佐倉道 猿田彦神社(千葉県船橋市本町1丁目)からおひろ大師堂(千葉県船橋市本町3丁目)まで

船橋あたり

猿田彦神社から街道に戻り、大きな交差点から今度は薬局(ドラックストア)があるほうに交差点を渡り、南に進みます。
100メートルほど進むと牛丼屋があり、そのすぐ横に入口があり、奥にお寺さんがあります。

九日市 浄勝寺

九日市 浄勝寺。(本町)

浄土宗。江戸増上寺の末寺。西光山と号する。天正十九年徳川家康から一〇石の寺領を寄進され、二代将軍以降は将軍の代替わりごとに朱印状を授与されて保障された(「寛文朱印留 下」による)。本尊は寛政十二年の「村鑑明細書上帳」に[本尊恵心僧都之作 丈三尺幅一尺一寸 板石海中出現弥陀・観音・勢至之三尊御影自現]とある。また同村鑑によれば[当寺起立明応五丙辰年]云々とある。「船橋村書上帳」には塔頭として専修院・最勝院・光樹院を載せ、外に境内二反一畝歩の[照明寺屋敷]が当寺抱えであるとしている。

天正十九年は1591年、寛政十二年は1800年、明応五年は1496年。

これは船橋市史にある浄勝寺についての記載ですが、船橋市史前篇にはもう少し詳しく記載があります。

浄勝字は西光山光樹院と号する。浄土宗中本寺で、境内も広く、古くから、この附近にては最も大きい寺である。寺伝によれば後土御門天皇の明応五年金蓮社頼誉周公という僧の開創だという。頼誉は念仏宗旨の弘通に努めた人で永正三年一月示寂したといわれる。その後専誉大超(大潮とも記す)という僧があり、徳川家康と旧識があり寺領十石の朱印を賜わつたという。
...(中略)...
寺にては此の僧を中興の祖とする。此の僧は寛永元年三月示寂したと伝える。
...(中略)...
昔は山内に二三の塔頭もあった。今も参道の傍に其の古き跡の場所も見られる。寛政の頃の本堂は間口九間半、奥行東西七間半あった。客殿は東向きで間口七間半奥行六間あつた。しかし此の寺は誠に火災が多かつた。右の堂宇は文政十三年(天保元年)十二月の大火にて一切焼き払い、其の後安政四年七月にまた大火にて本堂、庫裏、本尊、過去帳等一切を失い、最近明治三十五年十月またもや本堂庫裏等を失ったという。今の伽藍は其の後の建立である。今は寺域千三百三十四坪ある。
この寺の十夜法要は誠に有名で、毎年十月の当夜は参詣者も多く大賑いになるという。故に一般に十夜寺と称せられる。近年信濃善光寺大本願別院となつた。
十夜というは浄土宗にて毎年十月六日から十五日まで十夜の間別時念仏を修する法要で、十夜念仏ともいう。
...(以下省略)

明応五年は1496年、永正三年は1506年、寛永元年は1624年、寛政の頃は1789~1801年、文政十三年(天保元年)は1830年、安政四年は1857年、明治三十五年は1902年。

現在の本堂は最近立て直されたもので、コンクリート造りのものになっていて、客殿は東側にありませんが参道が残っています。
そして、本尊は阿弥陀如来から善光寺如来になっています。
さらに現在は単立の寺となっています。

本堂の手前南側(本堂から見て右側)に小さな白いお堂があります。

九日市 浄勝寺 地蔵堂

九日市 浄勝寺 地蔵堂。(本町)

このお堂の中には地蔵と供養塔があり、「お女郎地蔵」と呼ばれています。
真中のものが供養塔で正面に「蔵誉地蔵妙延信女」とあり、側面に文字がありますがはっきりと読めませんでした。
この「お女郎地蔵」は昔の住職がシモの病気で苦しむ女郎たちを救うために建立したものと言われています。

浄勝寺から街道の交差点に戻り、今度は薬屋(ドラックストア)を右に街道を進みます。
130メートルほどのところに千葉銀行があり、その左端(東側)に石碑があります。

九日市 明治天皇船橋行在所の碑

明治天皇船橋行在(あんざい)所の碑。(本町)

明治天皇は千葉県に陸軍の演習や牧畜幸耕耘(こううん)事業などをご覧になるため、明治六年を初めとして明治四五年までに一〇回、延三五日にわたって在県された。最初のご来県は明治六年四月二九日から五月一日まで、近衛隊演習をご覧になるための、大和田原へのお出ましのときである。この本県への最初のお出ましの第一日目に昼食をとられたのが、当時の船橋町九日市の旅館業桜屋、山口丈吉宅(現在地)であった。その後、明治八年五月、第二回目のご来県の折、同月二九日にはこの山口方に泊まられた。これは本県で最初に民間に宿泊された家である。その後も山口方をしばしばご利用になり、通算して宿泊一〇回、昼食五回、御小休二回に及び、本県で最も多く立寄られている。
昭和二三年六月二九日、明治天皇に関する他の諸遺跡は全て指定を解除されたが、ここだけが継続指定されている。

明治六年は1873年、明治八年は1875年、明治四五年は大正元年でもあり1912年、昭和二三年は1948年。

ここから40メートルほど進んだところ右に細い道があり、ここを曲がって100メートルほど進んで右側に石造の大仏のあるお寺さんがあります。

九日市 不動院

九日市 不動院。(本町)

真言宗。寛政十二年の「村鑑明細書上帳」に本尊は大聖不動明王とある。「船橋村書上帳」には覚王寺末で、境内一反六畝二四歩とある。「真言本末」にも覚王寺の末寺として載せられている。

寛政十二年は1800年。

船橋市史の中には開基などについては載せられていませんが、写真でみる船橋の中には開基について書かれています。

海応山不動院といい真言宗豊山派の寺です。昔は覚王寺の末寺でした。本尊は不動明王です。
南北朝時代の永徳年間(1381~1384)に、空尊という僧が開基したといわれています。...(以下省略)...

1380年代の開基ということは、かなりの古寺であるわけですね。
この不動院の門前右には大仏(釈迦如来)があります。

九日市 不動院 大仏

九日市 不動院 大仏。(本町)

大仏追善供養

船橋の海は、江戸時代初めころから半ば近くにかけて幕府に魚介を献上する、「御菜浦」とされた好漁所でした。
元禄16(1703)年の大地震による海底地形の変化などで、翌年から魚介の献上は中止され、代金納になりました。その後この漁場を巡って、近隣(堀江、猫実、谷津、鷺沼)の漁師たちと多くの争いが起こりました。
文政7(1824)年、船橋村と猫実村(現在の浦安市)との漁場の境界を巡る争いが続いていた時、船橋漁師の占有漁場に他村漁師の船が侵入してきました。その中に、一橋家の幟を立てた船があり、乗っていた侍を船橋の漁師が殴打し、幟を奪ってしまいました。大きな事件であったことから、船橋の漁師総代3名が入牢させられました。1名は牢死し、1名は牢を出て間もなく死亡しました。そのため、延享3(1746)年の津波による溺死者と、漁場を守り死んでいった漁師総代の供養をあわせて行なうようになったのです。
大仏追善供養は事件の翌年の文政8(1825)年以来、毎年1月28日(明治以降は2月28日)に行なわれるようになりました。本来この大仏は、津波によって溺死した漁師や住民の供養のため、延享3年に建立された石造釈迦如来坐像です。供養の日には、炊き上げた白米の飯を大仏に盛り上げるようにつけます。これは牢内で食が乏しかった苦労をなぐさめるためといわれています。
大仏の西側には漁師総代2名の供養碑が建てられています。

船橋市教育委員会

御菜浦については、徳川家康が船橋に立ち寄ったとき、ここで振舞われた魚料理をとても気に入り、船橋の漁師たちに専漁権と年貢の免除を許したといわれ、上記のように代金納となって後も御菜浦として認められていたわけです。
その漁場に近隣のから密漁しに来るものが多くなり、そのたびに争いがあり、近隣のものが裁かれたり、船橋の漁師が裁かれたりとあったようです。
ただ、密漁をするほうに問題があったのはいうまでもなく、その後、御三卿の威光を使っての御菜浦への侵入が多発し、上記のような事件になったようです。

東照大権現(徳川家康)と一橋家はどちらが偉いのかという論争にもなっていたようで、当時の幕府は「どうしたものか」と悩んでいたことでしょう。

写真の大仏の後ろに供養碑があり、そのまた後ろに庚申塔があります。

門前を入ったすぐ左手には延宝6年(1678)の六地蔵があり、その奥の本堂の左手には石造物があり、右側の庚申塔には「右)奉建立青面金剛像 庚申 左)會(?)結衆為二世安楽祈所 裏)元禄十三庚申十二月吉日」とあります。
その隣には少し珍しい石幢があります。

九日市 不動院 六石幢

九日市 不動院 六観世音石幢。(本町)

これは六観音石幢念仏塔で、どこが正面なのかは分かりませんが後ろ向きの方に「右)女念佛講為二世安楽 左)元禄十四午巳今月今日」とあり、前向きのところには「奉新造六観世音」とあります。

その左にもう一つ庚申塔があり「右)奉造立青面金剛如意祈所 左)正徳二壬辰六月吉辰日」とあります。

元禄十三年は1700年、元禄十四年は1701年、正徳二年は1712年。

墓地には、荒馬吉五郎(力士)や宮大工松本良山の墓などがあります。
船橋市前篇には「もと境内に閻魔堂があつた。」と記述されていて、昔には閻魔堂があったようです。

不動院を右に50メートルほどの右側に浄勝寺の参道入口があります。

九日市 浄勝寺 参道

九日市 浄勝寺 参道入口。(本町)

ちょっと変な感じをもたれると思われますが、こちら側が本来の参道(表)です。
どういうことかと言えば、現在の浄勝寺の入口は、明治時代に入ってから造られた道側につくられたもので、本堂の向きはもとは左側か海側に向いていたものと思われます。
先に記述にあった「客殿は東向きで...」とあったように、普通は本殿横に客殿が作られるわけなので、「東向きで」という記述を見てみると、こちら側が本来の表参道であった、といえます。

その参道を60メートルほど行った左にお寺があります。

九日市 専修院

九日市 専修院。(本町)

浄土宗。「県寺明細」には「浄勝寺別院」とある。浄勝寺の子院として成立したものである。

さらに詳しくは船橋市史前篇にあり

専修院は浄勝寺参道の傍らにある。浄土宗、浄勝寺末であつた。元来は浄勝寺山内の塔頭であつたであろう。江戸本所霊山寺志によれば、浄勝寺僧大超(大潮)の時代に、専修、光樹、最勝三子院を開いたというその一つである。...(以下略)

とあります。

この専修院の右側に浄勝寺への裏の入口があり、ここからも出入りができます。
さらに、右側に進む道があり、その道を進んでいくと、船橋駅から来る道(浄勝寺に行くときに歩いた道)に出くわします。

専修院から参道入口に戻り右に曲がるとすぐにコンクリート造りのお寺さんがあります。

九日市 最勝院

九日市 最勝院。(本町)

浄土宗。「県寺明細」には「浄勝寺別院」とある。浄勝寺の子院として成立したものである。

先ほどと同じく詳しくは船橋市史前篇にあり

最勝院は山号を法光山という。浄土宗。元来は専修院と同じく浄勝寺の子院であつた。浄勝寺僧大超の時代に開かれたことは前述の通りである。中興開山の僧を但誉といい、貞享四年四月十四日死去した。その後尋蓮社声誉というものが更に再興したと伝える。...(以下略)

とあります。

貞享四年は1687年。

この記述のほかに写真で見る船橋には

...明治22年(1889)に浄勝寺の傘下を離れ独立しました。...(中略)...本尊は阿弥陀如来です。参道脇の小さな地蔵堂の厨子には、学業成就と水子供養に御利益があるという最勝地蔵尊が安置されています。...(中略)...地蔵堂脇の無縁塔のなかには、船橋では最古の年号、正中元年(1324)銘の墓石があります。下は船橋小学校の北側にあったものをここに移したといわれています。

とあり、現在は独立の寺となっているとのことです。
ここに記述されている地蔵堂は、現在はなく旧本堂から現在のコンクリート造りの本堂になってからは、ここに安置されていた最勝地蔵尊は本堂内に移されているようです。
そして、正中元年の墓石について歴史の道調査報告書では「最勝院には正中元年(1324)銘の石造供養碑があり、[船橋市史 前篇]では当時のものとする報告を載せているが疑問である。」と記述しています。
どちらにしても、この目で確認していないのでなんともいえないところです。

最勝院を右に行ったすぐに小さなお堂があります。

九日市 おひろ大師堂

九日市 おひろ大師堂。(本町)

最勝寺隣の森家におひろ大師が祀られています。言伝えによりますとこの大師像は、茨城県取手市にある長禅寺の大師像が一体多くあったのを森家がもらい受け、はじめ浄勝寺に移しました。しかし、浄勝寺は浄土宗で宗旨が違うということで、森家に堂を建てて安置したということです。
4~5年前までは、熱心な信者の人達が毎月21日にお参りにきていたということです。

と、写真でみる船橋にはあります。

おひろ大師像

おひろ大師像。

こちらがそのおひろ大師像です。
しかし、よく、あまった大師像を見つけたものです。
この大師像には「四国八十八ヶ所 施主舟町 嘉右エ門 ひろ」とあり慶応3年(1867)のものです。

その森家ですが、大師堂のところは現在駐車場になっていてその横の民家が森家なのかは、確認しそこないました。

ということで、今回はここまで。

参考文献は、「船橋市史」、「歴史の道調査報告書 成田街道」、「写真で見る船橋 2 九日市」、「東金御成街道史跡散歩」、「船橋市の石造文化財」より。

引用は各文献と市の説明板、各寺社の説明板、地域の説明板より。

今回の地図は「佐倉道2」です。
国土地理院25000分の1「船橋」より作成しています。

Trackbacks [ 0 ]

トラックバックURL: http://sanpobokko.com/mt/mt-tb.cgi/348

Post a comment

OpenID

openid-accepted.gif

OpenIDに対応しました

Feeds

▲ Page Top