佐倉道 寺内石造物群(千葉県船橋市西船4丁目)から山野浅間神社(千葉県船橋市西船1丁目)まで

寺内の石造物群から街道に戻り、銀行のところを左に進みます。
80メートルほどで、JR西船橋駅からの道が交差する信号を渡り、40メートル程で細い道があり、さらに10メートルほどの左に鳥居があります。
鳥居の向うは丘になっていて、松がたくさんあり、鬱蒼とした林になっています。そこに階段があり、上がっていくと拝殿があります。

印内 春日神社。(西船)
享保十年の「下総国葛飾郡印内村屋敷地押帳」に見える外、享保二十一年の「春日大明神宮御報謝氏子日記」が残されている。「県神明細」には由緒不詳とある。明治四十二年に熊野社と駒形社を合祀した。
享保十年は1725年、享保二十一年は元文元年でもあり1736年、明治四十二年は1909年。
ほかに、「郷土史放談」には次のようにあります。
春日神社は印内町の産土神で、創祀は不詳だが祭神として、古来藤原氏の氏神である中臣の祖 天児屋根命をはじめ香取、鹿島の神などを勧請した春日四所明神を奉斎している。
そして、この春日神社のある場所は春日山(もしくしは明神山)と言われていたところ。
さらに、「千葉県神社名鑑」には
印内町の本来の氏神として尊崇されている。同町内の八坂神社が祭礼行事など盛んなため、当社は目立たぬ存在だが、年番などは八坂神社とは別々にし、祭礼行事等を行なっている。南下りの傾斜面の境内は巨松が数十本林立し、森厳である。
と、あります。
藤原氏との関係については、特にこれ以上は書かれていないので、関わりがあるのかないのかはわかっていません。
現在、JR西船橋から京成西船駅にかけての道は、もともとこの春日山の一部でしたが、この部分を切り崩して道と住宅を作ったものです。
神社入口左の道は、古道で切通しになっていたところで、本来は、寺内石仏群横の道と京成西船駅バス停付近で合流する道でした。
この春日神社境内には「かつしか田圃の記」の碑、古峰講祠、熊野祠、山王大権現祠(天明七丁未年正月大吉日とある)、その他石造物が多数あります。
天明七年は1787年。
階段を下りて、街道に戻り左に70メートルほどのところに信号があり、左に細い道があります。
ここを登っていくと、左に先ほど行った春日神社があり、階段を上がっていくと右手に船橋市立西図書館があります。
この図書館のコンクリートの壁が始まるところすぐのところに窪みがあり、そこに石塔があります。

印内 廻国塔(墓碑)。(西船)
この廻国塔(墓碑)には「道休信士 日本廻国 肥前国松浦領俗名源助」とあり、「安永五丙申年五月一日」の年月日があります。
安永五年は1776年。
「歴史の道調査報告書」によると「信仰の旅の途中、行き倒れとなった者の多くは死亡地の村人によって丁重に葬られたのであった。」とあり、この源助さんもそのように村の人々によってここに葬られたということです。
ついでに、この船橋市立西図書館のあるところは、元墓地であり、この廻国塔(墓碑)は元墓地にあったものだったということがいえます。
街道に戻り左へ進むとJR武蔵野線の高架があり、さらに高架から130メートルほどのところに駐車場(100円パーキングらしきもの)があります。
その駐車場の角の左に細い道があり、この道を110メートルほど上がっていくと墓地があります。
その墓地の中ほどに覆屋があり、そこに地蔵があります。

山野 三界万霊供養延命地蔵像。(西船)
地蔵像の右側に「寛延三庚午年十月廿四日 奉造立地蔵尊」、左側に「三界萬霊 願主澤都 講中」とあります。
寛延三年は1750年。
この墓地の左側には、馬頭観音塔群があります。

山野 馬頭観音群。(西船)
左から「明治九丙子年 馬頭観世□ 十二月十九□」、次のもの正面「馬頭観世音」、左側面「馬持中」、右側面「嘉永六癸丑年四月吉日」、真中は庚申塔で左側面「宝暦三癸酉年十一月吉祥日」、右側面「奉造立青面金剛 山野村講中」、右から二番目もの「□□□□□□□ □□観世音 九月十八日」、一番右のもの「元治二乙丑年 馬頭観世□ 二月□日」とあります。
□は読めない字です。
明治九年は1876年、嘉永六年は1853年、元治二年は慶応元年であり1865年。
「歩いてみる船橋」によると、右から二番目のものは明治30年(1897)のものであるとあります。
墓地から街道に戻り、60メートルほどに信号が2つあり、右に大通りのあるT字の次の信号を左に50メートルほどの右側の住宅と住宅の間の窪地に石塔があります。

山野 青面金剛王塔兼道標。(西船)
正面に「青面金剛王」とあり文字下には三猿があります。右面側には、右に「山野村講中」、真中に「享和元辛酉九月吉日」、左に「願主 忠左ェ門」とあり、左側は現在はコンクリート塀に接近しすぎで読めませんが、「左りいち川道」とあると「歴史の道調査報告書」にあります。
そして、この青面金剛王塔は現在地ではなく「行徳街道沿いから移動したもの」と「歴史の道調査報告書」にあります。
ということは、同じ山野村内で考えると、船橋市山野町と印内町の境にあるパークホームズ西船橋サウスのところの交差点付近にあったのではないかと思われます。
ここは現在は拡張されて広い道になってますが、ここから少し斜めに道があったのは、迅速測図などでも確認でき、西船橋駅ができるまでは、この辺りは水田と野原で古道は、住宅や工場誘致のために直線的に改良されたり廃道にされ、新たに北から南の道がいくつも作られて、現在のようになりました。
この信号のコンビニ側の角にあると仮定すれば、「左りいち川道」という謎は解けます。
享和元年は1801年。この青面金剛王塔のある船橋市西船1丁目あたりは旧山野町です。最近になって「西船」という地名になったところ。
街道に戻り左に進みます。
信号から380メートルほどのところに信号(ピンク色のペットホテルが右にある)があり、すぐ左には鳥居があり、上がっていく階段を上りここを180メートルほど行くと神社があります。

山野 浅間神社。(西船)
奉納
御祭神 木花咲耶姫命
合祀 小御岳神社 磐永姫命
里宮浅間神社 阿喜津姫命
御手洗之池 次郎太郎井戸神山野浅間神社縁起
此の神は、奈良平安時代から、山野浅間神社と稱する一宇の祠は、駿河の國富士浅間社勸請で木花咲耶姫を奉祀して、縁結び、安産、子育ての神として近郊近在の尊詣頗る厚く、毎年七月一日の山開きには、お禮詣り善男善女が列をなし登山参拝して大賑わいであったと傅へ現在もその隆盛を誇ってゐる。
山野浅間神社の名が廣く世に知られる所以である。
爾来、嘉永三年に神殿として造営され、昭和四十七年七月に増改築が行はれ間口四間三尺奥行七間三尺に及ぶ新社殿となった。
地方の信仰の中心である由緒深き霊地を、有るが儘に任せるには偲びず、御許を仰ぎ古き祠が鎮座してゐたといふ因縁の地を探し求め、此の神殿を建立寄進したしだいである。
入神の儀を行ひ、末永く霊験灼かに若き男女に縁結び、安産、子育て、旅の安全の幸を授け給へと祈りその由来を誌すものである。山野浅間神社にある石碑より
嘉永三年は1850年、昭和四十七年は1972年。
船橋市史には次のようにあります。
元禄十五年の「下総国葛飾郡山野村御検地水帳」には「富士浅間社」として載せられており、社地は三反七畝一一歩であった。別当寺は正覚寺であった。「県神明細」には由緒不詳とある。
元禄十五年は1702年。
この拝殿の右側には、合祀をした祠が6つあります。
さらに、この合祀社の右に下に下りていく道があり、その途中に小御嶽神社があり、さらに下に下りた左側に大木がありそこに浅間神社の祠と鳥居があります。
さて、また拝殿のほうに戻り、そこから街道に戻ります。
ということで、今回はここまで。
参考文献は、「船橋市史」、「歴史の道調査報告書 成田街道」、「歩いてみる船橋」、「千葉県神社名鑑」、「京成西船駅周辺歴史散歩」、「郷土史放談(平成十五年五月)」、「西船橋地区石造物調査報告書 前編」、「葛飾の郷」より。
引用は各文献と市の説明板、各神社の説明板、地域の説明板より。
今回の地図は「佐倉道2」です。
国土地理院25000分の1「船橋」より作成しています。

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