで徐々に埋まったものか、連隊が来たときに埋められたもの定かではありません。</p>

<p>十字路の右（東）の道沿いにはレンガ造りやコンクリート造りの遺構がありますが、これは連隊の遺構で、東側の水堀が切れているあたりに土手が東に長く続いていますが、是も連隊のときももので、この場所には南射撃場というのがあって、ここで砲弾や機銃などの射撃訓練をしていたわけです。そのため、この部分にある佐倉城の遺構は、射撃訓練の対象になったためほとんど破壊されてしなくなってしまい、そのため坂下門や鷹匠町の遺構なども今日残っていません。<br />
その射撃場の西端に当たるこの出丸の東側も、実際は水堀があり、現在のように直線ではありませんでした。<br />
おそらくレンガやコンクリートの遺構は、この水堀を埋め立てたときのものであると思われます。</p>

<p>出丸跡の十字路からＹ字路まで戻り、今度は左（台所門からだと直進）に進むところが帯曲輪で、ちょうど本丸崖下に当たり銅櫓の直下あたりまで続いています。<br />
Ｙ字路から１００メートルほどの左に説明板があり、そこには</p>

<blockquote>

<p>帯曲輪跡<br />
帯曲輪の位置<br />
本丸を囲む空堀の一ノ門寄りの堀の落ち口から台所門寄りの堀の落ち口の間に位置し、延長約二百六十メートル、巾約四メートルから五メートル、武者走りから帯曲輪まで約二十五メートル、帯曲輪から根方（水堀際）まで約十五メートル。<br />
帯曲輪の用途<br />
帯状に細長く城のまわりを囲む曲輪でその用途は、敵が城の根方より攻撃し、帯曲輪までよじ登ってきたとき武者走りにあらかじめ用意して置いた石材、木材などを投げ落し、反撃するために設けたものである。</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>武者走りは、現在は見た目ではすぐにわからない状態ですが、よくよく観察をすると細いい道筋がありますが、ところどころ崖崩れによって消滅しています。</p>

<p>説明板からさらに１９０メートルほど進むと、左下に少し急に下る坂道があり、ここを下りたところで左から来る清水門のあった出丸の十字路を水堀に沿って進んでくる道と合流します。<br />
合流したところから右（北）に３０メートルほど行くと、今度は前方（北）から来る道と合流して左（西）に道は進みますが、この辺りから西側に道よりもかなり低くなった広場とかなり高い土塁があり、ここは西側の出丸の跡です。</p>

<p><img alt="佐倉城址公園　佐倉城　西側出丸跡" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/sakurajoato_demaru.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉城址公園　佐倉城　西側出丸跡。（城内町、写真は出丸跡南側の土塁上から見たところ）</p>

<p>合流点から３０メートルほど進むと道は左（南）に曲がり、３０メートルほどさらに進んだあたりに門があります。</p>

<p><img alt="佐倉城址公園　佐倉城址　西側出丸跡　旧城門" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/sakurajoato_kyujomon.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉城址公園　佐倉城址　西側出丸跡　旧城門。</p>

<p>この門の北側には説明書きがあり</p>

<blockquote>

<p>この門は昔城内にあったものであるが市内の酒造家土井家■（に）下賜され長くその表門として使用された　昭和三十七年城主堀田家の菩提寺である甚大寺がこれを譲り受け保管していたがこのたび市に寄付しこの地に復元されたものである<br />
昭和五十七年三月<br />
安城山甚大寺住職小川長顕識</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>昭和三十七年は１９６２年、昭和五十七年は１９８２年。<br />
■はくずし文字になっていて、少しにじんでいるため読みづくなっていますが、（）内の文字はおそらく入るであろう文字です。</p>

<p>どこにあったものかについては記されていませんが、屋敷門であることは確かで、甚大寺にあったことなどを考慮すると、御対面所にあったもの、もしくは三ノ丸御殿にあったものとも考えられます。<br />
解体前の三の門辺りの写真に、この門に良く似た屋敷門が写っており、もしかすると、その写真にある屋敷門であったのかもしれませんが、記録がないのでなんともいえません。</p>

<p>西側出丸跡には城門はなく木戸門（おそらく不明門［あすがのもん］）のようなものを設けていたと思われますが、ここに門（旧城門）を置いたのはは記念碑的にここに設けたものでしょう。</p>

<p>旧城門から先に進むと橋があり、水堀を渡って駐車場にいけるようになっていますが、江戸時代には橋はなくこの橋の先にはいけませんでした。</p>

<p>旧城門まで戻って、門の横（西）に土塁へ上る階段があり、ここから土塁に上がり、ぐるっと歩いていきます。</p>

<p>佐倉城跡発掘調査報告（国立歴史民俗博物館発行）に</p>

<blockquote>

<p>...このふたつの出丸も、出撃を強く意図した馬出し的な空間で、印旛沼につづく低地への城道を確保していた。つまり佐倉城は台地つづきの西方、椎木曲輪への北方、低地側の西・南方といった四方の要所に、土づくりではあっても強力な出撃力をもった馬出しを備えることで隙のない縄張りを実現したのである。</p>

</blockquote>

<p>とあり、攻撃と防衛のための砦であったことが伺えます。<br />
先にある橋の部分には、おそらく、南側の出丸にもあった引橋のようなものを戦時には使ったか、もしくは大きな板橋や舟橋（ある程度大きな舟の上に板を張り橋にしたもの）を使って渡っていたものと思われます。</p>

<p>土塁上から見てみるとかなり広く、しかも外からだとこの中がまったく見えないようになっていて、この出丸の中に人や馬がいても気付かれないようになっていることがわかると思います。</p>

<p>ぐるとっ回って土塁を下りると、先に帯曲輪から下りてきた合流点に戻ります。<br />
合流点から左（北、帯曲輪からだと右に進む）に進む道はヘビ坂に合流していく道ですが、今回は帯曲輪に戻り台所門（不明門）跡前のＴ字路まで戻ります。</p>

<p><img alt="佐倉城址　城内の図" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/sakurajouato_jonai_zu_kakun.gif" width="500" height="375" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉城址　城内の図。（三の丸まで）</p>

<p>台所門（不明門）跡前のＴ字路を直進（北、台所門跡からだと左）し、左に空堀を見ながら７０メートルほど進むと、一の門へ進むＴ字路（子規の句碑の近くの）に戻り、Ｔ字路を左に４０メートルほどの一の門跡へ進む手前の右の空堀方向（林になっている方向）へ曲がり（右、北）、４０メートルほど進んだあたりの右側の広場が御対面所の裏門があった辺りになります。<br />
空堀（林になっているところ）が左（西）に向っているところで、同じく左（西）に６０メートルほど進むと、少し小高くなったところがあり、その小高くなったところに大きな石がたくさんあります。</p>

<p><img alt="佐倉城址公園　佐倉城址　二の丸　佐倉城の礎石" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/sakurajoato_soseki.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉城址公園　佐倉城址　二の丸跡　佐倉城の礎石。（城内町）</p>

<p>この大きな石は、佐倉城の礎石であったもので、説明板には</p>

<blockquote>

<p>昭和五十九、六十年（一九八四、一九八五年）国立歴史民俗博物館の研究棟を建設するために、同敷地を発掘調査し、旧陸軍の営所跡を検出した。<br />
兵舎跡の基礎には、大量の石が詰めてあったが、主柱の建つ位置には佐倉城の礎石を埋め込んでいた。佐倉城は、江戸時代初期の元和年間（一六一〇年代）に土井利勝がこの地に築いた城である。明治時代初期（一八七三年）に同じ場所に陸軍の営所をおく際に、佐倉城の建物は取り壊し、その基礎を兵舎の基礎に転用したのである。</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>ちょうどこの礎石があるところに御米倉（後に金蔵）があった場所で、丘の右側（北）とその北にある花畑との間には通路があり、その先に下りる道がありましたが、この道は現在消滅（崖崩れしているため）していてありません。<br />
現在の花畑になっている部分は南側には御米倉があり、北側は空堀になっていましたが、陸軍が来たときに埋め立てられて、現在のようなほぼ平坦の場所になっています。<br />
ただし、花畑の後は林になっていますが、このあたり注意してみてみると突然崖（落下の危険があるので見に行かないほうがいいでしょう）になっている部分があり、若干空堀の名残があります。</p>

<p>佐倉城の礎石がある丘の前から北に３０メートルほど進むと、左右に若干窪んだところがあり、その中間あたりだけ高くなって広い道になっているところがあり、この小高く（ほんの少しだけ）なったところには不明門（あかずのもん）がありました。</p>

<p>ここには説明板などありませんが、佐倉市史には</p>

<blockquote>

<p>一、御城米不明御門　三間梁八間二階作り、畳は二ノ御門と同様。天水桶一　この門は馬具方役所で馬具を二階にいれておいた。</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>このあたりにいろんな形をした構造物（テーブルとかいすとかの残骸のようなもの）があり、右側（東）に林が見え、この下は空堀がありますが、その林から不明門と、さらに花畑の北側が直線上になるのが確認できると思いますが、この直線上のところ不明門の左右まで、かつて空堀があり、やはり陸軍が来たときに埋め立てられ消滅してしまいました。</p>

<p>この不明門跡の右（東）の林（後に空堀）に沿って１０メートルほどのところに、御対面所前に三社がありました。<br />
三社について佐倉市史には</p>

<blockquote>

<p>二ノ丸の八幡宮。新規に建て、文政六年十二月九日遷宮、中央に東照宮、左に八幡宮、右に高良明神を祀った。</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>文政六年は１８２３年。</p>

<p>この三社がどこに移ったのはなどは佐倉市史にも記述がなく、三社ともに廃社されたのではないかと思われます。</p>

<p>不明門跡から北は三の丸の北西側部分になり、右側（東）は現在広場兼駐車場（花見の時期など）になっており、左側（西）も広場と林（桜が多い）になっています。</p>

<p>不明門跡から５０メートルほど北に進んだあたり大木のあたりに説明板があります。</p>

<blockquote>

<p>③佐倉陸軍病院跡<br />
創設は明治７年。佐倉屯営病室・佐倉営所病院・佐倉衛戌病院・佐倉陸軍病院と名称が変遷した。昭和４０年代までテラスを配した洋風病棟が残っていました。</p>

</blockquote>

<p>とあり、この辺りから佐倉城の礎石がある辺りまでと、御対面所のあった辺りに病院施設がありましたが、昭和２０年に国立佐倉病院、昭和２５年に国立療養所佐倉病院、昭和２８年に国立佐倉療養所と名称が変わり、昭和５４年に国立佐倉病院として、<a href="http://sanpobokko.com/stroll_note/2009/11/post-95.php">成田街道（佐倉道）その８４</a>で名前の出ていた聖隷佐倉市民病院の場所に移転しまし、その後聖隷佐倉市民病院になっています。</p>

<p>昭和４０年代は１９６５～１９７４年までの間、昭和２０年は１９４５年、昭和２５年は１９５０年、昭和２８年は１９５３年、昭和５４年は１９７９年。</p>

<p>佐倉陸軍病院跡の説明板から今度は右（東）に６０メートルほど進むと舗装された道があり、ここを左（北）に２０メートルほど進んだ左に説明板があります。</p>

<blockquote>

<p>椎木門跡<br />
北面、木造、本瓦葺、二階造り　梁間三間、桁行七間。<br />
前面に馬出しが設けられていた。</p>

</blockquote>

<p>とあり、説明板の図には門の両側に御米蔵が描かれていて、この御米蔵について佐倉市史には</p>

<blockquote>

<p>一、椎ノ木御蔵　前の堀田氏時代（明暦三年）には、後のように一ヶ所にまとめないで、一部は椎木曲輪の東南端にあった。それが松平乗久時代の寛文年間、初めて椎木蔵が一ヶ所に整備され、以来幕末に及んだ。</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>この椎木門跡の説明板の前の舗装路の東側、林がある後には空堀があり、椎木門跡の説明板の後（西側）にも空堀がありましたが、これも陸軍が来たときに埋められて現在のように平地になっています。</p>

<p>椎木門跡から舗装路を南に道なりに１３０メートルほど左手に駐車場とテニスコートを見ながら進むとＹ字路があり、Ｙ字路の左の下に下りていく道がある辺りの左（下る道の上）には蔵番（番所）があったところで、駐車場とテニスコートのある場所には、椎木門跡の説明板ある図に載っていた東側の御米蔵があった場所になります。<br />
Ｙ字路を右に７０メートルほど進むと、<a href="http://sanpobokko.com/stroll_note/2010/02/post-103.php">成田街道（佐倉道）その９１</a>に訪ねた三逕亭の北側のトイレのあるＴ字路につながり、これで三の丸の北側と南側とを歩き三の丸全体を回ったことになります。</p>

<p>Ｙ字路まで戻って、下っていく道を７０メートルほど急坂を下りると十字路があり、右のほうには東屋があり、その先の崖の上に上がっていく道は三逕亭の北のトイレの東側３０メートルほどのところに出ます。</p>

<p>十字路を直進（東）し６０メートルほどのところにＹ字路があり、そのＹ字路の右側（西）の平場の上に小さなコンクリート造りの建物が見えますが、この建物は物置ではなく、陸軍で使用されていた脂油庫であったものです。</p>

<p>Ｙ字路を右に２０メートルほどで、<a href="http://sanpobokko.com/stroll_note/2010/02/post-103.php">成田街道（佐倉道）その９１</a>で訪ねた車道の碑のあるところに出てきます。<br />
Ｙ字路を今度は左（北）に６０メートルほど右に崖を見ながら進むと、右側の崖との間に平場があり、そこに説明板があり</p>

<blockquote>

<p>⑦弾薬庫の跡<br />
姥が池西側坂道を登った奥の窪地にありました。万一の爆発に備えた土手や建物に使われたコンクリートの一部が残されています。</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>弾薬庫の跡からさらに４０メートルほど進むと前方に池、左側から池に沿った道が合流し、６０メートルほど左に池を見ながら進むと、右側から<a href="http://sanpobokko.com/stroll_note/2010/02/post-103.php">成田街道（佐倉道）その９１</a>に訪ねたくらしの植物苑の西側に下りていく道（トイレがある空堀を利用した急坂）が接続します。</p>

<p>十字路まで戻り、左（北）に右手に梅林を見ながら７０メートルほど進むと、池が見えここでＹ字路になり、右に進む道は先ほど訪れた弾薬庫の跡空の道に５０メートルほどで接続します。<br />
Ｙ字路を左に池に沿って９０メートルほど行くと四辻（変形十字路）があり、右（南）から来る道は、先ほど訪れた弾薬庫の跡からの道とくらしの植物苑の西側に下りていく道（トイレがある空堀を利用した急坂）が合流したところから４０メートルほど進んできた道です。<br />
これでほぼ池の周りをぐるっと回ったわけですが、この池が姥が池です。</p>

<p><img alt="佐倉城址公園　佐倉城址　姥が池" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/sakurajoato_ubagaike.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉城址公園　佐倉城址　姥が池。（城内町）</p>

<p>四辻のところには説明板があり、そこには</p>

<blockquote>

<p>姥が池</p>

<p>この池は江戸時代、かきつばたの名所でした。春先には近在のひき蛙が数千匹あつまり、左右にわかれて昼夜７日間、蛙合戦を行なっていたと、「古今佐倉真佐子」（江戸時代中頃の書物）に記されています。<br />
後に（天保年間）この池の周りで家老の娘のおもりをしていた姥があやまって娘を池に落してしまい娘はそのまま沈んでしまいました。姥は困り果て身を投げたと伝えられ、以来「姥が池」といわれるようになりました。</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>天保年間は１８３０～１８４４年の間。</p>

<p>土井利勝時代の佐倉城本丸附近絵図（佐倉市史に載せられている）には「ため池」とあり、「姥が池」の名はまだ付いていないことがわかります。</p>

<p>現在は蓮がかなりあり、蓮池と行ったほうがいいほどになっていてます。<br />
蛙はひき蛙もいますが、うし蛙が結構いて、夏場はうし蛙たちの「むぉおー、むぉおー」という声がかなり響き渡ります。</p>

<p>三の丸御所があった駐車場のトイレのところの道（くらしの植物苑の西側に下りていく道）はもともとなかったもので、ここは空堀があり、現在の姥が池の南端の所の崖の部分から、東側にある広場には武家屋敷がありました。</p>

<p>姥が池の西側の現在梅林になっているあたりには畑（畠とある）があり、このあたりで城内の食料（葉ものや甘藷など）を作っていたものと思われます。</p>

<p>四辻から東に４０メートルほどの左にコンクリート製の階段があります。</p>

<p><img alt="佐倉城址公園　佐倉城址　訓練用の１２階段" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/sakurajoato_12kaidan.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉城址公園　佐倉城址　訓練用の１２階段。（城内町）</p>

<p>階段の左に説明板があり</p>

<blockquote>

<p>⑧訓練用の１２階段<br />
兵士が高所からの飛び下り訓練に使用したコンクリート製の階段。木製の飛び下り台と違い、壊すのが大変なため、戦後も残ったと考えられます。</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>説明板の写真にも、飛び下りの訓練をしている様子が写っていてますが、結構下の段で飛んでいるのではたしてこれで訓練になるのかと疑問に思ったりもしますが、一番上からだと高さがあるのでそれなりに訓練になっていたのでしょう。</p>

<p>さて、この階段の一番下に実は木製の基台が残っていましたが、現在はその部分が削れてなくなっており、土がだいぶ下まで見えるほど削れてしまったようです。<br />
おそらく土が雨で流れるのを防止していたものであったと思われますが、同じように木の基台は階段の後方１メートルほどのところにもかすかに残っていましたが、こちらも削れて（腐って）なくなってしまったようです。</p>

<p>訓練用の１２階段のある場所には、やはり武家屋敷があり、その後方の小高く（結構急な小さな崖がある）なっているところがあり、ここは少し広くなっており、ここは曲輪であったかもしくは竹林であったところと思われます。</p>

<p>姥が池辺りの図を載せます。</p>

<p><img alt="佐倉城址公園　佐倉城址　姥が池附近" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/sakurajouato_ubagaike_fukin.gif" width="500" height="375" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉城址公園　佐倉城址　姥が池附近。（城内町）</p>

<p>訓練用の１２階段前の道に戻り左（東）に１３０メートルほど道なりに進んだあたり右側に丘が迫ってくるところがありますが、ここまでの右側（南側）は現在蓮池（菖蒲園、２０００年ごろまでは草原だった）になっていますが、江戸時代の絵図（堀田氏時代の絵図）には「水花ダン」とあり、当時も花畑であったことがわかります。<br />
丘の迫っているところから南には谷津になっていますが、ここには武家屋敷（花畑を管理する奉行の屋敷か？）があり、この辺りから谷津に沿って上に上がる道があり、この道は佐倉中学校のある天神曲輪の天神社があったところに出る道でしたが、現在はその道は蓮池（菖蒲園）の奥までは畦道として残っているものの、谷津を上る道は崖崩れで消滅しています。</p>

<p>今度は逆側（北）ですが、ここにも蓮池（菖蒲園）になっていますが、その蓮池（菖蒲園）と民家との間の大きな木があるところに、少し広いく細長い広場状のところが５０メートルほどありますが、ここは七曲と呼ばれる曲輪につながっていた道で、現在は住宅地になっていてその道筋が１５０メートルほど消滅していますが、その住宅地の後ろ崖のところには途切れ途切れに道が１３０メートルほど残っていますが、現在は崩れていたりして歩くには向かない状態になっていて、両町橋まで実際は続いていましたが、残念ながら消滅しています。</p>

<p>この蓮池（菖蒲園）の左右の直線の部分は「御搦手」と記載があり、戦があり万が一城が危なくなったときに、こちらから城主などが逃げるためのところであったのですが、江戸時代にはその役目はほとんどなく、畑や花畑に屋敷などが立ち並んで、どちらかというと食糧倉庫のような場所になっていたと思われます。</p>

<p>丘が迫って来る場所から６０メートルほど道なりに進むと、大きな道路に出ますが、その手前にビオトープが右にあるところあたりに、両町橋のところにある水堀が現在の道路に沿って続いていて、さらに道路に沿って東に味噌部屋まで続いていました。<br />
御搦手からこの水堀までには警備のための屋敷と蔵があり、水堀には緊急時に木橋が架けられここから出入りが出来るようになっていました。</p>

<p>御搦手から姥が池の四辻（変形十字路）まで戻り、右（北、蔵番（番所）跡のあったＹ字路からだと左）に上っていく道を１００メートルほど行くと国立歴史民俗博物館の駐車場に出る道に接続しますが、ここは上らずに蔵番（番所）跡のあったＹ字路まで戻り、さらに椎木門跡まで戻り、北に進んでいきます。</p>

<p>ということで、今回はここまで。</p>

<p>参考文献は、「歴史の道調査報告書　成田街道」、「佐倉市史」、「千葉県印旛郡誌」、「佐倉市誌資料」、「多輪免喜」、「佐倉風土記」、「佐倉文庫」、「古今佐倉真佐子」、「佐倉城跡発掘調査報告書（国立歴史民俗博物館発行）」、「佐倉城の歴史」、「総州佐倉城（佐倉城本丸発掘調査概報）」、「佐倉城大絵図」、「総州佐倉御城府内之図」より。</p>

<p>引用は各文献と各社寺の説明板、地域の説明板より。</p>

<p>今回の地図は<a href="http://sanpobokko.com/kaido_image/sakuramichi_6.jpg">「佐倉道６」</a>です。</p>

<p>国土地理院２５０００分の１「佐倉」より作成しています。</p>]]>
        
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    <title>一部アドレスを制限しています - Notebook</title>
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    <id>tag:sanpobokko.com,2010:/notebook//4.506</id>

    <published>2010-03-06T17:07:52Z</published>
    <updated>2010-03-06T17:07:52Z</updated>

    <summary>ここ最近、あるアドレスからの大量のアクセスがあり、どうもスパム行為をしているようなので、一部のアドレ...</summary>
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    <category term="お知らせ" label="お知らせ" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    <category term="スパム対策" label="スパム対策" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://sanpobokko.com/notebook/">
        <![CDATA[<p>ここ最近、あるアドレスからの大量のアクセスがあり、どうもスパム行為をしているようなので、一部のアドレスを制限しています。<br />
そのため、このサイトをご覧いただけない方が出ると思われますが、このスパム行為らしい大量のアクセスが収まるようでしたら制限の解除をしたいと思いますが、いつになるかについてはわかりません。</p>

<p>約１秒に１から２回程、同じページにアクセスがあり、２５０から３００程を一度にしてきます。<br />
今のところサーバーのダウンなどは起こっていませんが、このアクセスがある間、ほかの方がサイトをご覧に来ていただいているときに、重くなったり表示されなかったなどが起こっている場合が出ていると思いますので、今回処置をしてみました。</p>

<p>marunouchi.tokyo.ocn.ne.jpが含まれるアドレスの方は、申し訳ありませんが制限の対象になっていますので、このサイトは表示されないようになっています。</p>

<p><ins>[2010-03-09 追記]　marunouchi.tokyo.ocn.ne.jpのアドレスである一定の条件がそろった場合に、制限をするように仕様を変更しました。marunouchi.tokyo.ocn.ne.jpのアドレスが含まれていても条件に合致していない場合は、サイトをご覧いただけるようにしました。</ins></p>

<p><a href="http://antispam.blfan.org/exhibit/zenshinkyou.htm">全信協spamクローラー</a>というもらしく、だいぶ前から問題になっているようです。<br />
<a href="http://antispam.blfan.org/exhibit/zenshinkyou.htm">組織ぐるみ(?)でspam送信spam投稿 (株)全信協<br />
</a>というサイトのほうで詳しく書かれていますので、同じような大量のアクセスがあり、しかもmarunouchi.tokyo.ocn.ne.jpが含まれるアドレスが含まれている場合には対処したほうがいいかもしれません。</p>

<p>しばらく様子を見て、なくなるようでしたら規制を解除します。<br />
</p>]]>
        
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    <title>最後の京都殺人案内を見た - Notebook</title>
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    <published>2010-02-27T14:19:05Z</published>
    <updated>2010-02-27T14:19:05Z</updated>

    <summary>アンコールというか、藤田まこと氏の追悼としてやっていた京都殺人案内を見ましたが、なんだかもの悲しい感...</summary>
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        <category term="雑記" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://sanpobokko.com/notebook/">
        <![CDATA[<p>アンコールというか、藤田まこと氏の追悼としてやっていた京都殺人案内を見ましたが、なんだかもの悲しい感じでした。</p>

<p>見ててもだいぶ「年取ったなぁー」って感じられるほどでしたが、さすがに演技はしっかりとしていて、さすがという他ありません。<br />
ただ、最後の鴨川でベンチに座って娘を待っているシーンがなんだか寂しげで、「あんなに猫背だったろうか？」と思うほど前かがみに座っているのが。しかも、立ち上がったときの足取りが少しおぼつかないのがわかるほどで、萬田さんが支えているように歩いていたのが印象的でした。</p>

<p>出演者もだいぶお年なので、あの名コンビの課長（今は違うが）も顔がくしゃくしゃになっているし、多喜川さんもそれなりにお年を召していて、全体的に出演者の高年齢化が進んでいるという感じでした。</p>

<p>このシリーズは昔から見ていて好きだったんですよ。なにせ、自分の生れた所あたりが画面に出てくるし、懐かしい場所がいっぱい出てくるし、なんといっても懐かしい言葉が２時間聞けるわけだし。</p>

<p>しかし、残念です。</p>

<p>剣客商売シリーズは好きだったし、藤田まこと氏の演技が見られないのは、ただただ残念です。</p>]]>
        
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    <title>曇り空に河津桜 - Notebook</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://sanpobokko.com/notebook/2010/02/post-97.php" />
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    <published>2010-02-26T13:36:14Z</published>
    <updated>2010-02-26T13:36:14Z</updated>

    <summary>春一番も吹いて、なんだか春の陽気な日が続いていますが、どうも曇りやら雨なのがいけません。 さて、千葉...</summary>
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    <category term="花" label="花" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://sanpobokko.com/notebook/">
        <![CDATA[<p>春一番も吹いて、なんだか春の陽気な日が続いていますが、どうも曇りやら雨なのがいけません。<br />
さて、千葉県の県庁近くの小さな公園の、そのまた小さな木に淡いピンクの花が咲いていました。</p>

<p><img alt="公園の河津桜１" src="http://sanpobokko.com/notebook/images/DVC00107.JPG" width="240" height="320" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>ぱっと見は梅のように見えましたが、それにしては形が違うのでよくよく見てみると、河津桜とネームプレートがあったので、河津桜と確認。</p>

<p>伊豆の河津や神奈川県松田町の松田山などの河津桜はもう満開ですが、ここのまだまだ６～8分咲きでしたが、この暖かさでもう満開になったと思います。<br />
何せまだ若い木ですから、咲いてからは早いと思うのでね。</p>

<p><img alt="公園の河津桜2" src="http://sanpobokko.com/notebook/images/DVC00106.JPG" width="240" height="320" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>こんな感じでこの河津桜も、あと１０年もすればもっと色づきのいい綺麗な花を咲かすことでしょう。</p>]]>
        
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    <title>何か重いような... - Photo Pocket</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://sanpobokko.com/photo_pocket/2010/02/post-48.php" />
    <id>tag:sanpobokko.com,2010:/photo_pocket//6.502</id>

    <published>2010-02-22T11:39:57Z</published>
    <updated>2010-02-22T11:39:57Z</updated>

    <summary>Canon EOS10D　2006 / 千葉県千葉市美浜区</summary>
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        <name>nobo</name>
        
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        <category term="猫" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    <category term="公園" label="公園" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
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    <category term="千葉県" label="千葉県" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://sanpobokko.com/photo_pocket/">
        <![CDATA[<p><span class="center"><img alt="何か重いような..." src="http://sanpobokko.com/photo_pocket/images/nankaomoi_neco.jpg" width="660" height="440" /></span></p>

<p>「んー、何か重いような...。」と、黒白猫君は思っている。</p>

<p>「んー、楽ちん楽ちん。」と、さび猫君は思っている。</p>

<p>見ているほうは「ほうほう」とニヤニヤしながら見ている。</p>

<p>そうだ２月２２日は猫の日でした！、ちゃんちゃん。</p>]]>
        
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    <title>成田街道（佐倉道）その９２ - Stroll Note</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://sanpobokko.com/stroll_note/2010/02/post-104.php" />
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    <published>2010-02-21T10:17:40Z</published>
    <updated>2010-02-21T10:37:34Z</updated>

    <summary>佐倉道　佐倉城址公園佐倉城址三の丸跡その１（千葉県佐倉市城内町）から本丸跡（千葉県佐倉市城内町）まで...</summary>
    <author>
        <name>nobo</name>
        
    </author>
    
        <category term="街道歩き" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    <category term="佐倉市" label="佐倉市" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
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    <category term="成田街道" label="成田街道" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://sanpobokko.com/stroll_note/">
        <![CDATA[<p>佐倉道　佐倉城址公園佐倉城址三の丸跡その１（千葉県佐倉市城内町）から本丸跡（千葉県佐倉市城内町）まで</p>

<p>三逕亭前にあるＴ字路のタウンゼント・ハリスの像と堀田正睦の像の間の道を進んでいきます。<br />
右手に空堀を見ながら１０メートルほど進むと、左側に細道があり、この細道に沿って南に空堀がありますが、当時の空堀は細道のあるところまで広くありましたが、やはり連隊が佐倉城に来た時期か、戦後にこの場所に道がつくられたものと思われ、この細道は<a href="http://sanpobokko.com/stroll_note/2010/02/post-103.php">成田街道（佐倉道）その９１</a>の三の丸の坂上木戸門から下りていく浅間坂の道に７０メートルほど下ったところで合流します。<br />
細道のあるところから３０メートルほどで空堀を渡った（空堀と空堀の間には土橋があった）あたりの両側に土塁が残っており、土塁と土塁の間に二の門がありました。</p>

<p><img alt="佐倉城址公園　佐倉城址　二の門跡" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/sakurajoato_2nomon.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉城址公園　佐倉城跡　二の門跡。（城内町）</p>

<p>説明板には</p>

<blockquote>

<p>二の門跡<br />
東面、木造、本瓦葺、二階造り、梁間三間、桁行八間<br />
本丸から大手門にいたる第二の門で「二の御門」と呼ばれていた。<br />
一の門の東方一直線上にあたり、武器庫として使用された。門内は二の丸といい、藩政を執る役所が置かれていた。</p>

</blockquote>

<p>とあり、二の門の西から北にかけて二の丸内となります。</p>

<p>二の門跡から２０メートルほどの左側に句碑があります。</p>

<p><img alt="佐倉城址公園　佐倉城址　二の丸　子規の句碑" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/sakurajoato_shiki_kuhi.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉城址公園　佐倉城址　二の丸　子規の句碑。（城内町）</p>

<p>これは正岡子規の句碑で、右となりの説明板には</p>

<blockquote>

<p>常盤木や冬されまさる城の跡</p>

<p>　　　　（「寒山落木」巻三自筆稿）</p>

<p>明治の時代思潮を体現し、俳句・小説・文芸評論・写生画などに活躍した　正岡子規（一八六七－一九〇二）は、一八九四年（明治二十七年）本所－佐倉間に開通した総武鉄道に初乗りして佐倉の地を訪れている。<br />
その時の模様は当時の新聞「日本」（十二月三十日号）に詳しいが、この句はその時詠んだものであり、写生文の創始者として郊外写生の真髄をよく伝えている。<br />
この時すでに子規は病気がちであり、その悲痛も感じられる。<br />
子規は佐倉ゆかりの人間国宝香取秀真、洋画家の浅井忠とも深いつながりがあり、フランス留学から帰国した浅井忠は近くに住んでお互いに敬愛した仲であった。<br />
佐倉にはここの他、国鉄佐倉駅前城南橋付近にも</p>

<p>「霜枯の佐倉見上ぐる野道かな」</p>

<p>の句碑がある。</p>

<p>昭和六十年三月<br />
佐倉市役所　商工観光課</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>昭和六十年は１９８５年、国鉄佐倉駅は現在のＪＲ佐倉駅のこと。</p>

<p>「本所－佐倉間に開通した総武鉄道」とある「本所」駅は、現在の「錦糸町」駅のことで、明治２７年（１８９４）１２月９日に開業しているので、「佐倉」駅もこのときに出来たということで、平成２２年（２０１０）で１１６年になるわけで、「本所」駅が「錦糸町」駅に名称を変更したのは大正４年（１９１５）５月１日のことです。</p>

<p>正岡子規が佐倉に関わりがあるということは、余り知られていないようで、説明板などを読んではじめて「そうなのか」と、意外な思いがするのではないかと思います。</p>

<p>子規の句碑から１０メートルほどでＴ字路になり、ここは直進（西）していきますが、左（南）に行く道は台所門へ行く道で、ここは後ほど歩くとして直進していきます。<br />
さて、二の門からの本来の道筋は、二の門跡の右側（北）に残っている小さな土塁（すぐ後は空堀）に沿って３０メートルほど進み、今度は左（西）に進んで行くようになっていました。<br />
そして、左（西）に進んでいくあたりの北側には御対面所があった辺りで、後ほど歩いていくところの御蔵米不明御門（不明門跡、現在は説明板などは設置されていない）近くまであった大きな屋敷が御対面所でした。<br />
佐倉市史には</p>

<blockquote>

<p>土井氏築城後、利勝の実弟内蔵允が城代としてここに屋敷をもっていた。その後、堀田正信時代の明暦の絵図には記入がないので不明であるが松平乗久の寛文年間の絵図には初めて御対面所となっている。</p>

<p>...中略...</p>

<p>その中に屋形があり城主在邑の時はこの館に住んだ。</p>

<p>...中略...</p>

<p>また城主在府の時は家老外重役が年賀、五節句の祝はここで家中の士からうけた時代もあった。</p>

<p>...中略...</p>

<p>この御対面所も腐朽が著しく修築維持に困難であったので文化二年四月取毀した。そこで城主在邑の折の住居并、年始・五節句の賀祠は本丸の館に代わることとなった。その後「二ノ丸番所」として建て直し公儀の御触書等はここに置いて藩士へ見るように達した。</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>明暦年間は１６５５～１６５８年の間、寛文年間は１６６１～１６７３年の間、文化二年は１８０５年。</p>

<p>御対面所が出来たのは、佐倉市史によると松平乗久の代であるのではないかとあり、おおよそこの時期であっているように思われます。<br />
この御対面所の屋形で城主（藩主）が在邑に時に使われたその最初を寛文初年として、最後に使われたのが三ノ丸御殿が完成する寛政十年までとすると１３８年間使用されたことになります。<br />
安政年間の佐倉城實測圖では「御番所」と記入されています。</p>

<p>安政年間は１８５４～１８６０年の間。</p>

<p>二の門を入った屈曲した道筋西側には、大腰掛と呼ばれる腰掛長屋があり、二の門の南から屈曲した道に沿ってＬ字に北側の御対面所側の二の丸入口までありました。<br />
その腰掛長屋があった位置は、子規の句碑のあるあたりのところに約５メートル幅であったようですが、現在はその遺構の跡もまったくなく、二の門跡から少し斜めになって道が進んでいます。<br />
二の丸の北側は後ほど歩くとして、二の丸南側から本丸へ先に進むことにします。</p>

<p><img alt="二の門と一の門あたりの図" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/2_1nomon_atari_zu.jpg" width="500" height="375" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>二の門と一の門あたりの図。</p>

<p>Ｔ字路を今度は直進（西）し、左に空堀（かなり深い薬研堀）を見ながら４０メートルほど進むと右側にも空堀（こちらもかなり深い薬研堀）が見えてくるあたりから、やや幅が狭くなっている場所が土橋で、ここを２０メートルほど進むと両側に四角く囲われた場所があります。</p>

<p><img alt="佐倉城址公園　佐倉城址　一の門跡" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/sakurajoato_1nomon.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉城址公園　佐倉城址　一の門跡。（城内町、写真は本丸から見たところです）</p>

<p>説明板には</p>

<blockquote>

<p>一の門跡<br />
東面、木造、本瓦葺、二階造り、梁間四間、桁行八間<br />
本丸から見てはじめての門で「一の御門」と呼ばれていた。門内は本丸といい、天守閣、銅櫓、角櫓、御殿が置かれ、御殿の前庭には金粉をすりこんだ栗石が敷かれていたと伝えられている。</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>佐倉城本丸にあったものの簡単な配置図を載せます。</p>

<p><img alt="佐倉城本丸配置図" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/sakurajo_honmaru_haichizu.jpg" width="500" height="375" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉城本丸配置図。</p>

<p>一の門跡から本丸に入り見渡してみると、周囲をぐるっと土塁（高い土手）で囲まれているのがわかります。</p>

<p><img alt="佐倉城址公園　佐倉城址　本丸　土塁" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/sakurajoato_dorui.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉城址公園　佐倉城址　本丸　土塁。（城内町）</p>

<p>右側の土塁のところには説明板があり、ここには</p>

<blockquote>

<p>土塁<br />
佐倉城は石垣のない土づくりの城です。城の防衛のための土手を土塁と呼びます。土塁は城を外敵から守るために築かれたもので、土塁を巧みに配置して城の守りとしています。本丸の土塁の上には土塀が存在しました。</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>佐倉城に限らず、千葉県内の城の大多数は土づくりの城です。なぜかというと、千葉の台地はもともと海の中にあった堆積地で石垣に使えるような大きな石がほとんど出てこない土地柄（一部鋸山などでは産出していた）であり、そのために土で縄張りを作るか、微高地や小山、丘、扇状地の先端などを利用して城が築かれています。<br />
さらに谷津が多分に発達しているのも特徴で、複雑な谷津と谷津との間の微高地を使って城を築いているので攻められにくいという利点もあったようです。</p>

<p>一の門跡の右側（北）の土塁のさらに右側の奥には、戦時中使われた防空壕の跡がありますが、現在はここは閉鎖され入れなくなっています。</p>

<p>土塁に上がって左に３０メートルほどでもう一度左に曲がり、さらに４０メートルほどで右斜めに進みすぐに左に進み、しばらく行ったところで右に曲がったあたりに四角に枠どられた場所があります。</p>

<p><img alt="佐倉城址公園　佐倉城址　本丸　銅櫓跡" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/sakurajoato_doyagura.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉城址公園　佐倉城址　本丸　銅櫓跡。（城内町）</p>

<p>説明板には</p>

<blockquote>

<p>銅櫓跡<br />
木造、銅瓦葺、六間四方、二階造り<br />
この銅櫓は、土井利勝が将軍から拝領し、江戸城吹上庭内より移築したものでもとは三層であって、太田道灌が造ったものといわれている。</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>説明板に載せられている写真を見ると二階建てのものであることがわかりますが、当初は三層（三階建て）であったと説明板にもあるとおりで、移築したときに二層（二階建て）にしたのか、その後にしたのかについては記録にはないようです。<br />
佐倉市史にある徳川実記にあった記述の中に「...利勝はおのが所領佐久良に運送して、これを補修し城内の天守となす」とあり、「天守となす」とあることから、最初の天守はこの銅櫓であったのではなかったのかと思わせるような記述があります。<br />
これについては、言及がされていないので実際のところ、はっきりしていません。</p>

<p>太田道灌が作ったとなると長禄元年（１４５７年）あたりに造られたものであるということになり、土井利勝が貰い受けたとき（慶長十六年［１６１１］から元和三年［１６１７］までの間）はすでに１５５年から１６１年ほど経過していたことになり、相当に痛んでいたのではないかと思われるので、この太田道灌が造ったというのは時代的に無理があるようにも思われますが、修繕に継ぐ修繕を施し、江戸城の吹上庭内に移築はしたものの、庭内には少々似合わないために、取り壊そうとしたときに土井利勝が引き取ったというのが真相のような気もします。<br />
それにしても明治六年（１８７３）の取り壊しまで残っていたということは、太田道灌が造ったということが事実であれば、約４１７年もの間建ちつづけていたということになります。</p>

<p>吹上庭内は現在の皇居吹上御所（御殿）のあるところです。</p>

<p>銅櫓跡から２０メートルほど南の土塁の下に大木があります。</p>

<p><img alt="佐倉城址公園　佐倉城址　本丸　夫婦モッコク" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/sakurajoato_mokkoku.jpg" width="233" height="350" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉城址公園　佐倉城址　本丸　夫婦モッコク。（城内町、写真は下の広場から見たところ）</p>

<p>この大木は夫婦モッコクと言われており、説明板には</p>

<blockquote>

<p>千葉県指定天然記念物　佐倉城の夫婦モッコク</p>

<p>　　　　　　　　　　　　　　　　　昭和二十七年十一月三日指定</p>

<p>モッコクは清澄山より東海道以西、四国、九州の近海地に自生する小喬木である。<br />
本樹は、むもともと二株植えられたもののうち、一株が夫婦モッコクとなったものか、三株寄植えしたもののうち二株が癒合してできたものか、明らかでない。樹高十一・六メートル、目通り幹囲二・六メートルで、モッコクとしては巨木である。<br />
佐倉城の築城については、「土井利勝が慶長十六年（一六一一）から元和三年（一六一七）まで七年をかけて完成し規模こそ小さくとも本丸等に種々の庭樹を植え雄大な風格を示した」との伝えがある。<br />
このモッコクは庭樹の一つであったと考えられている。佐倉市松林寺境内にも巨木が所在する。<br />
昭和五十七年二月十日<br />
千葉県教育委員会<br />
佐倉市教育委員会</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>昭和二十七年は１９５２年、昭和五十七年は１９８２年。</p>

<p>この夫婦モッコクには、当時の連隊の兵士が書き込んだ落書きが残っており、説明板には</p>

<blockquote>

<p>④兵士が文字を掘り込んだモッコク<br />
本丸跡にある県指定天然記念物。幹に「昭和十八年十月」「砲隊」といった落書きが彫られています。</p>

</blockquote>

<p>とあり、やや文字は木が生長をしているために薄くなってきているようですが、はっきりと読み取れます。</p>

<p>昭和十八年は１９４３年。</p>

<p>連隊は昭和１９年（１９４４）のフィリピン戦でほぼ壊滅していますので、この落書きをした兵士もおそらくこのときの戦争で命を落としてしまったのではないかと思われます。<br />
そう考えると、単に落書きとしてみるというよりかは、当時の激戦でこの落書きをしたであろう兵士も出撃が近く、自分が生きていた証として残していたのではないかと思うのですが、この落書きもいずれ木の生長と寿命により消えていくのでしょう。</p>

<p>夫婦モッコクからまた土塁に上り、南に３０メートルほどいった左に一段低い四角に囲ったところがあります。</p>

<p><img alt="佐倉城址公園　佐倉城址　本丸　天守閣跡" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/sakurajoato_tenshukaku.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉城址公園　佐倉城址　本丸　天守閣跡。（城内町）</p>

<p>ここは天守閣があったところで、佐倉市史には</p>

<blockquote>

<p>一、御天守　七間に八間　床下共五層</p>

<p>城外の角来辺りから見ると三階に見えたので御三階と呼ばれた。天守閣は近世城郭の中核をなすものであるが、戦国時代の望楼としての目的から発展したものであるが近世ではそれらは見られず。佐倉城の天主も武具の倉庫であった。享保年間のことを知る「佐倉真佐子」にも天守閣には武具方役所が置かれたとある。</p>

<p>...中略...</p>

<p>天主閣焼失。武器庫に使用したことは前記の通りであるが、文化十年三月二十八日、盗賊のため天主閣は焼失した（城主は正愛代）。</p>

<p>...以下省略</p>

</blockquote>

<p>とあり、盗賊の置き忘れた堤燈の火がもとで出火した事が記述されています。<br />
そして、幕府へは盗賊による火災であるとは届け出なかったため、以降は再建されなかったとあります。</p>

<p>文化十年は１８１３年。</p>

<p>この天主のことを三重御櫓ともいっていたようで、これは「城外の角来辺りから見ると三階に見えたので御三階と呼ばれた。」と同じで、城外からは三重に見えたことからきているようです。</p>

<p>天守閣跡から土塁を１５０メートルほどぐるっと進むと土塁が終わる辺りから、下に下りた場所に四角く囲んだところが土塁側と、その逆側にもあります。</p>

<p><img alt="佐倉城址公園　佐倉城址　台所門（不明門）跡" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/sakurajoato_daidokoromon.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉城址公園　佐倉城址　台所門（不明門）跡。（城内町、写真は土塁側から見たところ）</p>

<p>台所門跡には説明板がないので、佐倉市史の記述を見ると</p>

<blockquote>

<p>一、御台所門　三間梁に七間　二階作り　畳六畳二間。大破につき文化三年正月、取崩し、木戸門にして置いた。</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>文化三年は１８０６年。</p>

<p>表示板には「台所門跡（不明門）」とあり、「不明門」とあるのは「あかずのもん」ということで、通常この門は締め切られていた門だったということのようです。<br />
文化三年以降は、木戸門にしていたということは、少し幅なども小さくなっていたのではないかと思われます。</p>

<p>台所門（不明門）跡の東側には土橋（土橋の両側は空堀がある）があり、その先は子規の句碑から南に堀に沿ってくる道がありますが、そこは後ほど歩くとして、台所門（不明門）跡の北側に竹で囲ってある部分があり、ここを３０メートルほどいったところに砂利で区画されたところがあります。</p>

<p><img alt="佐倉城址公園　佐倉城址　本丸　角櫓（三階櫓）跡" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/sakurajoato_suniyagura.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉城址公園　佐倉城址　本丸　角櫓（三階櫓）跡。（城内町）</p>

<p>角櫓（三階櫓）跡にも表示板があるのみで説明板がありませんが、佐倉市史によると</p>

<blockquote>

<p>二、三階御櫓　六間に七間。角櫓で平常天守閣と同じく武器庫であった。建築は粗末であったようで、平野重久（堀田藩の重臣で幕末から明治初年にかけて活躍し、歴史の考証に詳しい）が物した『佐倉城小記』には、〝......又角櫓と称する櫓は極めて粗悪にして、千葉氏の将門なる根古谷城より引きし所なるよし。柱などに多くの貫の孔などあり......〟と述べている。『匠庁録』によると寛政三年二月に大修理をしているが、辛じて、明治六年に取払った時まであったものであろう。天守閣とこの角櫓の屋根にはシャチホコを載せていた。</p>

<p>...以下省略</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>寛政三年は１７９１年、明治六年は１８７３年。</p>

<p>この中で「千葉氏の将門なる根古谷城より引きし所なるよし。」とあるのは、千葉県印旛郡酒々井町にある本佐倉城のことですが、本佐倉城にあったどこの櫓を角櫓として使ったのかは書かれておらず、本佐倉城の城山（Ⅰ郭）にあったものか、それとも向根古谷（Ⅸ郭）と呼ばれる城ノ内にあったものかは定かではありません。</p>

<p>シャシホコについて佐倉市史には</p>

<blockquote>

<p>...『古今佐倉真佐子』には、〝高サ八尺余有<sub>ﾚ</sub>之。木にて作たるしやちほこ也。一とせ大風の時三重の方、しやちほこ吹落ちたる節、其行きて見しに、足をつまだてて、手を一ぱいにあげて、しやちほこの尾を見しに、手よりははるか尾上也。其後承合るに八尺有<sub>ﾚ</sub>之由。木にてほりたるものにて佐倉の大工共是をつくる也〟と。</p>

</blockquote>

<p>とあり、木で出来たシャチホコを載せていたとあり、正保三年頃に描かれた「佐倉城大絵図」にも天守閣と角櫓にシャチホコが描かれています。</p>

<p>正保三年頃は１６４６年頃のこと。</p>

<p>角櫓（三階櫓）跡から竹で囲っているところと、その後の土塁に沿って８０メートルほど進んでいくと一の門跡の戻り、本丸の中を一周したことになります。<br />
さて、本丸の中は現在広場になっていますが、その中心部には御屋形があり、佐倉市史には</p>

<blockquote>

<p>一、御屋形。　城主在邑中の年始、五節句に、城主在府の時は家老・城代・年寄が代って家臣から賀礼をうける館である。</p>

<p>...以下省略</p>

</blockquote>

<p>とあり、このほかには徳川将軍の御成、幕府の要人などが佐倉城に来た場合の寝所として使用されたようです。<br />
この御屋形の北側で銅櫓と廊下で続いていたのが「佐倉城本丸内建物配置」の図で確認できます。</p>

<p>このほかには、天守閣と大所門の直線上、天守閣跡から３０メートルほどのところに不動堂があったようで、「佐倉城本丸内建物配置」の図にと稲葉氏時代の絵図にも「天満」と記されています。<br />
不動堂について佐倉市史には</p>

<blockquote>

<p>一、不動堂。宝暦三年十二月二十七日安置（堀田正亮就封の八年目）。位置は天守閣の南八間のところが囲の北端で天守の西側の延長線上の中央が不動堂の中心にあたる。四間四方の囲があり入口は南側である。</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>宝暦三年は１７５３年。</p>

<p>佐倉城が廃城になった後は、不動堂がどうなったのかは記述されていないのでわかっていません。</p>

<p>不動堂跡からさらに３０メートルほど台所門側には井戸があったようで、佐倉市史には</p>

<blockquote>

<p>一、井戸壱ヶ所、寛延二年十月十三日出来（年寄部屋日記）、位置は本丸屋形台所土間より北方え二間の位置、不動堂の真南。</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>井戸の跡は現在はまったく確認できませんが、本丸広場の南側の台所門跡寄りのどこかにあったわけですが、公園化するときに整地を施しているので、ちょっとした窪みがあれば、その辺りが井戸跡であるかも知れません。</p>

<p>佐倉城本丸配置図の中に、薄黒色で示しているところがありますが、これは中世に造られていた空堀の跡があったところで、一の門南の空堀から銅櫓前の土塁下まであったことが、総州佐倉城（佐倉城本丸址発掘調査概報）にあり、この空堀については</p>

<blockquote>

<p>後詰は今回調査で地表下に眠っていた鹿島城の核心が姿を表わしました。諸般のことから充分な発掘調査による解明は出来なかったが概見しての大要は、当時の山容を活かし凹凸の多い姿が残りこれに小刻みの空堀を設けた等であります。慶長末の本丸工事はこの上に大量の土を入れて平らにしました。この土は本丸周辺の空堀を掘った際の土を運んだものでしょう。</p>

</blockquote>

<p>とあり、土井利勝がここに城を築く前の鹿島城の工事の途中のままであった空堀が存在していたことが、発掘で確認されたということなのですが、発見されたから堀は、一の門の南側の空堀と続いているので、新しく掘られたのは北側の空堀ということと思われ、鹿島城時代の本丸（予定地だったところ）は現在より一回り小さなものであったことがわかります。<br />
そして、本丸に入るための一の門は、現在の台所門が鹿島城の一の門になるはずであったと考えられます。</p>

<p>後詰とは本丸のことです。</p>

<p>台所門（不明門）跡まで戻って、東に進んでいきます。</p>

<p>ということで、今回はここまで。</p>

<p>参考文献は、「歴史の道調査報告書　成田街道」、「佐倉市史」、「千葉県印旛郡誌」、「佐倉市誌資料」、「多輪免喜」、「佐倉風土記」、「佐倉文庫」、「古今佐倉真佐子」、「佐倉城跡発掘調査報告書（国立歴史民俗博物館発行）」、「佐倉城の歴史」、「総州佐倉城（佐倉城本丸発掘調査概報）」、「佐倉城大絵図」、「総州佐倉御城府内之図」より。</p>

<p>引用は各文献と各社寺の説明板、地域の説明板より。</p>

<p>今回の地図は<a href="http://sanpobokko.com/kaido_image/sakuramichi_6.jpg">「佐倉道６」</a>です。</p>

<p>国土地理院２５０００分の１「佐倉」より作成しています。</p>]]>
        
    </content>
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    <title>焼酎ぼんぼん - Notebook</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://sanpobokko.com/notebook/2010/02/post-96.php" />
    <id>tag:sanpobokko.com,2010:/notebook//4.500</id>

    <published>2010-02-15T13:14:02Z</published>
    <updated>2010-02-15T13:14:02Z</updated>

    <summary>今日は１５日。 またしても台所で...、といいたいところですが、テレビのある部屋にこんなものがありま...</summary>
    <author>
        <name>nobo</name>
        
    </author>
    
        <category term="なんだろう" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    <category term="チョコレート" label="チョコレート" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://sanpobokko.com/notebook/">
        <![CDATA[<p>今日は１５日。<br />
またしても台所で...、といいたいところですが、テレビのある部屋にこんなものがありました。</p>

<p><img alt="焼酎ぼんぼん" src="http://sanpobokko.com/notebook/images/DVC00105.JPG" width="240" height="320" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>焼酎ぼんぼん。</p>

<p>まっ、バレンタインとは全く関係ないようで、ものめずらしさに買ってきたものであろうと思われ...、ウイスキーボンボンの焼酎バージョンであって、入れ物がそれらしくなっていると...。</p>

<p>で、中にあるものですが、</p>

<p><img alt="焼酎ぼんぼん　小分け袋" src="http://sanpobokko.com/notebook/images/DVC00104.JPG" width="240" height="320" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>こんな感じに小分けをされていて、袋には「薩摩　芋焼酎」と書いてるんですが、その袋とアルミ箔を取ると</p>

<p><img alt="焼酎ぼんぼん　中身" src="http://sanpobokko.com/notebook/images/DVC00103.JPG" width="240" height="320" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>まっ、普通に「ウィスキーボンボンやないか！」と、ツッコミを入れたくなる形で、って、そのままでしょ(笑)。</p>

<p>お味のほうは、一応焼酎の味はしますが、ウィスキーボンボンよりはあっさりしていて「酒」といった感じではないですが、香がほんわか「酒｣といった感じにします。</p>

<p>さて、つくっているところは宮城県のメーカーのようで、薩摩（九州）からかなり離れているところのようで、仙台で作っても薩摩なのでしょうか、と、これまたツッコミたくなるような...。</p>

<p>焼酎は薩摩の芋焼酎を使っているんだろうから、これでいいのかな？。</p>

<p>まっ、いっか。<br />
</p>]]>
        
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    <title>成田街道（佐倉道）その９１ - Stroll Note</title>
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    <published>2010-02-12T13:05:43Z</published>
    <updated>2010-02-12T13:09:49Z</updated>

    <summary>佐倉道　麻賀多神社（千葉県佐倉市鏑木町）から佐倉城址公園佐倉城址三の丸跡その１（千葉県佐倉市城内町）...</summary>
    <author>
        <name>nobo</name>
        
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        <category term="街道歩き" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    <category term="佐倉市" label="佐倉市" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
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        <![CDATA[<p>佐倉道　麻賀多神社（千葉県佐倉市鏑木町）から佐倉城址公園佐倉城址三の丸跡その１（千葉県佐倉市城内町）まで</p>

<p>麻賀多神社の鳥居から階段を下り、今度は右（西、新町交差点からだと直進）に１０メートルほどのところにＴ字路があり、このＴ字路の南東角（左手前の角）に石碑があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　宮小路町　宮小路　佐倉養生所跡の碑" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/miyakojimachi_sakurayojosho.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　宮小路町　宮小路　佐倉養生所跡の碑。（宮小路町）</p>

<p>石碑には</p>

<blockquote>

<p>佐倉藩医佐藤尚中が、慶応三年、長崎についで西洋式病院佐倉養生所をこの地に設立した。<br />
佐倉養生所では、全国に先駆けて漢方を廃止し、藩の調薬の管理を全て行い、医政を統括した。</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>慶応三年は１８６７年。</p>

<p>現在は何もありませんが、佐倉における西洋式の病院がここにありました。</p>

<p>Ｔ字路を直進するほうが宮小路で、このまま進むと佐倉城の大手門にたどり着き、左（南）に進むのは北年貢道（佐倉道）で、佐倉城と千葉の寒川湊（千葉県千葉市中央区寒川町）とを結ぶもう一つの佐倉道で、四街道（千葉県四街道市大日・四街道）を経由するやや北寄りの道で、もう一つ南寄りの馬渡（千葉県佐倉市馬渡）と若松（千葉県千葉市若葉区若松町、現在の国道５１号沿い）から寒川湊とを結ぶ道があり、この二つの道は千葉の道場（千葉県千葉市中央区道場）で合流し、千葉市広小路交差点（千葉県千葉市中央区本町）で房総往還（木更津道もしくは上総道ともいう）と合流し、亥鼻城跡前の大和橋からＪＲ本千葉駅を過ぎた旧君待橋の碑あたりから港町の厳島神社（千葉県千葉市中央区港町）前から寒川神社（千葉県千葉市中央区寒川町）の前へでて寒川湊へ続いていました。<br />
この北年貢道と南年貢道は、寒川湊から佐倉城に物資を運んだり、佐倉藩各地からの年貢米などを納めたりするために使われていた道であり、戦の時に海を経由して兵を送り出すための軍用の道としても重要な道で、その藩の生命線とでもいえそうな道がこのＴ字路から始まっていたわけです。</p>

<p>Ｔ字路から１００メートルほど進んだところにＴ字路がり、右（北）へ進む坂道があり、坂道を下っていくと谷のようなところ辺りが味噌部屋と呼ばれているところで、字名も味噌部屋になっています。</p>

<p>新佐倉真佐子には</p>

<blockquote>

<p>味噌部屋というところは南北の崖に挟まれた谷間で日当たりの悪い薄暗い土地で、その昔食糧品の貯蔵にはよかったかも知れないが、市街地に出るには不便なところであった。しかし静かで勉強するには適していたらしく学者が大勢出たところでもあった。</p>

</blockquote>

<p>とあり、安政年間に書かれた佐倉城實測圖には、道の北側に沿って６つの蔵が描かれており、これが食料（みそとか塩とか、その他の物も含めて）を貯蔵するための蔵であったようです。</p>

<p>安政年間は１８５４～１８６０年の間。</p>

<p>味噌部屋への道があるＴ字路から３０メートルほど左に、宮小路町の石柱があり、その近くに古い建物がありますが、ここは現在、印旛郡市広域市町村圏事務組合水道企画部があるところで、明治十四年に開設された浜野病院がこの場所にあり、順天堂病院と共に親しまれていました。</p>

<p>明治十四年は１８８１年。</p>

<p>浜野病院跡から８０メートルほど進むと、左に市民体育館があり、ここは温故堂（成徳書院）があったところです。<br />
安政四年に佐倉学問所（佐倉藩藩校）、文化二年に温故堂と改称し、天保七年に「成徳書院」と改称して明治維新を迎えました。<br />
現在は建物もないのですが、この温故堂「成徳書院」の流を汲むのが県立佐倉高校で、明治四十三年に市民体育館のある宮小路町から現在の鍋山町に移転をし現在に至っています。<br />
県立佐倉高校には、堀田正倫が寄贈した建物が残っており、佐倉高等学校記念館がそうで、ほかに地域交流館には「ハルマ和解」などがあり、長嶋茂雄氏が卒業した高校として有名です。</p>

<p>安政四年は１７９２年、文化二年は１８０５年、天保七年は１８３６年、明治四十三年は１９１０年。</p>

<p>温故堂（成徳書院）跡のあった市民体育館から先１１０メートルほど道は直進していますが、これは佐倉に連隊が来たときに真っ直ぐにされたもので、連隊が来る前は屈曲していました。</p>

<p>比較図を載せます。</p>

<p><img alt="佐倉城大手門跡辺りの図" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/sakurajou_otemonato_atari_z.jpg" width="500" height="375" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉城大手門跡辺りの図。</p>

<p>当時は図にある黄緑線のように温故堂（成徳書院）からすぐに左に曲がり、６０メートルほどで右に曲がり、３０メートルほどでもう一度右に曲がり、７０メートルほど進んで左に曲がり、３０メートルほどで大手門（追手門）にでました。<br />
ちょうど細い道が残ってこのルートがありますが（途中まで）、このルートの内側には空堀があり、現在の佐倉中学校の東端にある崖になっているところがありますが、ここまで空堀がありました。<br />
さらに、細道と大手門（追手門）までのところにも空堀があり、平成２２年（２０１０）現在空地（市営住宅跡地、一部発掘調査中）がある南側の崖までこの空堀が続いていました。</p>

<p>温故堂（成徳書院）跡から１１０メートルほど進むと、右手に佐倉中学校の正門があり、その逆側（温故堂からだと左）細道の入口の南西角に大手門跡の碑があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　田町　鹿嶋町　佐倉城　大手門跡" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/sakurajoato_otemon.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　田町　鹿嶋町　佐倉城　大手門跡。（城内町）</p>

<p>大手門跡の碑から佐倉中学校側にかけて大手門があったわけで、麻賀多神社前からここまでが宮小路で、大手門から先が広小路と呼ばれ、佐倉城内になります。</p>

<p>大手門跡の碑横にある説明板には</p>

<blockquote>

<p>大手門跡（追手門）</p>

<p>大手門は惣曲輪の表門。この門の西側には広小路、中下町、大下町といった武家屋敷地が整備され、三の丸御殿、会所なども置かれていた。中央に広小路の通りと重臣屋敷の塀が写されている。</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>現在、佐倉城址公園の表口として使われている田町門（国立歴史民俗博物館口）は、佐倉城の裏口ともいうべきところで、もともとの表口はこちらなのですが、今は駐車場への乗り入れ口的感があります。</p>

<p>大手門跡から１５０メートルほど進んだところにＴ字路があり、右（北）の道の奥（５０メートル行った辺り）の現在佐倉中学校の敷地内辺りが天神曲輪で、武家屋敷や蔵などがあり、北の端には天神社がありました。<br />
この天神社は<a href="http://sanpobokko.com/stroll_note/2010/01/post-99.php">成田街道（佐倉道）その８８</a>で訪れた愛宕神社に合祀されている天神社で、佐倉市史には</p>

<blockquote>

<p>天神社。椎木曲輪と裏広小路を結ぶ七曲の天神坂に向って右から大乗院・天神社・稲荷社がならんでいた。この天神社は土井氏の築城当時は椎木曲輪の秋葉社の南のところにあったものを後に移転したもののようである。</p>

</blockquote>

<p>とあり、愛宕神社に合祀されている稲荷神社と共にこの天神曲輪にあったことが書かれています。<br />
大乗院は現在は廃寺になっていて痕跡は残っていませんが、真言宗の寺であったことが佐倉市史にあり、最近の遺跡発掘調査では屋敷の遺構と共に生活用品などが出土しています。<br />
佐倉市史には、「…天保七年の学制改革後は大乗院の南に西塾を置いた。」とかかれており、このあたりに藩の学問所があり、佐倉城實測圖の中にも書き込みがされています。</p>

<p>このＴ字の北西側の現在くらしの植物苑の約３分の２の部分は、会所が置かれていたところで、残りの３分の１のくらしの植物苑の入口と駐車場側は武家屋敷があったところです。<br />
この会所とは外部などの人との話し合い、その他雑用のために使われたところ（たとえば商人との折衝など）で、現在でいうところの市役所の窓口みたいなところであったところで、この会所の逆側（南）には御用屋敷があり、こちらは佐倉藩の藩政などの用向きに使われたところです。</p>

<p>くらしの植物苑の逆側（南）にある現在駐車場と自由広場になっているところは、三ノ丸御殿があったところで、佐倉市史には</p>

<blockquote>

<p>三ノ丸御殿　二ノ丸にあった対面所が殿様在邑中の住居であったが、前記のようにこの建物は腐朽が甚だしかったので、寛政十一年八月、三ノ丸御殿を新設し在邑中はここを住居した。</p>

</blockquote>

<p>とあり、藩主が江戸の藩邸から国もとへ戻ってきたときにはここで暮らしていたと所になります。<br />
ただし、藩主が江戸の藩邸にいる場合には、家老や奉行などが藩政を議論したりしていたようです。</p>

<p>寛政十一年は１７９９年。</p>

<p>くらしの植物苑の左端（西角）の辺りに現在は車止めがありますが、その車止めのある辺りの自由広場側には佐倉城址の説明板があり</p>

<blockquote>

<p>佐倉城址</p>

<p>佐倉城は印旛沼へ注ぐ鹿島川、高崎川を外堀とし、台地上に土塁を加えて築城した平山城で、石を用いていない。<br />
戦国時代のなかごろ、千葉氏の一族鹿島幹胤によって初めて築かれたと伝えられ、別に鹿島山城とも呼ばれた。千葉邦胤もここに本城を移そうとしたがなかばにして果さず、のちに徳川家康がその要害に着目し、土井利勝に命じ慶長１６年（１６１１）正月から７年間をついやし、元和３年（１６１８）ごろに完成した。以来、徳川幕府では江戸のまもりとして老中格の譜代の諸侯九氏を封じた。<br />
延享３年（１７４６）山形から堀田氏が再び移封し、六世１２６年間１１万石を領有して明治維新に及んだが、明治６年（１８７３）第一軍管第二師営の営所が置かれ城の施設はことごとくこわされた。<br />
その後、歩兵第二連隊、歩兵第五十七連隊などの兵営となった。</p>

</blockquote>

<p>とあり、絵図も提示されています。</p>

<p>説明板にある「明治６年（１８７３）第一軍管第二師営の営所が置かれ城の施設はことごとくこわされた。」とあるように、大手門から三ノ丸御殿までのところにある建物（現在の佐倉中学校と佐倉東高校の敷地にあったものも）は全て取り壊され、練兵場となり、兵士の訓練などが行われていました。<br />
この説明板より１００メートルほど南のやや西よりのところ（梅林がある辺りの空堀の近く）には佐倉兵営の跡の石碑がひっそりとあります。</p>

<p>佐倉城址公園辺りの図を載せます。</p>

<p><img alt="佐倉城址公園付近の図" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/sakurajoato_fukin_zu.jpg" width="600" height="521" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉城址公園付近の図。</p>

<p>くらしの植物苑の西側に下りていく道がありますが、ここは元は空堀だったところ（道の途中左に空堀があり説明板がある）で、トイレのある辺りから下りの途中１０メートルほどのところまでは、平地になっていてその後は緩やかな崖になっていましたが、ここも連隊が来たときに切り通し道を作って現在のようになったところで、この道を下っていけば、姥ヶ池のあるところに出ます。</p>

<p>佐倉城址の説明板のところから西に７０メートルほど進むと左に大堀（空堀）を見ながら道は南に進み、３０メートルほどで西と南に道（Ｔ字路）が分かれますが、本来の道筋は南に進む道なので直進していき、５０メートルほど進むと右側に三の門跡の説明板があります。</p>

<p><img alt="佐倉城址公園　佐倉城址　三の門跡" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/sakurajoato_3nomon.jpg" width="233" height="350" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉城址公園　佐倉城址　三の門跡。（城内町）</p>

<p>説明板には</p>

<blockquote>

<p>三の門跡<br />
北面、木造、本瓦葺、二階造り、梁間三間、桁行六間</p>

<p>この門は御作事の諸道具を入れた倉庫として使われ、門内は三の丸といい、家老屋敷が置かれていた。</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>説明板の後ろ側（説明板よりも北側の部分）は少し低くなっていますが、実はここも空堀の一部で先ほどのＴ字路から西に進んでいる道は連隊が来たときに空堀を埋め立てて直進する道を作ったために、消滅していますが、道を高くしていたために空堀の一部の部分が低くなっています。</p>

<p>佐倉城跡発掘調査報告書（国立歴史民俗博物館発行）には</p>

<blockquote>

<p>...三の門の前にある堀で仕切って道をＬ字状に曲げた部分も馬出しであった。すぐ脇には空堀で守った曲輪があって、高い土塁から馬出しを見下ろした。ここが味方が出撃するときは援護射撃を行い、敵が来たときには正面と横から防射した大手道防御の要であった。馬出し背後の堀を挟んだ城内側にある土塁は、旧地形を人工的に大きく改変した部分である。<br />
本来の地形は、姥ヶ池につづく谷へと落ち込んでいく低いところであったが、城内－城外関係を矛盾なく完結させるため、もう低くなってしまう部分にも関わらず、人工的に土盛りを行い地形を高くしたのであった。佐倉城の隠れた見所である。現状ではこの出入り口の馬出しを破壊して城址公園に入る直線道がつき、堀も埋まり、馬出しの土塁も低くなっているので、よほど注意しないと、こうした縄張りのくふうに気が付くことはない。公園整備が結果として遺構の破壊を進めており将来の整備では、ぜひ復元が待たれるところである。</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>三の門跡に来る前にあった、西と南に道（Ｔ字路）が分かれるところを西に４０メートルほど進んだあたり、右（北）に細い道が分かれているＴ字路の左（南）の大木付近に説明板と道標があります。</p>

<p><img alt="佐倉城址公園　佐倉城址　車道の碑" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/sakurajoato_shadonohi.jpg" width="233" height="350" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉城址公園　佐倉城址　車道の碑。（城内町）</p>

<p>説明板には</p>

<blockquote>

<p>⑤車道の碑<br />
大正９年建立。兵営と大手門とを直通させる新道の完成記念碑。連隊への物資搬入のため、佐倉城時代の不便を解消しました。</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>大正９年は１９２０年。</p>

<p>碑の正面上部に「車道」とあり、下部には軍の人の所属と人名、右面と左面にも人名が多数あります。</p>

<p>佐倉城跡発掘調査報告書などにもありますが、もともとここには道はなく、土塁と空堀があったわけで、車道の碑の北にある細い道も、この空堀の部分に道を作って姥ヶ池や梅林などに下りられるようにしたものです。<br />
細い道の左（西）に平地がありますが、「すぐ脇には空堀で守った曲輪があって、高い土塁から馬出しを見下ろした。ここが味方が出撃するときは援護射撃を行い、敵が来たときには正面と横から防射した大手道防御の要であった。」と佐倉城跡発掘調査報告書にある曲輪です。</p>

<p>元に戻って、三の門跡から道なりに５０メートルほど進んだところで道は右に曲がり、９０メートルほど道なりに進んだところでＹ字路になりますが、このＹ字路までの南側は武家屋敷があったところで、武家屋敷の南西側の崖際には浅間社がありましたが、連隊が佐倉城址に来たときに佐倉市鏑木町の佐倉ゆうゆうえの里の隣にあるさくら荘（老人施設）のところに移され、浅間社のあった基壇（塚上のところで、現在は見晴台のようになっている部分）のみ残っています。<br />
Ｙ字路の左に細い道があり、この細道の入口に坂上木戸門があり、この木戸からの坂は浅間坂といわれ、もともとは鷹匠町へ下りる道でしたが、現在は下にある南側の出丸跡へ続いています。<br />
途中で道が改変（おそらく戦後）されていて、細い道を下りて一番初めの右に曲がるあたりで、当時の道筋は真っ直ぐ下り道となり（実際にはもう一つ細い道があり、この道は左側に上り浅間社へ続いていた）、途中で左に曲輪の高低差を使って下りていき、出丸跡の東の大濠（水堀）の城内堤（桜並木の続く土手道）の東側約７０メートルあたりに続いていました。<br />
その場所の少し上辺りに、坂下門があり、門の手前では屈曲していて鍵状になっいてたようですが、現在はその場所辺りに建物が建っていて、坂下門の遺構は残っていません。</p>

<p>Ｙ字路を右に４０メートルほど進むと右に建物があります。</p>

<p><img alt="佐倉城址公園　佐倉城址　三逕亭" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/sakurajoato_sankeitei.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉城址公園　佐倉城址　三逕亭。</p>

<p>この建物は茶室で三逕亭といい、元は東京都港区赤坂の乃木神社にあり、京都大徳寺の孤蓬庵の重要文化財茶席を模したものといわれ、茶室のある場所に乃木会館（結婚式場）が建てられることになり、佐倉市がこの茶室の譲渡を受けて国立歴史民俗博物館と佐倉城址公園の整備が整った後、この場所に移築されたものです。</p>

<p>乃木神社は東京都港区赤坂にあり、二〇三高地（日露戦争）で有名な乃木希典将軍を祀った神社で、神社の隣には旧宅があります。</p>

<p>佐倉市のホームページの<a href="http://www.city.sakura.lg.jp/shisetu_guide/sankei/sankeipr.htm">三逕亭</a>のところには</p>

<blockquote>

<p>三逕就荒　松菊猶存<br />
　これは陶淵明の「帰去来の辞」の一部です。淵明は東晋末期の官吏で二君に仕えるを潔しとせず、官を辞して郷里に帰りました。<br />
　「懐かしい吾が家の門を入ると、家族や一門の者たちが迎えた。庭内にある三つの逕（みち）は荒れているが、松は操の緑をたたえ、菊の花は燦として露霜の中に咲き誇っていた。之らは世の浮沈栄枯盛衰に関わりなく誠を表している」という意味です。<br />
　丁度佐倉城三の丸のこの地は、二の丸本丸への逕と、椎ノ木曲輪へのゆく逕と、本丸下を巡る逕の三逕が合する所でもあります。</p>

</blockquote>

<p>と、三逕亭の名の由来が説明されています。</p>

<p>三逕亭の後ろ側（東側）には空堀がありましたが、この部分も埋められて現在のような少し窪んだ広場となっていて、逆側（南側）には土塁が少し残っていますが、ここと空堀があった少し窪んだ広場との間には土橋がありました。</p>

<p>三逕亭の東側から２０メートルほどにＴ字路があり、このＴ字路の直進（西）に進む細い道の入口の両側には銅像があり、左側にはタウンゼント・ハリスの像、右側には堀田正睦の像があります。<br />
この二人は日米修好通商条約を結ぶために交渉した日米の重要人物で、安政５年に日米で結ばれました（結んだのは井伊直弼）が、この条約は日本には条件の悪い不平等な条約として有名です。<br />
銅像の下には説明書きもあるので一読してみるといいでしょう。</p>

<p>安政５年は１８５８年。</p>

<p>Ｔ字路の直進する道と右（北）に進む道の間には大きな空堀が南北にあり、北の空堀は二の丸外側をぐるっと回り西側の出丸の横まで続いていましたが、現在は途中の部分（西側）が埋められてしまって消滅しています。<br />
南の空堀は残っており、この空堀の東側に沿って現在は道が作られており（出丸跡・帯曲輪への案内板がある）、ここを下りていくとＹ字路から下りてきた道と合流し、南側の出丸跡に出ますが、途中からは帯曲輪に出る道もあります。</p>

<p>三逕亭の北側にトイレがあり、車道が合流するあたりまでが三の丸の南側で、三逕亭とトイレまでのところには小姓長屋がありました。<br />
トイレのあるところから北に進むと三ノ丸の北側の部分がありますが、そこは後ほど訪ねるとして、Ｔ字路まで一旦戻り西に進みます。</p>

<p>ということで、今回はここまで。</p>

<p><ins>[2010-02-20 修正と追加]　天神曲輪、三ノ丸御殿、三の丸の記述に修正と追加をしました。</ins></p>

<p>参考文献は、「歴史の道調査報告書　成田街道」、「佐倉市史」、「千葉県下総国印旛郡寺院明細帳」、「千葉県下総国印旛郡神社明細帳」、「千葉県神社名鑑」、「千葉県印旛郡誌」、「佐倉市誌資料」、「多輪免喜」、「佐倉風土記」、「佐倉文庫」、「ふるさとの石仏」、「古今佐倉真佐子」、「新佐倉真佐子　佐倉のお茶の間風土記」、「北総名勝　佐倉誌全」、「佐倉の歴史を学ぶ資料集」、「佐倉細見」、「千葉城郭研究」、「佐倉市史研究」、「佐倉城跡発掘調査報告書（国立歴史民俗博物館発行）」、「佐倉城の歴史」、「千葉県佐倉市佐倉城跡（佐倉中学校第３～６次調査）」、「佐倉城跡（公営住宅跡第１次）・佐倉城跡（根古谷第１次）」、「千葉県佐倉市佐倉城跡（天神曲輪）」、「千葉県佐倉市佐倉城跡（市立佐倉中学校給食室建設に伴う埋蔵文化財調査）」より。</p>

<p>引用は各文献と各社寺の説明板、地域の説明板より。</p>

<p>｢三逕亭」については、佐倉市のホームページにある記述を掲載しています。</p>

<p>今回の地図は<a href="http://sanpobokko.com/kaido_image/sakuramichi_6.jpg">「佐倉道６」</a>です。</p>

<p>国土地理院２５０００分の１「佐倉」より作成しています。</p>]]>
        
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    <title>立春過ぎたしなぁー - Photo Pocket</title>
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    <published>2010-02-10T15:21:57Z</published>
    <updated>2010-02-10T15:21:58Z</updated>

    <summary>Canon EOS10D　2010.02 / 千葉県印旛郡酒々井町伊篠</summary>
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    <category term="酒々井町" label="酒々井町" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    
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        <![CDATA[<p><span class="center"><img alt="立春過ぎたしなぁー" src="http://sanpobokko.com/photo_pocket/images/2gatu_tentomushi.jpg" width="660" height="440" /></span></p>

<p>まあ、立春は過ぎたし、出てきても不思議じゃないんだけど、この寒いときに出てきて大丈夫か？。</p>]]>
        
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    <title>ポテ猫 - Photo Pocket</title>
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    <published>2010-02-06T12:29:56Z</published>
    <updated>2010-02-06T12:29:56Z</updated>

    <summary>Canon EOS10D　2010.01 / 千葉県佐倉市鏑木町</summary>
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        <![CDATA[<p><span class="center"><img alt="ポテ猫" src="http://sanpobokko.com/photo_pocket/images/pote_neco.jpg" width="660" height="440" /></span></p>

<p>冬だからそうなんだろうけど、ポテっとしていますな...。<br />
これで、白猫だったらボーリングのピンに見えたりして...。</p>

<p>んなぁーこたぁーないわな(笑)。</p>]]>
        
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    <title>節分で食べるもの - Notebook</title>
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    <id>tag:sanpobokko.com,2010:/notebook//4.496</id>

    <published>2010-02-03T13:35:38Z</published>
    <updated>2010-02-03T13:35:38Z</updated>

    <summary>２月３日は節分。 で、食べるものといえば豆と恵方巻ですが、これ、関西ではごく普通の習慣であるのですが...</summary>
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        <category term="雑記" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    <category term="季節" label="季節" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://sanpobokko.com/notebook/">
        <![CDATA[<p>２月３日は節分。</p>

<p>で、食べるものといえば豆と恵方巻ですが、これ、関西ではごく普通の習慣であるのですが、関東あたりでは最近まで恵方巻の存在すら知っている人は少なかったと思います。<br />
２０００年あたりから、コンビニやスーパーなんかで売られるようになった頃からテレビなどでタレントなんかが盛んに「恵方巻」といって出てくるようになって、関東あたりでも食べる人が増えたように思います。</p>

<p>今年の恵方は「庚」の方向で、西南西のやや西よりの方向となっていて、こちらに向いて恵方巻（太巻）を食べるわけです。<br />
ついでに恵方の方向にある神社に初詣に行くとよいとされていて、自分のいる方向から恵方の方向のところにあるところに、いわゆる「恵方詣」に行くとよいことがあるといわれいます。</p>

<p>現在では、恵方詣については、それを知っていて初詣に行く人はさほどいないのではないかと思われますが、なぜか、恵方巻の習慣は全国区になりつつあったりして、なんだか面白いですね。</p>

<p>豆まきはいつものようにこじんまりし済ませ、「福は内」だけにしてみましたが、問題は知らない間に家の中に「鬼」が発生した場合、豆間にで「鬼は外」と言っていなかったので、家の中に居座るのではないかと、ちょっとばっかり危惧をしていたりして...、まっ、いっか(笑)。</p>

<p>俗説によると、三方ヶ原の戦いのときに徳川家康の軍が、苦し紛れに「鬼は外！」と騒ぎ立てたところ、武田信玄の軍がその騒ぎに驚き引いていったという話があり、昔の節分の時には「福は内」のみ言っていたものに、この逸話がいつしかむ入り込み「鬼は外」と言うようになったいう、そんな逸話もあるようで、その「鬼」というのが「武田軍」のことで、それほど強くおっかない相手で、そんな相手にはできれば来てほしくない、という願いがあったのかもしれませんね。</p>

<p>武家社会であった時代には、一般の人々は、年貢などを納めなければならないときに、できれば来てほしくないなぁー、なんて事を節分の時に、この逸話を込めて「鬼は外」なんて言っていたんじゃないかなぁー、なんてね。</p>

<p>現在の「鬼」ってのは、何を指すのか、それを考えてみると「はてさて？」と考え込むのか、「これだ！」というのがはっきりしているのか、それによって豆のまき方が違うかも知れませんよぉー。</p>

<p>その豆ですが、年々食べるのが大変になりませんか？、豆自体はさほど大きいわけじゃないけど、５０だの６０だのになってくるとさすがに大変そうで、これ、８０とか９０とかになったときは逆に苦痛になりそうな感じですが、どんなもんでしょね。</p>

<p>今のところ、お茶をいただきながらいい感じの量なのでいいですが、８０とか９０になったらどんなんだろか？、いや、炒り豆なんか平気に一袋食べているから大丈夫だな。</p>

<p>たぶん...。</p>

<p>太田胃散でも用意しとかなきゃいかんですな(笑)。<br />
</p>]]>
        
    </content>
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    <title>雪だ！ - Notebook</title>
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    <published>2010-02-01T15:24:25Z</published>
    <updated>2010-02-01T15:24:59Z</updated>

    <summary>昨日の午後９時前あたりから雨からぼちぼち雪になり、１１時ごろには既に積もっている雪。 久々だなぁー(...</summary>
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        <category term="雑記" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    <category term="千葉県" label="千葉県" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://sanpobokko.com/notebook/">
        <![CDATA[<p>昨日の午後９時前あたりから雨からぼちぼち雪になり、１１時ごろには既に積もっている雪。</p>

<p><big><big><big><strong>久々だなぁー(笑)。</strong></big></big></big></p>

<p>家の前は</p>

<p><img alt="家の前の雪" src="http://sanpobokko.com/notebook/images/20100201_snow1.jpg" width="450" height="338" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>こんな感じで、さらに二階の部屋からだと</p>

<p><img alt="二階から見た雪" src="http://sanpobokko.com/notebook/images/20100201_snow2.jpg" width="500" height="375" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>こんな感じです。</p>

<p>いつもなら、写真を撮る前に雨になるかしてこんな感じには残っていてはくれませんが、今回は残っていたのでパチリと撮れたのでした。</p>

<p><img alt="玄関から見たところ" src="http://sanpobokko.com/notebook/images/20100201_snow3.jpg" width="500" height="375" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>なんだか、パトカーやら救急車のサイレンがあちらこちらと聞こえてきていますが、事故でも増えたかな？。<br />
雪が降ったら注意しないとお世話になりますからぁー！、気ぃつけましょう！！。</p>]]>
        
    </content>
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    <title>成田街道（佐倉道）その９０ - Stroll Note</title>
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    <published>2010-01-29T12:57:59Z</published>
    <updated>2010-01-29T12:57:59Z</updated>

    <summary>佐倉道　新町交差点佐倉町道路元標（千葉県佐倉市新町）から重願寺に寄り道をして麻賀多神社（千葉県佐倉市...</summary>
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        <category term="街道歩き" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    <category term="佐倉市" label="佐倉市" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    <category term="佐倉道" label="佐倉道" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    <category term="北年貢道" label="北年貢道" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    <category term="千葉県" label="千葉県" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    <category term="成田街道" label="成田街道" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://sanpobokko.com/stroll_note/">
        <![CDATA[<p>佐倉道　新町交差点佐倉町道路元標（千葉県佐倉市新町）から重願寺に寄り道をして麻賀多神社（千葉県佐倉市鏑木町）まで</p>

<p>佐倉町道路元標のある新町交差点を左（東）に進むと佐倉道（成田街道）で、真っ直ぐ進むと佐倉道（佐倉と千葉を結ぶ）の北年貢道になり、この北年貢道（佐倉道）は佐倉城へ続く宮小路に接続しています。</p>

<p>この北年貢道は、寺崎道寒川道とも呼ばれ千葉から佐倉への年貢米や物資を運ぶ道でした。<br />
このほか南年貢道と呼ばれる同じ千葉への道があり、大名の通り道である佐倉道（成田街道）と共に千葉の佐倉道と呼ばれている道です。</p>

<p><img alt="麻賀多神社辺りの図" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/makatajinja_atari_zu.jpg" width="450" height="341" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>麻賀多神社辺りの図。</p>

<p>佐倉城には、この北年貢道を進んで入ることになるので、新町交差点を真っ直ぐ（南）に進むみ佐倉城址その他に寄り道をします。</p>

<p>新町交差点から真っ直ぐ（南、海隣寺からの場合直進）に３０メートルほどのところに信号がありますが、当時は直進する道（新道）はありませんでした。<br />
この信号の角（北西角、現在古い民家のあるところ）には「人力車の立場があったところ」と新佐倉真佐子にはあり、江戸時代には継立場であったところと思われ、信号の角を右（西）に５０メートルほどのところに神社（麻賀多神社、あとで訪ねる所）の玉垣の見えるＴ字路（美容院があるところ）があり、ここを右に神社の玉垣に沿って７０メートルほど進んだ左側辺りに空地がぽつんとある辺りが、勝蔵院があったところといわれ安政年間の佐倉城實測圖には書き込まれていますが、現在はありません。<br />
佐倉市誌資料には「大聖院に併合」とあり、いつ併合したかについては記述がなく、明治１２年編纂の千葉県下総国印旛郡寺院明細帳にも記載はなく、さらに合併についての記述も大聖院の所にはなく不明です。</p>

<p>安政年間は１８５４～１８６０年の間、明治１２年は１８７９年。</p>

<p>この２５年の間に併合、廃寺になったものと思われます。</p>

<p>空地（勝蔵院跡）から５０メートルほど進むと十字路があり、この十字路の左には佐倉幼稚園があり、右の道は先に歩いていた佐倉道の横町バス停（吉田書店）の手前にあった横道から続いている道です。<br />
正面（北）の道を２０メートルほど進むと、左斜めに坂（結構急な坂）になり４０メートルほどで緩やかになり、さらに５０メートルほど進むとＴ字路になり、このＴ字路の左に曲がった南西角辺りに標柱があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　鏑木町　七峯（鍛治作）　佐倉藩刀剣細工所の地" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/kaburagimachi_tokensaikujon.jpg" width="233" height="350" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　鏑木町　七峯（鍛治作）　佐倉藩刀剣細工所の地。（鏑木町）</p>

<p>佐倉藩刀剣細工所の地あたりについて、新佐倉真佐子には</p>

<blockquote>

<p>横町との境を西に三十間ばかり行くと右側に坂がある。その坂の下がかじ作というところである。江戸時代から良質の水が湧き出ていて、江戸時代には刀剣かじ、鉄砲かじ、その他のかじ屋が集っていたところといわれている。...</p>

</blockquote>

<p>とあり、古地図では現在の佐倉幼稚園辺りから佐倉藩刀剣細工所の地の碑があるところと、碑のあるところからこれから進む坂道の途中まで、途中住宅地の手前辺りまでが「鍛治作」と呼ばれたところで、ここに刀剣・鉄砲・その他の鍛治が集っていたところで、佐倉藩刀工であった細川忠義もこの「鍛治作」に居住していました。</p>

<p>佐倉藩刀剣細工所の地の碑のあるＴ字路を左（西、碑のある場所からだと直進）に２００メートルほど坂道を道なりに進むと左に公園（鏑木町第二公園）があり、公園を左に見ながら７０メートルほど進んだ右側にお寺さんがあります。</p>

<p><img alt="佐倉町　鏑木町　七峯　重願寺" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/kaburagimachi_juganji.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　鏑木町　七峯　重願寺。（鏑木町）</p>

<p>千葉県下総国印旛郡寺院明細帳には</p>

<blockquote>

<p>東本願寺末<br />
眞宗大谷派　重願寺<br />
一　本尊　阿彌陀如来<br />
一　由緒　不詳<br />
一　本堂間数　間口七間　奥行七間<br />
一　境内坪数　三百貳拾坪　官有地第四種</p>

</blockquote>

<p>とあり、重願寺の説明板には</p>

<blockquote>

<p>重願寺</p>

<p>勝誓山重願寺は、もと佐倉城内にあり元和元年（一六一五）了圓上人が建立した。<br />
当寺は浄土真宗で、阿弥陀如来を本尊とし、境内には佐倉藩第一の書家宮崎重賢や藩の御用絵師黒沼塊山の墓などがある。<br />
黒沼塊山は、印旛沼の鯉を描くことで名声を馳せたといわれる。<br />
また、明治時代の洋画界の先覚者として知られる浅井忠の師としても知られ、浅井家の墓も当寺にある。<br />
さらに、塊山は当寺において歌を詠んでおり<br />
　　　　　訪ねても　聞かまほしきは　道のへの<br />
　　　　　　　小ささかくれに　鴬の鳴く<br />
という歌碑が建てられている。</p>

<p>昭和五十八年三月　佐倉市</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>昭和五十八年は１９８３年。</p>

<p>千葉県印旛郡誌には千葉県下総国印旛郡寺院明細帳と同じ内容が記載されているので省略しましたが、宗派についての記述が「眞言宗」とあり、これは千葉県下総国印旛郡寺院明細帳を元に記載されているためなのですが、元となった千葉県下総国印旛郡寺院明細帳の「眞◆宗大谷派」とあるところの◆の所は、朱で訂正されて消されていますが、ここに「言｣の字があるのははっきりとわかり、当時間違って記載したことがあり、それを訂正したのが千葉県印旛郡誌が編纂されたあとのことであるために、違ったものとなったようです。</p>

<p>山門を入り正面やや左寄りに本堂があり、山門の右側に墓地があります。</p>

<p>新佐倉真佐子には</p>

<blockquote>

<p>...。その北側の丘の裾に、元和元年親鸞聖人によって開山されたという京都本願寺派浄土宗重願寺がある。ここの本尊は阿弥陀如来で、墓地にはわが国洋画界の先覚者、浅井忠の墓所がある。浅井忠は安政三年江戸の佐倉藩邸に生れ七歳のとき佐倉に移って家督を相続し、九歳のとき佐倉藩の画家黒沼槐山に日本画を学んだ。明治九年工部美術学校創立と同時に入学、イタリヤ人教師洋画家フオンタネージに師事した。明治二十二年明治美術会を結成し、同二十七年には日清戦争に従軍画家として大陸に渡り、数々の記録画を残している。<br />
明治三十一年、黒田清輝と共に東京美術学校教師となり、同三十三年フランスに留学、三十五年帰朝、京都高等工芸学校教授となり京都に住んだ。また洋画研究所を開き、後進を指導し、安井曽太郎、梅原竜三郎等の俊才を世に出した。五十歳のとき、赤坂離宮造営にあたり壁画「武士の山狩図」の大作を画いた。明治四十年五十一歳で京都で没した。重願寺にある浅井忠の墓は京都よりの分骨である。</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>元和元年は１６１５年、安政三年は１８５６年、明治九年は１８７６年、明治二十二年は１８８９年、明治二十七年は１８９４年、明治三十一年は１８９８年、明治三十三年は１９００年、明治三十五年は１９０２年、明治四十年は１９０７年。</p>

<p>重願寺の説明板にある「元和元年（一六一五）了圓上人が建立した」にある了圓上人について、詳しい説明がないのでどこで上人になった人物かは特定できていませんが、この時代（元和年間前後）で有名である「了圓」と言われる人は、福岡県筑紫野市二日市にある正行寺の開基（開山）了圓法師という人がいますが、この人は九州の人であり、千葉までは来ていないので、いったい説明板にある「了圓上人」という人がどこから来て重願寺を建てたのか定かではありません。<br />
新佐倉真佐子にある「元和元年親鸞聖人によって開山された」というのは間違いで、<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%AA%E9%B8%9E">親鸞聖人</a>は１２世紀から１３世紀（平安末期から鎌倉前期）の人であり、この記述はどこから来たのか不明で、さらに「京都本願寺派浄土宗」とありますが、浄土宗と浄土真宗とは別の宗派（宗祖が違う）で、本願寺は浄土真宗なので浄土宗というのは間違いです。</p>

<p>浅井忠の墓は墓地の東側にありますので、興味のある方は墓を訪ねてみるといいでしょう。</p>

<p>重願寺から佐倉藩刀剣細工所の地に戻りさらに神社の玉垣のあるＴ字路まで戻り、今度は右（西、新町交差点からだと直進）に３０メートルほどの右に神社があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　鏑木町　七峯　麻賀多神社" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/kaburagimachi_makatajinja.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　鏑木町　七峯　麻賀多神社。（鏑木町）</p>

<p>千葉県下総国印旛郡神社明細帳には</p>

<blockquote>

<p>郷社<br />
麻賀多神社</p>

<p>一　祭神　稚産霊命<br />
一　由緒　不詳<br />
一　社殿間数　方九尺<br />
一　境内坪数　九百廿三坪　官有地第一種<br />
一　境内神社<br />
三峯神社<br />
祭神　伊邪那伎命<br />
由緒　不詳<br />
建物　方貳尺<br />
天神社<br />
祭神　菅原道実霊<br />
由緒　不詳<br />
建物　間口貳間　奥行壱間<br />
疱瘡神社<br />
祭神　大汝少彦名命<br />
由緒　不詳<br />
建物　間口貳間　奥行壱間<br />
稲荷神社<br />
祭神　蒼稲霊命<br />
由緒　不詳<br />
建物　方三尺<br />
子安神社<br />
祭神　木花開邪姫命<br />
由緒　不詳<br />
建物　間口貳間　奥行壱間</p>

<p>以下省略</p>

</blockquote>

<p>とあり、千葉県印旛郡誌には</p>

<blockquote>

<p>村社麻賀多神社</p>

<p>鏑木町字七峰にあり稚産孁命を祭神とす社殿は九尺四面にして境内九百二十三坪　［官有地第一種］　あり境内五社を祭る<br />
一、三峯神社　祭神を伊邪那伎命とす由緒不詳建物は二尺四方なり<br />
二、稲荷神社　蒼稲孁命を祭る由緒不詳建物は三尺四方なり<br />
三、天神社　菅原道眞孁を祭る由緒不詳<br />
四、疱瘡神社　大汝少彦名命を祭る由緒不詳<br />
五、子安神社　木花開邪姫命を祭る由緒不詳<br />
以上三、四、五の三社は奥行一間間口二間三尺の建物一棟内にまつれり</p>

<p>以下省略</p>

</blockquote>

<p>とあり、千葉県神社名鑑には</p>

<blockquote>

<p>祭神　稚産孁命（わかむすびのみこと）<br />
例祭日　一〇月一四～一六日<br />
主要建物　本殿・銅板葺権現造三坪、幣殿・瓦葺入母屋造三二坪<br />
境内神社　稲荷神社（五社）　<br />
境内坪数　一、二三五坪<br />
氏子　二、二〇〇戸　宮司　＊＊＊＊<br />
由緒沿革　佐倉の総鎮守で、はじめは上代この地方に移り住んだ多氏族の氏の神としてまつられる。その後、時代が下って慶長年間、神社の西方に佐倉城が築かれてからは城地鎮護の神としても代々の藩主や家臣にあつく崇敬され、社殿の度々の造営や神鏡・太刀など宝物類の寄進が続いた。現在の社殿は天保一四年、幕府老中首座を務めた堀田正睦公の再建になり、社宝の甲冑「紫裾濃胴丸」（県指定重要文化財）は最後の藩主堀田正倫公の奉納するところである。<br />
神事と芸能　御神幸に使用する神輿（市指定文化財）は、享保六年製作で台輪幅一・五七メートル。数少ない江戸中期の神輿として注目される。</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>慶長年間は１５９６～１６１５年の間、天保一四年１８４３年、享保六年は１７２１年。</p>

<p>千葉県下総国印旛郡神社明細帳の「郷◆社」には、◆の部分に「村」の文字がありそこには訂正線と訂正印が押されて「郷」の字に訂正されていて、明細帳の上部に「昭和五年九月三日内務省千（神か？）社第三号ヲ以テ郷社ニ列セラル」と書き込みがあり、この昭和五年に村社から郷社に格上げがされたようで、千葉県印旛郡誌の記述は、明治１２年以降に提出された千葉県下総国印旛郡神社明細帳を元にしているため、千葉県印旛郡誌の書かれた大正年間では「村社」としているわけです。<br />
千葉県下総国神社明細帳のほうは昭和２０年ごろまで訂正や追記、さらに修正などをしていたようです。</p>

<p>昭和五年は１９３０年、大正年間は１９１２～１９２６年の間、明治１２年は１８７９年、昭和２０年は１９４５年。</p>

<p>階段を上がると鳥居があり、右に手水舎、左に社務所を見ながら参道を進むと正面に拝殿（幣殿）があり、拝殿（幣殿）の左の少し奥に恵比寿があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　鏑木町　七峯　麻賀多神社　なで恵比寿（疱瘡神社）" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/kaburagimachi_makatajinja_e.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　鏑木町　七峯　麻賀多神社　なで恵比寿（疱瘡神社）。（鏑木町）</p>

<p>立札には「末社　疱瘡神社　御祭神　少彦名命　なで恵比寿」とあり、この恵比寿があり「なで恵比寿」としてなでると悪いところがよくなると言われていますが、この恵比寿が疱瘡神社ということになります。<br />
疱瘡と恵比寿は普通結びつきそうもないのですが、祭神である少彦名命は医薬・石・穀物霊など多様な姿を有する神であり、ここにある医薬の神ということが疱瘡を治すということにつながり、もともとは恵比寿の姿で祀られたものではない（おそらく普通の石祠として祀られていたと思われる）と思われますが、現在の佐倉の七福神としての恵比寿が、漁業の神様以外に少彦名彦を祭神とすることがあり、先にも書いた「医薬の神」として、現在は恵比寿として祀っていると思われます。</p>

<p>恵比寿の右には稲荷神社があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　鏑木町　七峯　麻賀多神社　稲荷神社" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/kaburagimachi_makatajinja_i.jpg" width="233" height="350" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　鏑木町　七峯　麻賀多神社　稲荷神社。（鏑木町）</p>

<p>立札には「摂社　稲荷神社　御祭神　倉稲魂命　麻賀多さまの御子神（別名・豊宇気比売神）」とあり、この稲荷神社の右下には４つ（一つはもしかすると手洗石かもしれない、そしてこの中の１つが味噌部屋にあった稲荷社かもしれないが定かではない）の稲荷神社の石祠があります。<br />
稲荷神社の右側に溶岩らしい岩の上に小さい神社（小祠）があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　鏑木町　七峯　麻賀多神社　末社小祠" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/kaburagimachi_makatajinja_t.jpg" width="233" height="350" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　鏑木町　七峯　麻賀多神社　末社小祠（天神社・子安神社か？）。（鏑木町）</p>

<p>これには立札がなく、何が祀られているのか定かではありませんが、おそらく天神社と子安神社のどちらか、もしくは合祀されたもののどちらかと思われ、千葉県印旛郡誌にある「一、三峯神社　祭神を伊邪那伎命とす由緒不詳建物は二尺四方なり　二、稲荷神社　蒼稲孁命を祭る由緒不詳建物は三尺四方な　三、天神社　菅原道眞孁を祭る由緒不詳　四、疱瘡神社　大汝少彦名命を祭る由緒不詳　五、子安神社　木花開邪姫命を祭る由緒不詳　以上三、四、五の三社は奥行一間間口二間三尺の建物一棟内にまつれり」とある「三、四、五の三社は奥行一間間口二間三尺の建物一棟内にまつれり」のものであると思われ、このうち「四、疱瘡神社　大汝少彦名命を祭る由緒不詳」とある疱瘡神社は、稲荷神社の左にあるので対象外とし、残りの天神社と子安神社の二社ということになり、千葉県印旛郡誌の記述によれば合祀をしているとあるので、この記述を元にして考えればこの神社（小祠）の中に合祀されているということになります。<br />
しかし、下の溶岩があるということは、富士山信仰とも考えられ、そうであればこの神社は浅間神社ということにもなり、さらに子安神社の祭神である「木花開邪姫命」は、富士山に祀られている神様であるので、それによって神社の下に溶岩がある可能性があります。</p>

<p>稲荷神社の前辺りにちょうど本殿があり、本殿に沿って右にぐるっと進んでいくと、本殿と幣殿（拝殿）の連絡している通路の前あたり（塀の中ですが）大木があります。</p>

<p><img alt="佐倉町　鏑木町　七峯　麻賀多神社　本殿と大銀杏" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/kaburagimachi_makatajinja_h.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　鏑木町　七峯　麻賀多神社　本殿と大銀杏。（鏑木町）</p>

<p>その塀のところに「一の御神木」とあり、その上に説明書きがあり、ここに「みむすび銀杏　一の御神木より三までめぐり、心静かに御神威を頂きましょう」とあり、三本の御神木をめぐると御神威が得られるということみたいで、まわり方としてはこの「一の御神木」から拝殿（幣殿）右の「二の御神木」へ行き、三峯神社にある｢三の御神木」をめぐると言うのが正しいようです。<br />
この御神木である「一の御神木」のところにはもう一つ説明が木があり「御神木　大銀杏　樹齢八〇〇年以上」とあり、古木であることをうかがわせます。<br />
ただし、大きさから判断すると８００年まではいっていないようにも思われますが、それでも３００～４００年ほどは経っていると思われます。<br />
何せ、鎌倉鶴岡八幡宮の大銀杏を見てるので、それからすると「若そうだ」と感じてしまうのですがどうでしょう。</p>

<p>「一の御神木」から幣殿（拝殿）の方に進むと、幣殿側（右）にある大木が「二の御神木｣で、左側にある神社が三峯神社になります。</p>

<p><img alt="佐倉町　鏑木町　七峯　麻賀多神社　三峯神社" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/kaburagimachi_makatajinja_m.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　鏑木町　七峯　麻賀多神社　三峯神社。（鏑木町）</p>

<p>立札には「摂社　三峯神社　御祭神　伊弉諾尊　伊弉冉尊　麻賀多さまの祖父母神」とあり、ここにも溶岩で山を形づくり、さらに橋渡しをして、国造りの様子を作り出しています。<br />
入って右側には福禄寿があり、これも佐倉の七福神のひとつで、麻賀多神社には七福神のうち２つがいることになり、左側には大木があり、これが「三の御神木｣で、本殿の横の「一の御神木」からここで三つめぐったことになります。</p>

<p>三峯神社の右側には東参道の入口があり、東参道の入口の右側には大きな石碑が３つあります。</p>

<p><img alt="佐倉町　鏑木町　七峯　麻賀多神社　石碑群" src="http://sanpobokko.com/stroll_note/images/kaburagimachi_makatajinja_3.jpg" width="350" height="233" class="mt-image-none" style="" /></p>

<p>佐倉町　鏑木町　七峯　麻賀多神社　石碑群。（鏑木町）</p>

<p>左は「義烈之碑」で立札には「佐倉藩士民の戊辰の役より日清戦争出征者、慰霊顕彰の碑　堀田正恒公并篆額」とあり、真中は「忠勇之碑」で立札には「旧佐倉藩士民の日露戦争出征者　慰霊顕彰の碑　堀田正倫公合撰并篆額」とあり、右は「兩士記念之碑」で立札には「戊辰の役に際し幕府方に参戦した佐倉藩士二名の記念碑」とあります。</p>

<p>この中の「両士記念之碑」について、佐倉市史研究の「戊辰戦争に参加した佐倉藩士の碑について」の中に</p>

<blockquote>

<p>両士とは彰義隊に加わり戦死した佐倉藩士木村隆吉と、会津の戦いで戦死した小柴小次郎である。この「両士記念之碑」は、大正二年十一月、佐倉郷友会によって建立された。佐倉郷友会とは、旧佐倉藩士の親睦会である。</p>

</blockquote>

<p>とあり、小柴小次郎とは<a href="http://sanpobokko.com/stroll_note/2009/04/post-60.php">成田街道（佐倉道）その５８</a>で訪ねた、千葉県八千代市大和田新田にある小柴家墓所にある小柴小次郎の墓に眠るその人のことです。</p>

<p>大正二年は１９１３年。</p>

<p>小柴小次郎については</p>

<blockquote>

<p>藤原口（現栃木県）の戦いは六月二十六日に行われ、幕府草風隊に多数死傷者がでた。また、八月二十五日といえば、官軍が会津若松城下の攻撃を始めていた。そして戦える人員が鶴ヶ城に篭城を始めたときである。この時、少ない兵糧を確保するために戦力にならない老人、女子、籠城に耐えられない傷兵の多くは自刃の道を選んでいった。八月二十五日は、小次郎がこれ以上戦えないと判断した日であった。</p>

</blockquote>

<p>とあり、この八月二十五日（慶応四年）に自刃しています。</p>

<p>慶応四年は明治元年でもあり１８６８年。</p>

<p>木村隆吉については「...、彰義隊に加わり上野で戦死したと［両士記念之碑］に記されている。」とあるのみで、詳しいことについてはまだ判っていないとしています。<br />
この二人は「義烈之碑」に加えられるはずでしたが、色々議論があったようでこの二人のみを別の「両士記念之碑」として建てるということになり、現在のような３つの碑になったようです。</p>

<p>石碑群から右に進み、真っ直ぐ行くとベンチがあり、その先玉垣の右側、鳥居の近くの玉垣寄りに句碑があり、その左横に説明板があり</p>

<blockquote>

<p>佐倉市指定文化財</p>

<p>香取秀真おいたちの地<br />
昭和四十九年三月二十六日指定</p>

<p>鋳金家として知られる香取秀真は、明治七年（一八七四）一月一日に印旛郡船穂村（現印西市舟尾）に香取蔵之助の次男として生れた。<br />
明治十一年（一八七八）に秀真は麻賀多神社宮司郡司秀綱の養子となり、一時生家に帰ったが明治二十四年（一八九一）に上京して本所根津片町の美術講習所に入学するまでの少年期を過ごしたところである。<br />
その後秀真は東京美術学校鋳金科教授となり、帝国美術院会員ともなる。帝展・文展で活躍し、製作活動のほか、金工史の研究や文化財保護にもかかわるなど多大な功績を残し、昭和二十八年（一九五三）には文化勲章を受章した。<br />
平成二年三月三一日<br />
佐倉市教育委員会</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>昭和四十九年は１９７４年、平成二年は１９９０年。<br />
「現印西市舟尾」の「舟尾」は「船尾」の誤りで、「本所根津片町」の「本所」は「本郷」の誤りです。</p>

<p>句碑から鳥居のところに進み、今度は鳥居の向こうに行くと、社務所の前に塀があり、その塀のところには記念碑が２つあり、左が奉納記念碑で、右側が昇格記念碑になります。<br />
昇格記念碑は、千葉県下総国印旛郡神社明細帳の上部にあった追記部分の「昭和五年九月三日内務省千（神か？）社第三号ヲ以テ郷社ニ列セラル」と合致し、昭和五年に村社から郷社に格上げがされた事を記念して建てられたものです。</p>

<p>麻賀多神社について、歴史の道調査報告書には</p>

<blockquote>

<p>さて、麻賀多神社については、創建年次は明らかではないが、大和から移り住んだ「おお族」の氏神として祀られたのに始まると言われ、祭神五穀桑蚕の神稚産霊命である。境内九二三坪、現社殿は天保一四年鳥居は天明五年の造立である。地元の宮小路や新町等八町の鎮守で、毎年一〇月の秋祭に大いににぎわう。真佐子には宝暦年代頃の祭礼について、「江戸より役者三十人斗来る。一日金五十両也。太夫吉岡筆之助、若太夫三条松次郎、同市川門之允と言て来る。名古屋山三、傾城ひなかた帯三番続狂言仕る」とあり、各町内からき山車と屋台があり、横町の武藏の山車に湯たての屋台、上町は桜の山車に曽我五郎矢根の屋台、中町は盃の山車に国姓爺の屋台、下町は幣の山車に揚巻助六の屋台、間の町は吉野の桜の山車にもりつきの屋台、弥勒町は瓶に狸々の山車に猿大名行列の屋台をひきまわしたと記している。現在市文化財に指定、新町資料館に展示されている山車人形は、江戸室町山王社の祭礼に使われていたものを、明治初年にゆずりうけたものである。なお、麻賀多神社には県指定文化財の藩主堀田正愛「紫裾濃胴丸」のほか、市指定の神輿、香取秀真作鋳銅麻賀多神社社印と釣灯篭等多くの文化財が保管され、鋳金家香取秀真の生いたちの地でもある。</p>

</blockquote>

<p>とあります。</p>

<p>天保一四年は１８４３年、天明五年は１７８５年、明治初年は１８６８年。<br />
「真佐子」とは「古今佐倉真佐子」のことです。</p>

<p>歴史の道調査報告書では、どうも麻賀多神社の所在を「宮小路」としているようで、実際には麻賀多神社は「鏑木町」にありますが、これについて新佐倉真佐子では</p>

<blockquote>

<p>宮小路というのはお宮の回りの町ということで、そのお宮というのは麻賀多神社のことである。ところが麻賀多神社の境内は鏑木町字七峯九三三番地である。しかし新撰佐倉風土記には｢宮小路に在り」と出ているから宮小路町のところで書くことにする。</p>

</blockquote>

<p>とあり、新撰佐倉風土記を元にしたのか、ただ単に、麻賀多神社前の道が宮小路通りと言われていて、境内の西と南が宮小路町であるから、「宮小路」としたものか、おそらくそんなところだと思われます。</p>

<p>新撰佐倉風土記は、享保７年（１７２２）に編纂されたものです。</p>

<p>麻賀多神社から、右（西、新町交差点からだと直進）に進んでいきます。</p>

<p>ということで、今回はここまで。</p>

<p>参考文献は、「歴史の道調査報告書　成田街道」、「佐倉市史」、「千葉県下総国印旛郡寺院明細帳」、「千葉県下総国印旛郡神社明細帳」、「千葉県神社名鑑」、「千葉県印旛郡誌」、「佐倉市誌資料」、「多輪免喜」、「佐倉風土記」、「佐倉文庫」、「ふるさとの石仏」、「古今佐倉真佐子」、「新佐倉真佐子　佐倉のお茶の間風土記」、「北総名勝　佐倉誌全」、「佐倉の歴史を学ぶ資料集」、「佐倉細見」、「千葉城郭研究」、「佐倉市史研究」より。</p>

<p>引用は各文献と各社寺の説明板、地域の説明板より。</p>

<p>今回の地図は<a href="http://sanpobokko.com/kaido_image/sakuramichi_6.jpg">「佐倉道６」</a>です。</p>

<p>国土地理院２５０００分の１「佐倉」より作成しています。</p>]]>
        
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    <title>立ち泳ぎ、なのか... - Photo Pocket</title>
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    <published>2010-01-27T16:11:57Z</published>
    <updated>2010-01-27T16:11:57Z</updated>

    <summary>Canon EOS10D　2010.01 / 東京都港区海岸　旧芝離宮恩賜庭園</summary>
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        <![CDATA[<p><span class="center"><img alt="立ち泳ぎ、なのか..." src="http://sanpobokko.com/photo_pocket/images/naa.jpg" width="660" height="440" /></span></p>

<p>「立ち泳ぎ、なのか...」と思ってしまうこの写真。</p>

<p>普通は横に泳いでくるのであるけれど、なぜかこの鯉は下から真っ直ぐこのような感じに垂直に泳いできたわけですが、しかし、口がでかいな！。</p>

<p>そんなに口を大きく開いても、餌はない！、ないのだよ！！。</p>]]>
        
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