佐倉道 境橋(千葉県市川市八幡1丁目)から鬼越二丁目交差点(千葉県市川市鬼越2丁目)木下街道入口まで

真間川に架かる境橋を越えると、ここからは鬼高村の内になります。
橋を越えたすぐの駐車場のところに、「坪井源道誕生の地」の解説板があります。
よく知らない人なのですが、何でも「わが国体操の父と仰がれていました。」と市川市教育委員会の説明があります。
時間がありましたら、説明板を読んでみてください。

さて、先に進み、50メートルほどで京成鬼高駅へ向う道があります。
ここは、「土地の人が、"鎌ケ谷道"と呼ぶ道で、北方と高石神で木下街道に合流する。」と歴史の道調査報告書にはあるように、この道を約600メートルほど行くと後ほど出てくる木下街道に出ます。そしてこの道は、やたらと車がやってきます。
しかし、この道(ここから京成鬼越駅前までの100メートルほど)は、もともとの道ではなく後でつくられたもので、本筋は40メートルほど先の細い斜めの道がこの「鎌ケ谷道」です。
水戸佐倉道分間延絵図では、この細い道の入口右側に「道印(道標)」があることになっていますが、現在はありません。

そこから70メートルほど先のT字の交差点の信号を過ぎたコンクリートや砂利などが置かれた場所の角地に庚申塔らしきものがあります。

鬼越 庚申塔

鬼越 庚申塔。

正面下に三猿があり、左側に「坪井音松」、右側に「昭和八年九月吉日」、後ろ面に文字がありますが、判読できず。
この右の道の先は行き止まりになっています。
分間延絵図で見てみると、この庚申塔のある辺りに「諏訪社」が描かれていますが、現在はありません。そもそも、ここに庚申塔があるというのは、この「諏訪社」前にあったものが残っていて、昭和になって新しいものに建て替えられたということが想像できますが、どうでしょう?。

この庚申塔のT字の交差点の南にのびている道(ここもやたらと車が出てくる一通の出口)は、コルトンプラザの東を通り、最終的には市川市田尻4丁目の日枝神社脇を通って、行徳道(成田街道)の出る道で、行徳に出るための昔道であるといわれています。

歴史の道調査報告書では、このような疑問を提示しています。

...鬼越駅通る道が本来の木下道なのか、現在の木下街道がそのまま木下道なのかははっきりしない。道標などの物的証拠が皆無なのである。国道をわたってどこから行徳にはいったのかもわからない。

とあり、専門家でも容易に答えを出せていないようです。
市川市田尻4丁目の日枝神社前にあったという道標が見つかれば、この答えは出るように思いますが、どこにいったのでしょう?昔の記述の中にこの道標には「かまがや道」と刻まれていた、と書かれていましたが、現在確認できるその道標が失われているため、定かではありません。

さて、ここまでが道中奉行の支配下で、これより先は各藩と各村の管理下になります。

謎の多い八幡宿(町)について、分間延絵図の解説篇では以下のように記述している。

天保末年の村高は四一七石余。近世を通じて幕府領であったと思われる。天保末年の人口は五八二人(男三〇二人、女二八〇人)であった。家数は一〇六軒で内旅籠が中・小各四軒、計八軒あったが、本陣・脇本陣はなかった。...中略...八幡は本絵図(水戸佐倉道分間延絵図)には"八幡町"、「水戸佐倉道宿村大概帳」には"八幡宿"と記されている。八幡が町と称されるようになったのは宝永年間といわれているが、宿・町の事情は定かではない。八幡は周辺の市川・行徳が繁栄していたため、どうしてもその存在が霞んでしまう。さらに明治三年の書類にも、当宿は五街道であるが本街道の趣旨とは異る、とあるほどだから五街道とは名ばかりで、実際は脇往還並みの宿場であったことがわかる。...

天保末年は1843か1844年(弘化元年)、宝永年間は1704~1710年、明治三年は1870年。ちなみに分間延絵図が完成したのが文化3年(1806)。
ここで「幕府領と思われる」とあるのは、この八幡宿までが道中奉行の管轄であったことから、「思われる」とあるようですが、ここのところが市川市史でも明確にしていません。
やはり戊辰戦争の戦火や第二次世界大戦の空襲などで、古文書などが焼けてしまったために、現在においても不明のままになってしまったのでしょう。

先に進み、庚申塔から70メートルほどのところ(鬼越1丁目15と番地表示がある)に左に行く細い道があり、ここを北に100メートルいった左側にお寺さんがあります。

鬼越 神明寺

鬼越 神明寺。

真言宗豊山派
本尊 不動明王 寺宝 阿弥陀如来(元和二年作)
由緒 鬼越山と号し、元和二年日意の開基にかかる。

元和二年は1616年。
門前に石塔があり、本堂前には古い灯篭が2基あります。他には古い庚申塔(寛文七年[1667]銘)などもあり、古くからのお寺さんであることがうかがえます。
あとはここの不動明王のことを「小栗判官厄除出世不動」というらしく、小栗判官の伝説がある場所でもあるらしいです。
これは、知りませんでした。

神明寺を左に京成線の踏切を渡り進んでいくと(神明寺から60メートルほど)Y字になっているところに神社があります。

鬼越 神明神社

鬼越 神明神社。(元は神明社といった)

当神明社は天照大神様が御貫神である。
古老の口碑によれば約七百年前より鬼高村に鎮座ましました。境内には元和二年(今から三六八年前)伊勢の皇太神宮より遷座されたとの石碑がある。現在の社殿は明治年間の造営である。境内には道祖神(耳の神様)、天神様(学問の神様)、お諏訪様(商売の神様)、与力与直(鎮世)、浅間神社(冨士信仰)があるが、これは大正年間の区画整理のため、村内に散在した神社をお遷したものである。...以下省略

昭和五十六年十月四日記 神明社

元和二年は1616年で、今からだと392年前(平成20年時点で)になります。

実は、省略したところには神輿について書かれているのですが、ここで簡略な説明をしてみます。
大中二つのみこしがあり、大神輿は皇紀二千六百年を記念して、行徳の浅子氏に依頼して作られたということと、中神輿は文久三年(1863)神田平永、神輿師村田惣吉、定吉の合作。
当時の江戸では将軍直許の二十数基の神輿のみといわれた時代で、神明神社にこの神輿が存在したことは異例のこととあります。
そういえば、先に書いてました「諏訪社」は、この神明神社に合祀されているようです。
で、道標はどこへ行ったのかなぁー...、おぉーい!どぅひょーうやぁーい!!(心の中で叫んでみた)。

鬼越 神明神社 拝殿(本殿)

鬼越 神明神社 拝殿(本殿)。

拝殿左側と裏側には摂社がたくさんあります。
この中に与力社と与直社がありますが(時間的に暗かったので撮っていません)、それについて千葉神社名鑑には次のように記述しています。

後水尾朝の元和丙辰四月一〇日創建され、旧鬼越地区の尊信を受けた。境内に与直社(与直大神)がある。江戸の世直に関係があることは明白であるが、これを村人代代与直社と称した事は意味深い。さらに建設資金の拠出が地区の上層の者にまで及んでいる事も注意を引く。並立して全く同じ型の与力社がある。与直社と与力社の関係は不詳。

元和丙辰の丙辰は昔の暦の書き方で、これは元和二年(1616)のこと。ちなみに平成20年は戊子となります。これは干支暦で、いわゆる「えと」のことで60年で一巡します。60歳で還暦を祝いをするのはここから来ています。

神明神社から街道に戻り左に進みます。
100メートルほど進んだところ左に常開寺という門柱があり、ここを30メートルほどいくと左側に題目塔が二基ありそこに常開寺の入口があります。

鬼越 常開寺

鬼越 常開寺。

日蓮宗 法華経寺末。 塚原山(ちょうげんさん)と号し、応安七年(1374)法華経寺三世日祐上人の開基。本尊は、釈迦如来と多宝如来。

この常開寺については、情報がほとんどなく、市川市史と千葉県東葛飾郡誌から読み取れるくらいしかありませんが、だいぶ古い古刹だということがわかります。

この常開寺では、ときたま落語の寄席があり、桂文治さん(10代目・2004年1月没)が常開寺で南画を教えていたということもあり、桂文治一門の方がこられるみたいです。
昔、のりたまのCMにでていた人ですが、覚えていますでしょうか?。
だいぶ前ですからねぇー、おいらでもやっと記憶から出てくる状態です、はい。

応安は北朝の元号で、南朝の元号でいくと文中3年になります。

常開寺から街道に戻って左に110メートルほど進んだところに、バス停があります。

鬼越2丁目バス停

鬼越二丁目バス停。

写真の白いフェンスと第一生命のビルの間に左に行く道(裏参道)があり、ここを進んでいくと神社があります。

高石神 高石神社

高石神 高石神社。

祭神 神功皇后(じんぐうこうごう)
由緒沿革 社伝に、南総大多木城主正木内膳亮時総が故あって奇石を得、これを祭ったので高石神と称したとある。また往古、鬼越村と一村であったが、分村して神号を村名としたという。本社の創建年代は不詳であるが、「中山法華経寺文書」永享三年十二月二十四日の条と「折伏正義抄」永享十年の条に当社の記載あり、その創建はこれ以前である事は分明である。

永享三年は1431年、永享十年は1438年で、ここに出てくる正木内膳亮時総は「わが街中山(綿貫善郎著)」の中では正木大膳(時総)として紹介されています。

このほかに江戸名所図会にはこのように記述されています。

八幡より東の方、佐倉街道鬼越村深町の入口道より左の岡にあり。別当は日蓮宗にして、泰福寺と号す。祭礼は九月九日なり。土人伝へ云う、当社は里見安房守義弘の弟南総大多木城主正木内膳亮時総の墳墓なりといへり。(正木内膳の事、諸説あれども繁を厭ひてこゝに記す。)神体は、剣を帯せし馬上軍神の像なりといふ。(永享二年平胤貞より中山の中興日祐上人へ注進の状に、八幡庄内にて高石神村の地を寄附するとあり。又同年二月同胤貞日祐上人へ附する証文にも、下総国八幡庄、高石神南方中島内坪付の事とあり。依って考ふれば、高石神村の名古き事しられたり。)

ひとつ注釈があり、正木内膳のところに注三とあって、「国府台合戦に奮戦した正木大膳亮時茂なるべし。歴代大膳亮を称した。」とあります。永享二年は1430年。

なんだか正木の誰なんだかわかっていないような感じですが、とにかく正木何某という人がこの高石神社にかかわっていた、ということだけは確からしいようです。

この高石神社の表参道(木下街道口)の階段右側に道標があります。

高石神 高石神社 題目塔兼道標

高石神 高石神社 題目塔兼道標。

題目塔なんですが、道先があり、道標の役目もしていたようです。
正面に「南無妙法蓮華経 高石大明神」、右側に「道芝乃石より花あり法の神」、左側に「是より左 乃た 半町余」、裏面に「天保□□□ 正月吉日」とあります。□はよく読めない文字。

一応、房総の道標 増補編では「天保丑巳年 正月吉日」としていて年代がかみ合いません。増補編にも(?丑・十二年・1841)としています。
「乃た」は「野田」の事かどうかは定かではありません。

さて、この題目塔兼道標のところの階段を下りると鳥居があり、ここが表参道であるということがわかります。

高石神 高石神社 鳥居

木下街道から見た高石神社の鳥居。

はじめに来たところは裏参道で、もともとこちら側に入口がありました。
その隣には、浄然寺というお寺さんがあるはずなのですが、現在はありません。

高石神 浄然寺跡

高石神 浄然寺跡。(平成20年11月時点)

とりあえず浄然寺についてのわかっいる事柄を載せておきます。

日蓮宗。 延宝八年(1680)に日然上人によって創建。 浄光院末。

確か平成19年9月には、シートに囲まれてはいましたが、まだありましたが、いつの間に...。そしてどこに行ったのでしょうか?墓地はそのままになっていますが、それはいいのでしょうか?。

ここあたりの地図を見てみると

高石神あたり

このようになっていて、現在木下街道の拡張を進めています。それによって、高石神社の鳥居の位置も現在の場所まで引っ込んでしまい、浄然寺はどこかへいなくなってしまった(廃寺か?)わけです。

さて、一旦鬼越二丁目バス停まで戻り街道を左に進みます。
80メートルほどで、鬼越二丁目交差点に出ます。

鬼越二丁目交差点

鬼越二丁目交差点。

ここを左に曲がって進む道が木下道(木下街道)で、ここを少し行くと先ほどの高石神社の鳥居のところに出ます。
交差点右側には大きな古い商家があり、この商家が分岐点の目印になります。

ということで、今回はここまで。

参考文献は、「市川市史」、「千葉県神社名鑑」、「歴史の道調査報告書 成田街道」、「房総の道標 増補編」、「新版 江戸名所図会 下巻」、「わが街 中山」より。

引用は各文献と市の説明板より。

今回の地図は「佐倉道1」です。
国土地理院25000分の1「船橋」より作成しています。

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