佐倉道 葛飾本郷道祖神(千葉県船橋市西船5丁目)から正延寺の立ち寄りして寺内石造物群(千葉県船橋市西船4丁目)まで

船橋市西船あたりから海神あたりの地図。
葛飾本郷の道祖神から街道に戻り左に進んでいきます。
50メートルほどの左に神社があります。

葛飾本郷 葛飾神社。(西船)
記
一郡総社 葛飾神社
祭神 瓊々杵尊 彦火々出見尊 熊野大神
由来 風光明媚景勝の地、勝間田の池(現 勝間田公園)のほとり丘の上、熊野大権現の此の地に、大正五年一月十三日一郡総社葛飾大明神と千葉県東葛飾郡葛飾村本郷一四一番地[現 船橋市文化財 西船六丁目葛羅の井戸](昔、葛飾大明神御手洗の井戸)の西側台地より此の地に奉遷奉斉し、熊野権現社へ合祀し村社葛飾神社と改称し現在に至る。
里人悉く慕い敬い奉る。
以下略昭和六十年十月吉日 宮司
奉納 葛飾神社奉替会第一斑
大正五年は1916年。
記述にあるとおりであれば、もともと葛飾神社のあった場所は、葛羅の井の西側のおかのうえになるわけですが、成田街道(佐倉道)その36で紹介した伝葛飾神社元宮の位置と食い違っています。
ただ、何回か移動をしたのではないかという節があるので、どうなのかはわかりませんが、千葉県東葛飾郡神社明細帳には「字葛飾前村社葛飾神社ヲ合祀シ、社名ヲ葛飾神社ト改称ス」と、この場所にあった熊野神社の条にあり、この字名から推察すると現在の船橋市西船6丁目5付近がその場所ということになりますが、現在はその痕跡は無いようです。しかし、明治時代の迅速測図には神社のマークがあり、現在地に遷る前はこの辺りにあったのは確かなようです。
そこで「江戸名所図会」を見てみると次のようにあります。
葛飾明神
中山より東の方、栗原本郷の街道より左へ四町ばかり入りて、叢林の中にあり。葛飾の総社と称すれども、祭神詳ならず。同所真言宗万善寺別当たり。祭礼は九月十五日なり。社より東の方の林間稲荷の祠の傍に、葛の井と称する井あり、当社の御手洗といふ。上人相伝へて、井の井の水脈竜宮界に通ずと云ふ。瘧疾を患ふる者この井の水を飲みて験ありといへり。
注釈に「移転前の旧社殿は、船橋大神宮の大鳥神社となっている」とあり、葛の井に「現存。最初ここに明神社があった。」と。
とりあえずここまでで考えてみると、一番最初は「葛羅の井」のところにあり、その後印内の方に移り、その後満善寺の横あたりに移り、最後に現在の場所になった、ということなのでしょう。
そういえば鳥居の額束には「一郡総社 葛飾宮」とあり、その左に「新田末裔徳純慎書」とあります。この「新田末裔」とは?「にった」なのか「しんでん」なのか、いったいこのひとは誰なのか、さっぱりわかっていません。
それはそれとして、拝殿の右側には五社を合祀した祠と、その祠の右下のほうに「稲荷大明神」の石祠。そして、拝殿左側には「疱瘡神様」と「第六天尊」の石祠があり、鳥居の左側には円柱の道標があります。

葛飾本郷 葛飾神社 円柱道標。(西船)
建っているところがちょうど崖状になっているので、前の部分を見るときには注意してください。落ちたら怪我をしますので。
前には「一郡総社 葛飾大明神道」、その文字左ちょっと下に「従是一町余」とあり、裏には「文政十一戊子年八月吉祥日建立」、その左ちょっと下に「石工長十良」とあります。
文政十一年は1828年で、一町は約109メートル。
んー、この道標はどこにあったのか?現在位置ではないのは確かなのですが...、いったいどこでしょ!!。
さて、その葛飾神社のすぐ横に公園があります。

葛飾本郷 勝間田公園。(西船)
もともとここは「本郷の溜(勝間田池)」という池があり、昭和40年にその池を埋め立てて公園にしたところ。
葛飾川の谷口に作られた溜池で、南部低地の水田の田水を確保してきた。地元は「昔日蓮上人が房州からきて、この土地から船にのって鎌倉に行った」とする。この伝説を持つ地点は他にもある。一つは現在の東中山児童遊園で、近年まで池があり、「大溜」と呼ばれていた。また同じ一丁目の「藤棚の池」にもそのような伝説の場所である。この「本郷の溜」は別に「勝間田池」と呼ばれた。公園名もそこからきている。万葉集第一六巻にある「勝間田の池に吾知るはちすなししかいふ君が髭なきがごと」の和歌の池に充てられたものである。もちろん本来の池は奈良県にあるが、県内にはほかに二ヶ所同じ伝説を持つ池がある。成田詣での文人たちが池の幽遼な事を見て充てたのであろうと思われる。
さらに
下り所池(おりとのいけ)
勝間田公園の別称。本来は「本郷溜」である。
と。
公園には、その万葉の句を刻んだ句碑がたくさんあります。
公園から80メートルほどのところに銀行があり、そこに北に行く道があり30メートルほどのところにY字のなった三叉路がありその分岐点に石造物群があります。

寺内 石造物群。(西船)
ここには、祠が2基、手洗石が1基、庚申塔が2基、道標が1基あります。
入口の左に細長い石柱の道標があり正面側に「無線電信所道」、左側面に赤文字で「従是北八百余間至無線電信所 大正六年 行啓ヲ奉迎ニ付国県郡費補助ヲ受ケ耕地会沿道民ノ寄付並村費等金四千百余円ヲ以テ葛飾村ニ於テ大改修工事ヲ施行セル記念ニ建之」、右側面に「東 船橋方面ニ至ル 西 市川方面ニ至ル」とあります。
この無線電信所の跡は、現在行田になっている円形の道路の囲む場所で、「ニイタカヤマノボレ」で有名になった海軍の施設でした。その施設への道標がここにあります。
次に奥の左側の祠は何かわかりませんでしたが、おそらく稲荷社ではないかと。
[ 2008-12-26 追記 ] 稲荷社ではなく「古峰神社、妙見神社」で、昭和五十一年九月再建のものと明治二十七年二月吉日のものということです。
その隣の大きな庚申塔は道標も兼ねています。
正面に「庚申塔」その下に三猿、左側面に「十一月吉祥日建立」、右側面に「寛政十二庚申載」とあり、台下の正面と左側には建立者の名前があり、右側面に「是より かまがやみち」とあります。
その隣の庚申塔には三猿がありますが、文字などは磨滅していて読めません。
入口の右側には手洗石と祠(文字判読できず)があります。
大正六年は1917年、寛政十二年は1800年。
この石塔群の右の道は昔道で、無線電信所ができる前からあり、現在西船橋駅から真っ直ぐ京成西船駅に向っている道は新道です。
石造物群から右の道を進み130メートルほどで新道に合流し、80メートルほどで京成本線の踏切を渡り20メートルほどの左側に覆屋があり、この中に地蔵があります。

印内 成瀬地蔵。
(成瀬地蔵)又は(木戸内地蔵)
由来
尾張徳川家のために政治に実績をあげ藩のために尽力した成瀬正成は、家康よりこの地方に四千石(栗原四千石)の領地を与えられた。後、尾張犬山藩主となりました。(四千石は正成生前に次男の之成が受け継ぐ)成瀬之成が三代将軍家光に使えた際、宇都宮、釣天井事件が起こり、その事件に連座して之成は、(寛永十一年十月二十日)当地迄逃れ、切腹したと伝えられ、この之成の怨霊供養のために造立したと云う伝説と-
(一六八七年)印内村、木戸内と呼ばれた地元の名主、田中徳左ェ門、忠左ェ門両人を本願として、共に木戸内女性だけの念仏講連衆が五才で亡くなった、之成の子、之虎への供養と合わせて夭折した地元の子供のために寄進し、造立し、時折、念仏を唱えて、その供養をしていたとの説もあります。平成七年三月 船橋歴史風土記 抜粋
1687年は貞享4年、寛永十一年は1634年。
ここにある、宇都宮釣天井事件については、実際には釣天井は無く、本多正信の傲慢さを嫌った将軍がいろいろと嫌疑をかけて失墜させたのが本当のことで、成瀬之成がここで切腹したというのは、やはり伝説だろうと思われます。
どちらかというと、後半に書かれていることが真実ではないかと思いますが、いいがでしょう。
この成瀬地蔵の道路の向うに「山道」というお店があり、お店の裏側は空き地になっています。その空き地の奥に鳥居と祠があります。

印内 伝首塚。
昔、成瀬之成の死に際して三人の家臣がここで殉死をしたと伝わる場所です。
その三人の名前は、宝成寺にある成瀬之成の墓標に記されています。
ここから80メートルほど線路沿いを進むと左側にお寺さんがあります。

印内 正延寺。(西船)
真言宗豊山派寺院で山野山と号している。この寺は明治四十一年に同町内にあった、大日山正覚寺と深堀山延命院の両寺院が合併して正延寺と称したもので、本堂内には旧正覚寺の大日如来を始めとする胎蔵界の五佛を本尊てし、別に不動明王ニ童子や、旧延命院の地蔵菩薩を安置している。
...中略...
旧両寺の縁起などは明確ではないが、鎌倉後期から室町期頃の板碑三面が寺院内から出土しているので、開創は同時代頃までさかのぼると思われる。
明治四十一年は1908年。
現在の正延寺のある場所は、元延命寺のあったところで、正覚寺は火災で焼失したということです。
この正延寺には木造五智如来坐像(県指定文化財)があります。
密教では大日如来は最高至上の絶対的存在とされ、本尊としている。五智如来は大日如来を中心とした五仏で構成され、大日の慈悲を説く胎蔵界、知恵を説く金剛界の両界があり、大日如来を中尊とし、東方に宝憧如来、南方に開敷華王如来、西方に無量寿如来、北方に天鼓雷音如来の四仏を配する。構造や技法・作風から、もともと一具の胎蔵界五仏として造られたと考えられる。カヤ材の一木造で、十世紀末から十一世紀(平安時代)の作と見られ、市内最古の仏像である。
胎蔵界の五智如来像の類例は少なく、特に平安時代の作で現存するものは全国的にも珍しい。平成七年十一月一日 千葉県教育委員会 船橋市教育委員会
「境内の新しい檜造りのお堂には、折戸の弁天、又は腰巻の弁天と呼ぶ弁財天が祀られている。かつては巳待講が作られ信仰していたようだ。」とあり、「折戸とか腰巻などは、このあたりの古地名で、昔はこの近くまで入江になっていたのであろう。」と郷土史放談(平成十五年五月)にはあります。
ここに出てくる巳待講は月待講の一つらしいです。
巳待講
月待の一つであり古くから講中の作られていたことが伺われる。蚕を飼っている人が秋季、巳の日の晩に集り掛軸を拝み、直会をした。巳の日は福神である弁財天の縁日であり、弁財天信仰の盛んな地域は、近くの弁財天に参詣する。弁財天は仏教の天部の神が、もと音楽の神のち財宝を与える福神として崇められたもので、中世になって急速に信仰を深め、とりわけ真言宗寺院や修験が伝播、布教に関与した。十二真支の巳は蛇に対する信仰と関与し、弁財天との習合に際しては巳=蛇は弁財天の使わしめだと考えられていた。一方、巳は脱皮、変成の思想があり、巳の日には特別な厄払いの信仰があった。また、養蚕の盛んな土地では蚕を食べる鼠避けとして蛇神は養蚕農家の守護神であった。西川町石碑石仏資料さんの「巳待供養」より転載させていただきました。
この正延寺の本堂手前の左には十九夜塔が4基あります。ほかに宝筐印塔、太子堂、四国霊場巡礼所、弁天堂があります。
正延寺から来た道を戻り、寺内の石造物群へ戻り、街道へ戻り銀行のところを左に進みます。
ということで、今回はここまで。
参考文献は、「船橋市史」、「歴史の道調査報告書 成田街道」、「歩いてみる船橋」、「船橋市域の近世の寺社」、「船橋市寺社調査報告」、「千葉県神社名鑑」、「京成西船駅周辺歴史散歩」、「郷土史放談(平成十五年五月)」より。
引用は各文献と市の説明板、各寺院の説明板、地域の説明板より。
明治十二年 下総国東葛飾郡 神社明細帳及び寺院明細帳とあるのは、「船橋市寺社調査報告書」の中にあるものを参照しています。
巳待講については、西川町石碑石仏資料さんの「巳待供養」より転載させていただきました。こちらで噛み砕くより、正確な解説をされているので、そのまま記述を転載しました。
今回の地図は「佐倉道2」です。
国土地理院25000分の1「船橋」より作成しています。

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